ファントム・ペイン 3話 包帯/掌
真夜中の3時。白熱光の灯る洗面所。
誰にも言えない確認作業がはじまる。
翻るカミソリの刃。
切り刻まれる薬指。
肉を切り裂く感触。
合間に見える骨の白。
剥れる爪の断面。
滴り落ちる鮮血。
なのに、そこにあるべきものがぽっかりと抜け落ちている。
それがどんなものだったか、どんどんわからなくなっていく。
徐々に失われる情感
助長される無感動。
排水溝へ向かう紅い渦をぼんやりと眺める。
私はいつまでまともでいられるのだろう。
朱は水の中に拡散し、やがて完全に消えうせた。
それを見届けてから一人で包帯を巻き、血を洗い流してその場を離れる。
自室に戻る途中、彼の部屋の前を通り過ぎた。
暫しの逡巡。
マナー違反とわかってはいたけれど、私は扉をそっと押し開けた。
ベッドの上で静かに寝息を立てている彼。
毛布から出ている右腕に、私はそっと指を這わせる。
包帯の巻かれたその腕は、すこしだけ、熱を帯びていた。
すこしだけ、忘れていたものを思いだせた。
*
風邪を引いた。
一昨日昨日と連続して雨に打たれた所為だろう。
体温38度。
流石に体がだるい。
「ついてねえな……」
布団に包まれて一人ごちる。
氷枕と季節外れの分厚い掛け布団が、はっきり言って鬱陶しい。
「僕は会社に行くけど、何かあったらすぐ電話するんだよ。
必要なものがあったらメールでもしてくれれば帰りに買って帰るから。
ああ、お昼の用意はどうしようか。学校に連絡は済ませたよね。着替えは十分用意してる?」
「……良いからあんたはさっさと働きに行け」
何時もは子供を放任し気味な反動なのか、過剰に世話を焼きたがる親父を追い立てる。
親父は後ろ髪を引かれる様にちらちらと振り返りながら、渋々俺の部屋から出て行く。
「それじゃあ絵麻、留守番はよろしく頼むよ。泰巳はこの通り、病気だから安静にさせてあげて。
何か困ったことがあったら僕に電話してね。電話番号は……」
ドアが閉まる音と同時に親父の声も聞こえなくなり、部屋は静寂を取り戻す。
俺は溜息を突いて、さっきから邪魔で仕方が無かった氷枕と掛け布団を横に退けると、毛布に包まって大人しく眠ることにした。
ふと、横合いから視線を感じる。
寝返りを打つと、開きっ放しの扉の向こうからこちらを伺っている絵麻の姿が視界に入った。
「何か用か?」
昨日の一件以来、彼女とどう接して良いか判らず、まともに話せていなかった。
気まずい空気を怖れていたのだが、取り越し苦労だったようだ。
絵麻はとてとてと俺の部屋に入って来ると、ベッドの脇に椅子を持って来て腰掛けた。
「……何だ」
無言で見詰めて来る絵麻の意図をいぶかしむ。
「看病」
「要らねえよ」
つっけんどんな調子で拒絶されても、絵麻はめげる様子はない。
「病気のとき、ひとりだと寂しいよ」
「却って鬱陶しい。移るから離れてろ」
「……ふむ」
絵麻はしょぼくれたような表情を見せるが、俺は構わず反対側に寝返りを打って無視する。
暫くすると立ち去る足音と扉が閉まる音が響く。
俺は安心して目を閉じると、浅い眠りに就いた。
――――ねえ、おとうさん。
――――なんだ?
――――おかあさんはいつ帰ってくるの?
――――さあ、なあ。
――――お父さんや泰巳がいい子にしてたら、きっとはやくに戻って来てくれるんじゃないかな。
――――だから、それっていつ?
――――朝、ぼくがめざましよりさきにおきれるようになったら?
――――自転車にひとりで乗れるようになったら?
――――。
――――お父さんにも、判らないや。
――――もう、いいよ。
――――ほんとうはもう、わかってるんだ。
母さんはもう、帰って来ないって。
「――――、 ――――♪」
懐かしい歌が聞こえる。
俺はゆっくりと瞼を開いた。
髪の短い少女が傍の椅子に腰掛けて、本を眺めながら古い歌を口ずさんでいる。
「絵麻?」
絵麻は歌を止めて俺の方を振り返った。
俺はくらくらする頭を振りながら身を起こす。
壁に掛けられた時計を見やると、もう昼になろうとしていた。
体を動かすと、関節が鈍い痛みを訴える。
「あんた、何時からこの部屋に居た」
「ずっと」
意味が判らず暫く彼女と見詰め合う。
「扉閉めただけで、朝からほとんど部屋出てなかったり」
「出て行く動作はフェイントかよ」
俺は半眼で呻く。
病気とは言え、こんなに近くに居座られて気配一つ感じられなかった。
物音を立てず、今まで只管俺の事を見守っていたのだろう。
「……済まなかったな」
首を傾げる絵麻。
「暇なのに、付き合ってやれない。こんな所に居たって退屈だろう」
彼女は首を振ると、手のハードカバーを広げて見せた。
俺の本棚にあった小説だ。平易とは言えない日本語なのに、読みこなせている様子。
無断で持ち出した事を咎め様として、止める。面倒臭い。
俺は再び布団を被ると、彼女から目を逸らした。
「それと、朝、邪険に扱って、悪かった」
絵麻のほっそりとした指が、包帯の巻かれた俺の手に当てられる。
その指を握り返す。
「寂しいよな。見知らぬ外国、他人の家で独りきり。
縋るべき過去はすごく遠くて、明日は漠然として見通せない。
部屋に篭って外界を拒んでも、時間は有限で、何れは必ず外の方から入り込んで来る。
心細くて泣いても、自分が情けなく思えるだけ」
誰に向けての言葉なのか、俺自身判らなかった。
少女の手は、暖かかった。
「あんたは凄いよ。物怖じしない。
完全なアウェーで、訳の判らない他人と向き合って居られる。
それ所か、お節介焼く余裕すらあるんだからな」
彼女はゆっくりと首を振り、俺の言葉を訂正した。
「家族だから」
「家族、か」
どうしてこいつは、縁も所縁も無い他人を身内と認める事が出来るのだろうか。
俺には出来ない。
独りで居る事に慣れたのと引き換えに、何時の間にか他者を一定の距離から内側に入れない様になっていた。
誰かに傷付けられるのが怖い。
誰かを傷付けるのが怖い。
誰か無しでは生きて行けなくなるのが、こわい。
それはきっと臆病なのだろう。
「前も言ったがな。俺はあんたを家族として見ちゃいないよ。
別にあんたの何が悪い訳じゃない。
単に、納得出来ないだけだ」
「それでも」
目を上げると、つと彼女の腕が伸びて来る。
「私は、ヤスミの家族になりたい」
細い指が優しく俺の髪を梳く。
俺は抵抗しない。
人の手はあたたかいことを、久しぶりに思い出した。
「だって、ヤスミはいい人だから」
そう言って、絵麻は笑う。
その言葉は相変わらず少し不愉快だけれど、胸の奥に抵抗なくすとんと収まった。
俺は気恥ずかしくなって、再び顔を背ける。
「何馬鹿な事を……。珍しく良く喋ると思ったら」
絵麻は笑いながら、俺の頭を撫でる。
くすぐったい。
俺は彼女の手を退けると、腹筋に力を込め上体を起こした。
多少頭がくらくらするが、朝よりは大分体調も良くなっている。
「そろそろ昼か。腹もすいたろう。
簡単なものしか無理だが、適当な食えるものを……」
起き上がろうとする俺を押し止める絵麻。
「作るよ」
「は?」
「私が、作る」
まじまじと少女の顔を見る。
絵麻は、どうやら大真面目だった。
「だが、ここに来てからあんた、一度も調理して無いだろう。
本当に料理できるのか?」
大丈夫、とでも言うように、力強くガッツポーズをとる絵麻。
何故だか、凄まじく不安だった。
二時間後。
余りの遅さに痺れを切らし、ふら付きながらも部屋を出た俺を出迎えたのは、顔中ススだらけで涙目を浮かべた絵麻と、洗い場に積み上げられている焦げ付いた調理具の山だった。
思わず目眩が倍増したような気分になる。
「やはり、な」
「……めんなさい」
溜息をついて、目を伏せる絵麻の頭に手を乗せる。
「どいてろ。俺がやる」
冷凍しておいた白飯を電子レンジにセットし、温めている間に昨日の鍋の残りを火にかける。
本来なら米の状態から作る方が良いのだが、時間が惜しい。
鍋に酒醤油を足して軽く煮立て、白飯を入れた後溶き卵を投入し火を止める。
二人分の器に分け、刻んだ白髪葱を添え、完成。
出来上がった粥と言うよりおじやを、俯いたまま椅子に座り込んでいる絵麻の前に置く。
「冷めるぞ。早く食え」
俺も自分の席に着くと、スプーンを手繰る。
朝食を抜いた所為か食欲はあった。
俺が無心に食べているのを見て、絵麻もおずおずとスプーンに手を伸ばす。
ふと、その細い左の薬指に包帯が巻かれているのに気付く。
(料理の際に切ったのか……?)
昨日はあんなに血を見るのを嫌がっていたのに。
「その傷、どうしたんだ」
目を丸くして顔を上げる絵麻。
「薬指だ」
今さら気付いたかのように、その指をまじまじと見詰めると、絵麻は急いで包帯を取り外しにかかった。
剥き出した手を掲げて、何かを誤魔化す様に微笑む。
「だいじょうぶ」
その指には傷一つ見えない。
(……大方、包丁で少し引っ掛けた挙句、パニクって大げさに処置しようとしたんだろうが)
こんな奴に台所を任せて置ける訳が無い。
早く風邪を治さなければと、改めて俺は痛感した。
……
…………
瞼を撫でる、微かな光に目を覚ます。
身を起こし、カーテンの隙間から窓の外を見ると空が僅かに赤く染まっていた。
もう、雨は止んだらしい。
体調は悪くなかった。
昼からずっと眠り続けていた甲斐もあるのだろう。
寝巻きから簡単な部屋着に着替え、若干重い体を引き摺って居間に出る。
「そーじゃねえよ。テトリスと違って下にブロック無いと落ちるんだって。
4つ繋げりゃいいの4つ。縦横関係ない。
げ、結タンマタンマ! まだこの子なれてない……って今度はCPUかよ!
このタイミングで3連鎖!? まてまて、今度は俺がヤバイ! 終わる終わる!!
――――ふう、何とか乗り切ったか。んで続きだけど、この透明なヤツは周りの消すと一緒になくなるから。
これ利用して連鎖を繋げるのもありだぜ」
「…………こう?」
「しょっぱなから5連鎖!? 俺を裏切ったんですか!? この子初心者のふりしてハメてませんか!?
ぎゃー! 死ぬー! 死ぬー! 死んだ――!!」
テレビの前で騒いでいる見知った顔3つ(実際に騒いでいるのは1つだけだが)を見て、俺は頭を抱えた。
「何をやってるんだ、渡辺二人」
「おー、伊綾。おはようさん」
おそらく勝手にゲーム機を引っ張り出して来たであろう張本人、渡辺綱が悪びれもせず手を上げた。
その隣の渡辺結も苦笑しながらコントローラから手を離して丁寧にお辞儀をする。
二人とも学校帰りなのだろう、制服姿だ。
「何をしに来たと訊いている。
俺は呼んだ覚えは無いぞ。大方絵麻の奴が勝手に上げたんだろうが。
家の防音が悪ければ即刻追い出していた所だ」
「ん――――。ゲームしに?」
「帰れ!」
すっと、二人の間に割って入った結が紙の立体包装袋を差し出す。
近所の菓子屋のロゴ入り。
一応、見舞いと言う名目らしい。
「……何故俺が風邪だと?」
「今日欠席だったからさ、電話してみたらこの子が出て。
もしもし言っても無言だから心配になって、直接事情を聞きに駆けつけたわけだけど」
留守番すら満足に出来ないのかと俺は一時呆れる。
「電話の応対位しろ」
絵麻に文句を言いながら、ふと気になって固定電話の再生ボタンを押す。
雑音交じりで綱の声が。
『あー、もしもし伊綾。おれおれー。
何か今日がっこ来とらんかったけど平気か生きてるかー?
んー? もしもし聴こえてますー? もしもしもしもし。
そーか留守かー。留守なら仕方ないな――、ってじゃ誰が出てんだこれ。
おい、誰だてめー! 伊綾んちで何やってる。おい、返事しろよ!
空き巣か強盗か誘拐犯か。ちょっと待ってろ今そっち行くからな!
伊綾待ってろよ今助け――、あ結丁度良いところに……え、あ、ちょっと結さん何を構えて。うああああああ――――』
プツッ。ツ――。ツ――。ツ――。
……全くの濡れ衣だった。
「全く渡辺が悪い」
「伊綾も悪いと思うぜ。なんでこの子紹介してくんねーんだよ」
気安げに絵麻の頭に手を置く綱。
見上げる彼女の視線は少し鬱陶し気だ。
「別に紹介するほどの事じゃない」
さり気無く絵麻を引き剥がしつつ、包装紙の中身を確認する。
シャロット型から切り分けられた形のプリンが4つ、綺麗にラッピングされていた。
「絵麻。皿を4人分用意してくれるか。
俺は茶を淹れる」
俺を制して綱が立ち上がる。
「病人は大人しくしてろって。俺がやってやる」
「頼むから止めてくれ。お前に任せたら、一杯入れている間に日が暮れる」
「でもここIHじゃねーから結には――――」
と、結が綱の肩に手を置く。
「――――ん、そーだな。あんまり長居しちゃ悪いか。
俺たち、そろそろお暇するわ」
絵麻ちゃんの顔も見れたし、等と言いながら渡辺兄弟は荷物を纏めて立ち上がる。
俺に無断で使用されていたゲーム機は、既に所定の場所に仕舞われていた。
相変わらず妹の方は手際が良い。
「折角来てくれたのに、何も構えず悪いな」
「いいってことよ。あれこれしてるうちに風邪移ってもいかんし」
「大丈夫だ。お前は風邪を引かない」
「どどどういう意味だろう」
一応礼儀として玄関まで見送りに行く。
二人は靴に履き替えてノブに手をかけた。
「んじゃ、邪魔したな。ゆっくり養生しておくれ。
絵麻ちゃんもまた――――っとそうだ。今度絵麻ちゃんの歓迎会しねーか?
知り合いに声かけてさ」
良い考えだ、とでも言うように結が手を合わせる。
「勝手に決めるな。ウチの家庭の問題だし、こいつ自身にしたって……」
言いかけて、ふと絵麻と視線が合う。
何かを期待しているような瞳。
……まあ、そう言うのも良いかも知れない。
「……やるなら小規模にしろ。周りが年上ばかりだと萎縮させ兼ねん。
あと、くれぐれも酒とか持ち込みそうな連中は呼ぶんじゃない」
「おう、期待しててくれ」
後ろ手を振る綱とお辞儀する結がドアの向こうに消えた。
嵐の様な兄弟が過ぎ去った後、部屋は異様に静かになる。
けれど、それはもう大して気まずくなかった。
二人並んでソファに腰掛け、何と無しにベランダの方を眺める。
窓の外はもう夕暮れ。
眠り続けて堅くなっていた四肢を大きく伸ばしながら解す。
「さて、飯でも作るか。
もう材料も少ないが、何が良い?」
「私が作……」
俺は溜息を吐いて、絵麻の頭に手を置いた。
「お前には十年早い」
誰にも言えない確認作業がはじまる。
翻るカミソリの刃。
切り刻まれる薬指。
肉を切り裂く感触。
合間に見える骨の白。
剥れる爪の断面。
滴り落ちる鮮血。
なのに、そこにあるべきものがぽっかりと抜け落ちている。
それがどんなものだったか、どんどんわからなくなっていく。
徐々に失われる情感
助長される無感動。
排水溝へ向かう紅い渦をぼんやりと眺める。
私はいつまでまともでいられるのだろう。
朱は水の中に拡散し、やがて完全に消えうせた。
それを見届けてから一人で包帯を巻き、血を洗い流してその場を離れる。
自室に戻る途中、彼の部屋の前を通り過ぎた。
暫しの逡巡。
マナー違反とわかってはいたけれど、私は扉をそっと押し開けた。
ベッドの上で静かに寝息を立てている彼。
毛布から出ている右腕に、私はそっと指を這わせる。
包帯の巻かれたその腕は、すこしだけ、熱を帯びていた。
すこしだけ、忘れていたものを思いだせた。
*
風邪を引いた。
一昨日昨日と連続して雨に打たれた所為だろう。
体温38度。
流石に体がだるい。
「ついてねえな……」
布団に包まれて一人ごちる。
氷枕と季節外れの分厚い掛け布団が、はっきり言って鬱陶しい。
「僕は会社に行くけど、何かあったらすぐ電話するんだよ。
必要なものがあったらメールでもしてくれれば帰りに買って帰るから。
ああ、お昼の用意はどうしようか。学校に連絡は済ませたよね。着替えは十分用意してる?」
「……良いからあんたはさっさと働きに行け」
何時もは子供を放任し気味な反動なのか、過剰に世話を焼きたがる親父を追い立てる。
親父は後ろ髪を引かれる様にちらちらと振り返りながら、渋々俺の部屋から出て行く。
「それじゃあ絵麻、留守番はよろしく頼むよ。泰巳はこの通り、病気だから安静にさせてあげて。
何か困ったことがあったら僕に電話してね。電話番号は……」
ドアが閉まる音と同時に親父の声も聞こえなくなり、部屋は静寂を取り戻す。
俺は溜息を突いて、さっきから邪魔で仕方が無かった氷枕と掛け布団を横に退けると、毛布に包まって大人しく眠ることにした。
ふと、横合いから視線を感じる。
寝返りを打つと、開きっ放しの扉の向こうからこちらを伺っている絵麻の姿が視界に入った。
「何か用か?」
昨日の一件以来、彼女とどう接して良いか判らず、まともに話せていなかった。
気まずい空気を怖れていたのだが、取り越し苦労だったようだ。
絵麻はとてとてと俺の部屋に入って来ると、ベッドの脇に椅子を持って来て腰掛けた。
「……何だ」
無言で見詰めて来る絵麻の意図をいぶかしむ。
「看病」
「要らねえよ」
つっけんどんな調子で拒絶されても、絵麻はめげる様子はない。
「病気のとき、ひとりだと寂しいよ」
「却って鬱陶しい。移るから離れてろ」
「……ふむ」
絵麻はしょぼくれたような表情を見せるが、俺は構わず反対側に寝返りを打って無視する。
暫くすると立ち去る足音と扉が閉まる音が響く。
俺は安心して目を閉じると、浅い眠りに就いた。
――――ねえ、おとうさん。
――――なんだ?
――――おかあさんはいつ帰ってくるの?
――――さあ、なあ。
――――お父さんや泰巳がいい子にしてたら、きっとはやくに戻って来てくれるんじゃないかな。
――――だから、それっていつ?
――――朝、ぼくがめざましよりさきにおきれるようになったら?
――――自転車にひとりで乗れるようになったら?
――――。
――――お父さんにも、判らないや。
――――もう、いいよ。
――――ほんとうはもう、わかってるんだ。
母さんはもう、帰って来ないって。
「――――、 ――――♪」
懐かしい歌が聞こえる。
俺はゆっくりと瞼を開いた。
髪の短い少女が傍の椅子に腰掛けて、本を眺めながら古い歌を口ずさんでいる。
「絵麻?」
絵麻は歌を止めて俺の方を振り返った。
俺はくらくらする頭を振りながら身を起こす。
壁に掛けられた時計を見やると、もう昼になろうとしていた。
体を動かすと、関節が鈍い痛みを訴える。
「あんた、何時からこの部屋に居た」
「ずっと」
意味が判らず暫く彼女と見詰め合う。
「扉閉めただけで、朝からほとんど部屋出てなかったり」
「出て行く動作はフェイントかよ」
俺は半眼で呻く。
病気とは言え、こんなに近くに居座られて気配一つ感じられなかった。
物音を立てず、今まで只管俺の事を見守っていたのだろう。
「……済まなかったな」
首を傾げる絵麻。
「暇なのに、付き合ってやれない。こんな所に居たって退屈だろう」
彼女は首を振ると、手のハードカバーを広げて見せた。
俺の本棚にあった小説だ。平易とは言えない日本語なのに、読みこなせている様子。
無断で持ち出した事を咎め様として、止める。面倒臭い。
俺は再び布団を被ると、彼女から目を逸らした。
「それと、朝、邪険に扱って、悪かった」
絵麻のほっそりとした指が、包帯の巻かれた俺の手に当てられる。
その指を握り返す。
「寂しいよな。見知らぬ外国、他人の家で独りきり。
縋るべき過去はすごく遠くて、明日は漠然として見通せない。
部屋に篭って外界を拒んでも、時間は有限で、何れは必ず外の方から入り込んで来る。
心細くて泣いても、自分が情けなく思えるだけ」
誰に向けての言葉なのか、俺自身判らなかった。
少女の手は、暖かかった。
「あんたは凄いよ。物怖じしない。
完全なアウェーで、訳の判らない他人と向き合って居られる。
それ所か、お節介焼く余裕すらあるんだからな」
彼女はゆっくりと首を振り、俺の言葉を訂正した。
「家族だから」
「家族、か」
どうしてこいつは、縁も所縁も無い他人を身内と認める事が出来るのだろうか。
俺には出来ない。
独りで居る事に慣れたのと引き換えに、何時の間にか他者を一定の距離から内側に入れない様になっていた。
誰かに傷付けられるのが怖い。
誰かを傷付けるのが怖い。
誰か無しでは生きて行けなくなるのが、こわい。
それはきっと臆病なのだろう。
「前も言ったがな。俺はあんたを家族として見ちゃいないよ。
別にあんたの何が悪い訳じゃない。
単に、納得出来ないだけだ」
「それでも」
目を上げると、つと彼女の腕が伸びて来る。
「私は、ヤスミの家族になりたい」
細い指が優しく俺の髪を梳く。
俺は抵抗しない。
人の手はあたたかいことを、久しぶりに思い出した。
「だって、ヤスミはいい人だから」
そう言って、絵麻は笑う。
その言葉は相変わらず少し不愉快だけれど、胸の奥に抵抗なくすとんと収まった。
俺は気恥ずかしくなって、再び顔を背ける。
「何馬鹿な事を……。珍しく良く喋ると思ったら」
絵麻は笑いながら、俺の頭を撫でる。
くすぐったい。
俺は彼女の手を退けると、腹筋に力を込め上体を起こした。
多少頭がくらくらするが、朝よりは大分体調も良くなっている。
「そろそろ昼か。腹もすいたろう。
簡単なものしか無理だが、適当な食えるものを……」
起き上がろうとする俺を押し止める絵麻。
「作るよ」
「は?」
「私が、作る」
まじまじと少女の顔を見る。
絵麻は、どうやら大真面目だった。
「だが、ここに来てからあんた、一度も調理して無いだろう。
本当に料理できるのか?」
大丈夫、とでも言うように、力強くガッツポーズをとる絵麻。
何故だか、凄まじく不安だった。
二時間後。
余りの遅さに痺れを切らし、ふら付きながらも部屋を出た俺を出迎えたのは、顔中ススだらけで涙目を浮かべた絵麻と、洗い場に積み上げられている焦げ付いた調理具の山だった。
思わず目眩が倍増したような気分になる。
「やはり、な」
「……めんなさい」
溜息をついて、目を伏せる絵麻の頭に手を乗せる。
「どいてろ。俺がやる」
冷凍しておいた白飯を電子レンジにセットし、温めている間に昨日の鍋の残りを火にかける。
本来なら米の状態から作る方が良いのだが、時間が惜しい。
鍋に酒醤油を足して軽く煮立て、白飯を入れた後溶き卵を投入し火を止める。
二人分の器に分け、刻んだ白髪葱を添え、完成。
出来上がった粥と言うよりおじやを、俯いたまま椅子に座り込んでいる絵麻の前に置く。
「冷めるぞ。早く食え」
俺も自分の席に着くと、スプーンを手繰る。
朝食を抜いた所為か食欲はあった。
俺が無心に食べているのを見て、絵麻もおずおずとスプーンに手を伸ばす。
ふと、その細い左の薬指に包帯が巻かれているのに気付く。
(料理の際に切ったのか……?)
昨日はあんなに血を見るのを嫌がっていたのに。
「その傷、どうしたんだ」
目を丸くして顔を上げる絵麻。
「薬指だ」
今さら気付いたかのように、その指をまじまじと見詰めると、絵麻は急いで包帯を取り外しにかかった。
剥き出した手を掲げて、何かを誤魔化す様に微笑む。
「だいじょうぶ」
その指には傷一つ見えない。
(……大方、包丁で少し引っ掛けた挙句、パニクって大げさに処置しようとしたんだろうが)
こんな奴に台所を任せて置ける訳が無い。
早く風邪を治さなければと、改めて俺は痛感した。
……
…………
瞼を撫でる、微かな光に目を覚ます。
身を起こし、カーテンの隙間から窓の外を見ると空が僅かに赤く染まっていた。
もう、雨は止んだらしい。
体調は悪くなかった。
昼からずっと眠り続けていた甲斐もあるのだろう。
寝巻きから簡単な部屋着に着替え、若干重い体を引き摺って居間に出る。
「そーじゃねえよ。テトリスと違って下にブロック無いと落ちるんだって。
4つ繋げりゃいいの4つ。縦横関係ない。
げ、結タンマタンマ! まだこの子なれてない……って今度はCPUかよ!
このタイミングで3連鎖!? まてまて、今度は俺がヤバイ! 終わる終わる!!
――――ふう、何とか乗り切ったか。んで続きだけど、この透明なヤツは周りの消すと一緒になくなるから。
これ利用して連鎖を繋げるのもありだぜ」
「…………こう?」
「しょっぱなから5連鎖!? 俺を裏切ったんですか!? この子初心者のふりしてハメてませんか!?
ぎゃー! 死ぬー! 死ぬー! 死んだ――!!」
テレビの前で騒いでいる見知った顔3つ(実際に騒いでいるのは1つだけだが)を見て、俺は頭を抱えた。
「何をやってるんだ、渡辺二人」
「おー、伊綾。おはようさん」
おそらく勝手にゲーム機を引っ張り出して来たであろう張本人、渡辺綱が悪びれもせず手を上げた。
その隣の渡辺結も苦笑しながらコントローラから手を離して丁寧にお辞儀をする。
二人とも学校帰りなのだろう、制服姿だ。
「何をしに来たと訊いている。
俺は呼んだ覚えは無いぞ。大方絵麻の奴が勝手に上げたんだろうが。
家の防音が悪ければ即刻追い出していた所だ」
「ん――――。ゲームしに?」
「帰れ!」
すっと、二人の間に割って入った結が紙の立体包装袋を差し出す。
近所の菓子屋のロゴ入り。
一応、見舞いと言う名目らしい。
「……何故俺が風邪だと?」
「今日欠席だったからさ、電話してみたらこの子が出て。
もしもし言っても無言だから心配になって、直接事情を聞きに駆けつけたわけだけど」
留守番すら満足に出来ないのかと俺は一時呆れる。
「電話の応対位しろ」
絵麻に文句を言いながら、ふと気になって固定電話の再生ボタンを押す。
雑音交じりで綱の声が。
『あー、もしもし伊綾。おれおれー。
何か今日がっこ来とらんかったけど平気か生きてるかー?
んー? もしもし聴こえてますー? もしもしもしもし。
そーか留守かー。留守なら仕方ないな――、ってじゃ誰が出てんだこれ。
おい、誰だてめー! 伊綾んちで何やってる。おい、返事しろよ!
空き巣か強盗か誘拐犯か。ちょっと待ってろ今そっち行くからな!
伊綾待ってろよ今助け――、あ結丁度良いところに……え、あ、ちょっと結さん何を構えて。うああああああ――――』
プツッ。ツ――。ツ――。ツ――。
……全くの濡れ衣だった。
「全く渡辺が悪い」
「伊綾も悪いと思うぜ。なんでこの子紹介してくんねーんだよ」
気安げに絵麻の頭に手を置く綱。
見上げる彼女の視線は少し鬱陶し気だ。
「別に紹介するほどの事じゃない」
さり気無く絵麻を引き剥がしつつ、包装紙の中身を確認する。
シャロット型から切り分けられた形のプリンが4つ、綺麗にラッピングされていた。
「絵麻。皿を4人分用意してくれるか。
俺は茶を淹れる」
俺を制して綱が立ち上がる。
「病人は大人しくしてろって。俺がやってやる」
「頼むから止めてくれ。お前に任せたら、一杯入れている間に日が暮れる」
「でもここIHじゃねーから結には――――」
と、結が綱の肩に手を置く。
「――――ん、そーだな。あんまり長居しちゃ悪いか。
俺たち、そろそろお暇するわ」
絵麻ちゃんの顔も見れたし、等と言いながら渡辺兄弟は荷物を纏めて立ち上がる。
俺に無断で使用されていたゲーム機は、既に所定の場所に仕舞われていた。
相変わらず妹の方は手際が良い。
「折角来てくれたのに、何も構えず悪いな」
「いいってことよ。あれこれしてるうちに風邪移ってもいかんし」
「大丈夫だ。お前は風邪を引かない」
「どどどういう意味だろう」
一応礼儀として玄関まで見送りに行く。
二人は靴に履き替えてノブに手をかけた。
「んじゃ、邪魔したな。ゆっくり養生しておくれ。
絵麻ちゃんもまた――――っとそうだ。今度絵麻ちゃんの歓迎会しねーか?
知り合いに声かけてさ」
良い考えだ、とでも言うように結が手を合わせる。
「勝手に決めるな。ウチの家庭の問題だし、こいつ自身にしたって……」
言いかけて、ふと絵麻と視線が合う。
何かを期待しているような瞳。
……まあ、そう言うのも良いかも知れない。
「……やるなら小規模にしろ。周りが年上ばかりだと萎縮させ兼ねん。
あと、くれぐれも酒とか持ち込みそうな連中は呼ぶんじゃない」
「おう、期待しててくれ」
後ろ手を振る綱とお辞儀する結がドアの向こうに消えた。
嵐の様な兄弟が過ぎ去った後、部屋は異様に静かになる。
けれど、それはもう大して気まずくなかった。
二人並んでソファに腰掛け、何と無しにベランダの方を眺める。
窓の外はもう夕暮れ。
眠り続けて堅くなっていた四肢を大きく伸ばしながら解す。
「さて、飯でも作るか。
もう材料も少ないが、何が良い?」
「私が作……」
俺は溜息を吐いて、絵麻の頭に手を置いた。
「お前には十年早い」
2011年08月24日(水) 11:13:23 Modified by ID:uSfNTvF4uw