ロシア宇宙主義についてのノート・調べものメモ

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西洋のエソテリシズム: 神殿騎士団、愛の信徒団、薔薇十字団


薔薇十字団などについては、リュック・ブノワ(1976)によれば...

三 神殿騎士団、愛の信徒団、薔薇十字団

秘教は、東方では隠士の庵にかくれ、西方では修道院の中に逃れて、確実に永続するためには、特殊の、しかも秘密な方法を借用しなければならなかった。両方を比較対照して考えてみても、秘教がずっと生き延びてきたということについて、たがいに符号する手掛かり以上のものをさぐり出すのは難しい。ただ、さまざまに移り変わる歴史の中で、秘教の結社は公認宗教や権力に敵対する力として暗闇から姿をあらわさざるをえなかったのである。公認宗教は秘密結社の存在に無知だったし、権力はこれに有罪宣告を下したが、要するに政府も民衆もわけのわからぬものはこわいのである。以下読者にお目にかけようとするのは、こうして結社がときに歴史の舞台に登場してはまた消えてゆく、切れぎれのフィルムのようなもので、その年代順や相互依存の関係をみきわめ、ほんものかどうかをできるだけ評価してみたい。

秘教の組織が一哀える最も重大な原因は、組織相互を結ぷ紳がゆるむこと、そしてまたseつの組織が自分の中心との結びつきを失うことにある。ところで、東方教会が分離し、アラビア人が地中海を封鎖したため、東と西の関係は難しくなった。数次におよぷ十字軍はこの相互関係を回復しようとしたものである。その媒介役を果たしたのが、二一九年に創立された新しい神殿騎士団であった。第一回十字軍と第二回十字軍のあいだの時期で、戦うことより、勝利を確実なものとし、新しいキリスト教王国に平和を確立しなければならぬときであった。

騎士団の宗規は聖ベルナルドゥスが検閲し、承認した。彼は《聖地》守護を目的とする成員からなる新たな理想的キリスト教騎士団が出現することを望んでいたのである。およそ騎士団への加入は、もともと秘教的性格をもっている。しかし、今度の新しい騎士たちにあたえられた称号は、はるかによくその本質を暗示していた。ユダヤ教=キリスト教的伝統に属する西欧世界で、一つの騎士団がおのれの標識としてソロモンの神殿を採用したことは、彼らがアブラハムから分かれ出た三つの宗教形態がより高い次元ではーつであるという自覚をもっていたことを思わせる。その成員が、新たな王国に住む回教徒と戦闘以外の交わりを結んだことは、当然である。事実、その騎士団の人びとは、ェルサレムでェル・アクサ回教寺院を本拠とし、一世紀以上にわたってアラビア人と日常の関係をもったのである。

他方、これらの騎士たちは修道士でもあり、したがって彼らが担う《聖地の守護者》という名前は、それ以上の意味をもっていた。周知のとおり、聖地には正規の伝統の形態の数だけがあり、いずれも「伝統」そのものの象徴である「聖地」エルサレムにかたどって考えられている。神殿騎士団の場合、エルサレムの町はモーゼの伝統の中心で、それに結びついた霊的状態のイメージでもあった。してみれば、騎士団の教義を流れる友愛精神に世俗の王権が猜疑心を抱き、のみならず、ダンテが非難した《貧欲》の罪に駆られて、騎士団に対する有罪宣告をローマから取りつけた理由も理解できる。この有罪宣告は、見る人の立場によって、当然とも不当とも言えるであろう。

神殿騎士団の没落と時を同じくして、重要な秘教の教理がいくつも世にあらわれた。キリスト教の秘教思想家たちは、回教の秘教思想家と協力して、断たれた紳をつなぎとめようとしたのである。人目にたたぬこの再組織運動は、「聖なる信実団」(Fede Santa)や「愛の信徒団」(Fideles d'Amour)や「薔薇十字団」のような友愛団の成員の力で成功した。ただこれらの信徒団は、はっきりした結社を形づくることは慎重に避けたのである。ルネ・ゲノンはこう書いている、「ウイーンの美術館に二枚のメダルがあり、その一枚にはダンテ、もう一枚には画家のジョヴァンニ・ダ・ピサの像が刻んである。二枚とも裏にはF.S.K.I.P.F.T.という文字があり、これを解くと Fidei Sanctae Kadosch Imperialis Principatus Frater Templarius(聖なる信仰の長、首長位の神殿騎士団員)となる。ダンテもその主だった一員であったと思われるこの《聖なる信実団》は、神殿騎士団の第三会で、その高位の信徒はカドッシュすなわち聖なる者または聖別された者と呼ばれていた。ダンテが『神曲』の旅の終わりで、神殿騎士団の規則を定めた聖ベルナルドウスを導師とするのは、理由のないことではない。ダンテはそれによって、騎士が精神的位階の最高位に登ろうとすれば聖者の霊性に導かれるほかはない、とうことを暗示しているかに思われる」。

のみならず『神曲』は、秘教の象徴を中心の骨組として築かれている。すでにひと昔前、R. P. アシン・パラシオスは、『神曲』の主要な源泉が回教神秘主義の二つの著作、すなわち『等級の書』と『夜の旅の書』にあることを示した。一方、この詩世界を構成する七つの天圏は、もうーつの友愛団である「愛の信徒団」にいう七つのの秘儀の階段に相当するもので、ダンテは仲間の詩人たちと一緒にこの信徒団に属していた。信徒が崇める「貴婦人」は、「超越的知性」ないし「神の叡智」であった。また、同信徒団の「やさしき心」とは、世俗の絆を絶った高貴な心であった。「愛の信徒団」は、天使や神々の言葉である韻文で書かなければならなかった。同信徒団に属していたボッカチオも、『デカメロン』に含まれるある物語の中で秘教の超越的実在を暗示して、「ユダヤ教とキリスト教とイスラム教のうちどれがほんとうの信仰か、誰も知らなかった」とメルシセデクに語らせている。

「聖なる信実団」の後を継いだのは「薔薇十字団」だったという推測もある。もっとも薔薇十宇の友愛団は、はっきりした外形を世にあらわさなかった。薔薇十字という名は、キリスト教的ヘルメス学に関係ある宇宙論的認識を含んだーつの精神状態をさしている。その成員の有する最も特徴的な性格の一つは《言語の才能》で、つまり誰に向かっても相手の国の言葉で話すことができるという特技である。彼らは、自分が旅行する国の慣習にそっくり従い、名前さえ変えるのだった。要するに真の意味でのコスモポリタンだったのである。薔薇十字団は、その創始者クリスチアン・ローゼンクロイツとその象徴的な旅行の伝説を公にすることによって、世間に姿をあらわした。それを行なったのは、ドイツの錬金術師ヴァレンティン・アンドレーエである。時に1614年であった。ルターの印璽が薔薇の中心に十字をつけたものであること、また薔薇十字団員といわれた人びとの大部分が、クンラートやマイヤーやロバート・フラッドのようにルター派の錬金術師だったことを思いあわせると、この結社の出現が宗教改革に伴う秘教思想的な一面ではないかと考えることもできよう。なお、面白い事実と思うので付け加えておくが、ライプニッツは、普遍的言語の特徴を扱った『組合わせ術について』の冒頭で、十字架の中心に五弁の薔薇の花を描き、デカルトは彼自身語っているように、薔薇十字という名の組織と連絡をとろうとしたがうまくゆかなかった。薔薇十字団は、17世紀のはじめヨーロッパを離れてインドに移ったといわれるが、このことは、同結社が東方にある中心に再吸収されたことを意味するととれるかもしれない。いずれにせよ、現代の薔薇十字会派は、真の薔薇十宇団とは事実上何の関係もない。薔薇十字団員を名乗る者は、ほん とうはそうでないことをみずから告白しているようなものである。

[ リュック・ブノワ (有田忠郎 訳): "秘儀伝授 : エゾテリスムの世界", 文庫クセジュ, 白水社, 1976, pp.120-122]






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