日本は欧米殖民地の解放でなく乗っ取りをやったという資料がいくつもある。
また日本はタイも侵略した。

乗っ取りを示す資料

1941年12月19日 大本営政府連絡会議「南方占領地帰属腹案」

南方占領地帰属腹案*1

一、帝国領土とすべき地域
瓦無島
香港(九龍半島の租借は一応之を継承す)
英領馬来、英領ボルネオ・スマトラ及同付属諸島
アンダマン及ニコバル各諸島
ニューギニヤ諸島(ニューギニヤ、ビスマーク、ソロモン各諸島及ハルマヘラ・チモール連結線以東の蘭領)
ナウル及オウシャン島
「大東亜防衛の為め絶対必要なる地域は、帝国自ら之を把握措置し、其の他の地域に關しましては、各民族の伝統、文化等に応じまして、戦局の進展に伴ひ、それぞれ適当なる処置に出ずる考へであります」

1942年3月14日 大本営政府連絡会議 議題「占領諸地域の帰属及統治機構」

議題
一、研究問題第七「占領諸地域の帰属及統治機構」(未完)
議事
二、本問題に関する大東亜建設審議委員会の空気に就き鈴木企画院総裁及武藤軍務局長より左の如き紹介あり
(A)一般的空気と認むべきもの
(1)占領地の帰属其の他の決定は国防上の要求に最も重きを置きて決定するを要す
(6)今回掌握下に入りたる各民族は大体に於て独立の経験無きを以て独立せしむる必要は絶対的ならず
三、山本東亜局長の原案説明に関し未だ「別冊」統治機構問題の説明に入らざる内に左の如き論議沸騰す
「註」外務省が説明用として準備せる帰属別地図に帝国領土は赤、独立予定地域は黄を以て色別を□しあり、ジャバのみの独立が強く関心を惹きたるものの如し
(中略)
「軍令部次長」 ・・・此等の見地より南方占領地域は全部帝国領土とすること可能ならば申分無きも局地によりては政治的民族的各種の事情あり、其処に研究を要する問題あるべし
「総理」 然らばジャバも皆我が手に収めざるべからず何故ジャバのみを残したるや
「武藤局長」 どうも全部取らねばならぬと思ふも何と無く蘭印は独立せしめざるべからず、然るにスマトラは取らねばならぬ、ボルネオは取らねばならぬと漸次逐ひ詰めて行けば結局ジャバのみ残らざるを得ず、斯る経緯にてジャバのみ独立せしむることとなれる次第なり
斯くて依然ジャバ独立は今より決定してかかるの要なしとの空気となり最後には海軍大臣より『ジャバを独立せしめて如何なる利益ありやを研究せる者なりや』との詰問的意見もあり 「其処迄行かんでもよかろう」との仲裁もあり
四、結局本件は更に研究を要すとして未決の儘別冊の検討にも入らず散会となる*2

1942年 陸軍文書「占領地軍政施行に関する基礎要綱」

一、南方占領地域は総て之を版図とし帝国の世界政策遂行の前進基地たらしむるを理想とす。
二、南方経略の中道に在りては一時左の如き段階あるを予期す。
3 仏領印度支那の処理当分の間現状を保持するも軍事上の実力を把握するに足る駐兵を行ひ且経済資源等の開発に関しては最も積極的に提携を強要し其の実力を把握するに努む
4,比島、馬来、旧蘭印領
独立又は之を示唆する如き制度は一切之を排撃し永久版図とす*3

1943年1月14日 大本営政府連絡会議決定「占領地帰属腹案」

一、占領地の帰属に関しては左の基準に依り之を定む
(イ)大東亜防衛の為帝国に於て確保するを必要とする要衝並に人口稀薄なる地域及独立の能力乏しき地域にして帝国領土と為すを適当と認むる地域は之を帝国領土とし其の統治方式は当該各地域の伝統民度其の他諸般の事情を勘案して之を定む*4

1943年5月31日 御前会議決定「大東亜政略指導大綱」

「(イ)マライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスは帝国領土と決定し重要資源の供給源として極力之が開発並に民心の把握に努む」*5  
その際の東条首相の説明
第十回御前会議 内閣総理大臣説明 (昭和十八、五、三一)

唯今より開会いたします。御許しを得たるに依りまして、本日の議事の進行は、私が之に当ります、(中略)
六、其他の占領地域
マライ スマトラ ジャワ ボルネオ セレベスは民度低くして独立の能力乏しく且大東亜防衛の為帝国に於て確保するを必要とする要域でありますので之等は帝国領土と決定し重要資源の供給源として極力之が開発並に民心の把握に努むる所存であります。之等の地域に於ては当分の間依然軍政を継続致しますが原住民の民度に応じ努めて政治に参与せしむる方針でありまして現に政治参与を要望して居りまするジャワに対しては特に之を認める積りであります。而して本帰属決定は敵側の宣伝の資に供せらるる等の虞がありますので当分の間発表せざることと致しますが原住民の政治参与に関しましては適宜之を発表するを適当と考へて居ります。*6

その他

1942年2月15日山下奉文訓示
一、軍紀を振粛し皇軍の真姿を顕揚すべし
二、馬来は帝国の領土たるべし
将兵一時の過失は経営百年の将来を毒すべきことを銘心し無辜を憐み不逞を制へ良民を戦禍より救ふことに努むると共に苟も敵性分子に対しては其の鑑別を誤らず徹底的に粛正し未然に禍根を芟除すべし
三、新作戦準備に万遺憾なきを期すべし・・・
昭和十七年二月十五日
第二十五軍司令官 山下奉文*7
1942年4月29日、山下奉文の天長節談話
戦火の余燼ようやくおさまり建設の曙光燦然と輝かんとする今日、マレーの陣中において畏くも天長の佳節を迎うるは誠に感激の極みにして、とくにこのたび新たに大日本帝国の臣民となれるマレーの住民とともに聖寿の万歳を寿ぎ奉り得るにいたれるはこの意識極めて深遠重大にして、本職のまた衷心より欣快に堪えざるところなり・・・ よろしく民衆は光輝ある帝国の新附の民たるの光栄に感激し、帝国の尊厳なる国体と大東亜戦争の真意を明識し、各その生業に励み日夜努力し、もって一時の苦悩を克服し、敢然として建設の一途に邁進し正義に立脚せる神聖にして永遠なる平和を築き、道義を基とする文化を進めざるべからず、これ天皇陛下の忠良なる臣民たるゆえんなり、今日の佳節にあたり恭しく聖寿の万歳を寿ぎ奉る*8
その他新聞記事

タイ侵略

タイは松岡洋右外相が「泰勢力英米七割、日本三割」*9と述べたように親英で、開戦直前1941年11月にもピブーン首相が英国の駐タイ公使に「タイが侵略を受けたら英米が対日宣戦を布告する、と英米が共同で声明するように要請し、あるいは英国の単独声明でもいいと訴えた」*10
開戦当日12月8日、日本の浅田駐タイ領事がピブーン首相に対して「提示する協定文の写しを床に投げ付け、日本軍はぐずぐずしておれぬ、と威嚇し、どちらかにサインせよと迫」*11るなど威嚇した。
日本軍はすでに8日未明タイ侵攻作戦を開始し、タイ側と戦闘を開始していた(→日本軍のタイ進駐)。タイ側は閣議を開き「このように話している1分1秒の問にも,人が死んでいってるのです。停戦するのか戦うのか」と話し合った末、7時30分全員一致で停戦することを決めた*12[注 14]。
大本営発表では「友好的に進駐」と虚偽の発表を行った。*13

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