冷戦時代の核実験や民間防衛をめぐるカルチャー

ロシア右翼

ソルジェニーツィンのウクライナについての見解(1968, 1981, 1990)


ロシアビヨンド(2014/06/11)(ロシア語版, Telegraph英訳)が、プーチンの主張と大きくは違っていない、ソ連時代の反体制作家アレクサンドル・ソルジェニーツィン(1918-2008)の記述を紹介している。

それらをまとめると、ソルジェニーツィンの主張は:
  • ウクライナとロシアの関係の結びつきと歴史的背景に触れつつ、ウクライナ問題の深刻さを強調している。
  • 地域の自己決定と自治の重要性を強調し、感情的な対立ではなく、現地の人々による解決が必要である。
  • ウクライナとロシアの混血や文化的影響に触れつつ、対立を避けることが重要である。
  • 最終的に、分離独立の問題を考える際には、地元住民の意見を尊重し、暴力を避けるべきである。

以下引用部分:
『収容所群島』第5部「徒刑」第2章「革命のそよ風」(1968年執筆、1974年発表)
(『収容所群島5』木村浩訳 1977年、新潮社)
ところで、ウクライナ人たちは? われわれはもうずっと以前から『ウクライナの民族主義者たち』という言葉を使わず、もっぱら『ベンデル主義者たち』という言葉を使っている。その言葉があまりにも悪魔的な意味で使われているために、その本質をきわめようとする人は誰もいない(また、われわれは『匪賊たち』という言葉を使っている。これは押しつけられた定義によって、世界のどこでもわれわれのために人を殺している人たちのことを『パルチザンたち』といい、1921年のタンポフ州の農民一揆から初めてわれわれを殺している人たちのことを『匪賊たち』と言っているのである)。

その本質からいえば、大昔のキエフ・ロシア時代にはロシア民族とウクライナ民族は一つのものであったけれども、その後二つに引き離されて、何百年にもわたって別々な生活をおくり、その習慣も言語も別々な方向に発達していったのである。いわゆる『再統一』は、元通りの兄弟関係に立ち戻ろうという希望から出た誰かの試みであったかもしれないが、きわめて困難を伴うものだった。だが、その後の三世紀をわれわれは無駄に過ごした。ロシアには、どうしたらウクライナ人とロシア人を親類同様の関係にまで近づけることができるか、どうしたら二人の間の傷痕をいやすことができるのか、真剣に考えた活動家がいなかった。(もしその傷痕がなければ、1917年の春に、さまざまなウクライナの委員会と後のラーダはできるはずがない)。

政権を握るまでのボリシェヴィキはこの問題を難なく解決した。1917年6月1日付の『プラウダ』紙上でレーニンはこう書いている。「われわれはウクライナや他の非大ロシア地域をロシア皇帝や資本家たちによって合併されたものであるとみなしている」これは、すでに中央ラーダが存在していたときに書かれたものである。そして、1917年11月2日には『ロシア諸民族権利宣言』が採択された。ロシアの諸民族は分離も含めた自治権を有すると宣言されたのは、まさか冗談半分ではなかっただろう。だますつもりではなかっただろう。それから半年後、ソビエト政府は、ウクライナとの講話条約締結や正確な境界線制定のためにソビエト・ロシアに協力してくれるようにと皇帝のひきいるドイツに要請した。こうして1918年6月14日にレーニンはその条約をゲトマンのスコロパツキーと調印した。このようにしてレーニンは、ウクライナがロシアから分離しても仕方のないことを示したのである。たとえ、ウクライナがドイツの君主制下になっても、である!

ところが、不思議なことに、ドイツが連合軍に屈服したとたん(それはわが国とウクライナの関係諸原則に影響を及ぼはずがないのに!)、それにつづいてゲトマンも倒れ、わが国はペトリューラよりも勢力が優っていたことが明らかとなった(ところで、これはもう一つの悪魔的表現だ。『ペトリューラ主義者たち』というのは、実際には、それはわれわれと別個の国家を作ろうとしたウクライナの都市住民と農民たちだった)。わが軍はとたんにそれまで認めていた国境を越えて、同じ血を受けついでいる兄弟民族に自分の整形を押しつけてしまったのだ。もっとも、その後十五〜二十年の長きにわたってわが国は懸命に、力さえ入れてウクライナの言語を利用して、彼らがまったく独立した民族であり、いつでもその気になれば分離できると兄弟民族に言いきかせてきた。しかし、戦争が終りに近づいていたころ、彼らがそれをしようとしたとたんに、彼らは『ベンデル主義者たち』と非難されて、逮捕され、拷問にかけられ、処刑されたり、収容所送りになった(ところが、『ベンデル主義者たち』というのは『ペトリューラ主義者たち』と同じウクライナ人で、他国の政権を望まない人びとのことであった。ヒトラーが約束した自由をくれないことがわかったとき、彼らは戦争を通じてヒトラー軍とも戦ったのだ。だが、わが国ではこのことは黙殺されている。それは、1944年のワルシャワ反乱と同様に、わが国にとって不利な事実であるからである)。

どうしてわれわれはウクライナ人たちの民族意識の強さに、彼らが自分たちの言語を話し、その言語で子供を教育し、それで看板を書きたいという兄弟民族の希望にいらだちを覚えるのか? ミハイル・ブルガーコフでさえもこの問題で(長編『自衛軍』の中で)誤った感情にとらわれている。もしわれわれが最後まで溶け合うことができなかったならば、またなんらかの点でわれわれの間に相違があるならば(彼ら、つまり弟分に当たる彼らがそれを感じているだけでも十分だ!)、とても悲しむべきことだ!だが、もしそれが事実だったら? もう取り返しがつかないとすれば、それは30年代や40年代で最も取り返しのつかない事態になったのだが、その対立が最も表面化したのは帝政時代にではなく、帝政時代が終ってからだ!--どうして彼らの分離したいという気持にわわれれはいらだちを覚えるのか? オデッサ地方の海水浴場が惜しいのか? チェルカースク地方の果物が惜しいのか? こんなこと書くのは、私としてもとても辛い--ウクライナとロシアは私の血の中で、心の中で、また頭の中でひとつになっているからだ。だが、ウクライナ人たちと友情をかわした収容所内での豊富な経験から、彼らの心にどれほど憤懣が鬱積しているかわかっている。われわれの世代はこの年寄りたちの誤りに対して償いをしなければならないのだ。

地だんだを踏んで、「これは私のだ!」と主張することは最も簡単な方法であるが、「生きたい者は勝手に生きるがいい!」と言うことは比較にならぬほど難しい。二十世紀の終わりに近づいた現在も、わが国最後の、先見の明のない皇帝は滅びたのだという空想的な世界で生き続けてはならない。不思議なことかもしれないが、民族主義は下火になるという『進歩的教義』の予言は当たらなかったのだ。原子やサイバネティックスの時代に民族主義はむしろ盛んになったのだ。いや、いずれにしても、民族自決とか民族独立とかの約束手形をわれわれが引き受けなければならない時期が到来しつつある。われわれが火あぶり刑にされたり、川で水死させられたり、首をはねられたりされることを待たずして、みずから進んでその手形を引き受けなければならない時期がくる。われわれは偉大な民族であることを、領土の大きさ支配している民族の数で証明するのではなく、その行為の偉大さで証明しなければならないのだ。そして、われわれと生活をともにしたがらない民族の地域を差し引いた残りの土地で、われわれはそこを深く耕すことによってそのことを証明しなければならないのである。

ウクライナの喪失は痛烈な打撃となろう。だが、今のウクライナ人たちの全民族的な意気込みを認めないわけにはいかない。何百年にわたっても、問題が解決できなかったとなると、われわれが分別ある振舞いをしなければならない。われわれは決定権を彼ら自身に、つまり連邦主義者たちと分離主義者たちのうち相手を説得しえた者にゆだねなければならない。こうした譲歩をしないということは気違い沙汰であり、残酷なことである。今のわれわれが穏やかに、忍耐強く、じっくりと説明していけばいくほど、いつの日か再統一をなしとげる希望が生まれるというものだ。

とにかく、彼ら自身でやってみるがいいのだ。そうすれば、分離にいよってすべての問題が解決されるわけではないことを、彼らもたちまち納得するはずだ。

[ソルジェニーツィン (木村浩 訳):"収容所群島5", 新潮社, 1977, pp.48-51 ]

1981年4月(ハーバード大学ウクライナ研究所で行われた、ロシア・ウクライナ関係についての会議に寄せた書簡)
ロシア・ウクライナ関係が現在の最重要課題の一つであり、いずれにせよ両国民にとって重大であるという点には異議がありません。しかし私は、この問題をめぐっていたずらに感情的になることは破滅的な結果をもたらすと懸念します。

…これまで再三述べてきましたが、相手が誰であれ、力で引きとめておくことなどできません。また争っているどちらの側も、相手に対して暴力を行使するようなことがあってはなりません。相手が民族全体であれ、何らかのマイノリティーであれ同じことです。なぜなら、どんな少数派の中にも、入れ子人形のように、さらに少数派が含まれているからです…。

いかなる場合でも、地元の意見に耳を傾け、それを実現しなければなりません。どんな問題でも、その地元の人々だけが真に解決することができるのです。どこか遠くにいるエミグラントたちが、歪んだイメージに基づいて議論しても解決できません。

…ロシア・ウクライナ問題をこのようにいきり立って性急に論じているのを見ると、心が痛みます(これは両国民にとっては破滅的で、彼らの敵を利するだけです)。私自身は、両者の混血ですし、両者の文化的影響のもとで成長しました。そして、両者が敵対しているのを目にしたことなどありません。

私は、ウクライナとその国民について、同国での集団化による飢餓の悲劇について、再三書いたり公の場で話したりしてきましたが、私はロシア人とウクライナ人の苦しみが共産主義体制下での共通のものであることを、いつでも知っていました。

私の心の中には、両国民の対立を入れる余地はありません。もし、不幸にして極端な事態に至り、愚か者たちが両者の対立に我々を引きずり込もうとしても、そこに自分が加わることは決してないし、自分の息子たちをやることも絶対にありません。

この書簡は1981年6月18日に、「ロシア思想」誌に発表。ロシアでは、「ズベズダ(星)」誌に、1993年12月号に初めて掲載。

[ ロシアビヨンドとその引用以外に これのソースは確認できない]

「我々はいかにロシアを建設するか?:ウクライナ人とベラルーシ人へ」(1990)
(『甦れ、わがロシアよ〜私なりの改革への提言』木村浩訳 1990年、日本放送出版協会)
ウクライナ人と白ロシア人への言葉

私自身は半部近くはウクライナ人であり、子どもの頃はウクライナ語の響きのなかで育った。一方、悲壮さにみちた白ロシアで、私は戦争体験の大半を過ごし、その悲しい貧しさと柔和な民族性を心から愛したものだ。

私はウクライナ人に対しても、白ロシア人に対しても、部外者としてではなく、同胞として呼びかけるものである。

それにしても、わが民族が三つに枝分かれしたのは、あの蒙古襲来というおそろしい災難のためと、ポーランドの植民地になったためである。ロシア語とは違う別の言語を話していたウクライナ民族がすでに九世紀頃から存在していたという説は、最近になってつくられたまっ赤な嘘である。われわれ全員があの高貴なキエフ・ロシアから出ているのであり、ネストルの年代記によれば「そこからロシアの土地がはじまり」そこからキリスト教の光が差し込んできたのである。同じ公たちがわれわれを統治してきたのだ。すなわち、ヤロスラフ賢公が、キエフ、ノヴゴロド、チェルニゴフからリャザンまで、ノーロムからペロオゼロまでの広大な土地に、自分の息子たちを統治者として据えたのである。ウラジーミル・モノマフは、キエフの公であると同時に、ロストフ・スーズダリ公国の公でもあった。府主教たちも同様にキリスト教を布教していた。キエフ・ロシアの民族が、そのままモスクワ公国を創ったのである。リトアニアとポーランドの白ロシア人と小ロシア人たちは自分のことをロシア人と考えて、そのポーランド化とカトリック化に抵抗した。これらの土地がロシアへ戻った時には、当時、誰もがそれを再統一と受けとったのである。

たしかに、アレクサンドル二世時代(1863, 1867)に、はじめは社会・政治評論おいて、後には文学において、ウクライナ語を禁止する勅令が出たことを思いだすと、心が痛み、恥ずかしい思いがする。しかし、その禁止は長くは続かなかった。それはロシアの国家体制の崩壊を準備した、統治政策と宗教政策の驚くべき硬直化の現われであった。

しかしながら、1917年のにわかづくりの社会主義的国民議会も、政治家たちの妥協の産物であり、決して国民によって選ばれたものではなかった。そして、連邦を無視してロシアからウクライナの離脱を宣言した時、国民議会は全国民的な意志を問わなかったのである。

亡命ウクライナ民族主義者たちは「共産主義は神話であり、世界の征服をたくらんでいるのは共産主義者たちではなく、ロシア人である」と、アメリカに言い聞かせていたが(そのために、30年間も続いている米上院の法律によれば、「ロシア人たち」はすでに中国とチベットを支配下においたことになっている)、私はそれにこう反論したことがある。共産主義とは、ロシア人もウクライナ人も1918年から非常委員会の監獄のなかでわが身で体験した神話である。その神話が、1921年から22年にかけて、ボルガ地方では種蒔き用の穀物までもすべて供出させ、ロシアの29年県を干ばつにし、多くの人命を奪った飢饉を引き起こした。こうして、その同じ神話が、裏切るようなかたちで、1932年から33年にかけては、ウクライナで同じような容赦ない飢饉を引き起こしたのである。このようにわれわれはともに共産主義者たちから鞭打ちと銃殺を伴った農業集団化を経験させられてきたが、この血のにじむ苦悩の体験によってわれわれは結ばれているといえないだろうか。

オーストリアでは1848年になってもガリチア地方出身のウクライナ人たちは、自分たちの民族会議のことを「最高ロシア会議」と呼んでいたのである。しかし、その後オーストリアから離れたガリチア地方では、オーストリアのてこ入れで、歪められた、民族語でないウクライナ語がつくられ、そのなかには多くのドイツ語やポーランド語の単語がつめこまれた。それはまた、カルパチア地方のロシア人にロシア語を忘れさせて、ウクライナを完全にロシアから分離して独立させる試みであった。この独立志向は、今日の亡命ウクライナ人の指導者たちの無知をさらけ出して、聖ウラジーミルは「ウクライナ人だった」といわせたり、あるいは、さらに過激な言動に駆りたてている。「共産主義は存続してもかまわないが、モスカーリだけはくたばるがいい!」と、とんでもないことをいっているのである。

われわれは、ウクライナがソビエト時代に体験した死の苦しみに対しては、心底から同情しないではいられない。しかし、なぜこんな不当な要求が出るのか、なぜ血のつながっているウクライナを切り離さなければならないのか(しかも、もともと昔のウクライナに入っていなかった遊牧民の「野生の原野」だったノヴォロシア、あるいはクリミア地方、ドンバス地方、さらにはカスピ海近くの地方まで含めて)。もし、「民族自決権」を認めるならば、当の民族がみずから自分の運命を決定すべきである。全民族による投票なしでは、この問題は決められないのである。

今は、ウクライナを切り離すことは、何百万人の家族や人びとを切り離さなければならないことになる。あまりにも住民が混ざりあっているからである。ロシア人が大部分を閉める州がいくつもある。自分がロシア人なのか、それともウクライナ人なのかを決めかねている人びとが大勢いる。混血があまりにも多い。ウクライナ人とロシア人との結婚も多い。しかも、今まで誰もそれを特別なこととは考えてこなかった。ウクライナの住民のあいだには、ロシア人とウクライナ人の不和お影さえみえないのだ。

兄弟たちよ!こうした残酷な分離をやめようではないか!それは、共産主義時代の忌まわしい産物ではないか。われわれはともにソビエト時代の辛酸をなめ、ともにこのどん底に堕ちたのだ。だからこそ、ともにそこから脱出しようではないか。

この二世紀のあいだ、われわれの二つの文化が交わってたくさんの優れた人材を世に送った。M.F.ドラゴマーノフが指摘しているように「切り離すこともできないが、混ぜ合わせることもできない」のである。ウクライナ文化と白ロシア文化に対しては、ウクライナと白ロシアだけではなく、大ロシアにおいても、友情と喜びをもって広く門戸を開放しなければならないのだ。いかなる強制的なロシア化もあってはならない(1920年代の末からみられた強制的なウクライナ化もしてはならない)。互いの文化の発展を制限してはならない。学校の授業は、両親の選択によって、両方の言語で行われなくてはならない。

もちろん、もしウクライナ民族が実際に分離を望むなら、それを無理に抑えることは誰にもできない。しかしながら、国土の広い国は多様である。地元の住民は自分たちの地方、自分たちの州の運命を決めることができる。そして、その地方で新しくできた少数民族は、同じように暴力あってはならないのである。

以上述べてきたことは、そのまま白ロシアにも当てはまることである。もっとも白ロシアの場合は、軽はずみな分離主義にあおられることはなかったけれども。

最後に一言。われわれは、出世主義者たちやソビエト体制の愚かな連中によって引き起こされたチェルノブイリ原発の大惨事に対して、白ロシアとウクライナにふかく謝罪し、できるかぎりのことをして、事態の改善に努めなければならないのである。

[ソルジェニーツィン (木村浩 訳):"甦れ、わがロシアよ」(NHK出版協会), 1990, pp.21-27 ]




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