タイ

元々タイあるいはタイのピブーン首相は開戦前から親英の立場であり(→タイ侵略の項参照)、1943年11月の大東亜会議を欠席しワンワイ親王を代理出席させた。
吉川利治は「(ピブーンは)日本にはもはや義理も未練もなかった」*1と表現する。
そしてワンワイ親王も「日本は『大東亜共栄圏』なる政策を推進しているが、一体何を意味するか誰にもわからぬ。まして日本語で『八紘一宇』といって、同じ屋根の下にいるのだといわれても、ますます何のことやらわからなくなる」と日本に批判的だった*2

1943年12月以降ピブーンは中国国民政府軍(蒋介石側)との接触を始め、1944年に入ると日本大使と会うことも避けるようになった*3
またピブーンの政敵であるプリーディ元財務大臣も「一九四四年秋に英国及び米国の諜報機関と接触し、連合国の協力を得て自由タイ地下組織を作り始めた。」*4

こうしたタイ側の動きは日本側も感知しており、義部隊(※第18方面軍のこと)参謀長名の1944年5月26日付電報「最近に於ける泰国の情勢判断」では「泰国は最近の情勢に刺戟せられ日泰同盟を基調とせざる独自の国防計画を樹立し逐次其の実行を促進しあるものの如し」「親英米派の巨頭アドン警察大将は落下傘諜者訊問に名を藉り英米との秘密連絡あるものの如く…」*5と報告している。
また大本営陸軍部戦争指導班「機密戦争日誌」1944年5月16日の項では第18方面軍司令官中村明人中将の発言として「泰は過度に圧迫せば重慶に趨る虞あるを以て適当に手心を加へあり」*6とあり、さらに6月1日の項では「泰国駐屯兵力は目下二ケ大隊なり、泰の政情にも鑑み有事の際即応する為仏印マレーに対し準備を命じあり」*7と記し、タイ情勢の万一の事態に備え大本営として隣接する仏印・マレーに指示を出したことがわかる。

インドネシア

インドネシア人の民族運動指導者は、既に戦前から日本に対してあまりよいイメージを持っていなかったようである。満鉄調査部「我カ南進政策ヲ繞ル蘭印ノ政治経済動向」(1941年)では次のように述べる。
インドネシヤ大衆は漠然と日本人に親愛の情を持って居るとはいへ、少くとも最近民族運動の指導者は民主主義を欧〔ママ〕歌して日本を全体主義国家として排撃せんとする傾向がある(1‐2頁)
白人の代りに日本人に支配される事を(インドネシア人が)望んで居るとの如何なる現象をも我日〔ママ〕は発見する事が出来ないのである。それどころではない。和蘭(※オランダ)本国の対独宣戦布告以後のインドネシヤ人の動きは大体明に親蘭反日的である。特に三国同盟以後のインドネシヤ人の輿論は和蘭人と同様、日本の大東亜に於ける指導権を絶対に認めないとし、全体主義国家日本を排撃して居る。例へば…(32-33頁)
インドネシヤ民衆の運動が依然として和蘭陣営にあるのは如何なる理由であらうか。それは彼等が皆民主主義者であり、全体主義国に対し反感を持って居るからであり…(33頁)

それでも日本はインドネシア占領当初はインドネシア人に歓迎されたようだが、その後インドネシア人による政治運動や民族旗使用などを禁じたため、不信と失望を生んだ*8
また1943年1月28日貴族院本会議で東条英機首相がビルマ・フィリピンの独立に言及した*9が、インドネシアの独立には言及しなかった。
そのため独立運動指導者のスカルノやハッタは日本を批判した。
ハッタはジャカルタを訪問した青木一男大東亜相に対して「なぜインドネシア独立の約束を破ったか」と問い質したという。*10
1945年にはインドネシア郷土防衛義勇軍(PETA)による反日蜂起が起きた(→郷土防衛義勇軍#ブリタル反乱

フィリピン

米議会は1934年フィリピン独立法を可決し、翌1935年には独立準備政府が発足しフィリピン人マニュエル・ケソンが大統領に就任していた。フィリピン人は戦前から親米的*11*12でかつ排日・恐日*13*14*15の傾向があり、日本軍による占領が始まると米軍の援助を得ながら対日ゲリラ戦を展開し、日本軍は多くの被害を被った。戦後1957年に引揚援護局が作成した「比島方面作戦経過の概要」では次のように述べる。*16
現地住民は終始反日抗日的であった
比島人の対白人感情に就ては既述の通りであって比島住民の大部は日本軍の比島占領以后に於ても終始反日的感情を抱懐してゐたものの様である。これが為比島に於ける米軍の諜報、謀略活動は極めて容易であって比島と比島外米軍との無線連絡は日本軍占領下に於て数次の討伐にも拘はらず絶えず行はれ、又我が方の単独若くは少数兵に対する殺害、襲撃事件等は随所に発生し車輌の運行妨害多く特に作戦末期頃においてはゲリラ活動スパイ活動は其の頂点に達し我が作戦に齟齬蹉跌を来した事は誠に甚大なものがあった。 レイテ島作戦兵団中に生還者の僅少なのは全くこれ等ゲリラ部隊の活動に依り傷病者に至る迄総て殺害せられるに至った結果に外ならない

女性のゲリラ参加

フィリピンの抗日運動の特徴の一つは女性の参加である。

大本営陸軍部「ルソン島作戦に於ける教訓並に経過の概要」(1945年3月29日)では次のように述べる。*17
5、比島人の通敵行為
(イ)斬込妨害
敵は夜間土民を以て警戒網を張り我が斥候、斬込隊の行動を甚だしく阻碍しあり之が為奇襲不成に終りし例多し
等是〔ママ〕敵性中には婦女子をも混じあり

ベトナム

1945年3月明号作戦で日本軍は仏印のフランス軍を武装解除した。すると今度は「ベトミンの活動が次第に活発に」なり「その後、終戦まで、待ち伏せ攻撃を主体としたベトミンのゲリラ戦法に悩まされ続けることになる」*18

ミャンマー

アウンサンは1945年3月、ビルマ国民軍を率いて日本に対し蜂起した。

  • 京城日報1940年9月21日「対日空気険悪 ラングーン近況」
【大阪電話】郵船熱田丸(七、五二三トン)は二十日朝ラングーンより大阪に入港、同船ではラングーン領事久我成美氏並に神保正金ラングーン支店員同家族などが帰来したが同船の齎した英領ビルマの近況―大戦の結果ビルマ在留の独伊両国人に対する圧迫は目立って強いがその飛ばちりを受け日本人に対してもなかなか神経過敏です、八月廿三日から交戦国及び郵船に対し水、野菜の供給許可制が布かれたため繁瑣な手続に悩まされます、本船などは九月三日の出帆ギリギリまで税関長と折衝しやっと出帆三時間前に要求の三分の一の水、野菜を得た位です、市中でも邦人に投石するなど特に最近は対日感情が悪化してゐる

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