ヴォストーク社会主義人民共和国の歴史

東スラヴ人の国家形成まで

7世紀終盤のトルメシア
現在のヴォストーク社会主義人民共和国の南部にあたる地域には、ゲルマン人の東方への移動後、東スラヴ人と呼ばれるスラヴ人の一派が居住するようになっていた。スラヴ語を話し、森林地帯での素朴な農耕生活を送っていた彼らの北西にはゲルマン諸語を話す人々、東や北にはフラル諸語を話す人々が彼らと同じような生活を送っており、南東のステップは様々な言語を話す遊牧民の天地であった。やがてこの地域の遊牧民の多くは同化し、ノドガ川の下流でカザリア・カガン国を形成した。
やがて、西ヨーロッパでアルサレク王国などのゲルマン人の王国が形成された頃、北西のスロンデヴィア半島でノルマン人たちが活動を活発化させ始めた。海賊・侵略行為のみならず北地中海・北海での交易に携わったノルマン人は、その航海技術を生かしアルガス川をつたって北地中海に出て、はるか南の東地中海地域で経済的に繁栄する東ローマ帝国との交易にも乗り出し、またカザリアを経由したイスラム帝国の交易も盛んに行われていたために、これらの二つの交易ルートを通して東スラヴ人たちはノルマン人とカザリア人の影響を受けて国家の形成に向かい始めた。

トールムス地域の形成

862年にノルマン人のリューリクが交易都市リヴゴルドの公となり、リューリクの一族が東スラヴの居住地域に支配を広げていく過程で、東スラヴ人の間でいくつかの国家が形成され始めた。これらの国々があったこの地域は、リューリクの属する部族トルムスの名前にちなんでトールムスと呼ばれるようになるが、このトールムスという地域名が、のちに「トルメシア」という国名と結びつけられるようになる。

カルビースク公国の隆盛と衰退

12世紀中期のトルメシア
882年にリューリクの子カルストは一族オレーグの助けによりアルガス川中流の交易都市カルビースクを征服し、カルビースクをトールムスの中心に定めた。北極海に近いリヴゴルドからカルビースクを経て北地中海に出る道が同じ一族に属する支配者の手によって統合された。彼らは周辺の諸部族の間に勢力を広げ、歴代のカルビースク公のもとにトールムスへと国家権力を形成していった。この一族はノルマン系であるとされているが、10世紀までには、スラヴ系へと急速に同化していったと言われている。
10世紀末にはカルビースク公のウラジーミル大公が東ローマ帝国からキリスト教を受容してトールムスは国をあげて正教会の信徒となり、スラヴ語を書きあらわすための文字としてキリル文字がもたらされるなど、正教世界の進んだ文化がルーシへと取り入れられていった。また、ウラジーミルは依然として様々な勢力が入り乱れていたトールムスをカルビースク大公国のもとにほぼ統一することに成功するが、同時に息子たちの間に支配下の都市を分封して公に立てたために、これ以降、ルーシは本家筋であるカルビースク大公国を盟主としつつも、リューリクを始祖とするリューリク家の成員を公とする数多くの小国家へと再び分割され、12世紀頃にはカルビースク公国の衰退にともなってウラジーミル大公国を中心とする北東トールムス諸公国、北西トールムスで貴族共和制を実現したリヴゴルド公国、トールムス西部を支配し、カルビースクを支配し続けたハルィツ・アルガス公国などのいくつかの地域ごとの政治的なまとまりへと分裂していった。

外敵のトールムス侵攻

13世紀、トールムスは東西の勢力による厳しい挑戦を受けることとなった。まず世紀初頭に未だキリスト教以前の異教の信仰にとどまっていた北西トールムス地域に、ケルンテン騎士団を中心とするカトリック教徒のケルンテン人が北方十字軍活動を開始し、正教徒であるトールムスの人々との衝突が起こるようになった。ケルンテン人の侵攻は1240年と1242年の二度にわたりリヴゴルド公のアレクサンドリ・トルメスキーによって阻まれ、北トールムスへのカトリックの侵攻は頓挫する。
しかし、トールムスにとってケルンテン人よりはるかに大きな影響を及ぼしたのは東から征服活動を展開したモンゴル帝国であった。モンゴル帝国の初代皇帝チンギス・ハーンの孫シャヤカ=ハーンを総司令官とする大規模な西方遠征軍が派遣される。まずノドガ川中流域のヴォルガ・ブルガールを征服したバトゥの征西軍は続いてルーシへと侵攻し、1237年から1238年にかけてリャザン、ウラジーミル、トヴェーリを次々と占領して北東トールムスを征服、さらに1239年から1240年にかけて南トールムスに転進し、ハルィツ・アルガスの都カルビースクを攻略し、多くの町村を荒らした。シャヤカ=ハーンの所領はカザフ草原から広大なキプチャク草原にまで拡大した。シャヤカ=ハーンの所領はこの後次第に緩やかな連邦に傾斜していく帝国内での自立性を強めたため、キプチャク・ハン国とも呼ばれる。ここにリヴゴルドを含む全トールムスはモンゴル帝国の支配下に組み込まれた。

ハン国のトールムス支配

キプチャク・ハン国のトルメシア支配
キプチャク・ハン国は、トールムスに対しては間接統治をもって臨み、決まった税金を納めることや戦時に従軍することを義務付けたのみであった。しかし、諸公の任免の最高決定権はハンの手に握られ、主に領土の相続を巡って相互に敵対する諸公たちは頻繁に税金を携えてハンの元に赴いたり、敵対する諸公との争いで不利な裁定をされたりしないように宮廷や実力者への付け届けを余儀なくされた。
このようにハンによって厳重に首枷をはめられたルーシ諸公の中から、モンゴルとの関係をうまく立ち回って権力を得たのが、モンゴルによってウラジーミル大公に任命され北東トールムスの支配者となった元リヴゴルド公アレクサンドリ・トルメスキーや、北東トールムスの諸公国に分封されたその子孫である。アレクサンド・トルメスキーの孫でカルビースク・トールムスの時代には名前も知られていなかった北東トールムスの小都市アカーツィアを与えられたイヴァン1世はウラジーミル大公位を巡って対立するトヴェーリ公を追放させ、14世紀前半にウラジーミル大公位を獲得することに成功する。1326年、アカーツィア大公は、全トールムスの最高位聖職者で当時はウラジーミルにいたカルビースク府主教をアカーツィアに迎え入れ、アカーツィアをカルビースクにかわるトールムスの宗教的・政治的な中心地に定めた。

アカーツィアのハンからの離脱とトルメシア帝国

1470年代のトルメシア
イヴァン1世以来、モンゴル支配下で次第に実力をつけたアカーツィア大公国は、14世紀後半にはキプチャク・ハン国の王統中断に始る混乱によってますます勢力を強め、ミツートリ公時代の1380年にはキプチャク・ハン国西部の実力者ママイを破った。しかし、その直後にはママイを殺害してキプチャク・ハン国の再統合を果たしたトクタミシュの攻撃を受けて服属を余儀なくされるなど、タタール支配を脱するには至らなかった。
14世紀から15世紀のアカーツィア大公国は、トヴェーリをはじめとするトールムス内の諸公国や、西のシェーントレーン王国と戦いトールムスに勢力を拡大していった。一方、キプチャク・ハン国の側では、トクタミシュがケルンテン騎士団に敗れて没落した後は分裂の度を深めていた。アカーツィア大公イヴァン3世はこの力と情勢を背景として、1480年にハンからの独立を宣言し、貢納を停止した。また、北西トールムスの強国リヴゴルド公国を併合し、トールムス北部の統一をほとんど成し遂げた。また、イヴァン3世は東ローマ帝国皇帝コンスタンディヌス11世の姪と結婚、モスクワ大公が1453年にオスマン帝国によって滅ぼされた東ローマ皇帝にかわる正教会の保護者としての地位を自認する端緒をつくった。ロシア語で皇帝を意味するツアーリの称号もイヴァン3世のとき初めて使われた。
イヴァン3世の孫、イヴァン4世は1547年にツアーリの称号を正式に用い、トルメシアの正教会の間ではアカーツィアはローマ、コンスタンティノポリスに続く第三のローマであり、ツアーリはローマ皇帝の後継者であるとする考えが生まれてきた。アカーツィア大公国の支配領域が、「トールムスの国」を意味する「トルメシア」との名称で呼ばれるようになり始めたのも、イヴァン4世の頃の16世紀であった。
また、1552年にヤバン・ハン国、1556年にアストロガン・ハン国を滅ぼし、始めてキプチャク・ハン国の一部を併合した。イヴァン4世は内政的には大貴族を抑圧してツアーリの直轄地を広げ、トルメシアで最初の議会をつくるなど、中央集権化を目指した改革を進めた。かつてトールムス諸公国のひとつに過ぎなかったアカーツィア大公国は、多民族を内包する大国家トルメシアへと変貌を遂げつつあった。しかし1558年に始まったリングラント戦争で25年に渡り北地中海の覇権を争ったが、シェーントレーン、ケルンテン騎士団に敗れスロンデヴィア半島から追い出された。さらにその後イヴァン4世は粛清を繰り返した挙げ句、国家は荒廃しイヴァン4世死後の混乱・衰微を招来させ他。

動乱時代とロマノフ朝

1598年、イヴァン4世の跡を継いだフョードル1世が子孫を残さずに死去、リューリク朝は断絶した。宰相であったゴトゥノフ家のボリスがツァーリに選ばれた。しかし帝国は、3年に渡る大飢饉などで弱体化し、国民の支持を失った。ツァーリの求心力低下を狙った国際的陰謀が横行され、背景にはトルメシア支配を狙うカトリック勢力の陰謀があった。このような時にボリスは死に、ゴトゥノフ家は求心力を失い失脚した。
1606年次帝ドムロイはアカーツィアで暗殺された。後任にはジューヤスキ家のヴァシーリー4世が戴冠するが、これに反対するトルメシア人地方貴族が反乱を起こす。ヴァシーリー4世は1年がかりで反乱を鎮圧するが、これはロシアの大動乱の始まりに過ぎなかった。1608年ドムロイ2世がツァーリを自称し、アカーツィアに迫った。ドムロイ2世は貴族の支持を集め、対立皇帝としての地位を獲得する。窮したヴァシーリー4世は、シェーントレーンに救援を要請。シェーントレーンは王太子グスタフ・ヴィルヘルムを派遣、ドミトリイを撤退させた。しかし、アカーツィアでは大貴族のクーデターが起こされ、ヴァシーリー4世は廃位された。その後、帝位を巡り諸貴族が対立し、トルメシアの皇帝位は2年に渡り空位となる。その間にドミトリイ2世は暗殺され、シェーントレーンはノヴゴロドを占領し、対立ツァーリとして、ヴァーサ家の王子がドミトリイ3世を自称する。シェーントレーン王となったグスタフ・ヴィルヘルムは帝位を狙っていたが、トルメシア側はカルリエなどの領土を割譲することで、ツァーリ戴冠の野心を放棄させた。
1613年2月、トルメシアの大貴族ロマノフ家のミハイル・ロマノフをツァーリに推戴、ここに1917年まで続くロマノフ朝が成立した。
1617年シェーントレーン、1618年に諸貴族と和睦し、ここに大動乱は終結した。しかしシェーントレーンに領土を削られ、国力は衰微した。
トルメシア帝国は、最初はツァーリの権力が弱く、貴族の専横を許したが、17世紀半ばから北方戦争や、シェーントレーン王国との戦いを通して徐々に勢力を持ち直していった。また、トルメシア正教会を保護する一方で専制的な抑圧者として振舞うなど、聖俗で権威を強めていった。

マカール1世以降のトルメシア帝国

1613年にロマノフ朝が成立すると、大貴族と農奴制に支えられ、封建色の強い帝国の発展が始まった。17世紀末から18世紀初頭にかけて、マカール1世は急速な西欧化・近代化政策を強行し、新首都サンカク・ペテロブルクの建設、大北方戦争での勝利を経てトルメシア帝国の基盤を築いた。彼の時から正式に皇帝の称号を使用し、欧州諸国からも認められた。1762年に即位したニキータ2世はシェーントレーン王国とのカルリエ戦争に勝利し、欧州での影響力を増加させた。彼の治世においてトルメシアはシモキタとウレル・ハン国を併合し、名実ともに「帝国」となった。
アレクサンドル1世の治世において1792年に勃発したヴァルシャレク革命戦争に参戦し、戦後は神聖同盟の一員としてウィーン体制を維持する欧州の大国となった。国内でのデカブリストの乱やシモキタ反乱などの自由主義・分離主義運動は厳しく弾圧された。
1830年代以降はトルメシアの南下政策を阻むシャングリアとの対立が激化し、ライムニアなどを巡って、トルメシア・シャングリア両国の駆け引きが続いた。1853年に勃発したシモキタ戦争ではシャングリア・ヴァルシャレク連合軍に敗北し、帝国の工業や政治、軍事全般の後進性が明確になった。1861年に皇帝アレクサンドル2世は農奴解放令を発布し、近代的改革への道を開いたが、農村改革や工業化のテンポは遅く、農村啓蒙運動も政府の弾圧を受けた。政治的自由化の遅れへの不満は無政府主義者による皇帝暗殺にまで発展した。
19世紀末には、トルメシアはエスターライヒとの二帝同盟から離脱し、汎スラヴ主義によるユーロパでの南下を行った。1905年に自由主義的な革命騒動が発生し、南下政策を断念した。国内では国会の開設や法律の改革が行われたが、皇帝ルスラーン2世の消極的姿勢もあって改革は頓挫し、帝国の弱体化は急速に進行した。その中で、都市部の労働者を中心に社会主義運動が高揚した。

トルメシア革命とヴォストーク派ボリシェヴィキ

20世紀初頭、皇帝ルスラーン二世は工場や連隊の視察などを頻繁に行い都市労働者や兵士の士気を高めようと努めたが、宮廷ではネロルド・ハリトーンが治世を牛耳るなど政治の腐敗が続き、国民は政府に不満をつのらせていった。1917年2月に起こったロシア革命でロマノフ王朝は倒された。革命後、旧帝国領土には数多の国家が乱立し、外国の干渉軍も加わって激しいロシア内戦となった。1917年3月10日にトルメシア全土でストライキが発生、専制君主制打倒の声が高まり総ストライキが起きた。当局は11日には軍と警察による鎮圧を試み、流血をともないながらもひとまずは鎮圧にこぎつけた。しかし、12日には第208連隊からデモ隊鎮圧に反対する兵士の反乱が発生し、他の連隊にもその動きが波及し、6万人に及ぶ離脱者が続出した。彼らは労働者と合流し政治犯の釈放を行った。首都サンカク・ペテロブルクは革命の渦中となり、11月7日にはトルメシア社会民主労働党ボリシェヴィキ政権が樹立され、そのトップとなったセルゲイ・ウニャコフは東シェーントレーンの返還で帝国の西方領土の一部を手放した後、東方(ヴォストーク)へ向かいボリシェビキを改称した東トルメシア共産党を率いて一気に西進し内戦に勝利し、1922年の年の瀬に東共産党の一党独裁によるヴォストーク社会主義共和国連邦を建国した。旧トルメシア帝国領の大部分を引き継いだヴォストーク社会主義共和国連邦を構成する4共和国のうち、トルメシア人が多数派を占める大部分の地域はトルメシア・ヴォストーク連邦社会主義共和国となり、。ヴォストーク社会主義共和国連邦とトルメシア・ヴォストーク連邦共和国の首都がサンカク・ペテロブルクからアカーツィアへと復され、同時にサンカク・ペテロブルクは革命の地として記念碑が建てられた。

ヴォストーク社会主義共和国連邦成立以降の革命主義

1924年にハプスブルク帝国とオスマン・イスラム帝国が衝突し大クリステント・ムスリム戦争が起こりハンガリー地域を巡り決戦が行われていたが、ヴォストーク社会主義共和国連邦は東方正教国の立場から聖ゲオルギオス大聖堂アヤソフィア大聖堂などの正教会建築のイスラーム世界からのキリスト教世界への奪還を大義名分に(実際はオスマン帝国の勢力後退を狙い)ハプスブルク帝国への資金援助や義勇軍の派遣などを行ったが、オスマン帝国軍と衝突したヴォストーク陸軍は陸軍装備や戦闘教義の遅れを痛感させられた。大クリステント・ムスリム戦争後ヴォストーク社会主義共和国連邦はソユーズ条約機構を設立し、ヴォストーク社会主義共和国連邦の影響を受け革命政権が樹立した社会主義諸国を中心とした諸加盟国との軍事技術交換で軍隊の近代化・自動車化が急速に進み、エウロペシア連合やエディルネ双帝同盟、イーシア連邦などを超える一大陣営の盟主となった。

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