ファントム・ペイン 5話 鼓動/沈黙
"おはよう"
ある日の朝。
窓の無い、真っ白な部屋。
時計の短針が真下を指し、いつも通り目を覚ます。
"おはよう"
"おはよう"
朝の挨拶を、同室の子供達と交わす。
"おはよう"
"おはよう"
いつも通りの日課。
"おはよう"
"……"
その日は、一人だけ返事を返さなかった。
ベッドの上を覗き込む。
異変は直ぐに見て取れた。
露出している顔面全体を覆い尽くす腫瘍。
見開いた瞼。
濁った眼球。
痙攣する唇。
腫瘍が全身に広がっているのは明らかだった。
先生を呼ぶ。
やがて、彼女は横たわったまま、ストレッチャーで運ばれていった。
廊下の奥に消えていく彼女を、同室の皆と見送る。
"――――"
最後に、一度だけ彼女の名前を呼んだ。
返事はなく、ただ一言。
"…………。
………………ママ"
私達には意味の判らない言葉。
その一言を残して、彼女はいなくなった。
苦痛も、絶望も、悔恨も、なにもない。
次の朝、目を覚ますとあの子のベッドがなくなっていた。
部屋が少し広くなった。
私達は、23人から22人になった。
それ以外は、何も変わらなかった。
私にとって、死はその程度の意味しかなかった。
その時は、まだ。
*
ある日、家族が一人増えた。
それ以来、家が少し狭くなった。
それ以外でも多くの事が変わってしまったのだろうが、今重要なのはその点だ。
3DKの部屋割りに、入居者以外の為のスペースは存在しない。
「悪く思うなよ……」
誰に向かってか謝りながら、中身の入っていない小奇麗な千代紙の小物入れを握り潰した。
用途不明のガラクタを次々と、容赦無くゴミ袋へと放り投げて行く。
俺がせっせと働いているその横で、一番新しい入居者である所の少女が、目ぼしい物を拾い上げてしげしげと眺めていた。
「お前も手を動かせ」
絵麻は慌てて作業を再開するが、何か彼女の関心を引く物を見付ける度、物惜しそうに俺の方へ目を向けて来る。
「捨てろ。どうせゴミだ」
「……」
「良いから捨てろ。資本主義社会に於いてあらゆる商品は即物的に、刹那的に消費されるべきだ」
捨てられた子犬の様な視線から目を逸らし、俺は自分の作業を黙々と進めた。
小さな人形の首を圧し折り、ビーズ玉を袋に纏め上げ、変色した雑誌を縛り上げる。
太った黒猫の縫いぐるみを引き裂こうと力を込めたその時、細っこい腕が伸びて来てそれを押し留めた。
「捨てると言ってるだろうが」
絵麻は俺の手を掴んだまま、睨むでもなくじっと俺を見詰めて来る。
何秒間見詰め合っただろうか。
俺は溜息を吐いた。
「……あんまり物を増やすなよ」
とは言え、彼女の持ち物は同年代の少女の平均から見れば随分少ない方だし、俺に兎や角言われる謂れは無いかも知れない。
絵麻は一寸微笑んで、大事そうに縫いぐるみを"残すものエリア"に置いた。
休日の昼過ぎ。
俺はずっと前に居なくなった母親の私物を整理していた。
絵麻の夏服を仕舞うスペースを確保すると言う名目が無ければ、ここはずっと手付かずのままでいたのだろう。
親父にも恐らく判っている筈だ、この部屋の嘗ての主が戻らぬであろう事は。
整理を子供に押し付けたまま、彼がこの場にいないのは、それを認めてしまうのが嫌だからだろうか。
(……形見分けになるかも知れないってのにな)
片や、俺にとって彼女は既に遠い記憶の存在に過ぎない。
こうして部屋を片付けていても感慨深い物は見付からないし、粗方ゴミに出してしまっても特に抵抗を覚えない。
世間一般からすれば親不孝なのだろうなと考えつつ、ぞんざいに衣装ケースを引っ繰り返して行く。
あらかた片付け終わり、最後のケースを引っ張り出した所、古びた衣類に紛れて、中から堅い物が床に転がり落ちた。
派手なシアンのプラスチック製長方体、ダイヤルやらボタンが上部数箇所に付き、前面には小さなレンズが。
「トイカメラか?」
かなり古い、少なく共10年以上前の物だ。
勿論デジカメ等ではなくフィルム式で、フォーカス・露出調整は目測頼りの、文字通り玩具同然の代物。
フィルム巻上げダイヤルは回り切っており、どうやらフィルムを使い果たした状態のようだ。
どうせこんなアナログな代物、俺には使いこなせそうも無いが。
俺はこれも不燃物のゴミ袋に投げ入れる。
「――――あ」
さっきから俺の手元を覗き込んでいた絵麻が小さく声を上げた。
「何だ。これも欲しいって言う心算か。
デジカメで十分だろう」
絵麻は首を振る。
「……中、確認しなくていいの?」
「時間が経ち過ぎている。
今更現像した所で、フィルムが感光し切って何も写っていない筈だ。
何なら、今ここで開けて見るか?」
絵麻は冗談に受け合わず、暫く俺の顔を見詰めていた。
睨むでもなく、黙り込んだまま、只じっと。
やがてふと視線を落とすと、小さく呟く。
「私は、知りたい」
拾い上げたカメラを撫でながら。
「あなたのお母さんが、何を残したのか」
「……知らなくとも、別に困りはしないだろ」
突然、絵麻はカメラを手に立ち上がると、コートを羽織って玄関に向かった。
「おい! 何処に行く気だ」
「写真屋」
「おいまさか本気で……」
頷いた。現像しに行くらしい。
「金の無駄遣いだろう、どう考えても」
絵麻は俺の文句に耳を貸さず、もう靴まで履き替えている。
俺は溜息を吐いた。
「……後で半分現像代を出す。
それと、親父には暫く黙ってろ。
もし母さんの浮気相手か何かが写ってたら、絶望の余り身投げしかねん」
絵麻は苦笑して頷き、外へ飛び出して行った。
絵麻が出て行った後、既に殆ど終わっていた作業を続けることにした。
必要な物や貴重品、書類は段ボール箱に押し込み、残りのゴミを袋に纏める。
雑誌の束を紐で括りながら、俺は一人呟いた。
「それにしても……あいつはどうしてあんなに拘るかね」
絵麻の事だ。
何故知りたい等と言うのか。
あいつが、伊綾家の想い出に執着する理由は無い。
絵麻が伊綾の一員になったのは、極最近の話。
例え俺や親父が彼女の"家族"なのだとしても、ずっと前からここにいない俺の母親とは、何の縁も無い筈だ。
(家族、か)
俺は絵麻の嘗ての家族について何も知らない。
だが、そう言ったコミュニティとは遠い位置にいたであろう事は、容易に想像が付く。
一般的な、密接でウエットな"家族"と言うものに、何らしかの憧れがあるのかも知れない。
(そう言うものを俺に期待するのは、見当外れも良い所だがな)
出たゴミを一纏めにして置こうと、俺は台所へ向かった。
玄関に近いタイルの上に、ガラクタや古着が詰まった袋を無造作に落とす。
拍子に、シンクの上の棚から一杯の茶碗が転がり落ちた。
拾い上げると、年季の入った小さ目の陶器には皹が入っていた。
俺のお下がりで、今は絵麻が使っているものだ。
漠然と、理由も無しに、得体の知れない不安が頭を過る。
虫の知らせ? 馬鹿馬鹿しい。
ふと小窓を見上げると、ついさっきまで雲一つなかった空に、低く雲が垂れ込めている。
携帯電話の天気予報サービスを確認。
夕方よりにわか雨の降る所も。
「傘、持って無いよな、あいつ」
*
最寄の写真屋迄の道を急ぐ。
空が雲に覆われてはいる物の、空気はまだ乾燥しており、そう直ぐには降り出しそうも無い。
それなのに、俺は一体何を急いでいるのか。
第一、相手は自転車だ。追い付ける訳がないのに。
自分でも訳が判らない。
只、嫌な予感がする。
(こう言う時あいつらなら、理由なんて判らなくても、迷わず行動出来るんだろうな)
友人のきょうだい二人を思い浮かべ苦笑した瞬間、
『ひの〜よ〜うじんっ マッチいっぽ――ん かじの――もとっ』
件の二人、その兄の方の間の抜けた声がご近所一帯に響き渡り、俺は盛大にバランスを崩した。
見上げると、一ブロック向こうの十字路で法被姿の見慣れた顔連れが、一人は拡声器を、もう一人は拍子木を手に練り歩いている。
二人も俺の姿に気付いた様で、俺は仕方なく近くまで駆け寄った。
拡声器を持った兄の方、渡辺綱が気安げに手を上げる。
「おう、奇遇だな伊綾。どしたそんなに急いで」
「野暮用だ。そう言うお前らこそ一体何の真似だ?」
丁寧にお辞儀する妹の方、渡辺結に会釈を返しつつ、俺は二人の法被姿を頭から爪先まで眺める。
結の方は何だか無理矢理着せられたみたいで、フェミンな刺繍の有る普段着とアンバランスだ。
一方、ご丁寧に鉢巻まで付けた綱は妙に様になっていた。
「ん――? 消防団の見回り」
「ご苦労な事だ」
実の所、今まで消防団の存在すら知らなかった。
少しだけ興味が無くもなかったが、仕事中の彼らに油を売らせるのも拙い。
「悪いが急いでいる。俺はここで失礼させて貰うぞ」
「何かあったんか? さっきそこで絵麻ちゃんも見たけど」
意外な所で目撃証言に出くわし、俺は再び走り出そうとしていた足を止める。
「ほう。どこでだ」
「えーと。ずっと北行って一ブロック東にずれるから。あっちのほ……」
振り返り指差した先、比較的古い住居が密集している方向から、もうもうと黒い煙が揚がっていた。
その方向には銭湯も工場も無いし、焚き火をするような空き地も無い。
しかも、煙の量が明らかに焚き火のレベルではなかった。
暫し、三人で凍り付く。
「かっ……火事だ――――!!」
拡声器越しに叫ぶ綱と素早く携帯電話に119番を入力する(通話は綱にやらせるのだろう)結。
二人を尻目に、俺は煙の方角へ向けて全力で走り始めた。
曲がりくねった小道を駆け抜ける。高低差の有る階段を段跳飛ばしで急ぐ。
煙を出しているのは古い鉄筋のアパートの様だった。
他人の住居。
そんな所に、絵麻がいる筈は無い。
そう頭では考えているのに、足が止まらない。
道に迷いかけながら、やっとの思いで辿り着くと、そこには既に避難して来た住民や野次馬らしき人々が群がっていた。
風上なので然程煙は漂っていないが、全力疾走した後なので息苦しい。
息を切らしながら、集団の中に見慣れた少女の姿を探す。
呆然と黒煙を上げるアパートを見上げる夫婦と、不安そうに彼らを見詰める小学生位の少年。
肩を落として項垂れる中年男性。
駆け付けて来たらしき家族に介抱されている老人。
野次馬の中にも、見知った少女の姿など無い。
息をついて踵を返した俺は、背後の路肩に放置して有る我が家共用のママチャリを発見して凍り付いた。
「済みません……!」
俺は直ぐ近くで物珍しそうにアパートを眺めている大学生位の男を捕まえて、自転車を指差して見せる。
「これに乗っていた、中学生の女の子を見ませんでしたか。髪はショートカットで灰色のピーコートを着た」
「え? ええ? あ――」
男は一瞬面食らった物の、直ぐに得心が行った様に頷いた。
「うん、見た見た。さっき燃えてるアパートに入ってった」
俺は一瞬で血が凍り付くのを感じた。
「馬鹿なッ……! 何でそんな馬鹿なことを!」
「ほら、あそこの女の人」
男は地面に座り込んでいる若い主婦らしき女を指差した。
「さっきまで『まだ赤ちゃんが中にー』とか騒いでて。
見かねたのかあの女の子、自販機で水のペットボトル買いこんで中に突っ込んでったよ。
そういや、まだ戻ってこないねえ」
呑気そうに嘯く男に、何故止めなかったのかと怒鳴りたくなるのを抑える。
「何で止めなかったんだよ!」
振り向くと、いつの間にか追い付いて来ていた綱が血相を変えて男に詰め寄っている。
まだ何事か言いながら食って掛かっているが、そんなことはどうでも良い。
脇を見ると、都合良く直ぐ傍に飲料水の自動販売機が設置して有った。
俺は駆け寄り、急く気持ちを抑えつつ千円札を入れ、ミネラルウォータを3本買い込み、鞄に詰め込んだ。
1本の蓋を開けて水を頭から被りながら、真っ直ぐ燃え上がるアパートに向かう。
「……ッ! 伊綾、お前何してんだ!」
腕を掴んで止めて来る綱を睨み返す。
「離せ」
「離せねえよ。今助けに行ったって、二重遭難になるだけだ。
仮に絵麻ちゃんが中で倒れてても、助け出すまでにお前も倒れる。
今は無事を信じて待つしか……」
と、綱が突然愕然と、視線を俺の背後へと向ける。
釣られて振り返ると、結が呆然と燃えるアパートを見上げていた。
常に笑顔を維持し、小さい頃からそうあろうと努力して来た彼女。
その時に限っては恐怖に目を見開き、小刻みに体を震わせていた。
額に脂汗がびっしりと浮かび、顔色は蒼白。
「結ッ! 何でこっち来てんだ!」
綱は咄嗟に駆け寄ろうとするが、俺を放置する事も出来ず一瞬逡巡する。
俺は大きく息を吸い込んで、綱に諭された言葉を反芻した。
絵麻は確かに馬鹿で、今回の事を考えると大馬鹿者と言って差し支えない。
だが、頭が悪い訳ではない。
彼女一人でこの場を切り抜けられないならば、恐らく俺が傍に付いていても同じ事だ。
「……大丈夫だ。判っている。
行き成り飛び込んだりはしない。少し周りから様子を伺うだけだ」
「すまね。無茶するなよ」
言うが早いか、綱は今にも倒れそうな結を介抱しに飛んで行った。
結は、火が苦手だ。否、恐怖症と言った方が良いだろう。
俺はアパートに向き直ると頭を切り替え、中を覗き込めないかと建物の反対側に回り込んだ。
「糞っ! 煙が酷いな……」
口を覆いながら、窓ガラスが並ぶコンクリートの絶壁を見上げる。
気のせいか、若干傾いて来ている様な気がする。
ベランダは無く、窓には羽目殺しの格子が付いており、隙間から飛び降りる程の余裕もなさそうだ。
仮にネットや防災マットを用意しても、これでは意味が無い。
(無駄足か……。もう後はあいつが自力で戻るのを待つか、あるいは――)
再び正面玄関の方に戻りかけた瞬間、直ぐ頭上からガラスが割れる音が響いた。
2度3度、重量の有る何かを叩き付ける音と共にガラスの破片が舞い散り、ぬっと黒い人影が姿を現す。
「絵麻!」
顔を煤で真っ黒にした少女の名前を叫ぶ。
絵麻は眼下に俺の姿を認めると、再び部屋に引っ込む。
再び響く打撃音。
ぱらぱらと格子の隙間から木片が散らばる。
どうやら内側から鉄格子を破壊するべく、椅子か何かを叩き付けているらしい。
5回程打ち付けても、窓枠はびくともしない。
「絵麻! こっちは無理だ! 玄関に回れ!」
打撃音が止んだかと思うと、今度は格子の隙間から何かを差し出そうとしている。
「阿呆! 何をしている、さっさと……」
抱きかかえられたそれを見て、俺は愕然とした。
隙間をやっと潜れる程の大きさのそれは、煤で汚れ疲れ果て泣く事すら出来ずにいたが、紛れも無く人間の赤ん坊だった。
絵麻は腕を伸ばし、2階からそれを手渡そうとしている。
俺は咄嗟に、それを受け止めようと腕を上げていた。
背を伸ばしてぎりぎり届くか届かないか。
彼女の伸ばした両手から、俺が延ばした両手まで、それが手渡された瞬間。
窓越しに見た絵麻は、笑った様な気がした。
それも、一瞬。
突然の、重い爆発音。
ガスに引火したのだろうかといぶかしむ間もなく、重量物が拉げる嫌な音が響き渡り。
絵麻の姿が瓦礫に飲み込まれる。
赤ん坊を抱きかかえながら、俺は反射的に後方へ跳躍した。
手が自由だったなら、絵麻の腕を掴む事が出来たのかも知れない。
俺に勇気が有れば、瓦礫の中を突き進んで彼女を庇う事が出来たのかも知れない。
仮定など無意味。
絵麻を残して、必死に瓦礫を避けながら、生存本能に従って後ろに下がる。
俺の目の前で、あっと言う間にアパートは崩壊した。
*
泣き始めた赤ん坊を野次馬の誰かに押し付けてからの事は良く憶えていない。
只、無我夢中で瓦礫の山を素手で引っ繰り返していた。
まだ燃えている、危険だとか、誰かが叫んでいた様な気がすが、どうでも良い。
何時の間にかシャベルを持った綱が横で瓦礫を掘り返していた。
そんな事も気に留めず、淡々と作業に没頭する。
漸く意識がはっきりして来た頃、分厚い割りに鉄骨の少ないコンクリートの壁を押し退けたその奥に、煤で汚れたコートの切れ端が覗いた。
細かい破片を取り除いて行くと、背中が、腕が、顔が順番に現れる。
ぼろぼろの少女を、そっと抱え上げた。
絵麻は瞼を閉じたまま、ぐったりとして身じろぎすらしない。
ゆっくりと路肩まで運び、上着を脱いでその上に寝かせる。
体のあちこちに木片が刺さったり、擦過傷が出来たり、出血もしている。
骨も折れているだろうが、それよりも確認せねばならない事が有る。
「絵麻」
呼びかけるが、反応は無い。
「絵麻!」
今度は強く、耳元で声を出すが、同じ。
口元にも喉元にも、目立った動きが見えない。
首筋に指を当てても、何の脈動も無い。
胸に耳を当ててみても、何も聴こえない。
血の気が引いた。
「呼吸が、ない」
「――ッ! AEDだ! AEDはっ!」
綱が周囲に呼びかけるが、誰からの反応も無い。
辺りは古い住宅地ばかりだ。そう都合良く置いてはいない。
「くそッ! しゃあねえ、探して来る」
「頼む」
走り去って行く綱を尻目に、体育の実習で教わった内容を思い出しながら、仰向けに顎を引かせて気道を確保する。
「……悪いな」
一言だけ、謝った。
鼻を摘んで、口に直接息をゆっくりと吹き込む。
胸が沈むのを待ってから、更にもう一度。
何の反応も無い。
体の位置を変え、胸の中心に掌を重ねて押し当てて、垂直に力を込める。
抵抗なく胸骨が沈み込む。
矢張り何の反応も無い。
構わず何度も周期的に力を込め、心臓マッサージを続けた。
やがて人ごみを掻き分けて、若干ふら付きながら結が近付いて来る。
「手伝えるか」
結は未だ調子が悪そうで顔色が真っ青だったが、気丈に頷いて絵麻の枕元に陣取った。
心臓マッサージの合間を縫って、結が息を吹き込む。
マッサージ30回につき人工呼吸2回のサイクル。
何回繰り返した頃だろうか、綱がAEDを持って駆け寄って来る。
「絵麻ちゃんは!?」
「まだ駄目だ」
綱は手早く絵麻の上着を剥いでシャツのボタンを外し、AEDの電極パッドを決められた位置に貼り付ける。
相変わらずデリカシーに欠ける男だ。が、そんな事を言っている場合では無い。
心電図はフラット。
直ぐに電気ショックを求める人口音声が響き、綱がマニュアルに従ってショックボタンを押した。
絵麻の全身が操り人形の様に痙攣する。
だが心電図はフラットのまま。
「まだか……!」
再び心臓マッサージに取り掛かる。
回数を数えながら、強く、何度でも。
30を数えた後、結が息を吹き込む。
変化は無い。
それでもマッサージを続ける。
綱が腕時計を見て真っ青になっていた。
「伊綾、もう……助け出してから、10分過ぎて――――」
「だから何だ」
呼吸停止から10分経てば、蘇生の見込みは薄い。
そんな事は判っている。
「こいつが、死ぬ訳、ない、だろう」
そんな事は考えない。
それ以外の事も、何も考えたくない。
只無心に、腕に力を込める。
「……ッ! 電気ショック! もう一回だ!」
綱がもう一度AEDの準備を始める。
こう言う時ばかりは、綱の愚直な前向きさ、諦めを知らずひたむきな性格が有り難い。
例え結果に結び付く見込みが薄かろうが、自分に出来る事は全力で遂げる。
「身内の俺が、あいつより先に諦める訳には行かないよな……」
二度目の電気ショックを受けても未だ反応が無い絵麻の様子に絶望しそうになる自分を叱咤し、三度心臓マッサージに移る。
「……畜生、目を、覚ませ、――――――――目をッ! 目を覚ませ!」
必死に、何度でも呼びかけた。
汗が額を伝って流れ落ちる。
腕に力を込めた瞬間、ぐらりと体の重心が傾いた。
倒れ掛けた所を、綱が後ろから支えて来る。
「おい! 無理すんな!」
疲労の所為か、大分煙を吸い込んだ為か、体の自由が利かない。
それでも自分を叱咤し、身を起こして再び絵麻の傍に戻る。
しかし直ぐに綱に肩を掴まれた。
「無理すんなって言ってんだろ! 俺が代わるから、伊綾はちょっと休んでろ」
こんな時に休んでいられるか、そう言い掛けるが、この場合は綱の方が正論だ。
それでも、今は体を動かしていないと、気が狂いそうになる。
「もう良い、大丈――――」
綱の手を振り払い、絵麻に向き直った瞬間、俺は息を呑んだ。
絵麻の体が小刻みに痙攣している。
最初は小さく、やがて大きく体が跳び跳ね、そして横隔膜の蠢きと同時に大きく咳き込んだ。
宙に浮いた頭を地面にぶつける直前、手を伸ばして下から抱え上げる。
腕の中の少女の顔、閉ざされた瞼が震え、黒目がちな瞳が薄く覗いた。
「……やす、み?」
掠れがちな、けれどはっきりとした声。
喜びよりも、驚愕の方が大きかった。
何故、そんなに早く、呼吸だけでなく意識まで取り戻すのだ。
さっきまで、心肺停止の危篤状態だったのに。
視線を落とし、彼女の体を見て再び凍り付く。
突き刺さっていた木片が、ゆっくりと、だが確実に体から押し出されている。
10分前出血していた擦り傷に至っては完全に塞がり、代わりに真新しい皮膚が生え代わっていた。
まるで、性質の悪いスプラッタ映画で、蜂の巣にされても再生して立ち上がって来るモンスターの様だ。
「な…………」
言葉が出ない。
途方に暮れて周りを見回す。
綱も結も、周囲の野次馬も、呆気に取られていた。
遠くから聞こえるサイレンの音。
絵麻は大人しく俺に抱きかかえられたまま、哀しそうに微笑んでいた。
ああ、ばれちゃった。そんな事を悔やむ様に。
その複雑な表情を見て、俺は何となく悟った。
彼女の命が助かったのは、偶然でも奇跡でもなく、絵麻にとって決まり切った必然であった事を。
ふと、額に冷たいものを感じて空を見上げた。
雲が低く垂れ込めている。
雨が降ろうとしていた。
ある日の朝。
窓の無い、真っ白な部屋。
時計の短針が真下を指し、いつも通り目を覚ます。
"おはよう"
"おはよう"
朝の挨拶を、同室の子供達と交わす。
"おはよう"
"おはよう"
いつも通りの日課。
"おはよう"
"……"
その日は、一人だけ返事を返さなかった。
ベッドの上を覗き込む。
異変は直ぐに見て取れた。
露出している顔面全体を覆い尽くす腫瘍。
見開いた瞼。
濁った眼球。
痙攣する唇。
腫瘍が全身に広がっているのは明らかだった。
先生を呼ぶ。
やがて、彼女は横たわったまま、ストレッチャーで運ばれていった。
廊下の奥に消えていく彼女を、同室の皆と見送る。
"――――"
最後に、一度だけ彼女の名前を呼んだ。
返事はなく、ただ一言。
"…………。
………………ママ"
私達には意味の判らない言葉。
その一言を残して、彼女はいなくなった。
苦痛も、絶望も、悔恨も、なにもない。
次の朝、目を覚ますとあの子のベッドがなくなっていた。
部屋が少し広くなった。
私達は、23人から22人になった。
それ以外は、何も変わらなかった。
私にとって、死はその程度の意味しかなかった。
その時は、まだ。
*
ある日、家族が一人増えた。
それ以来、家が少し狭くなった。
それ以外でも多くの事が変わってしまったのだろうが、今重要なのはその点だ。
3DKの部屋割りに、入居者以外の為のスペースは存在しない。
「悪く思うなよ……」
誰に向かってか謝りながら、中身の入っていない小奇麗な千代紙の小物入れを握り潰した。
用途不明のガラクタを次々と、容赦無くゴミ袋へと放り投げて行く。
俺がせっせと働いているその横で、一番新しい入居者である所の少女が、目ぼしい物を拾い上げてしげしげと眺めていた。
「お前も手を動かせ」
絵麻は慌てて作業を再開するが、何か彼女の関心を引く物を見付ける度、物惜しそうに俺の方へ目を向けて来る。
「捨てろ。どうせゴミだ」
「……」
「良いから捨てろ。資本主義社会に於いてあらゆる商品は即物的に、刹那的に消費されるべきだ」
捨てられた子犬の様な視線から目を逸らし、俺は自分の作業を黙々と進めた。
小さな人形の首を圧し折り、ビーズ玉を袋に纏め上げ、変色した雑誌を縛り上げる。
太った黒猫の縫いぐるみを引き裂こうと力を込めたその時、細っこい腕が伸びて来てそれを押し留めた。
「捨てると言ってるだろうが」
絵麻は俺の手を掴んだまま、睨むでもなくじっと俺を見詰めて来る。
何秒間見詰め合っただろうか。
俺は溜息を吐いた。
「……あんまり物を増やすなよ」
とは言え、彼女の持ち物は同年代の少女の平均から見れば随分少ない方だし、俺に兎や角言われる謂れは無いかも知れない。
絵麻は一寸微笑んで、大事そうに縫いぐるみを"残すものエリア"に置いた。
休日の昼過ぎ。
俺はずっと前に居なくなった母親の私物を整理していた。
絵麻の夏服を仕舞うスペースを確保すると言う名目が無ければ、ここはずっと手付かずのままでいたのだろう。
親父にも恐らく判っている筈だ、この部屋の嘗ての主が戻らぬであろう事は。
整理を子供に押し付けたまま、彼がこの場にいないのは、それを認めてしまうのが嫌だからだろうか。
(……形見分けになるかも知れないってのにな)
片や、俺にとって彼女は既に遠い記憶の存在に過ぎない。
こうして部屋を片付けていても感慨深い物は見付からないし、粗方ゴミに出してしまっても特に抵抗を覚えない。
世間一般からすれば親不孝なのだろうなと考えつつ、ぞんざいに衣装ケースを引っ繰り返して行く。
あらかた片付け終わり、最後のケースを引っ張り出した所、古びた衣類に紛れて、中から堅い物が床に転がり落ちた。
派手なシアンのプラスチック製長方体、ダイヤルやらボタンが上部数箇所に付き、前面には小さなレンズが。
「トイカメラか?」
かなり古い、少なく共10年以上前の物だ。
勿論デジカメ等ではなくフィルム式で、フォーカス・露出調整は目測頼りの、文字通り玩具同然の代物。
フィルム巻上げダイヤルは回り切っており、どうやらフィルムを使い果たした状態のようだ。
どうせこんなアナログな代物、俺には使いこなせそうも無いが。
俺はこれも不燃物のゴミ袋に投げ入れる。
「――――あ」
さっきから俺の手元を覗き込んでいた絵麻が小さく声を上げた。
「何だ。これも欲しいって言う心算か。
デジカメで十分だろう」
絵麻は首を振る。
「……中、確認しなくていいの?」
「時間が経ち過ぎている。
今更現像した所で、フィルムが感光し切って何も写っていない筈だ。
何なら、今ここで開けて見るか?」
絵麻は冗談に受け合わず、暫く俺の顔を見詰めていた。
睨むでもなく、黙り込んだまま、只じっと。
やがてふと視線を落とすと、小さく呟く。
「私は、知りたい」
拾い上げたカメラを撫でながら。
「あなたのお母さんが、何を残したのか」
「……知らなくとも、別に困りはしないだろ」
突然、絵麻はカメラを手に立ち上がると、コートを羽織って玄関に向かった。
「おい! 何処に行く気だ」
「写真屋」
「おいまさか本気で……」
頷いた。現像しに行くらしい。
「金の無駄遣いだろう、どう考えても」
絵麻は俺の文句に耳を貸さず、もう靴まで履き替えている。
俺は溜息を吐いた。
「……後で半分現像代を出す。
それと、親父には暫く黙ってろ。
もし母さんの浮気相手か何かが写ってたら、絶望の余り身投げしかねん」
絵麻は苦笑して頷き、外へ飛び出して行った。
絵麻が出て行った後、既に殆ど終わっていた作業を続けることにした。
必要な物や貴重品、書類は段ボール箱に押し込み、残りのゴミを袋に纏める。
雑誌の束を紐で括りながら、俺は一人呟いた。
「それにしても……あいつはどうしてあんなに拘るかね」
絵麻の事だ。
何故知りたい等と言うのか。
あいつが、伊綾家の想い出に執着する理由は無い。
絵麻が伊綾の一員になったのは、極最近の話。
例え俺や親父が彼女の"家族"なのだとしても、ずっと前からここにいない俺の母親とは、何の縁も無い筈だ。
(家族、か)
俺は絵麻の嘗ての家族について何も知らない。
だが、そう言ったコミュニティとは遠い位置にいたであろう事は、容易に想像が付く。
一般的な、密接でウエットな"家族"と言うものに、何らしかの憧れがあるのかも知れない。
(そう言うものを俺に期待するのは、見当外れも良い所だがな)
出たゴミを一纏めにして置こうと、俺は台所へ向かった。
玄関に近いタイルの上に、ガラクタや古着が詰まった袋を無造作に落とす。
拍子に、シンクの上の棚から一杯の茶碗が転がり落ちた。
拾い上げると、年季の入った小さ目の陶器には皹が入っていた。
俺のお下がりで、今は絵麻が使っているものだ。
漠然と、理由も無しに、得体の知れない不安が頭を過る。
虫の知らせ? 馬鹿馬鹿しい。
ふと小窓を見上げると、ついさっきまで雲一つなかった空に、低く雲が垂れ込めている。
携帯電話の天気予報サービスを確認。
夕方よりにわか雨の降る所も。
「傘、持って無いよな、あいつ」
*
最寄の写真屋迄の道を急ぐ。
空が雲に覆われてはいる物の、空気はまだ乾燥しており、そう直ぐには降り出しそうも無い。
それなのに、俺は一体何を急いでいるのか。
第一、相手は自転車だ。追い付ける訳がないのに。
自分でも訳が判らない。
只、嫌な予感がする。
(こう言う時あいつらなら、理由なんて判らなくても、迷わず行動出来るんだろうな)
友人のきょうだい二人を思い浮かべ苦笑した瞬間、
『ひの〜よ〜うじんっ マッチいっぽ――ん かじの――もとっ』
件の二人、その兄の方の間の抜けた声がご近所一帯に響き渡り、俺は盛大にバランスを崩した。
見上げると、一ブロック向こうの十字路で法被姿の見慣れた顔連れが、一人は拡声器を、もう一人は拍子木を手に練り歩いている。
二人も俺の姿に気付いた様で、俺は仕方なく近くまで駆け寄った。
拡声器を持った兄の方、渡辺綱が気安げに手を上げる。
「おう、奇遇だな伊綾。どしたそんなに急いで」
「野暮用だ。そう言うお前らこそ一体何の真似だ?」
丁寧にお辞儀する妹の方、渡辺結に会釈を返しつつ、俺は二人の法被姿を頭から爪先まで眺める。
結の方は何だか無理矢理着せられたみたいで、フェミンな刺繍の有る普段着とアンバランスだ。
一方、ご丁寧に鉢巻まで付けた綱は妙に様になっていた。
「ん――? 消防団の見回り」
「ご苦労な事だ」
実の所、今まで消防団の存在すら知らなかった。
少しだけ興味が無くもなかったが、仕事中の彼らに油を売らせるのも拙い。
「悪いが急いでいる。俺はここで失礼させて貰うぞ」
「何かあったんか? さっきそこで絵麻ちゃんも見たけど」
意外な所で目撃証言に出くわし、俺は再び走り出そうとしていた足を止める。
「ほう。どこでだ」
「えーと。ずっと北行って一ブロック東にずれるから。あっちのほ……」
振り返り指差した先、比較的古い住居が密集している方向から、もうもうと黒い煙が揚がっていた。
その方向には銭湯も工場も無いし、焚き火をするような空き地も無い。
しかも、煙の量が明らかに焚き火のレベルではなかった。
暫し、三人で凍り付く。
「かっ……火事だ――――!!」
拡声器越しに叫ぶ綱と素早く携帯電話に119番を入力する(通話は綱にやらせるのだろう)結。
二人を尻目に、俺は煙の方角へ向けて全力で走り始めた。
曲がりくねった小道を駆け抜ける。高低差の有る階段を段跳飛ばしで急ぐ。
煙を出しているのは古い鉄筋のアパートの様だった。
他人の住居。
そんな所に、絵麻がいる筈は無い。
そう頭では考えているのに、足が止まらない。
道に迷いかけながら、やっとの思いで辿り着くと、そこには既に避難して来た住民や野次馬らしき人々が群がっていた。
風上なので然程煙は漂っていないが、全力疾走した後なので息苦しい。
息を切らしながら、集団の中に見慣れた少女の姿を探す。
呆然と黒煙を上げるアパートを見上げる夫婦と、不安そうに彼らを見詰める小学生位の少年。
肩を落として項垂れる中年男性。
駆け付けて来たらしき家族に介抱されている老人。
野次馬の中にも、見知った少女の姿など無い。
息をついて踵を返した俺は、背後の路肩に放置して有る我が家共用のママチャリを発見して凍り付いた。
「済みません……!」
俺は直ぐ近くで物珍しそうにアパートを眺めている大学生位の男を捕まえて、自転車を指差して見せる。
「これに乗っていた、中学生の女の子を見ませんでしたか。髪はショートカットで灰色のピーコートを着た」
「え? ええ? あ――」
男は一瞬面食らった物の、直ぐに得心が行った様に頷いた。
「うん、見た見た。さっき燃えてるアパートに入ってった」
俺は一瞬で血が凍り付くのを感じた。
「馬鹿なッ……! 何でそんな馬鹿なことを!」
「ほら、あそこの女の人」
男は地面に座り込んでいる若い主婦らしき女を指差した。
「さっきまで『まだ赤ちゃんが中にー』とか騒いでて。
見かねたのかあの女の子、自販機で水のペットボトル買いこんで中に突っ込んでったよ。
そういや、まだ戻ってこないねえ」
呑気そうに嘯く男に、何故止めなかったのかと怒鳴りたくなるのを抑える。
「何で止めなかったんだよ!」
振り向くと、いつの間にか追い付いて来ていた綱が血相を変えて男に詰め寄っている。
まだ何事か言いながら食って掛かっているが、そんなことはどうでも良い。
脇を見ると、都合良く直ぐ傍に飲料水の自動販売機が設置して有った。
俺は駆け寄り、急く気持ちを抑えつつ千円札を入れ、ミネラルウォータを3本買い込み、鞄に詰め込んだ。
1本の蓋を開けて水を頭から被りながら、真っ直ぐ燃え上がるアパートに向かう。
「……ッ! 伊綾、お前何してんだ!」
腕を掴んで止めて来る綱を睨み返す。
「離せ」
「離せねえよ。今助けに行ったって、二重遭難になるだけだ。
仮に絵麻ちゃんが中で倒れてても、助け出すまでにお前も倒れる。
今は無事を信じて待つしか……」
と、綱が突然愕然と、視線を俺の背後へと向ける。
釣られて振り返ると、結が呆然と燃えるアパートを見上げていた。
常に笑顔を維持し、小さい頃からそうあろうと努力して来た彼女。
その時に限っては恐怖に目を見開き、小刻みに体を震わせていた。
額に脂汗がびっしりと浮かび、顔色は蒼白。
「結ッ! 何でこっち来てんだ!」
綱は咄嗟に駆け寄ろうとするが、俺を放置する事も出来ず一瞬逡巡する。
俺は大きく息を吸い込んで、綱に諭された言葉を反芻した。
絵麻は確かに馬鹿で、今回の事を考えると大馬鹿者と言って差し支えない。
だが、頭が悪い訳ではない。
彼女一人でこの場を切り抜けられないならば、恐らく俺が傍に付いていても同じ事だ。
「……大丈夫だ。判っている。
行き成り飛び込んだりはしない。少し周りから様子を伺うだけだ」
「すまね。無茶するなよ」
言うが早いか、綱は今にも倒れそうな結を介抱しに飛んで行った。
結は、火が苦手だ。否、恐怖症と言った方が良いだろう。
俺はアパートに向き直ると頭を切り替え、中を覗き込めないかと建物の反対側に回り込んだ。
「糞っ! 煙が酷いな……」
口を覆いながら、窓ガラスが並ぶコンクリートの絶壁を見上げる。
気のせいか、若干傾いて来ている様な気がする。
ベランダは無く、窓には羽目殺しの格子が付いており、隙間から飛び降りる程の余裕もなさそうだ。
仮にネットや防災マットを用意しても、これでは意味が無い。
(無駄足か……。もう後はあいつが自力で戻るのを待つか、あるいは――)
再び正面玄関の方に戻りかけた瞬間、直ぐ頭上からガラスが割れる音が響いた。
2度3度、重量の有る何かを叩き付ける音と共にガラスの破片が舞い散り、ぬっと黒い人影が姿を現す。
「絵麻!」
顔を煤で真っ黒にした少女の名前を叫ぶ。
絵麻は眼下に俺の姿を認めると、再び部屋に引っ込む。
再び響く打撃音。
ぱらぱらと格子の隙間から木片が散らばる。
どうやら内側から鉄格子を破壊するべく、椅子か何かを叩き付けているらしい。
5回程打ち付けても、窓枠はびくともしない。
「絵麻! こっちは無理だ! 玄関に回れ!」
打撃音が止んだかと思うと、今度は格子の隙間から何かを差し出そうとしている。
「阿呆! 何をしている、さっさと……」
抱きかかえられたそれを見て、俺は愕然とした。
隙間をやっと潜れる程の大きさのそれは、煤で汚れ疲れ果て泣く事すら出来ずにいたが、紛れも無く人間の赤ん坊だった。
絵麻は腕を伸ばし、2階からそれを手渡そうとしている。
俺は咄嗟に、それを受け止めようと腕を上げていた。
背を伸ばしてぎりぎり届くか届かないか。
彼女の伸ばした両手から、俺が延ばした両手まで、それが手渡された瞬間。
窓越しに見た絵麻は、笑った様な気がした。
それも、一瞬。
突然の、重い爆発音。
ガスに引火したのだろうかといぶかしむ間もなく、重量物が拉げる嫌な音が響き渡り。
絵麻の姿が瓦礫に飲み込まれる。
赤ん坊を抱きかかえながら、俺は反射的に後方へ跳躍した。
手が自由だったなら、絵麻の腕を掴む事が出来たのかも知れない。
俺に勇気が有れば、瓦礫の中を突き進んで彼女を庇う事が出来たのかも知れない。
仮定など無意味。
絵麻を残して、必死に瓦礫を避けながら、生存本能に従って後ろに下がる。
俺の目の前で、あっと言う間にアパートは崩壊した。
*
泣き始めた赤ん坊を野次馬の誰かに押し付けてからの事は良く憶えていない。
只、無我夢中で瓦礫の山を素手で引っ繰り返していた。
まだ燃えている、危険だとか、誰かが叫んでいた様な気がすが、どうでも良い。
何時の間にかシャベルを持った綱が横で瓦礫を掘り返していた。
そんな事も気に留めず、淡々と作業に没頭する。
漸く意識がはっきりして来た頃、分厚い割りに鉄骨の少ないコンクリートの壁を押し退けたその奥に、煤で汚れたコートの切れ端が覗いた。
細かい破片を取り除いて行くと、背中が、腕が、顔が順番に現れる。
ぼろぼろの少女を、そっと抱え上げた。
絵麻は瞼を閉じたまま、ぐったりとして身じろぎすらしない。
ゆっくりと路肩まで運び、上着を脱いでその上に寝かせる。
体のあちこちに木片が刺さったり、擦過傷が出来たり、出血もしている。
骨も折れているだろうが、それよりも確認せねばならない事が有る。
「絵麻」
呼びかけるが、反応は無い。
「絵麻!」
今度は強く、耳元で声を出すが、同じ。
口元にも喉元にも、目立った動きが見えない。
首筋に指を当てても、何の脈動も無い。
胸に耳を当ててみても、何も聴こえない。
血の気が引いた。
「呼吸が、ない」
「――ッ! AEDだ! AEDはっ!」
綱が周囲に呼びかけるが、誰からの反応も無い。
辺りは古い住宅地ばかりだ。そう都合良く置いてはいない。
「くそッ! しゃあねえ、探して来る」
「頼む」
走り去って行く綱を尻目に、体育の実習で教わった内容を思い出しながら、仰向けに顎を引かせて気道を確保する。
「……悪いな」
一言だけ、謝った。
鼻を摘んで、口に直接息をゆっくりと吹き込む。
胸が沈むのを待ってから、更にもう一度。
何の反応も無い。
体の位置を変え、胸の中心に掌を重ねて押し当てて、垂直に力を込める。
抵抗なく胸骨が沈み込む。
矢張り何の反応も無い。
構わず何度も周期的に力を込め、心臓マッサージを続けた。
やがて人ごみを掻き分けて、若干ふら付きながら結が近付いて来る。
「手伝えるか」
結は未だ調子が悪そうで顔色が真っ青だったが、気丈に頷いて絵麻の枕元に陣取った。
心臓マッサージの合間を縫って、結が息を吹き込む。
マッサージ30回につき人工呼吸2回のサイクル。
何回繰り返した頃だろうか、綱がAEDを持って駆け寄って来る。
「絵麻ちゃんは!?」
「まだ駄目だ」
綱は手早く絵麻の上着を剥いでシャツのボタンを外し、AEDの電極パッドを決められた位置に貼り付ける。
相変わらずデリカシーに欠ける男だ。が、そんな事を言っている場合では無い。
心電図はフラット。
直ぐに電気ショックを求める人口音声が響き、綱がマニュアルに従ってショックボタンを押した。
絵麻の全身が操り人形の様に痙攣する。
だが心電図はフラットのまま。
「まだか……!」
再び心臓マッサージに取り掛かる。
回数を数えながら、強く、何度でも。
30を数えた後、結が息を吹き込む。
変化は無い。
それでもマッサージを続ける。
綱が腕時計を見て真っ青になっていた。
「伊綾、もう……助け出してから、10分過ぎて――――」
「だから何だ」
呼吸停止から10分経てば、蘇生の見込みは薄い。
そんな事は判っている。
「こいつが、死ぬ訳、ない、だろう」
そんな事は考えない。
それ以外の事も、何も考えたくない。
只無心に、腕に力を込める。
「……ッ! 電気ショック! もう一回だ!」
綱がもう一度AEDの準備を始める。
こう言う時ばかりは、綱の愚直な前向きさ、諦めを知らずひたむきな性格が有り難い。
例え結果に結び付く見込みが薄かろうが、自分に出来る事は全力で遂げる。
「身内の俺が、あいつより先に諦める訳には行かないよな……」
二度目の電気ショックを受けても未だ反応が無い絵麻の様子に絶望しそうになる自分を叱咤し、三度心臓マッサージに移る。
「……畜生、目を、覚ませ、――――――――目をッ! 目を覚ませ!」
必死に、何度でも呼びかけた。
汗が額を伝って流れ落ちる。
腕に力を込めた瞬間、ぐらりと体の重心が傾いた。
倒れ掛けた所を、綱が後ろから支えて来る。
「おい! 無理すんな!」
疲労の所為か、大分煙を吸い込んだ為か、体の自由が利かない。
それでも自分を叱咤し、身を起こして再び絵麻の傍に戻る。
しかし直ぐに綱に肩を掴まれた。
「無理すんなって言ってんだろ! 俺が代わるから、伊綾はちょっと休んでろ」
こんな時に休んでいられるか、そう言い掛けるが、この場合は綱の方が正論だ。
それでも、今は体を動かしていないと、気が狂いそうになる。
「もう良い、大丈――――」
綱の手を振り払い、絵麻に向き直った瞬間、俺は息を呑んだ。
絵麻の体が小刻みに痙攣している。
最初は小さく、やがて大きく体が跳び跳ね、そして横隔膜の蠢きと同時に大きく咳き込んだ。
宙に浮いた頭を地面にぶつける直前、手を伸ばして下から抱え上げる。
腕の中の少女の顔、閉ざされた瞼が震え、黒目がちな瞳が薄く覗いた。
「……やす、み?」
掠れがちな、けれどはっきりとした声。
喜びよりも、驚愕の方が大きかった。
何故、そんなに早く、呼吸だけでなく意識まで取り戻すのだ。
さっきまで、心肺停止の危篤状態だったのに。
視線を落とし、彼女の体を見て再び凍り付く。
突き刺さっていた木片が、ゆっくりと、だが確実に体から押し出されている。
10分前出血していた擦り傷に至っては完全に塞がり、代わりに真新しい皮膚が生え代わっていた。
まるで、性質の悪いスプラッタ映画で、蜂の巣にされても再生して立ち上がって来るモンスターの様だ。
「な…………」
言葉が出ない。
途方に暮れて周りを見回す。
綱も結も、周囲の野次馬も、呆気に取られていた。
遠くから聞こえるサイレンの音。
絵麻は大人しく俺に抱きかかえられたまま、哀しそうに微笑んでいた。
ああ、ばれちゃった。そんな事を悔やむ様に。
その複雑な表情を見て、俺は何となく悟った。
彼女の命が助かったのは、偶然でも奇跡でもなく、絵麻にとって決まり切った必然であった事を。
ふと、額に冷たいものを感じて空を見上げた。
雲が低く垂れ込めている。
雨が降ろうとしていた。
2011年08月24日(水) 11:12:32 Modified by ID:uSfNTvF4uw