生活の苦しさ

  • 1944年11月1日、大日本青少年団が各地でどんぐりの採集を開始。1945年7月には農商務省がどんぐり採集目標500万石を掲げた。*1
  • 終戦直前1945年6月には、一日のカロリー摂取量が大都市部で1400kcal、地方都市で1200〜1300kcalに落ちていたという。*2

子を兵隊に出す親の思い

  • 昭和九年九月、海軍の志願兵募集と国鉄の募集が同時にあった。…思った通り母が猛反対…「役場の兵事係の○○さんの所へ行って断わって来るから行くなと」半泣顔で猛反対される。…父は「いつまでも家にいる子でない。男の子は一度は軍隊へ行った方がよい。ちょっと早いか遅いかだから行け行け」と言う。*3
  • 私は農業の中心的働き手であり、応召は家族にとり痛手でした。父は以前から覚悟していたようでしたが、母はショックで一週間ほど寝込み町医者にもかかったとのことです。*4
  • 帰宅して母親に「少年航空兵を志願させて欲しい」と話をしたら、女手一つで六人の子供を育てた気丈な母に「何で志願までして死にに行くのか」と涙を流しながら叱られた。*5
  • 農地は一町三反で米作専門でした。昭和十七年十九歳で海軍志願したのですが、一人息子が軍人になるのには親父は猛反対でした*6
  • いよいよ徴兵検査の日が来ました。…帰宅後、父に甲種合格だったと報告しました。父は「そうか甲種か、一度は行くのも良いだろう」と申していました。母は傍らで肩を落として「○○も兵隊に取られたか」と淋しそうに眩いていました。*7
  • 昭和十七(一九四二)年七月十五日、○○町学校において徴兵検査が実施され…私は甲種合格になりまして「叔母さん、甲種だ」と報告しましたら、叔母はションボリして「致し方がないな」と一言呟いていました。あの時の印象が六十余年過ぎた今も心に写し出されます。*8
  • 軍隊志願のことを父親に話したら、「それは駄目だ」と反対されました。父親の承諾がなければ志願できない。しかし、私は決心ができておりましたので、父親いない日に印鑑を持ち出し、村役場に行き現役志願の届を出しました。*9
  • 私は昭和十七年七月十六日、十八歳の時、現役志願で滋賀県八日市の第八航空教育隊に入隊した。…しかし「志願をしてくる馬鹿もある」の歌の文句のとおり、入隊の汽車の中で「この中に、わざわざ志願をして来た人もいる」とのひそひそ話もかなり耳にし、多少は肩身のせまい思いをしたのも事実であった。*10(※当時軍隊で流行った歌に「人の嫌がる軍隊に 志願で出てくる馬鹿もある」という歌詞がある)

戦闘に巻き込まれた一般人

スパイ扱い・邪魔者扱いされた沖縄住民

1944年に沖縄・与那原の球第四一五二部隊重砲隊に入隊した兵士は、老人が家族を探す中でスパイ扱いされ殺されたこと、軍の自動車が逃げる住民を轢きながら通行したこと、日本兵が新生児と親を家から追い出したことを回想する。*11

テニアン島玉砕時

「住民の人は、最後は気の毒だった。『銃を譲ってくれ』と言われても弾丸が無い。自決するより『誰か自分を殺してくれ』と頼んでいた。『子供より先に自分を殺してくれ』と言う人も多かった。…テニアンの玉砕について、生き残った私は今になって思うことだが、サイパンの司令官は、とても太刀打ちできぬと思ったら、米軍の司令官に申し込んで、『自分はどうなってもいいから、この部隊と住民の生命を保証してくれ』と要求できなかったのかたと思う。」*12

現地に残った・残された日本人・日系人

日本兵・日本人と現地女性の子供
○海野三朗 私が一昨年ビルマに参りまして、向うのミョウマ・スクールの校長に会っていろいろ話を聞いたんですが、日本の軍人の落し種が約三万人ビルマにおるんです。
○政府委員(中川融君)日本軍が戦争中に滞在しておりました各国におきまして、いわゆる落し種と申しますか、現地人との間に混血児が相当におるいうことは想像にかたくないのでありまして、御指摘のビルマの例も三万人という数が果して正確であるかどうか、これはわかりませんが、相当の数の混血児がおるのではないかと思います。カンボジア等におきましても、混血児がおることは現地調査に行った人が現に見てきておるのであります。インドネシアにおきましてもこれは相当数の混血児がおる、フィリピンまたしかりであります。これらの混血児の現在の待遇と申しますか、あるいは環境はどうかということになりますと、父親はほとんど皆あるいは戦死、あるいは内地に帰って来ておるということで、母親だけで育てられている。あるいは母親もいなくてみなしごになっているというケースが相当あるのでありまして、いかにも気の毒な状況であります。

○菊池委員 たとえばヤツプの離れ島、パラオの離れ島というようなところにはたくさんの同胞があるはずです。そして日本人の残した混血児が大分あるわけですが、

○吉野説明員(吉野文六) 東南アジアの文化友好協会は、なるほど設立以来日も浅い協会ではありますが、従来相当実績がありまして…戦争混血児の日本留学生優先受け入れの寄宿舎建設運動として、今度約二億円目標の運動を起こしており、

○千葉景子 諸外国の人々との信頼関係は、単にアジアだけではありません。例えば、日本占領下のインドネシアで日本兵とオランダ国籍の現地女性との間に生まれた推定八百人もの混血児が今オランダで生活しています。○国務大臣(宮澤喜一総理大臣) オランダ国籍のインドネシア女性と日本兵の子供たちの父親捜しというお話がございまして、オランダ政府からの要請がございまして、従来から誠意を持って対応してまいったところでございますけれども
戦前からのフィリピン移民
  • NHK報道より「フィリピンには太平洋戦争前、およそ3万人の日本人が移り住み、戦後の混乱で日本人の父親とフィリピン人の母親を持つ子どもたちなどが数多く取り残されました」*13
  • 1997年4月18日衆議院法務委員会で坂上富男議員「フィリピン残留の二世・三世たちは、戦争中の日本軍のフィリピン人に対する数々の残虐行為に対する報復を逃れるため、あるいは、フィリピン社会における日系人に対する迫害や差別の中で生き抜くためフィリピン名を名のるなどしてフィリピン人を装い、日本人であることを徹底的に隠して生き延びた。

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