日本軍兵力

中国派遣軍(満州以外を担任)
時期人数備考
太平洋戦争開始直後師団数20(南方転用の第38師団を含めず)、独立混成旅団数21に加えて第一飛行団*1
1943年8月初頭約62万甲師団5、乙師団5、丙師団15、戦車師団1、飛行師団1、独立混成旅団11、騎兵旅団1)、馬13万頭、自動車1万8千両*2
1944年1月頃師団数24、戦車師団1、独立混成旅団11、騎兵旅団1*3
終戦時約105万北支那方面軍約30万、第6方面軍約35万、第13軍約30万、第23軍約10万*4
108.6万将校4.9万、下士官13.6万、兵90.1万*5

関東軍(満州を担任)
時期人数その他・備考
1938年1月末119,955馬匹現在数18,964*6
1939年5月31日239,238馬匹現在数28,483*7
1941年関特演約70万馬約14万、飛行機約600*8
1945年8月31日70.3万項目名は関東軍でなく「満洲」*9

関東軍の兵力構成*10*11
年次関東軍
司令部
方面軍
司令部
軍司令部師団騎兵集団旅団国境
守備隊
駐屯隊独立
守備隊
航空兵団
司令部
飛行集団
司令部
飛行戦隊
(飛行連隊)
独立
飛行中隊
1937161TKB1
KB1
21飛行連隊5
1938128KB1813112
1939149KB18191118
19401412KB113191127
19411613KB1132911196
194212814
TKD2
TKB1
KB1
131912193
194312615
TKD2
TKB1
KB1
131612161
194412510
TKD1
TKB1
MB1
KB1
機動旅団1
1314
警備隊5
112
194512624TKB2
MB9
機動旅団1
1特別警備隊3112
MB=混成旅団、TKD=戦車師団、TKB=戦車旅団、KB=騎兵旅団


弾薬

中国派遣軍の弾薬類については、第6方面軍は1944年の「湘桂作戦開始頃」は基準通り*12の「約一会戦分」の弾薬を保有していたが、1945年7月時点では残り「約〇、六会戦分に過ぎず特に対空火器の弾薬は約〇、二―〇、三会戦分程度に過ぎざる状況」であった*13

航空戦力の日中比較

 航空戦力については、復員局1949年調製『支那方面作戦記録: 支那派遣軍の統帥』は1943年夏の「航空に依る夏季奥地進攻作戦(※7月23日開始)に関する指導」の項で「第三飛行師団は戦爆連合を以て堂々と進攻することを重視しありしが敵警戒機の発達と敵戦闘機(P40)の優勢とに阻まれて容易に成功せざるのみならず却て我が志気を阻喪せしむる状況に在りし」「昭和十七年迄は支那大陸に於ける航空状況我に絶対有利なりしが今や米空軍逐次増強するに及び彼我航空勢力は逆転するに至り多大の期待を以て開始せし本作戦も大なる成果を収むることなく終了し」*14と記し、同年「秋季航空作戦」の項では「今や彼我航空勢力逆転し昼間攻撃は特別の場合の外成功を収め難き情勢に立ち至れり」としており*15、1943年を境に航空戦力が逆転し、それまでの従来型戦法が通用しなくなったことが読み取れる。

 その後は航空戦力差がさらに広がり、「一号作戦開始時頃(※1944年4月)に於ける在支敵航空勢力は約五〇〇機と判断せらるるに対し我は其の半数に及ばざる状況」であり*16、1944年9月の第六方面軍新設に当っての総司令官訓示では「在支敵空軍の増勢急激を加へ…今や戦場就中後方補給線上に於ける敵空軍の跳梁激烈を極め」*17と厳しい認識が示された。
 1945年1月松井太久郎支那派遣軍総参謀長から大本営に対する意見具申では、航空戦力を「十対一」と表現しているが*18、1945年3、4月頃の実数は中国側(米空軍含む)が1500〜2000機、日本側は約150機であった*19
1943年8月中国空軍200、在支米空軍130*20。この頃日中の航空戦力が逆転
1944年4月中国側約500*21、日本側はその半数未満
1944年9月中国側750、日本側150*22
1944年11月中国側800*23
1945年3・4月中国側1500−2000、日本側約150*24


兵員・武器類の不足

兵員不足

 既に1930年代には、一度兵役を終えて家庭を持っていた37歳が再召集され中国に送られた事例がある*25
太平洋戦争期に入ると日本軍は戦争長期化と戦線拡大のため兵力不足が深刻となり、大学生など対象に卒業期繰り上げ*26や学徒出陣を実施し、20歳だった徴兵年齢を1944年には19歳に引き下げ、朝鮮半島でも徴兵制を開始するなどして兵力の確保に努めた。

 1943年の第27師団(この年北支から満州に移駐)衛生業務要報には「十月 補充兵(国民兵の再徴集者)約二千名到着其の過半数が結核性疾患の既往あり其の年齢と共に体力の劣弱に喫驚す」*27とある。北支にいた元兵士は1944年頃の回想で「内地から来た補充兵の様子を見て一抹の不安があった。補充兵の中には三十歳を超えている者も多く、その年寄り染みて見えること、また体格も貧弱で、騎兵時代に入隊した我々に比べると子供のようで、着剣して直立不動の姿勢をとると頭より剣尖の方が上に出る」と述べる*28。常徳、衡陽、芷江作戦を戦った元兵士は「衡陽陥落後、補充隊が到着したが三十四、五歳から四十歳ぐらいの第二国民兵の老兵で、銃は三八式が五人に一挺、それも手入れ用の窄杖無しのお粗末な代物。牛蒡剣は鞘が竹、水筒も竹の筒だったのには吃驚、この戦争の前途が心配になった」と述べている*29

武器不足

 兵力だけでなく兵器類も不足した。1942年に入営し山西省や河南省で戦った元兵士は「最後に我々の部隊に補充されて来た兵隊は、大阪から来た兵隊で、本当にお粗末な装備で、銃は二人に一丁、飯盒は竹行李、水筒は孟宗竹、帯剣は木製、軍靴は地下足袋で、全くお粗末極まるものでした」と回想する*30。1944年に徴兵され山西省で終戦を迎えた元兵士も内地出発時の装備について「腰の帯剣は『サヤ』が竹で、軍靴の代わりに地下足袋で、小銃は一個分隊に九九式小銃か三八式小銃が、たった一丁だけ、飯盒は十五センチ長さの太い孟宗竹が雑のうに入っていました」と述べている*31。1944年の徴兵検査を受け長沙作戦を戦った元兵士も「自分達に支給された軍服は、すべて継ぎ接ぎで、補修はしてあったが軍服・衣料・軍靴も変形していて、靴底には当て革が打ち付けてありました。武器、兵器類は一切無しでした。そして雑のうと竹製の水筒が支給されました…出陣の時の携行兵器は五人に一丁当ての三八式歩兵銃でした」と回想する*32

 ただし1941年徴集で翌42年2月に内地出発し中支で戦った元兵士は、内地出発時は「軍装といっても徒手帯剣で一本のゴボウ剣だけで銃火器等なにもない」としながらも「当時、支那からの帰還兵が多く、そうした者の兵器を現地で受け取って武装するのです。まあ現地受渡方式です」「前線へ行ったら戦死者や帰還者のがあるということですわ」と述べている*33。1943年入営し福建省で戦った元兵士も「内地から中支に出発する時に渡されたのは、三八式歩兵銃(明治三十八年式)という、四キログラム近い重さの終戦までの基本的兵器でしたが、これは一部の者だけで、他は帯剣のみ(鞘は竹製)という心細い装備でした。しかし、現地には九九式歩兵銃、九六式軽機関銃、八九式重擲弾筒などがあり、それぞれに渡されました」としている*34

輜重隊として1944年湘桂作戦に参加した兵士は「被服はもとより弾薬も年間三〇発で、補給はない。…訓練もワラジを作って履く」と回想する*35。1943年12月に新潟・新発田の部隊に入隊し翌年京漢作戦で独立歩兵第11旅団の一員として戦った兵士は「装備は悪く分捕った武器弾薬が半分…重機関銃は分捕り品のチェコ水冷式」*36と述べる。

軍服類も不足した。復員局1949年調製「支那方面作戦記録: 第六方面軍の作戦」が1944年8月頃の武漢地区兵站状況として「被服は相当不足し各兵団に対する更新は希望の如く実施し得ざる状況」*37と述べているが、1942年陸軍通信学校を卒業し漢口の電信第13連隊に配属された兵士は、1944年占領後の桂林では「放棄された中国軍の軍服(新品)を非番の者は着用して、一着しかない自分の軍服を大切にしました。」*38とする。1942年1新潟高田の歩兵第130連隊に入隊し迫撃砲大隊に転属、湘桂作戦を戦った兵士は「作戦に出てしばらくすると軍服や編上靴に穴があいても補充がない。兵隊は皆、現地人の服や木綿靴を使用し」と述べる*39。1942年仙台の歩兵第104連隊に入営した兵士は湘桂作戦を振り返り「寒さのため師団長命で中国人の衣服を着て、まるで仮装行列のごとく、これが日本兵とは見えない姿であった。(徴発の際)衣服が中国服を着ている者もいたので友軍同志が撃ちあったということもあった」と語っている*40。奉天省鉄嶺の関東軍部隊で初年兵教育を受け、師団が南下して湘桂作戦に加わることになった兵士は「その後、広東省恵州にいた一時期を除いては昭和二十年八月の終戦にいたるまで食糧はすべて現地徴発であった。わずかに弾薬・医薬品が数回送られてきたのみで、被服などの支給はなく、数か月もすると中国服や中国靴の兵隊をずいしょでみられるようなありさまとなった」と回想する*41

また武器・軍服以外でも例えば鉄道修復に当たっては「緊要ならざる支線、側線を撤去して」*42転用するという状況であった。
満州地域の武器不足
復員局資料調査部「第三十軍作戦記録」(1948年8月)*43では次のように述べる。
大新京の防衛も大砲と名のつくものが三八野砲一門十榴一門高射砲約二十門で大口径火砲は一門もなく歩兵の小銃装備すら不足して居た 之れでは何万人の人が集まっても必勝の信念は湧かない 大・中口径の火砲が林立して惜し気もなく火を吐くスターリングラードの攻防戦の映画を見せて貰った事があるが新京を守った日本軍の装備、実に五十年前の軍隊といふも過言でなかった 新京で戦斗が惹起しなかった事をせめてもの幸ひと思ふ

戦法・戦術

燼滅

華北の共産党勢力下における治安戦において徹底的な掃討作戦(いわゆる三光作戦)を実施したと言われる。日本側文書では「燼滅(焼き尽くし滅ぼす)」などの表現がしばしば登場する。またそれ以外の作戦地域でも家屋焼却・放火の事例がみられる。
  • 歩兵第224連隊第2大隊の1940年「晋中第1期作戦戦闘詳報」では「作戦指導要領」に「徹底的に敵根拠地を燼滅掃蕩し敵をして将来生存し能はざるに至らしむ」*44とあり、敵がそこでもう生活できないように焼き払う目的であった。そして同年9月2日の項*45「各縦隊は進路沿道諸部落の検索燼滅を実施しつつ敵の隠匿兵器糧秣倉庫の発見に努む」のように作戦を実行していった。9月13日の項*46「十三日黎明と共に宿営地白壁村及水磨波の両部落を焼却し六時南方河原上に集合し作命第二十七号に基き六時三十分輝教に向ひ前進せり」9月14日の項*47「十四日黎明と共に牌房及四十畝の両部落を焼却粛正し永支作命第三十一号に基き同地を出発す」のように、宿泊した部落を朝出発時に焼いてから前進するパターンもみられる。また「齟齬、過失其の他将来の参考となるべき事項」*48として「本作戦間の行動地域の如く道路不良なる山岳地帯に於て索敵燼滅を同時に実施する場合に於ては一日の行軍行程は五里を超えざるを適当とす。然らざれば単に道路に面したる村落を燼滅し得るのみなり」「支那家屋は隣家に延焼すること稀なるを以て焼却に長時間を要す」とあり、行軍速度をあえて落とし、時間をかけて徹底的に焼き払っていったようである。
  • 独立混成第4旅団の1940年「第2期晋中作戦戦闘詳報」では「各支隊は敵軍事施設ある部落の燼滅には特に徹底するものとす」*49とあり、これは言い換えると敵軍事施設が無い部落でも燼滅しろということである。
  • 1942年1月24日付、支那派遣軍参謀長から次長次官宛電報「西原兵団は綏遠省薩拉斉南方黄河対岸地区に蠢動中の張励生部隊及騎兵第七師に対し十八日払暁黄河を渡河し急襲せるも敵は南方に逃避し大なる敵に遭遇することなく付近部落を燼滅して二十日概ね原駐地に帰還せり」*50
  • 1937年10月25日付、第10軍「軍参謀長注意事項」には「六、家屋の焼却に就て 家屋、村落は敵が之を占拠しありて之を攻撃する為戦術上特に必要ある場合の外は成るべく之を焼却せざるを要す、之時将に寒冷季に入らんとするに際し軍の休養及衛生上家屋村落は極めて其利用価値大なるを以てなり、上海方面の戦場に於ては殆ど全部家屋を焼却せし為軍の後方に於ける病院設備、宿営等に利用すべき家屋殆ど皆無にして甚だしく不利を招きつつあり」とある。*51
  • 独立攻城重砲兵第2大隊第2中隊の陣中日誌で1937年12月25日の項には「通過部隊の宿営して出発の際に放火するため道路付近の家屋は殆ど焼尽され宿営地選定に甚く困難す。斯の如き戦意なき一般民衆家屋に放火することは皇軍の倚信を損じ支那民意を日本に収攬せしむる国策に相反するのみならず我が軍隊の爾後の宿営利用に甚だ不利なり。全軍一般によく徹底し放火を厳禁するを要す」とある。*52
  • 1938年1月20日付の野戦重砲兵第五旅団司令部「実戦の経験に基く意見」は「今次事変の経験に鑑み隷下各部隊の意見を主体として取敢へず取纏めたるもの」だが、「今次上海派遣軍の行動を観察するに聖戦に従ふ皇軍として誠に遺憾の点少なからず。特に作戦上の理由なくして徒に村落に放火し或は良民の家屋を破壊し其他掠奪暴行の跡少からざるを認む」*53「今次の戦斗に於て某師団は友軍占領の標識として村落に放火せるも之が為後続部隊の宿営に甚だしく困難を来せり。又特に後方部隊にして自隊の宿営後徒に放火するもの或は敵愾心の余り個人の感情に馳〔ママ〕られて放火する者若くは(以下判読不能)多く又露営火□後始末不良の為火災を起すものあり。之等に関し将来厳重に戒むるの要あり」*54とある。
  • 1938年6月27日付北支那方面軍参謀長岡部直三郎名の「軍人軍隊の対住民行為に関する注意の件通牒」には「討伐部隊が戦斗上の必要に基くに非ずして単に敵兵の存在せし故に依り或は住民地付近の交通を匪賊が破壊せりとの理由に依り住民の家屋を焼却するが如きは徒に無辜の住民をして自暴自棄に陥り匪賊に投ぜしむる結果となるを以て住民地の焼却は厳に之を禁止するを要す」とある。*55
  • 1940年豊橋の歩兵第18連隊に入隊した兵士は1942年12月の大別山作戦などに参加したが、「羅山の討伐では、町は『全部焼き払え』との命令であった。手分けして焼いたが、木材使用の少ない家屋はなかなか燃えなかった」と述べる。*56
  • 1942年30歳で応召し妻子を残して島根・浜田の歩兵第21連隊に入営した兵士は浙江省で戦ったが、「昭和十七年十二月より翌三月ごろまでは警備討伐に明け暮れ、集落市街の焼却もたびたびでした」と語る。*57
  • 満鉄勤務から1943年関東軍に現地入隊した兵士は下士官候補者を経て満ソ国境の蘇丘警備隊長だったが、「騎馬部隊の一個中隊が来ました。中隊長の説明によると『近くの村、約二百軒が馬賊の巣窟だ』と言っていました。討伐実施。村長に説明するにはいかなる方法を取るのか、『見学せよ』とのことでした。一種の熱病が発生した『ペスト菌』である。近隣へ伝染する怖れあり。野鼠による伝染であるために『全村民の避難を命じる」ということで家の周囲に高粱を積み重ねて、放火して全家屋を焼き払った。そして悠々と引き返して行った」と回想する。*58

点と線

中国戦線の戦況を形容する言葉に「点と線」がある。
第一復員局「支那方面作戦記録」(1946年12月調製)の「武漢作戦後より太平洋戦争勃発迄」の項では「有力なる敵と対峙する方面即ち山西省、武漢地区等に於ては各兵団は其の第一線を確保すると共に背後連絡線たる道路水路等を確保するため其の兵力の大部を使用し之を大観して所謂点と線とを確保するの状態なりき。我軍は武漢作戦以後大なる進攻作戦を行はず結局に於て持久態勢のまま敵を屈せしめんとする作戦に終始せり」と述べる。*59
当時の報道でもこの「点と線」の表現は用いられ*60*61、また元兵士の回想でも出てくる*62*63

1937年の北支方面軍司令部長嶺参謀講演でも、日本軍の勢力範囲は鉄道の両側1キロだけだと厳しい認識を示している。*64
山西省臨汾憲兵隊の1938年10月「状況報告」では「管内には約十万の敵匪蟠踞し…故に稍治安の保持せられあるは僅かに我軍の駐屯せる主要県城内及鉄道沿線一粁乃至二粁の範囲に過ぎず而も我警備圏内に於て鉄道及電線の破壊、列車並停車場、下士哨等の襲撃、県城砲撃等頻発し治安の状態最も険悪にして寸毫も愉安を許さず」と述べている。*65
第114師団歩兵第150連隊の1939年「津浦線東側地区 于学忠軍掃蕩戦戦闘詳報」でも「夜間のみ行動し之が偵察困難なる敵に対し我は寡小の兵力を以て過度に広地域を担任警戒網を構成するの止むなきに至り…協同動作に支障を来たしたること少なからず」と実情を吐露している。*66

末期は夜間行動

1944年頃には中国の制空権は米空軍が握っており、日本軍は空襲を避けるため夜間行軍を強いられた。
桂林攻略戦に参加した部隊の戦闘詳報には「優勢なる敵の空中勢力下に於て極めて不良なる道路を錯綜する友軍の人馬車輌を排除して行軍を実施するに方り敵機の損害防止には最も苦心せる所にして…夜行軍を厳守す」とある*67
第六方面軍は1944年の「九月に於ける後方状況」として「自動車、水路、鉄道とも一切夜間行動に徹底」という方針だったことを記している。*68また1945年3月頃は「完全に米空軍の独り舞台となり連日的小型機の跳梁」*69、4月の芷江作戦では「昼間行動全く不可能にして行動不便なる山地内に夜間行動を強制せられ」*70という状況であった。

現地自活

「船腹節減」「内地よりする補給を縮減」*71「内地資源の節用及現地輸送の軽減」*72といった目的で現地自活(自給自足)が推進された。
例えば石家庄支廠では一か月に味噌2,000樽、醤油1,000樽、漬物50樽、蒟蒻45,415丁など製造してまた牛20頭、豚700頭、鶏1,000羽を飼っていたし、済南支廠でも一か月に豆腐1.4トン、蒟蒻300キロ、菓子10万個など、大同支廠でも一か月に豆腐2.9トン、パン2万4000食、うどん3.6トンを製造していた*73
1939年7月31日付中支派遣軍経理部「経理概況書」によれば南京の工場では生麺麭2,000食、甘味品32,000食、饂飩2,000食、豆腐1,500丁を「日々製造し加給品並酒保品として」部隊に供給し、上海では味噌醤油工場を経営し日産味噌15,000キログラム(約8師団分)と醤油七百リットル、また南京では衣糧廠が屠場を経営し一日牛30頭豚100頭の屠殺能力、上海では請負方式で牛200頭豚300頭の能力をもち「共に冷凍設備を完備」、製氷工場も上海が委託経営で一日30トン南京は自営で一日15トンなど、さらに「軍農場の経営」の項では「台湾各州より農業義勇団一千名を招致して上海南京漢口に軍農場を開設し野菜を栽培補給しつゝありて昨年度の収穫南京農場十一万瓩上海農場二四四万瓩計二五五万瓩に達し」ていたとある。*74
内閣情報部「写真週報」1944年1月19日号*75では「現地自活の兵隊さん苦心の作」と題して各戦地の「創意と工夫に富んだ作品」を紹介している。中国戦線関係では慰問袋再利用、干魚製造、白樺の皮で作った靴底、雑草で編んだ長靴やスリッパ、ガラス瓶と缶詰空き缶で作ったランプが掲載されている。
南支にいた近衛混成旅団(桜田兵団)の1940年4月10日付「後方状況報告」には「約四町歩の畑に播種す 品種は白菜、大根、春菊、葱ニラなどにして二、三寸に生育し各隊に一部補給を開始せり」「牛約四十頭、水牛十頭、豚五頭、雞五十羽なり農園に繋畜飼育しあり」「豆モヤシの自製 生野菜の不足を補ふため各部隊又は農場に於て一括自製しあり」などとある。*76
満州にいた部隊の1943年陣中日誌には「現地自活農場整理 二十日大根播種を実施し」とある。*77
山西省に駐屯した第37師団司令部(冬第3540部隊)は1943年2月「中隊農場経営法」という手引きを作成しており、「中隊所要の野菜類は其の警備地区内に於て極力自給を本旨とし現地調弁と自隊生産とに依り自活の途を構ずるものとす」とある。*78

徴発

人の徴発
日本軍の作戦行動には現地人多数の徴発・使用が伴った。
1939年7月31日付中支派遣軍経理部「経理概況書」*79で「武漢攻略戦の開始と共に各補給廠各部隊の苦力等に対する需要は極めて急且大なるものありて苦力賃の暴謄〔ママ〕或は苦力の流動行はれ軍全般の円滑なる補給業務並に軍の作戦行動にも悪影響を及ぼすに至れるを以て…目下全軍にて使用しある苦力数一日平均二万に達しあるものの如し」とある。
土木・建設工事では大規模な人的徴発が行われ、1938年8月2日付太原特務機関から次官宛電報に「大〔ママ〕原飛行場工事完成し苦力約四千人の処置殊に治安上憂慮しあり」*80、1939年杉山部隊(北支那方面軍のこと)本部「治安工作経験蒐録 第1輯」所収の「蓮沼兵団 苦力、土民使用上の注意」に「北部山西作戦に参加…歩兵部隊及砲兵隊は賈庄南方廟付近に拠る敵を攻撃中工兵は七百名の苦力を使役し賈庄ー白背子の馬頭関の道路改築中なりしが」*81とある。

苦力の徴発ではしばしば強制あるいは相当の対価を支払わない場合があったようで、1938年常岡部隊本部「将校研修資料」では「従来の軍隊が良民より恐らるゝに至りし行為の主なるもの」の一つとして「彼れの好意の儘に多数の支那人を出さしめ苦力とし或は洗濯其他に至る迄為さしめ、一文も払はず残飯程度にて使用せるものあり〔宿舎料等を全然支払はざるものあり〕」を挙げている*82。また1944年入隊し南支・楽昌で終戦を迎えた兵士は「捕えた若者は苦力(クーリー)と呼ばれる人夫として連れていく…クーリーの家族が追いかけてきて」*83と回想している。また軍票による支払も好まれなかったようで1939年7月31日付中支派遣軍経理部「経理概況書」では「軍票払の苦力の出渋り」があるとする。*84

1942年に高知の歩兵第144連隊に入隊後中国に渡り歩兵236連隊に編入、各地を転戦した兵士は「苦力を得た隊は苦力に装具を担がせているため、遠方から見れば支那軍か日本軍か判明し難い奇妙な部隊に見えたことであった」*85と回想する。
物資の徴発
1937年第二次上海事変で杭州湾上陸した第114師団の「戦時旬報」には「上陸直後は船内よりの増加携帯に依り爾後は別示なき限り各部隊の直接徴発せる糧秣に依るべき旨給養命令を発す」*86とあり、日本軍が食料を徴発=現地調達する算段で作戦実行した例である。また同旬報では「徴発せる糧秣の代金は住民逃避し支払いの途なく已むを得ず支払を保留しある状態なり」*87とあり、代金を支払わなかったことがわかる。翌1938年創設された中支那派遣軍の1939年文書では「今事変中軍の占拠地内に於て小麦其他の物件を日本軍に徴収せられたりと認めらるゝものは七月十五日迄に最寄憲兵隊に申立てしむる如く広告し事実調査の上相当額の賠償をなす企画の下に目下調査中なり」*88とあるが。実際何人の中国人が名乗り出て支払いを受けたかは分からない。また同文書では「中支那派遣軍作戦開始以来現地に於て押収又は徴発使用又は還送せる衣糧諸品の品種数量は莫大の額に上れるものと信ず。然れども…報告の提出不確実の為其真相を把握するに至らざるは遺憾とする所なり」*89とあるが、対価を支払う場合は予算措置・会計報告を行うはずだと考えると、報告が無いままということはつまり対価を支払わない徴発が多発したと考えることができるだろう。

支払い方法としては1938年10月8日付野戦経理長官から中支那派遣軍経理部長宛の通牒では「作戦上必要なる軍需物件の調達」は「軍票」か又はそれに応じない場合は「受領証を交付する等の手段」*90と指示しているが、戦後の「支那方面作戦記録: 第六方面軍の作戦」*91では「食料の現地取得を容易ならしむる為交換用物資特に食塩の追送並に現地生産を図ると共に…」(26頁)「物資収集の唯一の見返品たる食塩」(41頁)とあり、実態は様々だったようである。

他に徴発の実態例としては
  • 独立山砲兵第2連隊の1940年8月「軍風紀粛正に関する注意」*92では「近時連隊の軍風紀著しく弛緩し為に他隊より指弾を受けある状況なるは過去の赫々たる戦績に対し極めて遺憾とする所なり。即ち他隊上官に対する欠礼、服装不良、宿営地外無断外出、各個の徴発、及稲刈、支那人の携行しあるものの掠奪難民所への出入等実に皇軍として思半に過ぐるものあり」(2画像目)とある。「治安維持会(※日本が現地人に組織させた協力団体)ある村に於ては徴発せず経理官を同行し購買をなすべし」(6画像目)ともあり、これは徴発が現地人にとって迷惑な行為だったことを示している。
  • 1944年赤紙で召集され湘桂作戦に従軍した兵士は「『(分隊長が言うには)これからの行軍は全部徴発でゆく。部落を見つけたらワシが命令するまで発砲するな。…』一斉に空へ向けて鉄砲を撃つと、部落民(大体年寄りの男女)が、ブタ小屋やニワトリ小屋の戸口を全部明けて逃げてゆく。 空き家に飛び込んで誰もいないことを確かめ、食べ物を物色する」と回想する。*93
  • 1942年現役兵として入営し、中国に渡り戦車17連隊に転属後河南作戦、湘桂作戦に参加した兵士は「何と云っても第一線はまず食糧の調達です。宿営地を決め、そして何キロも先までも現地調達のため探して歩き、籾を見付けてビンの中へ入れ、棒で突いて玄米にして、これを食べるという状態でありました。悪い事とは知りながらも、現地の農家から鶏や豚等を副食に頂戴できたら上々の方です。大部隊の通過したあとにはほとんど、食べる物資は残されていません」と述べる。*94
1944年新規補充人馬の災難
復員局「支那方面作戦記録 第六方面軍の作戦」(1949年8月調製)では「(1944年の)湘桂作戦初期の状況として看過し得ざる重要事項の一は人馬補充の実情なり」と指摘する。この年の後半「補充兵十万余、馬匹四万に近く」が武漢に続々到着、彼らは「其の大部は未教育兵」でありながら、そこから目的地まで「自ら糧秣を収集し自活しつつ行軍せざるべからざる状況」であった。「部隊としての訓練なき是等補充人馬」は右も左もわからぬ異国の戦地のしかも敵制空権下で自活=徴発しながらの「炎熱長期の夜行軍」を強いられ「損耗極めて大にして馬匹に於て殊に著しく衡陽到著までに其の三分の一を失ひたるもの尠からず」という有様であった。*95
戦後1950年に作成された湘桂作戦についての文書では、伴健雄第34師団長が「東陽で受領した補充員は名簿上二七〇名位であったが実際部隊へ追及したものは約其の半数位であった」*96と述べている。

行軍のつらさ、戦闘のほうが楽

広い大陸ということもあってか、行軍の苦労を回想する兵士がいる。
  • 1942年に新潟・村松町の連隊に入営し翌年から中国戦線で戦った兵士は「戦闘も苛烈でしたが、行軍のつらさはそれ以上でした。なにしろ江門から漢口まで五千キロ前後徒歩行軍ですからね。それに重装備でしょう」と述べる。*97
  • 1943年徴兵検査を受け翌年1月に大阪で入営した兵士は湘桂作戦について「完全武装(銃・弾薬・食料・被服・その他)で重さ四〇キロを持ったり背負い、毎日四十キロを歩く。行軍する者にとっては『早く戦闘が始まれば、一時でも休めるのに』と心に思いながらの辛い行軍の毎日でした」と回想する。*98
  • 1942年に高知の歩兵第144連隊に入隊後中国に渡り歩兵236連隊に編入、各地を転戦した兵士は湘桂作戦について「馬が弱り転落したりして、砲や機関銃も臂力搬送になる…時々爆発音がする。またついて行けなくなった補充兵が自決したのあろう」と語る。*99

便衣(私服)戦術

日本軍はしばしば故意に軍服を脱いで民間人・現地人に変装して戦った。
北支にいた独立歩兵第6大隊第1中隊の1940年の戦闘詳報*100には「近接を容易ならしむる為全員便衣を著し」とある。また「将来の為の参考事項」の項では「全員便衣を著したるが為敵をして誤認せしめ最初の攻撃に於て敵の意表に出でたるも爾後村落内に突入したる際後方の射撃部隊は彼我の識別困難にして為に射撃の好機を逸したることあり」とあり、良いことばかりではなかったようである。
広東省に駐屯していた輜重兵第51連隊の1941年陣中日誌には「作命甲第三二号に基き横島中尉以下二八名便衣を着用し鐘萬常の部下一味の検索に出発す」とある。*101
北支那特別警備隊第3警備大隊第4中隊の戦闘詳報には「将来の参考となるべき事項」として「小数兵力に分散便衣化せる謀略的行動は敵及農民を欺罔し得多く成功せるも昼間制服を着用せる単一の行動は一般に失敗せり」とある。*102
北支那特別警備隊第7警備大隊の1944年戦闘詳報には「昭和十九年十一月十二日山東省新泰県平子庄の集市を便衣着用農民商人に変装敵の虚を衝き該集市に潜入しありたる魯中軍区匪蒙陰県独立営龍延区中隊指導員楊守先以下十名を捕獲拳銃三挺を齒獲せり」*103とある。

毒ガス

「翁英作戦戦闘詳報 森川史料」(※翁英作戦は1939年12月〜1940年1月の広東省での戦い)の「付表第五の二 補充及射耗調査表」*104によると、「あか弾(※嘔吐剤)」については四一式山砲弾289発、九四式山砲弾20発、発射発煙弾100発、「きい弾(※マスタードガス、ルイサイト)」については四一式山砲弾30発、九四式山砲弾294発をそれぞれ「射耗」している。
歩兵第224連隊第2大隊の1940年「晋中第1期作戦戦闘詳報」*105によると、山砲36連隊第9中隊が二週間の作戦中に「ア弾(※あか弾)」62発、「キ弾(※きい弾)47発」を「消費」している。
歩兵第157連隊第3大隊の1938年「隘口街 青石橋附近攻略戦戦闘詳報」*106には「攻撃開始前左第一大隊と連絡し瓦斯班を差出し…敵前三〇〇米の地点にて一斉に発煙す」また「戦斗の成果並に参考となるべき所見」の項で「本戦斗に於て瓦斯使用の効果多大なるも未だ第一線歩兵は発煙直後に装面し突撃に移る動作緩慢なり」とある。

捕虜・投降兵の殺害

歩兵第157連隊第2大隊
歩兵第157連隊第2大隊の文書を見ると、捕虜・投降兵の殺害を繰り返している。
歩兵第157連隊第2大隊の捕虜・投降兵に対する処置(戦闘詳報より作成)
日時戦闘処置
1937年10月5日〜11日薀藻浜クリーク渡河戦備考 射殺十二名*107
(※戦闘なら通常「遺棄死体」と書く)
1937年11月11〜19日大倉付近に到る追撃俘虜 准士官・下士兵84
備考 一、嘉定北端及び大倉付近に於て捕獲其場にて射殺す*108
1937年12月8日〜1938年1月4日杭州攻略戦俘虜 将校6、准士官・下士兵131
備考 一、抱家場及三橋埠付近に於て捕獲其の場にて銃殺す*109
1938年11月5日張公渡付近の掃蕩一四・〇〇頃張公渡付近を掃蕩し敵敗残兵十数名を刺殺せり*110
1939年4月23〜26日高安徐家村付近の戦闘俘虜15(取調の上刺殺)*111
1939年4月27〜5月2日赤土崗付近の戦闘俘虜2(刺殺す)*112

ここから読み取れるのは
  • 捕虜・投降兵の殺害を報告書に明記するということは、それが軍組織から容認・公認されていたことを意味する。参謀本部が作成した「対支那軍戦闘の参考」(1937年7月)では「捕虜の処置」について「捕虜は他国人に対する如く必ずしも之を後送監禁して戦局を待つを要せず。特別の場合の外現地または他地に移し適宜処置或は釈放するを可とすること多し」と述べている。*113「適宜処置」は要するに殺害という意味であろう。
このやり方は太平洋戦争にも受け継がれたようで、南京攻略戦など中国各地を転戦したのち対米開戦後にフィリピン攻略戦参加、そのまま現地駐屯した第16師団などで構成された渡集団(第14軍)は、1942年10月31日作戦主任者会同で「俘虜の取扱に就て 雑兵は現地に於て処分して可なるも後害を残さざる様注意し俘虜は軍迄送致するを要す」*114と、やはり捕虜・投降兵殺害を容認しており、これは中国戦線のやり方をフィリピンでも行ったものと考えられる。
  • 殺害方法が銃殺から刺殺に変化している。これは弾薬の節約のためであろう。1937年10月25日付「軍参謀長注意事項」では「二、弾薬の節約について 北支及上海方面の戦闘に就て看るに歩砲各種弾薬の乱費甚だしきものあり…」*115と記している。
独立混成第11旅団司令部
独立混成第11旅団司令部は1937年7月北京近郊での戦闘について「一兵を損せずして北苑の敵の武装解除を行ひ之を占領し」「武装解除を実施するに方りて武器押収後支那兵を厳重処分するが如きことなかりしは爾後支那兵をして安んじて日本軍に帰順せしめ得るの傾向を生ぜしめたりと云ふべし」*116と、自分たちは捕虜を「厳重処分」しなかったとわざわざ特記している。そして更に「将来参考となるべき所見」の項では「爾後の影響を顧慮し解除実施後厳重処分を実施するが如きは一考を要する所当時軍使として窪辺に来れる支那軍将校の個願せるものは一に生命の保証なりき」*117と、「厳重処分」は考え直したほうがよいという意見も示している。

これは当時の日本軍が、通常は捕虜・投降兵を武装解除後「厳重処分」つまり殺害していたことを示している。

海軍第15防備隊
海南島にいた海軍第15防備隊の「功績概見表」*118を見ると、「刺殺」が多いのが目に付く。
海軍第15防備隊(海南島)の「支那事変功績概見表」より抜粋
日時参加部隊戦闘成果
1940年11月30日烟墩・会文新科村上沙港付近掃蕩刺殺45、焼却家屋50、鹵獲品小銃弾177、戎克3
1940年12月4日烟墩忠厚嶺甘村付近掃蕩遺棄死体2、刺殺16、捕虜4、鹵獲品小銃1
会文41.2高地及42.6高地掃蕩遺棄死体3、刺殺24
1940年12月5日会文上沙港掃蕩刺殺5
1940年12月7日烟墩竹林甘村掃蕩遺棄死体1、刺殺15
1940年12月12日烟墩・会文八六高地攻撃遺棄死体4、刺殺18、鹵獲品小銃1、弾98
1940年12月13日烟墩・会文白延市付近掃蕩刺殺21

20世紀の日中戦争の時代の、しかも陸軍でなく海軍部隊が連日白兵戦で敵と斬り合ったあるいは銃剣で突き合ったというのは常識的に考えにくく、また「遺棄死体」と「刺殺」が別になっている点からも、やはり戦闘外であるいは戦闘後に、捕虜・投降兵を銃剣か軍刀で殺害したと読むのが自然である。

捕虜で銃剣訓練

日中戦争に従軍した故三笠宮は「私が戦地で強いショックを受けたのは、ある青年将校から『新兵教育には、生きている捕虜を目標にして銃剣術の練習をするのがいちばんよい。それで根性ができる』という話を聞いた時でした」と語っている。*119
捕虜で刺突訓練をすることについては他にも証言がある。*120*121

軍紀

林部隊(※第15軍のこと)法務部の1943年「対住民犯に付て(口演要旨)」*122という文書では「支那事変に至り我国としては空前とも謂ふべき対住民犯の発生を見、殊に事変初期南京陥落迄の間この忌むべき犯行が各所に於て頻々と行はれ軍の威信を損じたるものありたるは遺憾に堪へず」とする。
北支にいた第12軍参謀長河野悦次郎から北支那方面軍参謀長安達二十三宛の「陸軍刑法改正意見提出の件」では、強姦について「戦地に於ける強姦は軍紀を破壊し軍の爾他の宣撫工作を一切無効ならしむ 又被害者に於て後難を恐れ告訴を躊躇する場合極めて多きを以て非親告罪として処分するの要あり」*123と述べている。

軍政

南支にいた台湾歩兵第一連隊が高嶋辰彦連隊長(陸軍少将)だった1941年3月3日付で出された「北海(※海南島北方でベトナム国境に近い)周辺に対する軍政布告」*124では次のように述べている。
五、左記各号の行為を禁ず之を犯す者は各々下記を以て処断す
(一)住民の住所外逃亡を禁ず犯すものは生命財産の安全を保障せず特に交通機関を拉して逃亡せんとする者は極刑とす
(二)皇軍に反抗する者は当事者は極刑とし連繋者少くも三十名を死刑とす
(三)放火及物資償却を禁ず犯す者は極刑、其付近にある者及連繋者少くも三十名を死刑とす
(四)通敵匪を隠匿し又は遁逃せしむることを禁ず犯す者は元凶を極刑、連繋者少くも一〇名を死刑とす
(五)外界に通信し其他皇軍の行動に関し他に通報することを禁ず犯す者は極刑とす
(六)資材物件を隠匿し又は許可なくして之を他の名義に変更することを禁ず犯す者は生命を保障せず又財産を没収す共犯は同断を以て罰す
(七)第三国々権を詐り掲げ又は其の関係を詐称する者は極刑とす遽かに其庇護下にかくれて禁を犯さんとする者も亦同じ之を認むる第三国人の生命及権益は之を保障せず
(八)通貨は自今皇軍軍票とす但し当分の間法幣の通用を許す法幣其の他の外貨を所持する者は本布告後十日以内に軍政署に交換を申出づべし皇軍軍票を拒み又は法幣を隠匿する者は生命財産を保証せず
(九)禁を犯す者にして情状死に当らざる者は百元以上の罰金に処し或は之に相当する人質、物件を提供せしむ

皇協軍

日本に協力した現地人兵力は、「支那方面作戦記録 支那派遣軍の統帥」(復員局1949年8月調製)によれば、「汪政権に属する軍隊は約三〇万にして其の他保安隊警察隊等を合すれば約九〇万に及ぶ武力を有しありと雖も之等の戦意及能力は極めて低劣なるのみならず汪政権官吏と共に貪汚を恣にしありて和平地区に於ける治安不良の最大原因を形成しあるが如し」*125

満州国軍

昭和25年10月復員局調製「対蘇作戦記録」によると、関東軍はソ連参戦に備えてあらかじめ満州国軍の反乱防止策・戦力削減を行っていた。しかしそれでも「満州国軍隊は其の大部反乱するに至りたり」となった。*126

復員局資料調製部「第三十軍作戦記録」(1948年8月)*127は「旧中佐桑正彦がソ連より帰還後其の記憶を辿り記述せるものなり」という性格の資料だが、終戦当時第三十軍参謀だった桑は次のように述べる。
(1945年8月)十四日より伊通河正面にありし満州国軍逐次背叛し新京市内の各所に於て小戦を惹起す
三、満州国軍の背叛
1、十三日新京防御に関する軍命令に基き禁衛団占領地区の配備変更(配備変更を満州国軍に対する武装解除と誤断せり)に端を発し十四日朝来新京市内に於て日満軍衝突するに至れり
禁衛団と第百四十八師団の一部との衝突なりしも軍官学校内の日系満系軍官の衝突となり遂に新京市内日本人対満州国人の衝突□発展せり
十五日は旧城内地区と其の他の地区とは画然たる敵味方として対峙するに到り十九日ソ軍の進駐する迠新京市内は銃声絶ゆることなく騒然たり
2、十五日終戦と同時に満系市民の掠奪行為開始され補給諸廠・兵営・官舎地帯は彼等の執拗なる襲撃を受くるに到れり

また「第三十軍作戦記録追加(新京秘話)」(1948年10月)*128には「満軍の背叛に伴ふ市内の銃声を聞く度に…」とある。また次の話も出てくる。
(1945年8月)十五日それからぬか情報主任参謀の少佐山岸武が戦車第三十五連隊の中隊長戦車の天蓋に乗って城内を偵察に出かけ又止せばよいのに関東軍参謀少佐入江義十郎が一緒に乗って行った
戦車の進出は満軍の敵愾心を煽るだけであるので堅く城内進出を禁じてあったが案の定城内で忽ち両側の建築物二階から手榴弾を乱投され戦車は急遽反転して帰へって来たが天蓋上の二名は戦死してしまった
山岸参謀は宝山デパートの前に投げ出され入江参謀は関東軍憲兵司令部の前に投げ出され戦車は関東軍司令部左前の四又〔ママ〕路で炎上していた

第135師団参謀長*129井上敏助大佐は次のように述べる。
満州国軍の状況
満州国軍の一部(宝清駐屯の部隊)は日本軍指導の下に麻山の前進陣地構築に協力しありたるがソ軍参戦とともに叛乱し又勃利駐屯の満軍部隊も叛乱し師長以下日系将校は逸早く部隊を離れざるべからざる状況となれり
此等満軍叛乱部隊は徒歩にて避難する一般邦人、開拓団員に対し略奪、暴行、虚〔ママ〕殺等凡ゆる残虚〔ママ〕行為に及べり*130

中国国民革命軍(蒋介石)

兵力

1943年8月時点で「重慶軍総兵力約二九六師二九〇万」「対日継戦意識は牢固たるものあり」。*131

米空軍との共同作戦と中国軍自体の米式化

復員局「支那方面作戦記録 第六方面軍の作戦」(1949年8月調製)によれば、1945年4月の状況として、米空軍が輸送・攻撃両面で中国軍に協力し攻勢に転じて来たとある。特に米空軍による兵力輸送について「四日間に約一箇師団の割合を以て月末頃連続十数日に亘り新編第六軍を空輸せり」と記している。また中国軍の米式化が装備だけでなく戦術面にも及びつつあり「従来の支那軍に比し進歩の跡顕著」とする。*132

ビルマの第18師団から参謀本部第11課へ転任した戸梶少佐が記した「北部ビルマの諸問題」(1944年5月)*133でも「米軍装備の重慶軍」の項で「アッサムから前進中の新編第一軍は率直に言へば其の装備、戦意、戦法、訓練共に相当なものである。…加之優勢なる米空軍の協力を受け戦車を有し」「自動小銃を多数有して居り」「「弾丸は無尽蔵に近い」「戦法は徹底して米軍式であり」*134とする。

士気

ビルマの第18師団から参謀本部第11課へ転任した戸梶少佐が記した「北部ビルマの諸問題」(1944年5月)の「米軍装備の重慶軍」*135の項では次のように述べる。
5.戦意
突撃した兵に組付いて来る、逃げない。兎に角戦意は盛である
問 我々の敵は何人であるか
答 日本、独逸、伊太利であり最悪の敵は日本軍である
問 日本軍は何故最悪の敵であるか
答 我が国を侵略し我が同胞を殺戮し云々
以下、問答で簡単明瞭なる精神教育ー戦争目的を書いたものを皆物入に入れてゐること、恰も吾が軍人が軍隊手帳を持ち戦陣訓を持ってゐると同様である
日本軍を撃退せねば故国は救はれないと云ふ考は切実で無くともビルマの日本軍を撃破せねば父母妻子の所へは帰れぬと云ふことは切実である

6。白人に対する態度
好感は全然もってゐない
白人の横暴に憤慨しつつ「我々は日本を撃破したる後白人に対して如何に対す可きや」とインテリ支那商工の日記は諸所に記してある
唯、今の所日本に対する敵愾心に比すれば問題にならぬ程度である。…

呂集団(※第11軍のこと)参謀部「宜昌作戦に基く敵軍其他観察資料」(1940年7月)では次のように述べる。
五、戦意に就て
1.敵軍の戦意は依然之を軽視するを得ず指揮官に於て特に然り今次作戦に於て相当無理と思はるる命令に対しても各軍、師は兎も角も之を迅速に実行し側撃、挟撃、截撃等相当攻勢的行動を採り寧ろ従来に比し其対策常に積極的にして抗戦意志の旺盛なるを示し作戦当初に於ては寧ろ意外の感さへ懐きたり*136


波集団(※第23軍のこと)司令部「南支那軍内情の一端」(1939年5月)では次のように述べる。
必勝の信念の徹底に就ては支那軍幹部も大に努力しあるものの如く又其徹底も良好なるものあるを看取せらる、支那軍第一線部隊の強靭性は其素因一に此点にあるを思はしむ
左に二、三の事例を挙ぐ

1、四月攻勢に於て獲たる捕虜の訊問(該捕虜は炊事兵、輸送兵等下級兵士にして能力低きものなり)
問 お前等は日本軍と戦て勝てると思ふか
答 勝てると思はねば戦へません
問 飛行機もなく大砲も少くてどうして勝てると思ふか
答 華軍は兵器の装備は悪いが兵は精神的に大に日軍に優て居ります、加ふるに華国は土地広く物資豊にして長期抗戦すれば必ず勝利は華軍にあります
(略)

郷土愛に基く敵愾心
広東軍の幹部の大部は広東人にして其士兵亦南方人(福建、広東、広西省人)なり
由来南方人特に広州族は自尊心強く従って排外意識に燃え且好んで反抗す又はなはだ感激性強くして一度憤激するときは一命を投げ出して尚惜まざる決断をなす…然るに今や皇軍の為彼等の郷土は蹂躙せられ豊尭なるべき珠江デルター地帯に於てすら米飢饉に悩み広東、石龍等の市街地は爆破せられて惨状を呈し住むに家なく多数の民衆を生ぜり悲憤慷慨する亦道理なり*137

中国共産党軍(毛沢東)

兵力

1939年2月16日付の杉山部隊(※北支那方面軍のこと)参謀部「北支に於ける共産軍の兵力及装備」では「第八路軍の一月現在人員(遊撃隊及傷病者を除く)」を119,678人、また兵器類については「小銃(歩兵銃及騎兵銃)62,847 重機関銃141 軽機関銃908」などとする。*138
1941年1月調製「北支方面共産軍配置要図(於昭和十四年九月下旬)」では、「正規部隊」約14万「遊撃隊」11万、「郷村自衛部隊」50万乃至60万で「人員概計」約80万とする。*139
1941年2月26日付北支那方面軍司令部「昭和十六年度粛清建設計画」の「北支方面占拠地域内敵兵力」では1940年8月時点の共産軍は「正規軍」14万「共産系遊撃隊及同色彩ある匪団」16万で計30万人となっている。*140
1941年7月4日付北支那方面軍司令部「北支那方面敵情要図(昭和十六年十一月下旬に於ける)」では「北支共産軍(除地方遊撃隊、自衛隊)」の「兵力概数」を32万としている。*141
甲集団(※北支那方面軍)参謀部「剿共指針 第一巻」(1944年4月)の「中国共産軍の現況」の章では、1943年12月時点の数字として、八路軍(第十八集団軍)18万5千、新四軍4万の合計約22万5千としており、さらに「右の外北支には約六十万の地方遊撃隊ありて之が活動は軽視を許さざるものあり」と付け加えている。*142
1943年北支那特別警備隊第3警備大隊第5中隊の戦闘詳報では「(八路軍の)第十一団、第十二団は冀東中共の基幹隊にして其の戦力認むべきものあり。」「兵員は強制徴募によらず遊撃地域内貧農階級の青年子弟が志願入隊せるもの多く」「隊内秩律相当高度のものあり」とする。*143

戦法・戦術

遊撃戦
当時から「遊撃戦」(ゲリラ戦)が有名で第一復員局「支那方面作戦記録」では「敵の行ふ我に対する対策中遊撃戦は兵力寡少の我軍の最も苦手とする所なり。殊に共産軍は其の行動巧妙にして…」と述べている。*144
1942年大阪毎日新聞記事に「現在この共産党・軍を相手に第一線部隊長として活躍している大平秀雄氏(前大本営陸軍報道部長)はわれわれですら東京に在った当時を省みれば、共産軍の実体について認識の欠けていたことを痛感する、現地に来て遊撃戦なるものの正体に接しその始末の悪さにびっくりしている有様だと述懐しているほどである」とある。*145
多勢には引き、少ない相手には攻める
独立混成第2旅団独立歩兵第4大隊柴本小隊の1938年9月戦闘詳報では「第八路軍は相当勇敢なり特に我が劣勢なりと見極めたる場合に於て益々然り」と述べる。*146
北支那特別警備隊第3警備大隊第5中隊の1943〜44年戦闘詳報では「(共産軍は)劣勢なる中国側部隊日軍小部隊に対しては埋伏掩撃等謀略的奇襲を加へんとするも有力部隊に対しては専ら交戦を避け我屡次の討伐作戦にもその大なる機動力を以て巧妙に包囲圏内より逸脱しあり」とする。*147
1942年に再召集され山西省で戦った兵士は「山西省は共産八路軍との戦闘が多かった…共産軍は日本軍が強ければ攻めず、兵力が少ないと襲撃したり包囲するのである」と語る。*148
1943年の徴兵検査で入隊し山西省や河北省老河口で戦った兵士は「住民は情報を八路軍に知らせていたので、その少ない兵力の所へ八路軍は襲撃して来るのです」と回想する。*149
鉄道・通信の破壊
舞部隊(第36師団)本部の1940年6月「春季晋南作戦の教訓」では八路軍について「我が鉄道道路通信線を破壊するに当りては穏密と強行との二方法を採用しあり」*150とする。
第一復員局1946年調製「支那方面作戦記録. 第一巻」では「殊に共産軍は其の行動巧妙にして…攪乱工作の主なるものは我が分散配置せる警備隊に対する奇襲、交通線たる鉄道道路通信線の破壊、共産工作を推進、住民を我より離間せんとする宣伝等」と記している。*151
宣伝・教化
杉山部隊(北支那方面軍のこと)本部の1939年1月11日付「北支に於ける共産軍の現勢強化工作並民衆の抗日意識」では、郵便物検閲の結果「支那民衆の普通郵便物中抗日的内容のものは親日的内容のものに比し約八倍」だったと紹介し、「結論」では「共産党側の教化工作と宣伝工作とは熱烈にして巧妙且組織的なり。北支民衆は依然彼等に獲得せられつつあり」という認識を示している。*152
1943年第1軍参謀長花谷正の名前で配布された教育資料には「八路軍の如き抗日意識極めて旺盛にして政治的思想的戦術に特技を有するのみならず、武力戦法に於ても相当見るべきものを持つ敵」とある。*153

軍紀

日中戦争に従軍した故三笠宮は著書で「大同の石仏で名高い山西省の山の中で、日本軍は八路軍と対峙していた。…かれらの対民衆、ことに対婦人軍紀はおどろくほど厳粛であった。ある北支軍の参謀は『八路軍の兵士は男性としての機能が日本人とすこしちがうのではなかろうか。』とさえ語った。読者はこれを笑い話とお考えになるかもしれないが、当時としては、けっして笑い話どころのさわぎではないのであって、これを裏がえせば、とりもなおさずわれわれの軍自体に対する痛烈な批判にほかならなかったのである。」と記している。*154

中国民衆の意識

杉山部隊(※北支方面軍のこと)本部「北支に於ける共産軍の現勢教化工作並民衆の抗日意識」(1939年1月)によると、
第三、北支民衆の抗日意識と親日意識
一、前述の如き敵就中共産党側の教化工作と其の巧妙なる宣伝とは北支民衆の抗日意識に如何に影響せるやを考察するに其結論は「楽観を許さず」と断ぜざるを得ず
昨年十月乃至十一月の六旬に亘る支那民衆の差出せる普通郵便物検閲の統計的結果左の如し
 総検閲件数(日支合計)三〇、九六三、〇五〇通
 抗日的内容のもの(支のみ)二、四六三通
 親日的内容のもの(支のみ)三一六通
 他(日支)爾余
即ち支那民衆の普通郵便物中抗日的内容のものは親日的内容のものに比し約八倍に相当す
而して親日的内容のものは概ね「日本軍は想った程強姦略奪せず」「日本軍の御蔭にて安居楽業しあり」等のものなりとす

三、抗日的郵便物の内容(別冊 参照)
支那民衆の手紙に表現せられたる抗日意識を仔細に点検するに愛国的熱情を盛れるもの決して尠しとせず、出征兵士を激励する父母、兄弟姉妹朋友等の態度は皇国に於けるものと類似せるものあり。
是等手紙は皇軍の直接占拠せざる地域より発せらるると共に皇軍が直接警備せる都市、鉄道沿線よりも亦発せらるもの少からざるの事実に鑑るに民衆獲得の容易の業にあらざるを認む。*155

戦後1950年に作成された湘桂作戦についての文書は「土民特に広西省民の敵意旺盛にして将兵の之による損害尠なくない」と記す。*156

ソ連軍

極東ソ連軍兵力(日本参謀本部の判断に基く)*157*158
年次狙撃師団騎兵師団戦車数飛行機数潜水艦数総兵力備考
1937約203約1,500約1,56067約37万乾岔子事件、日華事件勃発
1938約242〜3約1,900約2,00075約45万張鼓峰事件
1939約302〜3約2,200約2,50090約57万ノモンハン事件
1940約302約2,700約2,800103約70万
1941約232約1,000約1,000105約60万日ソ中立条約、独ソ開戦
1942約202800〜1,000約1,000105約50万
1943約192800〜1,0001,100108約50万
1944約19
別に旅団若干
21,0001,500108約70万
1945約4524,5006,500108約160万

1944年末から終戦までの極東ソ連軍増強(日本大本営の判断)*159
時期兵員数飛行機数戦車数
1944年末70万1,5001,000
1945年1月末75万1,7001,000
〃4月末85万3,5001,300
〃5月末103万4,5002,000
〃6月末130万5,6003,000
〃8月上旬160万6,5004,500

「支那方面作戦記録 支那派遣軍の統帥」(復員局1949年8月調製)によれば、「外蒙には機械化二ヶ師団を基幹とする蘇軍第十七軍及蘇空軍三ヶ連隊並に外蒙軍約三万を有す」*160

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