右翼思想

松岡が会長を務めた日本思想研究会(1931年設立)は外務省文書中の「右翼団体要覧」のリストに載っている*1

天皇がいる日本は特別な国だと主張

  • 「日本の国体の有難さは味はへば味ふ程底を知らないのである。そしてそれは万世一系の天皇の国と謂ふ平凡な事実に帰するのである。」「独りヒットラー総統と謂はず、伊太利のムッソリーニ首相、或は蘇連のスターリン、又は重慶に敗残の余勢を保つ蒋介石すらもが、夫々に傑れた国民の指導者であることを私は認める。…それにしても彼等は終に一代の英雄たるに止まるのである。…日本の天皇が皇統連綿として歴代惟神の御皇徳を継承し給ひ、臣民に対して世々御仁慈を垂れ給ふとは天地霄壌の差があるのである。…噫皇室の恩愛斯くの如く深く且長くして君臣の別亦自ら正しき国が世界の何処にあるであらうか。」(「興亜の大業」1941年)*2

明治天皇に毎朝お礼を言えと主張

  • 「先祖が皆非常なる御苦労をして、皆で国をこゝまで持って来られた、その原因は何処にあるかと言ったら、第一が、今申したやうに明治天皇様にある。…何はさてをいても先づ明治天皇様に一言で宜いから、一秒でよいから頭を下げてお礼をお言ひなさい。…犬でも恩を知って尾を振るぢゃないか。それを人間でありながら、明治天皇様に毎朝第一に一言だけで宜いから頭を下げてお礼の云へぬ子供なら、犬にも劣るのである。」(「少年に語る」1936年)*3

反政党政治・反議会中心主義

  • 「日本では議会中心と云ふ事はあり得ないと思ふ。日本では、天皇が政治の中心であります。…日本の政治に当る人は天子様の御前に跪づき恐懼して政治を執らなければならないのに」(1934年講演)*4
  • 「本来、西洋流の政党政治は、我が国情及び国民性に適合せざるものであって…一国一体の形に於てこそ、我が国独特の立憲政治が行はれるのであると信ずる。」(「青年よ起て: 世界変局と大和民族の使命」1933年)*5

天皇機関説反対

  • 「天皇機関説と云ふ如き、我が国三千年来の史的事実と伝統観念と絶対に相容れず、実に皇国の基礎を破壊するところの外来の思想乃至主張を…」(「昭和維新: 道義日本確立の急務」1938年)*6

八紘一宇・皇道宣布に意欲

  • 「興亜の大業とは何か?之を一言にしていへば、神武天皇の八紘一宇の御詔勅の実現に尽きると言ふことが出来る。…亜細亜より全世界へと皇道仁愛の道を宣布し、人類救済の意を完うすることこそ、正に興亜の大業の理想でなければならぬ。…私は満州事変以来常に言続けて来て居るのであるが、日本国民は一人残らず伊勢大神宮の御神鏡に自分の姿を映して随神の清明心を磨き上げねばならぬのである。…他民族も挙って皇道に随喜するの日が必ず来るに違ひないのである。」「日本としては、先づ以て唯皇国日本に於てのみ其の実現の可能なる真の全体主義、即ち暴力や強制によらざる万民が心の底から喜悦し悦服して天皇に帰一し奉る」といふ、世界に一あって二なき全体主義の実現たる国内体制を一日も速に整へ…」(「興亜の大業」1940年)*7

世界を救うのが日本の使命と主張

  • 「日本民族本来の使命とは何ぞ?それは中外に施して悖らず、古今に通じて謬らざる皇道精神を以て、世界人類の悩みを救ふことでなければならぬ。」(「青年よ起て: 世界変局と大和民族の使命」1933年)*8
  • 「青年諸君、諸君が大陸に志すのも、其の究極の目的は、繰返して説いたやうに、神武天皇以来歴代天皇の大御心を奉じて、普く世界人類の上に皇道を光被せしむるにある。其の手初めとして、先づ満洲国の完成を援け、新しき中華民国の隆興を助長し、更に全亜細亜民族を解放すると謂ふ、我が大和民族の使命達成に貢献せんが為であるに相違ないのである。」(「興亜の大業」1941年)*9

物質文明、資本主義、個人主義への嫌悪

  • 「私は、世界の誤まれる物質文明を是正して、人類を救ひうるものは、窮極において、日本民族より外にないといふことを確信するものである。」(「青年よ起て: 世界変局と大和民族の使命」1933年)*10
  • 「個人主義は人間を利己に走らせ、資本主義は人間を利潤の一念に堕せしめた。今の世界の行詰りの主なる原因はこゝにある。」(「青年よ起て: 世界変局と大和民族の使命」1933年)*11
  • 「物質対精神の太平洋戦 結局精神が勝利すと松岡洋右氏云ふ」(米国の邦字新聞「ユタ日報」1944年10月23日)*12

中国への嫌悪・侮蔑

  • 「支那は一語にして云へば、厄介な隣人であります。…私共は迷惑至極だから出来ることなら日本の国を何処か他へ持って行き度いが…」「今日まで支那が曲りなりにも保全されてゐるのは、誰のお蔭であるか。若し今日の日本が無かったならば、支那はどうなってゐたかを考へるがよい。恐らく疾くの昔に分割されてしまってゐたであらう。(「青年よ起て: 世界変局と大和民族の使命」1933年)*13
  • 「従来帝国は支那共和国と呼んで居ったのであります、それを最近には態々誰の講義〔ママ〕か、誰に頼まれたのか私は知りませぬが、態々中華民国と是からは改称する、此の呼称の如きは何れでも宜いやうなものではありますけれども、支那なり、支那共和国と云ふことは日本語であります…日本語を捨てゝ中華民国と呼びませうと云ふ、其態度、其心懸けが、是が幣原外交なるものを能く説明して居る…」(衆議院本会議1931年1月24日

ファシズム賞賛、ナチスドイツ礼賛

  • 「ソヴエーチズム(※ソ連の共産主義)とムッソリーニズムとは、その根本の社会的、政治的哲理に於て相容れないに拘らず、その実行する所は或る点迄似てゐるが、特に違った点はムッソリーニ氏は常識の人であるといふことである。といふのは氏は人間の欲望イニシエーチヴを傷つけず、出来るだけ之を伸ばし、唯その弊を矯める為めに国家至上主義の旗を掲げてゐる。…殊に今日の伊国青年は、ローマ帝国の偉大な昔を夢みつゝ国家至上主義をかざして祖国愛に燃えてゐる。」「私はムッソリーニ氏と会見中、この人は仏者の謂はゆる我れ無き。即ち無我の人である…と直観した。私の五十余年の生涯中、日本の政治家で、こんな大きい風格を感じさせた人は一人もない。…この熱烈な青年首相の指導によって、今やイタリヤの国を挙げて、国家に対して義務あること、他人に対して義務あることを知って、権利の主張をしない、『犠牲と奉公』のファッシスト青年が勇躍してゐるのである。世界の青年国は、イタリヤについでヒトラーのドイツである。これ亦大いに国家の運命をドイツ青年に期待しつゝ更生ドイツへと急いでゐる。…ドイツのヒトラーは今千両役者の役割をつとめてゐるのだ。『ドイツ人のドイツをつくれ』といふ、彼れの愛国的精神が、ドイツ青年のドイツ魂と結びついてゐる。(「青年よ起て: 世界変局と大和民族の使命」1933年)*14
  • 「イタリーといふ国は、殆ど滅亡の端を彷徨って居たのである此時に当ってムッソリーニが立った。…黒シャツ党を組織して、命のやり取りまでして、到頭一先づイタリーを混乱の中から救ったのである。…個人はその国家又は社会の利益の為に結局存在して居るのである…といふ、アングロサクソン流の個人主義と全く相反した哲理の上に立って、イタリーを混乱の中から救ったのである。」(1933年12月講演)*15
  • 松岡が満鉄総裁だった1936年12月の講演「日・独防共協定の意義と我が外交の回顧」*16では日独防共協定を評価して「コミンテルンに対し協同して立ち向はふといふて…斯る問題につき、自らの良心に問うて、人類の福祉を顧念して、男らしくすっきり立上り得るものは、東に大和民族、西にチュウトン民族あるのみであります」[29]とドイツを絶賛している*17
  • また翌1937年7月24日の講演「日・満・独親善とその強化」*18でも「今日の世界を見渡して、日本の立場を理解して呉れ、さうしてやゝ利害を同じくして居る国は先づドイツを除いてはない。(65頁)」「日本民族とドイツ民族は精神的に一脈の相通ずるものがあり(92頁)」*19とやはりドイツを絶賛している。
  • 松岡が親独・反英米であり、日独伊の同盟を目標としていることは、外相就任当時の新聞でも報じられていた*20*21

吉田松陰好き

  • 「吉田松蔭先生は講孟余禄の中に於て…と訓へて居られる。…先生の烈々たる皇国臣民道の信念が、言句を衝いて迸り出る状が、眼に見る様である。」(「興亜の大業」1941年)*22
吉田松蔭先生も云はれた。「備とは艦と砲との謂ならず。我が敷島の大和魂」これが御維新をやったのだ。明治の日本を産出したのだ。(「青年よ起て: 世界変局と大和民族の使命」1933年)*23
  • 「政友脱党、代議士辞職を決行の日、八日の松岡氏は…自らは早朝明治神宮および松陰神社に参拝して自己の決意を報告し、その足で麹町の邸に鈴木総裁を訪ねて脱党するのやむなきに至った心境を述べてその諒解を得た後、声明書を発表したが、」(大阪毎日新聞1933年12月9日
  • 「明治以来の教育は…欧米の模倣教育が主であった結果、人間を造ることが出来なかった。…今日まであれだけの金を使って施設をして来ながら、例へば政界に於ても、何処に赤門から出た人間に偉人と謂はれる人があるか。…吉田松陰先生が僅に松下塾で二年余り而も漢書を繙いて、卓を叩いて講義をなさっただけであれだけの偉人が出たぢゃないか。」(「昭和維新: 道義日本確立の急務」1938年)*24
  • 「(山口県の長門尊攘堂を見学して)中でも最も私を動かしたのは、吉田松陰先生の左のお手紙である。…これだ!!!これが吉田松陰先生の信念の基礎をなしてをるものである。そして之がまた、私共の信念の基礎でなければならないのである。」(「昭和維新: 道義日本確立の急務」1938年)*25

12歳で「毛唐どもを叩き出す」と決心

  • 「或る日に、私の先生…此の先生が『治外法権』といふことに就て話をされた…其の時私は十二歳でありましたが、子供心に、兎も角、治外法権と云ふものは言語同断なものである、欧米人が我国に来て、我々日本人の頭を土足に掛けて踏み付けて居るのであるーとかういふことだけが判った。…此の毛唐ども!怪しからぬ奴だ。俺が大きくなったら追っ払ってやらう、叩き出してやらうと決心しました。十二歳の時に田舎の小学校の廊下で遊ぶ時間に、青年の先生の話、之に動かされて決心をしたのである。この時の私の決心が今日迄、私の一生を貫いて、私を動かして居るのであります。」(「少年に語る」1936年)*26

インテリ嫌悪(ただし本人もオレゴン大学卒業で外交官試験合格)

  • 「満洲事変勃発以来日本のインテリ連中が満洲へやって来て満洲を見て行くが、往々にして大変な間違った考えをもって日本に帰って行く…日本のインテリの連中なんかは兵隊にただ鉄砲を持たして追い廻してばかりいたって匪賊はまだまだ減りはしないなどと云うのは全く大変な間違いであって」(満州日日新聞1936年10月)[92]
  • 「満州事変から、事変直後三、四年間の超スピードの開拓事業はインスピレーションであり、神がゝりで行かなければ、あれ丈けの大事業はやれる筈のものではなかったと私は信ずるのである。…然るに随分、当時日本のインテリの間には非難があったのである。一体日本の知識階級は、自分では縦の物を横にしようともしない癖に、亦出来もせぬ癖に、他人の仕た事の批判ばかりを以て能事とする度し難い習癖の所有者である。」*27

その他

自殺未遂

1945年11月の海外邦字新聞記事で自殺未遂が報じられている。*28*29

松岡の強引さ

  • 大本営陸軍部戦争指導班(第二十班)の参謀が記した「機密戦争日誌」1941年5月3日の項には「午後一時より待望の連絡懇談会開催 外相(※松岡)対米中立条約提案を先づ発言 全員不同意 外相執拗に主張し軽く打診(大使をして)せしむることに強引に押切りたるが如し」*30
  • 同日誌1941年5月8日の項「十一時より連絡懇談会開催…外相独舞台の感あり」*31
  • 同日誌1941年5月9日の項「石川海軍軍務課長松岡と会談せるが如し(十二日午後六時右情報入手)席上松岡の意見左の如し 了解案(※日米諒解案)は俺は大いにやる 但し俺の筋でなければやらぬ*32
  • 同日誌1941年5月22日の項「連絡懇談会開催 例に依って外相の独舞台 外相云ふ対米妥協は三分の公算なり シンガポール攻略すべしと 外相の云ふ事為す事常軌を逸しあるが如き感あり 海軍相手にせざる気運ありと 困ったものなり」*33
  • 同日誌1941年6月27日の項「午後一時より連絡懇談会続行 意見は逐次一致す 外相俄然即時対ソ参戦を強調す(※松岡自身が2カ月前にソ連に行きスターリンと会って日ソ中立条約を締結したばかり。また前月5月22日の項にあるようにシンガポールを攻略せよと主張したばかり) 独国との義理合の念外相に特に強し 海軍は右に絶対不同意 陸軍は其気持には同調するも即時参戦武力行使は遽かに同意せず 外相は即時武力行使を決意せよと云ふ 陸海軍案は然らず 好機来らば決意せんとするに在り」*34
  • 同日誌1941年6月28日の項「一、午後二時より連絡懇談会 独ソ開戦に伴ふ帝国国策要綱遂に正式決定す ニ、陸海軍案通り決定す 外相即時参戦を強調す 海軍右に対し何等発言せず 総長已むを得ず不同意を表明し即時参戦の決意はなすに至らず」*35

周囲の評価

大本営陸軍部戦争指導班(第二十班)の参謀が記した「機密戦争日誌」1941年3月8日の項には「松岡の『天才』か『キ印』かの性格に鑑み…」とある。*36

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