前回のエントリーで、“日本なりのソーシャル メディア マーケティングの方法論を考えるコトの重要性” について若干触れてみたけれども、今回、もうちょっとだけ、掘り下げて記してみたいと思う。
実は、まさに、この “バイブル” 制作に着手するかしないかという頃、たまたま米国本社が解釈するソーシャル メディアと、ソコに対して展開するマーケティング論について、ハナシを聞く機会があった。その時、日本とアメリカの両者において、ソーシャル メディア マーケティングに対する考え方の違いを強く感じたところに端を発している。
ごちゃごちゃとした説明を思いっきり削ぎ落とし、エッセンスだけを抽出すると、彼らの考えるソーシャル メディア マーケティングとは、以下の 2 点になる。
1. については、ひょっとしたら確率は低いものの、何かのはずみで、コンテンツが “Buzz る” 可能性はあるかもしれない (もちろん、ソレはごくごくまれだし、ましてや狙って Buzz らせるようなコトは非常に難しいと思うのだけれども…) 。ただ、2. については、かなり個人的には違和感を覚えたわけで。
おそらく、情報に対する Credibility を伴わせたり、向上させたりするのであれば、少なくとも日本なら、ソーシャル メディア以外の (たとえば PR であったり、記事広告的なモノであったり) モノが、その役割を担うコトになるだろう。
確かに、とくにアメリカでは、自身の素性をオープンにした上でソーシャル メディアに参加しているユーザーの割合は、少なくとも日本と比して高いであろうし、ソレに伴って、(少なくとも日本よりは) ソーシャル メディア上に流れる情報の Credibility の有無を判断しやすい状況にあるのだろう。そういったバックグラウンドがあるため、ソーシャル メディアに対して、“(企業の発信する情報に対して) Credibility を持たせる” という役割を担わせるという手段も考えられないコトはない。実際、うまくいけば、それこそ記事広告を出すよりはコストを抑えられるであろうし…。
ただ、おそらく、このやり方を、そっくりそのまま日本で展開すると、懸念される点ばかりが浮き彫りになってくるような気がする。以前から、たびたび出てくる “ソーシャル メディアにおける「匿名・実名論争」” を考えると、少なくとも日本では、ソーシャル メディアにおける、情報の Credibility は “高い or 低い” 以前に、そもそも Credibilityを判断するコト自体がアメリカに比して困難だ。
他にも、よく考えると、日本とアメリカのソーシャル メディア文化の違いは、いたるところに垣間見える。たとえば、“つながり” に対する考え方。
コレは、自身が以前書いたコトがあるのだけれども、例えば SNS を例に考えてみた場合、そもそも日本 (人) とアメリカ (人) では、SNS に対して求めているモノが根本的に異なるのではないかというコトが考えられる。
他にも、ブログを書く理由や動機なども、日本 (人) とアメリカ (人) では異なってくるし、ブログ、SNS 、マイクロ ブログ (もとい Twitter) の使い分け方も、日米間では異なった傾向を見せてくる。
こういったコトを踏まえて考えると、米国本社で生まれるソーシャル メディア マーケティングのフレームワークは、当たり前だけれども、あくまでもアメリカのソーシャル メディアでの展開を念頭に置いているモノであるし、ソレをそっくりそのまま日本に持ち込むのは、大いに無理があるわけで。実際、アメリカで Facebook をベースに展開しているソーシャル メディア マーケティング施策を、そのまま mixi に持ち込んで、同じように機能するかといえば、“No” だろうし、同じ Facebook 上で、日本人向けに同じ内容で展開したとしても、十分に機能しないのではないかと思われる (そもそも、日本では、かなりユーザー属性的に偏っている上に、全部合わせて 30 万ちょっとのユーザーしかいないし…) 。
コレはある意味、当たり前と言えば当たり前だったりするわけで。
やっぱり “ソーシャル メディア マーケティングは社会 (人間) 対応そのもの” だというコトがよくわかる。つまり、国や人種や文化が違ってくれば、手法も方法論も変わってくるというコトを、まずしっかりと考えておいた方がよい。
そして、ココをしっかり押さえておかないと、まったくハナシにならなくなるので、“バイブル” の第 1 章は、このフレーズから始まるコトとなったわけで。
実際、“バイブル” の第 1 章では、“ソーシャル メディアは生活者が主役” だとか、“ソーシャル メディア ≒ 現実社会” といったように、色々な形で、なかばくどいくらいにリフレインされるような構成にしている。 この概念をベースにし、その上に
という順番に知識・情報を積み上げていく形を取ってみた。
で、ココでみなさんがおそらく気になるのは、“ソーシャル メディア マーケティングの概念” という部分に、どんなコトが書かれているのだ? というトコロだと思うのだけれども、コレについては、長くなってしまうので、次回以降、もう少し深掘りをしながら (もちろん差障り無い範囲で) ご紹介してみようと思うわけで…。
実は、まさに、この “バイブル” 制作に着手するかしないかという頃、たまたま米国本社が解釈するソーシャル メディアと、ソコに対して展開するマーケティング論について、ハナシを聞く機会があった。その時、日本とアメリカの両者において、ソーシャル メディア マーケティングに対する考え方の違いを強く感じたところに端を発している。
ごちゃごちゃとした説明を思いっきり削ぎ落とし、エッセンスだけを抽出すると、彼らの考えるソーシャル メディア マーケティングとは、以下の 2 点になる。
- コンテンツを、低コストで広範囲にリーチさせ、認知活動における ROI を向上させる活動
- 口コミによって情報を拡げるコトによって、情報に対する Credibility (信頼性) を伴わせる活動
1. については、ひょっとしたら確率は低いものの、何かのはずみで、コンテンツが “Buzz る” 可能性はあるかもしれない (もちろん、ソレはごくごくまれだし、ましてや狙って Buzz らせるようなコトは非常に難しいと思うのだけれども…) 。ただ、2. については、かなり個人的には違和感を覚えたわけで。
おそらく、情報に対する Credibility を伴わせたり、向上させたりするのであれば、少なくとも日本なら、ソーシャル メディア以外の (たとえば PR であったり、記事広告的なモノであったり) モノが、その役割を担うコトになるだろう。
確かに、とくにアメリカでは、自身の素性をオープンにした上でソーシャル メディアに参加しているユーザーの割合は、少なくとも日本と比して高いであろうし、ソレに伴って、(少なくとも日本よりは) ソーシャル メディア上に流れる情報の Credibility の有無を判断しやすい状況にあるのだろう。そういったバックグラウンドがあるため、ソーシャル メディアに対して、“(企業の発信する情報に対して) Credibility を持たせる” という役割を担わせるという手段も考えられないコトはない。実際、うまくいけば、それこそ記事広告を出すよりはコストを抑えられるであろうし…。
ただ、おそらく、このやり方を、そっくりそのまま日本で展開すると、懸念される点ばかりが浮き彫りになってくるような気がする。以前から、たびたび出てくる “ソーシャル メディアにおける「匿名・実名論争」” を考えると、少なくとも日本では、ソーシャル メディアにおける、情報の Credibility は “高い or 低い” 以前に、そもそも Credibilityを判断するコト自体がアメリカに比して困難だ。
他にも、よく考えると、日本とアメリカのソーシャル メディア文化の違いは、いたるところに垣間見える。たとえば、“つながり” に対する考え方。
コレは、自身が以前書いたコトがあるのだけれども、例えば SNS を例に考えてみた場合、そもそも日本 (人) とアメリカ (人) では、SNS に対して求めているモノが根本的に異なるのではないかというコトが考えられる。
US | 日本 |
知らない人と出会い、人脈を広げる | 現実世界の既存の友人関係をより深める |
そのため公開できる情報は一通り公開する | 自身の友人関係をサポートしてくれることを求める |
“目的志向型” の関係性構築が中心となり、関係性の構築自体が目的となる | つまり “目的志向型” な関係性ではなく、関係性の維持自体が目的となる |
こういったコトを踏まえて考えると、米国本社で生まれるソーシャル メディア マーケティングのフレームワークは、当たり前だけれども、あくまでもアメリカのソーシャル メディアでの展開を念頭に置いているモノであるし、ソレをそっくりそのまま日本に持ち込むのは、大いに無理があるわけで。実際、アメリカで Facebook をベースに展開しているソーシャル メディア マーケティング施策を、そのまま mixi に持ち込んで、同じように機能するかといえば、“No” だろうし、同じ Facebook 上で、日本人向けに同じ内容で展開したとしても、十分に機能しないのではないかと思われる (そもそも、日本では、かなりユーザー属性的に偏っている上に、全部合わせて 30 万ちょっとのユーザーしかいないし…) 。
コレはある意味、当たり前と言えば当たり前だったりするわけで。
やっぱり “ソーシャル メディア マーケティングは社会 (人間) 対応そのもの” だというコトがよくわかる。つまり、国や人種や文化が違ってくれば、手法も方法論も変わってくるというコトを、まずしっかりと考えておいた方がよい。
そして、ココをしっかり押さえておかないと、まったくハナシにならなくなるので、“バイブル” の第 1 章は、このフレーズから始まるコトとなったわけで。
実際、“バイブル” の第 1 章では、“ソーシャル メディアは生活者が主役” だとか、“ソーシャル メディア ≒ 現実社会” といったように、色々な形で、なかばくどいくらいにリフレインされるような構成にしている。 この概念をベースにし、その上に
- ソーシャル メディアの概況・歴史・市場規模
- ソーシャル メディアの種類・類型・ポジショニング
- ソーシャル メディア マーケティングの概念
という順番に知識・情報を積み上げていく形を取ってみた。
で、ココでみなさんがおそらく気になるのは、“ソーシャル メディア マーケティングの概念” という部分に、どんなコトが書かれているのだ? というトコロだと思うのだけれども、コレについては、長くなってしまうので、次回以降、もう少し深掘りをしながら (もちろん差障り無い範囲で) ご紹介してみようと思うわけで…。
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