1895年 乙未事変（閔妃殺害事件）
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kannrininn 2024年03月02日(土) 16:42:35履歴
首謀者と実行犯は日本人 
小村寿太郎公使の報告
事件後急遽韓国に派遣された小村寿太郎弁理公使は、本国宛の報告で「主謀者は三浦公使」「王妃は日本人の手にて殺害し其屍を焼きたり」と明言している。
今回の事変に付ては官民共に関係者頗る多くして其事実を得ること最も難し然れども今日迄の取調に依り本官の確実と認むるもの左の通り→小村寿太郎の1895年10月17日報告全文
即此事件の主謀者は三浦公使にて大院君と同公使との間を周旋したるは岡本柳之助と察せらる而して公使館領事館職員中の関係者は杉村書記官堀口領事官補国分通訳官荻原警部及び巡査六名なり王妃は日本人の手にて殺害し其屍を焼きたり此殺害に尤も尽力したるは領事館巡査なり守備隊は全く三浦公使の命令を奉じて進退したるものと認む守備隊武官中の関係者に付ては田村中佐より陸軍大臣へ報告せらるべし（以下略）
広島地裁の判断
1896年1月の広島地裁予審終結決定書では、三浦梧楼・杉村濬・岡本柳之助が「三名謀議の上」「王后陛下を殪さんと決意したり」と認定し、また三浦・岡本が日本人壮士らに王妃「殺害」を「教唆」したと認定した。
予審終結決定書→広島地裁決定書全文
被告三浦梧楼は朝鮮国駐箚特命全権公使となり明治二十八年九月一日京城に就任せし処…同年十月三日被告杉村濬岡本柳之助と公使館に会し三名謀議の上常に宮中の為めに忌まれ自ら危む所の訓練隊と時勢を慷慨する壮士輩を利用し、暗に我京城の守備隊も之に声援せしめ以て大院君の入闕を援け其機に乗じ、宮中に在て最も権勢を擅にする王后陛下を殪さんと決意したり…時機既に切迫し一日も猶予し難きを以て被告梧楼被告濬は協議の上同夜事を挙ぐるに決し、直に電信を以て柳之助の帰京を促し…又被告安達謙蔵国友重章を公使館に招致し…王后陛下を殺害すべき旨を教唆し…被告謙蔵重章の両人は被告梧楼の教唆に応じ王后陛下を殺害せんと決意して同志者の招集に尽力し、被告平山岩彥佐々正之松村辰喜佐々木正牛島英雄小早川秀雄宮住勇喜佐藤敬太澤村雅夫片野猛雄藤勝顕廣田止善菊池謙譲吉田友吉中村楯雄難波春吉寺崎泰吉家入嘉吉田中賢道隈部米吉月成光山田烈盛佐瀬熊鉄渋谷加藤次等は大院君の入闕に付三浦公使の命に依り被告謙蔵重章が其護衛者を募る由を聞き之に同意し、其内被告岩彦外十数名は被告謙蔵重章等より王后陛下を殺害すべき被告梧楼の教唆を伝へられ各殺意を決し、其他右等の事実を知らず一時の好奇心に駆られ付和せしものに至るるまで各凶器を携へ被告重章並に被告光以下三名の外は亦被告謙蔵と共に龍山に赴きたり……而して被告柳之助は其際表門前に一同を集め入城の上狐は臨機処分すべしと号令し以て王后陛下殺害のことを教唆し未だ其事実を知らざりし被告益太郎外数名をして殺意を決せしせめ、夫れより京城に向ひ徐々前進し西大門外に於て訓練隊に出遭ひ姑く守備隊の来るを待ち同所より訓練隊を前衛とし王城に急進する途中被告重章光列盛熊鉄加藤次も相加はり…同日払暁の頃光化門より一同王城内に入り直に後宮まで抵りたる等の事実ありと雖も前記の被告人中其犯罪を実行したるものと認むべき証憑十分ならず…以上の理由を以て刑事訴訟法第百六十五条に従ひ各被告人総て免訴し…
明治二十九年一月二十日 広島地方裁判所に於て 予審判事吉岡美秀 裁判所書記田村義治
内田定槌領事の回顧
事件当時京城領事だった内田定槌は、後年外務省調査部の聞き取りに対して次のように証言している。
・事件当日の朝「血刀を提げた連中」が領事館に来たので内田が話を聞くと「昨夜王城に侵入して王妃を殺した」と答えた
・王宮に入った日本人は王妃の顔を知らなかったが、一人の女性が守られているので「それが王妃に相違ないと断定し之を殺害した」
・その後内田が公使館に行き三浦公使に「大変な騒ぎになりましたね」と言うと三浦が「いや、是で朝鮮も愈々日本のものになった。もう安心だ」と答えた
・事件後の日本では、厳重な検挙は不要という意見があり、また朝鮮当局で先に審理し朝鮮人が死刑となったから「日本の裁判所が本件を審理する必要はない」という理由で「被告人は一同無罪放免に決定した」
→内田の回顧全文
・事件当日の朝「血刀を提げた連中」が領事館に来たので内田が話を聞くと「昨夜王城に侵入して王妃を殺した」と答えた
・王宮に入った日本人は王妃の顔を知らなかったが、一人の女性が守られているので「それが王妃に相違ないと断定し之を殺害した」
・その後内田が公使館に行き三浦公使に「大変な騒ぎになりましたね」と言うと三浦が「いや、是で朝鮮も愈々日本のものになった。もう安心だ」と答えた
・事件後の日本では、厳重な検挙は不要という意見があり、また朝鮮当局で先に審理し朝鮮人が死刑となったから「日本の裁判所が本件を審理する必要はない」という理由で「被告人は一同無罪放免に決定した」
→内田の回顧全文
杉村濬京城公使館一等書記官の回顧
事件当時京城公使館勤務だった杉村は著書で「余は実に其の計画者の一人たるを免れず、否寧ろ計画者の中心たる姿なりし」(183頁)と述べている。
→杉村濬の回顧抜粋
→杉村濬の回顧抜粋
安達謙蔵の回顧
・1928年の回顧では、三浦公使は安達に「形勢いよいよ切迫した。まさに近日をもって大事をあげる覚悟である。君は同志中決死の人幾人を得らるゝか」と安達に聞いてきた
・1934年新聞記事では、「三浦さんは大いに怒って大院君を押立てると共に閔氏を抑える事になった」
・1960年の自叙伝によると、三浦は安達に「どうせ一度はキツネ狩をせねばならぬが、君の手許に若い者（当時は壮士と称していた）が、どれくらい居るか」と聞いてきた
→安達の回顧抜粋
・1934年新聞記事では、「三浦さんは大いに怒って大院君を押立てると共に閔氏を抑える事になった」
・1960年の自叙伝によると、三浦は安達に「どうせ一度はキツネ狩をせねばならぬが、君の手許に若い者（当時は壮士と称していた）が、どれくらい居るか」と聞いてきた
→安達の回顧抜粋
三浦梧楼公使の回顧
・「観樹将軍豪快録」1918年では「対韓方針につき（日本政府に）何度問うても、廟議で指図をせぬから、俺の方針でやったのさ」とする。
・1922年書籍では新聞記者に語った内容として「あゝ王妃事件か…誰が殺したかと云へば俺が遣ったと云ふより外はないサ」とある
・「観樹将軍回顧録」1925年では「我輩の腹の中では、大院君を中に置いて、大体の改革を仕ようと思って居るのである。ツマリ大院君を利用して、改革を実行しようと考へて居るのである。併し大院君は幽居同様の有様で、孔徳里に居られたのである。アレを宮中に送るには、ドウしても兵力を要する」「ソコで計画実行の日は、愈々十月八日と定めた」「イヤ大院君とは約束も何もない。…唯自分の言ひなり次第になった訳で、約束も何もない。」とする。
→三浦の回顧
・1922年書籍では新聞記者に語った内容として「あゝ王妃事件か…誰が殺したかと云へば俺が遣ったと云ふより外はないサ」とある
・「観樹将軍回顧録」1925年では「我輩の腹の中では、大院君を中に置いて、大体の改革を仕ようと思って居るのである。ツマリ大院君を利用して、改革を実行しようと考へて居るのである。併し大院君は幽居同様の有様で、孔徳里に居られたのである。アレを宮中に送るには、ドウしても兵力を要する」「ソコで計画実行の日は、愈々十月八日と定めた」「イヤ大院君とは約束も何もない。…唯自分の言ひなり次第になった訳で、約束も何もない。」とする。
→三浦の回顧
大院君に責任転嫁し、手下を身代り出頭させようとした三浦公使
月成光の手記によると、三浦梧楼公使が「大院君が計画したことで自分は関係無い。二三人が責任者として名乗り出ればよいが」と述べたので月岡、藤勝顕、藤田止善ら4人が責任者として名乗り出ると決めた（がうまくいかなかった）という。
→月成光の手記
→月成光の手記
〔資料まとめ〕
小村寿太郎の報告書（1895年10月17日付）
小村寿太郎の報告書（1895年10月17日付）http://db.history.go.kr/id/jh_007_0030_0010_0020
十月十七日 京城小村 西園寺大臣
今回の事変に付ては官民共に関係者頗る多くして其事実を得る事最も難し然れども今日迄の取調に依り本官の確実と認むるもの左の通り
即此事件の主謀者は三浦公使にて大院君と同公使との間を周旋したるは岡本柳之助と察せらる而して公使館領事館職員中の関係者は杉村書記官堀口領事官補国分通訳官荻原警部及び巡査六名なり王妃は日本人の手にて殺害し其屍を焼きたり此殺害に尤も尽力したるは領事館巡査なり守備隊は全く三浦公使の命令を奉じて進退したるものと認む守備隊武官中の関係者に付ては田村中佐より陸軍大臣へ報告せらるべし
○本館露国代理公使を訪問し此回の事件に付ては日本政府は大に驚愕せし旨を申述べたり同公使は此事変に日本政府は更に関係し居らざるものと確信する旨を明言せり同公使は王妃死生のことは未だ判然せずと云ひ居れども本官同公使の語気を察するに王妃は死せしものと確信し居るが如し又守備隊は全く大院君を擁して王宮に入りしは事実なれども同君は前より此陰謀に与し居りしや否や頗る判断に苦しむと云へり（コクレル）の言ふ所によれば京城在留一般の外国人は大院君が日本壮士を（1or2文字分空白）して王宮に入りたれど同君を守備隊が護衛したるは不審に堪へずと云ひ居る由王妃の屍を焼きたる事は米国人ダイが実見したる由にて一般外国人も亦之を知れり
本日本官弁理公使に任じ当地在勤命ぜられたる貴電拝接す依て三浦公使は一日も早く出発せらるゝ様取計ふべし同公使帰朝命ぜられたる上は官吏以外の関係者を速に退韓せしめ本邦にて処分相成る方得策と思考す如何となれば第一三浦公使召還の後ちに於て壮士等如何なる不穏の挙動に出るやの憂なきに非ず第二には若し壮士其他当時の事実を知り居るものは其事実を外国人に漏らすの恐れあり此れは目下外国公使等非常に探偵に注意し居るなり領事館員の関係者を当地に於て処分することは尤も苦む所なり然れども総ての関係者が帰朝後に於て其処分方に二つあり一は公使始め尽く処分すると一は誰れ一人も不問に措く事なり若し多少処分を要すとするときは如何なる程度迄処分を要するかを必要とするかは猶ほ篤と当地の情況を探知したる上上申すべし又退韓を命ずる事に付ては至急何分の指揮を乞ふ
杉村濬一等書記官「明治廿七八年在韓苦心録」(1932年)
「明治廿七八年在韓苦心録」(1932年) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1178703/92
第十四 朝鮮有志家の運動、大院君の憤激、警務庁巡検と訓練隊兵卒の争闘、訓練隊解散の命令、王宮再度の事変
是より先に朝鮮人の時世を歎き国家の危亡を訴ふる者漸く増加せり、皆謂ふ宮中の意は先づ訓練隊を解散して政府の爪牙を奪ひ金総理已下を殺害して閔氏執権の旧態に復せんとするに在りと。
又謂ふ宮中は既に俄使と結托し俄国が朝鮮の君権を保護する代りに咸鏡道の一港を俄国に貸すの密約を為せりと、而して之を匡済する唯一の手段としては彼等は皆大院君の入闕を希望せり、其人々を概別すれば現政府派、朴泳孝派、及大院君派にして其中李周会等は熱心に之を主張し陰に大院君と気派を通ぜし如し、李周会は朴派に近き人にして我浅山顕蔵と親交あり故に諸事同人と相談すと云へり。
已上閣臣殺害、港口貸渡の説は宮中に於て果して此陰謀ありしや又は当時宮中の挙動異常なるに驚き疑心暗鬼を生じ誰言ふとなく此等の説を立てしものか詳ならず
九月下旬李周会は三回程深夜余を訪ひ慷慨悲憤、大院君を押立つるの外救済の道なしと論じ切に余の援助を求めたり、余は大院君は反覆の人なれば不可なりと斥けたる処同氏は大院君は決して再び日本に背かず拙者は誓て背かしめずと断言せり、去れど余は同氏に対し毫も援否の意思を洩さゞりし、此頃趙重応も亦来りて同様の言を為したりき。
其前朝鮮の有志家が大院君を戴て事を挙げんとの説民間に行われたるに付余は大院君の軽挙して禍に罹からんことを掛念し、岡本氏と相談して窃に鈴木順見を孔徳里に派して之を探らしめたるに同君は国家の危亡に瀕するを慷慨し激憤自ら禁ずる能はざる様子に見受けたるも敢て立たんとする色なき旨帰報せり是は九月二十日頃の事なりき、其後度支部顧問仁尾惟茂、内閣顧問石塚英蔵氏等屡々公使館に来りて宮中暴横の為め改革事業は一敗地に塗れんとするの事情を訴へ、三浦公使の救護を求めたり、公使は之が為めに両回参内して諌止的意見を内奏したるも何等の効能なかりき、当時余は仁尾氏等に向ひ今日の形勢となりては最早口舌の能く救ふ所にあらず実に何とか決心せざるべからざる窮境に迫れりと、九月末堀口領事官補は窃に大院君を訪問し同君より公使への伝言を依頼せられたりと称し余を尋ねたるに付余は同氏を誘ふて公使の室に至り具に其伝言を聴けり、大要は国家の危亡に瀕したる現状を述べ、而して之を致したるは井上公使の罪多きに居れりとて痛く同公使を非難したる上之を救護する方法に付御相談したければ三浦公使に面会したしとの意なり、公使は其場にては諾否の返答を為さず、堀口氏退席後余に謂て曰く初め東京出発の際に早晩事変発生を予期したるも明年一二月の頃までは大丈夫ならんと思ひしなり。然るに何ぞ料らんや事目前に迫れりと、蓋堀口氏は荻原警部鮎貝某等と同志にして、洪顕哲と云ふ朝鮮人其間に立て大院君と連絡を通ぜり、洪は危激家と云わんよりは寧ろ突飛にして九月十日頃一書を公使館に投じ書中時弊を痛撃し井上公使の措置其当を失へるを陰刺し結末に及んで大院君を出さゞれば時世を救ふ能はざるを極論せり、同人は屡々院君邸に出入し遂に双方の連絡を謀りたるものと推測せり、既にして形勢益々切迫したるに付十月一二日頃余は三浦公使の室に至り時世談に及びたる処公使曰く先日堀口が齎したる大院君の伝言に対し何とか返答せざるべからず同君果して立たんとする勇気あらば助けて之を立たしめなば如何、余曰く大院君は極めて貪権家にして且反覆常なく共に事を謀るべからず。昨年既に手を焼きたり、公使曰く大院君を助けずして外に救済の道ありや、余答へて曰く無し、公使曰く今日の儘に放任せば見す見す朝鮮を俄国に攫去せらるべし、大院君の貪権反覆は後日に至り之を制する道を講ぜん目下の場合之を顧みるの暇なし、余曰く万不得止時は大院君を助くべし、然れども最初に厳重の約束を結ばざるべからずと退て左の約束案を草せり。
一、国太公大院君を指す］は大君主を輔翼して専ら宮中事務の整理に任じ一切の政務には干預すべからざる事
誓告文の趣意を遵奉し王室の事務と国政事務に判然区別を立つべし宮内府の勢力を拡充して国政事務を侵蝕するが如きは断じて為すべからず随て太公は政府官員の進退に容喙すべからざる事
二、金宏集、魚允中、金允植の三氏を首とし、其他改革派の人々を挙て要路に立て専ら政務に任じ顧問官の意見を聴き、大君主の裁可を経て政事の改革を決行し独立の基礎を鞏固にするを期すべき事
三、李載冕氏大院君の後嗣を宮内大臣に金宗漢氏を同協弁に復し宮内府の事務を担当せしむべき事
四、李�沛飴�大院君の孫を三年間日本に留学せしめ其材器を養成すべき事但し毎年夏期に帰省するは差支なし
余乃ち説て曰く第一条の如く厳に大院君の政事干渉を禁絶せば幾分か後弊を防ぐを得べきか、第二条及第三条の五名は極めて適任にして此外には内外の事を托すべき人なし、大院君も亦此五名には必ず同意ならん、第四条は暫く李�沛阿魃鵑韻鴇絏爾隆轂�心を減ぜんと欲す同氏は久く野心を包蔵し既に王妃及世子に対する不軌罪を以て処刑まで受けたり、又群臣中にも陰に同氏を恐るゝ人あり然るに同氏は大院君に鍾愛せられ其言多く納れらるゝ方なれば大院君にして一旦勢力を得ば上下共に恐怖心を興すべし、是は将来の為めに妨害少からず故に暫く之を遠けて日本に留学せしめ文明の感化に依り野心を消滅せしめんと欲するなりと、公使曰く善し堀口を派し此案を懐にして大院君に謀らしむべきや、余曰く、堀口は年少なり大院君は恐くは彼に対して本心を吐かざらん、岡本を除きては他に使すべき人なし、公使曰く然らば岡本を招て共に此事を相談すべしとて其日は終れり、余は帰寓の後直に岡本氏を招きしに差支ありて三日の夜始めて公使館に会せり、是時公使より先づ大院君が堀口に托して面会を求めたる次第を説き且つ時宜に因ては同君を助けて目下の急を救はんとの底意あれば同君の決意如何を慥め旁々内打合せの為め孔徳里迄煩したしと依頼したる処岡本氏は暫時首を傾けし後之を承諾し、尋で四ケ条の密約条件に付協議の末一二修正を加へたり、然るに当時大院君邸への出入は頗る厳重にて動もすれば、宮中派の嫌忌を招くの虞あれば岡本氏は帰国と詐り告別と詐称し同五日午前鈴木順見を伴ひ孔徳里に至れり、是日侍従院卿李載純氏は謝恩日本特派全権大使として京城を発し麻浦に至るの間相前後したるも幸に発覚せられずと云へり、夜に及んで岡本氏帰館して曰く大院君は子載冕、孫�沛阿販鷓造砲銅�分と対面し目今の形勢を歎き頗る永き談話ありたるも要するに同君入闕の決心堅く欣然として密約に同意を表し筆を執て其旨を自記したり、依之自分は時機到来せば自ら来て迎ふべきに付其れ迄静に待たれよとの辞を遺して帰れり云々、於是如何にして大院君を助くべきやに付協議したるに先づ訓練隊及朝鮮壮士輩と大院君の間に連絡を付けしめ然後我は陰に発動の機を与へて裏面より之を指揮すべしとまでは略極りたるも、其他に及ばざりし、余曰く嚮に朴泳孝等衛兵交替を謀りて決する能はず竟に宮中の為めに機先を制せられたり、今日の事も遅疑して決する能はずんば必ず彼より機先を制せられ訓練隊を解散し内閣大臣を免黜せらるゝに至らんとす、然る時は再び回復の機を得べからず依て予め挙事の期を定め其準備に取掛りたしと、是に於て相与に謀りて十月十日を期し事を挙げんとす、而して其準備の事は余自ら担当し岡本は帰国と称して仁川に下り余の電報を待て再び入京する事を約し翌六日仁川に向て発途せり、是時に当て訓練隊不穏の説隠に行はれ、又軍務顧問楠瀬中佐は同隊を率て事を挙げんとの説もありて民情稍動けり、是日同中佐は松波より帰京したるに付両三日前巡視の為め松波付近へ旅行せり公使は之を諭し嫌疑を避けんが為め翌七日帰国と称して仁川に下せり、是より先に本月三日京城東門内に於て警務庁巡検は訓練隊兵卒と闘争し互に死傷者を出せしが同六日夜半警務庁にては多数の訓練隊兵来襲したりと称し一夜騒然として民心安んぜざるに付同隊訓練担当の我士官は直に其営に至て之を取調べたるに、極めて静粛にして一人も出営したる様子なし蓋し訓練隊解散の口実を作らんが為め宮中より警務庁に内通して是説を為さしめたるなり、翌七日朝訓練担当の士官来館して具に前夜の実情を報ぜり、扨又五日夜の協議略決するや翌六日朝余は公使の内意を帯て単身金総理を訪問し国事に関する意見を尋ねたるに切に国家の危殆に頻するを説き併て微力にして之を救ふ能はざるを慨歎して已まざるに付、余は閣下は身総理大臣と為りて国難を救ふ能はずんば寧ろ其職を辞せば如何（是より先に金総理金外部の両氏は既に辞職の内意ある旨申出でたる事あり依て談之に及ぶ）閣下辞職して愈々為すべからざる形勢に立至らば其上にて之を救ふ道あるべしと申入れたる処、金総理は何等の理由なくして突然辞表を呈せば必ず世人の疑を招かん、且つ国王に対して憚る所ありとて急に辞職すべき色なし、余は再び然らば若し閣下等にして力あらば匡済の道あるやと押して尋ねたる処、不得已んば大院君を煩わすの一線あるのみ乍去目下同君を引出す方法なしと答へたり、余は帰館の徒次趙義淵を訪問せし処権濚鎮座に在り談時事に及び互に意見を取替したる末余は趙権二氏に向ひ訓練第二大隊長禹範善已下皆宮中の処置を憤激し時宜に因ては献身的の挙に及ぶべきも同第一大隊は比較的不熱心なり、万一機に及んで躊躇する如き事ありては恐くは大事を誤らんとす、貴君等第一大隊を駆て第二大隊と同様の働きを為さしむる道なきやと言ひたる処、趙氏は其は容易なり、第一大隊長李計鎬は拙者が引立てし人なり故に不肖ながら拙者担任して善きに之を指導すべしと答へたり、依て余は再会を約して帰館し金総理と談話の顛末を公使に復命し翌七日朝再び公使の内意を帯びて金総理を訪ひ閣下等果して為すべきの道なしと断念せられたらんには寧ろ其職を辞する方却て有志者の反動を強め恢復の期を速にすべしと辞を尽して説きたるも金総理自ら決する能はず、余乃ち辞を改めて曰く大院君は奮然立たんと欲す、三浦公使の意も亦助けて之を立たしめんと欲せり、金総理曰く如何なる手段に依て之を立たしむるや、余答へて曰く其手段は今明言する能はずと雖も僅に動機を与えなば貴国人の手にて之を立たしむるを得べし今日の場合我国の力を外に顕はすは不得策なり、金総理曰く果して大院君を立たしむるを得ば幸いに今日の危勢を挽回するを得べし、今日は俄国との関係もあれば公然貴国の力を用ふるは不可ならん、拙者も可成丈貴国の関係を公にせざる事を希望せりと、右の談話は凡一時間を費せり、余は帰館復命の後、再び国分通訳官を伴ひ金外部大臣を訪問し同趣意の談を為せり、金外部曰く金総理は極めて謹厳の人なり故に心に思ふ事を充分口に発せず拙者は素より辞職の決心なれば今より往て相談すべし、且つ近日の事を観るに万機総て王妃の親裁を仰ぎ国王と雖も之を制する能はざるが如し、加之王妃は閔族の勢権を恢復せんと熱望するの余り強国に阿附し之が為めに地を割き国を亡すも顧みざるの勢なり。拙者等は李氏五百年の臣子にして閔氏の臣子にあらず大院君若し立たんと欲せば一臂の力を致すを辞せず唯微力にして用を成さゞるのみと、余曰く宮中にては将に訓練隊を解散せんとする説あり同隊若し解散せられなば大事去らん閣下等の力を煩し暫く之を中止せられん事を願ふ、金外部曰く解散の命は昨夜既に下れりと聞きぬ兎に角拙者は早く金総理を訪ふて相談を試むべしと、依て余は暇を告げて帰館したる処軍部大臣安駉壽、国王の内命を奉じて来館し公使と談話中なりし、時既に十一時頃なりき其内命の要は近来訓練隊不穏の兆あり四五日前警務庁巡検と闘争し昨夜又多衆警務庁を襲ひ其仇を復せんとす依て国王には之を解散して危険を未然に防がれたき御考なれども同隊は日本士官の刻苦訓練したる兵なれば前以て其意を公使に伝へよとの事なり、公使は其申出を具に聴取りし後口を開て昨夜訓練隊の兵卒多数警務庁に襲来したりとの説は本使も既に之を聞き且つ実地取調たる我士官の報告をも得たるが全く虚伝なり、蓋し宮中にては訓練隊を解散せんと欲し斯る口実を設けし事ならん、抑も訓練隊は日本政府の厚意を以て特に我守備隊付将校に命じ寒暑を厭わず刻苦訓練したる者なり、貴下の知らるゝ如く貴国に於て兵隊らしき兵隊は此訓練隊を除て孰に在るや然るに今之に過失を負はせて解散せんとせらるゝは果して何の意ぞや、日本政府の厚意を何とせらるゝ積りなりや、然りと雖も此事本と貴国内政の事に属すれば本使は職権上容喙すべきにあらず唯本使は斯く申居れりと国王へ復奏せられたしと聊か怒気を含みて申されたれば安氏は継ぐ辞なく躊躇ふ折柄小使来て訓練第二大隊長禹範善来館せりと報じたるに付余は之を安氏に知らしめざらんと欲し窃に別室に待たしめたり、禹範善の来館に先ち馬屋原守備隊長も亦訓練隊解散の事を以て来館せり、同氏は既に窃に大院君入闕の企を聴き且つ裏面より訓練隊を監視せり、既にして安氏去るに臨み余と密話せん事を求めたるに付之を別室に引き其咄を聞けり、安氏曰く今日の内命は訓練隊解散事件の外に尚ほ一件あり、其は近来宮中に人を得ざるが為め諸事錯乱して統一する所なし、故に閔泳駿を入れて其取締に任ぜしめたしとの事なりしも公使の怒り甚しきが為め之を口に出し兼ねたり願くは子代て之を伝へよと、余曰く果して此事あるか兎に角貴意の趣は之を公使に申出づべし、安氏又曰拙者は宮中に戻り如何に復命すべきや甚だ其辞に窮せり、余曰く有体に復命されよ此際辞を飾るは宜しからず抑々宮中にては果して訓練隊を解散する御決心なるや、安氏曰く解散の令既に出でたり拙者は板挟みとなりて実に困難なりと遂に辞し去れり、余は再び接客室に至れば、禹範善既に入て公使と対談中なり馬屋原少佐亦座に在り、時已に正午を過ぎたり余は馬屋原氏を別室に招き先づ訓練隊激昂の状を聞き然る後謂て曰く、事機甚迫れり十日まで之を待つべからず明日之を発せんと欲す貴方の都合差支なきや、馬屋原氏曰く可なり、余曰く余は午飯を終えて再び来るべきに付君代て此意を公使に伝えられたしとて直に其舎に帰り、午飯を喫し再び公使館に至りしは午後一時過なりき、此時禹範善既に去れり（同人は充分決心し居れりと聞きぬ）余は具に安軍部の伝言を述べたる処公使は閔泳駿の任命は姑く同意する方然るべき旨言われたるに付余は直に同意の返答を発せり、公使曰く事機意外に迫れり一刻猶予せば必ず宮中より先んぜらるべし、君等が言ふ如く明朝にも事を発せざるを得ず然るに其手続調ふべきや余答て曰く。他は尽く調ふべき見込なり唯岡本の消息審ならず同人居らざれば大院君を立たしむるを得ず依て先づ同人に電報し確答を得たる後万事に着手すべしと直に仁川領事館を経て岡本に発電し同時に楠瀬中佐を呼戻したるに岡本より三四十分を過ぎて返電なきに付追掛々々三回発電したる処漸く四時頃に至て返電ありたり、（是日仁川に於ては朝鮮大使の出発と橋口新領事着任の為め領事館員は送迎に忙く、電報転達方遅延したりと云ふ）於是始めて事に着手するを得たり実に十月七日午後四時過ぎなりき而して其計画の大要左の如し。
一 岡本をして七日午後十二時遅くとも午前一時迄に麻浦まで帰着せしめ同処に迎として待たしめたる通弁鈴木順見、剣客鈴木重允両人を同伴して孔徳里なる大院君の住邸に至らしめ
二 馬屋原は訓練隊付士官に同隊を操縦せしめ八日午前二時頃より其第二大隊の一部を孔徳里に派して大院君を迎へしめ其他は城の内外に待受けて同君入闕の護衛に充て第一大隊は宮闕外を守衛する装を為さしめ大院君の来着を待て共に入闕せしめんとせり
三 浅山顕蔵をして李周会已下朝鮮の有志者を操縦せしめ孔徳里に赴き岡本入邸の際に該邸守衛の巡検等妨害せざる様に助力を与へしめたり
右の計画中余は専ら第一及び第三の両項を担当して準備を為さしめ又趙義淵を促し急に第一訓練隊を約束せしめたり、是より先に屡々外務大臣に宛て形勢の追々切迫し来るを電報したるも一の回電なし唯井上前公使より三浦公使に参内して国王王妃に忠告し宮中の横暴を制せしむべしとの電報ありしも、是時は勢漸く傾きて忠告の効あるべき見込なかりし、是に於て形勢危殆に迫り何時異変を生ずるや難計旨を電報せり、夕刻に及んで公使は窃に余に謂て曰く朝鮮人のみにては能く入闕の目的を達するや否甚だ案ぜらるゝ故国友安達に諭して壮士十人程に助力せしむることにせりと、余安達に謂て曰く壮士輩大院君に随行せば朝鮮服装せしめよ可成丈之を制して宮門内に入らしむる勿れ若し入門せば天明前に出門せしめよ外人をして我人民の関係を覚らしむる勿れと安達諾して去る、其夜公使は内田領事の晩餐に招かれ余亦官舎に帰りて事を視たるに付、使館は𨶑として人なきが如し夜半楠瀬中佐帰京せり、斯くて岡本は其夜十二時頃麻浦に着し、出迎の人と打合せの上孔徳里に到り大院君を訪ひ翌八日午前三時頃出門途中より訓練隊に護衛せられて黎明遂に入闕の目的を達したりと云ふ。
（追言）
二十八年十月八日に於ける事変の発端は前に詳述したる如く時勢に迫られ不得已に出でたるものにして余は実に其計画者の一人たるを免れず、否寧ろ計画者の中心たる姿なりし、而して余が当初の計画は事を挙ぐるに当りて表面に本邦人を使用するを好まず可成丈朝鮮の訓練隊と李周会等一派の力に依り無事に大院君入闕の目的を達せんとしたるなり、故に其間に苦心して大院君の誘出には岡本等三人に止め李周会等の指導には浅山一人を用ひ、第一、第二訓練隊には我守備隊との連絡を保たしめんが為め通弁一人づゝを付したるに過ぎず、尚他日の防範として大院君の政務干預を禁じ李�沛阿魃鵑韻堂θ涓�世子の安心を買はんとまで注意したりき、然るに事は初志と違ひ夏来宮中の横暴と井上公使の軟変に憤慨したる日韓の有志者（其中事に先て動機を作りし人々もあり）は、窃に此の挙あるを聞き雀躍自禁する能はず、甲乙相伝へて馳せ加はり邦人のみにても数十名の多きに及びたるが為め事は予計の外に出で竟に邦人関係の形迹を掩蔽する能はざるに至らしめたり、当時の事情は誠に不得已に出でたりと雖も今日に至ては聊か遺憾なき能はず。
広島地裁の予審終結決定書（1896年1月20日付）
広島地裁決定書 https://dl.ndl.go.jp/pid/1178703/1/99
予審終結決定書
和歌山県海部郡雑賀村大字宇須居住士族朝鮮国軍部兼宮内府顧問官 岡本柳之介 嘉永五年八月生
福島県北会津郡若松町大字中六日町居住平民東京府東京市麹町区有楽町三丁目寄留著述業正七位 柴四郎 嘉永五年十二月生
熊本県山本郡菱形村大字辺田野居住士族無職業 国友重章 文久元年十一月生
福岡県福岡市大名町居住平民無職業 月成光 文久二年正月生
熊本県飽託郡城山村大字上代居住士族農業 廣田止善 文久元年三月生
福岡県福岡市瓦町居住士族無職業 藤勝顕 安政六年十二月生
岩手県紫波郡見前村大字東見前居住平民吉田長治郎四男東京府東京市麹町区下二番町寄留新聞記者 吉田友吉 明治五年正月生
熊本県飽託郡黒髪村大字坪井居住士族無職業 平山岩彦 慶応三年八月生
宮城県桃生郡深谷村大字大窪居住平民無職業 大崎正吉 慶応三年正月生
熊本県飽託郡出水村大字今居住士族売薬商 佐々正之 文久二年正月生
同県熊本市上林町居住士族無職業 澤村雅夫 明治六年三月生
同県飽託郡大江村大字大江居住士族片野易喜次男無職業 片野猛雄 明治六年十一月生
同県玉名郡大原村大字小原居住平民隈部庄作次男農業 隈部米吉明治元年三月生
千葉県上埴生郡東村大字豊原居住平民東京府東京市下谷区上根岸寄留新聞記者 山田烈盛 文久二年五月生
熊本県八代郡鏡町大字鏡村居住平民東京府麹町区三番町寄留新聞記者 菊池謙譲 明治三年十月生
同県宇土郡宇土町大字宇土居住士族新聞記者 佐々木正 明治六年二月生
福岡県山本郡草野町大字草野居住平民無職業武田範之事 武田範治 文久三年十一月生
熊本県下益城郡海東村大字南海東居住平民農業 前田俊蔵 明治七年十二月生
同県阿蘇郡宮地村居住士族無職業 家入嘉吉 明治十年四月生
同県熊本市長安寺町居住士族新聞社員 牛島英雄 明治六年十月生
同県阿蘇郡内牧村大字内牧居住士族朝鮮国桂洞小学校教員松村辰喜 明治九年十二月生
京都府京都市下京区東枳穀馬場七条上ル三丁目若松町居住平民無職業 鈴木順見 明治元年九月生
熊本県熊本市北坪井町居住士族新聞記者 小早川秀雄 明治三年三月生
同県飽託郡広畑村大字保田窪居住士族雑貨商 中村楯雄 文久三年四月生
神奈川県愛甲郡荻野村大字下荻野居住難波惣平弟平民薬品雑貨行商 難波春吉 元治元年四月生
熊本県山鹿郡中富村大字下分田居住士族農業 佐藤敬太 安政五年十二月生
同県球磨郡岡原村大字岡本居住平民農業 田中賢道 安政三年十一月生
同県山本郡田底村大字米塚居住士族新聞記者 平山勝熊 慶応三年四月生
東京府東京市小石川区中富坂町居住華族予備陸軍中将正三位 三浦梧樓 弘化三年十一月生
同府同市四谷区四谷須賀町居住平民公使館一等書記官正六位 杉村濬 嘉永元年正月生
新潟県古志郡長岡本町大字東神田町居住士族領事館補従七位 堀口九万一 慶応元年正月生
長野県北佐久郡小諸町居住平民外務省警部 荻原秀次郎 慶応二年四月生
東京府東京市浅草区聖天町居住平民外務省巡査 渡辺鷹次郎 嘉永四年十一月生
鹿児島県日置郡日置村居住士族外務省巡査 成相喜四郎 元治元年七月生
長崎県長崎市今籠町居住士族外務省巡査 横尾勇太郎 慶応二年五月生
鹿児島県鹿児島市塩屋村居住外務省巡査 小田俊丸 文久元年十一月生
同県同市西田町居住士族外務省巡査 木脇祐則 明治五年三月生
長崎市南高来郡神代村居住士族境勘作長男外務省巡査 境益太郎 明治元年九月生
鹿児島県鹿児島市冷水通町居住士族外務省巡査 白石由太郎 明治四年十一月生
神奈川県横浜市相生町六丁目居住士族売薬商高橋源次事 寺崎泰吉 文久二年二月生
長崎県下県郡久田道町居住士族朝鮮国補佐官勲七等 浅山顕蔵 嘉永二年四月生
熊本県飽託郡力合村大字島新居住士族新聞記者 安達謙蔵 元治元年十月生
福島県河沼郡金上村大字福原居住士族佐瀬縁蔵養嗣子医業 佐瀬熊鉄 慶応元年十二月生
熊本県飽託郡奥古閑村居住平民非職営林主事朝鮮国内部顧問官 渋谷加藤次 安政二年三月生
長崎県下県郡宮谷町居住士族朝鮮国通訳官大浦滋彦事 大浦茂彦 万延元年六月生
滋賀県東浅井郡大郷村大字難波居住平民蓮本安丸又蓮元康丸事 蓮元泰丸 慶応二年七月生
新潟県中頸城郡高城村大字木築居住士族晒業勲七等 鈴木重元 嘉永六年二月生
熊本県熊本市小幡町居住士族宮住守男次男新聞社員宮住勇記事 宮住勇喜 明治六年二月生
右岡本柳之介外四十七名に対する謀殺及凶徒聚衆事件平山岩彦に対する故殺事件等検事の請求に依り予審を遂る処
被告三浦梧楼は朝鮮国駐剳特命全権公使となり明治二十八年九月一日京城に就任せし処当時同国の形勢漸く否運に傾き宮中の専横日に甚しく妄に国政に干渉し我政府の啓誘に因り稍く改良の緒に就きたる政憲を紊り遂に我陸軍士官の尽力に成れる訓練隊を解散し其士官を黜罰せんとする等頗る我国を疎外するの形跡あるのみならず、国政の進歩を図り独立の実を挙ぐるに鋭意なる内閣員等を免黜又は殺戮し以て政権を宮中に収めんとするが如き計画あると聞き憤慨措く能はず是れ多年我国の労力と資材とを費し同国の為め経営せる好意に負き内政の改良を妨げ国家独立の基礎を危くする者にして独り同国に不利なるのみならず、我帝国も亦害を受くる少からず依て速に其弊害を除き彼れの独立を扶植し、併て同国に於ける我国の威信を保持せざる可らずと考慮する折柄会々大院君時弊を憤慨し自ら起て宮中を革新し輔翼の任を尽さんと欲するの意を致し陰に助力を求め来りたるより同年十月三日被告杉村濬岡本柳之助と公使館に会し三名謀識の上常に宮中の為めに忌まれ自ら危む所の訓練隊と時勢を慷慨する壮士輩を利用し、暗に我京城の守備隊も之に声援せしめ以て大院君の入闕を援け其機に乗じ、宮中に在て最も権勢を擅にする王后陛下を殪さんと決意したり、然れども大院君他日若し政治に容喙せば其弊害却て前日より甚しきものあらん事を慮り予め之を防がざる可らずと為し、被告濬は要項四と題する約款を起草し被告柳之助は大院君と親善なるを以て之を携へ同月五日孔徳里の別邸に赴き方今形勢再び太公を煩すものあらん、而して三浦公使の要むる所如此と該書を相示したるに大院君は子孫と共に欣然として之を諾し自ら誓約書を裁したり、因て被告梧楼等は其時期を同月中旬と予定し柳之助が孔徳里に到りたるは他の疑を惹き事の露顕すべき恐あれば畢竟帰国の告別に過ぎざりし事を表せんため仁川に下らしめ被告柳之助は翌六日京城を出発したり、然るに同月七日軍部大臣安駉壽宮中の使命を帯び来て訓練隊解散の事を告げ公使の意見を要めたるより時機既に切迫し一日も猶予し難きを以て、被告梧楼被告濬は協議の上同夜事を挙ぐるに決し直に電信を以て柳之助の帰京を促し一面は被告堀口九万一に大院君入闕に関する方略書を授け柳之助を龍山に待受け共に入闕すべき事を命じ、尚被告梧楼は京城守備隊の大隊長馬屋原務本に訓練隊を操縦し、且守備隊をして之に声援せしめ大院君の入闕を容易ならしむべき諸般の指揮を命じ、又被告安達謙蔵国友重章を公使館に招致し其知人を糾合して龍山に柳之助と会し、共に大院君入闕の護衛をなす可き事を委嘱し且当国二十年来の禍根を絶つは実に此一挙にありとの決意を示し、入闕の際王后陛下を殺害すべき旨を教唆し被告荻原秀次郎には部下の巡査を引率し龍山に到り柳之助と協議し大院君の入闕に付尽力すべき旨を命じ、而して被告濬も亦被告鈴木重元浅山顕蔵を招き大院君の入闕の事を告げ、重元には通弁の為め被告鈴木順見を龍山に遺す事顕蔵には予て大院君の入闕を熱望せる朝鮮人李周会に報知すべき事を托し且大院君入闕の趣意書を起草し被告九万一に渡すべき為め被告秀次郎に交付したり、茲に於て被告九万一は直に馬を駆り龍山に赴き被告秀次郎は非番の巡査に大院君入闕に付私服を着し刀剣を用意し龍山に到るべしと命じ自身も亦龍山に赴き被告渡辺鷹次郎成相喜四郎小田俊丸木脇祐則境益太郎は被告秀次郎の命に依り各龍山に赴き被告横尾勇太郎は同所にて之に加はり、被告顕蔵は李周会に面会し今夜大院君入闕あるべしと告げ彼が数名の朝鮮人を糾合し孔徳里に到るを見届け直に龍山に赴き、被告重元も亦被告順見と共に龍山に赴き被告謙蔵重章の両人は被告梧楼の教唆に応じ王后陛下を殺害せんと決意して同志者の招集に尽力し被告平山岩彦佐々正之松村辰喜・佐々木正牛島英雄小早川秀雄宮住勇喜佐藤敬太澤村雅夫片野猛雄藤勝顕廣田止善菊池謙譲吉田友吉中村楯雄難波春吉寺崎泰吉家入嘉吉田中賢道隈部米吉月成光山田烈盛佐瀬熊鉄渋谷加藤次郎等は大院君の入闕に付三浦公使の命に依り被告謙蔵重章が其護衛者を募る由を聞き之に同意し、其内被告岩彦外十数名は被告謙蔵重章等より王后陛下を殺害すべき被告梧楼の教唆を伝へられ各殺意を決し、其他右等の事実を知らず一時の好奇心に駆られ附和せしものに至るまで各凶器を携え被告重章並に被告光以下三名の外は亦被告謙蔵と共に龍山に赴きたり、又被告柳之助は仁川に在て時機切迫せりとの電報に接し即時出発帰京の途次同日夜半の頃麻浦に於て被告九万一龍山に待ち受けの報知を得たるにより直に同所に立寄り前記の者共と相会し、被告九万一より梧楼の書面入闕趣意書の草案等を受取り二三者と入城の方法等を協議し、然る後一同は柳之助を総指揮者とし孔徳里に至り李周会の一行と共に翌八日午前三時頃大院君の轎輿を擁して出発したり、而して被告柳之助は其際表門前に一同を集め入城の上狐は臨機処分すべしと号令し以て王后陛下殺害の事を教唆し未だ其事実を知らざりし被告益太郎外数名をして殺意を決せしせめ〔ママ〕、夫より京城に向ひ徐々前進し西大門外に於て訓練隊に出逢ひ姑く守備隊の来るを待ち同所より訓練隊を前衛とし王城に急進する途中被告重章光烈盛熊鉄加藤次も相加はり、又被告蓮本泰丸大浦茂彦は馬屋原務本より通弁の為め訓練隊監視の陸軍士官に随行を委嘱せられ亦此一行に加はり、同日払暁の頃光化門より一同王城内に入り直に後宮まで抵りたる等の事実ありと雖も前記の被告人中其犯罪を実行したるものと認むべき証憑十分ならず、又被告平山岩彦が右入城の際乾清宮前に於て宮内府大臣李耕植を殺害したりとの事も亦証拠十分ならず。
被告柴四郎大崎正吉武田範治前田俊蔵平山勝熊白石由太郎は本案被告事件に関係せりと認むべき証憑十分ならず。
以上の理由を以て刑事訴訟法第百六十五条に従ひ各被告人総て免訴し、且つ被告三浦梧楼杉村濬岡本柳之助安達謙蔵国友重章寺崎泰吉平山岩彦中村楯雄藤勝顕家入嘉吉木脇祐則境益太郎は各放免す、
但し押収したる書類物件は各其所有者に還付す
明治二十九年一月二十日
広島地方裁判所に於て
予審判事 吉岡美秀 印
裁判所書記 田村嘉治 印
杉村濬の反論
「在韓苦心録」
此始末書（※広島地裁の決定書）を一閲するに本と謀殺及凶徒聚衆と云ふ名義の下に取調られたるものなれば其徴証推断は殺害の一辺に偏し事件の本体を失ふに似たり、是は法廷の調書としては然るべきも歴史としては誤を千古に伝ふる恐あり。
該事件を企てたる唯一の目的は宮中に於ける魯国党（其首領は無論王妃と認めたり）を抑制して日本党の勢力を恢復せんとするに在り、其手段としては訓練隊の力に依り大院君を入闕せしめて王妃其他の魯国党を抑制し内閣（内閣は金宏集其他改革党を以て組織せられたり）をして正当に政事を行ふを得せしめんとせり、而して殺害の事は全く之に付帯して興りしものにて主要なる目的にあらず、其結果は不幸にして殺害を目的とするが如きに至りしは大勢に駆られて之に赴きたるに過ぎず、仮りに教唆者ありとしても誠に隠微の間に発せしものと想像せられたり、初三浦杉村岡本の三人両度の会合に甞て殺害の事を話頭に出したる事なく又事件に関係したる四十余名の内初めより殺害の事を関知せざるもの多し、余は某々は之を関知し某々は関知せざりしとの事を今日之を明言するは困難なるも然れども其人々の系統に因て具さに取調ぶるときは略推断を下すを得べし。
殺害は主要の目的にあらざりし事は左の事実に因て推測し得べし。
一、当初の計画は訓練隊と朝鮮壮士のみを以て大院君の入闕を遂げしめんとの考なりしに訓練隊は八百人程にして宮中には七百人程の侍衛隊あり、訓練隊の精錬は遥に侍衛隊の上に在りと雖も攻守の勢異なれば勝敗の数も亦計るべからず、故に当初最も掛念したる所は無事に入闕の目的を達するや如何に在て念慮の殺害等の事に及ぶべき余地なかりき。
二、若し初めより我兵隊並壮士を使用して王妃を殺害せんとの計画ならば大院君を引出すの必要なし、大院君も亦反覆常なく実に厄介物たる事は去年英国に依頼して日本を斥けんとしたる陰謀に付ても証すべし、唯其害王妃程に甚しからざれば毒を以て毒を制せんとの相談にて同君を引出す事と為れり、故に同君を引出すに付初めの考は全く宮中に於て王妃を始め魯国党を抑制せしめんとの目的に外ならず、大院君が入闕の後王妃を如何に抑制するやは一に同君の方寸に打任せ当初我念慮は全く茲に及ばざりし。
三、三浦杉村岡本の会合は唯二回にして初めは岡本を派して大院君の意中を慥慥めしめ同君果して立たんとする意ならば密約要項に同意せしめ且つ入闕機会に付略打合せを為さしめたるに過ぎず、次の会合は岡本の復命を聴き事を挙ぐる時機に付略打合せを為したるに過ぎず、此時先づ十日と仮定し岡本楠瀬を帰国と称して仁川に下らしめ其間に京城に於て訓練隊及朝鮮壮士を操縦する手続を定めんとの考なりし、故に三人会合の際言の王妃に及ぶべき機会なかりき。
四、三人最後の会合は五日の夜にして六日朝に杉村は金総理を訪ひ同日趙義淵を訪ひ（権瀠鎮も坐に在り）七日朝再び金総理を訪ひ又金外部を訪ひ帰館したる処安駉寿は杉村と別室にて階段して別れたるは十二時過なり、是時三浦は禹範善と対話中なる故に杉村は馬屋原に托して挙事の期を早めざるべからざる旨を三浦に伝へしめ帰宅昼餐を了へて再び公使館に到り三浦に面会したるは一時過ぎなりき、然れども在仁川岡本との打合せ相届かざる已上は万事に着手する能はず、故に仁川領事館を経て岡本に発電したるも返電なく（其日は朝鮮大使出発見送並橋口新領事着任出迎等の為め領事館員は不在の為め岡本へ電信を渡さゞりしと云ふ）漸く四時近き頃返電を得て其れより事に着手せり、故に同事件は僅か四時間程の短時間に遽遽しく計画されたるものなり。
而して其計画の概略左の如し。
岡本をして七日午後十二時遅くとも翌午前一時までに麻浦まで帰着せしめ同所に迎として待たしめたる鈴木順見鈴木重元の両人を同伴し大院君住邸に至らしめ、馬屋原は訓練隊付士官に同隊を操縦せしめ八日午前二時頃より其一隊を麻浦に派して大院君出門の護衛に充て其他は宮城外を守衛する装を為さしめ大院君の来着を待て共に入場せしめんとせり。
其外浅山をして朝鮮壮士を操縦せしめ麻浦に赴き岡本入邸の際故障なからしむる様助力を与へしめたり。
当初の計画は右の通りなれば巡査及壮士を利用する事は全く計画の外なりし。
五、三浦が国安安達に諭して壮士十人程に助力せしめんとしたるは蓋七日の午後三四時頃にして夕景の頃之を杉村に洩したり、其意は朝鮮人のみにては能く入闕の目的を達するや否甚だ案ぜらる故に壮士を使用する事と為したりと云ふ、又荻原が巡査を引て事に赴きたるは内命を受けたりと云はんよりは寧ろ自ら好んで赴きし方なり、是は去年七月大院君入闕の際に彼等の中多数は同様の働を為したれば孰も再び功名を成さんとの考を懐きしならん、堀口は初め大院君との交通を開きたるに拘はらず其功を岡本に奪はれたる姿にて内心不平を懐居る様子を認めたるに因り三浦杉村相談の上堀口に用向を拵へて之を与ふる事にせり其実は殊更に堀口を麻浦に派する必要なかりし。
六、前各項の通りとすれば王妃殺害の端は孰に発したるや甚だ惑ふと雖も是は京城当時の事情に通ずる者は能く自ら解くを得べし、是れ全く暗黙の間に興りし事ならん、壮士輩は三浦に教唆せられたりと云ふは彼等は其責を遁れんとして三浦の教唆を受けたりと申立て三浦も亦罪を壮士輩にのみ帰するを好まず自ら其意を授けたる如く申立てたるものか又は三浦は不言の間に微意を洩したるものか余は判断に苦めり、岡本の「狐は適宜処分せよ」との一言は岡本の断じて服せざる所なり余も亦同氏は斯る目的を有せざりしものと信ぜり、万一斯かる発言ありとせば蓋し辞の余波が茲に及びしものにて此一言は主要なる目的として述べたるものにあらず、当時三浦岡本の教唆的言語なくとも又三浦岡本は縦令之を差止めても斯る大勢の壮士輩入闕せば必ず王妃に対し椿事を惹起したるに相違なし、何となれば則当時一般の感情は王妃の所為に対し非常に激憤し廿七年の乱に王妃を除かざりしを痛く後悔し、ニ十八年七月朴泳孝の党陰に除妃を企て発覚したる事さへあれば一旦事ある場合には其怨を霽さんと壮士輩の意向は王妃の一身に集まりたるは避くべからざる勢なればなり（初め三浦の依嘱したる壮士は十名なりしに暫時の間に甲乙相伝へて三十余名に達し前夜新聞社に相集り議論囂々龍山に至りし頃は益々激昂して制す可からざるに至りしと云へり）仮に三浦は壮士輩に殺害の意を暗示したりとするも是は該事件の主要なる目的にあらず大院君入闕の際混雑に紛れ之を除けと云ふ位に過ぎざるべし、故に殺害は主なる事件に伴はれ勢に乗じて興りたる付帯事件たるに過ぎず。
三浦梧楼公使
「観樹将軍豪快録」1918年
杉村濬と王妃事件
朝鮮事件は杉村の筋書
朝鮮事件で知ったのが、楠瀬幸彦と杉村濬だ。楠瀬は近頃やっと芽を出したが、杉村は不幸にして我々少数の人の外には、其有為の大材である事を知られずに仕舞った。朝鮮に行くまでは俺も杉村も共に知合でなかったが、赴任の時、仁川迄出迎に来てくれた。其の時船の中の雑談が彼の留任する動機となったのぢゃさうな。当時彼は外務省に帰る事になって居たのだが、俺が話の節で、コイツ何か仕さうだと思ったから、踏止まったのだと後で彼自身が話して居った。アノ事件は皆な杉村の筋書ぢゃ。俺の役目は、無論井上の尻拭ひさ。対韓方針につき何度問うても、廟議で指図をせぬから、俺の方針でやったのさ。
閔妃は傑物
閔妃は無論傑物ぢゃ。呂公や西太后のお仲間ともいへやう。俺が拝謁の時などは王の背後から常に絲を惹いて居られた。大院君も一種の梟雄だ。日本代々の公使は朝鮮に赴任すると、早速大院君の許へペコペコして行ったものさ。処が俺は、態と一度も行なかった。万事歴代公使の裏をいったのさ。
杉村の手習、当夜の出産
俺が杉村をエライと思ったのは其夜の事さ。其前から世間を装ふために、公使館では天長節の用意といふ事に託して、人の出入の目立たぬやうにしてあったが、誰が何といったものか、其晩方に某々2国の公使が突然やって来て、何か嗅ぎ出した様な語気がある。丁度其晩日本領事の祝宴会があったので、俺は之からそこへ行く処だ。どうだ御一緒に参らうかと言ふと、二人共安心の体で帰って行った。俺は宴会の席で態と夜を更かし、帰って杉村の部屋に行くと、杉村は今しも独り机に対して、静かに手習をして居る「マダ少し時間がありますから、お休みになったらどうです。其時にはお知らせします」と平然として居る。其内細君が子を産むといふ騒ぎがあって、俺は室に引取ったが、今将に一大事を挙げんとする其時に、悠然として手習をして居った彼の態度を見た時には、俺は以て大事を托するに足ると、大に意を強うした、不幸今や此人亡し。
朝鮮事件と広島監獄
昔の奴は決して口は達者ではなかったが、其のする事を見ると、行なった事にはどっしりした偉い処があった。
俺も実は朝鮮事件では、広島の牢に入れられたが、其時……一体俺も負けぬ気のつむぢ曲りだったから、大に癪に障ったのぢゃ。自分で頭の毛を引き毟ったやうな事も有った。
広島の監獄で俺を風呂に入れるとだまして、裸にして調べたから大に癪に障った。すると二三日経ってから、ふいと気がつひた。俺は其時に格子の中に入れられて居たが、其時格子の中に居て考へて見れば、格子の外に居る奴が皆な国賊で、格子の中の俺は、立派なものであった。と斯様思って見た。すると何時か気が晴々して、次第に心が愉快になった。自分で自分の髪を毟る様な事もなくなった。
それから俺が、東京に帰る、と云ふ時に、田中宮相が、伊藤さんからだと云って来て、東京書生連が君を迎へると云ってるから、君は其中に君も這入らない様にせんと、君の為めによくないぞと云ったから、俺は斯ふ言ってやった。
「伊藤さんが、そんなに親切があるなら、大臣の一人や二人はよこして、俺の、やった事を聞いたらよいではないか」と答へてやった。
其時、谷（故谷干城）の夫婦が静岡まで迎へに来て呉れて居たが、汽車の中の話に、
「俺はもともと熱海の山に居たのだから、此の儘熱海の山へ帰って了ふと思ってる」
と云ふと、谷夫婦が、
「まァ一遍東京へ帰れよ」
と連にいふので、一緒に其まゝ東京へ帰ったがそれから三日目に、熱海の山へ帰って行った。俺はもともと熱海の山に居たのを、無理に引張出されて、朝鮮三界にやられたのだから、山に帰るは自然だらう。（75-80頁）
「観樹将軍回顧録」1925年
三浦梧楼公使「観樹将軍回顧録」
朝鮮事件（319頁〜）
一
明治二十八年八月十七日、我輩朝鮮特派公使に任ぜられた。此れが又大波瀾であった。其頃我輩は此熱海に引っ込んで居ったが、今度井上が帰ることになったから、其代りに是非朝鮮へ往って呉れと云ふことである。我輩は外交の事は素人である。不得手である。前に仏蘭西の公使に擬せられた時にも断わった程である。ソレで我輩も再三拒絶したが、是非にと云ふことで、止むを得ず引受けることになった。
併し我輩が朝鮮に往くに就ては、先づ決定して置かねばならぬことがある。ソレは言ふまでもなく対韓政策である。ソコで我輩は、
「自分は外交の事は、一向知らんから、先づ政府の意向を聞いて置きたい。朝鮮は独立させるか。併呑するか。日露共同の支配にするか。此三策の内、政府の意見は何れに在るかを明示して貰ひたい。自分は何処までも政府の方針に従って遺る積りである。」
と言って、意見書を差出したが、ソレに対してウンともスンとも沙汰がない。我輩は固より政府の方針に従って働く積りである。然るに政府が方針を示さぬ以上は、羅針なくして航海を強ふるやうなもので我輩には出来ぬと、断然謝絶して熱海に還った。すると野村靖を使として兎に角帰京してくれと云うて来る。帰って見ると山縣から申出の三大政策は、事重大にして最も熟慮を要するから、何れ何等かの決定を示す可きに付き、一日も速に渡韓をしてくれとの事である。ソコで我輩は政府無方針の儘に渡韓する以上は、臨機応変自分で自由に遺るの外は無いと決心したのである。
愈々朝鮮に行くことなつたので、内閣大臣総出で送別会を開いて呉れたが、斯う云ふ事は全くコレが始めてゞあった。それから後の事は知らんが。
送別会の場所は、帝國ホテルであったと思ふ。松方は其時大蔵大臣であったから、コレも同じく遣って来た。其折り我輩に向って、
「三浦さん、対韓政策はドンガイに遣る積りですかイ。」
と尋ねるではないか。我輩は対韓政策に対する三ヶ条の質問書を提出して居るのである。松方が若し此れを知って居れば、決して斯う云ふ質問は出来ぬ筈である。さては伴食だナ、我輩の意見書は、見せられてないナと思った。ソレで我輩も態とトボケて、
「イヤ永らく野に居ったから、対韓政策なんて、そんな事は考へて居ませんぜ。マア往ってから後の事です。俺の腹には、二重三重の棚は拵へて居ませんぜ。」
と言ふと、何だか変な顔を仕て居るのだ。
「マア三浦と云ふ大坊主を、朝鮮の野に放ったと思って居て下さい。」
と言って笑ったことであった。今では元老であるが、其時は一個の伴食であったのである。
二
我輩は愈々朝鮮に往った。前任の井上は、性急な人でもあり、又ドウも恐ろしい細かい所まで干渉する人であった。大体に於ては、ソレは如何にも道理な遣方である。
従来朝鮮では官職を糶売して宮中の費用に充てたものである。多く金を出すものには好い官職を奥へる。此れがズッと古くから続いて居る。先づ金を出して、地方官になると、其地方の豪農と結託する。良民を虐遇する。賄賂を貪る。膏血を搾る。ソレは実に酷いことをして、金を溜める。其溜めた金を、宮中に献じて、良い役人になると云ふ訳であるが、此れが長続きはせぬ。又新たに金を出すものがあれば、忽ち罷められて仕舞ふ。此れが何百年から行はれた悪習である。
ソコで井上は日本から沢山の顧問官を連れて往つて、政務の改善を計った。大蔵省から連れて往った財務顧問官は、今貴族院に居る仁尾惟茂である。此れが日本流に租税法を行はうとしたが、朝鮮人には陳文漢文、更に訳が分らぬ。井上がガミガミ言ふから、表向きでは聴いて居るものゝ、予算など云ふことは、テンデ朝鮮人には分らぬ。
ソレに宮中では今言ふ通り官職を売っては、勝手次第に金が使はれる。ソレを日本の通りに予算を立って、キチキチと遣って往かうと云ふのだ。決して急に行はれるものでないことは分って居る。ソレで井上が朝行く。昼行く。夜行く。頻りに世話を焼く。宮中の細かい所まで決めないと、政府に財源がないのに、王室は勝手に使ふから、ドウも仕方がない。
朝鮮の内閣も、趣意は一通り立ったが、斯う云ふ状であるから、中々遣って行けない。ソレで王室は成るべく政治に干渉せぬやうに定めたい。此れが歴代内閣の希望であった、王室も日本の公使が彼是喧ましく言ふから、是非左様したいと言ひながら、尚ほチョイチョイ搾る。此れが仕様がない。是非矯正せねばならぬと云ふことになって居った。
それから日清戦役後、日本の将校を入れた訓練隊と云ふものが出来た。朝鮮としては此れが訓練された唯一の兵隊であつて、ソレが一大隊ある。朝鮮としては可なり規則立ったものが出来た。此れが日本の将校に薫陶せられて、自然と日本に因みが深くなる。時の内閣も此れに縋らうと云ふのであるが、此れが王室の非常な邪魔になった。
井上が朝鮮に往ってから、王妃が政治に喙を容れることは善くない。大院君が政治に口を出すことも善くない。此二人共政治に關係してはならぬと云ふ厳命を下した。ソレで大院君は知らず識らずの間に、孔徳里と云ふ所で、押込隠居同然の身となったが、王妃の方は中々引っ込んで居ない。
此王妃は女性としては質に珍らしい才のある豪らい人であった。我輩も度々宮廷に出たが、朝鮮では婦人は男子に会ふことは出来ぬ。随って王妃も我輩などには会はれぬ。最初一二度の間は、国王の椅子の下で、何だか声がするやうに思ったが、此れが王妃の声であった。王妃は国王の椅子の裏の襖を開け、其処から口を出して、国王に何角と指図をするので、実質上の朝鮮国王は此王妃だと謂っても好いのである。我輩に対しても、
「甚だ遺憾であるが、此国の風習として、直接にお目に懸かることが出来ない。」と云ふ御挨拶である。ソレは実に行届いたものだと思った程である。
斯う云ふ才智ある王妃だ。井上から政治に容喙することを厳禁されたが、井上が始終宮中に出て指図する内、何とか其干渉を緩めようと計り、トウトウ井上を口説き落して、復た政治上に口を利くやうになった。独り馬鹿を見たのが大院君である。
ソレには又裏に露西亜の公使が付いて居る。日本は唯表から行くばかりであるが、向ふは裏から行く。公使ばかりではない。公使の細君が始終宮廷に出入して、王妃を操つる。ソコで此方からもドウしても女を入れねばならぬと云ふことがあったのだ。其対抗上から。
此れが我輩の朝鮮に行くまでの状態であったのだ。
三
ソコで井上は帰る。我輩が行く。王妃はモウ少しも 気を置かれぬ。
「今度の公使は軍人上りだ。与みし易いものだ。」
と高を括って掛った。ソレで王妃の魔手は、早くも色々の方面に伸びて来た。井上が出発して間もなく、王妃から使があった。
「巡検と訓練隊が屡々喧嘩をして困る。何とか一つ取計って貰ひたい。」
と云ふことであった。ソコで早速取調べさして見たが、ドウも左様云ふ形跡もない。其後又使が来た。
「ドウも巡検と訓練隊と喧嘩をして困る。」
と云ふのである。又取調べさして見たが、矢張左様云ふ形跡はない。其後も又来た。ソコで、
「これは可笑しい。事実有りもせぬのに、二度も三度も使が来る。これは可笑しい。」と思って居ると、或日の朝、国王のお使だと云って安駉寿と云ふ奴が遣って来た。我輩は二階に居ったが、其処へ遣って来て、
「ドウも訓練隊と巡検と、屡々衝突して困ります。一時訓練隊の武器を取上げて置きたいと思ひますから、御承諾を願ひます。」
と云ふのだ。サア来た。コレだ。向ふの腹は直ぐ分った。我輩が、
「訓練隊の武器を取らうと、取るまいと、国王の勝手だ。何も御相談には及ばぬ。」 と刎ね付けると、重ねて、
「併し日本の御厄介になって居る兵隊の事であるから、一応公使の手から、穏かに武器を渡すやう、お取計ひを願ひます。」
と言ふのだ。モウ朝鮮の奴等の仕組むオデヾコ芝居は、坐って居っても分かる。大喝一声、
「馬鹿ア。相成らぬ。」
と怒鳴り付けると、胆を潰して階子段をケシ飛んで、杉村の所へ転げ込んだ。スルと杉村が上って来た。
「ドンナ事ですか。」
と聴くから、我輩は、
「イヤ朝鮮の奴等は、実に不埒極まる。此間から毎日巡検と訓練隊と喧嘩するなどと、嘘ばかり言って来る。今も訓練隊の武器を取上げたいと言って来た。訓練隊の武器を取上げたら、今度は内閣員の馘首と来るのは極って居る。目に見えて居る。君、モウ見ては居られぬぞ。」
と言ふと、杉村は扨ては何か遣るナと思ったらしい。
「ソレは宜しう御座いませう。」
と答へた。余り口数を利かぬ男であった。ソレで、
「乃公は容子を知らぬから、何うかソレ丈けの準備を仕て呉れ。」
と命じて置いた。杉村は以前知らぬ人であったが、朝鮮に往ってから、始めて知ったのだ。転任の辞令を受け取って、モウ帰るばかりの時であった。
是れまで朝鮮では新任の公使が王の謁見を済ますと其足で直ぐ大院君の所へ行くのが例となって居った。ところが我輩は殊更に行かなかったので、大院君は頗る不審を起した。岡本柳之助を通じて、
「コレは前例と遊ぶ。如何なる訳か。」
と尋ねて来た。
「イヤ少々考へがあるから、控へて居る。出る時が来たら、此方から出る。」
と答へて置いたが、大院君は、
「公使が来られねば、自分の方から行く。」
と云ふやうな訳で二日置き三日置きに催促する。岡本も大に困って、
「行くとなり、来さすとなり、早く極めて貰ひたい。」
と頻りに迫るが、我輩は、
「イヤ行かうと思へば、無論此方から訪問する。」
と受け流して、ソレに応ぜぬ。岡本は、
「毎日子供の使を見たやうなことで、甚だ困まる。ハッキリした御返事を承はりたい。」
と喧ましく迫るが、我輩は相変らず、
「何と言はれても、自分が必要と思ふ時までは、お目に掛からぬ。何うぞ左様言うて呉れ。」
と答へて置いた。我輩の腹の中では、大院君を中に置いて、大体の改革を仕ようと思って居るのである。ツマリ大院君を利用して、改革を実行しようと考へて居るのである。併し大院君は幽居同様の有様で、孔徳里に居られたのである。アレを宮中に送るには、ドウしても兵力を要する。素手では行はれぬ。ソレで杉村にも、
「大院君を宮中に入れるには、兵隊の護衛を付けて遺らねばなるまい。城門を打ち破って、アレを宮城に入れるには、兵力を要するぞ。」
と唯此れ丈けの事を授けて、
「跡は皆好いやうに仕て呉れ。」
と言って、一切を杉村に委ねて仕舞ったのである。
四
ソコで計画実行の日は、愈々十月八日と定めた。即ち大院君は此日に入城するに決したのである。我輩は杉村に向って、
「天長節が近寄ったから、手入をすると言って、アノ座敷の内のペンキ塗りから始めよう。」
と言ふと、
「ソレは面白いです。」
と答へて、早速ペンキ屋を入れ、足場を組んで、ペンキを塗り始めた。此の計画は誰にも知らせぬ。唯通訳と杉村と此二人より外には一切知らせぬ。今何処かの公使を仕て居る内田、此れが総領事であったが、無論知らぬ。其日には我輩を晩餐に呼ぶことになって居る。
扨て愈々八日が来た。何か起るぞ。何かあるらしいと、一般に何となく響き渡った。スルと露西亜の公使と、亜米利加の代理公使と、二人揃うて遣って来た。我輩に面会したいと云ふことである。
「ハヽア感付いたナ。屹度偵察に来たに違ひない。」
と察したから、
「此通りペンキ塗りを始めて居るから、お通し申す場所もない。裏の日本座敷より外にないが、それでもお構ひなくば。」^~ と言ふと、
「イヤそれでも宜しい。」
と云ふことだ。然らばとて、我輩の居る日本座敷へ、椅子を並べて、ソレへ招いた。ズッと這入って見れば、彼方には大工が居る。此方にはペンキ屋が居る。何処も彼処も手入最中で、足を踏み入るべき所もない。我輩は我輩で、狭い所へ畳を敷いて坐って居る。此処が何等かの策源地であらうとはドウしても思はれぬ。彼等はスッカリ計略に陥った。
「色々の風説があるが、屹度訛伝であらう。実説ではあるまい。」
と思ったものと見え、唯四方八方の話をしたばかりで、暇を告げた。我輩は、
「今日は総領事の晩餐に招かれて居る。少し早いが、門前まで御一緒に参らう。」
と告げて、時刻は少し早かったが、態と二人と連れ立って、立ち出で、左様ならと言って、領事館へ這入った。公使館の中は、修繕で大騒ぎを仕て居る。公使は晩餐に招かれて行く。天下泰平、何事があらうとも思はれぬ。
「大丈夫、何事もない」
と二人は安心して帰ったことであらう。スッカリ我が術中に陥れて遣ったのである。
扨て内田の所に往った。色々談話を交ふる内、愈々晩餐の時刻になった。ところが内田は何となくソワソワして、落付かぬ容子であったが、頓て、
「折角お招き致しましたが、領事館のものが朝出た切りで、帰って来ません。モウ戻りさうなものですが。」
と云ふのだ。
「何処へ往ったのか。」
と問ふと、
「ソレは分りませんが、馬に乗って参りました。」
との答である。我輩は早くも、「ハヽア杉村が使ったナ。」
と思った。此れは一人は警備長で、此間まで朝鮮に居った太田と云ふ男。一人は領事補で此頃ブラジルの公使になった男だ。内田は此二人を所謂お取持役に招いたのであるが、一向に帰っ来ぬ。
「今に戻って来ませうから。」
と云ふことで、暫く時刻を移したが、中々戻って来ぬ。杉村が使ったら、今頃帰って来べきものではない。余り時刻が後れるから、終に待ち草臥れて、晩餐を始めた。向ふは内田夫婦、此方は我輩。唯ソレ切りであった。
我輩は色々の話をしながら、時間の経つのを待って居った。其内彼是十二時にもなるから、暇を告げて、帰って来た。公使館に這入つて見ると、杉村の宅に燈火の光が見えて居る。ソコで立ち寄って見ると、
「マダ大分時間が掛りますから、お寝みになっては如何ですか。好い時刻に、私が参ってお起し申します。」
と言ふから、
「ソレでは帰って寝よう。」
と言ふ内、裏の方で、赤子の泣き声がするではないか、
「アレは何処だ。」 と言ふと。
「妻が産を仕たのでせう。」
と言ふのだ。成程さう言へば、臨月の腹らしかった。
「ソレぢゃ往って遣らねば可かんぜ。」
「至って産の軽い質ですから、心配はありません。」
「ソレちゃ乃公は帰って寝るよ。」
と言って、別れて帰り、ツルリと一眠りすると。杉村が来て起した。
「モウそろそろ好い時刻です。」
左様かと言って起きると、
「葡萄酒でも飲まうぢゃありませんか。」
と云ふので、我輩と杉村と通訳。此三人で葡萄酒を飲んで居った。忽ちワアッと云ふ声が聞えると思ふとパリバリと云ふ銃聲が聞えた。
「サア遣った。」
と思ふ間もなく喊声も止む。銃声も止む。夜は元の寂寞に帰った。
五
暫くすると侍従が来た。国王よりの使である。
「大変が起りました。片時も早く御入朝を願ひます。」
と言ふのである。
「何事かイ。」
「何事かは存じませんが、大変です。大分死傷者も出来たやうな有様です。」
「ソレは大変だ。直ぐ出ると申上げて呉れ。」
先づ侍待〔ママ〕を還へして、直ぐ其跡から参内した。国王は板の間の所へ出て、オドオドして御座る。余程御心配の体である。
「尊体に何も御差障りはありませぬか。」
と申上げると。今まで國王に向って,何か朝鮮語で頻りに喧ましく言って居った一老人が、急に我輩の方を向いて、斯う遣る。即ち九拜だ。
「アレは一体ドナタか。」
と問ふと通訳が、
「アレが大院君です。」
と言ふのである。大院君は愈々乗り込まれたのであつた。我輩は、
「陛下は御静養遊ばさるゝやう。殿下は此れへお任でなされて宜しい。後の協議もあるから、早速閣員をお呼び下さるやう。陛下には各国公使が拝謁を望んでも、決して御許しなさるな。」
と堅く止めて、国王には御静養を勧め置き、大院君を拉して、其場を去った。
サア露西亜の公使が来る。亜米利加の代理公使が来る。続いて各国の公使が来る。何れも謁見を求めたが、早や此方から止めてある。誰か何と言っても、
「唯今御静養中であるから、誰にもお会ひにならぬ。」
と言って、皆拒絶した。スルと、
「日本公使は早くから出て居る容子ですが。」
と詰った。
「イヤそれは今朝事件の起るや否や、�痢垢隆屬忙可�されましたので。」
答へると。
「然らば日本公使に会ひたい。」
と来た。ソコで我輩の所へ来て、
「斯う申しますが、如何致しませうか。」
と言ふから。
「構はぬ、会はう。」
と答へて遣ったが。扨て会ふべき室がない。家と家との繋ぎで、廊下の様になって居る所がある。其処で会った。露西亜の公使と亜米利加の代理公使だ。向ふは主動的、此方は受動的。全く受身である。ドウ来るかと思って居る。
「実に意外なる椿事で、日本人が是れ是れである。今途中でも見た。抜刀をして斯う云ふ有様であった。此騒動は確かに日本の関係である。」
と恐ろしく切り込んで来た。さう言って居る内、我輩がツッと二人の足もとを見ると、ブルブルと震へて居るではないか。
「〆めた。大丈夫だ。」
と思った。向ふは何しろ刀を持って、飛び廻はる所を見たのであるから、狼狽して居る。モウ此方は平気だ。
「貴下方は居留地を有って居られぬが、自分は之れに反して、多くの居留民を持って居る。其行為に就て、本国政府に対しては、重き責任を持って居るが、何も貴下方から責任を問はれる筋のものではない。成程此事件の内には、日本人が居たであらうが、此れが果して悉く日本人であったか否かと云ふことは、是れから調査を遂げた上でなくては分らぬ。朝鮮人であっても、人に侮られると云ふ所から、殊更に日本人の風をすることもある。随って日本の刀を使ふことも遣る。それ故此内に真実の日本人が何程居ったか、又贋者が何程居ったか、此れは是れから調査せねばならぬ。唯日本の風をして、日本の刀を持って居ったから、ソレで日本人だと言ふは速断である。併し此れは自分の責任である。何も貴下方から御質問を受くべき筋合のものではない。」
と断然刎ね付けた。
「然らば今日公使会議を開いて貰ひたい。」
と云ふ請求である。此れは公使の上席たる我輩から招集すべきものである。
「宜しい、承知した。午後一時から開かう。」
と答へた。早速其手続に及ぶと、皆公使館へ集まった。種々の質問を発するが、皆今のやうにポンポン刎ね付ける。一切取り合はぬ。
コヽで一つ情ないものだと思ったのは通訳だ。此れは公使館のもので、英語の出来る男であったが、我輩の言ふことは、ホンの少しゝしか通弁せぬが、先方のことは蛇足を付けてまで取次ぐ。実に情けないものだと思った。此方の言ふことは誠に短かい。先方の言ふことは丁寧に通ずる。我輩は言葉は分らぬが、通弁の仕方に依って分かる。ドウして斯うも変るものか、全く国と云ふ観念がない。平生懇意にする外国人と云ふことが元になって居るのである。後には立派な人になったがね。
談判は今の調子で水掛論だ。皆小気味好く刎ね付けた。何と言っても足を震はして居るやうな相手だ。此方は平気なものだ。其内に英吉利の代理公使が口を開いたが、皆と違ふ。案外應〔ママ〕揚だ。
「我々が何と言った所で、公使は責任は実に重いと言はれるのであるし、其公使が責任上調査すると言はれるものは、他から想像や風説を以て、彼れ是れ論争すると云ふは、些と早過ぎはせぬか。」
と言ひ出すと、直ぐ此れに賛成したのは独逸であった。主として喧しく言ふのが露西亜と亜米利加、此二人だ。亜米利加は今尚ほ朝鮮の事には、口を出すのだ。
サア此騒動で、我輩は呼び還された。十月廿四日付で罷免となった。東京からは露西亜語の通する半ば探偵のやうなものが、多人数乗込んで来る。其内に小村が代りの公使となって来た。
我輩は最初朝鮮に行く時、三箇条の質問書を差出したが、政府はソレに対して、何の指図をも仕ない。ソレで此れは我輩に自由に遣れと云ふ意味だと承知して赴任した訳である。今までの如く弥縫して行く位の事は、固より知って居る。弥縫すれば弥縫の出来ないことはない。併しは弥縫は何処までも弥縫である。根本の解決ではない。
斯う云ふ遣り方では実に際限がない。仕方がない。縦令自分の身を焚くも、国権の重きには換へられぬ。此れが煙草三服喫む間に決した事で、終に思ひ切って断行したのである。ソレで政府に対しては案外平気だ。
「帰れと云ふことなら帰らう。事情は帰ってからお話する。」
と云ふことだけ報告して置いて、扨て愈々帰朝の船に上ったのである。
六
汽船は馬関に着いた。我輩は上陸の支度までしたが、上陸地は此処ではない。宇品だと云ふことで、又宇品に往った。彼処にカランテンがある。虎列拉か何かゞあって検疫するから、其処で小舟で上れと云ふことである。ソコで検疫を受けて、湯に這入った。
頓て湯から上がるや否や、多人数の巡査が遣って来て、拘引状を示した、サア我輩は大憤った。
「内閣員が出て来て、一通り此事の顛末を聴きさうなものだ、而して此方に罪があると云ふなら、甘んじて受けもする。一言も聴きもせず、直ちに火付夜盗の扱ひをする。人を欺いて、検疫所へ連れ行き、湯に入れて置いて、斯う云ふことをする。実に怪しからぬ。」
憤っては見たものゝ、相手は巡査だ。仕様がない。ソレなり広島の裁判所へ引っ張られて往った。一応事実を尋問したが、
「イヤ自分に対するお尋ねは、誰か内閣員が来て聴くのが当然である。ソレまでは言ふべき筋でない。」
断然刎ね付けて一切答弁しない。日が暮れてから、送られて往った所が監獄だ。監獄へ連れて往かれた。一通り獄則を言ひ渡したうえ、監房へ入れて、ビチンと錠を卸した。身は既に鉄窓場裏の人となったのである。
其後一度裁判所へ呼び出されたが、別に大した尋問もなかった。
監獄では身分が身分だけに、大分寛大に取扱って呉れた。タッタ一人広い所へ入れ、朝夕二度づゝ運動を許して呉れた。他の監房で色々の話声が聞える。アレも来て居る。コレも来て居ると、其声音で薄々分った。運動の時間に、ブラブラと其前を通ると、軍鶏の籠から覗くやうに、皆顔を出して見て居る。多くは知らぬ顔であるが、場所が場所だ。
「ヤア親分が運動に出て居る。」
と思へば、尚更懐かしいものであらう。皆顔を並べて居る。実に不憫だと思った。
我輩は取扱ひも寛大で、宿から弁当も入れる。菓子も入れる。先づ不自由はない。其菓子や食物は、唯自分が少し食ふばかりで、跡は紙。紙と云った所で、唯便所の塵紙があるばかりだ。其塵紙に包んで、袂へ入れ、運動に出る度毎、監視の隙を見てソッと監房の中へ投り込んで遣るのだ。尤も看守も鷹揚に見ては呉れたが。
ビスケットが来ればビスケット。蒸芋が来れば蒸芋。ソレを少しづゝ紙に包んで投って遣る。別には今日は誰々まで行ったと云ふことを書き付けて置くのだ。入監九十日の間、楽みと云ふは、此れが一つだ。
今の内務大臣の水野廉太郎、アレが内務書記官であったが、監獄へ廻って来た。コレは前から知って居ったが、其折り、
「斯う云ふ所へお這入りになって、実にお気の毒だ。」
と言ふから、我輩は、
「乃公と外の者とは、其間に唯鉄窓が一つあるばかりだ。外の者は乃公が監獄に這入って居ると見えようが、乃公からは外の者が監獄に居るやうに見える。唯間に鉄の格子が嵌って居るだけだ。」
と答へた。其間世間の容子が聞えぬ丈けに、却て呑気に日を暮らした。さうして丸々九十日経つと、無罪放免と来た。其間は華族の礼遇、其他皆停止されて居ったと見える。
監獄から出ると、アノ辺の有志者の歓迎会に招かれた。それから汽車で帰ったが、沿道到る処、多人数群集して、万歳々々の声を浴せ掛けるやうな事であった。
汽車が静岡に着いた。我輩は途中下車して、大東館に一泊したが、谷夫婦が出迎へに来て呉れた。
「是れからドウする積りか。」
と聞くから、
「我輩は元々熱海の山から出て往ったのだ。済んで見れば、復た元の熱海へ帰るまでだ。」
と答へた。
「ソレもさうだが、途中の駅々には、態々多人数出て来て、送迎すると云ふことになって居る。ソレに内輪でも心配して居るから、一応は東京に帰り、其上で熱海へ往ってはドウか。」
と言ふから、
「ソレではさうしよう。」
と言って、谷夫婦と共に東京に帰った。
七
東京に着いた其晩、早速米田侍従が訪ねて来た。我輩は先づ、
「お上には大変御心配遊ばしたことであらう。誠に相済まぬことであった。」
と挨拶すると、
「イヤお上はアノ事件をお耳に入れた時、遣る時には遣るナと云ふお言葉であった。」
と答へ、更に、
「今夜お訪したのは、外でもない。実はアレが煮ても焼いても食へない大院君を、ベトベトにして使って行ったが、コレには何か特約でもあったことか、ソレを聞いて来いと申すことで、ソレでお訪ねした。」
とのことである。我輩は此れに対して、
「イヤ大院君とは約束も何もない。最初井上から大院君と王妃とは、決して政治上に喙を容れてはならぬと云ふことにして、書付まで取って居る。然るに王妃は何時の間にか以前に倍して、政治上に関係するに反し、大院君は相変らず押込隠居同然の有様であった。ソレでアノ事件の起った朝、自分は大院君に会って、元々斯う云ふ関係になって居るから、殿下は政治上に容喙することはなりませんぞと戒めた。大院君も李家を救うて呉れると云ふことなら、何よりも有り難い。決して政治上に関係せんから、安心して呉れと云ふことであった。一言半句も理屈はない。唯自分の言ひなり次第になった訳で、約束も何もない。唯井上の折りの書付が反古になったのを、自分が再び活かしたまでの事だ。此辺の事情を能く申上げて呉れ。」
と答へたことであった。
我輩の行為は、是か、非か。唯天が照臨ましますであらう。
八
それから今度は宮内大臣の田中が遣って来た。コレは伊藤から頼まれて来たと云ふことである。其趣意は、
「今度の一件から、各政黨が頻りに君を担がうとして居る。君は例の気性だから、悪くすると此事に憤慨して、此れに身を投ずるかも知れぬ。此れはドウも三浦の為めに甚だ宜しくない。君は極く懇意だから、ドウか往って、此事を話して呉れと云ふことで、ソレで訪ねて来た。」
と云ふ訳である。我輩は甚だ不満だ。
「ソレは折角の御親切だが、返上する。伊藤に今日ソレ丈けの親切があるならば、何故広島に来て、乃公に会はなかったか。真実に国を憂ふる心から出て居る事だ。善くても悪くても、伊藤にソレ丈けの親切があるならば、一応乃公の真意を聴きさうなものだ。ソレを何ぞや、火付夜盗の扱ひをして、閣員一人でも出て来ぬ。ソレに今日乃公の一身の為めに宜しくないなど云ふは、乃公は受けぬ。返上する。伊藤にさう言って呉れ。」
と断然刎ね付け、更に、
「元々乃公は好んで朝鮮に往った訳ではない。熱海の山に引っ込ん居るものを態々引き出して、朝鮮へ往つて呉れとの事であった。其相談が気に入らぬと言って、一旦熱海へったが、又々呼び出されて、トウトウ往くことになったのだ。モウ済んで見れば、身体に傷が付いたではなし、監獄へ入れようが、入れまいが、軽微の事だ。広島から直ぐ熱海へ帰る積りであったが、谷夫婦が静岡まで出て来て、一応は東京へ帰れと言ふから、ソレで一緒に帰って来た。今日は立たう。明日は立たうと云ふ内、朝早くから人が訪ねて来る。ソレを無碍に断わり兼ねて、段々日が延びたが、モウ際限がない。明日は断然熱海へ行く。」
と言ったら、田中もソレならばと言って帰ったが、此時、華族の礼遇は、元の通りと云ふことに運んで来て居った。宮中顧問官と云うやうな役もあったが、皆復された。
我輩は政党の関係など、そんなことは些っとも問題には仕て居ない。ソレで伊藤も後には大に安心したと見える。ソレから後には会ひもしたがね。
九
其後井上は、
「三浦は実に気の毒だった。自分の身をアヽまでにして遣ったのだ。実に気の毒だ。」
と思ひ込んだ。コヽが井上の他と違って居る点である。性急の男だ。早速藤田伝三郎を使として寄越した。
「実は井上さんのお使で参りました。貴下の事に就て、ドウも気の毒だ。気の毒だと頻りに言はれて居ります。ソレで今夜乃公の手料理で、一緒に飯を食ひたい。貴様は何の關係もないが、懇意の間柄だ、相伴して呉れ。ソシて案内して来て呉れと云ふことで、お迎ひに参りました。」
と云ふことだ。
「ソレは有り難い。行かう。」
と言って、出掛けたが、井上も喜んで、
「久し振りで自分の指図で拵へた。」
と言って、頗る贅沢な馳走を仕て呉れたが、唯気の毒だ、気の毒だと云ふ一言のみであった。
伊藤であらうが、井上であらうが、山縣にした所が、我輩が好んで往ったのではない。無理に遣ったことは、能く知って居る。事が済んで見れば、何処までもソレは気の毒だと云ふことであった。山縣の如きも、
「アレは膽を焼かして、仕様のない奴ぢゃが、自分一個の事に就て彼是言ったことは、曾てない。」
と始終人に言って居った。此れは知己の言と謂ふべきである。朝鮮事件は大体這んなものであった。
新聞記者に語った回顧
藤本尚則「巨人頭山満翁」政教社、1922年（大正11）の469-477頁
将軍の回顧談
該事件に関し当の大立物たる三浦観樹将軍嘗て時事新報記者に語って曰く、
あゝ王妃事件か、今更そんな事はどうでも可いが、誰が殺したかと云へば俺が遣ったと云ふより外はないサ、俺は知らぬと頑張ったとて世間では却々承知せまいしねぇ。時は明治二十八年半ば過ぎの事だ、当時狡猾極まる露国が三国干渉の味を占めて朝鮮にまでノサバリ出で、時の北京公使館書記官たりしウェーバーと云ふ男を韓国公使に任命し彼れの辣腕に依って韓廷を自家薬籠中のものたらしめんとした。当時我が公使井上馨は疾くから韓廷から秋風を立てられながら自分では独りヨガリをして居る所へ眼玉の色の変ったのがやって来てイチャ付いて居るのも知らずに居るので、我政府でも遅蒔きながら此点に気が付いたものか井上老人を呼び戻す事になった。ところが其の後任には政府もホトホト困った様だったが、どういふ風の吹き回しか山県を通じて俺の所へ持って来た。誰だってこの大難物の朝鮮行を諾するものではない、況んや一介の武弁で、外交家でも政治家でもない俺に此の重荷を負はさうと云ふには何か政府に見る所あっての事とは考へたので、無理に行ってくれと云へば行かないものでもないが、その代り政府の考を決めて貰ひたい、朝鮮を取るつもりか、分けるつもりか、抑もまた保存するつもりかと問題を出して置いて俺は飄然と熱海の別荘へと遊びに行った。所が之れにも懲りず野村（靖子）などが山県の内意を受けて頻りに熱海までお百度を踏む、遂に彼等禿頭に免じて引受けたやうな訳さ。出発に先ち帝国ホテルで盛んに送別会を開いてくれた時に松方老が「全体貴公の対韓策は」と聞くから、俺は詰らぬ事を尋ねる男だ、余程焼きが回ったなと思ったから「対韓策なんてそんな事は知らないよ」と答へると、松方しつこく付き纏って「そんな事はあるまい、大体だけでも聞かしてくれい」と迫る、そこで俺は、
「自分は対韓策が無ければこそ政府に明示を求めたのだが、今以て答へがない、そこで此儘飛び出すとせば、先づ気狂（振り仮名きちがひ）を朝鮮に追ひ遣るったと思へば間違いはなからう」
と云ったら、松方頗る不安な顔をして居た。まあそんな調子で朝鮮に行って、公使館の楼上から密かに風雲の去来を観測して居た。所が此時既露国の勢力は牢乎として宮中に扶植し、殊に閔泳駿が芝罘から帰って以来、露公使と閔妃の間に斡旋至らざるなく、おまけに井上が去って以来一層彼等が跋扈して一大変動の起る事は鏡にかけて見るやうなものさ。当時韓国唯一の新式軍隊たる訓練隊といふものが、日本武官に教養されたもので、我勢力の擁護者と云ふ訳であったが、朝鮮の馬鹿者共、俺が黙って居るのをよい事に思って、訓練隊の武器を押収したいが日本公使の意見は如何で御座るとトボけた事を云って来た。つまり治安維持の名の下に此軍隊の戦闘力を奪はうと云ふ魂胆さ。其時の使は軍務大臣の安駉寿であったが、そこで俺の曰く、
「韓皇陛下がそれ程までに訓練隊の武器を押収したい思召しなら御勝手になさるが宜しい。外臣たる自分の敢て関知する所では御座らぬ。併し訓練隊が今日の如く精鋭を致したのは抑も誰のお蔭であるか、云ふ迄も無く日本の指導教養の賜である。その由来をも顧みず、僅巡検等との衝突を名として軍隊の生命たる武器を押収するなどゝとは呆れ返って回答も何もする事が出来ない」
と、こんな風に大痛棒を喰はせたところ、安駉寿の奴眼を白黒させて逃げ帰って了った。此時宮中の状態はと云へば、露国の計画は着々其歩を進め、機会だにあらば金宏集以下主なる日本党を殺害して一挙にしてクーデターを行はんとして居る。彼我を制するか、我彼を制するか、形勢は刻々に迫り、間髪を容れざる場合となった。そこで俺も種々工夫した結果、書記官の杉村濬が采配を採って或る活動の準備に取り掛った。かの岡本柳之助や、当時公使館付武官たりし楠瀬幸彦等の豪傑連も此計画に参与したが、其根本基礎と云ふものは一に杉村の手に成ったものである。同時に韓国側でも国勢の日に非なるを慨する志士等は機を得たならば起って露国側に一泡吹かさうと敦圉いて居るので、先づ此れ等の連中を手足に使って勝敗を一挙に決せんものと、孔徳里に隠棲の大院君を起して国政改革の任に当らしめた。
杉村等が極秘の裡に一大計画の為め東奔西走して居る一方、露国の公使も何だか日本側の態度が変だと思ったと見え、当時露国公使の手先となって居た米国代理公使が飄然として我公使館に探りを入れに来た。そこで俺の方では幸ひ天長節も切迫して居る時でもあったが格別用もない館内の修繕に取り掛り、職人が大勢這入ってペンキの塗換をやるやらして、階上階下非常の混雑である。そこで代理公使に会ふにも、生憎応接間が使へないからと云って薄暗い俺の寝室で会ったりしたので、彼は巧く此手に乗って安心したらしく、俺も丁度総領事の晩餐会に招待されて居たから、領事館まで一緒に出掛けた。そこで彼は益々我れに他意なきを信じたらしいが、焉んぞ知らん、一大計画は杉村の手に依って着々進捗し、此日の夜半突如として勃発するに至ったのである。
総領事の内田定槌は新任公使たる俺の為めに山海の珍味を調へては居たが接待役としては内田の外影も形も見えぬ。扨ては皆例の方へ行ったなと思ったが、内田には此計画を漏してないものだから彼は頻りに誰も居ないと云って愚痴をこぼし
「せっかく閣下の御来臨を承知しながら未だに誰も帰って来ず、何とも申訳のない事です。殊に領事官補の堀口などは早朝乗馬で出掛けたキリ何の音沙汰もないが如何にも無責任極まって居ります」
と小言やら言訳やらをゴッチャにする始末さ。俺は腹の中では可笑しくもあり、また気の毒のやうにも感じられるので、
「そんな心配は一切無用だ。若い連中だから外出すれば一時間や二時間帰りの遅れるのは当然の事だ。別に急ぐ用事でもないから今夜は館員の細君連でも呼んでユックリ御馳走になる、構はないでくれ」
と云ったので内田も漸く安心したらしく彼是十二時頃まで酌み交して帰途に就いたが、仲秋の月は隈なく晴れて居るが市街は冷寂として一大計画の実行には誂へ向きの夜である。公使館には杉村が唯一人ツクネンとして机に向ひ手習をしつゝ俺の帰りを待って居たらしい、彼は十二分に用意を済ませて館内に引揚げたのだが、其落付き払った所は流石に此の活劇の大立物ぢゃ哩。彼是する内に一時も過ぎ、二時にも垂んとするが別に何等の報告に接しない。杉村は俺に向ひ「少し御休みになってはどうです、其内報告でも来ましたら御知らせ申しますから」と勧めるので、俺も「それならば」と寝室に入ったものゝ気掛りで容易に寝付かれない、傍らにあった葡萄酒を二三杯引掛けて床の上に横はって居ると、起れりや起れりや、豆を煎るが如き銃声は遥かに京城の彼方に起り、秋の夜の寂寞を破って手に取る如く聞える、俺は思はず雀躍して「占めた」と起き上る一刹那、杉村は俺の寝室の扉を開いて「万歳」と叫んだ。
話変って其夜の計画を聞くに、日本志士の指揮官たる岡本柳之助が同志と共に孔徳里に大院君を迎へに行ったのが八日の午前一時頃ださうだ。大院君は日韓の志士数十名に警護せられて孔徳里の邸を出で城外で訓練隊の到るを待つ内に夜は次第に更けて、二時、三時にもなって来る。明け方の風は漸く吹き初めて、楊花鎮、麻浦、龍山の諸邑は冷白たる北斗の星影に眠り、落月将に漢江を呑まんとする蕭殺たる光景ぢゃ。暫くして訓練隊が道を間違へて別の路に出たと使者の報知に接したので、一行は奔馳して西大門に向った。西大門に着すると白衣の訓練隊が既に到着して居り、程なく我が守備隊四百余人が隊伍整々繰り出して来たので、此処で勢揃ひして王城に向ったと云ふ事ぢゃ。
大院君は日本の守備兵と韓国の訓練隊とに擁護せられて光化門から入城した、さうして茲に端なくも宮中護衛の兵士等と小衝突を起したのだが、意気衝天の概ある訓練隊と守備兵は一溜りもなく護衛兵を蹴散らして宮城の奥深く進入した。曩に俺が寝台の上で雀躍したのも杉村が万歳を叫んで飛込んで来たのも此時起った銃声であった。イヤ討入りの一幕は俺の実見しない事だから、日本の志士が抜刀で斬り込んだやら、日本の守備兵が着剣のまゝ突入したのやら、其辺の立回りは俺には判らぬ。
扨て夜が明けるや否や韓皇陛下から急使が来て、直ちに参内せられたいと云はれる。俺も斯くあるべしとは予て覚悟して居た事とて、早速用意を整へて参内すると、宮殿は実以て落花狼藉の極ぢゃ。鮮血は淋漓として殿上に飛び散り、剰さへ閔妃は何者にか殺害されたと云ふ大騒動ぢゃ、流石の韓皇陛下も顔色蒼褪めてブルブルと慄へて居られる。さうして其傍らには名門の出らしき一人の老人が口を尖らして何事か韓皇を罵って居る様子に見える。此老人は俺の顔を見るや急に頭を下げて何だか判らぬ事を無暗に喋り出したが、此人こそ有名な大院君で、俺に対して今回の労を謝すと云ったのださうだ。予て大院君からは再三面会の申込があったが、俺の方にも少し考ふる所あって今日まで殊更面会を避けて居たから、全く初対面であったが、彼は初めて我輩の胸中が読めたものと見え、喜色満面に溢れて居るやうであった。
扨て韓皇陛下に対しては、兎も角御静養なさるが宜しいと云ふので早速別殿に動座を願ひ、大院君は俺を誘って食堂に入って昼飯の御馳走をしたが、老人食掛の匙を取って俺の口の中に入れるぢゃないか、別嬪の食掛なら進んでアーンもするが、白髪老爺の歯糞の付いたのには俺も聊か辟易した。何でも之れは余程親密な間柄に於て行はれる韓国の風習ださうだ。
斯くて食事後の一吹をやって居ると、此事変を聞き付けた露国公使や米国代理公使が倉皇として駆け付け陛下に謁見せんことを迫る、併し今逢はしてはどうも面白くないから、陛下は御不例で静養中ぢゃから謁見は叶はぬと謝絶させた、すると露国公使もさる者で、日本公使は謁見して居るではないかと突込んで来たが、我輩が頑張って遂に謁見は許さなかった。そこで露国公使は、然らば日本公使に会見したいと出掛けて来たので、俺れは夫れならコチラへ来いと、廊下に起ったまゝ露米の両公使と会見した。
露米の両国公使に会見して居ると、彼奴等は頻りに我が国の行動をブツブツ云ふが、俺は却々夫れ所ぢゃありやしない、俺は沢山な部下を引連れて居るから君等の為めに時間を潰されては迷惑であると開き直って、扨て露公使の足許を眺めると、ウェーバーの奴ガタガタ慄へて居るではないか、莫迦莫迦しい、こんな奴等に脅かされて居たかと思ふと阿保らしくて物が云へない、併し立話では済まないから、兎に角我公使館で公使会議を開く事にして袂を別った。
夫れから公使会議を開くと、露公使は例の通り真赤になって喰って掛る、聞けば日本の壮士が抜刀を揮って宮城に闖入したとの事であるが事実は果して如何であるかと切り込んで来る、俺は落付き払って、折角のお尋ねだが実見せぬ事だから何ともお答へが出来ない、併し我が日本の習慣は、一歩でも屋外へ踏み出すには護身の為必ず日本刀を携へて行くものとなって居る。若し我が国の壮士が大院君に扈従して入城したものとすれば、或は防衛的に抜刀したのかも知らぬ、生憎とそんな所まで目を配らなかったから御気の毒だが判然致し申さずと呆けてやったよ、奴さん益々仏頂面をして膨れ出したが、王城内ではブルブル慄へて居た奴だもの、俺の眼中最早ウェーバーなどありやしない。此報道が一たび日本に達すると上下の驚駭は実に甚しく、別して政府の狼狽と云ったら形容も出来たものでない、三浦の奴困った事を仕出かしてくれたと云ふ風で、憲兵が来る刑事が来る、京城は上を下への大騒動となった。兎角する内俺と杉村とは内地へ召還されたが、船が宇品に着くと直ちに御用と警部や巡査が大勢遣って来て俺を縛った。俺は公使は免官となっても陸軍中将ではあるし夫れ相当の位記勲章をも頂戴して居るから、拒まうとすれば拒む事も出来る訳だが、併し狼狽して居る政府、イヤ警部等を相手に議論をしたとて何の利益もないこと、神妙に両手を後に回して広島監獄に送られたが、其時隣室で頻りに議論をする者がある、聞き馴れた声だと思って耳を澄ますと夫れは楠瀬幸彦ぢゃないか、ハハア楠瀬もやられたなと思ったら何となく気の毒のやうな感じがした。夫れから九十余日の間広島の監獄に居て毎日法廷へ引張り出された、裁判官奴更に天下の大勢が分らぬものだから、俺達を泥坊か詐欺師と同じやうに訊問するぢゃないか、どうかして罪に落さう落さうと云ふ風で追窮して来る、尤も後になると政府も目が醒めたと見えて、大分其態度が変って、遂に無罪放免となった。それから俺が東京に帰る時、大磯（大森？）まで頭山君が迎へに来てくれたが、其時頭山が一言、
「いよいよ、やるなら、遣っ付けようと思ふてゐた」
と言ったが、一語実に千鈞の重みあり、此の意気を以て当時飛ぶ鳥も落す勢の伊藤内閣を戦慄させたものだよ、所が此の以後又々日本の対韓政策が馬鹿に弱くなり、俺が京城を立つ時、今の内閣は日本の為めに犠牲となったのだから、此内閣丈けは支持するやうに頼むと云ひ遺して置いたのに、数日を出でずして忽ち更迭させて終った。最後に一言付け加へて置くが、王妃殺害の下手人に就ては、当時の朝鮮政府では成るべく日本の迷惑にならぬ様にと、李周会と云ふ男を下手人として自首させた。さうして一切の責任は韓国側で引受けて呉れたのである。
著者（※藤本）曰く。李周会は夙に親日党として国事に奔走し、十五年の騒乱に際し金鼇嶋に流された。当時結城虎五郎氏は金玉均の紹介で一夜同島に渡って李と会して軈て事を挙ぐるを約し、李は準備として同島の開拓及び漁猟の名の下に多くの同士を糾合せしも時機至らずして逆境に苦しむ事十余年、閔妃殺害事件に当り彼は多くの同士を殺すに忍びずと為し、単独罪を引受け、梟首の刑に処せられたのである。
安達謙蔵の回顧
「閔妃事件では投獄の憂目 公使三浦梧楼子と極秘裡の策謀 安達謙蔵」東京朝日新聞政治部編「その頃を語る」（1928年）所収
回顧すれば明治二十六年(※1893年）、先輩佐々友房氏に伴はれて、初めて朝鮮に渡ってから、対韓政策は我国策の基幹をなすものだといふ考へを深くしてゐたが、間もなく日清戦争が勃発したので、我れ志を伸ぶるはこの秋であると急遽渡韓し、時の釜山総領事室田義文氏（現在貴族院議員）の勧誘で、当時休刊中の朝鮮時報社を経営することになった。
かくて釜山に腰を落ちつけてゐるうち、日本政府は朝鮮時局の重大なるに鑑みて、内務大臣井上馨伯を特に朝鮮公使として派遣したので、我輩は直に書を旧知の品川弥二郎子に送って井上伯に対する添書をもらひ、また室田総領事にも紹介を依頼して京城に向ひ、井上公使に会見してまづ韓人の指導啓発のため諺文（朝鮮語）新聞の必要を論じた。これが我輩が京城で意外の大事件にたづさはるに至った端緒である。井上公使は初対面ではあったが、大に心を動かし遂に我輩の意見を容れたので、当時一等書記官の杉村濬氏の仲介で、安駉壽と提携して漢城新報社を創立することになった。かくて我輩は漢城新報社を経営して、井上公使の対韓政策を援助した。大体井上公使の対韓政策といふのは、当時の韓国における二大勢力である閔王妃と大院君との双方の勢力を押へて、宮中府中の別を明らかにし、完全なる法治国とするの方針で、これがいはゆる井上公使の法典政略といふのであった。
右の方針に基づいて井上公使は間もなく日本から多数の政治顧問を呼んで、急速に法律規則の制定に取りかゝったが、そのうちには斉藤修一郎、星亨、仁尾惟茂、岡本柳之助、石塚英蔵、楠瀬幸彦氏等がゐた。然るにこの井上公使の理想は、腐敗し切った当時の朝鮮には到底適応すべくもなかった。かくて翌年井上公使の帰国した留守中に、朴泳孝の宮中に対する不軌事件なるものが起り、遂に朴氏の日本亡命といふ騒ぎまで起ったので、急遽帰任した井上公使も方針を一変し、いはゆる法典政略を捨てゝ宮中政略に移り、時の勢力を恣にしてゐる閔王妃に接近し始めた。閔妃もまた井上公使の態度を歓迎し、更に一層宮中における専横放縦を逞しうして来た。
所が日清戦争の終局に当って青天霹靂、日本国民の心胆を寒からしめたのは彼の露、独、仏の三国干渉で、この干渉に屈従して我国は遼東半島を還付するに至り、戦勝の夢一時に覚め果てたが、その結果は我帝国の朝鮮における威信にも重大な影響を与へた。かくて韓国政府および一般人民は、露国の強大をたゝへて急転直下京城の政局はこの事大思想に圧せられて来た。この間にあって露国の駐韓公使ウェバァ夫妻は、うまく宮中に取り入って要路の人々と深く結託し、それまで我国の指導のもとに改革した諸般の施設を片端しから破壊しかゝった。井上伯の滞在中は、旧勢力の情勢によって多少は威信を保ったが、伯が一度京城を去りその船がいまだ馬関海峡に入らざる前に、京城の形勢は刻々と悪化し、我国の勢力は全く失墜するに至った。
この時井上伯の後任として三浦梧楼子が公使として乗り込んだ。三浦子は機敏にして勇断、剃刀の如き性格の持主であって、着任早々形勢の推移を看取し、当面の時局に対しては尋常姑息の手段をもってしては到底その改革をなすことは出来ぬ。この際はたゞクーデターあるのみと心ひそかに期するものがあったと察せられた。
明治二十八年（※1895年）十月一日は我輩にとって思ひ出深き日である。薄暮我輩は公使館を訪うた。三浦公使は晩餐中であったが、共に馬関のギスケ煮の罐詰にビールをあふって時局を歎じ合った。公使は「形勢いよいよ切迫した。まさに近日をもって大事をあげる覚悟である。君は同志中決死の人幾人を得らるゝか」と問うたので、我輩は「京城にある同志中志士といふべき人は二三に過ぎない。やむなくば郷里(熊本）より電招してもよい」と答へると、公使は「時期急迫電招の暇はない。よって二三の人あればそれでよい」といって無雑作のうちに閔妃に対する断然たる決心を言明した。
元来三浦公使は、大事を挙ぐるに当って必要のない人には、如何に親近かつ有力なる人物といへども、その秘密を漏らさない方針であったから、この計画に参加したものは、公使館の杉村（濬）書記官、岡本柳之助、公使館付砲兵中佐楠瀬幸彦の諸氏に過ぎなかった。京城領事の内田定槌氏を始め、政府派遣の顧問連中は誰も知らなかったが、たゞ領事館補の堀口九万一氏のみは大院君との交渉連絡のため尽力したのである。三浦子は閔妃亡き後大院君を利用して、宮中および政府の根本的大改革を行はんとの方針を持ってゐた。
いよいよ十月中旬頃に決行する手はずをもって準備にかゝったが、十月七日に至り軍務大臣安駉寿が、にはかに宮中の使命を帯びて我公使館に来て訓練隊の解散に同意を求めた。そもそも訓練隊は日清戦争の際から日本士官の心血を注いで養成した鮮人兵士であって、日本の勢力はその軍隊によって維持せられてゐたものである。若しこれを解散すれば我勢威は根底より覆滅するは必定である。従って訓練隊解散の通告に心臓を刺される思ひをした者は、ひとり三浦公使のみではなく我々同志の憤慨は極度に達した。
こゝにおいて三浦公使は予定期日を変更し、いはゆる大院君擁立運動に疾風迅雷的に着手する事となった。翌八日の未明（午前四時頃）をもって大院君は日本志士と訓練隊を率ゐて宮中に参入した。大混乱のうちに閔妃の逝去をみたる大計画は断行された。
この報一たび内地に伝はるや、伊藤内閣は驚愕し、小村寿太郎氏（当時通商局長後公使に昇任）を朝鮮に特派して善後処分をなさしめたが、同志一同に対しては領事館より退去命令が発せられ、三浦子には日本政府から帰朝命令があり、第一、第二の御用船に運ばれて馬関に着いたが、上陸を許されなかったため、三浦子始め同志十余名は同時に宇品港にて捕縛され、謀殺凶徒聚集の恐ろしい罪名で広島監獄に収監された。我輩は新聞経営の挫折を恐れて、一同と協議の上小村氏に談判し、一時京城に留ってゐたが、同志の裁判進行につれ、同じく退韓を命ぜられ、十月二十日、馬関にて捕まり同じく広島監獄に収監された。時に三十一歳であった。
三浦子を始め四十八名の同志は八十余日獄中に呻吟し、その間吉岡といふ巡査上りの名予審判事に想像以上の峻烈な取調を受けたが、結局全部証拠不十分の理由で釈放された。思へばそのうちニ十二名は自分と郷里を同じくせる人々で、就中十名は我輩の新聞社で起臥を共にした縁故深い者である。当時青春の血に燃えてゐたこれ等同志はほとんど亡き人となったが、その頃を偲べば実に感慨無量夢のやうである。
〔略歴〕前逓信大臣、民政党領袖、衆議院議員。
元治元年熊本県に生れ（六十五歳）、熊本濟々黌に学び、朝鮮時報及び漢城新報社を創立し、その後佐々友房の後を承けて国権党の重鎮となる。明治三十五年以来衆議院議員に当選十回におよび現に民政党総務として政界に重きをなして居る。大正十四年護憲内閣事大犬養毅氏の後を襲ふて逓信大臣となる。
京城日報1934年11月23日
その頃を語る（四）閔妃事件の当時を想ひ起こすと感無量 安達謙蔵
…その中に井上公使がやって来られて指導の大任に当られる事になった、この人の最初の政策は当時朝鮮は閔家と大院君とがあって絶えず争ひ続けてゐたので、双方をおさへつけてそうして公平な政をなさうと各方面の顧問官を入れて諸般の制度改革法典の改廃等志されたが、仲々思ふやうにうまく行かない、それもその筈だ、知識程度の進んでゐない所へ内地の様な積りでやらうとしたのだからうまく行かない、中途で一度帰国せられて再びやって来られてからは従来と全く政策を一変して専ら宮中政略を初めたのである
即ち今迄抑えつけてあった閔妃の力を大いに用ひて之を利用し諸般の政治をなすやうになったので宮中は大喜びだった、そして井上公使の居られる間は何でも云はれる通り服するやうになったが、一度朝鮮の地を去られるや、乗船が未だ馬関海峡にも達せざるに早くも宮中の態度方針は俄に一変したかの如き観を呈した、即ち井上公使の後を継いだ三浦さんの時官邸を守ってゐる日本の訓練した特殊兵二個大隊に解散を命じ、日本政府を根底から覆へそうとするの政策が行はれやうとしたので三浦さんは大いに怒って大院君を押立てると共に閔氏を抑える事になった
その結果が例の大騒動を引き起し三浦公使を初め吾々共も退韓を命ぜられるやうな事になった（以下略）
「安達謙蔵自叙伝」1960年
第八章 大院君の入闕（閔妃事件）
三、三浦公使を往訪、晩酌時の対談
井上前公使がやっと御輿をあげて内地に引き上げた翌日か翌々日だったか、予は三浦公使を往訪した。時たまたま公使は晩酌中であったが、日本間のその食卓に予を招じてビールを注いでくれたり、馬関名物のぎすけ煮（最小なる雑魚の干物）を出してすすめたりした、予がその夜の訪問の目的は、険悪な風雲を孕む今日、新公使の対韓決意のほどを確かむるにあったが、公使は実に無雑作に発言して曰く、「どうせ一度はキツネ狩をせねばならぬが、君の手許に若い者（当時は壮士と称していた）が、どれくらい居るか」と尋ねる。予はその言葉が何を意味するか、突然にハッと脳裡に閃くものがあったので、胸中非常な感動を受け、即座に返答した。「居る。然しながら新聞経営のために連れて来ているのだから、総じて温厚な者しか居ない。若し元気のよい者が必要なら、暗号電報一本うてば、いつでも郷里から必要なだけを呼び寄せることができる。すぐ呼ぼうか」と云うと、公使は「いやそれには及ばぬ、然しこれは絶対秘密だよ」と目くばせしてくれた。
予は、三浦公使に不動の決心あることを確かめて帰途についたが、おりから露滋き初秋の夜半、月は南山の上に昇って光芒銀箭の如く、明暗危機をはらんで鋭気鬱勃、一種無量の感慨に打たれたことを、今尚思い起こすことができるのである。
月成光の手記
藤本尚則「巨人頭山満翁」政教社、1922年（大正11）の478-481頁
以下の2資料も同趣旨の内容。特に黒龍会本の記述は月成手記と酷似しており、手記を参照した可能性がある。
黒竜会編「東亜先覚志士記伝 上巻」1933年
「安達謙蔵自叙伝」1960年
月成君の手記
尚ほ当時三浦公使の幕僚として渡韓せる月成光君の手記せる所左の如きものがある。
日清戦争に従軍せし予が役終って明治二十八年六月、東京に凱旋するや東海散士柴四郎氏に会す。氏曰く、君の凱旋の報を得て来着を待てり、此度我等運動の結果、三浦梧楼氏朝鮮公使に任ぜられたれば、我等宿望を達するは今日にあり、予も亦渡韓して三浦氏の政策を幇助せんとす。君の身上に関しては三浦氏に談じ置きたれば、若し渡韓の意あらば同行三浦氏を訪問せんと、依って柴氏と共に三浦氏に面会して随行の事を約せり。而して独り先づ東京を発して、西京滞在の頭山満氏に面会し、渡韓の事由を談じ、頭山氏と同行帰省せり。爾後一週間を経て三浦氏馬関来着の報を得、頭山氏、熊本の佐々友房氏及び予と三人馬関に於て三浦氏に会し、予は公使の随行員となりて渡韓するに至れり。
我等の朝鮮に着せし当時は井上馨氏自ら其の対韓策の成功を信じ居りしも、其実王妃に瞞着せられたるに過ぎざれば、井上氏の去るに及びて日本の勢力は日に退歩するの有様を呈せり。是れ日本は三国干渉の為めに遼東半島を還付せるを以て、事大党なる朝鮮政府は弱国の日本に頼らんよりは露国に頼るを得策なりと信ぜるを以てなり。於是乎日露の競争は日々激烈となり、遂に十月八日の事変を生ずるに至れり、予の此の事変に関するの動機は、十月五日の夜、巴城館に宿泊せる柴四郎氏を訪問せしに、同氏は一泊の予定にて銃猟の用意中なりき、折柄国友重章氏も来合せ、三浦公使も来訪せられ予と囲碁などを闘はし、十一時に至りて帰途に就かる。その際公使は柴氏に向って、明朝来れと言ひ残し、柴氏も軽く受け銃猟に出掛け、予は帰宅せり。七日の朝柴氏より、急用ある故来れとの報ありしも、病気の為めに断りたれば、氏は公使館よりの帰途予の宿に来り、今夕朝鮮政府改革の事につき打合せの事あれば我宿に来れと云はれたり、予乃ち同志藤勝顕氏に通知して共に柴氏を訪問せり。当時大院君は現政府より京城城外孔徳里に幽閉せられ、巡検二三十名を以て監視せられ居るを以て、先づ此の巡検等を圧迫して大院君を救ひ出さゞる可からず、即ち京城新報社に集合せる日本壮士をして之に当らしめんが為め、藤勝顕氏は其方面に向へり（京城新報社は熊本国権党の経営する所にして安達謙蔵、国友重章之を監督せり）予等は巴城館にあり、国友重章、山田烈盛、佐瀬熊鉄氏等と共に、大院君が午前三時頃王城前に来るとの話に依り、其処彼処に待合せ、同時刻王城前に微行せり。我が一味たる朝鮮訓練隊は偵察隊を王城前に派出して警戒し居りしも、現政府は少しも悟らざるものゝ如くなりき。五時頃に至り、大院君は朝鮮訓練隊を先頭に、日本兵護衛し、日本壮士ニ三十名之に従ひ進軍し来り直ちに王城に突入せり、予等四人も共に奥に進む、王門にて少許守衛隊防戦せるも難なく打破り、王室に到れば、守衛隊重ねて防禦せるを撃破せり、此際宮内大臣戦死せり、国王及び王妃は別室に居られ、王には宮内官扈従し、王妃には女官連扈従せり。○○○○○○○○○○○○○、王妃は逃亡せられしとの事にて、八方王居内を捜索したり、八時頃三浦公使は朝鮮政府の御召により一小隊の兵に護衛されて参内し、大院君及び国王に面会せられ、予等一同は帰宅せり。王居内に外国人二名居りしが、米国人にして露国より推挙の者なりしを以って、最後の防禦に指揮し居れるを見受けたり。
此の事件ありて日本政府は大に驚き、容易ならざる事となし、政務局長小村寿太郎及び山座円次郎等出張し、参謀本部よりも数名出張し、三浦公使の職権を停止して事の顛末を調査するに至り、露国公使等亦日々三浦公使を訪問して談判を開けり。此際予は公使を訪問して善後処分は如何に成り行くべきやと問へるに公使嘆じて曰く、今日青表紙を読む者、無気力にして、大事に当り到底共に談ずるに足らず、茲に正義の士二三人あらば善後策確立し、如何に露国公使抗議を申込むと雖も顧みるに足らず、実はこの度の挙は大院君が日本壮士に依頼して朝鮮政府を改革したるに過ぎず、何ぞ日本公使の関する所ならんや、今この二三人の責任者あり、他の二十名許りの者は付和随行せるものなりと云へば申分立つべきも、其三名を得ること甚だ困難なりと、予公使の此の言を聞き答へて曰く、予初め閣下に随行せし所以のものは微躯敢て国家に奉ぜんと欲するが故なり、希くは安堵せられよ、予その責任を負うて立つべしと誓ひ、別れて同志藤勝顕氏及び熊本人（相愛社派）藤田止善氏に談じ、直ちにその同意を得、二氏を三浦公使に紹介して三人その責任者たる事を述べたり。之を聞いて国権派よりも責任者に加入し来り四人の者責任を負ふ事と定めたり。然るに日本より来韓せる当局者調査の結果、今日如何なる理由に遭遇するも日露戦端を開くの時機に非ずとなし、三浦公使の職権を停止し、予等一同二年の退韓命令に接せり、当時居留民一般は、予等に対して同情を表し予等の退韓帰途を送迎せり、仁川より御用船に乗じ憲兵護衛し広島検疫所に着するや、警部巡査多数出張し凶徒嘯集謀殺罪を以て拘留せらるゝに至れり。
以下の2資料も同趣旨の内容。特に黒龍会本の記述は月成手記と酷似しており、手記を参照した可能性がある。
黒竜会編「東亜先覚志士記伝 上巻」1933年
此の事件（王妃殺害）は大に内外の人心を驚かし、特に京城市内では物情創前として幾多の流言飛語が伝へられたが、我が政府でも非常に驚き、時の外務省政務局長小村寿太郎を朝鮮公使に任じて京城に急派し、且つ司法省からは安東謙吉検事正、海軍省からは伊集院少佐、陸軍省からは福島中佐等を派遣して事件の真相を調査した。三浦公使は小村公使の着任と同時に公使としての職権を停止されたが、公使は本国政府が狼狽の態度を示してゐるのを見て「青表紙を読む者は無気力で大事に当り共に談ずることが出来ぬ。今正義の士が二三人もあれば善後策が確立し、露西亜公使などが如何に抗議を持込んで来ても顧るに足らぬのだが…」と嘆じてゐた。之を聞いて月成光が公使の意中を叩くと「実は今度の事は大院君が日本の壮士に依頼して朝鮮政府を改革したに過ぎぬのだから、日本公使の関する所ではない。今茲に二三人の責任者があって、他の二十名許りの者は付和随行したに過ぎぬといへば申分は立つ。唯だその二三人の責任者を得ることが困難だ」といったので、月成は公使に向って自ら其責任者たらんことを希望し、之を同志の藤勝顕、広田止善に相談すると、何れも責任者として名乗り出ることに同意し、尚ほ熊本国権党の同志中からも他にも一人責任者として加入する者があって、愈々四人が責任を負ふ手筈になってゐたのであるけれども、十月十二三日頃、京城の日本領事館は事件に関係のあった志士に対し二年間の退韓命令を発した為め、この計画は遂に画餅に帰した。（536-537頁）
「安達謙蔵自叙伝」1960年
尚当初三浦公使は、同志中の数人のみで責任を負い退韓する手筈にしていたのであるが、内田領事の逡巡によって日本政府より、全関係同志の一斉退韓を命令して来たような事情もあった。（63頁）
内田定槌の回顧
「秘」昭和十四年一月 特輯第六号 内田定槌氏述 在勤各地ニ於ケル主要事件ノ回顧 外務省調査部第一課 https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/B1208095...
略歴
内田定槌氏は慶応元年福岡県に生れ、明治二十二年外務省に入り、上海、京城、紐育に在勤し、特命全権公使兼総領事として「ブラジル」国駐箚、特命全権公使として瑞典国駐箚、特命全権大使として土耳古国出張を経て大正十三年四月退官せられたり。
在職中私の経験した事柄で、世間に余り知られず、又後世に歴史として残されないやうなこともあるので、それ等に就て若干追憶を語って見ようと思ふ。
私は明治二十二年に外務省に奉職し、翌二十三年には副領事として上海在勤を命ぜられた。当時は上海も未だ日本人の発展する地とはならず、邦人商店の如きも僅に五指を屈するに過ぎなかった。
明治二十六年、領事として京城在勤を命ぜられ、同地在勤中日清戦争が起ったが、戦争終結後所謂王妃殺害事件なるものが勃発した。
一、京城在勤当時 王妃殺害事件
日本は朝鮮の内政改革の緊要なるを思ひ大鳥公使をして朝鮮政府に勧告せしめたが、同国政府は容易にそれを実行しようとしない。それは当時勢力を恣にして居った閔氏一派が内部から妨げて居ったからであるが、他の大臣は大鳥公使の勧告を受け容れても、閔氏出身の大臣がどうしても承知しない。其の上日清戦争前猖獗を極めた東学党が地方では未だ勢ひを逞しうして居ったりして、朝鮮の内政改革は到底日本の思ふ通り行はれず、大鳥公使も大いに弱って居るった。ところが日本内地では、朝鮮の内政改革の行はれざるは政府の方針が悪いからだと政府を攻撃し、大鳥公使をも非難する声が挙って来た。時の外務大臣陸奥氏は大変憂へて、是はどうしても日本から第一流の人物を公使として朝鮮に送らなければならぬと云ふことになり、内務大臣井上馨（当時伯爵）を特命全権公使として大鳥公使に替らしめた。
井上公使が着任して色々事情を研究した結果、朝鮮の政治は総て王妃が中心になって行はれて居るから、王妃を抱込まなければならぬ、王妃が日本に味方をするやうになれば自然内政改革も行はれるやうになるだらうと云ふ考へから王妃の御機嫌を取ることに努め、朴泳考等の日本党を重用して改革を行はしめようとしたが矢張りうまく行かず、三浦子爵と替った。
私は其の頃領事館に住んで居ったが、或る朝（明治二十八年十月八日）けたゝましい銃声に眠りを破られた。窓を開くと未だ夜は明け切らぬ。館内には警察署があったので、何事が起ったのかと巡査に訊いたが、知らぬと言ふ。荻原警部を起しに行ったが、其の室に居らぬ。厩舎へ行くと私の馬が見えない。どうしたのかと巡査に訊くと、警部が乗って行きましたと言ふ。其の中に銃声が止んだ。近くには新納少佐と云ふ海軍の公使館付武官が居ったので、そこへ行って訊いて見たが、何のことか分らぬと言ふ。又当時の外交官補日置益君も近くに居ったが、矢張りちっとも知らぬと言ふ。
さうして居る中に、血刀を提げた連中が帰って来て新納少佐の所へ報告に行った。私もそこへ行って話を聞いたが、其の連中は昨夜王城に侵入して王妃を殺したのだと言ふ。どうして行ったのかと尋ねると、最初は大院君（国王の父で王妃とは犬猿の間柄であった人）が朝鮮人を率ゐて王城に侵入し王妃を殺す筈だった。それに就ては前から種々策謀があった。例の岡本柳之助氏が参謀で大院君を引っ張り出すのが一番宜からうと云ふことになり、岡本が大院君に勧めに行った。其の時一緒に勧めに行ったのが領事官補の堀口（九萬一）君。同君は朝鮮語は出来ないけれども漢文に通じ文章が達者なので筆談をした。其の結果大院君もそれでは君側の奸を倒す為に起たうと承諾した。最初の計画では夜半に日本の兵隊と警察官が大院君を先頭に立て、王城に入り朝鮮人が王妃を殺害する筈であったが、愈々今夜決行すると云ふ時になって大院君が躊躇し出した。京城郊外の大院君の邸へ岡本や堀口君が夜中に行って促さうとしたが、大院君は仲々出て来ない。愚図々々して居ると夜が明け始めたので、多勢の日本人の壮士等も一緒になって無理矢理に大院君を引っ張り出し真っ先に守り立て、王城に向った。王城侵入の際護衛兵が発砲して抵抗したけれども日本兵が之を追ひ散し城内に入った。ところが王妃の室には宮女が沢山居るので、どれが王妃か分らない。それと云ふのは王妃は決して外国人に顔を見せなかった。だから日本人で王妃の顔を知って居る者は一人も居なかった。けれども或る日本人は其場から逃げ出す或一人の婦人を他の女達が頻りに庇護する様子を見てそれが王妃に相違ないと断定し之を殺害した。其死骸は王城庭内の井戸へ投じたが、それでは直ぐ罪跡を発見されると気が付いたので、又それを引上げて王城内の松原で石油を掛けて焼いた。それでも未だ気がかりなので今度は池の中へ放り込んだが、仲々沈まないので又其の翌日かに池から取出して松原の中に埋めた。
さう云ふ死骸の始末に付ては関係人から後で聞いたのだが、兎に角私は非常に困った。公使に会って話を聞けば万事分るだらうと思って公使館へ出掛けたが、公使は、一寸待って呉れと云ふことで直ぐに会はない。公使は二階に居り、私は下の待合室で待って居ると、二階で頻りに鐘の音がする。妙なことだと思って居ると、二十分ばかりして二階へ通された。すると公使は床の間に不動明王の像を飾って燈明を上げて拝んで居る。そこで私は「大変な騒ぎになりましたね」と言ふと、公使は「いや、是で朝鮮も愈々日本のものになった。もう安心だ」と言ふ。それで私は「併し是は大変なことです。日本人が血刀を提げて白昼公然京城の街を歩って居るのを朝鮮人は素より外国人も見たに相違ないから日本人が此事変に関係したことは隠すことは出来ませぬ。併し日本の兵隊や警察官、公使館員、領事館員等が之に関係したことはどうにかして隠したいと思ふが、それに就てはどう云ふ方法を講じたら宜いでせう」と言ったが、公使は「俺も今それを考へて居るのだ」と言はれた。
公使と話して居る中に露国公使が血眼になってやって来たので私は席を外したが、露国公使が帰ってから再び二階へ上って見ると、公使は非常に悄れてしまって居る。そこで私は、日本人が関係したことだけは何としても隠蔽しなければなるまいと繰返し言って公使と別れたが、偖てそれからどうしたら宜いか考へが付かぬ。外務省へ知らせようと思っても電信は公使館の命令で差止められてしまって居る。公使館以外の者は一切電報を打つことを差止められてしまったので私も無論電報を出すことは出来ない。後で聞けば「昨夜王城に変あり王妃行衛を知らず」と云ふ電報を公使館から外務省へ送ったさうだが、それ切り止めてしまったので私はどうすることも出来なかった。
其の中に堀口君や警部が帰って来たので堀口君に「君は大変なことをやったが、あとはどうする積りか、僕には此の始末は出来ない」と言ったら、何とも答へないで黙って居る。矢張りどうして宜いのか分らないのだ。そこで私は「僕の考へでは是はどうしても日本政府に始末を委すより他はない。併しそれには日本の外務省が事実を能く知らねばならぬ。ところが外務省から何を言って来ても公使館からは返事もやらないやうな状態では外務省でも真相を掴み得まい。君は最初から事件の真相を知って居るやうだから、すっかり其の末を書いて本省に報告して呉れ」と言った。すると堀口君は達筆なので直ぐ長い報告書を書いて、特使であったか郵便であったかはっきり記憶しないが兎に角本省に送った。
是より先、井上公使は熱心に朝鮮の内政改革をやる積りであったがうまく行かず業を煮して帰ったのだが、日本へ帰ってから時の内閣に朝鮮改革の必要を力説した。是から朝鮮は日本が育てゝやらなければならぬ、内政改革なども日本の力でやらなければならぬ、朝鮮を戦場として日清両国が戦ったのだが、朝鮮はそれが為に非常に迷惑して居るのだから其の補償もしてやらなければならぬ。料亭で喧嘩をして襖を破ったり器物を壊せば幾らか弁償もしなければならぬのと同じやうに、朝鮮にも相当の金をやらなくてはならぬと言って、何百万円かの金額を明示して政府にそれを支出させる積りで其の話をして居る間に、突然昨夜王城に変あり云々の電報が来たのだ。併しそれから引続き詳報を何も送らなかったので顛末が分らなかったが、堀口君の報告書が行って初めて驚いてしまったらしい。それで其の善後策を講ずる為に小村政務局長が朝鮮に出張を命ぜられたのだ。
私も申訳ないから進退伺ひを出さうと思ふと小村局長に話したら、君は何も関係ないからそんなことをする必要はないと云ふやうな訳で出さなかった。小村局長の考へでは、此の事件は京城では処分出来ないから日本で処分するより他ないと云ふことになり、関係者は皆日本へ帰すことになった。公使館員も軍人も関係した者は皆召還し、民間人は在留禁止、退韓を命ずることになったが、其の命令を出すのは領事たる私が言ひ付かった。其の時在留禁止を命じたのは四十七人あったと思ふが、それ等の人間を一々呼出して命令を渡した。ところが皆大いに喜んで居た。
殊に岡本柳之助などは、私は斯う云ふことをしたのだからどんな処分を受けても仕方がないのに、在留禁止で済めば非常に有難いと言って喜び、其の他の壮士連も皆有難く在留禁止命令を御受けした。安達謙蔵氏なども矢張り此等壮士連の首領株だったが、それ等の連中は皆公使館の人々、陸軍々人等と一緒に京城を立って仁川から船に乗った。船の名前は忘れたが、皆大いに手柄を立てゝ、勲章でも貰へる積りだったらうか、喜び勇んで内地へ向った。ところが宇品へ着くや否や皆縛られて牢に入れられ、広島地方裁判所で裁判を受けることになった。
広島で王妃殺害事件の公判が進行して居る間に、朝鮮国王は王宮を脱出して露国公使館に逃げ込んだ。それは露国公使館員が朝鮮宮内官と通謀してやった仕事であった。それから又「アメリカ」の宣教師と朝鮮人が一緒になって日本党の人々を暗殺する陰謀を企てたが、それは朝鮮政府の当局で皆犯人を逮捕し処分してしまった。さう云ふ事件が次から次に起ったので日本の方でも、露国人や米国人がそんな陰謀を企てる空気中に於ては日本人の犯罪に限り厳重に検挙する政策を執る必要はないと云ふやうな議論が起って来た。それに又一方朝鮮当局の方でも王妃殺害事件の審理を遂げたる処王妃殺害者は朝鮮人の何某と決定し既に死刑に処せられたから、日本の裁判所が本件を審理する必要はないと云ふ理由で被告人は一同無罪放免に決定した。
併し当時私は非常に苦しい立場に在った。それと云ふのは領事たる私は広島地方裁判所の嘱託により予審判事の職を勤めなければならなかった。本件の関係人は公使館員始め壮士の連中も皆平素私の知って居る人々で、それ等の人々の犯行を一々調査しなければならぬのには私も大変困った。併し領事館巡査の中一番朝鮮語が上手で最初から事件に関係して居った渡邊鷹次郎巡査だけは内地へ帰さなかったので、広島裁判所の依頼に依って取調をする時には、其の巡査に命じ王城内の実地を調べさせて報告したこともある。
要するに、表面は朝鮮人が王妃を殺したことになって居るけれども、実際は右に述べたやうな次第であった。
