ロシア右翼
ロシアのユーラシア主義についての資料から
トゥルベツコイのユーラシア主義
トゥルベツコイのユーラシア主義とは...
レフ・グミリョフのの激情の理論とロシア
レフ・グミリョフの「激情の理論」とは...
激情の理論のロシア像は「古代ルーシとロシアは異なるもの」と考える点でユーラシア主義と共通する。
そのレフ・ グミリョーフと関連して、「タタールのくびき」の再評価がなされており...
診断と処方のネオ・ユーラシア主義
元春智裕(1999)によれば、大江泰一郎(1994)は、現在のロシアにおけるネオ・ユーラシア主義の展開について、イサーエフ、パストゥーホフなど、分析する上で有効な方法として利用する「診断としてのユーラシア主義」と、哲学者ボロダイなどの、ロシアないし旧ソ連地域の将来像を形成するためのモデルとする「処方としてのユーラシア主義」に分類している。
哲学者ユーリ・ボロダイ
哲学者Юрий Мефодьевич Бородай (1934-2006)(ユーリ・ボロダイ, Yury Borodai)について
なお、ユーリ・ボロダイは本人の哲学業績よりも、ドネツク人民共和国の首相をつとめたАлександр Юрьевич Бородай (1972-)の父親として知られる。
エリツィン政権期に至るユーラシア主義
ロシアのユーラシア主義についての資料から 
トゥルベツコイのユーラシア主義
トゥルベツコイのユーラシア主義とは...
1925年に出版された『チンギス・ハンの遺産』(69)は、ロシア史研究における「ユーラシア学派」の創始の書として、ヴェルナツキーの一連の研究と並び言及されることが多い。この著書は、ロシア国家の起源が、教科書で説明されるようにキエフ・ルーシにあるのではなく、むしろモンゴル支配から強い影響を受けて成立したものだという主張を展開する前半、そしてその本来の姿を無理なヨーロッパ化によって歪めてしまったピョートル大帝の改革を批判し、その不可避な結果として起こった革命と、それによって生まれた共産主義政府の危険性と可能性を検討する後半から成っている。
前半の中で重要なのは、彼がほとんどの著作において行わなかった地理的概念としての「ユーラシア」の定義に触れていることであろう。彼は「モンゴル帝国の核としてのロシアの地理的領域」の特徴を、「森林のない平野と台地の、長く途切れることのない帯が、太平洋からドナウ河の河口まで延びている。この帯を、ステップシステムと呼ぶことができる。ステップシステムは、北からは広い森の帯によって取り巻かれており、その後ろにはツンドラの帯が続く。南からは山脈に取り囲まれている。このように、西から東へと伸びる４つの平行な帯、すなわち、ツンドラ、森林、ステップ、山がある。子午線方向、つまり北から南へ、あるいは南から北へ、この４つの帯の全システムは大きな河川のシステムと交差する…外的輪郭としては、開かれた海への出口を欠いていること、海岸線がないことに特徴づけられる」(70)と描写する。その気候は、「大陸性気候」と呼ばれるもので、冬と夏の間の急激な気温差に特徴付けられるということ、そしてこれら全てが「この地域をヨーロッパの特徴からもアジアの特徴からも切り離し、それを独特の大陸、世界の中でも独自の一部分として考えることを可能にしている」(71)と結論する。
この地理的、文化人類学的総体を政治的に統一することは「歴史的必然」であり、南北の交通路である河川システムだけでなく、東西を結ぶ唯一の路であるステップシステムを支配することによってユーラシアの主人となり、ユーラシア全体を一つの国家にまとめるという歴史的課題を果たしたのがチンギス・ハンであった、とトゥルベツコイは考えるのである。「歴史的に統一される運命」であるとするその根拠が希薄な印象を与えはするが、既存のロシア史研究に対して地理的要因を重視するという「ユーラシア学派」の特徴の一つを、如実に表している部分であるともいえる。
トゥルベツコイによれば、ロシアにとってモンゴル支配の時代の特徴は、際立って熱心な宗教生活の発展だったという。「タタールのくびき」は過去の罪に対する神の罰と考えられ、個人が祈りを通じて償いと浄化を行おうとしたことが、宗教芸術の発展を促した。また、モンゴルによるルーシの公国の破壊と併合は、ロシアの民の心に怒りと恥辱を与えた。これにより、ブィリーナなどを通じてロシアの過去を理想化する動きが生じ、古代ロシアを美化することとそれに伴うヒロイズムは、モンゴル支配に反発しようとする民族的誇りを強め、それが宗教的要因と相まって、民族文化の発展における力強い要因となったのである。ロシアにおける新しい「民族タイプ」の形成は、道徳的あるいは精神的にモンゴルに多くの起源をもつ側面を残しつつ、それらの精神的要素が正教の政治思想や伝統と組み合わされることで行われた。モスクワを内なる再生の中心として、そこでは民衆生活と信仰と国家イデオロギーが融合していった。ツァーリは神と民の仲立ち役であり、神の命令を民の生活に適用する道具であると信じられるようになった。チンギス・ハンの死後、モンゴルが弱体化してゆく中で、モスクワに統治されたロシアの地域だけが、国家統一体としての意識を残していた。モスクワ公国は、モンゴルには欠如していた宗教的世界観と国家イデオロギーの強い結びつきと、文化的自己充足とをその強さにして、モンゴル帝国の後継者となったのである。そこでは精神的なあり方が重要視されていたので、例えば「異郷（の人）」とは民族的概念ではなく、より宗教的な意味をもっていた。しかし、一定の宗教的寛容も行われており、非ロシア人をロシア化して公国に組み込もうとするような努力もなされなかった。なぜなら、この時モスクワ公国に存在した意識こそ、トゥルベツコイのいうところの「真のナショナリズム」だったからである。
[69] Trubetskoi, Nasledie Chingiskhana, in Nasledie, pp.223-327.
[70] Ibid., p.226.
[71] Ibid.
[ 浜由樹子: "N・S・トゥルベツコイのユーラシア主義 −「国民国家」批判の視点に注目して−", スラヴ研究, 51, 63-96, 2004 ]
レフ・グミリョフのの激情の理論とロシア
レフ・グミリョフの「激情の理論」とは...
茫々たる広大無窮の宇宙の無数の星のひとつ、地球のごくごく薄い生物圏に生息する人（ホモ・サピエン）スは、本来生物共同体に属している。人は、地勢に適合した共通の行動パターンをもつエトノスを形成する。エトノスには、その他、コサックのようなサブ・エトノスと、西ヨーロッパやロシアのようなスーパー・エトノスとがあるが、いずれも専ら自然界に属する非社会的集団であると、グミリョーフは考える。
エトノスの発生から滅亡までのプロセス（これをエトノゲネスと呼ぶ）には、つぎのような法則性が存在すると、彼は主張する。
各エトノスは、生物体の突然変異に比せられるべき激情の高揚（これは、宇宙の光線エネルギーに由来する完全に物質的現象である。その担い手が激情の人であ）るによって、まず、エトノスのシステム形成期である潜伏期を迎える。それは200年ほど続く。ついで、エトノスの顕現期と、エトノスがもっとも繁栄する極致期に入る。あわせて200年ほど続く。やがて、衰弱期（150〜200年）、惰性期（文明期）、反開化期が順次現れる。反開化期にはまだエトノスの再生する可能性が残されている。エトノスはついで、メモリアル期とホメオーシス期に移行し、滅亡する。工トノスは、他のエトノスとの接触から生まれるアンチ・システム（これをグミリョーフは、ライオンの頭と羊の体と蛇の尾をもつ怪物、キマイラと称す）るにより滅亡させられる。
とはいえ、あらゆるエトノスが必ず滅亡するわけではない。エトノスと地勢の間に新しい結合が生まれるならば、旧エトノスの中から再び新しいエトノスが出現しうると、グミリョーフは考える。
エトノゲネス、つまりエトノスの出現から滅亡までの一サークルは、1200〜1500年だという。
[ 安井亮平:"レフ・グミリョーフをめぐってあれこれ", 1993 ]
激情の理論のロシア像は「古代ルーシとロシアは異なるもの」と考える点でユーラシア主義と共通する。
グミリョーフは、古代ルーシとロシアとは異なるエトノス、異なる激情の高揚の所産だと考える。この点、ユーラシア派の主張と共通する。
第1〜2世紀に、激情の衡動が、南スウェーデンーカルパチアー小アジアーエチオピアを走った。この時同時にスラブとビザンチンが生まれた。ルーシは九世紀に衰弱期に入り、14、15世紀に滅亡した。
一方、ロシアは、13世紀に、プスコフー白ロシアー小アジアーエチオピアを揺り動かした激情の結果、生まれた。ロシアは、スラブ人やフイン・ウゴル人やチュルク人やモンゴール人からなる、正教を信仰するスーパー・エトノスであると、グミリョーフは考える。
クリコヴォの戦い (1380)こそが、新しいロシアの始まりであった。激情の高揚期は十六世紀まで続いた。17世紀に入ると激情が過熱したため、動乱時代やニコンの改革やステンカ・ラージンの反乱を招いた。18世紀はロシアにとって極致期であったが、対ナポレオン戦争（1812年）でロシアのもっとも優秀な激情の人を失い、そのため、ニコライ期のロシアは衰弱期に移行し、病的な症状が現れだした。ロシア社会の上層部は西欧化し、一方ナロードの中では分離派が増大していった。今日のロシアは衰弱期の末期にある。いわば更年期にあたる。現在の混乱は、エトノスの一生において必然の所産である。
とはいえ、ロシアは、8〜9世紀に激情の高揚期を迎え、17〜18世紀に惰性期（文明期）に入った西ヨーロッパのスーパー・エトノスよりも、500年若い。それ故、ロンアは、滅亡に向かいつつある西ヨーロッパに比し、はるかに大きな可能性を蔵している。
ロシアが今日の混乱から脱出する可能性は充分ある。それは、ロシアが、ロシア本来の伝統的な時空間に戻るか否かに係っていると、グミリョーフは考える。
[ 安井亮平: "レフ・ グミリョーフをめぐってあれこれ", 1993 ]
そのレフ・ グミリョーフと関連して、「タタールのくびき」の再評価がなされており...
く補注>いわゆる「タタールのくびき」について
モスクワ・カザン関係が過度に対立的に描かれる原因となっている歴史認識上のステレオタイプとして、「タタールのくびき」があげられる。ロシア側の史学史においてさえ、レフ・グミリョフをはじめとするユーラシア学派の再興により、この概念は説得力を失いつつあるが、現代タタルスタンの歴史認識・史学史においては「タタールのくびき」論の存立余地はほとんどない。この事情をややたちいって考察しよう。
1944年、こんにちのタタール人の祖先を金帳ハン国とする説はソ連共産党中央委員会決定により公式に否定され、それにかわって、モンゴル侵入以前のヴォルガ流域に高度な文明を築いていたチュルク系のイスラム民族、ヴォルガ・ブルガール人が現代タタール人の起源であると主張されるようになった[9]。独ソ戦を遂行する上で、また戦中戦後のロシア民族主義の高揚の中では、かつてロシアを屈辱的な位置においた金帳ハン国の末裔がロシア共和国の一構成要素となっているとみなすような学説はまずいという判断があったのであろう。しかし、この決定は、それまでヴォルガ・ブルガール人の末裔と自他共に認められてきたタタールの隣人、チュワシ自治共和国との間で本家争いを生んだ。
戦後、ロシア民族主義が沈静化するにつれて、タタール人の民族起源説として、ヴォルガ・ブルガール人にウェイトを置きつつも、ヴォルガ・ブルガール-金帳ハン国-カザン・ハン国の３者をより連続的にとらえる説が主流となった。つまり、金帳ハン国の被支配民族であったブルガール人が（あたかもキエフ・ルーシ滅亡後の中世ウクライナが、それを征服したリトアニア大公国を正教化してしまったように）金帳ハン国をかなりの程度同化した、そしてこの混合の結果、こんにちのタタール人が生まれたと説明されるようになったのである[10]。
ペレストロイカ以降のタタルスタンでは、このタタール人の民族起源説はいわば両極化した。一方では、こんにちのタタール人をモンゴル侵入以前のヴォルガ・プルガール人の直接の継承者であると考え、モンゴル・タタール的な要素の混合・介在を否定する、急進的な新プルガリズムが生まれた[11]。この考え方からすれば、こんにちのタタール人にタタール人という名称が与えられていること自体が欺瞞であり、したがって本来の名称であるプルガール人に復帰しなければならないということになる。実際、彼らは、場合によっては訴訟を起こしてまで、自分のパスポートの民族標記を「タタール人」から「プルガール人」へと書き換えさせているのである。他方では、タタルスタンの国家性を正当化するために、現代タタール人の金帳ハン国からの継承性を強調する見解がタタルスタン史学において優勢になった。ただし、だからといって、現代タタール人とロシア人が過去の因縁から敵対的に解釈されるわけではない。なぜなら、この金帳ハン国派は、前掲レフ・グミリョフといわば同盟関係にあり、ロシア帝国・ソヴェト連邦を(ビザンツやキエフ・ルーシではなく)金帳ハン国の後継者として考えるからである。以上を要約すれば、新プルガール主義者は、こんにちのタタルスタンの基幹民族は実は「タタール人」ではないと主張している。金帳ハン国派は、タタルスタンのみならず、ロシアそのものが金帳ハン国の後継者であると主張している。つまり、いずれの立場をとるにしても、「タタールのくびき」という考え方は起こり得ないのである。
金帳ハン国派は主張する。こんにちのロシアのどこにキエフ・ルーシの痕跡があるのか。政治システム、文化はもとより、言語でさえも違うではないか。キエフ・ルーシがどれだけ貧しく混乱した国であったか忘れたのか。いったい誰のおかげで大国になれたと思っているのか。あなた方ロシア人が金帳ハン国から多くを学んだおかげではないか、と[12]。強調に値することたが、シャイミエフの政治路線に哲学的な基礎を提供しているのは、チュルク・イスラム民族解放闘争的な発想ではなく、ロシア史そのものを金帳ハン国からの連続性において再解釈しようとする立場なのである。
[9] Victor A.Shnirelman, Who Gets the Past? Competition for Ancestors among Non-Russian Intellectuals in Russia (Washington, D.C.-Baltimore-London, 1996), pp.7, 22-26.
[10] このような穏健な公式史学を代表する論文として次を参照：“Povolzhskie Tatary,” in Narody Evropeiskoi chasti SSSR, II (Moscow, 1964), 特に pp.634-639.
[11] 新ブルガリズムのイデオロギーについては、Shnirelman の前掲書、pp.36-45. なお、ここで依拠した２文献は宇山智彦氏に教示された。
[12] 金帳ハン国派の主張を代表する著作として次を参照：Rafael’ Khakim, Istoriia Tatar i Tatarstan (Kazan’, 1999).
[ 松里公孝: "エスノ・ボナパルティズムから集権的カシキスモへ : タタルスタン政治体制の特質とその形成過程1990-1998",スラブ研究(2000), 北海道大学 ]
診断と処方のネオ・ユーラシア主義
元春智裕(1999)によれば、大江泰一郎(1994)は、現在のロシアにおけるネオ・ユーラシア主義の展開について、イサーエフ、パストゥーホフなど、分析する上で有効な方法として利用する「診断としてのユーラシア主義」と、哲学者ボロダイなどの、ロシアないし旧ソ連地域の将来像を形成するためのモデルとする「処方としてのユーラシア主義」に分類している。
日本では、ネオ・ユーラシア主義について取り上げた論文等の発表はあまり多くないのが実情だが、その中で大江泰一郎氏の論文から、現在のネオ・ユーラシア主義の各論客の立場を探って見たいと思う[28]。
まず、大江氏は最近のネオ・ユーラシア主義の流れを省みて、それを二つの傾向に分類している。一つは、旧ユーラシア主義の歴史観と十月革命以後のソビエト史を分析する上で有効な方法として利用する、「診断としてのユーラシア主義」の傾向であり、もうーつは、旧ユーラシア主義の理念の一部をロシアないし旧ソ連地域の将来像を形成するためのモデルとして取り上げる、「処方としてのユーラシア主義」の傾向である。
第一の傾向を持つ論客の議論を見てみよう。イサーエフは、旧ユーラシア主義者によって提出されたロシアの政治的伝統と現代の保守的思考法との継承性を重視する。そして、計画経済、社会における軍隊の役割、世界革命に対する態度、政治にあたる唯一の党、連邦国家体制、議会主義や民主主義などの評価において、多くの点でユーラシア主義の立場とスターリン体制下における指導者の綱領との間に共通性を指摘する。
また、パストゥーホフは歴史観としてのユーラシア主義を積極的に評価している。彼はモスクワ国家成立の15世紀半ば以降を本来のロシア史と認め、ソビエト・ロシアがモスクワ国家からロシア帝国を経て成立したことを論理的文明発展性に則したものとみなす。パストゥーホフによれば、ソビエト・ロシアをユーラシア主義の文脈において解釈する場合、ロシア知識人の力と頭脳により建設された共産主義国家は、形式上はヨーロッパ的な個人主義的な文化の創造物でありながら、実際にはアジア的専制として完成された。その原因は、新しい権力の創造者たちの意識が共同体的な心理と幻想から解放されていなかったことである。こうして、アジア的な権力が社会の中で形式上、ヨーロッパ的文化の普及機能を果たすという状態が生じる。そのため、ヨーロッパ文明の発展と同方向であった革命が多くの人々にとってアジアという後方への退行として受け止められるようになったと説明する。
大江氏はこれ以外にも、カントル、グリシンなどの仕事にも触れているが、これら「診断としてのユーラシア主義」の傾向が論者の個々のニュアンスの違いを越えて共通する視点として、西欧的価値を肯定的に評価しつつも、ロシアの市場経済化ないし西欧化にまつわる隘路を見据える傾向が強いように思えると、総括している。
第二の傾向、すなわち「処方としてユーラシア主義」の論客としては、哲学者ボロダイが詳解されている。ボロダイは第三の道、つまり西洋的でも東洋的でもないロシアの発展の方向の提唱者である。彼の議論の特徴は、西欧や日本のケースとの比較において、ロシア近代化の可能性を文化・文明論的に探ろうとする点にあるとする。ここで注意すべきは、ボロダイが使用する「文明」と「文化」の二つの概念の定義である。「文明」の概念、特にその近代のそれは、宗教的・文化的起源の刻印を帯びた全ての価値的および倫理的な構造が分解して多元主義的（コスモポリタン的）に融合してしまった状態を指す、ネガティブなニュアンスで使用されている。「文化」の概念はそれとは逆に、多様な知識が一つの体系に結合されながらも、それぞれの国民の原宗教的起源に発する固有の道徳的価値を保持し続けているような、積極的に評価しうる状態を表すとされる。
ボロダイにとって東洋と西洋の対比は、「自然性的な共同態」と「法にもとづく市民社会」という文化・文明の基盤の相違を念頭に置いているという。例えば、法を志向してきた西欧社会はいまや信仰とアイデンティティーの危機に瀕している。西欧的価値の根幹をなす法体系は法律の強制力と協力な警察に基礎を置いているが、それはもともと共同体的な社会構造に根ざした信頼関係が崩壊して、ホッブス流の「万人の万人に対する闘争」が常態化したところに生じたものである。
こうして、ボロダイの課題は近代化の過程において「文明」のはらむ危険性を固有の「文化」の保持によって克服するかにあることが、歴史的に検証されるのである。それは西欧的価値をグローバルな視点から相対化し、市場経済（資本主義）化の院路を、あえて伝統文化への回帰という方向で打開していこうとするものである。ボロダイ自身の表現によれば、「父祖の全ロシア的文化の多様性と固有の形態をもった自然性的な共同態」を「ユーラシア帝国」として復興できるかどうかが問題だ、ということになる。
さらに、大江氏はこうした「処方としてのユーラシア主義」の流れに属する論者として、資本主義でも全体主義でもない、ロシアの歴史的、民族的特質を前提とた「中産階級」社会を展望する、キリスト教民主主義的なオグルツォーフの主張、さらに純民族主義的な「ロシア人のロシア」を主張するボンダレフなどを取り上げている。
こうしてみると、「処方としてのユーラシア主義」はソ連崩壊後のポスト・コミュニズム状況における、ニューレフトの立場からの「第三の道」の模索に限定されるように思われるかもしれない。しかし、大江氏によれば、ソ連の内的崩壊と現代ロシアの市場移行期の隆路、また市場化の展望の混迷状態において、「処方としてのユーラシア主義」には、八〇年代末までのソ連における「ネオ・西欧派」と「ネオ・スラブ派」という対立軸に沿って従来の議論を発展させるための、現実的な条件が失われている現実を指摘する[29]。これはある意味で、ネオ・ユーラシア主義的な立場からの文化論的、文明論的なアプローチが有効性を認められていることを表しているのかもしれない。
大江氏は現在のネオ・ユーラシア主義の評価を下すにあたり、そのアプローチが従来のソ連時代の歴史的研究における社会史的な研究の空白を埋めるものとしながらも、「処方としてのネオ・ユーラシア主義」についてはいささか懐疑的である。ボロダイ流の自然生的共同態の復興に望みをかける処方を時代錯誤の幻想と見なさぎるをえないとし、またこのような幻想がそれなりの現実味を持ちたものとして共同の論議の素材とされていることに、今日のロシアの知的世界状況の深刻さが現れていると総括している。
ただ、しかしながら、ユーラシア主義が現実の政治的イデオロギーとして有効性をもつか否かがいまだ明らかではないにもかかわらず、ロシアおよびCIS（独立国家共同体）諸国の外交戦略や経済プランなどにおける政策上の理念として、個々の政党や政治家の中で着実にユーラシア主義のイデオローギーが支持されていることも事実である[30]。
例えば、ロシア連邦共産党中央委員会議長ジュガーノフも、著書『ロシアと現代世界---汎ユーラシア主義の戦略』[31]において、文明的、地政学的問題におけるユーラシア主義の立場を高く評価している。
現在の国際社会におけるロシアの役割と位置は独立国家共同体の創設協定以降、国際政治に対する文明論的、地政学的アプローチの検討の必要性が生じていることを明らかにしている、とジュガーノフは指摘している。しかしながら、同時に彼はこうした状況の中で、従来のマルクス主義理論の社会・経済的発展段階の単純化や通俗化された解釈によっては捉えることのできない現象が現れてきていることを認めている。それは、たとえば宗教問題、民族問題などであるが、これらを政策上の問題として扱う場合、従来のアプローチに従っては極めて危険な過ちを犯すことになる。こうした観点から、ジュガーノフはユーラシア主義を高く評価するのである。
「あれこれの主に人為的な無駄遣いをやめるならば、ヨーロッパ型とアジア型の文明の境に位置する歴史的ロシアの経験の解釈に戻ることができる。すなわち、ユーラシア主義の自然な核の解釈であり、このユーラシア主義とは、社会・政治的特徴という観点から、多くの点でユニークであり、あまり研究されていない現象である。このようにして、現代ロシア社会における社会・政治的変化上の客観的傾向とメカニズムの全貌を全体的に理解することがようやく可能になる。もっとも、形成期においては、政治哲学自体が最も新しい時代のものとなる。」[32]
ジュガーノフはここで述べた世界観の内容について、次の項目をあげている。
�’Ъ穎世砲�ける多元主義の承認。�⊃祐崛�悪やその他の非人道的目的を追求する内容を除く、様々な思想・政治学説、理論に対して平等の権利を認めること。��正反対の見解をも含む様々な観占一の比較において、対決よりも忍耐を優先させること。�ぬ疑析静�であれ、宗教的であれ、分析と論理構成の観点から最も貴重な、社会的発展に展望を開く、哲学、政治学の新学説を開かれた姿勢で受け入れること。
こうした内容が人類文明における質的に新しい要素の生成、およびその結果としての現状を思想的に解明し、開拓するという課題に応え、またロシアの戦略的課題である国民の建設的世界観と健全な精神を作ることを可能にすると述べているのである。
「このイデオロギーは、大国ロシアの国家体制が機能するための堅固な世界観の基礎になり得るのみならず、世界的影響をもつ極めて強力な選択肢としてのロシアというセンターを形成するための活動の理論的、哲学的前提を作ることができる。そして、口シアというセンターは、正義と民主主義、現代の人類の文明発展の『大陸的』（『世界制覇主義』に対しての）路線の社会的、政治的、文化的、経済的原則を具現する。」[33]
また、ジュガーノフはロシア人による文明論の分析、「ロシア理念」という集合概念によって表現されるロシアの大国性と愛国主義の精神的基盤の分析において、ロシアの先覚者として様々な哲学者の重要性を指摘している。言及される哲学者は、ダエレーフスキイ、レオンチェフ、さらにウラジミール・ソロヴョーフ、ベルジャーエフ、トルベツコーイ兄弟、パーベル・フロレンースキイ、セルゲイ・ブルガーコフ、さらにロシア正教会の歴史家カルタシェフといった人物たちである。
それにしても、これらの哲学者が現在のマルクス主義政党の議長ジュガーノフの著作で肯定的に評価されることには、いきさか驚きを禁じ得ない。なぜなら、これら哲学者の著作は少なくともペレストロイカ期まではソ連体制下では禁書とされ、とくにベルジャーエフをはじめ多くの哲学者は、革命後にボルシェビキにより集団追放されたという事実が知られているからである。（ちなみに、外国の著述家のものとしては、シュペングラーの『西洋の没落』についての言及があるが、トインビーの歴史的発展理論やフランシス・フクヤマの「歴史の終馬」構想に対して慎重に接することを示唆している点は興味深い。）
当然のことながら、本論でもすでに取り上げたグミリョフについても、ジュガーノフは高い評価を与えている。
「時期尚早にわれわれから去っていったレフ・ニコラエヴィッチ・グミリョフの理論的遺産は、現代の哲学・政治学の学説、歴史哲学全体の状況に絶大なる影響を与えている。思想の大胆さ、成し遂げた学術発見のスケールの大きさ、精神力、道徳的偉大さにおいてグミリョフは、ためらうことなく二〇世紀のもっとも秀でた思想家・分類学者の強力な集団に参入することができる。グミリョフが打ち出した熱狂の理論は、民族の起源、ロシアにおける文明の起源の学説にすばらしい貢献をしただけでなく、とりわけロシアの運命にとっての激動の時代には、社会・政治的変化の客観的傾向と現実的メカニズムの分析に向けた非伝統的方法とアプローチの模索をするための強力な出発点となった。」[34]
以上の主張を見る限り、ジュガーノフ政治思想の骨格を形作るものは、ロシアの地政学的問題の解決の糸ロとしてのユーラシア主義の立場であり、彼はその理論的基礎付けのために、ロシア思想の遺産からさまざまな概念の継承という作業を行っているのである。
こうしたジュガーノフの思想にマルクス主義の影響が希薄であることは、本書の訳者も指摘するところである。文明に対する類型論的な見方、ロシア正教に対する肯定的評価、地政学的思考のどれをとっても、そこに旧ユーラシア主義者達の思考の遣産を継承しつつ、従来の教条的マルクス・レーニン主義から離れた思想原理を構築しようとする姿勢を見ることができよう。本論では彼の政治思想そのものを詳細に分析することはできないが、現代におけるユーラシア主義の問題を考える上で、ジュガーノフの著書は重要な示唆に富んだものであると言えよう。
(28）大江泰一郎「ロシアに未来はあるか？ー『ユーラシア主義』の復活をめぐって」『ユーラシア研究』第2号、ユーラシア研究所編、白石書店、1994年1月
(29）80年代のソ連におけるネオ・西欧派とネオ・スラヴ派の問題については、塩川伸明「現代ソ連の思想状況ネオ・西欧派とネオ・スラヴ派」（『ソ連研究』第9号、1989年10月）が参考になる。
(30）広岡正久『ロシアを読み解く』（講談社現代新書、1995年）の第五章「口シア地政学とユーラシア国家」では、現代のネオ・ユーラシア主義の問題にかんする言及が見られる。特に、ニア・アブロード（近外国）の概念を取り上げ、ユーラシア主義が単にロシア民族主義者にとどまらず、エリツィンをふくめたロシア政府の指導者達の間に広がっていることを指摘している。現在のロシアの政治的言説における、大ロシア主義的な旧ソ連領土回復の主張や民族主義的傾向に垣間見られる、ユーラシア主義的地政学の影響の意味について、多くの示唆的な見解を提示している。
(31)G・A・ジュガーノフ『ロシアと現代世界---汎ユーラシア主義の戦略』佐藤優、黒岩幸子共訳、自由国民社、1996年
(32）同前、p.22
(33）同前、p.23
(34）同前、p.25
[ 元春智裕: "現在ロシア哲学事情(第3回) ロシアにおけるユーラシア主義について(下)", pp.153-163 ,季報唯物論研究 23(69), 1999-08]
哲学者ユーリ・ボロダイ
哲学者Юрий Мефодьевич Бородай (1934-2006)(ユーリ・ボロダイ, Yury Borodai)について
ユーリー・ボロダイは国家的自決は、ナーツィヤだけの神聖な権利であるとして、「局地的な自らに閉じこもったエトノス」に関してはこれを否定した。その理由をボロダイは次のように説明する。自らの氏族（クラン）を侮辱する者に苛酷な罰を課す慣習にしたがって生きるチェチェン人やその独自の宗教的動機、その世界の中で生活する分離派の規範は彼らだけのものであり、それを外部、他者にまで拡大する必要がないように、「局地的なエトノスはそれ自体としては国家性を必要としていない」。それに対してナーツィヤは様々なエトノスを統合した（その過程においてエトノスの本性が変容することもある）「多エトノス的かつ超エトノス的統合体」である。統合体としてのナーツィヤの編成は、自然発生的に形成されたソボールノスチと同一ではない。それは「水平的」結び付きと「垂直的」結び付きの結合なのである。前者は、エトノス、共同体、宗教、団体等にしたがって編成が行われることを意味し、後者は全ての者にとって共通の国家的・法的規範と政権の直接的な行政命令を意味する。その編成に際して前者への一元化は分離主義への傾斜を、後者への二元化は民族的有機体の画一的な全体主義機構への変質をもたらす。ボロダイはその意味で具体的な歴史的状況にとって両者が最適な形で結合することを望ましいと考える。別の言い方をすれば、ナーツィヤの編成において力の契機を否定することはできないが、それだけに依拠するとそれは「帝国」と化してしまう。様之なエトノスの統合がナーツィヤに、特に文化の面で重層的性格を与えることが望ましいのであり、それがそのナーツィヤの国家性の基礎となる。それがボロダイによってロシアの国家性のあるべき姿として構想されている。そうであるが故に、ロシア国家の内部に単一のエトノスの原理で国家を編成しようとする試みはロシア国家の一体性を破壊するだけでなく、それぞれのエトノスの単一の原理による国家の形成を許容するだけの広さはロシア領土も持ち合わせていないということもあり、それはアパルトヘイト方式を採用せざるを得なくなるという意味で当該のエトノスにとっても袋小路の道であるとボロダイは断一＝ttする。「それぞれのエトノスが全体としてナーツィヤに『発展する」ことが必要なのであろうか？」とボロダイは問いかけ、「それはエトノスにとって幸福なのでは全くなく、死の十字架なのではないだろうか」と彼は示唆するのもこうした脈絡に(1)おいてのことである。[1]
かくしてチェチェンの独自国家建設を意味するチェチェン人の自決権は否定される。しかし、それでは、ロシアが画一化を強要することなく様々なエトノスを内包した国家を編成することができるという根拠はどこに求められるのであろうか？
ロシアの「多エトノス的かつ超エトノス的」重層性の論拠としてボロダイによって持ち出されるのが「ロシアは東方でも、西欧でもない。それは特異な民族的一体性であり、その文化の中軸となったのが地方の異教信仰と東方ビザンチン的キリスト教との結合であった。西欧のキリスト教民族と異なり、ロシアは固有の独自の体質を備えたユーラシアの一体性である[2]」という論法である。西欧の精神文化の画一性との対比においてロシアの精神文化の多面性、重層性を強調することは、ユーラシア主義に伝統的な論理展開であるが、ボロダイはこれをカントの道徳律の問題に即して論じている。
カントの道徳律の問題は、善悪について判断を下すことのできる人間の自律性、積極的自由と不可分なのである。ボロダイは次のように整理しているー「カントが考えるところでは、道徳的な存在として人間は善を創造しなければならない。しかし、命令で善を創造することはできない。思慮のない不合理な服従は、たとえそれがただ単に自分自身の怠慢、熱情、恐怖といった本来的な本質が目覚めたことによる服従であったとしても、常に悪なのである。悪とは、他人の見解、力、権力、状況、……運命に対する思慮のない柔順な服従のことなのである。いかなる宿命も存在せず、自らが全てに対して責任を負わなくてはならない！[3]」。
西欧市民社会はこうした自律性を保障された諸個人が取り結ぶ諸関係が西欧の近代市民社会として構想されたのであるが、現実のその社会の規範は果たしてカントの構想した善悪決定に際しての人間の内面的主体性に依拠して確立されたのであろうかと、ボロダイは問いかけるのである。彼によれば、西側においては良心の自由の原則は個々人に法律によって保障されるという事柄に遷元されてしまい、人々が良心、精神的な主体性、積極的な自由によって社会に働きかけ、秩序を構想とするということは不可能になってしまった。その理由としては、プロテスタントの各宗派の他の宗派に対する不寛容さ、攻撃的対応が指摘される。米国のような多種族の国家では宗教的に不寛容な各人が自らの内面的主体性に立脚して現実の社会秩序について提起すれば、それは同時に多くの人々の共存の不可能性を意味することになるということである。その結果、良心の自由の原則は現実の社会を調整していく主体ではなくなり、法律、警察による規制がそれに取って替わられることになる。そうした西側の宗教的不寛容（特に、神の意思の絶対性を説くカルヴィニズム）に対して、人間の内面的主体性を改めて強調したカントの道徳哲学とロシア正教との共通性が、初期キリスト教理念の意義の復権という占一でも指摘される。それをロシア正教に即して言えば、「旧約聖書の不寛容のエートスによって武装した西欧のキリスト教と異なり、ロシア正教は抑圧による信仰への強制を排除した人間の内面的自由を強く主張する傾向の方が大きかった。ルーシにおいては異端審問はなかったし、ロシア教会は全世界(4)的な十字軍や宗教戦争を唱導することもなかった[4]」ということになる。
こうしたロシア正教の伝統、文化にも支えられるロシア人は単一性、本来の原理の純潔性に固執しない重層的な形で国家編成を行うことが可能であるとされる。しかし、その場合の機械的にエトノスを結合させる形でのナーツィヤ的統一は不可能である。それは先に指摘された「垂直的」結び付き、つまり力、抑圧にのみ依拠した「帝国」への道であり、それはソ連邦あるいはロシア帝国の非現実的な復活願望でしかない。しかし、現実問題としてロシア国家がバルトをその勢力圏に組み込もうとすればNATOとの対決は必至であるが、モスクワにそのための備えがあるわけではない[5]。ボロダイによってエトノスの調和的な重層性に基づく結合にとっての文化的、精神的要因の不可欠性が強調されるのはこのためであり、ロシア国家の範囲もその点を考慮した上で確定されなくてはならないと主張される。具体的には「ベロルシア、東部正教のウクライナ、ノヴォロシア、クリミア、カザフスタンのロシア部なくしてロシアは生きられない」。その上でボロダイは正教は歴史的にもカトリックやプロテスタント等の西欧キリスト教よりもイスラムとの両立可能性を証明してきたとして（同じスラヴ系でも正教のロシア人とカトリックのポーランド人の良好(6)とはいえない関係が再確認される[6]）ウズベキタン、キルギジヤ、タジキスタン、トウルクメニスタン、アゼルバイジャンといったかつてのソビエト・イスラム共和国に対する(7)親近性を表明したのであった。[7]
これは、チェチェンにおける危機にもかかわらず、チュルク系のエトノスを内包した形での「ユーラシア主義」に大きな展望を認めた議論である。
[1] Наш современник, Nо. 1(1995). стр. 1 13-1 15 (0. Боролай)
[2] Там же, стр. 117.
[3] Там же, стр. 118.
[4] Там же, стр. 128.
[5] Там же, стр. 131.
[6] Там же, стр. 129-130.
[7] Там же, стр. 132.
[ 中村裕: "民族的アイデンティティーの模索 -- 「大国化」への指向のなかで", ロシア研究 (21), 日本国際問題研究所, 1995-10 ]
なお、ユーリ・ボロダイは本人の哲学業績よりも、ドネツク人民共和国の首相をつとめたАлександр Юрьевич Бородай (1972-)の父親として知られる。
エリツィン政権期に至るユーラシア主義
ユーラシア主義の地政学
ロシアの広さと地理的位置に基づく地政学的な意識は、ロシア帝国の成立とともに誕生したロシア的原理の一つをなし、信条となった。われわれは、すでに「第三のローマ」の理念やカラムジンの国家主義思想のうちにその痕跡を発見した。また、欣治かロシアの地政学の源流を19世紀のスラヴ主義思想のうちに見出すこともできよう。
汎スラヴ主義の思想家コンスタンチン・レオンチェフは、ロシアを一つの全体世界と呼んだ。レオンチェフにとって、ロシアは一国家にとどまるものではなく、もっと巨大な何ものかなのだ。彼は次にように主張する。
ロシアは単なる国家ではない。アジアの版図をも残らず合わせた全体としてのロシア -- これは特別な生活をもつ全体世界であり、未だ文化的国家組織としての独自な形態を発見していない特別な国家世界である。したがって、われわれが常に考えなければならないことは、ヨーロッパからトルコ人を駆逐したり、スラヴ人だけを解放したり、また形は何であれ全スラヴ人からなるスラヴ人だけの民族世界を結成したりすることではなく、思想的にもっと独創的で、もっと広大な何ものかである。（「ビザンチン主義とスラヴ人」）
ロシアを盟主とする「ビザンチン帝国」の復興を夢見たレオンチェフは、ロシアの地政学に豊かな霊感を吹き込んだ。19世紀末から20世紀初頭にかけて台頭した汎スラヴ主義やユーラシア主義は、いずれも地理的要因に規定されるロシアの政治的、文化的独自性を強調するとともに、ロシアがその双肩に担うべき世界的使命を表明した。
そして今日、ソ連邦の解体の結果、ぽっかりと空いたイデオロギーの空白を埋めるかのように、こうした思想がふたたびロシア人の心を捉え始めているように見える。「アイデンティティ危機という熱病に冒されて」方向性を見失ってしまった現在のロシアにあっては、汎スラヴ主義やユーラシア主義といったロシア地政学の政治哲学が、彼らに新たな方位を指し示し、失われた世界帝国の復活を可能にする手立てを提供してくれるものとなっているのである。
実際、ロシア・ナショナリストたちにとって、ソ連邦の解体は、帝国の復活によってのみ癒される「地政学的な悲劇」にほかならなかった。ヨーロッパの地政学者たち -- ハロルド・マッキンダー(1861-1947)やカール・ホッファー (186901946) -- が構築した「海洋文明」と「大陸文明」、「ハートランド（中核地域）」と「ヒンターランド（荒廃地域）」といった概念が、今日のロシアで注目を集め、無視できない影響力をもっている理由はまさにこの点にこそある。
現在のロシア地政学の最も中心的なテーマは「ハートランドを制する者はユーラシアを制し、ユーラシアを制する者は世界を制する」という揺るぎない信念である。ライン川からウラル山脈にいたるユーラシアの「ハートランド」を制することは、大陸国家ロシアにとって決定的な意味をもつ。というのは、「広さは一種の資源であり、県ry区と安全に資する要素」だからである。後述のエリツィン・ロシアの新ドクトリン -- 「ニア・アブロード（近外国）」-- も、こうした伝統的なロシア地政学と共通の思想的、心理的基礎をもっているのである。
ユーラシア主義の地政学は、現代世界を二つの世界文明の間で不断に戦われる闘争の場と見なしている。すなわち、アングロ・サクソン文明に代表される「海洋文明」ち「大陸文明」との戦いである。それによれば、ロシアを中心とするユーラシア文明は、ローマ・ゲルマン文明と、そしてアジアの諸文明をも包摂する巨大で、自己充足的な一個の「大陸文明」であるという。ユーラシア文明は「海洋文明」と対峙しながら、それに打ち勝って、凌駕する宿命を背負っているのだ。
そもそも「ユーラシア主義（エプランジィストヴォ）」は、1920年代に西欧に亡命したロシア知識人によって構築された「反動的」な汎スラヴ主義イデオロギーの一つである。それは、ロシア史の「地政学」的解釈に基づいてスラヴ文化の独自性とヨーロッパ文化に対するその優位性を強調する一方、他方でスラヴ主義思想に内在する一定の限界をも指摘する。というのは、スラヴ人一体性とその救世主主義的な使命といった汎スラヴ主義の観念は、歴史の現実という新版に堪えることができなかったからである。汎ゲルマン主義と汎スラヴ主義との対決という形で戦われた第一次世界大戦は、ロシアに勝利をもたらすどころか、ロシア革命という破局を招来し、結局レーニンの率いるボリシェヴィキ派の権力奪取という結末に導いたのであった。
ロシア帝国の崩壊と、それにつづくボリシェヴィキ革命の勃発という事態の展開に衝撃を受けた亡命ロシア人グループは、アジアとヨーロッパを統合する「ユーラシア」という地理的概念のうちに、ロシア・ナショナリズムを基礎づける新たな「統合原理」を見出そうとしたのである。
ユーラシア主義を提唱した最も代表的な思想家ニコライ・セルゲーヴィチ・トルベツコイ公爵(1890-1938)は、1921年、ピョートル・サヴィツキー(1895-1968)ら若い亡命ロシア人とともに公刊した「東洋への脱出 -- ユーラシア主義者の声明」の中で、ロシア・ナショナリズムを「単にスラヴ人だけを対象とするのではなく、ロシア民族がその中心部を占めている「ユーラシア」世界の全民族にむける」べきであると訴えて、次のように宣言した。
ロシア人と「ロシア世界」に属する諸民族はヨーロッパ人でも、アジア人でもない、われわれはわれわれを囲繞する文化と生活の本質的な要素を融合しているのであり、誇りをもって自らをユーラシア人と宣言する。
ユーラシア主義者を自任した亡命ロシア知識人たちが共通して抱いたのは、なによりもまず第一に、革命という破局を迎えた祖国ロシアにとっても、また世界にとっても「決定的で、最も重大な時代」が到来しつつあるという認識であった。彼らユーラシア主義者によれば、時代の転換期にあって、新しい啓示は西のヨーロッパではなく、東方に、つまり「ユーラシア」に明るい光を照射しつつあるという。新しい文化がユーラシアに誕生しつつあるのだ。そして、新たな文化の創造という偉大な歴史的使命を担うのは、「計り知れない苦難と喪失の中で、飢餓のまっただ中で、血と汗が流れる中で」苦吟している祖国ロシアにほかならなかった。
「文化の移動」や「大陸経済と海岸経済」といったユーラシア主義の地政学理論を発展させたのは、ピョートル・サヴィツキーであった。サヴィツキーは。世界文化の中心は固定したものではなく、全人類史を通して移動を繰り返してきたと指摘する。世界の文化的中心は、温暖な地域から寒冷な地域に移動しつつある。そして、今や世界文化の中心としての位置を占めつつあるのはロシアなのだ。
なるほど大陸国家であるロシアは、これまで海洋交易を中心とする世界経済から排除され、経済的にも、また文化的にも後進国としての地位に甘んじざるを得なかった。だが、ロシアで「海洋経済」から独立した「大陸経済」が力強い歩みをはじめつつある。大陸経済は広大かつ多様な、しかも統一的な市場をもち、生産者と消費者が近接しているという特別な利点を有している。このゆおに論じて、サヴィツキーはさらに次のように主張する。「ロシアの経済的未来は、ロシアに適合しない他国の『海洋経済政策』の模倣ではなく、ロシアの『大陸的本質』を理解し、この本質に適応することにある」と。
一方トルベツコイは、比較言語学的手法を用いてロシア文化の特質を明らかにしようとする。トルベツコイの比較言語学が導き出す結論は、ロシア語を本質的要素とするロシア文化の独自性である。ロシア文化は他の民族文化とは異質なものであり、したがってロシア人は本質的にヨーロッパ文化を受け容れることはできない。
ピョートル大帝が企てた暴力的な「上からの」改革が、一部の表面的に西欧化した貴族階級を生み出したことは事実である。しかし、ピョートルの野心的な試みも、ロシアが有する独自の文化的本質を根本から変えることはなかった。ロシア文化とはさまざまな文化を包摂し、融合する偉大な文化であり、東方への広がりをもち、インドや中国といったアジアとも結びつく文化である。ロシア人は単なるヨーロッパ人でも、またスラヴ人でもない。むしろロシア人はアジア人＝ユーラシア人であり、ロシアはアジア＝ユーラシアの一部であり、ユーラシア国家なのだ。
サヴィツキーもトルベツコイ公爵とともに、「ロシア＝ユーラシア国家」の理念を高らかに謳いあげる。だが、サヴィツキーの論調は、むしろより強くアジアに力点を置いている。彼は次のように書く。
ロシアは、ヨーロッパに加わることもできれば、またヨーロッパから離れることもできる国である。しかしそればかりではない。ロシアは、ロシア自身よりも遥かに広大なある世界の精神の代表者であり、保持者でもあるのだ。ロシアは森林と草原の非ヨーロッパ世界へも参加している。文字通り物理的に参加している。このことが、ヨーロッパ国民というより、むしろアジアの国民としての性格をロシア国民に与えたのである。（「東洋への脱出」）
ユーラシア主義を信奉した亡命ロシア人たちの「パトス」は、ヨーロッパに対する根源的な懐疑と不信にこそある。そしてそれはまた、ロシアの歴史を通じてロシア人の本能にまで刻みつけられたヨーロッパに対する「劣等感」でもある。そうであるからこそ、彼らは、ロシア人の民族的、文化的アイデンティティを「ヨーロッパの否定」において見出そうとするのである。ユーラシア主義者によれば、ヨーロッパ文化は、普遍的妥当性をもつ文化などでは断じてないのだ。それは世界中に数多く、多様に存在する民族文化の一つに過ぎない。非ヨーロッパ世界に住む知識人は、ヨーロッパ文化の呪縛から自らを解き放ち、固有の民族的、文化的アイデンティティを自覚しなければならないと、彼らは訴える。サヴィツキーはいう。
ヨーロッパ化された各国のインテリゲンツィアは、自分の眼から目隠しをはぎ取り、ローマ・ゲルマン的イデオロギーの幻想から自由にならねばならない。自分たちは今まで欺かれていたのだ。ヨーロッパ文化は絶対的なものではなく、全人類の文化でもない。それは単に共通の歴史をもつ、あるかぎられた人種上の諸国民群がつくったものに過ぎない -- このことをインテリゲンツィアははっきりと、明確に理解すべきである。
ユーラシア主義の創始者たちの信条は、現代のユーラシア主義者によっても共有されているものである。現代ロシアのユーラシア主義者シャミル・スルタノフも、大西洋文化はその最後の発展段階、すなわち「消費文明の段階」に入ったという。スルタノフは「ユーラシア主義の期待」の中で、ヨーロッパ文化の終焉を断言する。
この文明は長くはつづかない。・・・というのは、この退廃的、偽善的、そして無神論的文明は地球規模の黙示録的終末に導くか、あるいはもう一つの、それに取って代わる精神的で神聖な創造的活動に向かう基本敵意新しい態度と、人類の典型的な伝統に基づく傾向へと途を切り拓くかどちらかである。
現代のユーラシア主義者スルタノフによれば、これら二つの文明の最終的な対決は避けることができない。しかしも、すでにその結末は定められている。「未来派西ではなく、東のものである」からである。そして東方に発展の拠点を求めたロシアは、死に瀕しつつあるヨーロッパを救済するという使命を担っているのだ。
ところで、1920年代から30年代にかけて、ユーラシア主義はとくにヨーロッパに住む亡命ロシア人に強い影響を与えた。この運動には経済学、地理学、地政学、言語学、人類学、宗教哲学、政治哲学、そして歴史学といったきわめて広範な専門領域に跨がる知識人が参加した。彼らはさまざまな角度から「ユーラシア：という新しい政治・経済的、文化的概念の構築に加わり、多様な諸民族と諸文化を融合し、統合するというロシアの使命の達成に熱狂的に取り組んだのである。
だがここで留意すべきは、ユーラシア主義がロシア革命後の混乱期に現れた亡命ロシア知識人の主張や、今日の過激な一部民族主義者のスローガンにとどまるものではないという事実がある。その思想は、陰に陽に、ロシア人の心理や意識により強く、より広範な影響をおよぼしているゆおに思われる。それというのもほかではない。ユーラシア主義の思想と運動は、果てしない広がりの中で自らが占めるべき位置も、また自らが進むべき方位も定まらないロシア人の心理の一面を見事に映し出しているからである。換言すれば、それはヨーロッパとアジアとの中間にあって自らのアイデンティティを求めて彷徨するロシア人の旅路に置かれた「躓きの石」であるといえよう。
果せるかなソヴィエト体制崩壊後のロシアに、ユーラシア主義の主張は、あるいはエリツィン政権の外交政策のうちに、あるいはまたさまざまな政治指導者の言動のうちに甦った。そこでわれわれは、次にエリツィン政権の地政学 -- 「ニア・アブロード」性格の概念と構想 -- を検討の対象としなければならない。
[廣岡正久: "ロシアを読み解く", 講談社現代新書. 1995, pp.140-150]
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