ファントム・ペイン 1話 少女/傘
飛行場から足を踏み出すと、むわりとした湿気が私を出迎えた。
聞いてはいたが、確かに蒸し暑い。
これから8月にかけて、更に暑くなるのだという。
すこし、憂鬱だ。
ふと、冷たいものが私の顔を撫でる。
見上げると、糸の様に細い雨粒が疎らに降り注ぐ。
スコールのような激しさはない、やさしい雨。
この国、この地方には良くあることらしい。
あの人が生まれた場所。
私がこれから生きる場所。
*
雨が降っていた。
土砂降りと言うほどでもないが、小雨とも呼び難い、梅雨時の雨。
「いつになったら止むんだよ。……ちっ、鬱陶しぃ」
十キロの米袋と買い物袋を右手に抱え込み、左手で通学鞄をさげつつ何とか傘を支えている、明らかに無理のある状態。
正直な所傘は役に立っておらず、背中はもうぐっしょりと濡れている。
更に眼鏡が曇って前が見辛い。
重い足取りで家路を急ぎつつ、俺は一人毒づいた。
夕食の為の米がもうない。
今、自宅には誰もいない。
親父も夜遅くにしか帰ってこない。
故に何としてでも白米を持ち帰らねばならないのだが、欲を張って宅配も頼まず特売品の大袋を買ってしまったのが運の尽き。
さらに安売り品を色々と買い込んでしまったのも不味かったのだろう。
突然降ってきた雨に邪魔され、帰路の半ば、俺は既に疲労の極地にあった。
自然に背が丸まり、俯き気味の姿勢で歩いてしまう。
溜息をついて視線を上げ、目の前の光景に俺は唖然とした。
傘もささず、子供が路上に佇んでいた。
すぐ脇には商店の軒先もあると言うのに、歩道の真ん中で何の抵抗もなく、只雨に濡れていた。
「おい」
関わらないほうが良い、普段なら絶対にそう考える状況。
何故か、いつの間にか俺は眼前の人物に声をかけていた。
「何やってんだ、こんな所で」
その人物は無言で顔だけこちらに向ける。
生え際の覗く短い髪、黒いシャツとベージュの短パン姿。
黒目がちな視線が俺に向けられた。
暫し両者とも無言で見詰め合う。
つ、とその子供は視線を再び逸らした。
「聞こえてんのか」
今度は視線すら動かさず、一つ頷く。
はあ、と俺は再び溜息をついた。
本当にコミュニケーションが取れているのかどうか、自信が持てない。
「濡れるぞ。そんな所に居ると。
それと邪魔だ」
その子は再びこちらに顔を向ける。
その小さな唇がゆっくりと開いた。
「雨」
「あ?」
どこか掠れた様な、乾いた不思議な声音。
不覚にも少しどきりとしてしまった。
「冷たい?」
「……俺に聞くな」
何故疑問系なんだ。
「風邪引くぞ。とっとと家に帰れ」
返事はない。
暖簾に腕押しと言った感に俺は苛立ちを感じざるを得ない。
さっさと退いて貰う心算でいたのに、いつのまにやらずるずると会話を長引かせている。
もう放って置いて立ち去るべき状況だった。
見ず知らずの人間の身を案じるほど、俺はお節介な性質ではない。
それなのに、俺は目の前の子供を無視することが出来ずにいた。
「家出か? それとも追い出された方か?」
「確かめたいことがある」
重ねる問いにも答えず、彼、あるいは彼女は只そこを退かぬと言う意思だけを示す。
「だから、ここにいる」
通行の邪魔をする心算はない、と言うことか、そいつは一歩脇に身をずらした。
もう、語ることはない。
目の前の人は雨の領域に居る。
濡れるものと、濡れざるもの。
傘持たぬ人と、傘差す人。
両者の壁が、そいつへの理解を阻んでいた。
だが。
実のところ、双方に大した違いなどない。
傘を差していようがいまいが、俺は既に濡れ鼠だった。
濡れることを拒まなければ、容易にその壁は乗り越えられる。
だからなのか。
自分でも意識しない内に、いつの間にか俺は雨を見上げるその子に傘を差し出していた。
「百均の安物だ。やる。俺は――」
言いつつ抱え込んだ米袋を掲げてみせる。
「この成りだからな。傘は役に立たん。あんたが使え」
俺は呆然とする子供に半ば強引に傘を握らせると、ようやくその脇を通り過ぎた。
何をやっているのだろう。
傘が役に立たないのは、既に濡れているこの子も同じ事だろうに。
だが、荷物を一つ減らした体は心なしか軽やかだった。
「じゃあな」
振り返らずに俺はそう告げると、今度こそ自宅への道を急いだ。
呼び止める声は無い。
「……変な奴だったな」
憂鬱な雨の日のひとこま。偶然の出逢い。
ただ傘を取り交わしただけで、理解し合うこともなく、すれ違った。
もう、会う事もないだろう。
そう思っていた。
「今日から我々の家族になる。エマ、伊綾絵麻だ。ほらほら、ご挨拶ごあいさつ」
「……」
「……」
夜九時。
夕飯とトレーニング、入浴を終え居間で寛いでいた時、帰宅した親父が連れてきた子供を見て、俺は固まった。
「何であんたが……」
「傘の人」
「二人はもう知り合いのようだね」
親父は何故か嬉しそうにうんうんと頷いている。
黒目がちの目にベリーショートの短髪、俺も通うミッション系校の女子の制服。
そこにいたのは服装こそ違えど間違いなく今日帰宅途中で見かけた変な子供であった。
服装からすると女であったらしい。
こんな偶然もあるのか。
俺は暫く呆気に取られていたが、頭を振ってそういうものだと現状を受け入れた。
それよりも今は問い質さねばならないことがある。
あれやこれやと少女に間取りの説明をしている親父の襟を掴んで引っ張っていく。
彼女に聞こえぬよう、小声で詰問。
「どう言う心算だ」
「どういうもこういうも、僕の娘として引き取るつもりだけど。
亡くなった友人に縁深い娘でね。断じて路頭に迷わすわけにはいかない」
悪びれもしない返答に呆れる。
「誰が面倒を見る。母親も居ない男所帯で、大人のあんたは大抵残業だろうが」
「意外にしっかりしてるよ、あの娘は。彼女に必要なのは、帰る家と同年代の子との触れ合いなんだ」
同年代の子供とは俺の事らしい。
「なら女の子供がいる家庭に預けろ。思春期の男と女二人一つ屋根の下なんて非常識にも程がある」
「つまり君はあの娘をそういう目で見ている、と」
「世間一般の常識と世間体の問題だ」
溜息を付く。
少女、絵麻は特に所在無げな様子も見せず、椅子に腰掛けてボーッとしていた。
「あいつの意見は訊いたのか?」
「どうせ迷惑をかけるなら、信頼できるおじさんの所に行きたい、だと」
俺の方の意見を聞かないのは毎度の事なので諦めている。
一応扶養される身なので文句の言える筋合いではない。
それに行き場のない少女の前で、お前と一緒になるのは嫌だと駄々をこねるのは気が引ける。
俺は親父を押し退けて絵麻に歩み寄った。
「おい」
視線が向けられる。
俺に向き直って、突然ぺこりと一礼。
「何だ」
「傘、ありがとう」
どうでも良い事だった。
あの時既に、彼女も濡れていたのだし。
「自己紹介がまだだった。
あんたが構わないなら今日から一緒に暮らす事になる。伊綾泰巳だ」
手を差し出すと、絵麻はあっけなくそれに応じた。
「私はエマ」
初めての握手。
以外に少女の手はしっかりと握り返してきた。
「ここは今まで長い間男所帯でな。
気が利かない点があったら遠慮せず言ってくれ。
一応、あんたにも節度は守ってもらう」
首肯だけ帰ってくる。
少し言い方が無遠慮だったかもしれない。
親父はそわそわして俺達のやり取りを見ている。
絵麻の方は気にする風でもなく淡々と相槌を打つ。
「正直、急に新しい家族だなんて言われても納得出来ない。
あんたも無理して親父に調子を合わせる必要は無いぞ。
だが、いつまでになるかは判らないが、一緒に暮らす訳だ。
出来れば仲良くやって行こう。宜しく頼む」
再び首肯。
人形の様だった絵麻の表情が少し和らぐ。
とりあえずは問題なく自己紹介を終えて、見守っていた親父は安心したようだ。
「絵麻は長いことオーストラリアで暮らしていてね。
日本の環境にはまだ慣れていないから、フォローをよろしく頼むよ」
「……帰国子女かよ。ますますなんでウチなんかに来たんだ」
言われて見ると、確かに顔立ちがバタ臭い気がする。
とは言え、注視しないと判らない位なので、日系あたりだろう。
何にせよ、共同生活への懸念が一つ増えた。
俺の不安を察知したのか、絵麻は持参したリュックをごそごそと探りはじめる。
中からプラスチックフィルムを取り出すと、それを俺に手渡した。
「……何だ」
「引越し土産の定番」
何故か偉そうに胸を張る絵麻。
自分は日本文化に精通している、と主張しているらしい。
俺は1キログラム入りの高級蕎麦粉パックを手に、半眼でうめいた。
「粉を渡してどうする。普通乾麺だ。
それに渡す相手は隣近所だぞ」
「ふむ」
絵麻は己の失敗を悟り、唸る。
親父は愉快そうに笑っていた。
聞いてはいたが、確かに蒸し暑い。
これから8月にかけて、更に暑くなるのだという。
すこし、憂鬱だ。
ふと、冷たいものが私の顔を撫でる。
見上げると、糸の様に細い雨粒が疎らに降り注ぐ。
スコールのような激しさはない、やさしい雨。
この国、この地方には良くあることらしい。
あの人が生まれた場所。
私がこれから生きる場所。
*
雨が降っていた。
土砂降りと言うほどでもないが、小雨とも呼び難い、梅雨時の雨。
「いつになったら止むんだよ。……ちっ、鬱陶しぃ」
十キロの米袋と買い物袋を右手に抱え込み、左手で通学鞄をさげつつ何とか傘を支えている、明らかに無理のある状態。
正直な所傘は役に立っておらず、背中はもうぐっしょりと濡れている。
更に眼鏡が曇って前が見辛い。
重い足取りで家路を急ぎつつ、俺は一人毒づいた。
夕食の為の米がもうない。
今、自宅には誰もいない。
親父も夜遅くにしか帰ってこない。
故に何としてでも白米を持ち帰らねばならないのだが、欲を張って宅配も頼まず特売品の大袋を買ってしまったのが運の尽き。
さらに安売り品を色々と買い込んでしまったのも不味かったのだろう。
突然降ってきた雨に邪魔され、帰路の半ば、俺は既に疲労の極地にあった。
自然に背が丸まり、俯き気味の姿勢で歩いてしまう。
溜息をついて視線を上げ、目の前の光景に俺は唖然とした。
傘もささず、子供が路上に佇んでいた。
すぐ脇には商店の軒先もあると言うのに、歩道の真ん中で何の抵抗もなく、只雨に濡れていた。
「おい」
関わらないほうが良い、普段なら絶対にそう考える状況。
何故か、いつの間にか俺は眼前の人物に声をかけていた。
「何やってんだ、こんな所で」
その人物は無言で顔だけこちらに向ける。
生え際の覗く短い髪、黒いシャツとベージュの短パン姿。
黒目がちな視線が俺に向けられた。
暫し両者とも無言で見詰め合う。
つ、とその子供は視線を再び逸らした。
「聞こえてんのか」
今度は視線すら動かさず、一つ頷く。
はあ、と俺は再び溜息をついた。
本当にコミュニケーションが取れているのかどうか、自信が持てない。
「濡れるぞ。そんな所に居ると。
それと邪魔だ」
その子は再びこちらに顔を向ける。
その小さな唇がゆっくりと開いた。
「雨」
「あ?」
どこか掠れた様な、乾いた不思議な声音。
不覚にも少しどきりとしてしまった。
「冷たい?」
「……俺に聞くな」
何故疑問系なんだ。
「風邪引くぞ。とっとと家に帰れ」
返事はない。
暖簾に腕押しと言った感に俺は苛立ちを感じざるを得ない。
さっさと退いて貰う心算でいたのに、いつのまにやらずるずると会話を長引かせている。
もう放って置いて立ち去るべき状況だった。
見ず知らずの人間の身を案じるほど、俺はお節介な性質ではない。
それなのに、俺は目の前の子供を無視することが出来ずにいた。
「家出か? それとも追い出された方か?」
「確かめたいことがある」
重ねる問いにも答えず、彼、あるいは彼女は只そこを退かぬと言う意思だけを示す。
「だから、ここにいる」
通行の邪魔をする心算はない、と言うことか、そいつは一歩脇に身をずらした。
もう、語ることはない。
目の前の人は雨の領域に居る。
濡れるものと、濡れざるもの。
傘持たぬ人と、傘差す人。
両者の壁が、そいつへの理解を阻んでいた。
だが。
実のところ、双方に大した違いなどない。
傘を差していようがいまいが、俺は既に濡れ鼠だった。
濡れることを拒まなければ、容易にその壁は乗り越えられる。
だからなのか。
自分でも意識しない内に、いつの間にか俺は雨を見上げるその子に傘を差し出していた。
「百均の安物だ。やる。俺は――」
言いつつ抱え込んだ米袋を掲げてみせる。
「この成りだからな。傘は役に立たん。あんたが使え」
俺は呆然とする子供に半ば強引に傘を握らせると、ようやくその脇を通り過ぎた。
何をやっているのだろう。
傘が役に立たないのは、既に濡れているこの子も同じ事だろうに。
だが、荷物を一つ減らした体は心なしか軽やかだった。
「じゃあな」
振り返らずに俺はそう告げると、今度こそ自宅への道を急いだ。
呼び止める声は無い。
「……変な奴だったな」
憂鬱な雨の日のひとこま。偶然の出逢い。
ただ傘を取り交わしただけで、理解し合うこともなく、すれ違った。
もう、会う事もないだろう。
そう思っていた。
「今日から我々の家族になる。エマ、伊綾絵麻だ。ほらほら、ご挨拶ごあいさつ」
「……」
「……」
夜九時。
夕飯とトレーニング、入浴を終え居間で寛いでいた時、帰宅した親父が連れてきた子供を見て、俺は固まった。
「何であんたが……」
「傘の人」
「二人はもう知り合いのようだね」
親父は何故か嬉しそうにうんうんと頷いている。
黒目がちの目にベリーショートの短髪、俺も通うミッション系校の女子の制服。
そこにいたのは服装こそ違えど間違いなく今日帰宅途中で見かけた変な子供であった。
服装からすると女であったらしい。
こんな偶然もあるのか。
俺は暫く呆気に取られていたが、頭を振ってそういうものだと現状を受け入れた。
それよりも今は問い質さねばならないことがある。
あれやこれやと少女に間取りの説明をしている親父の襟を掴んで引っ張っていく。
彼女に聞こえぬよう、小声で詰問。
「どう言う心算だ」
「どういうもこういうも、僕の娘として引き取るつもりだけど。
亡くなった友人に縁深い娘でね。断じて路頭に迷わすわけにはいかない」
悪びれもしない返答に呆れる。
「誰が面倒を見る。母親も居ない男所帯で、大人のあんたは大抵残業だろうが」
「意外にしっかりしてるよ、あの娘は。彼女に必要なのは、帰る家と同年代の子との触れ合いなんだ」
同年代の子供とは俺の事らしい。
「なら女の子供がいる家庭に預けろ。思春期の男と女二人一つ屋根の下なんて非常識にも程がある」
「つまり君はあの娘をそういう目で見ている、と」
「世間一般の常識と世間体の問題だ」
溜息を付く。
少女、絵麻は特に所在無げな様子も見せず、椅子に腰掛けてボーッとしていた。
「あいつの意見は訊いたのか?」
「どうせ迷惑をかけるなら、信頼できるおじさんの所に行きたい、だと」
俺の方の意見を聞かないのは毎度の事なので諦めている。
一応扶養される身なので文句の言える筋合いではない。
それに行き場のない少女の前で、お前と一緒になるのは嫌だと駄々をこねるのは気が引ける。
俺は親父を押し退けて絵麻に歩み寄った。
「おい」
視線が向けられる。
俺に向き直って、突然ぺこりと一礼。
「何だ」
「傘、ありがとう」
どうでも良い事だった。
あの時既に、彼女も濡れていたのだし。
「自己紹介がまだだった。
あんたが構わないなら今日から一緒に暮らす事になる。伊綾泰巳だ」
手を差し出すと、絵麻はあっけなくそれに応じた。
「私はエマ」
初めての握手。
以外に少女の手はしっかりと握り返してきた。
「ここは今まで長い間男所帯でな。
気が利かない点があったら遠慮せず言ってくれ。
一応、あんたにも節度は守ってもらう」
首肯だけ帰ってくる。
少し言い方が無遠慮だったかもしれない。
親父はそわそわして俺達のやり取りを見ている。
絵麻の方は気にする風でもなく淡々と相槌を打つ。
「正直、急に新しい家族だなんて言われても納得出来ない。
あんたも無理して親父に調子を合わせる必要は無いぞ。
だが、いつまでになるかは判らないが、一緒に暮らす訳だ。
出来れば仲良くやって行こう。宜しく頼む」
再び首肯。
人形の様だった絵麻の表情が少し和らぐ。
とりあえずは問題なく自己紹介を終えて、見守っていた親父は安心したようだ。
「絵麻は長いことオーストラリアで暮らしていてね。
日本の環境にはまだ慣れていないから、フォローをよろしく頼むよ」
「……帰国子女かよ。ますますなんでウチなんかに来たんだ」
言われて見ると、確かに顔立ちがバタ臭い気がする。
とは言え、注視しないと判らない位なので、日系あたりだろう。
何にせよ、共同生活への懸念が一つ増えた。
俺の不安を察知したのか、絵麻は持参したリュックをごそごそと探りはじめる。
中からプラスチックフィルムを取り出すと、それを俺に手渡した。
「……何だ」
「引越し土産の定番」
何故か偉そうに胸を張る絵麻。
自分は日本文化に精通している、と主張しているらしい。
俺は1キログラム入りの高級蕎麦粉パックを手に、半眼でうめいた。
「粉を渡してどうする。普通乾麺だ。
それに渡す相手は隣近所だぞ」
「ふむ」
絵麻は己の失敗を悟り、唸る。
親父は愉快そうに笑っていた。
2011年08月24日(水) 11:13:49 Modified by ID:uSfNTvF4uw