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dorset1411 2019年07月30日(火) 16:57:51履歴
ラクサシア=ローラント戦争 (ラクサシア=ローラントせんそう、ドイツ語:Roland-Ruxussen Krieg) は、1940年から1945年にかけてラクサシアとローラントとの間で行われた戦争を指す。また、日本語では慣用的に「ローラント・ラクサシア戦争」、「烙廊戦」などとも書かれる。
ローラント帝国首相、および国家元首であり、国家と一体であるとされた国家社会主義党の指導者。1929年に首相に指名され、1年程度で指導者原理に基づく党と指導者による独裁指導体制を築いたため、独裁者の典型とされる。その冒険的な外交政策はローラントをラクサシア=ローラント戦争へと導くことになった。また、ルワルワ人などに対する組織的な大虐殺を主導したことでも知られる。ローラント軍が劣勢になってからは無謀な死守命令を連発し、前線の部隊を危険に晒し続けた。1945年6月28日、ラクサシア軍包囲下のアンカーブルクで拳銃自殺した。
ローラントの軍人。最終階級は元帥。ローラント帝国西部のザウアーに、数学教師の息子として生まれる。1894年に陸軍に入隊し、工兵第15連隊に配属される。翌年、少尉に就任し、4年後には中尉となる。第一次ガルーン平原事件では中隊長として戦域南部での戦いに参加し、その活躍によりヨーゼフ勲章を受章する。ラクサシア=ローラント戦争では第3軍司令官を務めたが、レグルス攻防戦で敗北し配下の将兵とともに降伏する。降伏後はラクサシア軍によるプロパガンダに利用され、ローラントに対し早期の無条件降伏を主張した。1945年、ペルカ捕虜収容所で終戦を迎える。メルディア戦線での民間人虐殺の罪を問われ戦犯に指定されるが、長年の収容所での生活により裁判を待たずにペルカ捕虜収容所で心臓病により病死した。
ローラントの軍人。最終階級は上級大将。ローラント帝国のウーラントに、外科医の息子として生まれる。ラクサシア=ローラント戦争の緒戦で大戦果を挙げた電撃戦の生みの親であり、戦争中盤以降も第4装甲集団、第9装甲集団、そして陸軍参謀長へと昇進する。1945年2月26日にラクサシアへの即時降伏を主張したことでマイヤーに更迭され、同年5月7日にラクサシア軍へ降伏し、捕虜となる。ウーラント裁判では終身刑が宣告されたがラクサシア軍により恩赦となり、その後は戦時中の作戦に関する情報をラクサシア軍に提供した。第二次ラクサシア内戦が始まるとローラント共和国軍第1装甲軍集団を率いてラクサシア臨時共和国軍と戦った。その装甲戦力運用戦略は内戦中のラクサシア帝国軍からも高い評価を受けた。1962年に脳出血で死去。
ローラントの軍人。最終階級は元帥。ローラント帝国中部の小さな村であるヴェッセル村に、軍人家系の息子として生まれる。アーベライン作戦ではA軍集団司令官となり、シルフィア半島では12個師団を包囲殲滅する大戦果を挙げる。レグルス攻防戦では冬の到来と市街地での戦闘の泥沼化により敗北し、ローエングリン作戦も圧倒的戦力差により失敗に終わるが、この失敗の直後にベッケンバウアーは素早く部隊を撤退させ、再編成を行った。ロイバルト作戦ではラクサシアの首都リーアまで数十キロまで達したが、ラクサシア軍による膨大な火力投入とマイヤーの厳命による撤退困難により釘付けにされ、さらにファシリア大森林からのラクサシア軍の奇襲攻撃により作戦は失敗し、C軍集団と合流して撤退作戦を行った。自身はC軍集団の撤退のためA軍集団の精鋭SS部隊と共にルルで熾烈な防衛戦を行い、なんとか撤退を成功させる。しかし、マイヤーの命令に背いて撤退したことで本土到達後に更迭され、1945年7月3日にザウアーでラクサシア軍に降伏する。レグルスでの戦争犯罪により懲役15年を言い渡されたが、1949年に釈放される。戦後は戦術に関する多数の本を著作した。
ラクサシアの軍人。開戦時は大佐。ラクサシア=ローラント戦争開戦時にはトランスレモリア軍集団第3軍第6機甲師団主席参謀としてガルーン平野の戦いを経験する。アスラ高原の戦いにおいてはローラント軍機甲師団に勝利し、友軍部隊を壊滅の危機から救った。戦争中盤では第5軍の指揮下に入り、ルワルワ高地、ニャルラ平原でローラントC軍集団と戦いを繰り広げた。43年にラグンシャ軍集団の元で新編された第1装甲軍の司令官に任命される。44年のペトラキナ作戦では電撃戦を展開し、ローラントC軍集団を壊滅に追いやる。ローラント逆侵攻の際には先鋒部隊を努めた。戦後は軍を除隊し政治家としての道を歩み始め、ラクサシア連邦発足時には初代首相となる。最終階級は中将。
ラクサシア=ローラント戦争 | |
戦争:ラクサシア=ローラント戦争 | |
年月日:1940年5月7日から1945年7月8日 | |
場所:ラクサシア東部、ソンガイ及びローラント | |
結果:ラクサシア帝国の勝利 | |
交戦戦力 | |
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指導者・指揮官 | |
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損害 | |
戦死 1010万 | 戦死 1140万 |
捕虜 230万 | 捕虜 106万 |
民間人死者 920万 | 民間人死者 1980万 |
年月日 | 事項 |
1929年6月10日 | マイヤー政権成立 |
6月31日 | 授権法成立 |
10月22日 | アンカーブルク城襲撃事件・近衛隊粛清・ローラント王室幽閉 |
1934年8月2日 | ハーロルト一世死去 |
9月1日 | プシェヴォルスク併合 |
1938年4月15日 | 各都市にゲットー設立・ルワルワ人迫害政策開始 |
9月1日 | プシェヴォルスク併合 |
1940年5月7日 | アーベライン作戦・烙廊開戦 |
6月17日 | ナコトの戦い |
7月13日 | アスラ高原の戦い |
8月1日 | ロアーヌ攻勢 |
8月16日 | ロアヌス要塞の戦い |
8月27日 | レモリスの戦い |
9月11日 | メルディア戦線の戦い |
9月24日 | シルフィア半島の戦い |
10月26日 | レグルス攻防戦 |
1941年4月27日 | ヴァイス作戦 |
6月11日 | ニーベルングの指環作戦 |
9月24日 | シルフィア半島の戦い |
1885年のヨーゼフ・フォン・バーダーのローラント宰相就任以降、ローラントでは大規模な陸軍改革が行われ、戦力は大幅に強化される。バーダーはその後、領土の拡張こそが帝国の栄光への道だと主張し、ローラントは隣国であるラクサシア帝国との対立を深める。そんな中、1910年にラクサシア・ローラント国境線をめぐって第一次ガルーン平原事件が発生し、5ヶ月程の紛争にも関わらず大規模な塹壕戦が繰り広げられた。この紛争はローラント優勢で終わったためローラント側の主張が通り、ローラントはガルーン平原の北西半分のほぼ全てという広大な領土の支配権を獲得する。しかし、1925年に発生した二度目の国境紛争である第二次ガルーン平原事件ではラクサシア軍がガルーン平原からほぼ完全にローラント軍を駆逐する大戦果をあげ、それによりガルーン平原全体の支配権がラクサシア側に帰還した。この一連の国境紛争での最終的な敗北によりローラント世論の反ラクサシア感情が高まる中、ローラントでは1929年にナチス党のハインツ・マイヤーが政権を握り、帝国の全体主義化が進んだ。政権設立から僅か数年の間に第三帝国憲法および民族管理法が施行され、ローラント国内の少数民族、特にラクサシアを起源とする民族の一つであるルワルワ人に対して大規模な迫害政策を実施。ルワルワ系資本家は財産を没収され、国内のすべてのルワルワ人は都市部に設置されたゲットーと呼ばれる隔離区域への移住を強制された。さらに憲法第四条に基づき、従来の君主制帝国の解体およびマイヤーを総統とする新国家体制の設立が行われ、旧帝国の皇帝フレデリック五世は退位を余儀なくされた。独裁体制を確立したマイヤーはロン人の絶対的優位性と、西方への生存圏拡大を主張し、ラクサシア民族を、ロン人の繁栄を阻害する劣等民族として強く非難した。これによりローラント・ラクサシア間の緊張は高まり、両国は国境に大規模な部隊を配置した。
1940年5月7日、ローラントはレーヴェンツァーン作戦を発動。宣戦布告なしにラクサシアへの軍事侵攻を開始した。国境の大部分を5000m級の山で隔てられている両国は、お互いに陸路での侵攻が不可能であり、序盤は航空戦が主体となった。地上戦は、ラクサシア南東部、トランスレモリア地域のガルーン平野で勃発した。この地域はローラントが領有権を主張するティエリーがあった。
ローラント軍がアーベライン作戦を開始した時、トランスレモリア地域にはラクサシア軍3個軍計50個師団が展開していた。兵力で見ればラクサシア側が上回っていたが、ローラントはここで新戦術電撃戦を行った。防衛線の弱点を大規模な機甲戦力で攻撃し、機械化歩兵と共に敵を包囲殲滅、また移動。さらに、戦車に搭載された高性能の無線機を駆使し、スツーカによる精密な近接航空支援を実施する。シュターデン上級大将の考案したこの戦術は、多くの将校の反対にも関わらず短期間で大戦果をあげた。これにより旧来式のドクトリンで防備にあたっていたトランスレモリア軍集団は1ヶ月で壊滅的な打撃を被った。前線が突破し、ガルーン平野を進撃するローラント軍は6月17日にトランスレモリア軍集団司令部の置かれた街ナコトに到達、20日に陥落させる。司令部機能を失ったトランスレモリア軍集団は統制を失い、各地で潰走した。それらの部隊は大部分が孤立し包囲殲滅され、退却できたのは15個師団に留まった。また、大量のラクサシア軍装備が鹵獲された。戦車の集中運用によって快進撃を続けるローラント軍を、ラクサシア軍は止めることができなかったのだった。
この崩壊するかのように見えた戦線は、トランスレモリア軍集団のガース大佐とダルトゥーマ少将の活躍によってかろうじて食い止められた。ラクサシア空軍機も撤退を支援するために多数投入されたが、メルディア空域でローラント空軍により釘付けにされていた最中であったために戦闘機を送ることができず、制空権を喪失した。その状況で多数の爆撃機、近接航空支援機が投入されたため大きな損害を受けた。
ガース将軍は開戦前より、ローラント軍のシュターデン同様に、これからの戦争は機動力のある戦車や飛行機を駆使した機械化部隊による電撃作戦になることを論じていた。一方のダルトゥーマ将軍は歩兵重視の歩兵戦論者であったが、塹壕戦には消極的な意見を持っていた。しかし、二人の将軍はいずれも開戦前よりローラント軍機械化部隊の脅威について警鐘を鳴らし続けていた。
ガース将軍は撤退に成功した部隊から機甲戦力を抽出、自身の指揮する第6機甲師団に組み込み戦車の数を強化した。そして、その部隊は7月13日にアスラ高原の戦いで戦車の集中運用を実行。高原を南進していたローラント第27機械化歩兵大隊の側面に奇襲攻撃を仕掛け、対戦車攻撃能力に劣る大隊に大損害を与えた。ローラント軍の主力対戦車砲である3.7cm PaK 36ではラクサシア軍中戦車の正面装甲を撃ち抜けなかったのだ。翌日にはローラント軍による8.8cm砲の投入とスツーカの爆撃により戦略的撤退を行った。マイヤーはこの損害に衝撃を受け、以降ローラント軍のロアーヌ峠での進撃はいたって慎重なものとなった。ラクサシア軍は開戦後初めてローラント軍に打撃を与え、進撃を中止させた。この攻勢でトランスレモリア軍集団の稼働戦車の6割を喪失したが、戦線再構築の貴重な時間を稼ぐことができた。
司令部壊滅によりトランスレモリア軍集団の指揮官となったダルトゥーマ将軍は、この時間を利用し対戦車陣地を構築する。この防衛線の出現によりローラント軍は一時侵攻を中止する。しかし、残存兵力で構築された陣地は時間稼ぎのためのものであった。事実、軍上層部はダルトゥーマ将軍の要請を拒否し、トランスレモリア軍集団への兵力増派を行わず、後方のロアーヌ峠にレモリア方面軍20個師団を主体とする防衛線を構築した。
8月1日になると、ローラント軍は増援の到着を受けて60個師団で攻勢を開始、3日までに圧倒的戦力を持って対戦車陣地を容易に粉砕した。15日には要衝ロアーヌ峠へと到達する。ラクサシア側はこの地にあるロアヌス要塞で防衛ができると考えたが、この要塞は降下猟兵の襲撃でまたたく間に制圧された。要塞を失ったレモリア方面軍は地形を利用したモッティ戦術を駆使して一時はローラント軍に打撃を与えるが、ローラント軍の新しい陣形パンツァー・カイルにより効果は薄まっていった。もともとパンツァー・カイルは対戦車陣地突破のためにシュターデンなどにより考案された陣形だが、モッティ戦術に対しても効果があった。これによりラクサシア軍は24日に撤退命令を発令して撤退、敗北する。
絶対防衛線にあたるロアーヌ峠を突破されたことはラクサシア軍上層部に強い衝撃を与えた。ここまでの段階でラクサシア軍の損害は戦死者20万人、負傷者40万で、軍のおよそ4割の戦力を喪失していた。これ以上の防衛が絶望的だと考えた上層部は焦土戦術を利用した撤退戦を行うことを決め、戦闘が行われると予想される地域での根こそぎ動員も行った。
9月1日にはレモリスが陥落、ローラント軍は2つの軍集団に分かれてそれぞれペトラキナ湖東西沿岸を進撃した。東岸を進撃するローラントB軍集団は11日にラクサス近郊へと到達したが、ここでラクサシア軍の激しい抵抗に遭い進撃が停止する。ラクサシア軍はメルディア王国の経済の中心地であるラクサスと古都メルディスを喪失することを恐れ、近衛師団を投入した防衛線を構築していた。ここの部隊には撤退する許可が与えられず、いかなる犠牲を払ってでも死守するように命令されていた。こうして、ニルス川、ラプアの森、アルアスラ高原を結んだ線で激戦地メルディア戦線が生まれた。メルディア戦線は、レグルス攻防戦が始まった後補給が止まり物資が欠乏、人員補填もない中、女学生までもが兵士として駆り出される地獄と化した。
9月18日、マイヤーは捕虜となったラクサシア軍近衛師団将兵の即時処刑を命令し(近衛司令)、この戦争のラクサシア王家に対する戦争という認識を確立させていった。また、ラクサシア軍は報復としてローラント武装親衛隊の即時処刑を命令。これにより捕虜の虐殺が始まり、両軍捕虜の生存率は半分を下回った。
西岸を進撃するベッケンバウアー軍集団はシルフィア半島のシルフィスに退却したシルフィア方面軍12個師団を包囲、10月6日に殲滅する大戦果を上げる。
シルフィア半島を制圧した後、ベッケンバウアー軍集団はセレス山脈沿いに西進する南方軍集団とペトラキナ湖沿いに北上する中央軍集団に別れた。
中央軍集団は抵抗をはねのけつつ進撃し、26日に交通の要衝レグルスに到達する。第3軍がこの街での戦いにおける主力を担い、それを第6装甲軍などが支援する形となった。当初、ベッケンバウアーは補給のためレグルス以外に展開している全部隊の一時進撃停止許可を要請したが、機動戦に絶対的な自信を見出していたマイヤーはこれを拒否し、代わりにペトラキナ川に沿って西に進みファーシルを攻撃するよう命令し、ベッケンバウアーは止むを得ずこれに従った。しかし、ファーシルの遥か手前、難所であるファシリア大森林で侵攻が遅れているところをラクサシア軍の精鋭近衛師団ほか20個師団による執拗な抵抗に会い、さらに雨により生まれた森林の中の泥濘が戦車の侵攻を妨げ、攻撃は失敗に終わった。さらに肝心の第3軍も補給に限界が来ていた。そんな中、ラクサシア軍はレグルスに残存戦力の大部分を集結させて戦闘を行ったため、レグルスはこの戦争中最大の激戦地となった。
南方軍集団は11月にラグンシャ川上流の街イーデル付近へと到達したが、そこで冬が到来し、補給不足により進撃中止を余儀なくされた。
また、この頃ローラント軍は補給線の伸び切りとパルチザンによる戦線後方での妨害により攻勢限界に達していた。
この年まで損害
ラクサシア:戦死、行方不明50万、負傷130万、捕虜70万、民間人死者340万
ローラント:戦死、行方不明15万、負傷80万、捕虜10万
ローラント軍がアーベライン作戦を開始した時、トランスレモリア地域にはラクサシア軍3個軍計50個師団が展開していた。兵力で見ればラクサシア側が上回っていたが、ローラントはここで新戦術電撃戦を行った。防衛線の弱点を大規模な機甲戦力で攻撃し、機械化歩兵と共に敵を包囲殲滅、また移動。さらに、戦車に搭載された高性能の無線機を駆使し、スツーカによる精密な近接航空支援を実施する。シュターデン上級大将の考案したこの戦術は、多くの将校の反対にも関わらず短期間で大戦果をあげた。これにより旧来式のドクトリンで防備にあたっていたトランスレモリア軍集団は1ヶ月で壊滅的な打撃を被った。前線が突破し、ガルーン平野を進撃するローラント軍は6月17日にトランスレモリア軍集団司令部の置かれた街ナコトに到達、20日に陥落させる。司令部機能を失ったトランスレモリア軍集団は統制を失い、各地で潰走した。それらの部隊は大部分が孤立し包囲殲滅され、退却できたのは15個師団に留まった。また、大量のラクサシア軍装備が鹵獲された。戦車の集中運用によって快進撃を続けるローラント軍を、ラクサシア軍は止めることができなかったのだった。
この崩壊するかのように見えた戦線は、トランスレモリア軍集団のガース大佐とダルトゥーマ少将の活躍によってかろうじて食い止められた。ラクサシア空軍機も撤退を支援するために多数投入されたが、メルディア空域でローラント空軍により釘付けにされていた最中であったために戦闘機を送ることができず、制空権を喪失した。その状況で多数の爆撃機、近接航空支援機が投入されたため大きな損害を受けた。
ガース将軍は開戦前より、ローラント軍のシュターデン同様に、これからの戦争は機動力のある戦車や飛行機を駆使した機械化部隊による電撃作戦になることを論じていた。一方のダルトゥーマ将軍は歩兵重視の歩兵戦論者であったが、塹壕戦には消極的な意見を持っていた。しかし、二人の将軍はいずれも開戦前よりローラント軍機械化部隊の脅威について警鐘を鳴らし続けていた。
ガース将軍は撤退に成功した部隊から機甲戦力を抽出、自身の指揮する第6機甲師団に組み込み戦車の数を強化した。そして、その部隊は7月13日にアスラ高原の戦いで戦車の集中運用を実行。高原を南進していたローラント第27機械化歩兵大隊の側面に奇襲攻撃を仕掛け、対戦車攻撃能力に劣る大隊に大損害を与えた。ローラント軍の主力対戦車砲である3.7cm PaK 36ではラクサシア軍中戦車の正面装甲を撃ち抜けなかったのだ。翌日にはローラント軍による8.8cm砲の投入とスツーカの爆撃により戦略的撤退を行った。マイヤーはこの損害に衝撃を受け、以降ローラント軍のロアーヌ峠での進撃はいたって慎重なものとなった。ラクサシア軍は開戦後初めてローラント軍に打撃を与え、進撃を中止させた。この攻勢でトランスレモリア軍集団の稼働戦車の6割を喪失したが、戦線再構築の貴重な時間を稼ぐことができた。
司令部壊滅によりトランスレモリア軍集団の指揮官となったダルトゥーマ将軍は、この時間を利用し対戦車陣地を構築する。この防衛線の出現によりローラント軍は一時侵攻を中止する。しかし、残存兵力で構築された陣地は時間稼ぎのためのものであった。事実、軍上層部はダルトゥーマ将軍の要請を拒否し、トランスレモリア軍集団への兵力増派を行わず、後方のロアーヌ峠にレモリア方面軍20個師団を主体とする防衛線を構築した。
8月1日になると、ローラント軍は増援の到着を受けて60個師団で攻勢を開始、3日までに圧倒的戦力を持って対戦車陣地を容易に粉砕した。15日には要衝ロアーヌ峠へと到達する。ラクサシア側はこの地にあるロアヌス要塞で防衛ができると考えたが、この要塞は降下猟兵の襲撃でまたたく間に制圧された。要塞を失ったレモリア方面軍は地形を利用したモッティ戦術を駆使して一時はローラント軍に打撃を与えるが、ローラント軍の新しい陣形パンツァー・カイルにより効果は薄まっていった。もともとパンツァー・カイルは対戦車陣地突破のためにシュターデンなどにより考案された陣形だが、モッティ戦術に対しても効果があった。これによりラクサシア軍は24日に撤退命令を発令して撤退、敗北する。
絶対防衛線にあたるロアーヌ峠を突破されたことはラクサシア軍上層部に強い衝撃を与えた。ここまでの段階でラクサシア軍の損害は戦死者20万人、負傷者40万で、軍のおよそ4割の戦力を喪失していた。これ以上の防衛が絶望的だと考えた上層部は焦土戦術を利用した撤退戦を行うことを決め、戦闘が行われると予想される地域での根こそぎ動員も行った。
9月1日にはレモリスが陥落、ローラント軍は2つの軍集団に分かれてそれぞれペトラキナ湖東西沿岸を進撃した。東岸を進撃するローラントB軍集団は11日にラクサス近郊へと到達したが、ここでラクサシア軍の激しい抵抗に遭い進撃が停止する。ラクサシア軍はメルディア王国の経済の中心地であるラクサスと古都メルディスを喪失することを恐れ、近衛師団を投入した防衛線を構築していた。ここの部隊には撤退する許可が与えられず、いかなる犠牲を払ってでも死守するように命令されていた。こうして、ニルス川、ラプアの森、アルアスラ高原を結んだ線で激戦地メルディア戦線が生まれた。メルディア戦線は、レグルス攻防戦が始まった後補給が止まり物資が欠乏、人員補填もない中、女学生までもが兵士として駆り出される地獄と化した。
9月18日、マイヤーは捕虜となったラクサシア軍近衛師団将兵の即時処刑を命令し(近衛司令)、この戦争のラクサシア王家に対する戦争という認識を確立させていった。また、ラクサシア軍は報復としてローラント武装親衛隊の即時処刑を命令。これにより捕虜の虐殺が始まり、両軍捕虜の生存率は半分を下回った。
西岸を進撃するベッケンバウアー軍集団はシルフィア半島のシルフィスに退却したシルフィア方面軍12個師団を包囲、10月6日に殲滅する大戦果を上げる。
シルフィア半島を制圧した後、ベッケンバウアー軍集団はセレス山脈沿いに西進する南方軍集団とペトラキナ湖沿いに北上する中央軍集団に別れた。
中央軍集団は抵抗をはねのけつつ進撃し、26日に交通の要衝レグルスに到達する。第3軍がこの街での戦いにおける主力を担い、それを第6装甲軍などが支援する形となった。当初、ベッケンバウアーは補給のためレグルス以外に展開している全部隊の一時進撃停止許可を要請したが、機動戦に絶対的な自信を見出していたマイヤーはこれを拒否し、代わりにペトラキナ川に沿って西に進みファーシルを攻撃するよう命令し、ベッケンバウアーは止むを得ずこれに従った。しかし、ファーシルの遥か手前、難所であるファシリア大森林で侵攻が遅れているところをラクサシア軍の精鋭近衛師団ほか20個師団による執拗な抵抗に会い、さらに雨により生まれた森林の中の泥濘が戦車の侵攻を妨げ、攻撃は失敗に終わった。さらに肝心の第3軍も補給に限界が来ていた。そんな中、ラクサシア軍はレグルスに残存戦力の大部分を集結させて戦闘を行ったため、レグルスはこの戦争中最大の激戦地となった。
南方軍集団は11月にラグンシャ川上流の街イーデル付近へと到達したが、そこで冬が到来し、補給不足により進撃中止を余儀なくされた。
また、この頃ローラント軍は補給線の伸び切りとパルチザンによる戦線後方での妨害により攻勢限界に達していた。
この年まで損害
ラクサシア:戦死、行方不明50万、負傷130万、捕虜70万、民間人死者340万
ローラント:戦死、行方不明15万、負傷80万、捕虜10万
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ローラント軍の7TP。プシェヴォルスク製だがローラント軍にとっては貴重な戦力となった。 |
ラクサシア軍は自軍の損害以上にローラント軍が損害を出していると考え、西部戦線で冬季攻勢を行った。この攻勢はイーデル方面などで局地的な成功を収め、シェフィル司教軍などがカシア盆地手前まで戦線を押し戻した。しかし、いまだ強力な戦力を保持したローラント軍を打ち破るには、ラクサシア軍の戦力は質的にも量的にもまだ十分でなく、3月には部隊の疲弊とローラント軍の総反撃により作戦は頓挫して戦線は膠着した。損害は大きかったものの、ラクサシア軍はローラント軍を後退させたことにより、失いかけていた自信を回復することができ、ローラント陸軍の無敵の神話は破られた。この年からラクサシア軍は新型戦車であるB1bisを前線に投入し、ローラント軍機甲戦力の優位を一時的に失わせたが、それはティーガーの登場により再び覆ることとなった。
前年の作戦により、ローラントの地上戦力の限界が露見した。生産力の上限から広大な戦線での損害を埋めることも、補給することも困難な状況であることが明確になったのだ。1941年のローラント軍攻勢は限られた戦力によるものとなり、成功すれば効果的ではあるが非常に危険を伴う作戦であった。こうして純軍事的目的ではなく、マイヤーの言う戦争経済の元に計画が建てられた。6月11日、西部戦線にて、ラグンシャ川への到達とシルトリカ地方の石油資源の獲得により、総力戦であるこの戦争を今後有利に進めることを目的としたリーリエ作戦が発動される。作戦開始当初は快進撃が続き、7月25日にはマイヤーが「(作戦の目標は)大部分が達成された」と明言するほどであった。しかしラクサシア軍は事前にローラント軍の暗号を解読して攻撃開始後の撤退に備えており、彼らの撤退速度は早く、前年にあったような包囲殲滅がされることもなければ、重火器の放棄もない、ラクサシア軍の兵・装備上の損害が伴わないものであった。7月28日、ラクサシア軍は有名な命令「一歩も引くな!」を発し、全戦線における抵抗を命じた。シルトリカの油田地帯に向かったローラントの南方軍集団は油田のあるシルトリカを占領したが、油田はすでにラクサシア軍により火をつけられていた。次に南方軍集団は油田のある南の沿岸都市ニャルラに向かったが、進軍するにつれて補給路が伸び、燃料不足とルワルワ高地に立てこもるラクサシア軍の抵抗により進軍は停止した。
メルディア戦線のラクサシア軍では装備が不足し、日に日に戦闘力が低下していた。一方のローラント軍も補給が疎かになってはいたものの、ティーガーなどの強力な新兵器を配備し始めていた。マイヤーはメルディア戦線を突破すべく、再び装甲戦力の集中投入による電撃戦を用いたラクサスへの到達を目標とするヴァイスローゼ作戦を計画。4月27日、麾下の30個師団を以ってニルス川北岸一帯を制圧し一気に決着をつけようとした。しかし、近衛師団9個を中核とした53個師団のラクサシア軍の士気は高く、徴兵された新兵らによる火炎瓶や爆薬などを用いた、自殺行為にも似た対戦車肉薄攻撃により近接攻撃力と機動性に欠けるティーガーなどの戦車は予想を遥かに上回る激しい抵抗に会い、レグルス東部でニルス川渡河を成功させ、ラクサシア軍の防衛線を局地的に突破した以外に目立った戦果は上がらなかった。ローラント軍は9月6日に作戦中止を命令し、メルディア戦線を決着させることはできなかった。ただ、ティーガーはこの戦いでその性能を大いに誇示し、ラクサシア軍にはティーガー恐怖症と呼ばれるトラウマが生まれた。この戦いで全損となった19両のティーガーのうち、8両はエンジントラブルによるもの、5両は対戦車地雷によるもの、5両は車内への火炎瓶攻撃によるもので、敵戦車によって撃破されたものは6両の敵戦車と2門の対戦車砲からの集中攻撃を受け、操縦手窓を撃ち抜かれた1両のみであった。ヴァイス作戦ではラクサシア軍の損害も大きく、この戦いだけで8万人の死者と9万人の負傷者を出した。開戦前よりいた正規兵の数は全体の4割まで落ち込み、残りの兵員は現地の予備役兵や根こそぎ動員で徴収された21歳〜40歳までの成人で編成されていた。その部隊が今回の戦いで大きな損害を出したので、兵力の不足を補うためにメルディア軍集団は徴兵対象を14歳〜60歳までの男女全員とした。この決定により多数の学生が最優先で前線に駆り出されることとなった。この人的資源の不足はローラント側も感づいており、メルディア戦線後部の街は無差別空襲を受け、多数の民間人の死者を出した。
レグルスに向かったローラントの第3軍は市の大部分を制圧したもののラクサシア軍の頑強な抵抗により一年以上も市街戦を続けていた。このような中で、ラクサシア軍は極秘のうちに大規模な反攻包囲作戦の準備を進めていた。作戦は11月19日に開始され、包囲に感づいた第3軍のホフマン元帥の撤退要請をマイヤーが拒否したことにより、レグルスのローラント軍は補給路を切断されて包囲されることになった。ローラント軍は空輸による物資補給を行ったが、空軍による物資補給は必要量を届けることができず、包囲されたローラント軍は日ごとに衰耗していった。マイヤーは包囲直後、第3軍にレグルスの死守を命令したが、国家社会主義党の事実上のトップ2であった武装親衛隊隊長のローデリヒ・ツァイラーなどは救出作戦の実行を強く主張し、長い協議の末救出作戦の実行が決定された。作戦名はローエングリン作戦であり、ベッケンバウアー元帥が指揮を執った。作戦に参加した4個師団のうち半分はローラント本国で装備の更新を受けており、ティーガーを装備している部隊もあったが絶対数は少なく、ほとんどがIV号戦車とIII号戦車であった。作戦は最初こそ成功したもののすぐにラクサシア軍の膨大な戦力により停滞し、ローラント中央軍集団はいたずらに戦力を損失した上、第3軍の降伏は時間の問題となった。
海上ではローラント軍のUボートが本格的にラクサシア領海での無制限通商破壊作戦を開始し、多数のラクサシア民間船および国外からの貿易船が撃沈された。
この年まで損害
ラクサシア:戦死、行方不明90万、負傷320万、捕虜80万、民間人死者830万
ローラント:戦死、行方不明50万、負傷120万、捕虜20万
前年の作戦により、ローラントの地上戦力の限界が露見した。生産力の上限から広大な戦線での損害を埋めることも、補給することも困難な状況であることが明確になったのだ。1941年のローラント軍攻勢は限られた戦力によるものとなり、成功すれば効果的ではあるが非常に危険を伴う作戦であった。こうして純軍事的目的ではなく、マイヤーの言う戦争経済の元に計画が建てられた。6月11日、西部戦線にて、ラグンシャ川への到達とシルトリカ地方の石油資源の獲得により、総力戦であるこの戦争を今後有利に進めることを目的としたリーリエ作戦が発動される。作戦開始当初は快進撃が続き、7月25日にはマイヤーが「(作戦の目標は)大部分が達成された」と明言するほどであった。しかしラクサシア軍は事前にローラント軍の暗号を解読して攻撃開始後の撤退に備えており、彼らの撤退速度は早く、前年にあったような包囲殲滅がされることもなければ、重火器の放棄もない、ラクサシア軍の兵・装備上の損害が伴わないものであった。7月28日、ラクサシア軍は有名な命令「一歩も引くな!」を発し、全戦線における抵抗を命じた。シルトリカの油田地帯に向かったローラントの南方軍集団は油田のあるシルトリカを占領したが、油田はすでにラクサシア軍により火をつけられていた。次に南方軍集団は油田のある南の沿岸都市ニャルラに向かったが、進軍するにつれて補給路が伸び、燃料不足とルワルワ高地に立てこもるラクサシア軍の抵抗により進軍は停止した。
メルディア戦線のラクサシア軍では装備が不足し、日に日に戦闘力が低下していた。一方のローラント軍も補給が疎かになってはいたものの、ティーガーなどの強力な新兵器を配備し始めていた。マイヤーはメルディア戦線を突破すべく、再び装甲戦力の集中投入による電撃戦を用いたラクサスへの到達を目標とするヴァイスローゼ作戦を計画。4月27日、麾下の30個師団を以ってニルス川北岸一帯を制圧し一気に決着をつけようとした。しかし、近衛師団9個を中核とした53個師団のラクサシア軍の士気は高く、徴兵された新兵らによる火炎瓶や爆薬などを用いた、自殺行為にも似た対戦車肉薄攻撃により近接攻撃力と機動性に欠けるティーガーなどの戦車は予想を遥かに上回る激しい抵抗に会い、レグルス東部でニルス川渡河を成功させ、ラクサシア軍の防衛線を局地的に突破した以外に目立った戦果は上がらなかった。ローラント軍は9月6日に作戦中止を命令し、メルディア戦線を決着させることはできなかった。ただ、ティーガーはこの戦いでその性能を大いに誇示し、ラクサシア軍にはティーガー恐怖症と呼ばれるトラウマが生まれた。この戦いで全損となった19両のティーガーのうち、8両はエンジントラブルによるもの、5両は対戦車地雷によるもの、5両は車内への火炎瓶攻撃によるもので、敵戦車によって撃破されたものは6両の敵戦車と2門の対戦車砲からの集中攻撃を受け、操縦手窓を撃ち抜かれた1両のみであった。ヴァイス作戦ではラクサシア軍の損害も大きく、この戦いだけで8万人の死者と9万人の負傷者を出した。開戦前よりいた正規兵の数は全体の4割まで落ち込み、残りの兵員は現地の予備役兵や根こそぎ動員で徴収された21歳〜40歳までの成人で編成されていた。その部隊が今回の戦いで大きな損害を出したので、兵力の不足を補うためにメルディア軍集団は徴兵対象を14歳〜60歳までの男女全員とした。この決定により多数の学生が最優先で前線に駆り出されることとなった。この人的資源の不足はローラント側も感づいており、メルディア戦線後部の街は無差別空襲を受け、多数の民間人の死者を出した。
レグルスに向かったローラントの第3軍は市の大部分を制圧したもののラクサシア軍の頑強な抵抗により一年以上も市街戦を続けていた。このような中で、ラクサシア軍は極秘のうちに大規模な反攻包囲作戦の準備を進めていた。作戦は11月19日に開始され、包囲に感づいた第3軍のホフマン元帥の撤退要請をマイヤーが拒否したことにより、レグルスのローラント軍は補給路を切断されて包囲されることになった。ローラント軍は空輸による物資補給を行ったが、空軍による物資補給は必要量を届けることができず、包囲されたローラント軍は日ごとに衰耗していった。マイヤーは包囲直後、第3軍にレグルスの死守を命令したが、国家社会主義党の事実上のトップ2であった武装親衛隊隊長のローデリヒ・ツァイラーなどは救出作戦の実行を強く主張し、長い協議の末救出作戦の実行が決定された。作戦名はローエングリン作戦であり、ベッケンバウアー元帥が指揮を執った。作戦に参加した4個師団のうち半分はローラント本国で装備の更新を受けており、ティーガーを装備している部隊もあったが絶対数は少なく、ほとんどがIV号戦車とIII号戦車であった。作戦は最初こそ成功したもののすぐにラクサシア軍の膨大な戦力により停滞し、ローラント中央軍集団はいたずらに戦力を損失した上、第3軍の降伏は時間の問題となった。
海上ではローラント軍のUボートが本格的にラクサシア領海での無制限通商破壊作戦を開始し、多数のラクサシア民間船および国外からの貿易船が撃沈された。
この年まで損害
ラクサシア:戦死、行方不明90万、負傷320万、捕虜80万、民間人死者830万
ローラント:戦死、行方不明50万、負傷120万、捕虜20万
1942年1月後半、レグルスで包囲されていた第3軍およびその他の支援軍は、ホフマン元帥の決断により投降し生き残った者は全員が捕虜となった。捕虜となったローラント兵を待ち受けていたラクサシアの待遇は、かつて彼らが行なったものと同じだった。レグルスを奪還されたことで自信に満ちたフォンタニエはペトラキナ川からローラント軍を一掃し、そのまま攻勢の続行を命じてカシアの奪還に成功したが、ローラント陸軍最大の頭脳と呼ばれたベッケンバウアー元帥の素早い撤退と再編成によりローラント軍は体制を立て直し、ラクサシア軍の補給が切れるとすぐにカシア一帯で反撃を開始、再びデルペ高地の北西まで戦線を押し返しカシアを再占領した。
一方、シルトリカで進軍が止まっていた南方軍集団は、本国で補給を行い兵力を増強した後に進撃を再開した。ティーガーよりも生産性に長け同レベルの性能を持つパンター戦車もこの時初めて前線に投入された。再編成されたC軍集団はルワルワ高地に立てこもるラクサシア第5軍を破り、ニャルラへと到達した。このことはローラントにおいて「我が軍はついにシローキ海へと到達した!」として大いに宣伝された。さらに南方軍集団はそこから北上を開始し、ラクサシア二番目の港湾都市フェリアを陥落させる。カルフェも陥落させ、ニャルラ平原、ルワルワ高地一帯を制圧したローラント南方軍集団はラグンシャ川を挟んでラクサシア軍と対峙し、ラグンシャ川南岸を完全に制圧したことでヴァイスローゼ作戦は最終的な成功を収める。南方軍集団はここで補給を行い次の命令を待った。
レグルスの勝利は、ラクサシア軍にとって勝利への自信を持たせるに至った。ラクサシアの将軍で、レグルス攻防戦を指揮したハスラ・アルフォートは、「ローラント軍といえども無敵ではないのだ。彼らも同じ人間である以上必ず勝つことができる。この確信を持てたことが決定的に重要であった。レグルス後も、ラクサシアにいるローラント軍は強大であり、これを撃退できるかどうか予測はできなかった。が、我々でもローラント軍を撃破できるとの確信を持てたこと。その効果こそが、限りなく大きかった。」と、レグルスの勝利を評価している。
ローラント軍ではメルディア戦線と、レグルスにおける血みどろの市街地戦の戦訓により、様々な戦闘車両が生み出される事となった。ラクサシア軍の戦車に対抗するためティーガーやパンターといった機動力を犠牲にした攻防力重視の重量戦車が運用され、エンジンの信頼性と稼働率は著しく低下した。
マイヤーはメルディス攻略に特別な感情を抱いていた。千年以上に渡ってメルディア王国の中心として栄えたラクサシア人の文化の中心地であるメルディスを陥落させることは、ラクサシア民族の破滅を意味すると確信していたのだ。1942年8月後半、ローラント軍の第4航空師団と第17SS武装山岳猟兵師団はメルディア山脈経由でアルアスラ高原からメルディア戦線の側面に奇襲攻撃を仕掛け、メルディス攻略を目的としたリーリエ作戦を開始し、メルディア戦線北部の第2軍もそれに続いた。彼らは一時はメルディスを包囲し、メルディア戦線を崩壊させる勢いであった。しかし、空軍傘下の降下猟兵と陸軍傘下の山岳猟兵は思うように連携が取れず、第2軍に対する反撃も相まって次第にその勢いは弱まっていった。
ラクサシア軍は、ローラント軍のリーリエ作戦での兵力を分散されるためファルケンベルク北部に奇襲上陸を行なった。中立国である夏海風の参戦に備えた最低限の兵力しか配置されていなかった東海岸に上陸されパニックに陥ったマイヤーはヤークトフント作戦の中止とB軍集団からの戦力引き抜き、東海岸でのラクサシア軍に対する大規模な反攻作戦を命令し、結果的に上陸部隊はすぐに制圧され東海岸は防衛されたものの、リーリエ作戦の中止により最終的にはラクサシア軍の戦略的勝利となった。
また、ローラント軍の北方軍集団の目が東海岸に向き、南方軍集団が補給を行い待機している間にラクサシア軍は部隊の再編成を実行。損耗を受けた部隊への補充を行う傍らで新たに多数の歩兵師団を編成し、さらに機甲師団や機械化歩兵師団を編成して来るべき戦いに備えた。
この年まで損害
ラクサシア:戦死、行方不明130万、負傷390万、捕虜83万、民間人死者890万
ローラント:戦死、行方不明70万、負傷220万、捕虜32万
一方、シルトリカで進軍が止まっていた南方軍集団は、本国で補給を行い兵力を増強した後に進撃を再開した。ティーガーよりも生産性に長け同レベルの性能を持つパンター戦車もこの時初めて前線に投入された。再編成されたC軍集団はルワルワ高地に立てこもるラクサシア第5軍を破り、ニャルラへと到達した。このことはローラントにおいて「我が軍はついにシローキ海へと到達した!」として大いに宣伝された。さらに南方軍集団はそこから北上を開始し、ラクサシア二番目の港湾都市フェリアを陥落させる。カルフェも陥落させ、ニャルラ平原、ルワルワ高地一帯を制圧したローラント南方軍集団はラグンシャ川を挟んでラクサシア軍と対峙し、ラグンシャ川南岸を完全に制圧したことでヴァイスローゼ作戦は最終的な成功を収める。南方軍集団はここで補給を行い次の命令を待った。
レグルスの勝利は、ラクサシア軍にとって勝利への自信を持たせるに至った。ラクサシアの将軍で、レグルス攻防戦を指揮したハスラ・アルフォートは、「ローラント軍といえども無敵ではないのだ。彼らも同じ人間である以上必ず勝つことができる。この確信を持てたことが決定的に重要であった。レグルス後も、ラクサシアにいるローラント軍は強大であり、これを撃退できるかどうか予測はできなかった。が、我々でもローラント軍を撃破できるとの確信を持てたこと。その効果こそが、限りなく大きかった。」と、レグルスの勝利を評価している。
ローラント軍ではメルディア戦線と、レグルスにおける血みどろの市街地戦の戦訓により、様々な戦闘車両が生み出される事となった。ラクサシア軍の戦車に対抗するためティーガーやパンターといった機動力を犠牲にした攻防力重視の重量戦車が運用され、エンジンの信頼性と稼働率は著しく低下した。
マイヤーはメルディス攻略に特別な感情を抱いていた。千年以上に渡ってメルディア王国の中心として栄えたラクサシア人の文化の中心地であるメルディスを陥落させることは、ラクサシア民族の破滅を意味すると確信していたのだ。1942年8月後半、ローラント軍の第4航空師団と第17SS武装山岳猟兵師団はメルディア山脈経由でアルアスラ高原からメルディア戦線の側面に奇襲攻撃を仕掛け、メルディス攻略を目的としたリーリエ作戦を開始し、メルディア戦線北部の第2軍もそれに続いた。彼らは一時はメルディスを包囲し、メルディア戦線を崩壊させる勢いであった。しかし、空軍傘下の降下猟兵と陸軍傘下の山岳猟兵は思うように連携が取れず、第2軍に対する反撃も相まって次第にその勢いは弱まっていった。
ラクサシア軍は、ローラント軍のリーリエ作戦での兵力を分散されるためファルケンベルク北部に奇襲上陸を行なった。中立国である夏海風の参戦に備えた最低限の兵力しか配置されていなかった東海岸に上陸されパニックに陥ったマイヤーはヤークトフント作戦の中止とB軍集団からの戦力引き抜き、東海岸でのラクサシア軍に対する大規模な反攻作戦を命令し、結果的に上陸部隊はすぐに制圧され東海岸は防衛されたものの、リーリエ作戦の中止により最終的にはラクサシア軍の戦略的勝利となった。
また、ローラント軍の北方軍集団の目が東海岸に向き、南方軍集団が補給を行い待機している間にラクサシア軍は部隊の再編成を実行。損耗を受けた部隊への補充を行う傍らで新たに多数の歩兵師団を編成し、さらに機甲師団や機械化歩兵師団を編成して来るべき戦いに備えた。
この年まで損害
ラクサシア:戦死、行方不明130万、負傷390万、捕虜83万、民間人死者890万
ローラント:戦死、行方不明70万、負傷220万、捕虜32万
1943年7月20日にローラント軍はロイバルト作戦を開始する。これにより中央軍集団70個師団、北方軍集団50個師団、南方軍集団90個師団の計210個師団による同時大攻勢が行われた。この作戦は膠着した戦線を打破し、一気にラクサシア首都リーアを攻め落とすために行われた。だが、この作戦を行った背景にはローラント側の予備兵力が確保できなくなりつつあり、これ以上すると攻勢を行うことすらままならなくなるという判断があった。
中央軍集団はデルペ高地より攻勢を開始、陽動のために一部の部隊をレグルスに向かわせた後、レグルス山脈南西のペトラキナ川沿岸へ主力を投入して戦線を突破後渡河し、リーアまで十数キロの地点まで迫った。しかし、リーア郊外でラクサシア軍は猛烈な抵抗を見せ、温存してあった砲兵、航空戦力などを最大限投入し、中央軍集団の機甲部隊は砲撃と地雷原、爆撃によりそれ以上の進撃が不可能なった。そこに冬が到来し、多くの兵士が凍死し不整地道路のぬかるみにより戦車が行動不能となる中で多くの司令官が撤退許可を要請したが、敵国の首都を目の前にしたマイヤーは撤退を断固拒否し、撤退許可の要請を繰り返したゾルガー元帥などを更迭した。北方軍集団は攻勢を行い遂にラクサスを占領したものの、それ以上の突破には失敗し、再び膠着状態に陥った。
そして、この攻勢で一番激しい戦いを行ったのはグリーベル元帥率いる南方軍集団で、ラグンシャ川を渡河したあとルワルワ平原へと進撃、そこでラグンシャ軍集団70個師団と衝突した。ルワルワ平原の戦いの最中、この戦争で最大の戦車戦であるコルスカ会戦が起き、ローラント軍の精鋭機甲師団は当初ラクサシア軍機甲師団を蹂躙しながらも、ラクサシア軍の強固な対戦車防御陣地と膨大な戦力差の前に敗れ、コルスカから撤退する。さらに物資の補給の滞りも重なり、進撃は11月27日に完全に停止した。その後、ラクサシア軍によって強固な防衛線が構築されたこと、予備兵力が底をついたこと、さらに冬が到来したことが重なり作戦は中止された。
この戦いでラクサシア軍はローラント軍が完全に攻勢限界に達したことを見破り、翌年に反撃することを決定する。
この年まで損害
ラクサシア:戦死、行方不明230万、負傷590万、捕虜85万、民間人死者910万
ローラント:戦死、行方不明140万、負傷320万、捕虜49万
中央軍集団はデルペ高地より攻勢を開始、陽動のために一部の部隊をレグルスに向かわせた後、レグルス山脈南西のペトラキナ川沿岸へ主力を投入して戦線を突破後渡河し、リーアまで十数キロの地点まで迫った。しかし、リーア郊外でラクサシア軍は猛烈な抵抗を見せ、温存してあった砲兵、航空戦力などを最大限投入し、中央軍集団の機甲部隊は砲撃と地雷原、爆撃によりそれ以上の進撃が不可能なった。そこに冬が到来し、多くの兵士が凍死し不整地道路のぬかるみにより戦車が行動不能となる中で多くの司令官が撤退許可を要請したが、敵国の首都を目の前にしたマイヤーは撤退を断固拒否し、撤退許可の要請を繰り返したゾルガー元帥などを更迭した。北方軍集団は攻勢を行い遂にラクサスを占領したものの、それ以上の突破には失敗し、再び膠着状態に陥った。
そして、この攻勢で一番激しい戦いを行ったのはグリーベル元帥率いる南方軍集団で、ラグンシャ川を渡河したあとルワルワ平原へと進撃、そこでラグンシャ軍集団70個師団と衝突した。ルワルワ平原の戦いの最中、この戦争で最大の戦車戦であるコルスカ会戦が起き、ローラント軍の精鋭機甲師団は当初ラクサシア軍機甲師団を蹂躙しながらも、ラクサシア軍の強固な対戦車防御陣地と膨大な戦力差の前に敗れ、コルスカから撤退する。さらに物資の補給の滞りも重なり、進撃は11月27日に完全に停止した。その後、ラクサシア軍によって強固な防衛線が構築されたこと、予備兵力が底をついたこと、さらに冬が到来したことが重なり作戦は中止された。
この戦いでラクサシア軍はローラント軍が完全に攻勢限界に達したことを見破り、翌年に反撃することを決定する。
この年まで損害
ラクサシア:戦死、行方不明230万、負傷590万、捕虜85万、民間人死者910万
ローラント:戦死、行方不明140万、負傷320万、捕虜49万
コルスカ会戦でのローラント軍のパンター |
1944年1月14日、ラクサシア軍はアルテミス作戦を発動、ラグンシャ軍集団及び海空軍を投入してローラントC軍集団に猛攻撃を加えた。続いてメルディア方面軍25個師団が冬季攻勢であるにもかかわらずB軍集団に攻撃を行った。ただ、こちらの攻撃はローラント軍の防衛線により辛くも撃退された。予期していなかったラクサシア軍の奇襲反撃を受け、ローラントC軍集団は大きな衝撃を受けた。西部におけるラクサシア軍の攻勢を警戒したローラント軍は、A軍集団から戦力を抽出し、C軍集団へと転用した。しかし、この攻勢は陽動作戦だった。
そして、ローラントがラクサシアに侵攻を開始してからちょうど4年目の5月7日に、ラクサシア軍は一大反攻作戦であるペトラキナ作戦を発動した。ローラント軍は当初攻勢は西部戦線と予測しており、ラクサシア軍の欺瞞作戦の効果もあって対応が後手に回ることになった。ラクサシア軍は、かつてのローラント軍が得意としていた陸空一体の電撃戦を展開。さらに、事実上突破不可能と思われていたファシリア大森林を踏破したラクサシア軍精鋭部隊がローラント軍側面を強襲し、混乱に拍車をかけた。新兵器を装備したラクサシア軍の戦闘力の前に攻撃を受けたA軍集団は敗北し、これまでにラクサシア軍戦車171両を撃破したローラントの最優秀戦車エースであるライナー・ゴーゼブルホSS大尉もパンターの側面を撃たれ戦死した。マイヤーの厳命により撤退すら出来ない部隊はもはや機動戦すら出来ず個別に撃破されるという、開戦時と立場が逆転したのではないかというような状況となり、ローラントA軍集団は事実上壊滅。残存部隊は本土まで撤退したが、その数は軍集団全体の3/4にすぎなかった。
この作戦の結果、ローラント軍は主力のC軍集団が包囲の危機に晒され、グリーベル元帥は今後の戦いで戦力を確保するためマイヤーの命令に背き撤退作戦を実行。これにより戦線の北部を担当していたほとんどの部隊は北東への撤退に成功したが、南部の部隊の運命は悲惨であった。そこではラクサシア軍の大部隊が包囲を試みて海岸沿いに猛攻撃を加えており、そこを奪取されれば軍集団全体が包囲されかねず、彼らは撤退の機会を完全に失ったのである。この事は作戦前からグリーベル元帥も懸念していたが、南部で主力を担うよう要請された第7軍の司令官タイヒマン元帥は”Ohne Opfer kein Erfolg.(犠牲無くして成功無し)”という有名な言葉を残し、この任務を引き受けた。これによりグリーベル元帥の本隊を含むほとんどの部隊が脱出に成功したが、南部の第7軍、第12軍、第9装甲軍は大きな損害を被り、生き残った部隊はラクサシア南部の街ニャルラに撤退し、海軍による救出を要請した。これにより、タンホイザー海軍元帥指揮の下、ローラント・シローキ洋艦隊が出撃し、ピンディガ大陸南洋を経由後ニャルラのC軍集団残存部隊を救出するヴォーダン作戦が開始された。シローキ洋艦隊は順調にピンディガ大陸南洋を航行したが、暗号を解読したラクサシア海軍の待ち伏せに会い、南ピンディガ沖海戦が勃発。空母1、軽巡2、駆逐4を失う大敗を喫する。さらに敗走する残存部隊がラクサシア海軍の追撃にあい、戦艦シャルンホルストが沈没する。結局本土に期間できたのは空母1、重巡1、軽巡3、駆逐5のみで、望みを失った部隊は9月28日に降伏し、司令官であるタイヒマン元帥は隷下の部隊のラクサシア軍への投降を見届けたあと、ニャルラ郊外の森で自らの命を絶った。この段階でローラント軍の侵攻作戦の継続はほぼ不可能となり、以後絶望的な戦いを余儀なくされる。
100個師団を超えるラクサシア軍が押し寄せ、B軍集団は包囲される可能性が高まったため、退却することを決定。メルディア戦線から撤退した。
こうして、地獄のメルディア戦線はラクサシア側の勝利で終わる。
武装SSを中心とするA軍集団残存兵力が決死の抵抗を行ったことで、ルルの戦いでローラント軍は退路の防衛に成功し、A軍集団のさらなる大損害と引き換えにB軍集団及びC軍集団残存部隊はロアーヌ峠を超えて撤退することに成功する。
空ではラクサシア軍の新型戦闘機がローラント軍のBf109やFw190を完全に駆逐し、ローラント軍からヤーボと呼ばれた攻撃機がローラント機甲師団を空から襲撃した。
ロアーヌ峠は10月にラクサシア軍が奪還、先鋒を務める第1装甲軍は峠を超えてトランスレモリア地域へ進撃し、ローラント軍の防衛戦を打ち破った。
この年まで損害
ラクサシア:戦死、行方不明290万、負傷720万、捕虜89万、民間人死者940万
ローラント:戦死、行方不明230万、負傷520万、捕虜110万
そして、ローラントがラクサシアに侵攻を開始してからちょうど4年目の5月7日に、ラクサシア軍は一大反攻作戦であるペトラキナ作戦を発動した。ローラント軍は当初攻勢は西部戦線と予測しており、ラクサシア軍の欺瞞作戦の効果もあって対応が後手に回ることになった。ラクサシア軍は、かつてのローラント軍が得意としていた陸空一体の電撃戦を展開。さらに、事実上突破不可能と思われていたファシリア大森林を踏破したラクサシア軍精鋭部隊がローラント軍側面を強襲し、混乱に拍車をかけた。新兵器を装備したラクサシア軍の戦闘力の前に攻撃を受けたA軍集団は敗北し、これまでにラクサシア軍戦車171両を撃破したローラントの最優秀戦車エースであるライナー・ゴーゼブルホSS大尉もパンターの側面を撃たれ戦死した。マイヤーの厳命により撤退すら出来ない部隊はもはや機動戦すら出来ず個別に撃破されるという、開戦時と立場が逆転したのではないかというような状況となり、ローラントA軍集団は事実上壊滅。残存部隊は本土まで撤退したが、その数は軍集団全体の3/4にすぎなかった。
この作戦の結果、ローラント軍は主力のC軍集団が包囲の危機に晒され、グリーベル元帥は今後の戦いで戦力を確保するためマイヤーの命令に背き撤退作戦を実行。これにより戦線の北部を担当していたほとんどの部隊は北東への撤退に成功したが、南部の部隊の運命は悲惨であった。そこではラクサシア軍の大部隊が包囲を試みて海岸沿いに猛攻撃を加えており、そこを奪取されれば軍集団全体が包囲されかねず、彼らは撤退の機会を完全に失ったのである。この事は作戦前からグリーベル元帥も懸念していたが、南部で主力を担うよう要請された第7軍の司令官タイヒマン元帥は”Ohne Opfer kein Erfolg.(犠牲無くして成功無し)”という有名な言葉を残し、この任務を引き受けた。これによりグリーベル元帥の本隊を含むほとんどの部隊が脱出に成功したが、南部の第7軍、第12軍、第9装甲軍は大きな損害を被り、生き残った部隊はラクサシア南部の街ニャルラに撤退し、海軍による救出を要請した。これにより、タンホイザー海軍元帥指揮の下、ローラント・シローキ洋艦隊が出撃し、ピンディガ大陸南洋を経由後ニャルラのC軍集団残存部隊を救出するヴォーダン作戦が開始された。シローキ洋艦隊は順調にピンディガ大陸南洋を航行したが、暗号を解読したラクサシア海軍の待ち伏せに会い、南ピンディガ沖海戦が勃発。空母1、軽巡2、駆逐4を失う大敗を喫する。さらに敗走する残存部隊がラクサシア海軍の追撃にあい、戦艦シャルンホルストが沈没する。結局本土に期間できたのは空母1、重巡1、軽巡3、駆逐5のみで、望みを失った部隊は9月28日に降伏し、司令官であるタイヒマン元帥は隷下の部隊のラクサシア軍への投降を見届けたあと、ニャルラ郊外の森で自らの命を絶った。この段階でローラント軍の侵攻作戦の継続はほぼ不可能となり、以後絶望的な戦いを余儀なくされる。
100個師団を超えるラクサシア軍が押し寄せ、B軍集団は包囲される可能性が高まったため、退却することを決定。メルディア戦線から撤退した。
こうして、地獄のメルディア戦線はラクサシア側の勝利で終わる。
武装SSを中心とするA軍集団残存兵力が決死の抵抗を行ったことで、ルルの戦いでローラント軍は退路の防衛に成功し、A軍集団のさらなる大損害と引き換えにB軍集団及びC軍集団残存部隊はロアーヌ峠を超えて撤退することに成功する。
空ではラクサシア軍の新型戦闘機がローラント軍のBf109やFw190を完全に駆逐し、ローラント軍からヤーボと呼ばれた攻撃機がローラント機甲師団を空から襲撃した。
ロアーヌ峠は10月にラクサシア軍が奪還、先鋒を務める第1装甲軍は峠を超えてトランスレモリア地域へ進撃し、ローラント軍の防衛戦を打ち破った。
この年まで損害
ラクサシア:戦死、行方不明290万、負傷720万、捕虜89万、民間人死者940万
ローラント:戦死、行方不明230万、負傷520万、捕虜110万
1月からはラクサシア軍がガルーン攻勢を行い、2月2日までにガルーン平野を奪回した。これにより、ラクサシアは国土からすべてのローラント軍を放逐した。2月14日にはローラント領内のエーベル=ファーレンホルストへの侵攻を開始、ザウアー占領後はさらに北進し、3月までにザウアーの南からローデンヴァルトのアルムホルトまでを支配下におく。ローラントは戦争序盤のラクサシアのように根こそぎ動員を行って侵攻を食い止めようとしたが、圧倒的な戦力の前に撤退を余儀なくされる。
4月11日、ローデンヴァルト防衛の失敗でローラント軍が完全に戦力不足に陥ったことを察したラクサシア軍は圧倒的な砲爆撃による支援の下、テニッセンに上陸し、10日以内にグレーデン平野を制圧。そのまま北上し、ツェルター川を渡河する。
しかしその後、ローラント軍は、グナイゼナウ元帥の巧みな指揮と武装親衛隊の決死の抵抗により、西部戦線でルーベンの防衛に成功する。4月22日、ルーベンおよびフォクトシュタットからローラント軍がフレーミヒへ攻勢(ジークフリート作戦)を行う。この作戦は、フレーミヒで補給のため待機しているラクサシア軍主力部隊を包囲殲滅し、南東部に上陸したラクサシア軍部隊との決戦に備えるべくグナイゼナウ元帥の第4SS装甲軍とハッセルバッハ元帥の第8軍により実行された。温存してあった予備燃料が使われ、この戦争中最強の戦車と名高いティーガー2が主力を担ったことからもローラント軍がこの作戦に全てを賭けていたことが伺える。フレーミヒ北部の森林地帯に展開していたラクサシア軍部隊は完全に油断しており、ろくに攻撃対策を取っていなかったためすぐに殲滅された。しかし、砲撃が不足した状態でフレーミヒ市街地に入ったローラント軍戦車部隊はラクサシア軍戦車部隊の待ち伏せを受け大きな損害を受けた。ラクサシア軍のオービニエ元帥は直ちに西から大部隊を送り、フレーミヒのローラント軍を包囲した。彼は作戦前から彼特有の勘でローラント軍が何か大規模な攻撃作戦を行おうとしていることに感づいており、配下の部隊にフレーミヒへの移動の準備を行わせていた。包囲された攻撃部隊は5月3日に降伏し、作戦は失敗に終わった。
ローラント本土は連日のようにラクサシア空軍の無差別空襲を受けるようになり、テニッセン、ダールベルク、ティールをはじめとする大都市は廃墟と化し、多くの歴史的建造物が失われた。ローラント軍は当時最先端のジェット戦闘機であったMe262でこれを迎撃したが、ラクサシア空軍の勢いが治まることはなかった。ローラント軍は報復兵器としてV2ロケットを運用し、ラクサシア本土への報復攻撃を行った。V2ロケットはそれなりの損害を与えられたものの、そもそも絶対数が少なく、研究施設や工場も次々に空襲で破壊されたため攻撃の回数は少なくなっていった。
フレーミヒでのローラント軍の敗北後はラクサシア軍の攻撃でローラント軍は各地で殲滅され、5月16日には首都アンカーブルク前方70kmにラクサシア軍が到達する。ローラント軍は必死の抵抗を行ったが、さらに5月19日には既にツェルター川渡河を終えていたテニッセン上陸部隊が東から挟み撃ちを仕掛け、包囲網の構築を開始した。5月30日にはラクサシア軍のアンカーブルク侵入を許し、壮絶な市街戦が起こった。6月1日にはオービニエ元帥指揮の元、正式にアンカーブルク総攻撃が開始される。アンカーブルクでは街から脱出しようとする避難民や将兵が武装親衛隊によって街灯や木に吊るされ、”私は祖国を裏切りました”という下げ札とともに晒し者にされた。ローラント軍がパンツァーファウストでラクサシア戦車を撃破するたびにラクサシア軍は報復として道路沿いの建物を榴弾砲で砲撃し、中にいた民間人が多数犠牲となった。東のラクサシア軍上陸隊は統率がとれ規律が整っていたが、西のラクサシア軍本隊は規律が整っておらず、ローラント人の女性は戦利品であると言う将校もいたという。ティールにいた第5軍とウーラントにいた第11軍はマイヤーからアンカーブルク防衛の命令を受け街へ向かったが、既に敗色濃厚だったことから第5軍司令官ハンス・エグナーはラクサシア軍の包囲網を突破してアンカーブルク北東地区を守っている第8軍と避難民を救出し、そのままツェルター川を渡ってパウルゼンホルスト北部でラクサシア軍上陸隊に降伏することを命令し、多大な犠牲を払ってこれを達成した。この救出劇はツェルター川の奇跡と呼ばれ、今でも多くの歴史家から高い評価を受けている。エグナーがアンカーブルク防衛の命令に背いたことにマイヤーは激怒・失望し、以降はおおまかな作戦指揮すら行わなくなった。6月28日、マイヤーが自殺。7月2日、アンカーブルクは陥落した。マイヤー亡き後のローラント政府は降伏を決断し、7月7日にラクサシアのキトカで降伏文書の調印が行われ、7月8日午後11時1分に休戦が発効する事になった。
7月8日午後11時からはアンカーブルク市内で降伏文書の批准式が行われ、ラクサシア軍代表フィリップ・オービニエ元帥とローラント軍代表クルト・フォン・タンホイザー元帥が降伏文書に批准した。
こうして1940年に始まったローラント=ラクサシア戦争は膨大な数の死傷者を残し、ローラントの敗北、ラクサシアの勝利という形で幕を閉じた。
最終的な損害
ラクサシア:戦死、行方不明330万、負傷810万、捕虜106万、民間人死者980万
ローラント:戦死、行方不明290万、負傷720万、捕虜230万、民間人死者920万
4月11日、ローデンヴァルト防衛の失敗でローラント軍が完全に戦力不足に陥ったことを察したラクサシア軍は圧倒的な砲爆撃による支援の下、テニッセンに上陸し、10日以内にグレーデン平野を制圧。そのまま北上し、ツェルター川を渡河する。
しかしその後、ローラント軍は、グナイゼナウ元帥の巧みな指揮と武装親衛隊の決死の抵抗により、西部戦線でルーベンの防衛に成功する。4月22日、ルーベンおよびフォクトシュタットからローラント軍がフレーミヒへ攻勢(ジークフリート作戦)を行う。この作戦は、フレーミヒで補給のため待機しているラクサシア軍主力部隊を包囲殲滅し、南東部に上陸したラクサシア軍部隊との決戦に備えるべくグナイゼナウ元帥の第4SS装甲軍とハッセルバッハ元帥の第8軍により実行された。温存してあった予備燃料が使われ、この戦争中最強の戦車と名高いティーガー2が主力を担ったことからもローラント軍がこの作戦に全てを賭けていたことが伺える。フレーミヒ北部の森林地帯に展開していたラクサシア軍部隊は完全に油断しており、ろくに攻撃対策を取っていなかったためすぐに殲滅された。しかし、砲撃が不足した状態でフレーミヒ市街地に入ったローラント軍戦車部隊はラクサシア軍戦車部隊の待ち伏せを受け大きな損害を受けた。ラクサシア軍のオービニエ元帥は直ちに西から大部隊を送り、フレーミヒのローラント軍を包囲した。彼は作戦前から彼特有の勘でローラント軍が何か大規模な攻撃作戦を行おうとしていることに感づいており、配下の部隊にフレーミヒへの移動の準備を行わせていた。包囲された攻撃部隊は5月3日に降伏し、作戦は失敗に終わった。
ローラント本土は連日のようにラクサシア空軍の無差別空襲を受けるようになり、テニッセン、ダールベルク、ティールをはじめとする大都市は廃墟と化し、多くの歴史的建造物が失われた。ローラント軍は当時最先端のジェット戦闘機であったMe262でこれを迎撃したが、ラクサシア空軍の勢いが治まることはなかった。ローラント軍は報復兵器としてV2ロケットを運用し、ラクサシア本土への報復攻撃を行った。V2ロケットはそれなりの損害を与えられたものの、そもそも絶対数が少なく、研究施設や工場も次々に空襲で破壊されたため攻撃の回数は少なくなっていった。
フレーミヒでのローラント軍の敗北後はラクサシア軍の攻撃でローラント軍は各地で殲滅され、5月16日には首都アンカーブルク前方70kmにラクサシア軍が到達する。ローラント軍は必死の抵抗を行ったが、さらに5月19日には既にツェルター川渡河を終えていたテニッセン上陸部隊が東から挟み撃ちを仕掛け、包囲網の構築を開始した。5月30日にはラクサシア軍のアンカーブルク侵入を許し、壮絶な市街戦が起こった。6月1日にはオービニエ元帥指揮の元、正式にアンカーブルク総攻撃が開始される。アンカーブルクでは街から脱出しようとする避難民や将兵が武装親衛隊によって街灯や木に吊るされ、”私は祖国を裏切りました”という下げ札とともに晒し者にされた。ローラント軍がパンツァーファウストでラクサシア戦車を撃破するたびにラクサシア軍は報復として道路沿いの建物を榴弾砲で砲撃し、中にいた民間人が多数犠牲となった。東のラクサシア軍上陸隊は統率がとれ規律が整っていたが、西のラクサシア軍本隊は規律が整っておらず、ローラント人の女性は戦利品であると言う将校もいたという。ティールにいた第5軍とウーラントにいた第11軍はマイヤーからアンカーブルク防衛の命令を受け街へ向かったが、既に敗色濃厚だったことから第5軍司令官ハンス・エグナーはラクサシア軍の包囲網を突破してアンカーブルク北東地区を守っている第8軍と避難民を救出し、そのままツェルター川を渡ってパウルゼンホルスト北部でラクサシア軍上陸隊に降伏することを命令し、多大な犠牲を払ってこれを達成した。この救出劇はツェルター川の奇跡と呼ばれ、今でも多くの歴史家から高い評価を受けている。エグナーがアンカーブルク防衛の命令に背いたことにマイヤーは激怒・失望し、以降はおおまかな作戦指揮すら行わなくなった。6月28日、マイヤーが自殺。7月2日、アンカーブルクは陥落した。マイヤー亡き後のローラント政府は降伏を決断し、7月7日にラクサシアのキトカで降伏文書の調印が行われ、7月8日午後11時1分に休戦が発効する事になった。
7月8日午後11時からはアンカーブルク市内で降伏文書の批准式が行われ、ラクサシア軍代表フィリップ・オービニエ元帥とローラント軍代表クルト・フォン・タンホイザー元帥が降伏文書に批准した。
こうして1940年に始まったローラント=ラクサシア戦争は膨大な数の死傷者を残し、ローラントの敗北、ラクサシアの勝利という形で幕を閉じた。
最終的な損害
ラクサシア:戦死、行方不明330万、負傷810万、捕虜106万、民間人死者980万
ローラント:戦死、行方不明290万、負傷720万、捕虜230万、民間人死者920万
ローラントは全土をラクサシア軍に占領され、国防軍、武装親衛隊は解体された。ラクサシアのローラントに対する憎悪は凄まじく、各地で進駐軍による略奪行為が横行した。軍人として振る舞うことを部下に徹底させていたアスパ・ラ・ガース将軍やルンディア・ダルトゥーマ将軍は、この状況に苦言を呈していた。
1946年、ラクサシア議会での決定によりローラントはローラント共和国として独立したが、憲法はラクサシアによって作られ、国内には以前占領軍が駐屯していたため事実上のラクサシアの傀儡国であった。
1947年にラクサシア内戦が勃発、ラクサシアはラクサシア臨時共和国、ラクサシア帝国、ラグシス共和国の三つに分断された。
これを受けてローラントでは大規模な暴動が発生したが、全て進駐軍により鎮圧された。
進駐軍は臨時共和国か帝国のどちらに味方するかを迫られ、帝国側に味方することを決めた。
1950年には臨時共和国は左傾化し、共産主義国家と手を結ぶようになった。この状況を脅威と見た帝国は、ローラント共和国に反共主義を基にする限定的な再軍備を行わせ、シュターデンをはじめとする多くの戦時中の司令官の生き残りが共和国軍に志願し、戦時中の教訓を生かした戦略を展開した。これはラクサシア軍にも高く評価され、翌年には臨時共和国との初の実戦を経験、その後も少なくない戦果を挙げた。1952年に内戦が激化すると、帝国軍は進駐軍の兵力までもを内戦に投入しようと考えた。そして、それはもはや、ラクサシアにローラントを占領し続ける余力が残されていないことを意味していた。こうしてラクサシアはローラントとの間にティエリー平和条約を締結して主権を回復させた。それと同時にローラントの再軍備も容認した。この平和条約を以って、両国の戦争は正式に終結した。
1946年、ラクサシア議会での決定によりローラントはローラント共和国として独立したが、憲法はラクサシアによって作られ、国内には以前占領軍が駐屯していたため事実上のラクサシアの傀儡国であった。
1947年にラクサシア内戦が勃発、ラクサシアはラクサシア臨時共和国、ラクサシア帝国、ラグシス共和国の三つに分断された。
これを受けてローラントでは大規模な暴動が発生したが、全て進駐軍により鎮圧された。
進駐軍は臨時共和国か帝国のどちらに味方するかを迫られ、帝国側に味方することを決めた。
1950年には臨時共和国は左傾化し、共産主義国家と手を結ぶようになった。この状況を脅威と見た帝国は、ローラント共和国に反共主義を基にする限定的な再軍備を行わせ、シュターデンをはじめとする多くの戦時中の司令官の生き残りが共和国軍に志願し、戦時中の教訓を生かした戦略を展開した。これはラクサシア軍にも高く評価され、翌年には臨時共和国との初の実戦を経験、その後も少なくない戦果を挙げた。1952年に内戦が激化すると、帝国軍は進駐軍の兵力までもを内戦に投入しようと考えた。そして、それはもはや、ラクサシアにローラントを占領し続ける余力が残されていないことを意味していた。こうしてラクサシアはローラントとの間にティエリー平和条約を締結して主権を回復させた。それと同時にローラントの再軍備も容認した。この平和条約を以って、両国の戦争は正式に終結した。
ハインツ・マイヤー |
Heinz Meier |
生年月日 1880年6月19日 |
出生地 |
ノイマイスト州 ヨツンヴァイン |
没年月日 1945年6月28日(65歳 没) |
死没地 |
アンカーブルク |
バルテル・ホフマン |
Barthel Hoffmann |
生年月日 1876年7月13日 |
出生地 |
エーベル=ファーレンホルスト州 ザウアー |
没年月日 1945年6月28日(69歳 没) |
死没地 ![]() |
ぺルカ ぺルカ捕虜収容所 |
ランベルト・シュターデン |
Lambert Staden |
生年月日 1890年10月2日 |
出生地 |
シッテンヘルム州 ウーラント |
没年月日 1962年4月7日(72歳) |
死没地 |
ファルケンベルク州 ゲルダ |
エンゲルベルト・フォン・ベッケンバウアー |
Lambert Staden |
生年月日 1890年10月2日 |
出生地 |
ツァーベル州 ヴェッセル村 |
没年月日 1973年8月13日(83歳) |
死没地 |
ティール |
アスパ・ラ・ガース |
Aspa Ra Gurs |
生年月日 1890年11月22日 |
出生地 ![]() |
キトカ州 キトカ |
没年月日 1970年11月9日 |
死没地 ![]() |
グラナ共和国 リーア州 リーア |
ローラント軍はラクサシアの占領地で虐殺・略奪・強姦を行い、結果1900万人以上のラクサシア民間人が死亡した。戦争が進むにつれ、これらの戦争犯罪に関する報告は全くなされなくなった。1943年には武装親衛隊本部がパルチザンに一般兵1人が殺されるにつき10人、将校1人が殺されるにつき30人の民間人を報復として殺害するよう命令した。さらにマイヤーは捕らえたラクサシア軍近衛師団将兵を即時処刑するよう命じた。また近衛師団所属でない一般将兵の処刑も頻発し、処刑を免れたものの何割かはより惨酷な強制収容所へ移送された。しかし、中でも最も大規模だった戦争犯罪はルワルワ・ホロコーストである。このジェノサイドにおいてローラント軍はまず1941年に、占領地でルワルワ人に戦災により発生した瓦礫の処理を募った。ローラント軍は引き受けた者たちへの食料や物資の援助を行い家族の身の安全を保障すると約束したため、戦災で家を失ったルワルワ人の多くがこれに志願した。志願する過程においてローラント軍は名前、住所、人種などを書かせ、彼らの個人情報を把握。翌年にはそれをもとにゲシュタポがほぼ全てのルワルワ人を逮捕し、列車で本国の強制収容所まで輸送した。強制収容所は親衛隊により性別、年齢を問わずあらゆる収容者に対する拷問や猟奇的な殺害による見せしめを許可されていた。また、収容所の看守や拷問官、処刑執行人は志願してPTSD耐久テストをクリアした医者や予備役の兵士により構成されていた。これにより多くのルワルワ人が飢えで衰弱した状態で残虐な拷問にかけられ、一度拷問室に入った者は二度と出てくることはなかった。さらに死姦や人肉食も黙認されており、収容所職員は完全に精神病質者と化した。中でも最も惨酷だったのはリョナルブルク強制収容所である。グレーデン平野の南にあったこの収容所では120万人が死亡した。テニッセンに上陸した部隊がこの収容所を解放したとき、列車のコンテナに乱雑に押し込まれた見るも無残な猟奇的死体を見た兵士の多くが重度のPTSDにかかり戦線離脱を余儀なくされたという。生き残った収容者も手足を失っていたり、片目を抉られていたりしており本国に帰るとその見た目の惨さから社会的に孤立してしまった。
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