根本

戦前内務省は右翼系新聞に共通する主張として「日本精神に基づき、我国体に則る天皇の絶対主権を認め、天皇中心、皇室中心の政治組織の確立、君民一致、共存共栄の社会組織の実現を期し、以て益々皇威を発揚し、日本民族の世界的発展を期せんとする」ことを挙げた。*1
外務省調査部「右翼運動の現勢」(1935年1月)*2では、「右翼運動の目標とする所は単に国内問題のみにとどまらず又一般外交問題にも直接重大なる関連(皇道宣布、大亜細亜結成を主張す)を有するものにして」(54画像目)とある。また右翼運動の歴史的経緯について「明治維新以後の欧米物質文明謳歌時代に之に反抗して起りたる所謂国粋保存主義」と、第一次大戦後流行した民主主義自由主義及び社会主義共産主義に対して「此等外来危険思想を排除して国体の擁護と国粋の保存とを実現せんとする運動」の2つの大きな契機があったと解説する(60画像目)。
日本警察社編「思想警察通論」(1940年)では日本の右翼運動について「国粋主義・愛国主義・国家主義・国家又は国民社会主義・日本主義・農本主義等と種々なる名称と形態を示に至ったが、其の一貫する思想は、我が国体の原理なる皇室中心主義乃至日本主義を指導原理たることに変りはない」と述べている。
「朝日時局読本」(1937)の「右翼団体の動向」では「上層的乃至中間層的団体の両者は資本主義、既成政党、議会主義に対する態度によって区別の標識が認められるのであるが、日本主義並びに民族主義な点では共通性がある」と書いている。*3
「憲兵要務(高等警察)教程」では「右翼運動の主張する主義精神は各種各様であるが其の共通点は日本精神である。従って之に反するもの即ち、我が国体に背き我が国家に背反するものは一切を挙げて之を排撃する点に於て亦一致して居る」「天皇中心政治の徹底 此の主張は右翼団体の中核を為す精神であって其の国粋的たると無産的たるとを問はず一貫して居る」とする。*4
赤尾敏の国家主義団体「建国会」は1926年設立で当初頭山満、平沼騏一郎、永田秀次郎らが顧問格であり1933年神兵隊事件の前田虎雄、鈴木善一も同人だった*5が、永田は1920年12月にほぼひと月にわたり新聞紙上で長文連載し持論を訴え、最後にこう結んだ。
最後に及んで予は重ねて言いたい吾人は吾人の皇室を賛美する、絶対に賛美する、無条件に賛美する何となれば是れ三千年来吾人の祀先より先天的に吾人に伝来せる国民的信仰であるからである、吾人の情熱は決して議会の多数決とか憲法の正条と云うが如き冷たき理論と法規とを以て満足する事が出□ない、是非とも情を尽し意を通じたる温かき或物を要求する、実に吾人六千万同胞の脳裏を支配する情緒は天壌無窮の皇室中心主義と云う大傘下にあらずんば之を結合する事が出来ないのである*6
天皇を心中仰ぎ見たときの皇室賛美・国体擁護の思いを永田は「信仰と確信」と表現した。*7
そしてその熱い思いを持って目を周囲に転じた時に、自分ひとりでなく周囲のみんなに国体を理解させたい、皆が理解しなければ国体擁護できない、みなに皇道宣布したいという欲求が生じる。これが右翼運動である。

国体擁護と皇道宣布、この2点が右翼団体の根本であり共通点だと言える。
戦後三島由紀夫が東大全共闘との討論で「『天皇』と諸君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐのに、言ってくれないから、いつまでたっても殺す殺すといってるだけのこと」と語ったという*8が、これも右翼にとって一番大事なものを端的に表現しつつ、それと同時に他人にも同じ思いをもってほしいという強い願望があることを示すエピソードである。

拡張・具体化・細分化

内なる感情の国体擁護・外面的行動としての皇道宣布という2つの大元から右翼的主張・行動が派生・展開したが、それらは全て一つの判断基準で共通していた。1919年に侠客を集めて国粋会を作らせた床次竹次郎内務大臣*9や1921年国粋会関東本部総長に就任した陸軍中将佐藤鋼次郎*10、あるいは社会主義・マルクス主義・共産主義に批判的だった*11戦前の経済学者河津暹は分かりやすく語っている。
余は少し大胆なるやも測り難きも、デモクラシーもソシャリズムも所謂新思想なるものは尽く之を歓迎包容し、決して之を危険視せざるものなり。唯余の危険視するは、我国体と相容れざるもの、及我国家の存立を危害するの恐あるもののみ。 — 国民新聞 1919.9.8 (大正8) 我陸海軍の深憂大患 陸軍中将 佐藤鋼次郎*12

床次内相は、九日京都に開催された政友会大会に臨み、一場の演説を試みて思想問題に及び…要は「建国の歴史に鑑み国情に照し取捨宜しきを得ば大丈夫なり」と楽観し — 大阪朝日新聞 1921.1.11-1921.1.12 (大正10)*13

欧羅巴のものが総て善いという訳は決して無いから、先進国の文物制度を輸入せんとするには幾度か研究し我国体並に社会に有害なるものは飽迄も排除しなければならぬ — 大阪新報 1921.9.10 (大正10) 思想問題対策 思想鵜呑の傾向を排す 法学博士 河津暹氏談*14

実際右翼は何かが起きると国体に沿うような対応を主張し、何かの思想が輸入されると国体に沿うかどうかで取捨選択し、あるいは国体に沿うように改変した。幕末の開国問題では尊王攘夷が主張・実行され、明治欧化期には国粋主義が主張され、さらに日本国内での国体擁護・皇道宣布にとどまらず、海外に向けた主張・行動も実行された。そしてそれは右翼団体にとどまらず、それ以外の人々やメディアも同じ主張をすることがあった。

反キリスト教

  • 井上円了「神仏二教は我旧来の宗教なるを以て我歴史上に最も縁故ある宗教なることは歴史を一読する者の皆熟知する所なり。神道の縁故あるは云ふまでもなく仏教も…各州各郡に寺院を創立し住職を任命し以て国家鎮護の一助となしたるが如きは名実共に仏教を以て国教に組織したるものなり。皇室歴朝の葬祭は仏教によりて営みしもの及び皇族にして仏門に帰し仏寺に入りしもの幾人あるを知らず…我邦皇室国体の永続を期せんと欲せば歴史上縁故深き寺院は之を保存し其宗教は之を特待せざる可からず」「共和政体なる米国の宗教は君主国に適せざる宗教にして別して我皇統一系国に適せざる宗教なり。其宗教の組織は全く自由共和平権平等等の主張に基きたるものにして其宗教上の思想は我国政体上の思想と並行両立すること能はざるものなり」(1889年)*15
  • 渡辺法瑞「我神国の国体を蹂躙し天神天祖を毀廃し神民をして神皇に背かしめ臣民たるの義務を滅亡する大なる邪毒を胚胎せり」「尊皇愛国の切忠より伏して寄言す、日本三千九百万人の吾同胞の諸兄弟真眼晴を開て耶蘇基督教に昏迷することなかれ。」(1890年)*16
  • 高山樗牛「日本主義は国体の維持と民性の満足とを以て国家の独立、国民の幸福を保全し得べき二大制約となし、是二大制約を中心とし、核子とし、以て内外諸他の文物に対して公平なる研究を試み、是研究の結果によりて取捨選択を行ひたり。」「是を以て日本主義は、内に向ては基督教と共に非国家的非現世的なる仏教を排斥し、保守的進歩的なる儒教の一部を排斥し…」「嗚呼彼等(キリスト教)は我特殊なる国体を認めざるか…君民同祖、忠孝一致の国体を認めざらむか、是れ已に我国民に非ざるなり」(1898年)*17
  • 木村鷹太郎「若し耶蘇教にして真に我国利民福を助けんと欲せば、宜しく国家国体に衝突せる所、学術心理に背く所、我道徳に異る所の諸説を棄て去り、全々日本的となり日本主義に同化し『耶蘇』の名を虚にし『耶蘇的』『ユダヤ的』『欧米的』の臭味を存せざらしむべきなり。…吾人は耶蘇教を悪む者に非ず、只其有害なる者あるを悪むなり」(1899年)*18

反内地雑居

19世紀末の不平等条約改正の際に外国人の内地雑居を認めるかが問題になった。
  • 井上哲次郎「一たび内地雑居を許すに至らば必ず国体を一変し去るべきは前章にも論述せる如く毫も疑ふべからざる事実なり…嗚呼一とたび内地雑居を許さば今日の如き万国無比なる神聖の大日本帝国は再び今日の如き状態を挽回すること能はざるべし。」「現に未だ内地雑居を許さゞ今日已に其の現象を呈したるに非ずや、即ち第一高等中学校の教員中にも内村鑑三、木村某の如きは勅語奉読式の時に我が至尊なる天子の御影を排せず、且つ衆人に告げて曰く、是れは真正なる神に非ず、故に拝せざるなりと、即ち我が天子を侮辱せり…此の如きものは最早や日本人民に非ざるなり」「今日若し内地雑居を許さば彼の無法なる外人は我が神明に対し、或は皇室に向ふて、侮辱をなすは敢て少なきことに非ざるべし」(1891年)*19
  • 新井章吾「西洋人が来て雑居をすると云ふ風になれば勢ひ彼の風俗も我国に行はれる様になります…遂に□日本固有の美風たる日本魂をも失ふと云ふ有様になり身体は日本人だけれども魂は西洋だと云ふ様な相の子が出来日本の国を忘れ日本の国家を忘れて仕舞ふ様に倣うと思ひます」(1893年)*20
  • 国友重章「我日本帝国は堂る(?)万世一系の帝室を首に戴く国柄で御坐ります。文字言語独立の国である。然るに此の言語文字独立を失って居る証拠を挙げますれば裁判所構成法に何んと書てある。ある場合に於ては英語を以て裁判の事を弁ずるを得と書てある…一朝内地雑居となれバ此弊が那辺に達するか測り知るべからざる者で御坐ります」(1893年)*21

反個人主義

19世紀末の民法施行に際して旧来の慣習が変わることへの大きな抵抗が生じ議論が百出した。(→民法典論争#民法典論争の争点)そして日本古来の家族制度を破壊するとして個人主義が批判された。また教育勅語(1890)「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」のような滅私奉公的見地からも、個人主義が批判された。
  • 穂積八束「民法出でて忠孝亡ぶ」(1891年)「史家は一躍三千年来の家制を看ること弊覆の如く双手極端個人本位の法制を迎へんとする我立法家の大胆なるに駭くなるべし、万世一系の主権は天地と共に久し其由る所或は祖先の教法家制の精神に渉るなきか」*22
  • 高楠順次郎「労働問題、社会問題は欧米にては皆個人主義の余弊として起ってゐる、一のストライキも個人主義を以てすると之を防ぐに中々の困難を感ずるが…今日日本の国体を維持して世界と競争して行くには是非二千年来の家族主義を土台としこれに西洋個人主義の長所を加へて行かねばならぬ…要するに我国の工芸教育に於ては個人主義を取り、精神教育に於ては家族主義を取るのが正当である、家族主義とは単に家族同住主義ではない家族主義に基いた国家主義のことである…この万国無比の国体を生じ、空前の発展をしたのもツマリ家族主義の賜である」(1909年)*23
  • 内務書記官中川「個人主義に就ては曾て文部当局者の言に現今の中学生又は卒業生は個人主義に陥り易いとのことであったが農村等は古来我邦の美風たる家庭主義を鼓吹するが必要である」(1912年)*24
  • 井上哲次郎「家族制度は結合一致させるといふ長所がある…日本民族といふものは、能く結合一致さへして居れば、如何なる外敵も恐るゝ所は無い」(240,242頁)「西洋文明の近世の特徴は個人主義の発展にあると言へる…併しながら、日本は家族制度といふ団体主義で来て居るのであって」(252頁)(1912年)*25
  • 国民新聞「個人主義、利益主義、非君主主権説は、我が国体を破毀せざれば、貫徹すべからず。我国民の忠君愛国の信念を絶滅せざれば、其の存在を保つ能わずして、我国憲の大旨、教育の大本は、遂にこれに依りて破滅せんとす。是れ豈、今日に於いて許すべきの事ならんや……我大和民族は、忠君奉公を以て其心と為し、君国の為めには、其身命を惜むことなし」(1912年)*26
  • 若尾幾造 (2代)「元来相続税と云ふものは我々の考へて居りまするところに依れば、最も悪税である…欧米諸国は兎に角個人主義であるが、日本の国体は兎に角古来より天皇あって国あり、国あって家あり、而して人がある…此家督相続に付ては此税を全廃したいと思ひます」(1914年3月2日衆議院)*27
  • 中等教育研究会「個人主義の思潮に伴う弊害と少しとせず就中 一、個人を本位とするがため利己に傾き国家社会を重んぜず献身義勇奉公等の美徳を害するに至る」(1916年)*28
  • 子爵清浦奎吾「国家社会の組織は、国体とも考え合わさねばならぬ。家族制度が宜しくないとは、個人主義説の方から聞くことだが、家族制度が我が国体民族に適合すればこそ、幾百千年も能く行われて居るにあらずや。若し其の短所あらば、之を補えばそれで可なり。何にも西洋の個人主義にかぶれて、無理に家族制度を打破するに及ばんや」(1919年)*29
  • 陸軍中将山梨半造「或る程度までは個人主義を伸ばさざるべからず。されど一旦緩急あらば義勇公に奉ずるの精神を失うべからず。極端の個人主義、増長すれば、この精神と衝突すべし。この精神なくならば国家は一日も存在すべくもあらず」「社会を離れて個人は存在せんのである。社会は一の有機体で個人は其の細胞の如き関係であるから細胞が在ってこそ有機体は存在するのであるが細胞は又有機体を脱離すれば死滅の外はない。随って個人を主とし社会や国家を従とすると云うことは間違って居る…是に於て私は断言する。所謂個人主義には大なる欠陥があるから一部の真理はあるにしても全体として受入れることは絶対にできないのであると」(1921年)*30
  • 勤王会(1932年設立)の主義「対立思想個人主義の誤謬を正し全国民一致して国体に帰依し忠義臣道を実現せんとす」*31
  • 内田良平(黒龍会主幹・大日本生産党総裁)「皇道為本の改革は、家族主義を基礎とするものにして、欧米の個人主義と反対なるものなり。…富の偏重を生じ、随て権力の偏重を生じ、常に其の公平を得んとして闘争に次ぐ闘争を以てし、一面に於てマルクス主義の如き理論を生じ…之れ皆な個人主義より出でたる弊害にして」「家族制度を破壊すれば、国体の細胞を破壊することゝなり、皇室を孤立せしめ、国体の危険を生ずるは当然」(1934年)*32
  • 神兵隊事件被告「被告人天野辰夫等はかねてより現下の我が国は明治維新以後欧米の物質文明と共に輸入せられた自由主義、個人主義、唯物主義の思想により政治、経済、法律その他社会諸般の組織制度蠧毒せられ日本精神は忘却せられ、日本民族の将来は危殆に瀕し一大改革を要するものと思考していた」(1935年)*33
  • 金光庸夫厚生大臣「東亜共栄圏の確立を期する為には、我が国の人的資源の確保増強を図らねばならないことは誠に御説の通りでございまして…要するに何よりも日本民族は悠久に発展すべき民族であるとの自覚と矜持とを持って、個人主義思想や産児制限を是認する享楽的の風潮を一掃致しまして、家と民族とを基調とする思想を確立することが急務でありまして(貴族院本会議1941年1月27日)*34

反共和制

  • 佐田白茅編「政体評論」(1875年)「夫れ今日文運開明の時に当り学者或は共和政治を唱ふるの弊より其言甚だ国害を為せり。…天皇陛下は則ち封土の君主門葉の帝たり。其下も亦門葉の帰属ありて門葉の君主を維持せざるべからず。…我大日本は一系の天皇と門葉の華士族とを以て国家始て成れり。之を不適意なる者は父母の国を去る乎将た海を蹈て死すべし。」*35
  • 1898年、尾崎行雄文相が共和演説事件で批判を浴び辞任。批判例「帝国は万々歳帝国たり。文相尾崎が未来に共和政体必無を期す可らずと放言せしは、不臣極れり…尾崎の妄言は、国体と教育を賊ふ甚し」(東京日日新聞)*36。また木村鷹太郎「民主共和の思想の有害にして、我国民たるものゝ夢にだに想ふ可からざる所のものたるや言はずして明かなり。之を以て前内閣の文相(尾崎行雄)の共和的理想の演説を為すや、茲に其内閣の瓦解を来すの大罰天より降れり。」「国体政体は神聖にして犯す可からず。全日本の国民は衷心国体を擁護し皇室を敬愛し、日本社会は、之を以て道徳の最大なるものとなし、日本の道義皆之れを中心となす。然るに近来無学の百姓的智性の輩は、民主を唱へて帝権の絶対なることを拒む、素より不義の徒なり。文相にして国体を弁へずして共和を夢想す、素より愚狂者なり」(1899年)*37
  • 行地社の山田武吉「我国体は議会政治を以て易へてはならぬ、政体としては居らぬ。元首を大統領として之れを国民の公選によって定むる共和政治は、我が国体の許さゞる所るや勿論とし、議会政治殊に今日の如き堕落し切った不合理な我が議会政治は、場合により之れを変へても差支へないのである。」(1931年9月「月刊日本」78号)*38

反社会主義

社会主義や労働運動は1900年治安警察法で規制されたが、幸徳秋水の次の言葉は、社会主義が国体に反すると批判されたことを物語っている。「『アレは国体に害がある』と一たび断定せられたならば…全く息の根を止められたと同様である。」「社会主義の目的とする所は…是が何で我国体と矛盾するであらう歟」(1902年)*39
  • 1879年、東京曙新聞がヨーロッパの社会主義を解説し、それに対して朝野新聞が国体変革の主張だと非難した。*40
  • 民友社「日本と云ふは、万国に比類のない国体で、皇室が民人の中心と為て在せられ、其の民人は忠孝を本としてゐて…その国体に照し、其の歴史に基いてゆかなくてはならない。社会主義などは、西洋で…報復の運動が、とうとう現在の国家を始め、すべての制度を破壊さうと云ふ運動となったのである。」「日本人は西洋とは性質も異日…天皇陛下の御仁徳を被むることも深くて、常に皇恩に感泣して居るから、階級的嫉恨憎恨と云ふ様なことに立ち到ることは、何もないのみならず、国家に対して怨恨つらみのあらう筈がない。…西洋人が西洋人に対する報復の手段をば、日本人が日本の国家、民人に対して加へようとする訳に当り、是れ程間違たことは無い。」(1911年)*41
  • 陸軍少将河野恒吉「社会主義主張も国々によりて異って居る、併しながら其共通点であり又社会主義信条の第一条であるものは、世襲君主の排斥である。…我皇室が万世一系たる所以、又世界無比なる所以、実に茲に存すと曰わねばならぬ。社会主義信条第一の我国に当て箝らざる所以が何人にか尚釈然たらざるものあるか。…吾人は寧ろ我国民の福祉増進上益必要なりとして我国体擁護を絶叫せねばならぬ。」(1925年)*42

反デモクラシー

大正時代に入り吉野作造がデモクラシーを日本に紹介し*43広まったが、それは共和制・国民主権であり天皇主権に反するとして批判された。あるいは日本には元々万機公論的デモクラシーがあったとか、日本古来の仁政がデモクラシーだという主張もなされた。
  • 建部遯吾「百年未曾有の戦乱を乗越えて…五大強国の一たる我日本が今し頃デモクラシーの世界へ進まんとするとは何のことか、而も之れを以て我政治的生活の進歩であるとか或は改造であると言って騒ぎ廻る連中が坊間甚だ少くないこれ実に時代倒錯の狂態にあらずして何ぞ…我現下の混沌たる思想問題を解決せんとせば第一に国体の特質を研究し」(1919年)*44
  • 井上哲次郎「広い意味のデモクラシーならば日本には古来行われて居る…最近に於て明治天皇の如きは最も能く人道的精神を発揮された方である、五箇条の御誓文を初め総ての政治は人民の為であった…狭義のデモクラシーとは人民に拠っての政治である、日本の民本主義は人民の為の政治である、人民に拠っての政治は之を実行すれば民主団体となる、即ち共和政体となる、それは日本の歴史並に国体及現今の憲法と両立しない事である、日本に於て狭い意味のデモクラシーを唱道する事は憲法に反した言論であり、又国体を無視した行いである」(1919年)*45
  • 赤尾敏の国家主義団体「建国会」の顧問格だった永田秀次郎「若しデモクラシーの真理なるものがリンカーンのいう如く、人民の為めに人民の行う人民の政治なりと解するならば、共和主義を意味することとなりて、之を其儘に我国に輸入することは出来ない…我々は既に之と同じ幸福を昔から享有して居るのである、何となれば民意を暢達せしむる政治ならば、建国以来我邦政治の大精神である、万機公論に決する政治ならば、既に叡明なる明治天皇が維新の始めに当り、宣らせ給いたる五条の御誓勅によりて、早くも我国に行われて居るのである」(1920年)*46
  • 山脇玄「皇室の政治は歴史あって以来万世不変のもので現代の所謂デモクラシー(民衆を基とする仁政)であること皇室と臣民と親子の関係にあることを津々浦々に至るまで民衆の胸裏に栽付さえすれば共産主義であれ無政府主義であれ社会主義の何たるを問わず決して懼れる理由はない」(1923年)*47
  • 我が国体と世界新秩序」「神国日本の使命」など著書がある藤沢親雄「共産主義のソ連や民主主義の英米などは皇国は勿論、精神全体主義の独伊よりも道義的標準に照らして国格が劣るものである。もとより皇国は…個人主義に立つデモクラシー国より遥かに精神的に深味のある国であることを銘記すべきである。」(1936年)*48
  • 日本思想研究会(1931年設立)会長*49を務めた松岡洋右「新体制の如きも…皇道精神を宣揚するとともに、吾国体に合せざる共産主義とか民主主義とか云うが如き思想を根絶することがその主たる目的の一つである」(1940年)*50
  • 日本思想研究会が出した本では白鳥敏夫が語った内容が記されている。「(新体制の)趣旨は従来の自由主義政治を清算して、天皇に帰一し奉るところの、万民輔翼政治を樹立しやうといふことにある。これが日本本来の姿であって…然るにこれが英米デモクラシー思想の影響によって、歪曲されて来たことは否めない事実である。もともと日本の政治といふものは、天皇御親政が本来の建前で、それでなければならない。」(1940年)*51
  • 憲兵要務(高等警察)教程「政治的自由主義とは…本来デモクラシーと自由と平等とを骨子として民主政治を要求する政治思想であるから、我が国の如く三千年来、炳易としてでなく、国家統治の大権が、天皇に存する国家に於ては、断じて許すことの出来ない思想である」*52

反共産主義

1917年ロシア革命1922年ソ連成立以降、「国体」に反するとして共産主義を警戒する動きが高まり1925年治安維持法が成立した。治安維持法案提出前の若槻礼次郎内務大臣説明「露国に行わるる思想中に我国体並に社会組織と根本的に牴触するものがあり」*53

反ユダヤ

日本は第一次大戦で連合国側で参戦しドイツと戦い、またロシア革命後のシベリア出兵でソビエトと戦ったが、その頃からユダヤ人が関心の対象となり始めた。
1921年3月外務省情報部員森権吉「猶太人に関する研究」では「我国に於ては従来猶太人種との交渉深からざりし為め、同人種に就ての興味は至って尠く、従て之に対する研究も等閑視せられたる様なるが、近代の経済問題より社会問題乃至国際問題を研究するには、猶太人問題を不問に付する能はざるに至れり」*54とする。北満洲特務機関「猶太研究」(1921年11月)では「対過激派政策上猶太問題研究の必要を認め、北満憲兵隊と協力して」*55調査を始めたと述べ、外務省欧米局第二課編「猶太人問題」(1922年6月)*56は在独日本大使館の依頼でベルリン大学講師が起稿したものを要訳したものである。

森の「猶太人に関する研究」には「猶太人が露国の革命を醸成し、之に参与したことは周知の事実なるが、フランス革命の原動力となりしも亦猶太人なりき」と述べさらに「イルミナティ」「フリーメーソン」「ザイオン長老の記録」に言及している。*57
北満州特務機関の資料も「マッソン結社(フリーメーソン)」に言及しフランス・ロシア革命とユダヤ人の関連を指摘し、さらに次のように主張している。
故に吾人が猶太人を排する理由は左の三点にあらざる可らず。
一 猶太人は四海同胞の大義を滅却す。
ニ 猶太人は己れの文化を人に強ゆ。
三 猶太人は秘密諜報に長じ刻下の機密を暴露す。
— 北満洲特務機関編「猶太研究」175-176頁

外務省欧米局第二課編「猶太人問題」は「猶太人は一の毒薬なり」(77頁)とする。

こうしたユダヤの陰謀・ユダヤの世界征服野望的主張が日本で広まり、右翼界でも同様であった。
  • 北海タイムス1919年10月の無名氏寄稿「猶太人は国家もなく、軍隊もなく只人民だけが世界中到る所に散在し極秘密に強固に結束して居ります、其団体を『マッソン』結社と申します…ユダヤ人が世界を掌握しようという大陰謀の計画は先ず君主独裁国を立憲君主国とする憲法制度に依ると主権者が政治の一部を臣民に与えることになる、即ち主権を弱めるのであります、更に進んで共和政体にし、民本政体にし、尚進んで無政府状態に導こうと云うのです」[89]
  • 猶太研究叢書第2巻 フリーメーソンと世界革命」(ドクトル・ウィヒテル著、1924年)[90]
  • 猶太民族の大陰謀」(酒井勝軍著、1924年)[91]
  • 赤露の理想と現実: 猶太の大陰謀」(松井構間太郎著、1924年)[92]
  • 猶太人の陰謀と排日問題」(勝井辰純著、1924年) [93]
  • 大阪時事新報1932年記事「彼等がかく全世界を掌握(?)するに至った経路こそ常に姿を現はしては消えたるところのユダヤ禍、即ち彼等独特の陰謀が潜んでゐたのである。」*58
  • 神戸又新日報1933年記事「フリー・メーソンは一つの秘密結社であって自由な正義の帯を連らねる一つの帯である、この帯は職業、党派、国籍、宗教を超越したものである、等これらを遵奉し全世界をユダヤ人によって支配せんとする」*59
右翼による反ユダヤ・ユダヤ陰謀論
  • 天皇機関説騒動で「国体無視の美濃部博士」と非難した*60若宮卯之助「猶太人の陰謀は、今や世界的の事実で、此の点に問題はない。…猶太人の侵撃は、金と宣伝とからだ。…猶太人の問題を疎略に付する者は、固より自ら知らざる乱臣賊子の一種であるが…」(1924年)*61
  • 「猶太民族も正義を六合に普及せんとするならば必ずしも悪む可きでない、寧ろ前述の神武大宣言の御主旨と結局同一点に帰着するやも知れない、然れども帝国は古来終始一貫王道坦々として進み彼は常に蛇の如く迂余曲折現世を混乱擾乱せしめ来った、其罪決して軽しとせない。…本の道は王道であり猶太のは覇道である我は正道の護持をして行きつゝあるが彼は先へ行ったら正道の護持をやろうとして今甚だしい邪を行って居るのである。」(1924年)*62
  • 「我が国民思想の悪化については、種々の原因があるけれどもその主なるものは猶太人の陰謀より来るものである」「彼等の最も恐ろしき敵となるものは、君民同治の生態、神意によって定められたる国体であって、理屈や何故にを超越した精神的極地によって建設されたる国家である。即ち我大日本帝国のそれである。今日猶太人が全力を傾注して破壊に導くべく努力しつゝあるのは西にあっては英国、東にあっては我が日本である」(1928年)*63
  • 大日本愛国社(1929年設立)の主義綱領「一、凡ての国策は皇道に基本す 六、ユダヤ民族世界的赤化悪化の思想的大宣伝を排斥撲滅す」*64
  • 日本愛国勤労組合「世界革命の何れもが猶太人が陰に陽に関係し計画せる事が知れる。…彼等の戦法である解放、改造、現状打破、革命と言ふ経路に対しては深甚な注意を払らはねばならぬ。同時に万邦無比の光機ある帝冠を奉戴する我等大和民族は絶対の確信と非常な容易を備へて予め之を警戒し防御せねばならぬ。」(1930年)*65
  • 黒正厳「忠君愛国の根本精神は政党政治の存続すればするほど頽廃せざるを得ぬ。…資本主義的組織によって生活する以上、日本資本家と雖もユダヤ人ではないが、ユダヤ的ならざるを得ぬ。資本家的組織中に生存するものを保護するにはユダヤ的売国的ならざるを得ぬ、故にこの区域の有害なる組織を打破して、新なる愛国的日本国民社会主義を国民の間にインスピレートしやうと努力するのである。」(「経済往来」1932年3月号)*66
  • 226事件で反乱幇助として事件送致(不起訴釈放)*67された瑞穂倶楽部(三六倶楽部)四王天陸軍中将「ユダヤ人といへば陰謀には付きものだが…ユダヤ人はこの戦術を具体的に実行に移すため、全世界に誇る非常に大規模な秘密結社を作ってゐる。これが有名なフリー・メーソンなるものである」(1933年)*68
  • 軍令部海軍大佐犬塚惟重「猶太対策の基調 第一に警戒監視に当る恒久的機関が必要であります。たとへ事変が終りましても、極東日本の勢力範囲内にはユダヤ民族存在し、特に支那対策上不離の関係に置かれ其の背後に英米仏国並に多数の猶太民族を有するソ連の存在する以上此の問題は永久に重視すべきものであります。尚ほ思想戦的に見れば、 人民戦線的思想と国民主義全体主義的思想とは現在では永久に闘争する運命に置かれ前者の背後には猶太民族あり後者の最も思想中心的存在である皇国とは、根本的に相容れざる存在であり従って之れが思想戦的克服を完成するは皇国国体の尊厳宣布の上にも緊要なるのみならず、又皇国の存在理由であると考へられるからであります。」(1938年)*69

愛国心の強調

  • 仏教学者井上円了「故に我人は必ず愛国の精神を養はざるべからず。…我が邦の如きは一種無類の国体を有し又我人の如きは此の国体を数千年保持し来れる一種普遍の元気を有す。此の元気は一般に日本魂と称して、我が国民の一種独立の精神たり。此の精神中には忠君、愛国の二大義を包含するを以て是れによりて外国に対し外人に接し宜しく国の名誉、権勢を減損せざらんことに注意すべし。」(1896年)*70
  • 東京帝大教授穂積八束「我が愛国心の強固なる他国の及ぶ能はざるの原由は茲に存するなり…神聖不滅にして深厚強盛なる我が愛国心は我が民族の特性に係り一に皆祖先を崇拝し血統を重ずるの千古の国体に出づ。」(1897年)*71
  • 内務省警保局「国家社会主義団体に関する調」(1932年5月)では「主なる団体のみにても其数五十に近く、小なる団体に至りては此れを列挙するの煩に堪へず、警視庁管内のみにてもその数実に百七十を超ゆるの状況にあり。右国家主義諸団体は総じて忠君愛国を基本綱領とし、国体擁護、国粋保存、赤化防止を唱へ」とある。*1
  • 島村一「高等警察概要」大阪府警察練習所(1944年)では「右翼運動に於ては皇道を振翳し勤皇愛国を口にするのを一般とする」(67頁)

日本の優位性・独自性主張

  • 仏教学者上円了「太古我が邦未だ開けざるに当たり…天祖天照大神皇孫瓊々杵尊に命じて此の国の主となさしめ以て万世無窮の宝祚を定め給ひしより…爾来歴代の天皇一系相承け以て今日に至る。我が億兆の人民大抵皆神孫皇族の末裔若しくは皇室より分かれたる功臣の末孫にして祖先以来皇室を輔翼し…斯々に皇室ありて後、人民あり。人民ありて後、皇室あるにあらざる所以を知るべし。他邦は則ち然らず。先づ人民ありて後人民中の強者立ちて酋長となり進みて君主となり以て一国をなす。其の国体の相殊なること本より同日の論にあらず。是れ我が国に一種特殊の国体を現じたる所以なり。」(1896年)*72
  • 東京帝大教授穂積八束「我が民族は此の天賦神聖なる団結の要素を兼具し之を保守したるの久しきに因りて愈其の鞏固を加へたり。是れ万国の欽慕する所にして世界に対して誇称するに足る。今若一時の風潮に襲はれ千古の特性を廃頽するが如きあらば日本民族の社会的組織を紊乱するの悔あらん。」(1897年)*73
  • 海軍中将上泉徳弥「独逸には汎独逸主義あり、英国には大英帝国主義あり…而して此等欧米列強の主義は表面有らゆる美名を装うて居るけれども、各々侵略的野心を含み…独り我が大日本主義のみは然らず、天照大御神の大御心にして全く全世界の親類をいつくしみ給ふ有難き尊き主義であって、決して侵略主義では無い。」(1918年)*74
  • 神戸連隊区司令部「我が大日本帝国の国体は、金甌無欠であって未だ曽て世界何れの国にも見ることの出来ない国体である。其の特徴の重なるものを挙ぐれば、一、皇統連綿として万世一系の天皇を奉し、国体永久不変なること。ニ、国家の創造宏遠なること。世界の旧国と称せらるる埃及、印度、支那の如きは其の建国古しといふに誤なきも興亡、革命相亜いて古の国家の継承でない。然るに我が国は、神武天皇ご即位の紀元元年以後に於てすら実に二千五百九十年を経て居る。若し夫れ其の太古、神代をたづぬれば、天地創造の時に初まり、その幾年なるかを知り得ない古い歴史を存して居る。三、開闢以来未だ曽て他国の侮を受けぬ。…四、君国一体なること。五、君民一家なること…」(1930年)*75
  • 外交官石井菊次郎「言ふまでもなく、我が国体は世界独特である。万世一系の皇帝を頂く国は我国を措いて世界何れに在るか。皇帝先づ広く会議を起し万機公論に決するの国是を建てられて民智の啓発を促がされ、皇帝親ら憲法を欽定せられ人民に参政せしめたる国は日本以外何れに在るか。日本臣民は此の世界独特の国体を以て金甌無欠と為し、身命を掛けて之を擁護するものである。」(1930年)*76
  • 文部省「国体の本義」(1937年)「かくて天皇は、皇祖皇宗の御心のまにまに我が国を統治し給ふ現御神であらせられる。…天皇は、外国の君主と異なり、国家統治の必要上立てられた主権者でもなく、智力、徳望をもととして臣民より選び定められた君主でもあらせられぬ。天皇は天照大神の御子孫であり、皇祖皇宗の神裔であらせられる。」*77
  • 文部省編著「八紘一宇の精神: 日本精神の発揚」(1937年)「抑々我が国は他の外国とその根基・成立・精神・歴史等を本質的に異にして居る。それは、強者が多数の弱者を征服して自ら禁酒となって打建てた権力国家でもなく、或は又多数の民衆が自己の利益の為に相互に契約し、一人の代表者にその統治権を委任して成立せる約制国家でもない。我が国はかゝる人意の国にあらずして、神命に基き自然の理法に随って生成せられた国であって、彼の北畠親房が『大日本は神国なり」と述べし如く神の国である。」*78

海外進出の使命感・正当化

  • 西沢之介「第四章 露国膺懲は帝国の任務 昔は、祖宗肇国の初、皇道を天下に宣布して六合を兼ね八紘を掩ふの詔あり。是実に我が大日本の天職にして、幾萬斯年に亘りて易ふべからざる国是なり。世界の平和は、我国が此の天職を行ふによりて維持せられ、東洋諸国亦我国の威力によりて治安を保つことを得べし。…露国の行ふ所は独列国の均勢を破り、又東洋の平和を乱すのみならず、直に我国の存立を危うし…是我国が慨然として干戈を執りて起たざる能はざる所以なり。」(1905年)*79
  • 井上哲次郎「抑も我国は、皇祖建国の当初より、万世一系の天皇億兆に君臨して…此の万邦無比の国体と、終始一貫せる国史の成績とは、我が国民性の中郵義烈なることを証し、優美敦厚なることを明らかにす。」「我が国は東亜第一の強国として群小を率ゐて遠く欧米の列強と対峙し東亜民族の為に自由と幸福とを確保せざるべからず。是れ帝国使命の第二なり。…我等は更に進んでは、東西両岸の融合統一者たる使命を自覚せざる可からず。…我が現代の文明は既に東西両洋の粋を融合調和して成れるものにして、今後は益々此の形勢を促進して、世界的文明の建設者たるは、実に我が国民の光栄なる使命と謂はざるべからず。」(1917年)*80
  • 海軍中将上泉徳弥「我が建国の大理想、即ち天照大御神の御精神より考察したならば、我々大和民族は自ら進んでい人種間の融和親交を図り、相互に蟠れる誤解と偏見とを撤去して、世界をして真の楽園たり理想郷たらしめねばならぬ大使命を有して居る。是れ予が幾度か道義的世界統一を論ずる所以である。」我が人口処分問題は頗る痛切に促迫して居るのであるが…我が過剰人口を先づ西比利亜若くは中央亜細亜の未開の地に移すを以て最も賢明なる方法と思惟せざるを得ない。何となれば此等の地域は亜細亜未開の土人の居住する所であって、亜細亜に国する我が国人が亜細亜を指導開発し、古代に燦爛たる光輝を放ちし其の文明を回復することは当先の使命であらねばならぬ。」(1918年)*81
  • 宗教家田中巴之助「『日本国体』の政治能力は、単に大八洲の範囲に止まるべきものでない、天統の『王道』は全世界に光被すべきこと、天の日の六合を照らすが如きものである、而してその政治は武力の謂でない、外交政略の謂でない、忠孝の活躍であらねばならぬ。」「世界一同の倶に崇敬渇仰する的がなくてはならぬ」「片々たる政略や武力で、世界を統一するなどいふことは、『日本国体』の統一観から見て、夢の如く児戯の如きものである、神武天皇の世界統一の宣言は、その素を『養正』の大義から発し、その基調を『八紘一宇』の大人類平等感に置いて、然る上に性然たる政治的統一を行ひ、祭政一致忠孝実施の強大勢力を地上に建設しようといふのである。」(1922年)*82
  • 文部省編著「八紘一宇の精神: 日本精神の発揚」(1937年)「流転の世界に不易の道を知らしめ、漂へる国家・民族に不動の依拠を与へて、国家・民族を基体とする一大家族世界を肇造する使命と実力を有するのは、世界広しと雖も我が日本を措いては他に絶対にないのである。茲に我が国体の尊厳と我が国家の不滅との深き根拠がある。されば我が国体と国家とに対する自覚と体認とは、我々国民が現在直面せる支那事変の時艱を克服し、天壌無窮の宏謨を翼賛し奉り、以て世界救済の歴史的使命を果す最深最大の原動力である。」*83

変化・深化・尖鋭化

文部省学生部「日本改造運動(上)」(1934年)では、右翼運動の転機は「昭和五年(※1930年)のロンドン軍縮会議の頃」*84であり、現状維持型の国粋運動から「一君万民、君民一家の理想による国家改造」に変化したとする。

反資本主義・反自由主義経済・私有財産制限志向

例えば国粋会や赤尾敏の建国会は1927年野田醤油労働争議などで会社側について労働者と対峙した*85*86*87が、昭和に入ると右翼が態度を変え、資本主義・財閥を問題視・敵視するようになった。日本警察社編「思想警察通論」(1940年)ではこれが従来型右翼との大きな違いだと述べている。*88
内務省警保局保安課「国家社会主義運動の理論」(1932年)*89でも、津久井龍雄「日本的社会主義の提唱」を引用して「所謂従来の右傾反動派は決して資本主義に対する態度を明確にせず―明確にしてゐれば資本主義擁護的にだ―意識的無意識的に資本の前衛たる役目を果してゐる(中略)此に対して国家社会主義は明白に資本主義打倒の立場に立つ」とする。
奈良県警察部「非常時と思想対策」(1934年)でも「彼等(右翼)はマルクスの剰余価値説を信じてゐると思はれる程資本主義を罪悪視し資本家は労働者を搾取するといふが…」と述べる。*90

右翼界におけるこうした変化の早い例が北一輝「日本改造法案大綱」(1923年)で、北は「私人生産業限度を超過せる生産業の国有」を主張し」現時の大資本を批判した。右翼側から資本主義・財閥を排撃する動きは1930年昭和恐慌後に急増し、その改善策として統制経済(反自由主義経済)や私有財産制限が主張された。
  • 神武会(1932年2月設立*91)主義綱領「一君万民の国風に基き私利を主として民福を従とする資本主義の搾取を排除し全民の生活を定安せしむべき皇国的経済組織の実現を期す」*92
  • 国民中堅同盟(1932年5月設立)主義綱領「ニ、本同盟は国民運動に依り一君万民政治の徹底を期す。三、本同盟は生産消費の無統制なる現状を改め計画経済の実現を期す」*93
  • 5・15事件(1932年5月)有罪の橘孝三郎「日本愛国革新本義」(事件と同月出版)「第二章 国内の実情…大都市の異状なる膨張と、それに逆比せる農村の最も惨憺たる荒廃と同時に『大都市に巣食ふ特権者及び財閥の連合支配力』の強大化確立の下に見出さるる一般大衆就中農民大衆の瀕死的貧困化とによって…」*94
  • 新日本国民同盟(1932年5月設立)綱領「金権支配の廃絶と天皇政治の徹底、資本主義機構の打破と国家統制経済、私有財産限度の制定と国家収納、私営企業の規模限定、土地の国有…」*95
  • 錦旗会会長遠藤友四郎「皇国軍人に愬ふ」(1932年12月)「私は先づ第一に、私有財産限度を制定して、この限度を超過する超過財産をば国家に提供せしむべしとする。…個人の無制限私有は、我が国体原理そのものが断じて之を許さない。否、一切は皆これ陛下の御もの、故に絶対の無私有、これ我が国体原理である」*96
  • 東方会の中野正剛「国家改造計画綱領」(1933年)「第三、統制経済機構の確立 一、国民的生産力の組織的発展をもたらし、一般国民の福利を増進する見地に立ちて、資本主義を矯正し、強力なる統制経済機構を確立するを急務とする。説明 従来の自由放任制度の下にありては、経済活動は過大資本の私的営利に支配され、国民的福祉の如きは全く蹂躙されてしまった。乃ち現に見るが如き深大恐慌は召来され、且つその打開は絶望視されつゝある。」*97
  • 神兵隊事件に関与した鈴木善一「日本主義建設案」(1933年5月)「国民生活を悪化せしむるものに財閥あり官僚あり政党あり更に特権階級あり」「一部の少数財閥が大多数国民の生殺与奪の実権を握るに至ってゐる」「世襲財産の限度を定め、限度額以上に対しては累進的相続税を課すべし」「土地の私的所有の限度を定め、農家以外の農耕地所有を禁じ、処分土地は自治体の管理に移し共同耕作せしむべし」「金融の国家管理を断行し、金融資本主義の積弊を一掃すべし」*98
  • 石原莞爾「此の自由競争の結果は極く少数の極大富豪と無限に多い極貧階級との二つになって、国家は危機に瀕する。自由主義経済の滅亡もこゝに至って必然であります」(1935年)[136]
  • 外務省外交顧問白鳥敏夫「肇国の精神に還り、国体の本義を明徴にし、万民翼賛の体形を整えるということは今日何人も異論のないところであるが…世界の一大転換を余儀なくせしめたる動因は自由主義経済の行詰りであると思う…アングロサクソン流の資本主義的搾取経済が横行する限り、そうして少数の個人の手中に無限の富の蓄積を許す限り、この地球はこれを五倍にしても十倍にしてもまだ小さ過ぎるのである」(1940年)*99
  • 三輪寿壮大日本産報企画局長「自由主義的経済思想の労働観は物質的欲望を追求する人間の労働であり、即ち自己の欲望を満すため必要な貨幣価値を得んがための、即ち賃金を得んがための労働であるとされた。…こうした労働観は外来的なものであるばかりでなく、我が国体に照らし、我が国民性に徴して、絶対にうけ容れられないものであることはいうをまたないところである。産業報国運動は…この古き労働観を一擲し皇国民の天皇にささげまつるはたらきとしての勤労即ち皇国に対する皇国民の奉仕活動としての勤労精神を打ちたつることを第一の使命として巻起された国民運動である」(1943年)*100

反既成政党・反議会・翼賛志向

財閥批判・資本主義批判は、既成政党が財閥と癒着しているという批判にもつながった。
当時満鉄疑獄事件(1921年)陸軍機密費事件(1926年)松島遊廓疑獄(1926年)京成電車疑獄(1928年)売勲事件(1929年)朝鮮総督府疑獄(1929年)五私鉄疑獄(1929年)越後鉄道疑獄(1929年)と疑獄事件が続いたことも政党不信を招いたし、さらに1930年ロンドン海軍軍縮会議とそれに付随して起きた統帥権干犯問題以降、軍事・外交面での反既成政党言動も急増した。
  • 大日本生産党の総選挙に対する声明及政策(1932年1月)「曩に民政党内閣滔天の積悪によって潰え新たに犬養内閣の出現を見たがその本質の言然たる金融大財閥の走狗たる点に於て前者と何等の相違あるなく『政変』はただ三菱内閣に代る三井内閣の出現を物語ったに過ぎない。」「政策 政治 一、国体観念の欠如せる政治家の根絶 ニ、金融過当専制政治打破 三、金融財閥の寄生虫、政民両党排撃 四、国賊共産党、全協、亜流共産主義…撃滅」*101
  • 血盟団事件(1932年2-3月)の動機「支配階級たる政党財閥並に特権階級は相結託し、私利私慾に没頭し国政を紊りために事毎に国家を誤り、外に於ては外交に失敗し内に於ては国家存立の本をなす農村の疲弊をすてて省りみず…非合法手段の直接行動により一挙革新の烽火を挙げるの外なしと思惟し」*102
  • 林癸未夫(皇道会顧問・日本国家社会主義学盟幹事長など)「軍部で、参謀本部、陸軍省、関東軍などで、満州新国家の経営を、どうしたらよいかと云ふことは、よほど熱心に研究になって居る様に聞いて居るのですが、それにつきまして、根本方針は、どうしても内閣の閣議で決定されるのですから、陸軍大臣が、いかに頑張っても、今日の政治組織のもとに、果して軍部の主張が貫徹するかどうか、疑問です。何しろ、今の政党政治と云ふものは、××××の利益以外にはあり得ない様になって居り、××する様なことを政府が決定するのです。…金融財閥をバックにして成立し、総選挙と云ったって、××××から金をウンと寄付させて」(雑誌「ファッシズム」1932年4月号座談会)*103
  • 5・15事件(1932年5月)実行犯三上卓海軍中尉の主張を報じた記事「六十四議会における労働組合法案の運命を引例し資本家の圧迫により法案が骨抜にされたこと…など暴露し、更に政友会の三井民政党の三菱等の腐敗政党の地方自治破壊内閣更迭毎に繰返される地方長官更迭等幾多の事例を挙げて政党の罪悪を数え疑獄事件の続発をなげき『西園寺は維新の元勳であるが政民両党の二大政党の間にあってキャスチングボートを握り政党財閥の原因をなしている…ロンドン条約に対する不都合はもとより、彼は国賊以外の何物でもない』」*104
  • 明倫会声明書(1932年7月)「既成政党は眼中政党あって国家なく徒らに政権争奪に没頭して…閣員にして私利私慾を充さんがため政商と結託し収賄行為を為して恥じざる者あり」「歴代内閣の因襲たる軟弱退嬰外交は、大勢順応国際協調主義の外何等の主義主張もなく…倫敦会議に於て屈辱的海軍協定甘受の結果拭うべからざる国防上の一大欠陥となり、延いては統帥権の干犯問題を惹起し、将又今回の満洲事変に際しては政府当局の錯誤に依り、図らずも国際連盟及米国の不当干渉を招来し」*105

また同時に、議会制そのものを否定しないまでも議会中心主義を否定する主張、また翼賛・統制・独裁志向も見られた。
  • 鈴木喜三郎内務大臣の1928年第1回普通選挙直前に声明。民政党綱領「国民の総意を帝国議会に反映し、天皇統治の下議会中心政治を徹底せしむべし」を「皇室中心主義」の立場から批判*106し、議会中心主義は英米流で日本の国体と合わない[145]、神聖な帝国憲法蹂躙だなどと主張。*107
  • 内務省警保局作成の臨時議会資料「国家社会主義に関する調」(1932年)では「国粋会、黒竜会、建国会、大日本正義団、行地社、赤化防止団」など挙げた上で、「右国家主義諸団体は総じて忠君愛国を基本綱領とし、国体確立、国粋保存、赤化防止を唱へ…然るに昨春軍縮に関する倫敦条約締結にあたり所謂統帥権干犯問題に就き国論沸騰し…国家社会主義団体中には所謂議会中心主義に反対するの意見台頭せり。」*108
  • 行地社の山田武吉「今日の我が議会政治には種々の欠陥、病弊、患害等があって…政党の腐敗、議員の劣化、選挙の不公平等…衆議院議員選挙は金力競争であり、立候補宣言や演説はいゝ加減なもので真摯ならず、選挙運動者や選挙ブローカーの為めに選挙界は歳毎に悪化し…今の如き議会政治を是認することは能きない。」(1931年9月「月刊日本」78号)*109
  • 神武会(1931年12月設立*110)綱領「天皇親政の本義に則り党利を主とし国策を従とする政党政治の陋習を打破し、億兆心を一にして天業を四海に恢弘すべき皇国的政治組織の実現を期す」*111
  • 黒正厳「ディクタトゥール(※独裁官)こそは資本主義経済の行詰りを打開し、之に伴ふ議会政治の弊害を除去する上にて唯一の有力なる政治形態である。…忠君愛国の根本精神は政党政治の存続すればするほど頽廃せざるを得ぬ。」(「経済往来」1932年3月号)*112
  • 神兵隊事件の鈴木善一「政党的分裂を排し政治機関の簡易化を断行し…議会は大政に対する協賛の任務を尽すを以て本分とす、議会中心主義の如く数を以て争ふ政事機関たるを許さず」(1933年5月)*113
  • 東方会の中野正剛「国民内閣の要求は必ずしも議会政治の否定ではない。併し議会は時局の重大なるに鑑み、政府に対し必要なる一定の独裁的権限を委任することが必要である。かゝる権限の委譲に就てはイタリー及びドイツ等の極端な先例は言はずとするも、現に民主国米国に於てさへ…」(1933年10月)*114
  • 赤尾敏が理事長の建国会の主義綱領「ニ、天皇政治を確立して議会中心主義を打倒す 三、日本国体に背反する一切の既成政党及赤色無産政党を撲滅す」*115
  • 明倫会副会長奥平俊蔵中将「我々は敢て議会政治そのものを否定するものではない、只我々が否定するのは政党が内閣を作ることである、何故ならば政党内閣の下では決して日本本来の憲法は活用されるものではない。天皇政治だけが真実の日本憲法の擁護者なのである、只我々が極力排撃するのは政党の代弁者たる大学教授連が唱へる外国流の憲法論である。」(1932年)*116
極端な例
  • 錦旗会会長遠藤友四郎「新たに燃ゆる尊皇心」(1928年)「今の帝国憲法そのもの、議会制度そのものが既に、その根本精神に於いて我が神ながら日本の国体原理に背くものである」*117

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