綿花栽培強制の資料


朝鮮農会報1935年11月号(9巻11号)
始政二十五周年記念朝鮮農事回顧座談会速記録
時日 昭和十年十月一日 自午前九時至午後七時
会場 京城銀行集会所倶楽部

三井栄長(不二工業会社専務)
私は今日の農林省、当時の農商務省から明治四十三年の併合前に韓国政府によこされたので…(3頁)
米に就いて言へばどこの道にはどの品種、どこの道には何んの品種といふ風に極めたが最後、その外の品種は絶対にやってはいけない。即ち決定事項以外のことはやっては断じていけないことに極めてあったものだ。(5頁)
奨励事項をきめて奨励をすれば、それ以外はやらせないのだから技術者側から見れば非常に窮屈でならなかったものだ。(6頁)
例へば棉なら棉をどこに何んぽ、どの面に何町歩といふ綿密な実行計画を樹てそれをやらせる(6頁)

松井房治郎(朝鮮農会副会長)
僕が全北にゐる時、橘君が農務課長だったが、その時棉の奨励をやったところが面白い、農家に対してお前の家は来年棉を作るか、いくら作るかと云ふので、その作り次第で金を貸してやったものです。そうしてその年行って見ると棉は一つも作ってゐない、皆麦を作ってゐるからその麦を全部踏み倒して終った。随分強行軍にやったものです。(9頁)

野木伝三(元勧業模範場技師)
三十九年(明治39=1906年)に木浦付近では奨励に手を焼いた棉……それは憲兵や巡査が強制的に栽培を奨励しても却々作らうとはせず、豆や麦許り作って困ったから、茲に居られる佐藤(政次郎)さん達は作った豆や麦の上を踏んで歩くと言ふ風にして奨励し、最後には棉を栽培する者に金を遣って迄も奨励しなければならなかった棉(29頁)

佐藤政次郎(元朝鮮総督府道技師)
御承知の通り明治三十七、八年(※1904、5年)の頃から内地及朝鮮の官民の中に、棉花を朝鮮に栽培するがよいと云ふことが論議され、この事業が実際に行はれることになったのは、明治三十九年からでありますが、私は三十九年の五月にこちらに赴任致しましたが…そうしてこの事業を本格的に拡張するために臨時棉花栽培所を設立されるや私はこれが所長となり前後三四年間この事業に携はりました。棉を三十九年に奨励し出した時には、全力を全南に注ぐと云ふことになってゐて、それ故に棉作所と云ふものを全羅南道に置いた訳であります。棉作所と申しましても、試験場のやうに棉作所で作って試験をするのではなく、悉く全部を農民に作らせる指導機関であります。
棉花栽培奨励の最初の頃
 ところで今申しますやうに、日本と韓国の有志が諒解の下に遣ったと云ふのですけれども、実際に当って見ますと、地方官憲に於いて心よく思って呉れる人はなかった位で、況んや農家の如き直接関係を有する者には、こんなものを作って果してどの位の経済になるだらうか?と危ぶんだのは当然でありますから、時には拒絶的な態度に出ることもあり、予期せざる困難に遭遇したのであります。(32頁)

辻善一(不二興業社員)
私は明治四十三年(※1910年)の三月に朝鮮へ参ったのです。而して直ぐ全羅南道に赴任を命ぜられ、仁川に三月末までゐて、木浦に四月行ったのですが、当時は日韓併合の直後でありますから、例の朝鮮軍隊の解散兵が暴徒化して、日本人と見れば皆殺すといふ騒ぎの頃でありますから、私等も村田銃を持って居ったものであります。かやうな訳でありますから、私等の棉花試作所には守備兵が六人程も居ったのですが…
在来棉根絶に非常手段
 こんな物情騒然たる時に棉作を奨励しやうとしたのであります。それには先づ第一に土地を選定しなければならない、百姓に向ってお前のところでは棉を何段歩に植えるか、二段歩か三段歩か、而してどこの畑に作るのか、と言ふ工合に而も一戸一戸戸籍でも調べるやうに廻ったものであります。
而してもう一つは百姓は陸地棉といふものを寧ろ嫌って在来棉を作りたがり、陸地棉の種だけを貰って蒔かないのです。
 そんな工合で、予定の面積が却々出来ないので、第一にかういふことをやったのであります。それは丁度、一、二、三月に在来棉を全部抜いて終って在来棉の種を残さないやうにして置いて、而して今度蒔く時に行って種をやるのであります。全南といふところの大部分の土地といふものは、麦のなかに棉を蒔くのですが、それで漸く予定面積を作ったのです。それでも在来棉の面積が沢山ありますから、今度は六月の末か七月に、在来棉を作ってゐるその村に出掛けて行って、青竹を一本持って、片端から叩き倒して終ふのです。実に乱暴なことを遣ったのですが、それを可なり長い期間続けたものです。斯くして在来棉はその跡を絶ったのです。
 それから栽培に関する手入れの方針が極ってゐて、花が咲けば摘心せよと云ふやうなことを言ふばかりでなく、一々巡って目の前で遣らせたものです。そうして秋になって棉を全部刈取る時に、陸地棉は在来棉より二三割も高く買ってやった事もあるのです。(36-37頁)
 
千葉喜千彌(殖銀春川支店長)
栽培不承諾者には笞刑
 全南珍島は古来難治の地方でありまして、とても陸地棉栽培など承知しませんので、或時佐藤所長の命を受け郡庁に郡守を訪ねて御願致し、栽培者を物色して呼出し、必ず播種するやう厳重に申渡して貰ったのです。処が頑固で中々応じない、そこで郡守は之れに笞刑を命じ、初めは軽く打たせて居りましたが、依然として承諾しないので段々と強く打たせ、二十回臀部を打たせ大分局部が赤く腫れ上った頃になりますと、愈兜を脱いで播種することを承知しました。今日から考へて想像の出来ない事柄で、随分無理もありましたが、当時の民度として仕方がなかったのです。
 何しろ当時の郡守は生殺与奪一切の権限を掌握して居りましたので、郡守の命令には百姓達は震ひ上ったものです。(44-45頁)

山口賢三(慶北)
翌大正二年(※1913年)、本道に初めて農事巡回教師が配置される夫れ迄は皆蚕業巡回教師が片手間でやって居たのであるが、私は元々農業出身なので直ちに此山奥から海岸の興海郡(今の迎日郡)にやられ東海岸六郡の受持となったのであるが、此年、中央では本谷氏が来られその発議で在来種の絶滅と改良種たる穀良都、早神力種の普及に全力を注ぐ事となり、同地の東拓移民に採種畓をやらせ、又在来種の苗代を踏み荒しなどして徹底的に乱暴な奨励方針を断行したが幸ひ身辺の危害もなく、極めて順調に普及して行きました。(103頁)

東亜研究所編「支那蚕糸業研究」1943年
満州側でも大正十二年奉天省長王永江氏に農業振興策として各県知事に棉、養蚕、藍の三業を奨励すべく、尚棉と桑との苗圃を各県に設置すべき様通牒を発した。又復県では大正十二年六月養蚕奨励の県令を発布した。それは各戸強制的桑樹植付を主張したものである。是等は朝鮮総督府の蚕業強制奨励に範を執ったものであらう。(365頁)

久間健一「朝鮮農政の課題」1943年
例へば、之等の権力的な農事指導の最も集中せられた米作農業…その発展の裏には、官憲の驚くべき強行軍的な農業指導の歴史が織り込まれてゐるのである。指導者の正しい指示に従はざる苗代は踏み破られ、正条植に応じないものは、苗を抜きすてられて再植を命じられる。稗抜きは幾回となく統一的な計画の下に、農民を動員して強行せられる。これらの所調「官の指導」に従はざるものは、警察の説論を受け、或は時に強制力を以てしても強行せしめられる。栽培品種に就ても同様一定の奨励品種が定められ、之が年次的普及更新の計画が立てられると、最下級の行政単位たる面に至るまで、年次計画が系統的に整然と確立せられて、定められた品種以外の栽培は禁止せられ、農民の意欲に関せす強力的に実行せしめられる。更にまた、収穫期に就ても適期刈取が喧かましく強行され、刈取れば乾燥に就て、乾燥すれば調製に就て、脱穀機の使用や筵蓆使用が強制せられる。稲の脱穀調整に筵を敷かないものは、道令を以て科料に処すとい簡単な法令を以て之が実行を強要し、違反者を処罰した事例は米作地帯の各道が既に経験せる所である。3)之を要するに、苗代に下種すべき種子から脱穀に至るまで、微細なる生産過程の隅々までも、指導の触手は浸み渡って、専ら強行的に実施せしめられたのである。この意味に於て、今日まで斯る強行的な指導を、執拗に絶間なく繰返して来た、…
 而して斯る権力的な官庁的指導は、大正九年産米増殖計画の実施せらるゝに及んで、益々拍車をかけられたことは云ふまでもない。
権力的な農業開発は啻に米作農業のみではない。他の一例を棉作に就て見る。朝鮮で棉の奨励を始めたのは明治三十九年(※1906年)頃であるが、この新来の作物を農民に栽培させることは容易でなかった。之がため当時は憲兵や巡査までを動員して、強制的に栽培せしめたのであった。のみならず棉を栽培しない農家にして、麦や大豆を作ってみるものは、強制的に、大豆や麦を足で踏み倒してしまったことも一切〔ママ〕ではなかった。そして最後には、官憲の意を体して棉を作るものには奨励金を交付した位であった。4)その最も極端な場合は、笞刑を以て綿花栽培を強制した次の一文によって、如何にその開発が強力的であったかが知られるであらう。5)
「全南珍島は古来難治の地方でありまして、とても陸地棉栽培など承知しませんので、(中略)郡庁に郡守を訪ねて御願致し、栽培者を物色して呼び出し、必ず播種するやう厳重に申渡して貰ったのです。処が頑固で中々応じない。そこで郡守は之に笞刑を命じ、始めは軽く打たせてをりましたが、依然として承諾しないので、段々と強く打たせ二十回臀部を打たせ大分局部が赤く腫れ上った頃になりますと、愈々兜を脱いで播種することを承諾しました。(後略)」(千葉喜千彌氏談)
 今日でも棉作奨励に於ける斯る強制は、その態容こそ異れ依然として存在する。所請「棉花増産計画」は道、郡、面、と系統的に樹立せられ、部落に於ては適地選定の名の下に、個々の農家の耕作地に、棉の裁境面積と氏名を記せる棒杙(原文「木」偏に「戈」)が半強制的に立てられ、一たび下種せられるや、摘心、摘芽、施肥、除草、等々の裁培技術の細部に亘って濃厚な強制的指導が加へられ、そこには農民の自主的行動の影は殆んど見出されないのである。それは恰も南部アメリカの棉栽培地方に於けるクロッパー(Corpper)〔綴りママ〕のそれにも類するものである。
 斯くして生産された棉花は、販売市場に強制せしめられる。官憲は栽培面積と作柄によって、収穫量を予定し、販売すべき数量を定め、と云ふよりも予め定められたる年次計画に随って、予定販売数量の実現に並々ならぬ努力が払はれ、目的の貫徹に懸命の活動が行はれる。そこには時に管轄を異にする両官庁の間に販売棉花の争奪に就て争を醸し出すことさへある。そして勢の赴く処、予定販売数量実現のため、指導者は栽培農家の家屋を点検して、隠匿せる棉花の捜索を強行することさへもある。
 更にまた、棉作に於ける権力的強制に関連して注意すべきは、繰綿器の使用禁止収納である。自給を抑制し棉花を販買市場に強制動員せしむるためには、このことは必要欠くべからざることであった。当局は種々なる手段を以て農民の繰綿器の使用を禁止した。こゝに農民の自然経済に対する強力的な破壊作用の一断面が見られる。
 朝鮮の棉作、就中、外来的な陸地棉は、農民にとっては未知の作物であり、之が栽培は経験せざることであった。しかも自給経済に慣れた農民経済にとっては、棉花の如き販売作物の経済上に於ける地位を理解することは困難であった。茲に辛うじて自然経済的な孤城を守る農民経済に対する、外来的な貨幣経済の侵入が展開せられる。すべてのものは理解を必要としなかった。否そんな間どろかしいことは、日本人的性格の許す所ではなかった。そこに必要であったものは唯強制のみであった。今日の棉花増産の結果は一に此の強制によると云ふも過言ではない
 朝鮮に於ける棉花増産計画は、昭和三年を以て第二期計画を終ったが、昭和八年に至り、新規に棉花増産計画が樹立せられ、最近の国際情勢に鑑み本邦棉花の自給を図るため、棉花増産は益々拍車をかけられつゝある。「南棉北羊」の宇垣スローガンの喧伝これである。斯くて朝鮮に於ける綿花栽培は益々農民への強制を強めて行くのみか、最近に於ける国防経済的自給政策の強化は、益々棉花の強力的増産へと加速度を増しつゝある。
  3)前掲書(※朝鮮農会報9巻11号始政二十五周年記念農事回顧座談会号)、二〇頁
4)前掲書(※同上)、九、二〇、三六頁
5)前掲書(※同上)、四四―四五頁
(本文6-11頁 注は13頁)

※巻末に著者略歴が二つ並んでいる
著者略歴
大正十二年 水原高等農林学校農学科卒業
同年 江原道農事試験場勤務
大正十五年 水原高等農林学校助教授
昭和五年 朝鮮総督府道小作官補
昭和八年 朝鮮総督府道小作官

著者略歴
宇都宮高等農林学校卒業
同校助教授を経
現在、朝鮮総督府小作官
京畿道庁農政課長


朝鮮新聞1931年3月15日「棉作指定不満から農民面事務所に殺到 大騒ぎを演ず
(大邱特電)十三日午前十一時大邱府外達西面の農民約八十名が大挙して面事務所を襲撃棉作の標木を投げ込み面長に会見を申込んだが不在だったのでなほ更激昂し暴行に出でんとしたが面事務所員必死の努力で漸く解散した原因は棉作の指定地を三町歩としてゐたものを今年度から九町歩にしたので農民の激昂を買ったもので従来作してゐた馬鈴薯は反当り二十円あり棉作は僅に五円六十銭に過ぎず窮迫してゐる農民に取っては大痛手であらうなほ本問題は地主の利害関係もあり簡単ならず一面警察部では各地に伝播を恐れ極力警戒してゐる

朝鮮新聞1931年3月16日「棉作奨励では喰へぬ農民の騒ぎ 指定地を増されて激昂したその動機
(大邱)既報●如く大邱府外達成面坪里洞の農民八十余名が大挙して面事務所を襲撃しあはや暴行に及ばんとし面事務員の必死の鎮撫で辛くも事なきを得たが道警察部では折角産業奨励のため道下あまねく棉作をさしてゐる矢先であり他に波及することをおそれ警戒中であるしかしながら道の此の棉作奨励はあまりに酷に過ぎた如く取沙汰されるにいたったが坪里洞の農民が激昂するにいたった迄の原因は昨年迄は同洞は棉作指定地として三町歩を耕作してゐたが道では六年度新に棉作の方法をかへて増産をはかったので坪里洞指定耕作地を一躍九町歩にされたので憤慨し面事務所に押しかけるにいたったものである右に付同面技手成廷煥煥氏は語る
原因は至極簡単です馬鈴薯は一反歩作れば平均二十円の収入があり豆類を作れば七円以上になりますが棉作はわづかに五円五六十銭位しかならず従って小作人をもって大部分をしめてゐる坪里洞は地主への小作料も払はなければならぬ状態なので農民にとっては苦痛と思ひますしかし此の裏面には地主の策動してゐることは見のがせぬところで私達は道の方針によって仕事をしてゐればよいもののこの騒動が他面にも波及せねばよいがと心配してゐます

朝鮮新聞1937年5月26日「収穫を眼の前の麦を抜いて棉作 極端なる当局の棉作督励に慶州郡の農民泣く
【阿火】慶州郡西面では気候の関係か、それとも土質の関係か当局で奨励する棉作が毎年不作なので一般農家ではこれを好まず麦作に力を入れる傾向があり、本年も亦当局の指導にも拘らず棉作を為さず麦作を行ってゐたため最近郡当局は面と協力各部落へ出張して後一ケ月もすれば穣るはずの大麦を片っ端しから抜き取って強制的に棉作を行はしめるので面民は尠からず恐慌を来してゐる而もその最も甚しいのは面内では道里、阿火等であるが、農民としてはその理由の如何は別として斯くも立派に生長して目前に収穫期を控へてゐる大麦を抜き取りその上を牛で耕すことは何としても執着多く涙なしには見られない事であり某当業者は涙を流さんばかりに左の如く語った
棉作は毎年耕作をしてをりますが相変らず不作であるのみならず収穫率から見ると二割以上不足するので昨年面で定めてくれた棉作播種反別より少なく残して置いて皆大麦を播きましたが御覧の通りその大麦は全部抜き取りてその上へ棉の種を播いたのですが我々は収穫の多い而も後二十日位もすれば穣るはずの麦を抜いて収穫の少ない棉を作らなければならないのです、而も小作料は地主が減じては呉れないから困ったことです云々

朝鮮新聞1937年8月11日「方針徹底し非難も解消 洪川の棉作逐年増加
【洪川】棉作については数年来栽培法改良種子普及面積拡張等各種に亘る指導督励を加へつゝ来たるも未だこれが趣旨徹底せざるがため充分当局の意図に添はず播種期に至り指定面積に達せざるもの幾分もあるがためこれ等のものに対しては麦畑を一畦置きに耕し棉の間作を実施せしめたところ意外にも或方面においては非難の声を発してゐたが元来棉作は国策にして需要広汎なる一般に周知せしめると共に一層適切なる指導督励を加へた結果今日においては当局の指導に従ひつゝある、明年は一七五〇町歩の予定にて本年に比し七五〇町歩を増加せしめる上において万遺憾なきを期すると共にこれが一般耕作者に予知せしむべく告知書の発付を急ぎつゝある。

京城日報1939年11月3日「棉作忌避地に凱歌 皮肉にも試作に多収穫の記録 なんと反当り五百斤
【大邱】棉花共販の最盛期……慶州郡安康日浦広治氏栽培の棉花は旱害も受けず慶北棉花史に記録さるべき大豊作で当局者を驚かしてゐる、…なほ安康地方は昭和九、十年頃盛んに棉作栽培に反対を唱へた所で従って奨励にも手を焼いたものであった、その強硬地方の日浦氏の栽培が旱害下に記録的豊作を見たのは今後奨励の上に大いに役立つわけで、政策的見地からしても非常なる収穫であらう

京城日報1938年6月30日「棉作肥培週間 江原道督励
【春川】軍需資源の増殖強化の一助として江原道では廿八日から一週間を第一回棉作肥培管理週間として各郡一斉に指導督励を加へ反当収穫の増加に一だんの努力を払ってゐる、即ち郡、郡農会、面職員その他関係職員は分担区域を定め、中耕、除草間引、異品種他作物並に罹病茎の抜取、堆肥並に培土、土寄等について指導督励を行ひその徹底を期する一方、指導団採種団等に標木未設置の処は速かに建設せしめ又一般農家には人糞尿を施用せしめてゐる

産米増殖計画の狙い

拓殖局「朝鮮産米増殖に関する意見」1921年
本書は朝鮮総督府技師三井栄長の起稿に係る 帝国の食糧問題研究の一端に資するを得ば幸なり 即ち印刷に付して謄写に代ふ 大正十年 月 拓殖局^^ 第七 産米増殖に要する国庫負担
即ち内地に於て産米一石を増加するに要する経費の約五割五分を朝鮮に投ずれば鮮内の増加すべき消費量を控除するも尚一石を内地に供給し得る計算となる。(16頁)

第八 結論
 帝国糧食充実の根本方策として産米増殖の実行を為すに当り之を朝鮮に於て企画する時は内地に於て之を行ふ場合に比し安全に見積もるも企業者の投ずる資金は三分の一内外、国庫負担の経費も亦三分の一内外を以て同額の産米を増加し得べく、又政府が内地産米増殖の助成奨励に要する経費の約五割五分を朝鮮に投ずれば内地に於て得らるべき産米増加額と同量の産米を内地に供給すること敢て困難に非ず。
 若し…の約半額を朝鮮産米増殖に投ずれば約一千八百万石の産米を増加し九百余万石の産米を内地に供給することを得べく之を以て帝国糧食の不足額の大部を補ひ一面半島の財政経済の状態を裕にすると共に内地移民の渡来をも容易にし以て朝鮮統治上至大の効果を収むることを得べし。
 思ふに如斯容易に産米を増殖し得べき朝鮮を度外視し帝国の糧食対策を樹てんとするは極めて妥当ならざるが故に政府は速に之に関する一定の方針を樹立して直に其の実施を為すの要あり。(17-18頁)

京城日報1922年8月25日 「鮮米増産と食糧問題 総督府農務課長 篠原談
総督府の産米増殖計画の原案は未開墾地八十万町歩の中四十万町歩を以後十五年内に開墾し九百万石増収を実現させ内移出数量も年々一千二三百万石に達せしめ度いと云う考えであるが此計画が実現されたあとでも尚四十万町武の未開墾地があるから更にそれに手をつければ内地の食糧問題も当分の解決が出来るつもりである。(※移出とは内地=日本本土への輸送を指す。一応国内なので輸出という単語を避けた)

朝鮮総督府「朝鮮総督府施政年報 大正十二年度」(※1923年)
第八章 農業
四 食糧政策
従来の政策
  内地に於ける食糧の需給は近来著しく均衡を失ひたるを以て帝国の版図を一団として其の均衡を図るは国民生活上の重大問題に属するのみならず米の生産額の増減は朝鮮民衆の経済的消長に影響する所大なるを以て各種改良の施設に俟ちて産米の増加を図ると共に麦其の他の雑穀及補食作物の耕作を奨励し其の結果此等農産物の生産比年大に増加し米の輸移出数量の如きも大正十二年に於て併合当年の約五倍に増加するに至れり。

産米増殖計画
本計画完成の暁には約九百万石の産米増加を得べき見込にして之が為延いて約四百六十万石の輸移出力を増加し・・・一面大に朝鮮の経済を利すると共に他面内地食糧問題の解決に寄与する所尠からざるに至るべし(201-202頁)

中央朝鮮協会「朝鮮産米の増殖計画」1926年
朝鮮産米の増殖計画
第一章 朝鮮産米増殖の国家的意義
 朝鮮総督府の大正十五年度特別会計予算が第五十一回帝国議会を通過して、予ての懸案であった朝鮮産米増殖計画が具体的に確定し国家事業として実行の第一歩を踏み出すこととなった。…故に先づこの朝鮮産米増殖事業なるものはどういふ必要から計画され、それがどういふ効果を国に及ぼすものであるかを簡略に説明しやう。それには国家的に我国全体の立場と地方的に朝鮮それ自体の立場との両様の見地から考察しなければならぬ。

一、我国の人口増加に伴ふ食糧問題に対する有力なる解決方法の一たること
 我が日本内地の人口は年々七十万人からの自然増加を告げて居る。今日では世界の文明国中我国は白耳義と共に人口の稠密なることにおいて敢て第一位たらざるまでも二位を下らない状態である。この人口問題こそは現代日本を駆りて一大経済的難境に陥らしめつゝあるもので、…さすればこの人口を養ふところの食糧を何れに求むべきか。
 我が国民の主食物は米である。その米が内地で年に約六千五百万石消費される。ところが内地の米産高は年に五千八百万石位であるから、すでに国民の主食たる米の供給は不足して居る。その不足分は他の帝国版図及び外国からの供給で充たすより外に致方ない有様である。…それであるから、我国の食糧問題の解決を計るには、先づ何よりも米の生産を殖やすことを眼目とし、これに向って主力を注がねばならぬ。それにはいろいろの方法を講じなければならぬが、就中後に説き示すやうに、朝鮮といふ米産地方が将来まだまだ沢山に米の増収を期待し得べき余地に富んで居るから、少しも早くこの朝鮮に徹底的の施設をなし、帝国の食糧問題解決上有力な手助けにしやうといふのが、この朝鮮産米増殖計画の重要なる趣旨の一である。

二、国際貸借決済の上に効果の大なること
 内地の米が不足だから朝鮮台湾の米を持って来る。それでもまだ不足だから外国米を輸入して漸やく補充して居る。外米の輸入は年々三百万石内外で、昨大正十余年には約五百万石の多量に上った。五百万石と云へば価額にして一億二千万円からになり、輸入品の中でも価額から見ると重要な地位を占めて居るのである。我が外国貿易は欧州大戦中は連年輸出超過の盛況であったが、大正八年以降は形勢逆転して毎年輸入超過で十三年の如きは六億四千万円といふ大入超を見た。かやうな状態であるから、近年我国は国際貸借の決済上甚だ不利な立場に陥って居る。…政府の調査によっても我国はまだまだ産米増殖の余地があり、内地においてもさうであるが殊に朝鮮においては更に一層の余裕がある。適当な施設をしたならば、年に三百万石や五百万石の外米輸入を防遏することは決して困難ではない。然らば毎年一億円からの外米輸入を止めるのであるから、国際貸借の決済上非常な利益であり、それが我国の財政経済に及ぼす好影響は頗る大なるものがあらう。この見地よりしても朝鮮の産米増殖計画が重要なる国家的意義を有することが判る。
 以上は我国全体の立場より見たる朝鮮産米増殖計画の主なる意義効果であるが、今一つ見落してはならない事がある。

三、移民政策上に効果少からざること
人口の増加はすでに我が国民生活の脅威であり、移民問題は今や朝野の間に切実なる問題となって居る。…太平洋彼岸の大陸では東洋移民に対して厳重に門戸を鎖し、濠洲大陸では「白人濠洲」主義の下に有色人種入るべからずの禁制札を立て、南米にせよ南洋にせよ白人殊にアングロサキソンの勢力が根を張って居る所には到底肩身広くは東洋人がはいり行けない今日である。国民の外国移住といふことは最早大規模にはできない時勢となった。…今回の朝鮮産米増殖計画なるものは、相当広い面積の新耕作地を造ることになるから、此の計画に伴うて可なり多数の移民を内地から招くことができ、しかもそれは何等朝鮮人の生活を圧迫するものではない。これ此の産米増殖計画が内地人口の対朝鮮移植策として最も自然的な且つ穏当な一方法と認められる所以である。
 さて如何に朝鮮の米を殖やしたところでそれがたゞ内地のためにのみ利益であって、朝鮮がその恵沢を受けないとすれば、此計画は内地のために朝鮮を犠牲にするものである。左様な利己的な計画は国策として行ふべからざるものである。然らばそれは朝鮮にとりて如何なる副利をもたらすものであるか。

一、朝鮮経済の向上に大なる効果あること
(略)
二、朝鮮内の米の需要増加に順応し得ること
(略)
三、朝鮮の農事改良上に好影響あること
(略)
四、朝鮮統治上に好影響あること
…総督政治が施されて、一視同仁平等無差別の文化政治が行はれて居るが往々にして朝鮮人の間に日本の朝鮮統治を咀ひ、不穏の行動に出づる者のあるは、遺憾な次第であるが、もともと、一つの纏まった民族として、数千年の歴史を固有の文化を有し、兎にも角にも曾ては帝国として独立して居た国民であることを思ふ時、朝鮮民族の間に蟠(わだか)まる不平といふものに対しては、特別の考量がなくてはならぬ。…茲に吾人の大いに考へねばならぬのは、朝鮮人の不平といふものがその根底は生活の不安にあるといふことである。故に彼等を絶望の淵より救ふには、朝鮮を開発して民衆の福利を増進し、以て安住の境地を得しめるより以外に最善の方法はない。今日間島とか満洲とかさては西伯利亜(シベリア)に散在して、朝鮮統治を非議する朝鮮人の多くは糊口に窮せる者であって、今は彼等も口に排日を唱へるのみでは食って行けないので、何等かの名実を求めて生活の途を得たいといふ風がある。…朝鮮産米増殖計画の如きは直接に朝鮮人に仕事を与ふるものであり、米産の増殖によって朝鮮民族に多大の福利を与ふるものであり、従ってその統治上に及ぼす効果は甚大なるものであらう。

極秘印
朝鮮総督府「調査資料第二十一輯 朝鮮の言論と世相」1927年

ハ 産米増収と粟飯、草の庵の暮らし(東亜日報大正十四年〔※1925年)〕七月十二日)
当局者が吾々に産米を増収せよと云ひつゝ、又一方には食用米の代りに満洲粟の代用を奨励するのを見ると、又一層産米増収計画の根本精神が何処にあるかを容易に推測されると同時に、所謂「新付民」なる和らかな称号を喰付けて以て「其処に棲んで居る朝鮮人部落民は未だに原始的生活を脱し得ないで草根を常食とし粘土を代食とする」と快々として之を話すから、朝鮮人たる吾人は之を見聞する時にどうして心血が沸騰しないであらう、宿忿が新たにならないで居られやうか。

矢内原忠雄「朝鮮産米増殖計画に就て」1927年
之はもと農業経済研究第二巻第一号(大正十五年二月五日発行)掲載の拙稿に若干の加筆を為したものである。産米増殖計画は朝鮮に於ける産業政策中最も重要なるもので、且つ内地の政治家実業家学者が食糧問題緩和策として多大の期待をかくるものである。(13・14頁)

加ふるに近年内地の人口激増に対する食糧問題解決の重要が一般に意識せられ、且つ故下村政務総監の産業第一主義に基き朝鮮産業の振興に対する総督府の努力が加はりて、大正十四年に至りて産米増殖計画を立て直して其完成を期するに至った。而して財政緊縮を標榜する政府も食糧問題の重要にかへりみて此計画の実行促進に賛同し之に関する予算案をその期議会(第五十一議会)に提出し可決せられたのである。(280頁)

而して本計画完成の暁には約八百万石の産米増収を得べく、その半額を朝鮮内の人口増加による米消費額の増加に宛つるも、尚内地に対する移出余力三、四百万石を増加し、現在四、五百万石の移出に加へて七、八百万石の朝鮮米内地移出を予想せるものゝ如くである。(282頁)

産米増殖計画の促進理由として総督府の新たに発表せる処は、(一)帝国食糧問題の解決に資すること、(二)貿易関係を順調ならしむること、(三)内地移民問題解決の一助たること、(四)朝鮮に於ける農家経済延ては半島経済の向上を計ること、(五)朝鮮内の需要増加に備へ得ること、(六)一般農事改良の施設に好影響を与へ得ること、(七)思想善導延ては朝鮮統治の上に多大の貢献を為すこと、等々々。産米増殖が如何にして思想善導の効果あるや、其他この促進理由に対しては多くの説明を要求すべき点があるが、要するに大正九年の計画の三大目的として与へられたる「(一)内地食糧問題の解決に資すると共に、(二)鮮内に於ける食糧需要の増加に備へ、且(三)農家経済の向上延ては朝鮮経済の振興を図るにあり」とせられたる処は、依然産米増殖の主要目的たるものと認めねばならない。朝鮮総督府施政年報(大正十二年度)がその食糧政策の項に於て、「内地に於ける食糧の需給は近来著しく均衡を失ひたるを以て帝国の版図を一団として其の均衡を図るは国民生活上の重大問題に属するのみならず米の生産額の増減は朝鮮民衆の経済的消長に影響する所大なるを以て各種改良の施設に俟ちて産米の増加を図ると共に麦其の他の雑穀及補食作物の耕作を奨励し其の結果此等農産物の生産比年大に増加し米の輸移出数量の如きも大正十二年に於て併合当年の約五倍に増加するに至れり」と称し、産米増殖計画を以て其の主要事業と為せるによりても、此の計画の目的の那辺に存するやを察知するを得るであらう。(285・286頁)

然るに朝鮮に於ける食糧の需要は鮮内産出の雑穀による補充を以て尚不足するにより、近年外国米及び満洲粟の輸移入が盛となった。何が故に斯くの如き現象を生じたか。即ち朝鮮産米の内地に対する移出増加による空虚を充たさんが為めに外ならない。「斯の如く米の供給不足せる朝鮮の現状に於て之が代用食たる外国米満州粟等の輸移入は朝鮮に於ける食糧問題解決の上から見て蓋し重要なる使命を有するものである」と朝鮮経済雑誌記者のいへるが如く、内地食糧問題解決に資するが為めに朝鮮産米を移出することによりて、朝鮮自身に食糧問題を生じて来た趣きである。換言すれば内地に於ける米の消費を補充するが為めに、内地自ら若干の外国米及び満州粟を購入消費する代りに品質内地米に近き朝鮮米を移入し、由って生ずる朝鮮内の食糧不足は朝鮮自らをして之を憂へしむるものである。食糧問題の転嫁である。頭隠して尻かくさずである。帝国全体としては食糧自給の問題は解決せられずして残るものと言はねばならない。(293−296頁)

朝鮮農会報1935年11月号(9巻11号)
始政二十五周年記念朝鮮農事回顧座談会速記録
時日 昭和十年十月一日 自午前九時至午後七時
会場 京城銀行集会所倶楽部

韓相龍(朝鮮生命社長)
…産米増殖の計画に就いて私が記憶してゐるのは、丁度下岡政務総監(※下岡忠治朝鮮総督府政務総監)が大正十三年に朝鮮に御赴任になって…大阪の日本料理屋で数百人の人を呼んで、下岡さんの御演説の中にいろいろありましたが、その中に、朝鮮の農業の発展を計って下さいと云ふことがあった。これはどう云ふ理由かと云ふと、第一我が帝国の食糧問題が解決される為であります。今朝鮮は千万石位の米しか収れないけれども、今少し政府並に諸君の御尽力に依れば二千万石は容易である、否三千万石にも及ぶかも知れないのであるから、この点こそ帝国の将来に於ける食糧問題解決の唯一の捷径である、第二は朝鮮は兎に角経済が貧弱であるから、将来の国策として農産物の増殖を遣らなければならぬ。吾々も今相当の計画を以って当ってゐるから何分宜しくお願ひする、と云ふことを申されたと云ふことは今にも記憶して居ります。
その後、私は政府の内容はよく知りませぬが大計画が樹てられ故渋沢子爵や水町袈裟六先生や吾々民間の人や総督府の人から直接間接に政府に対して援助方をお願ひした訳であります。当時の総理は浜口さんでありましたが、渋沢さんが足を首相官邸に運ばれ、又水町さんが非常に尽力されたことを伺って居ります。水町さんの御話で最も深く吾々の頭にあることは、日本は年々食糧不足で、日本領土に於ける米は勿論国外から百万石乃至数百万石宛入ってゐるではないか、これに対して政府財政の支払ひとすれば毎年七千円〔ママ〕乃至一億万円の金でもって払はなければならぬ、同じ国の朝鮮に於いて農業を振興し米を増殖すれば財政問題の難関は容易に解決されるから、是非とも実現せしむ可きである、と首相に申されたそうであります。そこで浜口さんも非常に心を変へられまして、後に今日の土地改良事業となり、朝鮮のため、帝国のために重大問題が解決されたのであります。(8-9頁)

綿花増産(南綿北羊政策)の狙い

朝鮮新聞1932年9月23日「総督の棉作奨励 十ヶ年後に十億斤 帝国全部の需要を朝鮮から補給する
宇垣総督の力説する棉作奨励綿の自給自足計画は着々農林局の手で立案研究中であるが仄聞する処によると帝国印綿その他輸入消費状況に鑑み総督府では十ヶ年計画とし南鮮を中心に漸地陸地棉栽培を奨励し耕地約三万町歩を棉作地として年産額十億斤を目標に増産を行ひ帝国全部の需要を朝鮮から補給し棉の自給自足の国策を確立するはずである

京城日報1933年6月15日「棉作緬羊計画は早く大きく 北島殖産局長入城談
日印通商条約廃棄に伴ふ印棉不買対策たる朝鮮棉作計画並に目下進捗中の北鮮鉄道、港湾の満鉄委任経営問題等の解決の鍵を握る拓務省殖産局長北島健次郎氏は、…車中左の如く語った
…朝鮮総督府の棉作計画及緬羊計画に対して拍車をかける事は事実だ…英国の対日経済条約破棄による印棉不買は早速我国紡績工業にも甚大な影響があり、我国産業非常時を思はせるが、朝鮮の計画も二十ケ年後に於ての事だから、非常時に間には合ふまい、としたならば欧州以外の国から買ふ事になるんぢゃないかな、例へばブラジル、南米等からだが、然しそんな事は僕は知らぬよ
満洲では今年度から二十ケ年計画で廿語万町歩繰棉一億五千万斤の棉作計画を樹てゝゐるが、何しろ我国一ヶ年の需要は十億斤に上ってゐるのであるから、満鮮の棉産額も一寸間に合はぬわけだ(以下略)

京城日報1936年8月28日「国策遂行上意義深き企て 松本全南知事告辞
 朝鮮に於ける陸地棉奨励三十周年を迎ふるに方り…殊に綿糸業の消長は国家経済の隆替に影響する所極めて大なるのみならず対外貿易品として之が輸出の増進は国際貸借改善上最緊要の役割を演ずるものと信ずるのであります而して現下の国際情勢は帝国紡績原棉の需給調節上一層積極的に国内棉花の増産を図る要切なるものあるに鑑み本府に於ては昭和八年綿花増産計画を樹立せられ本道又之に順応して実棉一億一千二百万斤の増産計画を樹て以て南棉北羊の重要国策に一路邁進しつゝありますることは各位の既に熟知せらるるところであります、(以下略)

その他

京城日報1943年11月7日「臥薪十年の成果 割当量に示す余裕 黄海道

麦間作に示す決意
爾来、黄海道は小麦の産地として知られ、その産出量は北海道に次ぐと称されてゐるが、本年からは特に麦間作を奨励し、折角開絮中にある棉は一畦毎に抜き取られて今その生々しい傷土には小麦が播かれてゐる、農地の高度活用から棉の単作は許されぬことゝなって先月十六日の知事会議における決定をそのまゝ持ち帰った碓井知事は棉作地を一応整備してその五割を小麦に換へた
向寒期を前にしてよく訓練された部落愛国班員は総出で自分たちの植ゑた棉の抜き取りをやった女学生達までが畑に出て棉の収穫を急ぐと共にその跡へ蒔かれる小麦のために道を拓いてゐるのだ

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