暴力団と右翼

戦前の記述*1*2*3は、当時から暴力団と右翼が同一視されていた、あるいは同一視されやすかったことを示している。また1926年新聞記事*4では国会提出資料が紹介されているが、各府県ごとに見ても暴力団に「反動団体」つまり右翼が多いことがわかる。内務省警保局が作成した臨時議会資料「国家社会主義に関する調」(1932年)*5では「国粋会、黒竜会、建国会、大日本正義団、行地社、赤化防止団」など挙げた上で、こう述べている。
右国家主義諸団体は総じて忠君愛国を基本綱領とし、国体確立、国粋保存、赤化防止を唱へ…団員中に粗暴にして安価なる感激性に富む者多く、些細なる事端にも直ちに暴行殺傷沙汰に及ぶ者あり。甚しきは、常に恐喝によりて金品を収受し、団体の美名を藉りてその実自己の糊口を凌ぐの手段となす徒輩すら尠からず。国家主義団体は一般世人よりは所謂暴力団の別名なるが如く顰蹙せられ、無産運動者よりは所謂反動団体として嫌悪されつゝありたり。

また種村氏警察参考資料第7集「暴力団続出跋扈の状況」*6では次のように述べる。
近時社会の各階級より蛇蝎の如くに嫌忌され恐怖せられつゝある謂ゆる暴力団…或は皇室中心主義を奉持すと云ひ或は任侠を念とし国粋を維持する為と称し…美名を利用して政治問題、時事問題、社会問題より延いて一般私権に関与容喙し団体を背景として強談、威迫、暴行、脅迫、恐喝を常業とし斯くして相手方より多額の金円を領得し…過去に於て或種の政客官憲にして此種団体の或るものを政権の争奪の裏面に策動せしめたる形跡…彼等は概ね思想浅薄徳操低級其の二、三を除いては教育に乏しく識見の見るべきなし。単に獰猛なる顔貌風采を持し虚勢を張り恫喝を試み兵全として無恥の動作を敢行し得るに過ぎず。加ふるに彼等は大抵詐欺、恐喝、横領、傷害、乃至賭博、窃盗等の前科を有するに拘はらず自ら国士と称して市井を闊歩するの図々しさを有し若し言を構ふる者あるときは忽ち多数を恃んで暴挙に出で触れば必ず禍あることを知らしむるの奸智を有するものなり。

種村氏警察参考資料第7集「暴力団続出跋扈の状況」と外務省「本邦ニ於ケル右翼運動及同団体関係雑件」*7で重複する団体名は「黒龍会、玄洋社、大化会、大和民労会、赤化防止団、白狼会、大正赤心団、関東国粋会、一心会、大行社」である。

1935年には「いはゆる暴力団狩りが行はれ、千七百名の検挙を見た。」同年5月4日の地方長官会議での内務省指示「近年社会風潮の変遷に伴ひ何事によらず不当の威力を用ひんとする傾向漸く著しく動もすれば不良の徒にして団体その他の背景を誇示し或は愛国等の美名を僭用して暴力脅迫詐欺恐喝その他強談等の所為に出で悖徳非国民等の名の下に濫りに他を讒謗威迫し以て正業によらずして私利を営み又は徒らに売名を図らんとする者多からんとす。此の如き徒輩の跳梁跋扈は公安上断じて看過すべからざる所なるのみならず純正なる愛国運動の発展を毒し…」*8
  • 内田良平は黒龍会会長、大日本生産党総裁だった*9が、種村氏警察参考資料第7集「暴力団続出跋扈の状況」*10では「暴力団の代表的のものに黒龍会あり…内田良平を頭目とし」とある。また続けて暴力団跋扈の原因を説明する中で「威嚇宜しきを得るに於ては最も容易に最も現実に多額の金円を得べく例へば先年内田良平が三井家の相続問題に干渉して十万円を、安田善弥の債権整理に□口して数十万円を更に日本郵船会社の紛擾問題に干与して十万円を報酬名義に於て収受せるが如き同人間の風評に徴して其の一班を知るべく斯の如き有利なる業務の他にあらざること」と述べている。また同資料では大和民労会総務を恐喝横領被疑者として同行を求めたら逃走した事例、大行社顧問を恐喝被疑者として同行を求めたら拒否して揉めた事例を挙げている。
  • 大日本神農会は「香具師の集団」「会頭山田春雄」とある。*11
  • 大日本正義団(1925年設立)は主義綱領に「慈悲任侠を旨とし仁義の道を忘るるな」「親分は親の如く乾分は子の如く乾分同志は一家兄弟たり親分の命ずる処は水火も辞せず…」とある。また「主盟酒井栄蔵」とある*12が、新聞記事では酒井を「侠客」と表現*13している。「憲兵要務(高等警察)教程」の「右翼団体の概要」でも同様の記述がある*14。別資料では「関西の大親分として一世に鳴らした小林佐兵衛翁の二代目たる酒井栄蔵」とある。*15
  • 国粋会は「憲兵要務(高等警察)教程」の「右翼団体の概要」で「侠客西村伊三郎が…京都に創立したものである」*16と述べている。当時の新聞記事でも「侠客団」*17「如何わしき」*18とする。国粋会指導部長は口演で「或は賭博或は喧嘩口論寄附強要等の行為に出づる者ありて…不良団或は暴力団視せらるゝに至るものありしは頗る遺憾」とする。*19
  • 関東国粋会*20は「博徒の信仰(親交?)団体であって、この会員であって博徒でない者はないのである」*21「山梨、栃木を除く関八州の所謂大親分とその子分」*22また「主なる行動 一、昭和二年十二月野田労働争議に際し会員多数を動員せんとし形勢不穏の点ありたるため警戒し日本刀其の他の武器を押収し阻止したり」*23
  • 大日本奉公団本部は主義綱領が「本団は意気を以て立ち任侠を本領とする者を以て組織す」で会員は「土木請負業関係、国粋会関係者等の外東電従業員等」であった。*24
  • 皇国義団は「幹部は府下淀橋町角筈十二社(花街)二業(芸者屋と料理屋のこと)組合*25御用団体の観あり。…団員松田栄治、鳴島栄次郎、榎本福太郎等は面会を強要し又は傷害事件等により拘留又は懲役に処せられ居たるが」「団員松田栄治は昭和五年八月二十日…芸妓屋小平藤吉当三十八年を拳銃を以て射殺し」*26
  • 「弘前国粋団」は「政友会系」で「最初立憲政友院外団所属の人物を以て思想善導を目的とし広く同志を糾合し創立したるも、爾来何等政治及思想的活動なく漸次暴力化するに至りたるものなり」観桜会、縁日等に於て他府県より潜入する香具師等と抗争することな〔ママ〕り」*27
  • 「鹿児島国粋会」は関東国粋会の関係団体で最高顧問が床次竹二郎。「会員にして検挙処罰を受けたるもの一再ならず。」「幹事長以下会員は概ね管下在住の博徒(自称侠客と称する連中)なり」*28
鳥取の「正義団」は「本団体の幹部は所謂地方に於ける侠客仲間にして過去何等統制なく、一味の行動は一種無頼漢視せらるる状況にありて、統制ある組織の下に純正なる行動に出でんと此挙に出でたるものと認めらる」*29
  • 「岡山県厳正団」は大日本国粋会岡山県本部の関係団体で、「団員の大部分は土方、仲士等を業とする自由労働者多く、岡山市内に於ける土木請負業川口組、光岡組等の仲間と親分、乾児(こぶん)の関係を結び、無智にして本団の主義を誤認し動もすれば暴力的行為に出づること多く一般市民より指弾せらる」*30
  • 兵庫の「大日本拳闘会」は「会長嘉納健治は皇室中心主義を標榜し相当の勢力を有し、命令一下反動的行動に出る虞あり」*31
  • 大阪の「桜花会」は「系統 故野口栄次郎の配下」で主義綱領「皇室中心主義に依り任侠を本領とし…」*32
  • 新潟の「北信侠粋団」は「資金の出所 寄付金」「特記すべき活動なく本団は暴力団の類なり」*33
  • 新潟市の「北溟社」は「背後の人物 頭山満」「主義綱領 一、我等は社会正義顕揚の為め任侠的行動に殉ず」「本会の北村伝吉、結城作松は無頼の徒にして所謂暴力団に類するものなり」*34
  • 静岡の「聖剱社」は主義綱領「ニ、正義任侠」*35
  • 千葉の「関東国士団千葉県支部」は「関東国士団と記せる法被を着し祭典其の他群衆の間に出入りし、各種紛議の調停、選種挙動〔ママ〕等に介在し一般世間よりは其の行動稍暴力団と見られ居るものなり。」*36

警察当局と右翼

島村一「高等警察概要」(大阪府警察練習所、1944年)は、右翼と警察官は精神は同じであり同志的側面があるが、ただ手段が問題なので警察は右翼を「合法の圏内に指導する役割」と解説している[263]。
島村一「高等警察概要」大阪府警察練習所,1944年

二、右翼運動に対してなぜ取締りを行はねばならぬのか
真の右翼運動者に就ては其の精神に於て元より吾人警察官と何等異る点はないのである、即ち至尊の御為に、皇国の為にと云ったその尽忠の至誠に於ては寧ろ同志といった感なしとしないが、併し如何に其の目的は正しく又貴く是認さるるものであってもその手段に於て国法に違背し治安を紊るに於ては之が放置さるべきものではないのである…愛国運動の益々昂揚せらるることを庶幾すると共に之が合法の圏内に指導する役割を持つものであることを信じて疑はない(48頁)

1942年9月の「近畿府県特高警察思想係(右翼)座談会」でも右翼対策を語る中で「同志」という表現が出てくる。*37
またそこでは右翼テロ事件取調べの際、右翼が親しい仲であるかのように警視総監の名前を出したエピソードが語られている。また大阪府特高課警部補も、国家主義者が非合法手段に出ないなら取締まる必要は無いと述べている。
日本警察社編「思想警察通論」(1940年)でも、血盟団事件や5・15事件などテロのために「右翼団体の存在が保安警察上重要なる対象となるに至った」(324頁)のであり、「これ等の『テロ』を放棄して熱鉄の如き日本伝統精神の団塊として合法的憂国運動に精進するならば、日本国民は挙げて望む所であらう」(326頁)と逆にエールを送っている。

1933年新聞記事によると、内務省警保局の左右両翼取締案*38に「治安維持法は左翼に対してのみ適用され右翼に対してその適用を見ない」とある。1934年8月記事*39によると、司法省が右翼も治安維持法対象に含めようとしたら内務省警保局が「極力反対して右翼取締のための単独立法を主張し」「右翼にしてもよきものは育てて行かなければならないとし取締の趣旨には賛成しているが非常に慎重な態度をとっている」とある。1934年12月記事では内務省警保局保安課の方針として「右翼運動の非合法部面は徹底的に弾圧する、同時に合法部面に対しては極力助成方針をとる」*40とある。また続いて「右翼運動の取締は日本の思想警察上画期的なことなので諸外国の取締査察方針を参考にする必要があり」とあり、それまでは(思想警察としては)取締っていなかったことが分かる。

外務省調査部「右翼運動の現勢」(1935年1月)でも「当局(警察当局を指すか)の説明」と但し書きをつけつつ同様の解説をしている。*41
松華堂編輯部編「治安警察教本」(1936年)でも「右翼運動の指導精神は大体に於て国家発展の線に沿ふてゐる。従って右翼運動の通常の形態は取締の圏外に在るのである。然し目的と手段とは別物であって…仮令右翼運動と雖も其の手段にして誤るものがあれば断乎取締を加へなければならないことは当然である」とする。
立憲民政党本部編「民政党内閣の功績」(1930年)では「政友会内閣治下暴力団の巣窟と迄云はれた警視庁は丸山総監を迎へると面目一新、暴力団撲滅の徹底を期した刑事部は…」とある[271]。

具体例

  • 1920年普選運動で警察が運動妨害する大正赤心団に配慮*42
  • 1921年大阪電灯争議では国粋会が棍棒をもち警察に協力*43
  • 1930年鐘紡争議でスト指導者著書によると国粋会が会社側に協力。警察も「遠慮すること一通りでない」*44

軍と右翼

旧日本軍と右翼は親しい関係にあった。右翼団体を兵営に宿泊させ*45、陸軍大臣の手紙を右翼に託し*46、敗戦間際でも軍と右翼はホテルで会食した*47。当時の新聞記事も右翼と軍の結びつきを、そして軍人自身が右翼であったことを報じている。*48*49*50

1936年12月陸軍省兵務局通牒*51では、「憲兵の取締方針」として、在郷軍人が組織する右翼団体について「有力にして堅実穏健なるものを選定し要すれば積極的にこれを善導支援し以て軍の企画に協力せしむ」とある。

外務省調査部「右翼運動の現勢」(1935年1月)では「当局の説明」と但し書きをつけつつ、「倫敦条約問題紛糾及び満州事件の勃発以来右翼運動は軍部の直接間接の庇護を受くるに至りたるが警察当局に対し一種の治外法権的存在たる軍部の支援は右翼取締をして甚だしく困難ならしめたり」と書いている。*52

軍人主体の右翼団体

「憲兵要務(高等警察)教程」では「在郷軍人を主体とする右翼団体は総て満州事変後発生」としており、皇道会と瑞穂倶楽部の2つを取り上げている。*53
外務省調査部「主要国家主義団体便覧」(1935年5月)で「軍人中心団体」に分類されているのは恢弘会・皇道会・明倫会・有終会・洋々会の5団体である。*54

1.有終会(1913年設立*55 本部所在地:東京市芝区栄町一三東京水交社内)
「海軍予備将校より成る財団法人海軍有終会は南郷次郎少将の名をもって『尾崎行雄氏の反軍思想を匡正す』と題する小冊子を、五月初旬全国に配布することになった」*56

2.洋々会(1923年設立*57
「若槻民政党総裁が十日名古屋において発表したロンドン条約に関する声明は軍備に対する国民の認識を誤らしむるもの多く等閑に附すべきにあらずとして海軍予後備将官より成る洋々会では十二日午後十時半から芝公園水交社に黒井、竹下各大将森山、宇佐川、飯田、棚町各中将、桜井、大谷、遠藤各少将等出席、これが対策につき慎重凝議した結果午後七時大要左の如き声明書を発した」*58

3.恢弘会(1924年設立 事務所:東京九段偕行社)
木田伊之助陸軍少将が提案して設立*59。長:陸軍大将大井成元、副会長:海軍中将石橋甫、陸軍中将筑紫熊七、常務理事:海軍少将大山鷹之介、陸軍中将高田豊樹、海軍少将南郷次郎、陸軍計監八木籬、海軍中将佐藤阜蔵、陸軍中将両角三郎 会員数二千五百名(予後備役将校)*60(※1932年12月時点*61

4.明倫会(1933年設立*62とあるが活動は1932年から*63
「明倫会は国家主義を標榜して昭和七年田中国重大将を会長、奥平俊蔵中将を副会長として成立したるものにして同会の成立に当りては石原産業主石原広一郎の活動に負ふ所大にして…同会は予備将軍就中少将級の軍人多数を会員に有し」*64「今春三月田中国重大将を会長に推戴、急激に勢力を伸暢した明倫会では…同会では二十九日午後六時より九段偕行社本館楼上大ホールに最初の研究例会を開催した、出席者は会長田中国重大将をはじめ徳川義親侯、堀口元駐伯大使、杉山茂丸氏、大山法学博士、高山公通中将その他百数十名に達し」*65

5.皇道会(1933年設立)
副総裁:陸軍中将等々力盛蔵、幹事長:陸軍少将黒沢主一郎、副幹事長:陸軍少将富家政市、顧問陸軍中将高山公通、陸軍中将奥野英太郎、陸軍中将貴志弥次郎、陸軍中将高田豊樹、海軍中将兼坂隆、海軍中将山下巍八郎、陸軍中将春木源三郎、陸軍中将出口永吉、陸軍主計監鶴田義紹、経済学博士林癸未夫…(1933年時点)*66

6.瑞穂倶楽部(1933年設立の三六倶楽部から38年改称*67
在郷軍人関係団体「瑞穂倶楽部」は予備役砲兵大佐小林順一郎、予備役砲兵大佐湯原惣介、同中佐吉見隆治らが関与*68。226事件で「本倶楽部主要人物四王天中将、松本少将、小林大佐野田大佐、伊藤大尉の反乱幇助として事件送致(九月十九日全部不起訴釈放)」。1935年天皇機関説騒動では会報で「恐懼引責を知らない政府があれば御親率の下に終に武力を用ひて迄も必ず引責せしめん云々」。

その他軍人関与の右翼団体

「主要国家主義団体便覧」で本部所在地が軍関連である団体は
  • 日本青年協会 本部所在地:東京市麻布区新龍土町歩兵第三連隊内*69
  • 靖国会 本部所在地:東京市麹町区九段坂上偕行社内*70
また外務省調査部「右翼運動の現勢」(1935年1月)では大本教が中心の昭和神聖会についても「大本教信者中には現役軍人極めて多数にして同会亦延て多数の将官を会員に有し居り」としている。*71

この他軍人が関与している団体は
  • 一心会 総裁:陸軍中将楠瀬幸彦。「目下有名無実の状態にあり」*72
  • 勤王連盟 会長:陸軍中将男爵菊池武夫、副会長:陸軍中将佐藤清勝、顧問:子爵小笠原長生、陸軍中将堀内文次郎 会員数約五千名で主として地方在郷軍人青年団等。現役軍人及び政友会とも関係あり。*73
  • 勤王中堅会 創立準備中。顧問:陸軍中将貴志彌次郎、同篠田次助、同高田豊樹、少将磯村直明、同山田軍木郎、同伊藤重夫、歩兵大佐石浦謙次郎、少佐佐々木天山。会長:少将久世為次郎*74
  • 国本社 「国本社は、学生思想団体から国粋思想団体にまで生成発展するとともに、当時一佐官にすぎなかった荒木は陸軍中将となり、陸軍大臣となった。平沼は枢府副議長になり、鈴木喜三郎は政友会総裁となった。この外、会員に現海相大角岑生もいるし、海軍中将小笠原長生、同大将加藤寛治、参謀次長真崎甚三郎、陸軍次官小磯国照らの外、強硬外交の本家本多熊太郎、関東長官山岡万之助、前法相原嘉道、それに金融資本閥を代表し三井の池田成彬も一枚加わっている」*75
  • 神道連盟 主幹事:佐藤清勝、貴志彌次郎、高山公通、澤田五郎、岸川武治*76
  • 青年皇道会 1931年12月5日発会式に竹下大将、建川少将出席。「現役軍人の出入多し(佐官級以下)」*77
  • 大日本国粋会総本部 1936年11月会長死去に伴う善後策委員会で「荒木陸相と相談し陸相の推薦する陸軍大将級の人物を以て会長となすことを申合せたる外具体的決定を見ず」*78「憲兵要務(高等警察)教程」の「右翼団体の概要」では大日本国粋会の項で、関東関西で分かれていたものが「昭和九年予備役海軍中将森山慶三郎と同陸軍中将古谷清等の尽力に依り合同するに至った」とする*79。昭和11年時点で会長は海軍中将森山慶三郎*80木田伊之助陸軍少将は関東国粋会総長を務めた。*81
  • 天行会 昭和五年九月より準備中。賛助員に公爵一条実孝、海軍大将有馬良橘、内務大臣など務めた床次竹二郎、岡崎邦輔。相談役に現海軍大佐寺本武治*82
  • 大日本赤誠会 予備役砲兵大佐橋本欣五郎が結成。*83
1944年印刷の陸軍文書「軍紀風紀上等要注意事例集」では「大東塾の対軍部策動の現況」と題して一章を割き、「軍人軍属就中青年将校の獲得を策しつつあるのみならず其の傾向は最近頓に活発となりつつあり」と述べている。*84
  • 仙台の日本青年大陸研究会 「大日本生産党幹部現役陸軍将校、代議士等の後援あり」*85
  • 山形の中郡村国防研究会 「中郡小学校」に事務所を置き、中郡村報が機関紙を兼ね、会長は中郡村長、副会長は在郷軍人分会長、中郡小学校長で、小学校校庭に石碑を建設し、発会式には山形連隊区司令官、副官を招き軍事後援会を開いた。*86
  • 岐阜の「愛国大道団」は副団長が予備歩兵中佐で、在郷軍人岐阜連合分会幹部等が在郷軍人、青年団員など集め結成。*87
  • 名古屋の「大日本会」は幹事が砲兵大佐四宮信治。*88
  • 名古屋の「昭和維新会」は会員に後備陸軍歩兵大佐箕形初太郎。*89
  • 神戸の「日本殉国青年連盟」は「背後の人物」に「陸軍少将奥村拓治」*90
  • 大阪の「大日本報国会」は「東京に本部を置き、会長には芝増上寺貫主道重信教を顧問として本郷房太郎大将、其の他」*91
  • 大阪の「大日本国光宣揚会」は「背後の人物 陸海軍将官並に宗教家」「会長 陸軍中将権藤伝次」*92
  • 辛羊会は事務所が「京都帝国大学配属将校室」「背後の人物 京都衛戍病院長山本順一、第十六師団軍医部長星野健太郎」「名誉会員 配属将校柳下重治、配属将校西村良三」*93
  • 京都の「里見日本文科学研究所(里見岸雄所長)」は「幹部及主なる会員」に「陸軍中将小磯国昭、陸軍大佐藤井十郎、陸軍大佐板垣征四郎、三菱重役梶武雄」*94
  • 京都の「敬天愛人運動本部」は「幹部及主なる会員 後備陸軍歩兵大尉山田主一郎、予備海軍少佐斉藤直幹、予備陸軍主計監宮里熊五郎」「会員数 約ニ〇名(主として軍籍関係あるもの)」*95
  • 京都の「愛国青年会」は「背後の人物 中安信三郎」「会員数 約五〇名(主として在郷軍人)」*96
  • 新潟の「興国会」は「事務所 高田市連隊区司令部」「背後の人物 現役陸軍中将中川軍蔵」*97
  • 長野松本市の「信州郷軍同志会」は「幹事長 帝国在郷軍人会松本市連合分会長予備陸軍三等軍医正関重忠。専任幹事 帝国在郷軍人会松本市第七分会長予備陸軍歩兵少将中田三雄、予備陸軍砲兵少尉森山精一」*98
  • 水戸の「春秋会」は「本会は退役陸軍歩兵大佐関東の主催するものなるが」*99
  • 宮城の「涌谷国防研究会」は「背後の人物(仙台歩兵第四連隊長)石原莞爾」*100
  • 宮城の「愛郷青年会」は「会員は一ケ月二回集合し歩兵第四連隊より将校の派遣を乞ひ日本精神の教養並国防に関する講演を受くる予定なるも未だ実現せず。」「昭和十年一月十七日仙台第四連隊長石原莞爾の来村を乞ひ講演会を開催す。」*101

政官財と右翼

政界と右翼も親しい関係にあった。外務省調査部「右翼運動の現勢」(1935年1月)では「当局の説明」と但し書きをつけつつ「政界方面に幾多複雑なる関連を有し居り」と述べている。*102

  • 昭和期の官僚・政治家平沼騏一郎と右翼の関係は有名だった*103し、平沼自身が国本社会長として右翼であった。また国本社は「金融資本閥を代表し三井の池田成彬も一枚加わっている」*104
  • 1909年12月の一進会日韓合邦声明を主謀した黒龍会内田良平は、その際事前に山県有朋、桂太郎首相、寺内正毅陸相の了解を得ていたという(→韓日合邦を要求する声明書の「日本人が首謀して声明作成」参照)。また内田は1905年12月伊藤博文の招きで韓国統監府嘱託に就いている。*105
  • 1919年、床次竹二郎内相は「侠客」を集めて国粋会を作らせた*106。当時の首相原敬も関与*107。発会式には「知事、警察部長、市長、師団長等」が参加*108。分裂後は「大日本の方は、鈴木喜三郎が首領、関東国粋会は伊藤〔ママ〕祐弘、青木信光、牧野忠篤などといふ殿様連を担いでゐる」。また国粋会は「選挙の時などには、大いに政友会を援助した」*109。木下半治「日本国家主義運動史」(1939年)でも「床次竹次郎が産婆役となってゐるといふこと、創立当時の幹部として、総裁に大木遠吉伯、会長に村野常右衛門、理事長に中安新三郎等々の顔振れを並べ、その後、総裁に鈴木喜三郎、会長に高橋光成を経て中安信三郎等々を迎へたという点をみれば、同会が政友会系の団体であることが推測せられるのである」*110とする。
  • 大和民労会(1921年設立)は「この頃、国粋会といへば、必ずその対立物として民労会を挙げるのが例であった。…大日本国粋会及び関東国粋会が前述の如く政友会系の団体であったのに対して、-大和民労会は、民政党系の団体とみられてゐたが故である。大和民労会の創立者は、土木業者の大親分にして、大都キネマの社長であった河合徳三郎である」*111
  • 大正赤心団(1918年設立)は「野田卯太郎、武藤金吉等政友会の一部幹部の後援を得て赤心団を組織した」*112
  • 皇道義会(1918年設立)は「茨城県政友会代議士石井三郎が…野田卯太郎、小川平吉等の政友会の後援を得て創立」*113
  • 国維会は華族や内務官僚が顔をそろえていた。
  • 辛未同志会は、幹部及主なる会員が公爵一条実孝、井上清純、井上雅二、井上一二、伊江朝助、伊丹松雄、岩崎清一であった。*114
  • 侯爵徳川義親は明倫会研究会に出席*115 同会は「有力実業家もまた多数参加し積極的に協力してゐる」*116
  • 勤王連盟は活動費について「多く会員中の実業家達の無名寄附によるさうである」*117
  • 東方会は衆議院議員中野正剛らが結成
  • 大日本護国会は顧問が公爵一条実孝*118
  • 大日本神農会の総裁は男爵中川良長*119
  • 大民倶楽部の顧問に内田康哉や水野錬太郎*120
  • 日本思想研究会の会長は松岡洋右*121
  • 国粋大衆党総裁笹川良一の国粋義勇飛行団事業に対して、「住友総本家が十万円の寄附をポンと投げ出した」。*122
  • 弘前国粋団は「政友会系」で「最初立憲政友院外団所属の人物を以て思想善導を目的とし広く同志を糾合し創立したるも、爾来何等政治及思想的活動なく漸次暴力化するに至りたるものなり」観桜会、縁日等に於て他府県より潜入する香具師等と抗争することな〔ママ〕り」*123
  • 仙台の「日本青年大陸研究会」は「大日本生産党幹部現役陸軍将校、代議士等の後援あり」*124
  • 山形の「郡村国防研究会」は「中郡小学校」に事務所を置き、中郡村報が機関紙を兼ね、会長は中郡村長、副会長は在郷軍人分会長、中郡小学校長で、小学校校庭に石碑を建設し、発会式には山県連隊区司令官、副官を招き軍事後援会を開いた。*125
  • 「宮城愛国同志会」主幹は「浪花節興行者」「県会議員沢口一郎其他の有力者の共鳴の下に結成」(アジア歴史資料センター、レファレンスコードB04012995500、本邦ニ於ケル右翼運動及同団体関係雑件 分割4、5画像目))
  • 宮城生出村の「生出村忠誠会」 事務所が生出村役場で会長は村長*126
  • 福岡小倉の「愛国青年同盟」は会長が市会議員*127
  • 福岡八幡の「立憲愛国雄進同盟」は顧問が市会議員*128
  • 「三重県義勇会」は「背後の人物 衆議院議員加藤久米四郎」。1932年同県桑名村の鋳物工場労働争議で会社側で介入、「職工側の北勢一般労働組合に対抗し闘争を続けつつありたり」*129
  • 奈良の「大日本白龍会」は「背後の人物 男爵中川良長」*130
  • 神戸の「中興会」は「資金の出所 会員応分の出資に依るの外県市会議員、代議士等より物質的援助を受く」「政友系院外団に属す」*131
  • 神戸の「愛国天浪会」は「背後の人物 神戸市会議員前田ニ一六、大越兵蔵、都筑得太郎等後援を為す」*132
  • 大阪の「大日本建国党」は「政友会院外団」「資金の出所 機関紙代、広告料」「本党主幹者は無為徒食の輩にして特に注意を要す」*133
  • 大阪の「政研倶楽部」は「政友会院外団」で「資金の出所 機関紙の広告料及柔拳興行の利益金を充当す」*134
  • 大阪の「国柱会」は「政友会院外団」*135
  • 大阪の「国士団」は「民政系国粋主義」*136
  • 大阪の「建国倶楽部」は「政友会院外団」*137
  • 大阪岸和田の「泉州報国団」は「背後の人物 代議士山口義一」*138
  • 京都の「里見日本文科学研究所(里見岸雄所長)」は「幹部及主なる会員」に「陸軍中将小磯国昭、陸軍大佐藤井十郎、陸軍大佐板垣征四郎、三菱重役梶武雄」*139
  • 京都の「愛国青年会」は「背後の人物 中安信三郎」「会員数 約五〇名(主として在郷軍人)」*140
  • 新潟の「北越青年連盟」は「関係団体 民政党」*141
  • 宇都宮の「国華会」は「政友会系」*142
  • 茨城の「常陽明治記念会」は「顧問徳川圀順 会長田中光顕。副会長室田義文…」*143
  • 茨城の「葵会」は「背後の人物徳川圀順、菊池謙二郎」*144
  • 茨城の「皇風会」は「真壁郡関本町、黒子、河内、其の他付近各町に支部を組織し、支部長には町村長又は小学校長を推し」*145
  • 東京の「護国義勇団」は「事務所 芝公園増上寺内」で創立準備中。創立常任委員が「委員長小笠原長生 委員柴田徳次郎、樹下信雄、坂入福三郎、日置清夫、木村政長、今井和佐久、東久世通忠・・・」*146
  • 福島の「赤誠会」は「背後の人物 (不動澤炭鉱主)五十嵐栄次郎 (杉山炭鉱主)杉山今朝吉」「会長薄葉富弥(杉山炭鉱長)」『思想研究資料 特輯第二十六号「国家主義乃至国家社会主義団体輯覧 増訂改版 昭和十年十二月調」』司法省刑事局、1936年、1278-79頁。
  • 福島の「赤心会」は「関係団体 政友会福島支部若松部会」「委員長(市会議員、弁護士、政友会部会長)日野晴日子」『思想研究資料 特輯第二十六号「国家主義乃至国家社会主義団体輯覧 増訂改版 昭和十年十二月調」』司法省刑事局、1936年、1276-77頁。
  • 「大日本国粋会愛媛本部」は「会員の種類は市会議員、貸座敷業者、芸妓置屋、土方稼等を主たるものとす」『思想研究資料 特輯第二十六号「国家主義乃至国家社会主義団体輯覧 増訂改版 昭和十年十二月調」』司法省刑事局、1936年、1174-75頁。

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