矛盾邂逅(前編)
一ノ瀬由樹(いちのせゆき)は二十歳の大学三年生である。
女の子みたいな名前だが男だ。細身で女顔のため、たまに女に間違えられることもある。
出身は神守(かみもり)市で、地元の明宝(めいほう)大学に通っている。今はちょうど就職活動中で、由樹はそのことで悩んでいた。
自分のやりたいこととは何だろう。何が自分に合っているのだろう。
説明会にも何度か行ったが、由樹にはピンとこなかった。
十二月に入っても、由樹の心はあまり晴れなかった。
そんなとき、彼が通う武術道場の師範が言った。
「そういうときは旅をしよう」
普段は週一でしか顔を出さない師範の言葉に、由樹は目を細めた。
「は?」
「いや、お前に頼みごとをしようと思ってな。大自然に触れてくる気はないか?」
「……どこかに行けと?」
「温泉もあるいい場所だぞ。お遣いついでに頼みたいんだが、どうだ?」
師範はにっこり笑って詰め寄ってくる。
由樹はその笑顔を見て何か嫌な予感がしたが、特に断る気もせず頷いた。
「よし。旅費は出してやるからお前は荷物だけ用意しろ。場所は……」
どんどん話を進める師を見ながら、まあいいかな、と由樹は苦笑した。この師範は無茶な人だが、考えなしにことを進める人ではない。それだけは確かだ。
クリスマスも近い。彼女もいない現在、旅行も悪くないと思った。
◇ ◇ ◇
クリスマス二日前。
由樹は荷物の入ったリュックとともに、山奥の小さな村を訪れていた。
岩塚村という、神守市から北へ三百キロ程上った場所だ。
名物は温泉だが、交通の便の悪さから観光客を集めるには至らない。過疎化も進み、寂れているといっていい村である。
新幹線から電車、バスと乗り継いでようやく着いた時、既に太陽は南中を過ぎていた。
「……でも、空気はおいしいな」
山道を歩きながら由樹は一人ごちた。都会より遥かに澄んでいる空気は、息をする度に体内を隅々まで清めてくれそうなくらいだ。
針葉樹林に挟まれた道を抜けると、ようやく視線の先に家屋が現れた。田畑に囲まれた民家がぽつぽつと建ち並び、その向こうには集落地が見える。
いかにも田舎という風景に由樹の心は不思議と落ち着く。これが癒しというやつなのだろうか。今時流行りもしないが。
彼女にも見せたかったなあ、と由樹はため息をついた。
一年前に別れた彼女。そういえば旅行とかは一度もしなかった。本気で好きだったのに、そういう思い出はあまり作らなかった。
今ではほとんど吹っ切ったつもりだが、たまに思い出してしまう。それは別れた時の彼女の言葉が効いたからだろう。
『あなたはいい人だけど――どこまでもいい人なのね』
意味はわからなかったが、その言葉は由樹の胸に響いた。
由樹はその彼女にひたすら合わせていた。自分のことは二の次で、全て彼女優先だったのだ。
それが本当の自分を見せていないように彼女には映ったのかもしれない。
しかし自分は『そういうもの』なのだ。由樹は、いつだって誰かの役に立ちたいと思っている。
だからこの旅行の話も受けた。人からの申し出や頼み事は断れない、否、断りたくない性格だから。
(……あ、警察官とかいいかも。人のために役立つ仕事だし)
道を歩きながら、由樹はぼんやり考える。
しかし、そんなのんびり気分はすぐに薄れていった。
集落地を目指してひたすら進んでいく中、なぜか誰にも出会わないのだ。
過疎が理由ではない気がした。人の気配自体がない。
田畑はよく手入れがされているので、廃村というわけではないだろう。庭の整頓ぶりから、民家にもそれなりに人の暮らしている様子が見られた。
しばらく歩いても、やはり誰にも会わない。昼間なのだから農作業中の人間くらいいそうなものだが。
由樹は近くの民家を訪ねることにした。ちょうど左手に木造の平屋が見えたので、そこに向かってみる。
家の横にあるガレージには大きなワゴン車が停まっていた。誰かは住んでいるのだろう。
由樹は玄関ドア前まで行くと、横についているベルを鳴らした。りーん、と奥から音が聴こえた。
「…………」
反応はない。
もう何度か鳴らしてみるが、まったく反応はなかった。
仕方ない、と由樹は諦めてその場をあとにする。別の家を訪ねよう。
空に大きな雲が現れ始めた。山間部では夜から雪が降るでしょう、と天気予報は言っていた。
山奥の澄んだ空気の中、冷たい風が青年の体を強く凪いだ。
◇ ◇ ◇
集落地まで来ても、人っ子一人現れなかった。
どの家を訪ねても何の反応もなく、そもそも人の気配がなかった。マリー・セレスト号みたいだ、と由樹は思った。
……不謹慎な例えに少し反省する。
集落地の一番奥まで行くと、一際大きな屋敷が建っていた。
表札を見ると『火浦』と刻まれている。
(じゃあここが村長さんの家かな)
師範からここにお遣いを頼まれている。由樹は一つ頷くと玄関まで進み、インターホンを押した。
ひょっとしたらここにも誰もいないかも、と思った瞬間反応が返ってきた。
『――はい。どちら様ですか?』
多少しわがれたような男の声。由樹はほっとすると、言葉を返した。
「あの、神守市から参りました一ノ瀬と申します。村長さんは御在宅でしょうか?」
『村長は私ですが』
「すみません、こちらに神守依澄さんという方はいらっしゃいますか?」
すると、不自然な間が一瞬生まれた。
『……少々お待ち下さい』
声が途切れる。どこか警戒するような声に聞こえたのは気のせいだろうか。
扉の向こうから足音が響いてきた。足音は扉の前で止まり、
「――!?」
その瞬間、由樹は奇妙な気配を感じ取り、思わず後方に飛び退った。
鼓動が速まる。今の気配は、
「どうされました?」
扉が開き、中から初老の男が出てきた。
男性は茶色のセーターにGパン姿で、特に変わったところはない。
由樹は慌てて姿勢を正し、頭を下げた。
「こ、こんにちは」
「こんにちは。この村の村長をやってます火浦敬造(ひうらけいぞう)です」
そう名乗った男はどうぞ上がって下さい、と柔和な笑みを浮かべた。
さっきの気配はどこにもない。
由樹は戸惑いつつもリュックを背負い直し、再び頭を下げた。
屋敷の中は広かった。
長い廊下を挟んでいくつもの部屋があり、手前の方に洋室、奥の方に和室と分かれていた。
火浦が言うにはこの村には旅館やホテルがなく、外から来た人間にはこの村で一番大きいこの家が、宿代わりに部屋を貸しているという。
由樹は奥の応接室に通された。来客用のソファーを勧められると、由樹は荷物を横に下ろしてから、遠慮気味に浅く腰掛ける。
火浦は向かいのソファーに座ると、おもむろに尋ねてきた。
「ここにはどのような御用で?」
「あ、ある人から神守依澄さんという方に手紙を渡すよう頼まれまして、こちらを訪ねれば会えると言われたんですが……」
「……そうでしたか。他には何か?」
「いえ、それだけです。こちらには温泉があると聞いたので、しばらくゆっくりしようかと」
「それはそれは。この村は御覧の通り何もないところですが、温泉だけは自信を持っておすすめできますよ」
「楽しみです。それで、神守さんはどちらに……?」
「そのことなんですが……」
火浦の顔が曇る。
「どうかしましたか?」
「いえ……実は神守さんという方はこの村にはいません。神守依澄さんという方は、今日こちらにいらっしゃる予定のお客様なのですよ」
「……え?」
由樹はわけがわからず、つい目を見開いた。
「一ノ瀬さんがお探しの方はおそらくその方ではないかと」
「……その方はいつ?」
「夕方頃にはこちらに着くかと思われますが」
「しばらく待たせてもらえますか?」
「どうぞどうぞ。お部屋を御用意いたしますから、そちらでゆっくりなさっていて下さい。神守さんがお着き次第、連絡いたしますので」
「すみません、急な申し出で」
「いえいえ。村長として当然のことですよ。この村は人が少ないですから、お客様は大歓迎なんですよ」
そう言って火浦は笑った。
丁寧で柔らかい物腰は好感が持てた。由樹もつられて笑う。
そこで思い出した。もう一つ訊きたいことがあったのだ。
「あの、来るとき誰にも会わなかったんですけど、村の人はどちらに……?」
一番の疑問をぶつけてみると、火浦はあっさり答えた。
「旅行です」
「は?」
「先日、村の者が団体旅行券をくじ引きで当てまして、皆で九州へ旅行中なんですよ」
飛行機が苦手なので、私一人だけ留守番です。火浦はそう言って照れくさそうに頭を掻いた。
旅行。わかってしまえばなんということはない。
由樹は内心で納得とともに安心した。
和室に通されると、由樹は荷物を置いて畳に腰を下ろした。
待ち人が来たら知らせるということなので、それまでゆっくり待つつもりだ。
(しかし、なんで先生は俺に手紙を持たせたのだろう)
畳に寝転がりながら、由樹は疑問を抱く。
手紙なら直接相手に送ればいいし、電話の方が確実だ。なのになぜこんな回りくどいことを。
(でも、あの人が無意味なことをするとも思えないし)
多分訊いてもろくに答えてくれないだろう。容易に答えを明かさず、こちらに考えることを常に要求してくる人だ。
連絡を取ろうかとも思ったが、そもそも携帯は圏外で使えない。わざわざ火浦に電話を借りるのもどうかと思う。
まあいいか。由樹はそのまま目をつぶり、意識を闇の中に投げ放そうとした。
「――!」
不意に生じた気配に、由樹は反射的に跳ね起きた。
さっき玄関で感じたものと同じ気配だ。入り口の襖に素早く視線をやり、身構える。
身構えてしまう程に嫌な気配。これはまるで――
気配が消えた。
「……」
由樹は襖を鋭く睨む。拡散するように気配は消えたが、警戒を解く気にはなれなかった。
今の不快な感触。この感触はどう考えても――殺気だった。
しかし誰が?
該当するのは一人しかいない。
火浦敬造。
(でも、なんで火浦さんが?)
わけがわからなかった。しかし、わからなくても危害を加えられる可能性はある。
用心しておこう。由樹はもう横にはならず、壁際にも近付かなかった。
広い十二畳部屋の真ん中で、由樹は静かに時間が過ぎるのを待った。
◇ ◇ ◇
日が沈む少し前。
玄関先に人の気配を感じた。
由樹の鋭敏な感覚は屋敷全体を知覚するまでに広がっていた。
(ちょっと警戒しすぎたかな)
由樹は注意を解き、立ち上がった。誰かが来たみたいだ。おそらく待ち人だろう。そのまま部屋を出て玄関に向かう。
「おや、一ノ瀬さん」
玄関には既に火浦が迎えに出て来ていた。
「今ちょうど神守さんが到着されたところですよ」
玄関口を見ると、和服姿の女性が立っていた。
その姿を見た瞬間、由樹は放心してしまった。
その女性は、由樹が今まで見たことがないほどに美しかった。
人形のように整った目鼻立ちも、眩しいくらいに白い肌も、全てが幻想的なまでに美しい。
漆黒の髪は闇の中でも映えそうなくらい輝いて見え、真っ直ぐで綺麗な姿勢は全身に凛とした空気を纏わせている。
存在自体が夢のようで、由樹はぼう、と見惚れたまま固まってしまった。
「一ノ瀬さん?」
火浦の言葉に由樹ははっ、と正気に戻る。
「あ、す、すみません。ついぼんやりしてしまって」
言ってから後悔した。何がついだ。
しかし女性は特に気にした風でもなく、ぺこりと一礼してきた。
その所作でさえ華麗に映り、由樹は心底感動した。
(こんなに綺麗な人がいるんだ……)
「では神守さん、どうぞこちらへ。一ノ瀬さんもどうぞ」
火浦に促されるままに由樹は奥へと向かう。
女性――神守依澄も流麗な動作で屋敷に上がると、静々と後ろをついてきた。
応接室に入ったところで火浦が依澄に言う。
「神守さん。こちらの一ノ瀬さんはあなたに用があってこの村にいらしたそうです」
「……」
依澄の目が由樹を見据える。
彼女は無表情だった。さらに口も開かず、ますます人形のように思える。
しかし、冷たさは意外と感じられなかった。
「一ノ瀬由樹です。遠藤火梁から手紙を預かってきました」
「……」
依澄の顔が怪訝なものに変わる。
だが由樹にも師匠――火梁の意図はわからないのだ。手紙の中身ももちろん知らない。
てっきり依澄がそのことを知っていると思っていたのだが、その様子は見られなかった。
とりあえず由樹は封をされた手紙を渡す。依澄は何も言わずに受け取り、その場で封筒を開けた。
中に入っていたのは、二枚の便箋。
依澄は三つ折にされたそれらの片方を開くと、中身を黙読し始めた。
「…………」
読んでいくうちに依澄の顔が徐々に曇っていった。
何が書かれているのだろう。ひどく気になる。
もう片方の便箋にも目を通す。
依澄の目が再び由樹に向いた。
その視線は何かこちらを試すような、探るような感じがした。一枚目の手紙の文をもう一度なぞりながら、比べるように依澄は青年を見つめる。
由樹はますます手紙の中身を知りたくなった。まさか自分のことが書かれているんじゃ……。
やがて依澄は困ったような表情を浮かべた。
(ん?)
しかしそれは一瞬で、一つ頷くと同時に元の無表情に戻った。
そして、
「一ノ瀬さん」
初めて依澄の口が開かれた。
由樹はその綺麗な声音にびっくりしたが、すぐに返事をする。
「はい」
依澄は二枚目の便箋をこちらに差し出してきた。由樹はそれを受け取る。読めということだろうか。
手紙にはこう書かれていた。
『依澄ちゃんへ
こっちの手紙は今あんたの目の前にいるだろう一ノ瀬由樹に対してのものだから、軽く流し読みしたら渡してやってくれ。
さて由樹。これから温泉にでも入ってゆっくりしようとしているところ悪いが、頼みがある。
依澄ちゃんの仕事を手伝ってほしい。
依澄ちゃんは俗に言う霊能者ってやつだ。別に信じなくていいが、そういう仕事を生業としている。
なんであんたに頼むのかと言うと、あんたの力を買ってのことだ。
依澄ちゃんの仕事には妙なトラブルが絶えなくてね。彼女に危害が加えられる可能性がある。
別に今回の件は特別なものではないみたいだが、ちょいと心配でね。ボディガードをしてやってくれ。
本来その任を負うのは私の兄貴なんだが、ちょっと怪我をしてしまった。
私も用事があって代わってやれない。
勝手な頼みだとは思うが、お前が一番の適任者なんだ。よろしく。
P.S.そこの温泉は混浴だ。ついでに依澄ちゃんとゆっくり楽しんでこい。依澄ちゃんは無口だがいい娘だぞ』
読み終えて、由樹は自分の目が自然と細まるのを自覚した。
いろいろ突っ込みたい点はあるが、なんでこんな回りくどいことを。直接言ってくれればいいのに。
由樹は人からの頼みごとを断らないのだから。
とはいえ少しばかり困ったのも事実である。ボディガードと言われても一体どうすれば、
「……すみません、一ノ瀬さん」
依澄の声が由樹をはっとさせた。
「い、いや、神守さんが謝ることじゃないですよ。先生の無茶には慣れてるし、大丈夫。
問題なし」
依澄は申し訳なさそうに目を伏せる。
こういう所作に由樹は非常に弱い。
「大丈夫。ちゃんと手伝います。いや、手伝わせて下さい」
「……?」
依澄は顔を上げて不思議そうに由樹を見やる。
自分でも変だとは思う。しかし、仕方ないじゃないかとも思っていた。
由樹はいつだって、誰かのためにしか動けないのだから。
◇ ◇ ◇
依頼の内容は実に単純なものだった。
村内にある刀を処分すること。それだけだ。
その刀は戦国時代に実際に使われていた実戦用で、持ち主を魅了する妖刀だという。
戦がなくなってもなお人を魅了し、人を殺め続けたために、この村のどこかに封印されたらしい。
(でも……)
由樹は歩きながら首を傾げる。
三人が歩いているのは、ちょうど火浦の屋敷の裏山に続く道だった。舗装されていない山道は、夕方の暗がりも重なって少々歩きづらい。
由樹はいまいち納得がいかなかった。封印しているなら放っておけばいい。なぜわざわざ処分する必要がある。
しかも処分にあたるのは若い女性一人だ。
「……」
依澄は静々と由樹の前を歩いている。
先導する火浦の背中を追う依澄の後ろ姿は、実に絵になった。夕暮れの中、おぼろげに見える和服姿は幻想的だ。
霊能者だという。確かに浮き世離れした印象を抱かせるが、しかし特別な力を持っているようには見えない。
「あの……神守さん」
由樹は依澄の横に並ぶと、とりあえず話しかけてみた。
「……」
無言で首を傾げられる。由樹は一瞬詰まるが、
「あー、大丈夫ですか? 歩くの疲れたりとか」
「……」
依澄は無言のまま首を振った。
「そ、そう。足下危ないから気を付けてくださいね」
言った瞬間、依澄の体ががくんとつんのめった。
「!」
依澄が微かに目を見開く。そのまま転びそうになって、
「おっ、と」
慌てて由樹がその体を支えた。
腹辺りに右手を差し込み、左手で腰の帯を掴む。着物と体の柔らかい感触に少しどきりとする。
「ほら、気を付けないと」
すると、依澄が顔を上げて言った。
「ありがとうございます」
頭を下げるその動作も美しい。由樹は妙に気恥ずかしくなってつい顔を逸らした。
どこをどうしたらこんなに美しい振る舞いができるのだろう。依澄の一挙手一投足はあまりに整っていた。
そのとき、先導していた火浦がぴたりと足を止めた。
「この辺りです」
そこはちょうど道の終わりで、先にはただ林だけが広がっていた。
「? 何もないですけど」
周囲を見回すが、特に変わったものはない。
「そう、何もないんです」
「は?」
「だから神守さんをお呼びしたんですよ。普通の人にはこの先の結界を破れないので」
由樹には意味がわからない。
依澄はしばらく無反応だった。
「さあ、神守さん。お願いします」
「……」
火浦の言うことも依澄のやることも由樹にはわからない。
ただ、彼女が危ないときは自分が全力で守らなければならない。由樹が確信しているのはそれだけだ。
依澄は──首を振った。
火浦の目が見開かれた。
「……な、何のつもりですか」
「……あなたから、人以外の気配がします」
「な……!」
火浦はうろたえた声を洩らした。
依澄はそんな彼を鋭く見据える。
「な、何を言い出すのですか。私は依頼人ですよ? 妙なことを言わないで下さい」
「……」
しかし、依澄の目は変わらない。変わらず、疑いの目を向けている。
由樹は突然の展開に驚いたが、何を言っていいかわからず黙っていた。
火浦は抗弁を続ける。
「何を疑っているのかわかりませんが、私にやましいことなどありませんよ。だいたい、
あなたを騙して私に何の得があるのですか」
「……」
依澄の表情は変わらない。
その目に気圧されたか、火浦は声を荒げた。
「い、言うことを聞け! さっさと結界を解くんだ! 早く!」
「……」
「頼む……言う通りにしてくれ。でないと」
そのとき、依澄の眉が微かに跳ね上がった。
火浦は頭を抱えてうずくまる。
「俺は……俺は……」
ぶつぶつと何かを呟く火浦は、理性を失っていくかのように挙動不審になっていく。
まるで、人ではなくなるかのように。
依澄は何も答えない。何かを待っているかのように、和服姿の麗女は美しく男を見つめ続ける。
火浦は落ち着きなく身じろいで──
「じゃあ……もういい」
次の瞬間、身を起こすや目の前の依澄に飛びかかった。
「!」
由樹が動いたのは同時だった。
いや、火浦の体に「タメ」ができた瞬間には動いていたので、正確には同時ではない。ここでいう同時とは行動の起点ではなく、攻撃のことを指していた。
火浦が動いたときには既に由樹は彼に攻撃をしていた。
だから火浦が10センチも前進できずに由樹の横蹴りに吹っ飛ばされたのも、由樹の凄まじい反応の速さを考えれば仕方のないことであった。
確かな手応え──いや、足応えを靴の裏から感じ取った。
由樹は反動を利用して、綺麗に構えを戻す。
火浦の体は3メートル先まで吹っ飛んだ。
相手の動きの「起こり」に合わせた完璧なカウンターだった。由樹は心配になる。相手の年齢を考えると、今の一撃はやりすぎにも程が、
三秒と間を置かずに、火浦はすぐさま跳ね起きた。
由樹は小さく息を呑む。
手加減のない一撃だったのだ。相手の胸元に骨も砕けよとばかりに放った渾身の横蹴り。しかも正中線の『胸尖』を貫いた一撃だ。大の男でものたうち回る急所を突いたというのに、相手は平然と立ち上がっている。胸骨さえ砕けているかもしれないというのに。
火浦は無表情に立ち尽くしている。その顔からは何の感情も見えてこない。
そして、その無表情のまま、火浦は自身の右手を頭上に掲げた。
何を意味する行為かわからず、由樹は思わず身構える。
由樹は掲げられた右手を注視する。その右手から、何かが「生えた」。
それは、刀だった。
まるで木が天に向かって伸びるように、鈍色の刀が掌から生えてきた。
「……!」
心だけは決して揺れないと思っていた由樹も、あまりの事態に一瞬呑まれた。
その隙を突くかのように、火浦が突進してきた。己の体から出した刀を握り、由樹に斬りかかってくる。その動きは実年齢から三十年は若返ったかのような鋭さだった。
由樹は呑まれながらもすかさず反応した。
袈裟斬りを寸前でかわす。刀が下に振り切られた瞬間は狙わない。しかし懐に入ろうとするフェイントは微かに見せておく。
逆袈裟に斬りつけてきた。
由樹はそれもしゃがみ込むようにかわし、刀が上に跳ね上がると同時に相手の膝に目がけて低空の足刀蹴りを放った。
右膝が逆方向に折れ、火浦はバランスを崩す。間を置かずに左膝にも蹴りを打ち込み、火浦は糸の切れた人形のように、力なく崩れ落ちた。
「……」
由樹は後ろに下がって間合いを取る。そして火浦から目を離さずに依澄に注意を呼び掛けた。
「神守さん。下がっててください」
「……」
「早く」
依澄は由樹の言う通りに下がる。
普通ならもう問題はない。左膝を完璧に壊すことはできなかったが、それでも両膝の破壊で歩行は困難なはずだった。
破壊したのだ。由樹は、手加減なく。
だが、なぜか一向に安心することができない。
胸骨と膝関節を壊し、ひょっとしたら再起不能かもしれない程のダメージを与えたというのに。
嫌な感じが、気持ちの悪い印象が拭えない。
(……俺は何をやってしまってるんだろう)
相手は刀を持っているとはいえ一般人だ。なのに自分は、あまり手加減ということを考えずに技を使った。
普段の由樹ならそんなことは絶対にしないはずなのに。
由樹は火浦を見つめる。
地に倒れ伏した男は、なんとか立ち上がろうともがいているが、力が入らないのかどうしても体を持ち上げられないでいる。
「無理に立とうとすると、まともな体に戻れなくなるよ」
「……」
火浦は応えない。
もう何もできないはずだ。由樹は内心でそう思う。
しかし、どうしても警戒を解くことができない──
火浦は右手の刀を見つめている。
(大体、あの刀はなんなんだ。体の中から出すなんて)
さっきからわけのわからないことばかりだ。結界がどうとかいう話になって、依澄が火浦の頼みを断って、火浦が逆上して、由樹はそれを返り討って、火浦が体から刀を出して、
刀。
(……ひょっとして、刀ってあれのこと?)
火浦の手にある日本刀。あれが火浦の話していた妖刀なのだろうか。
ということは、火浦は嘘をついていたことになる。
刀は封印などされてなくて、既に火浦の手元にあった。ということは、
火浦の手が動いた。
由樹はその動作を注視する。
だが、火浦が次に起こした行動には、さすがの由樹も驚愕した。
火浦は刀を逆手に持つと、自らの腹に向けて思い切り突き刺したのだ。
「なっ!?」
貫いた箇所から一気に血が溢れ出してくる。見た目にも凄絶で凄惨な光景にも関わらず、火浦は呻き声一つ上げようとしない。まるでそこに自分の意識がないかのようだ。
理解不能の行動だった。自らを傷つけることに何の意味があるのだろう。
その答えはすぐに出た。
火浦の出血が止まらない。赤い血が湧き水のように漏れ出て、刀身を伝っていく。
その赤い血が、次々と刀に吸い込まれていった。
水がスポンジに染み込むように、血が刀に解け込んでいく。
それと同時に火浦の体が急速に萎んでいった。
『いけません!』
叫んだのは依澄だった。
声量自体はさほど大きなものではなかった。しかしなぜかその声の響きに由樹はたじろぐ。
彼女がいけないというなら、それは本当にいけないんだろう。なぜかそんな考えが脳に侵蝕してくる。いや、それだけじゃなく、彼女の言葉には逆らえないと感じた。
何の作用か、火浦の肉体の異変が止まった。
「!」
だがそれも一瞬のことで、再び吸収が始まる。
「……こ、こんな」
由樹は思わず後ずさった。
初老の男性の体がしなびた野菜のように枯れていく。まるで刀が生きていて、火浦の生命力を吸い取っているかのようだ。
心なしか、刀が先程よりも輝いて見える。
──妖刀、という言葉が頭に浮かんだ。
本当なのかもしれない。目の前で起こっていることを考えると、最早刀とは呼べない。
助けなくては。そう由樹は思った。しかしあまりの光景に体が動かなかった。
全身の水分が蒸発したかのように枯渇し、火浦の体はまるっきりミイラになってしまった。
いや、ミイラよりなおひどい。なぜなら全身の体液を吸われてなお、吸収が止まらないからだ。
火浦の体が胴体部から溶けるように消失していく。
質量保存の法則などまるで無視するかのように、刃部分に染み込み、溶けていく火浦の肉体。
皮膚も、肉も、骨も、液も、およそ人間の構成要素の全てを、刀は飲み込んでいく。
(飲み込むとか……発想が既に毒されている)
しかし目の前で起こっていることは現実だ。
血と内臓と体液の臭いが入り混じり、強烈な悪臭がこちらに漂ってくる。
由樹は嫌悪を隅に追いやって、思考を巡らせる。助からない。手遅れ。なぜ動かなかった。戦慄。後悔。
火浦の体を完全に呑み込むと、刀が急に浮き上がった。
「な……」
由樹はその光景に目を疑ったが、驚いている暇はなかった。
空中でぴたりと静止したかと思うと、刀はそのまま切っ先を依澄へと向けたからだ。
その時になって、ようやく由樹は依澄をかばうように前に出た。
予感通り、刀は真っ直ぐ矢のように襲いかかってきた。
何かに操られるように飛んでくる刀を、由樹は手でいなしながら蹴り落とした。
が、すぐに刀は体勢を立て直して襲ってくる。
突きを辛うじて左手で捌く。掌に微かな傷ができるが気にしない。再び蹴り倒そうと右脚を、
「!」
カウンターの剣撃を寸前でかわす。靴裏を真っ二つに斬られて、靴下が露出した。咄嗟に蹴りを止めてなかったら、右足を甲から落とされていただろう。
まずい。由樹は不利を悟る。この妖刀の剣撃を、由樹は読み切れない。
人が操る剣筋ならば対処できる。しかし刀そのものが相手となると、人の手によるものではないため予測がつかない。
ある程度の「型」はあるように見えるが、即座の対応は難しいように感じた。
どうする、という逡巡さえ与えてくれずに、刀は鋭く斬りつけてくる。頭部への斬撃を髪の毛数本と引き換えになんとかかわし、後方に飛び退って距離を取る。
すぐ真後ろには、依澄の影。
由樹は決意を固める。
「神守さん!」
「逃げるのですね」
呼び掛けるやすぐさま返事が返ってきたので、由樹は思わず振り返りそうになった。相手から目を逸らすなんて、そんな危険な真似はしないが。
「……私が隙を作ります」
「君が?」
刀が中空に躍り、迫ってくる。
そんな凶器に向かって、依澄が何かを投げた。
石のようなものが複数ばらまかれた。刀ではなく、その周囲を取り囲むように投じられた。
すると、刀は空中で突然止まった。
そしてしばらくゆらゆらと刃先を揺らし、周囲を無茶苦茶に斬り裂き始めた。
まるで混乱しているかのように、周りの空間を斬りまくっている。狙いが定まらないのか、何もない空間を空振りしている。
何が起こったのかまるでわからなかったが、由樹はすかさず動いた。依澄を抱き上げると、元来た道を全力で駆け出した。
「あ、あの」
急に抱き上げたためか、依澄が戸惑いの声を上げる。
「ごめん、黙って!」
断りもなく女性を抱き上げるのは失礼かとも思ったが、そんなことは言ってられない。着物姿の依澄はうまく走れないだろうし、由樹の運動神経を持ってすればこの方が断然速い。
刀は追ってこない。由樹は振り返らずにただ走る。
夕暮れの朱が闇に変わりゆく中、スピードを落とさずに山道を走り抜ける。
◇ ◇ ◇
依澄の体が想像以上に軽かったため、思った程負担はなかった。
それでも火浦の屋敷に戻ってくる頃には、さすがの由樹も息を切らしていた。
家の中に駆け込み、玄関で依澄を下ろすと、由樹は盛大に息を吐いた。
「か、神守さん……大丈夫?」
「……」
依澄はきょとんとなって由樹を見やる。
あなたこそ大丈夫なのか。言葉はなかったがそう言いたげで、由樹は思わず苦笑いした。
すると、依澄もそれにつられるように笑った。
綺麗な笑い声だった。おかしそうにくすくす笑う依澄を見て、由樹もまた笑う。
こんなときではあったが、この娘もこんな風に笑うんだ、と思うとなんだか嬉しくなった。
しかし、そんな和やかな雰囲気も続かない。すぐに笑いを収めると、依澄は懐からまたさっきのものを取り出した。
明かりの下でようやく由樹はそれが何なのか確認する。
それは、ビー玉だった。
本当に何の変哲もないガラス玉で、由樹は少し拍子抜けした。
依澄はそれを玄関下にばらまく。五、六個のビー玉が音を立てて転がった。
さらに依澄は帯の内側から一枚の紙札を抜き出した。草書体で何か書かれていたが、由樹には読めなかった。その札を扉に貼りつける。
「あの……それは何? 何をやってるの?」
依澄は答える。
「結界です」
「……それは君の、力?」
「……」
由樹にはよくわからなかった。
疑問はたくさんある。刀のこと。火浦のこと。結界のこと。依澄のこと。
何よりこれからどうするか。
あの刀をどうにかするにしても、対策が必要だ。依澄に何ができるのかはわからないが、由樹一人ではあれに対抗できない。
まだ息が整わない。稽古不足かもしれない。技はともかく、スタミナが切れるとは。
緊張状態のせいか、動悸がやたらに激しい。
こんなところで考え込んでいてもらちがあかない。由樹は靴を脱いで屋敷に上がろうとした。
ところが、
「え……」
由樹の体が急に傾いだ。
廊下に足をかけた瞬間だった。体を支えきれずに、由樹はそのまま横に倒れた。
「…………ぇ?」
口から洩れた言葉は囁き程度で、空気さえろくに震わせられない。
体に力が入らなかった。気付いた時には意識さえ朦朧としていて、由樹は横になった世界を茫然としながら見る。
天井が高い。部屋が遠い。床が冷たい。
凛とした声が上から聞こえる。
意識を失う前に由樹が見たのは、心配そうに自分の名を呼ぶ依澄の姿だった。
◇ ◇ ◇
「一ノ瀬……さん?」
いきなりその場に倒れ込んだ由樹に、依澄はひどく驚いた。
慌てて呼び掛けるが、由樹は気絶したまま動かない。
このままにはしておけない。依澄は由樹の体を奥の和室まで運ぶことにした。由樹の体は依澄には重く、半ば引きずる形になってしまったが、それでもどうにか運び込む。
押し入れから布団を引っ張り出し、ゆっくりと寝かせる。すぐに看病といきたいところだが、依澄にはまだやるべきことがあった。
広い屋敷内をくまなく調べて、出入口に札を貼る。玄関の札と霊石で屋敷に結界を張りはしたが、他の箇所にも貼って強化する必要がある。今あの妖刀に侵入されたら対処の術がない。
合計五カ所に札を貼ると、依澄は家中をあさり始めた。救急箱に数枚のタオル、洗面器に沸かしたお湯を張って由樹のいる部屋へと戻る。
由樹は呻きもせずに、布団の上で固まっていた。意識はない。
依澄は息を呑んだ。
由樹の体に大きな傷はない。掌と足に微かな切り傷があるだけだ。
が、それは肉体に限った話である。依澄の目には由樹の魂が傷付き、その傷口から霊力が漏れ出している光景がはっきりと見える。
明らかにあの妖刀の持つ力のせいだった。内に凄まじい霊力を秘めたあの刀は、対象を物理的に破壊するのと同時に霊的にもダメージを与えるのだろう。
由樹は物理的ダメージはなんとか防いだが、霊的ダメージまでは防げなかったのだ。
このままでは由樹は死ぬ。まずは魂の傷を治さなければならない。依澄は由樹の魂に直接触れると、自身の霊力を使って傷口を塞ぎ始めた。
刀で斬られたせいか、歪みのない綺麗な傷口だった。これならなんとか元通りにできる。皮肉だが、敵の日本刀のキレに感謝しなければならない。
丁寧に魂を治すと、今度は体の方を手当てする。かすり傷とはいえ怪我は怪我だ。掌と足、両方を消毒し、ガーゼを当てる。
治療を終えても由樹は目を覚まさなかった。
霊力が足りない。魂の傷は治したが、そこから溢れ落ちた霊力は結構な量だった。
命を取り留めはしたが、このままでは目を覚まさないだろう。霊力を補充する必要がある。
(……私の霊力を、いくらか彼に分け与えれば)
方法はある。ならば迷うことはない。
ふと依澄は腕に鼻を近付けて、自分の体臭をかいだ。
「……」
顔を赤くする。できればお風呂に入ってからの方がいいかな、と思った。
しかしそうも言ってられない。依澄はため息をつくと、着物の帯を解き始めた。
しゅるしゅると音を立てて着物を脱いでいき、やがて完全な裸になる。
それから由樹に寄り添うように近付くと、目を瞑りキスをした。
由樹の唇は、思ったよりもずっと柔らかかった。
◇ ◇ ◇
目が覚めた瞬間、由樹は何が起こっているのかまるでわからなかった。
依澄が自分にキスをしている。
なぜ? どうして? 混乱する頭に、しかし心地よい異性の感触が響いてくる。
夢でも見ているのか。まさか人工呼吸とか?
腕を動かそうとしたが、痺れたように動かない。全身が鉛のように重く、由樹は抵抗できない。
依澄はその間も深く唇を重ねてくる。
舌が口内に入ってきた。ねっとりと柔らかく温かい感触は、不思議と安心できた。
体の重みが取れていく。視界も明瞭になっていき、由樹は現状を把握する。
広い和室の真ん中、敷かれた布団の上で由樹は横になっている。
依澄はなぜか裸だった。真っ白な柔肌を隠そうともせず、由樹の上にかぶさってくる。
唇がようやく離れた。のぼせたように赤く上気した依澄の顔が色っぽい。
「神守さん……これは」
「依澄、と……そうお呼び下さい」
「な……いや、そうじゃなくて」
「動かないで」
静かな声で囁かれて、由樹は身じろぐのをやめる。
少し恥ずかしそうにしているのを見ると、つまりそういう意味なのだろうか。
「どうして?」
「……」
依澄は答えない。
意味がわからない。
由樹は身を起こそうとした。しかし依澄に両肩を押さえ付けられる。
「神……依澄さん」
「……」
依澄は微かに逡巡した様子を見せた。それが何を意味するのか由樹にはわからないが、それでも彼女が真剣だということはわかった。
だからといって納得したわけではない。
再度起き上がろうと力を込めると、依澄が先に口を開いた。
『動かないで』
瞬間、由樹の体は金縛りに遭ったように動かなくなった。
「!?」
由樹は突然の出来事に慌てた。
重くはない。ただ、意識の奥に強迫観念のような感覚が生まれて、体を動かそうと思えなくなっていることに気付いた。
体を動かすことから意識を遠ざけるような、そんな彼女の言葉。
どうすればいいのだろう。このまま身を委ねていいものかどうか。
そのとき、依澄が言った。
「あなたを、助けたいのです……。どうか信じてください」
小さな細々とした声だった。しかし彼女の真剣な眼差しが拒絶をさせなかった。
「……助ける?」
依澄は頷くと、由樹の股間を撫でさすった。
くすぐったい感触に由樹は体を震わせる。
ボタンが外され、ジッパーが下ろされる。由樹は身動きできない。
ジーンズをトランクスごと脱がされると、軽く勃起した逸物が現れた。
依澄はそれを確認すると、その部分にゆっくり顔を近付けた。
「い、依澄さん」
由樹は慌てる。こんな綺麗な人がまさか、
「ううっ」
柔らかい手指が根本を握り、美しい唇が先っぽをそっとくわえた。由樹は思わず声を洩らした。
そのまま口の中で亀頭を舐められる。鈴口に舌のぬめった感触が広がる。
「ん……」
依澄は目をつぶり、行為に没頭する。舌を細かく動かし、唾液を塗りたくるように逸物をなぶった。
ちろちろと舐められる感触に由樹は呻くことしかできない。
「うぅ……」
依澄の口が徐々に由樹を呑み込んでいく。まるで蛇のように、大きく膨れた肉棒を口腔の奥へと送り込んでいく。
軽く歯が当たり由樹は痛みを覚えた。気付いた依澄はすぐに口使いを修正する。
決して巧くはない。おそらくほとんど経験はないのだろう。ひょっとしたら初めてかもしれない。そう思うとここまでしてくれる依澄に罪悪感と、同時に興奮を覚えた。
肉棒が完全に口内に呑み込まれた。
依澄はそこで小さく息を整えると、口を上下に動かし始めた。
すぼまった唇が男性器を愛撫する。
唾液と口内の熱が焼くように下腹部を刺激する。加えて唇と舌がまとわりつくようになぶって、疲労感のある体にひどく気持ちいい。
由樹は荒い息を吐き出しながら快感に身を委ねる。
「は、ぁ……い、依澄さん、すごく、いい、よ」
「んむ、ん……ん……」
先走る液と唾液が混じり合い、ぬめりが増していく。
まるで溶かされるような、『食べられる』心地だった。
次第に高まっていく快感。男根はさっきからがちがちに硬くなっている。由樹はもうすぐ来るであろう絶頂を強く意識する。
が、達する前に依澄の口が逸物を放した。
「うあ……?」
唐突に快感が途切れて由樹は呆けた声を出す。
依澄は口から垂れた唾を指ですくい、舐め取った。それから濡れた指を自身の股間に伸ばし、弄り始めた。
くちゅ、くちゅ、と卑隈な音を立てながら、依澄は頬を赤く染める。
その姿はひどくなまめかしく、由樹は酔いそうになった。いや、既にもう酔っているのかもしれない。さっきからまばたきもできずに目を奪われてしまっているのだから。
依澄は秘所から指を離すと、由樹の上にまたがった。
本当にするのだろうか。股間を硬くしながらも、由樹はまだどこかで迷っていた。
だが、もう止められない。
どれだけ疑問に思っても、心はもう、彼女の美しさに囚われているから。
依澄がゆっくり腰を下ろしてくる。性器同士が直接触れ合う。
そして由樹は、彼女の中に包まれた。
「はあ……っ」
依澄の表情が苦しげに歪んだ。
依澄の中はとてもきつかった。入ったのが不思議なくらい狭く、由樹は痛みにも近い強烈な圧力を受けた。
(初めて……なのかな)
血は出ていない。
それでも依澄の様子を見るに、快感より苦痛の方が強いのは確かなようだ。明らかに経験不足である。
(なのに……なんでこんなに気持ちいいんだ?)
申し訳なく思いながらも、由樹の逸物は依澄の感触に歓喜していた。まだ入っているだけなのに、膣が全体を程よく締め付けてくるのだ。
これで動いたらどうなるのだろう。下半身がうずく。
もっと快感を得たい。快楽に溺れたい。由樹は自分でも不思議なくらい欲望に呑まれていく。
いつの間にか体が動かせるようになっていた。由樹は依澄の腰を掴むと、奥に向かって勢いよく肉棒を突き上げた。
「あぁあっ!」
依澄の口から嬌声が溢れた。
痛み以外の感覚がそこには見えた。人形のように無機質な顔に、はっきりと感情が表れている。由樹は嬉しくなって体を激しく動かした。
「ああっ、やっ、あっ、んん……きゃうっ、ふああ!」
長い髪を振り乱して声を上げる依澄。
由樹は目の前の真っ白な胸に手を伸ばした。柔らかい感触を味わいながら、腰をぐいぐい動かす。押し付けるように逸物を奥にぶつけると、膣が収縮して締め上げてくる。
こんなに快楽に陶酔したことがあっただろうか。
由樹の中で弾けそうなほど性感が高まっていく。
愛液が繋がりの隙間から漏れ出てくる。由樹の体液も混じっているだろう。激しくぶつかる体に合わせてぱちゅん、ぱちゅん、と音が響く。
擦れ合う性器は互いの温もりだけを求めるかのようにひたすら絡み合った。
「依澄さん……もう」
由樹が絶頂間近であることを訴えると、依澄は小さく頷き、腰の動きを速めた。
「ちょ、駄目だって……そんなにされると……中に」
「出して……ください。いっぱい、私の中に……んっ」
由樹は躊躇する。しかし快感は圧倒的でろくに考える暇さえ与えてくれない。
抜かなければ。でも抜きたくない。
自分の上で乱れ動く依澄の美しい姿に、由樹はもう流されるしかなかった。
彼女の膣内に出したい。
「ごめんっ、もうイク」
「はいっ、中に……あああっ!」
ペニスがびくっ、びくっと脈打ち、ありったけの力で精液を放出する。
するとそれに合わせるように、女陰が肉棒を締め付けた。まるで液を絞り取るかのように由樹に圧力をかけてくる。
「うわ……」
それに応えてさらに子種を発射する下腹部。雌の奥に欲望をぶちまける快楽に、由樹は思わず呼気を漏らした。
射精はしばらく続き、すべてを出し切るのに数十秒を要した。
ようやく波が収まると、依澄は糸が切れたように由樹の胸元に倒れ込んだ。
「い、依澄さん!?」
慌てて由樹は受け止める。抱き止めた体は柔らかく、細かった。
依澄は眠っていた。
疲れたのか、小さな寝息を立てている。その様子はまるで普通の女の子のようで、由樹は初めて彼女のことを『かわいい』と思った。
不意に眠気に襲われた。激しく依澄を抱いたせいだろうか。
由樹はいまだ繋がったままであることに気付き、依澄を起こさないように中から引き抜いた。それから横に寝かせて布団を掛けてやる。幸い目を覚ます様子はなかった。
依澄の隣で息遣いを感じながら、由樹は穏やかな気分で目を閉じた。
心地よい気分だった。
女の子みたいな名前だが男だ。細身で女顔のため、たまに女に間違えられることもある。
出身は神守(かみもり)市で、地元の明宝(めいほう)大学に通っている。今はちょうど就職活動中で、由樹はそのことで悩んでいた。
自分のやりたいこととは何だろう。何が自分に合っているのだろう。
説明会にも何度か行ったが、由樹にはピンとこなかった。
十二月に入っても、由樹の心はあまり晴れなかった。
そんなとき、彼が通う武術道場の師範が言った。
「そういうときは旅をしよう」
普段は週一でしか顔を出さない師範の言葉に、由樹は目を細めた。
「は?」
「いや、お前に頼みごとをしようと思ってな。大自然に触れてくる気はないか?」
「……どこかに行けと?」
「温泉もあるいい場所だぞ。お遣いついでに頼みたいんだが、どうだ?」
師範はにっこり笑って詰め寄ってくる。
由樹はその笑顔を見て何か嫌な予感がしたが、特に断る気もせず頷いた。
「よし。旅費は出してやるからお前は荷物だけ用意しろ。場所は……」
どんどん話を進める師を見ながら、まあいいかな、と由樹は苦笑した。この師範は無茶な人だが、考えなしにことを進める人ではない。それだけは確かだ。
クリスマスも近い。彼女もいない現在、旅行も悪くないと思った。
◇ ◇ ◇
クリスマス二日前。
由樹は荷物の入ったリュックとともに、山奥の小さな村を訪れていた。
岩塚村という、神守市から北へ三百キロ程上った場所だ。
名物は温泉だが、交通の便の悪さから観光客を集めるには至らない。過疎化も進み、寂れているといっていい村である。
新幹線から電車、バスと乗り継いでようやく着いた時、既に太陽は南中を過ぎていた。
「……でも、空気はおいしいな」
山道を歩きながら由樹は一人ごちた。都会より遥かに澄んでいる空気は、息をする度に体内を隅々まで清めてくれそうなくらいだ。
針葉樹林に挟まれた道を抜けると、ようやく視線の先に家屋が現れた。田畑に囲まれた民家がぽつぽつと建ち並び、その向こうには集落地が見える。
いかにも田舎という風景に由樹の心は不思議と落ち着く。これが癒しというやつなのだろうか。今時流行りもしないが。
彼女にも見せたかったなあ、と由樹はため息をついた。
一年前に別れた彼女。そういえば旅行とかは一度もしなかった。本気で好きだったのに、そういう思い出はあまり作らなかった。
今ではほとんど吹っ切ったつもりだが、たまに思い出してしまう。それは別れた時の彼女の言葉が効いたからだろう。
『あなたはいい人だけど――どこまでもいい人なのね』
意味はわからなかったが、その言葉は由樹の胸に響いた。
由樹はその彼女にひたすら合わせていた。自分のことは二の次で、全て彼女優先だったのだ。
それが本当の自分を見せていないように彼女には映ったのかもしれない。
しかし自分は『そういうもの』なのだ。由樹は、いつだって誰かの役に立ちたいと思っている。
だからこの旅行の話も受けた。人からの申し出や頼み事は断れない、否、断りたくない性格だから。
(……あ、警察官とかいいかも。人のために役立つ仕事だし)
道を歩きながら、由樹はぼんやり考える。
しかし、そんなのんびり気分はすぐに薄れていった。
集落地を目指してひたすら進んでいく中、なぜか誰にも出会わないのだ。
過疎が理由ではない気がした。人の気配自体がない。
田畑はよく手入れがされているので、廃村というわけではないだろう。庭の整頓ぶりから、民家にもそれなりに人の暮らしている様子が見られた。
しばらく歩いても、やはり誰にも会わない。昼間なのだから農作業中の人間くらいいそうなものだが。
由樹は近くの民家を訪ねることにした。ちょうど左手に木造の平屋が見えたので、そこに向かってみる。
家の横にあるガレージには大きなワゴン車が停まっていた。誰かは住んでいるのだろう。
由樹は玄関ドア前まで行くと、横についているベルを鳴らした。りーん、と奥から音が聴こえた。
「…………」
反応はない。
もう何度か鳴らしてみるが、まったく反応はなかった。
仕方ない、と由樹は諦めてその場をあとにする。別の家を訪ねよう。
空に大きな雲が現れ始めた。山間部では夜から雪が降るでしょう、と天気予報は言っていた。
山奥の澄んだ空気の中、冷たい風が青年の体を強く凪いだ。
◇ ◇ ◇
集落地まで来ても、人っ子一人現れなかった。
どの家を訪ねても何の反応もなく、そもそも人の気配がなかった。マリー・セレスト号みたいだ、と由樹は思った。
……不謹慎な例えに少し反省する。
集落地の一番奥まで行くと、一際大きな屋敷が建っていた。
表札を見ると『火浦』と刻まれている。
(じゃあここが村長さんの家かな)
師範からここにお遣いを頼まれている。由樹は一つ頷くと玄関まで進み、インターホンを押した。
ひょっとしたらここにも誰もいないかも、と思った瞬間反応が返ってきた。
『――はい。どちら様ですか?』
多少しわがれたような男の声。由樹はほっとすると、言葉を返した。
「あの、神守市から参りました一ノ瀬と申します。村長さんは御在宅でしょうか?」
『村長は私ですが』
「すみません、こちらに神守依澄さんという方はいらっしゃいますか?」
すると、不自然な間が一瞬生まれた。
『……少々お待ち下さい』
声が途切れる。どこか警戒するような声に聞こえたのは気のせいだろうか。
扉の向こうから足音が響いてきた。足音は扉の前で止まり、
「――!?」
その瞬間、由樹は奇妙な気配を感じ取り、思わず後方に飛び退った。
鼓動が速まる。今の気配は、
「どうされました?」
扉が開き、中から初老の男が出てきた。
男性は茶色のセーターにGパン姿で、特に変わったところはない。
由樹は慌てて姿勢を正し、頭を下げた。
「こ、こんにちは」
「こんにちは。この村の村長をやってます火浦敬造(ひうらけいぞう)です」
そう名乗った男はどうぞ上がって下さい、と柔和な笑みを浮かべた。
さっきの気配はどこにもない。
由樹は戸惑いつつもリュックを背負い直し、再び頭を下げた。
屋敷の中は広かった。
長い廊下を挟んでいくつもの部屋があり、手前の方に洋室、奥の方に和室と分かれていた。
火浦が言うにはこの村には旅館やホテルがなく、外から来た人間にはこの村で一番大きいこの家が、宿代わりに部屋を貸しているという。
由樹は奥の応接室に通された。来客用のソファーを勧められると、由樹は荷物を横に下ろしてから、遠慮気味に浅く腰掛ける。
火浦は向かいのソファーに座ると、おもむろに尋ねてきた。
「ここにはどのような御用で?」
「あ、ある人から神守依澄さんという方に手紙を渡すよう頼まれまして、こちらを訪ねれば会えると言われたんですが……」
「……そうでしたか。他には何か?」
「いえ、それだけです。こちらには温泉があると聞いたので、しばらくゆっくりしようかと」
「それはそれは。この村は御覧の通り何もないところですが、温泉だけは自信を持っておすすめできますよ」
「楽しみです。それで、神守さんはどちらに……?」
「そのことなんですが……」
火浦の顔が曇る。
「どうかしましたか?」
「いえ……実は神守さんという方はこの村にはいません。神守依澄さんという方は、今日こちらにいらっしゃる予定のお客様なのですよ」
「……え?」
由樹はわけがわからず、つい目を見開いた。
「一ノ瀬さんがお探しの方はおそらくその方ではないかと」
「……その方はいつ?」
「夕方頃にはこちらに着くかと思われますが」
「しばらく待たせてもらえますか?」
「どうぞどうぞ。お部屋を御用意いたしますから、そちらでゆっくりなさっていて下さい。神守さんがお着き次第、連絡いたしますので」
「すみません、急な申し出で」
「いえいえ。村長として当然のことですよ。この村は人が少ないですから、お客様は大歓迎なんですよ」
そう言って火浦は笑った。
丁寧で柔らかい物腰は好感が持てた。由樹もつられて笑う。
そこで思い出した。もう一つ訊きたいことがあったのだ。
「あの、来るとき誰にも会わなかったんですけど、村の人はどちらに……?」
一番の疑問をぶつけてみると、火浦はあっさり答えた。
「旅行です」
「は?」
「先日、村の者が団体旅行券をくじ引きで当てまして、皆で九州へ旅行中なんですよ」
飛行機が苦手なので、私一人だけ留守番です。火浦はそう言って照れくさそうに頭を掻いた。
旅行。わかってしまえばなんということはない。
由樹は内心で納得とともに安心した。
和室に通されると、由樹は荷物を置いて畳に腰を下ろした。
待ち人が来たら知らせるということなので、それまでゆっくり待つつもりだ。
(しかし、なんで先生は俺に手紙を持たせたのだろう)
畳に寝転がりながら、由樹は疑問を抱く。
手紙なら直接相手に送ればいいし、電話の方が確実だ。なのになぜこんな回りくどいことを。
(でも、あの人が無意味なことをするとも思えないし)
多分訊いてもろくに答えてくれないだろう。容易に答えを明かさず、こちらに考えることを常に要求してくる人だ。
連絡を取ろうかとも思ったが、そもそも携帯は圏外で使えない。わざわざ火浦に電話を借りるのもどうかと思う。
まあいいか。由樹はそのまま目をつぶり、意識を闇の中に投げ放そうとした。
「――!」
不意に生じた気配に、由樹は反射的に跳ね起きた。
さっき玄関で感じたものと同じ気配だ。入り口の襖に素早く視線をやり、身構える。
身構えてしまう程に嫌な気配。これはまるで――
気配が消えた。
「……」
由樹は襖を鋭く睨む。拡散するように気配は消えたが、警戒を解く気にはなれなかった。
今の不快な感触。この感触はどう考えても――殺気だった。
しかし誰が?
該当するのは一人しかいない。
火浦敬造。
(でも、なんで火浦さんが?)
わけがわからなかった。しかし、わからなくても危害を加えられる可能性はある。
用心しておこう。由樹はもう横にはならず、壁際にも近付かなかった。
広い十二畳部屋の真ん中で、由樹は静かに時間が過ぎるのを待った。
◇ ◇ ◇
日が沈む少し前。
玄関先に人の気配を感じた。
由樹の鋭敏な感覚は屋敷全体を知覚するまでに広がっていた。
(ちょっと警戒しすぎたかな)
由樹は注意を解き、立ち上がった。誰かが来たみたいだ。おそらく待ち人だろう。そのまま部屋を出て玄関に向かう。
「おや、一ノ瀬さん」
玄関には既に火浦が迎えに出て来ていた。
「今ちょうど神守さんが到着されたところですよ」
玄関口を見ると、和服姿の女性が立っていた。
その姿を見た瞬間、由樹は放心してしまった。
その女性は、由樹が今まで見たことがないほどに美しかった。
人形のように整った目鼻立ちも、眩しいくらいに白い肌も、全てが幻想的なまでに美しい。
漆黒の髪は闇の中でも映えそうなくらい輝いて見え、真っ直ぐで綺麗な姿勢は全身に凛とした空気を纏わせている。
存在自体が夢のようで、由樹はぼう、と見惚れたまま固まってしまった。
「一ノ瀬さん?」
火浦の言葉に由樹ははっ、と正気に戻る。
「あ、す、すみません。ついぼんやりしてしまって」
言ってから後悔した。何がついだ。
しかし女性は特に気にした風でもなく、ぺこりと一礼してきた。
その所作でさえ華麗に映り、由樹は心底感動した。
(こんなに綺麗な人がいるんだ……)
「では神守さん、どうぞこちらへ。一ノ瀬さんもどうぞ」
火浦に促されるままに由樹は奥へと向かう。
女性――神守依澄も流麗な動作で屋敷に上がると、静々と後ろをついてきた。
応接室に入ったところで火浦が依澄に言う。
「神守さん。こちらの一ノ瀬さんはあなたに用があってこの村にいらしたそうです」
「……」
依澄の目が由樹を見据える。
彼女は無表情だった。さらに口も開かず、ますます人形のように思える。
しかし、冷たさは意外と感じられなかった。
「一ノ瀬由樹です。遠藤火梁から手紙を預かってきました」
「……」
依澄の顔が怪訝なものに変わる。
だが由樹にも師匠――火梁の意図はわからないのだ。手紙の中身ももちろん知らない。
てっきり依澄がそのことを知っていると思っていたのだが、その様子は見られなかった。
とりあえず由樹は封をされた手紙を渡す。依澄は何も言わずに受け取り、その場で封筒を開けた。
中に入っていたのは、二枚の便箋。
依澄は三つ折にされたそれらの片方を開くと、中身を黙読し始めた。
「…………」
読んでいくうちに依澄の顔が徐々に曇っていった。
何が書かれているのだろう。ひどく気になる。
もう片方の便箋にも目を通す。
依澄の目が再び由樹に向いた。
その視線は何かこちらを試すような、探るような感じがした。一枚目の手紙の文をもう一度なぞりながら、比べるように依澄は青年を見つめる。
由樹はますます手紙の中身を知りたくなった。まさか自分のことが書かれているんじゃ……。
やがて依澄は困ったような表情を浮かべた。
(ん?)
しかしそれは一瞬で、一つ頷くと同時に元の無表情に戻った。
そして、
「一ノ瀬さん」
初めて依澄の口が開かれた。
由樹はその綺麗な声音にびっくりしたが、すぐに返事をする。
「はい」
依澄は二枚目の便箋をこちらに差し出してきた。由樹はそれを受け取る。読めということだろうか。
手紙にはこう書かれていた。
『依澄ちゃんへ
こっちの手紙は今あんたの目の前にいるだろう一ノ瀬由樹に対してのものだから、軽く流し読みしたら渡してやってくれ。
さて由樹。これから温泉にでも入ってゆっくりしようとしているところ悪いが、頼みがある。
依澄ちゃんの仕事を手伝ってほしい。
依澄ちゃんは俗に言う霊能者ってやつだ。別に信じなくていいが、そういう仕事を生業としている。
なんであんたに頼むのかと言うと、あんたの力を買ってのことだ。
依澄ちゃんの仕事には妙なトラブルが絶えなくてね。彼女に危害が加えられる可能性がある。
別に今回の件は特別なものではないみたいだが、ちょいと心配でね。ボディガードをしてやってくれ。
本来その任を負うのは私の兄貴なんだが、ちょっと怪我をしてしまった。
私も用事があって代わってやれない。
勝手な頼みだとは思うが、お前が一番の適任者なんだ。よろしく。
P.S.そこの温泉は混浴だ。ついでに依澄ちゃんとゆっくり楽しんでこい。依澄ちゃんは無口だがいい娘だぞ』
読み終えて、由樹は自分の目が自然と細まるのを自覚した。
いろいろ突っ込みたい点はあるが、なんでこんな回りくどいことを。直接言ってくれればいいのに。
由樹は人からの頼みごとを断らないのだから。
とはいえ少しばかり困ったのも事実である。ボディガードと言われても一体どうすれば、
「……すみません、一ノ瀬さん」
依澄の声が由樹をはっとさせた。
「い、いや、神守さんが謝ることじゃないですよ。先生の無茶には慣れてるし、大丈夫。
問題なし」
依澄は申し訳なさそうに目を伏せる。
こういう所作に由樹は非常に弱い。
「大丈夫。ちゃんと手伝います。いや、手伝わせて下さい」
「……?」
依澄は顔を上げて不思議そうに由樹を見やる。
自分でも変だとは思う。しかし、仕方ないじゃないかとも思っていた。
由樹はいつだって、誰かのためにしか動けないのだから。
◇ ◇ ◇
依頼の内容は実に単純なものだった。
村内にある刀を処分すること。それだけだ。
その刀は戦国時代に実際に使われていた実戦用で、持ち主を魅了する妖刀だという。
戦がなくなってもなお人を魅了し、人を殺め続けたために、この村のどこかに封印されたらしい。
(でも……)
由樹は歩きながら首を傾げる。
三人が歩いているのは、ちょうど火浦の屋敷の裏山に続く道だった。舗装されていない山道は、夕方の暗がりも重なって少々歩きづらい。
由樹はいまいち納得がいかなかった。封印しているなら放っておけばいい。なぜわざわざ処分する必要がある。
しかも処分にあたるのは若い女性一人だ。
「……」
依澄は静々と由樹の前を歩いている。
先導する火浦の背中を追う依澄の後ろ姿は、実に絵になった。夕暮れの中、おぼろげに見える和服姿は幻想的だ。
霊能者だという。確かに浮き世離れした印象を抱かせるが、しかし特別な力を持っているようには見えない。
「あの……神守さん」
由樹は依澄の横に並ぶと、とりあえず話しかけてみた。
「……」
無言で首を傾げられる。由樹は一瞬詰まるが、
「あー、大丈夫ですか? 歩くの疲れたりとか」
「……」
依澄は無言のまま首を振った。
「そ、そう。足下危ないから気を付けてくださいね」
言った瞬間、依澄の体ががくんとつんのめった。
「!」
依澄が微かに目を見開く。そのまま転びそうになって、
「おっ、と」
慌てて由樹がその体を支えた。
腹辺りに右手を差し込み、左手で腰の帯を掴む。着物と体の柔らかい感触に少しどきりとする。
「ほら、気を付けないと」
すると、依澄が顔を上げて言った。
「ありがとうございます」
頭を下げるその動作も美しい。由樹は妙に気恥ずかしくなってつい顔を逸らした。
どこをどうしたらこんなに美しい振る舞いができるのだろう。依澄の一挙手一投足はあまりに整っていた。
そのとき、先導していた火浦がぴたりと足を止めた。
「この辺りです」
そこはちょうど道の終わりで、先にはただ林だけが広がっていた。
「? 何もないですけど」
周囲を見回すが、特に変わったものはない。
「そう、何もないんです」
「は?」
「だから神守さんをお呼びしたんですよ。普通の人にはこの先の結界を破れないので」
由樹には意味がわからない。
依澄はしばらく無反応だった。
「さあ、神守さん。お願いします」
「……」
火浦の言うことも依澄のやることも由樹にはわからない。
ただ、彼女が危ないときは自分が全力で守らなければならない。由樹が確信しているのはそれだけだ。
依澄は──首を振った。
火浦の目が見開かれた。
「……な、何のつもりですか」
「……あなたから、人以外の気配がします」
「な……!」
火浦はうろたえた声を洩らした。
依澄はそんな彼を鋭く見据える。
「な、何を言い出すのですか。私は依頼人ですよ? 妙なことを言わないで下さい」
「……」
しかし、依澄の目は変わらない。変わらず、疑いの目を向けている。
由樹は突然の展開に驚いたが、何を言っていいかわからず黙っていた。
火浦は抗弁を続ける。
「何を疑っているのかわかりませんが、私にやましいことなどありませんよ。だいたい、
あなたを騙して私に何の得があるのですか」
「……」
依澄の表情は変わらない。
その目に気圧されたか、火浦は声を荒げた。
「い、言うことを聞け! さっさと結界を解くんだ! 早く!」
「……」
「頼む……言う通りにしてくれ。でないと」
そのとき、依澄の眉が微かに跳ね上がった。
火浦は頭を抱えてうずくまる。
「俺は……俺は……」
ぶつぶつと何かを呟く火浦は、理性を失っていくかのように挙動不審になっていく。
まるで、人ではなくなるかのように。
依澄は何も答えない。何かを待っているかのように、和服姿の麗女は美しく男を見つめ続ける。
火浦は落ち着きなく身じろいで──
「じゃあ……もういい」
次の瞬間、身を起こすや目の前の依澄に飛びかかった。
「!」
由樹が動いたのは同時だった。
いや、火浦の体に「タメ」ができた瞬間には動いていたので、正確には同時ではない。ここでいう同時とは行動の起点ではなく、攻撃のことを指していた。
火浦が動いたときには既に由樹は彼に攻撃をしていた。
だから火浦が10センチも前進できずに由樹の横蹴りに吹っ飛ばされたのも、由樹の凄まじい反応の速さを考えれば仕方のないことであった。
確かな手応え──いや、足応えを靴の裏から感じ取った。
由樹は反動を利用して、綺麗に構えを戻す。
火浦の体は3メートル先まで吹っ飛んだ。
相手の動きの「起こり」に合わせた完璧なカウンターだった。由樹は心配になる。相手の年齢を考えると、今の一撃はやりすぎにも程が、
三秒と間を置かずに、火浦はすぐさま跳ね起きた。
由樹は小さく息を呑む。
手加減のない一撃だったのだ。相手の胸元に骨も砕けよとばかりに放った渾身の横蹴り。しかも正中線の『胸尖』を貫いた一撃だ。大の男でものたうち回る急所を突いたというのに、相手は平然と立ち上がっている。胸骨さえ砕けているかもしれないというのに。
火浦は無表情に立ち尽くしている。その顔からは何の感情も見えてこない。
そして、その無表情のまま、火浦は自身の右手を頭上に掲げた。
何を意味する行為かわからず、由樹は思わず身構える。
由樹は掲げられた右手を注視する。その右手から、何かが「生えた」。
それは、刀だった。
まるで木が天に向かって伸びるように、鈍色の刀が掌から生えてきた。
「……!」
心だけは決して揺れないと思っていた由樹も、あまりの事態に一瞬呑まれた。
その隙を突くかのように、火浦が突進してきた。己の体から出した刀を握り、由樹に斬りかかってくる。その動きは実年齢から三十年は若返ったかのような鋭さだった。
由樹は呑まれながらもすかさず反応した。
袈裟斬りを寸前でかわす。刀が下に振り切られた瞬間は狙わない。しかし懐に入ろうとするフェイントは微かに見せておく。
逆袈裟に斬りつけてきた。
由樹はそれもしゃがみ込むようにかわし、刀が上に跳ね上がると同時に相手の膝に目がけて低空の足刀蹴りを放った。
右膝が逆方向に折れ、火浦はバランスを崩す。間を置かずに左膝にも蹴りを打ち込み、火浦は糸の切れた人形のように、力なく崩れ落ちた。
「……」
由樹は後ろに下がって間合いを取る。そして火浦から目を離さずに依澄に注意を呼び掛けた。
「神守さん。下がっててください」
「……」
「早く」
依澄は由樹の言う通りに下がる。
普通ならもう問題はない。左膝を完璧に壊すことはできなかったが、それでも両膝の破壊で歩行は困難なはずだった。
破壊したのだ。由樹は、手加減なく。
だが、なぜか一向に安心することができない。
胸骨と膝関節を壊し、ひょっとしたら再起不能かもしれない程のダメージを与えたというのに。
嫌な感じが、気持ちの悪い印象が拭えない。
(……俺は何をやってしまってるんだろう)
相手は刀を持っているとはいえ一般人だ。なのに自分は、あまり手加減ということを考えずに技を使った。
普段の由樹ならそんなことは絶対にしないはずなのに。
由樹は火浦を見つめる。
地に倒れ伏した男は、なんとか立ち上がろうともがいているが、力が入らないのかどうしても体を持ち上げられないでいる。
「無理に立とうとすると、まともな体に戻れなくなるよ」
「……」
火浦は応えない。
もう何もできないはずだ。由樹は内心でそう思う。
しかし、どうしても警戒を解くことができない──
火浦は右手の刀を見つめている。
(大体、あの刀はなんなんだ。体の中から出すなんて)
さっきからわけのわからないことばかりだ。結界がどうとかいう話になって、依澄が火浦の頼みを断って、火浦が逆上して、由樹はそれを返り討って、火浦が体から刀を出して、
刀。
(……ひょっとして、刀ってあれのこと?)
火浦の手にある日本刀。あれが火浦の話していた妖刀なのだろうか。
ということは、火浦は嘘をついていたことになる。
刀は封印などされてなくて、既に火浦の手元にあった。ということは、
火浦の手が動いた。
由樹はその動作を注視する。
だが、火浦が次に起こした行動には、さすがの由樹も驚愕した。
火浦は刀を逆手に持つと、自らの腹に向けて思い切り突き刺したのだ。
「なっ!?」
貫いた箇所から一気に血が溢れ出してくる。見た目にも凄絶で凄惨な光景にも関わらず、火浦は呻き声一つ上げようとしない。まるでそこに自分の意識がないかのようだ。
理解不能の行動だった。自らを傷つけることに何の意味があるのだろう。
その答えはすぐに出た。
火浦の出血が止まらない。赤い血が湧き水のように漏れ出て、刀身を伝っていく。
その赤い血が、次々と刀に吸い込まれていった。
水がスポンジに染み込むように、血が刀に解け込んでいく。
それと同時に火浦の体が急速に萎んでいった。
『いけません!』
叫んだのは依澄だった。
声量自体はさほど大きなものではなかった。しかしなぜかその声の響きに由樹はたじろぐ。
彼女がいけないというなら、それは本当にいけないんだろう。なぜかそんな考えが脳に侵蝕してくる。いや、それだけじゃなく、彼女の言葉には逆らえないと感じた。
何の作用か、火浦の肉体の異変が止まった。
「!」
だがそれも一瞬のことで、再び吸収が始まる。
「……こ、こんな」
由樹は思わず後ずさった。
初老の男性の体がしなびた野菜のように枯れていく。まるで刀が生きていて、火浦の生命力を吸い取っているかのようだ。
心なしか、刀が先程よりも輝いて見える。
──妖刀、という言葉が頭に浮かんだ。
本当なのかもしれない。目の前で起こっていることを考えると、最早刀とは呼べない。
助けなくては。そう由樹は思った。しかしあまりの光景に体が動かなかった。
全身の水分が蒸発したかのように枯渇し、火浦の体はまるっきりミイラになってしまった。
いや、ミイラよりなおひどい。なぜなら全身の体液を吸われてなお、吸収が止まらないからだ。
火浦の体が胴体部から溶けるように消失していく。
質量保存の法則などまるで無視するかのように、刃部分に染み込み、溶けていく火浦の肉体。
皮膚も、肉も、骨も、液も、およそ人間の構成要素の全てを、刀は飲み込んでいく。
(飲み込むとか……発想が既に毒されている)
しかし目の前で起こっていることは現実だ。
血と内臓と体液の臭いが入り混じり、強烈な悪臭がこちらに漂ってくる。
由樹は嫌悪を隅に追いやって、思考を巡らせる。助からない。手遅れ。なぜ動かなかった。戦慄。後悔。
火浦の体を完全に呑み込むと、刀が急に浮き上がった。
「な……」
由樹はその光景に目を疑ったが、驚いている暇はなかった。
空中でぴたりと静止したかと思うと、刀はそのまま切っ先を依澄へと向けたからだ。
その時になって、ようやく由樹は依澄をかばうように前に出た。
予感通り、刀は真っ直ぐ矢のように襲いかかってきた。
何かに操られるように飛んでくる刀を、由樹は手でいなしながら蹴り落とした。
が、すぐに刀は体勢を立て直して襲ってくる。
突きを辛うじて左手で捌く。掌に微かな傷ができるが気にしない。再び蹴り倒そうと右脚を、
「!」
カウンターの剣撃を寸前でかわす。靴裏を真っ二つに斬られて、靴下が露出した。咄嗟に蹴りを止めてなかったら、右足を甲から落とされていただろう。
まずい。由樹は不利を悟る。この妖刀の剣撃を、由樹は読み切れない。
人が操る剣筋ならば対処できる。しかし刀そのものが相手となると、人の手によるものではないため予測がつかない。
ある程度の「型」はあるように見えるが、即座の対応は難しいように感じた。
どうする、という逡巡さえ与えてくれずに、刀は鋭く斬りつけてくる。頭部への斬撃を髪の毛数本と引き換えになんとかかわし、後方に飛び退って距離を取る。
すぐ真後ろには、依澄の影。
由樹は決意を固める。
「神守さん!」
「逃げるのですね」
呼び掛けるやすぐさま返事が返ってきたので、由樹は思わず振り返りそうになった。相手から目を逸らすなんて、そんな危険な真似はしないが。
「……私が隙を作ります」
「君が?」
刀が中空に躍り、迫ってくる。
そんな凶器に向かって、依澄が何かを投げた。
石のようなものが複数ばらまかれた。刀ではなく、その周囲を取り囲むように投じられた。
すると、刀は空中で突然止まった。
そしてしばらくゆらゆらと刃先を揺らし、周囲を無茶苦茶に斬り裂き始めた。
まるで混乱しているかのように、周りの空間を斬りまくっている。狙いが定まらないのか、何もない空間を空振りしている。
何が起こったのかまるでわからなかったが、由樹はすかさず動いた。依澄を抱き上げると、元来た道を全力で駆け出した。
「あ、あの」
急に抱き上げたためか、依澄が戸惑いの声を上げる。
「ごめん、黙って!」
断りもなく女性を抱き上げるのは失礼かとも思ったが、そんなことは言ってられない。着物姿の依澄はうまく走れないだろうし、由樹の運動神経を持ってすればこの方が断然速い。
刀は追ってこない。由樹は振り返らずにただ走る。
夕暮れの朱が闇に変わりゆく中、スピードを落とさずに山道を走り抜ける。
◇ ◇ ◇
依澄の体が想像以上に軽かったため、思った程負担はなかった。
それでも火浦の屋敷に戻ってくる頃には、さすがの由樹も息を切らしていた。
家の中に駆け込み、玄関で依澄を下ろすと、由樹は盛大に息を吐いた。
「か、神守さん……大丈夫?」
「……」
依澄はきょとんとなって由樹を見やる。
あなたこそ大丈夫なのか。言葉はなかったがそう言いたげで、由樹は思わず苦笑いした。
すると、依澄もそれにつられるように笑った。
綺麗な笑い声だった。おかしそうにくすくす笑う依澄を見て、由樹もまた笑う。
こんなときではあったが、この娘もこんな風に笑うんだ、と思うとなんだか嬉しくなった。
しかし、そんな和やかな雰囲気も続かない。すぐに笑いを収めると、依澄は懐からまたさっきのものを取り出した。
明かりの下でようやく由樹はそれが何なのか確認する。
それは、ビー玉だった。
本当に何の変哲もないガラス玉で、由樹は少し拍子抜けした。
依澄はそれを玄関下にばらまく。五、六個のビー玉が音を立てて転がった。
さらに依澄は帯の内側から一枚の紙札を抜き出した。草書体で何か書かれていたが、由樹には読めなかった。その札を扉に貼りつける。
「あの……それは何? 何をやってるの?」
依澄は答える。
「結界です」
「……それは君の、力?」
「……」
由樹にはよくわからなかった。
疑問はたくさんある。刀のこと。火浦のこと。結界のこと。依澄のこと。
何よりこれからどうするか。
あの刀をどうにかするにしても、対策が必要だ。依澄に何ができるのかはわからないが、由樹一人ではあれに対抗できない。
まだ息が整わない。稽古不足かもしれない。技はともかく、スタミナが切れるとは。
緊張状態のせいか、動悸がやたらに激しい。
こんなところで考え込んでいてもらちがあかない。由樹は靴を脱いで屋敷に上がろうとした。
ところが、
「え……」
由樹の体が急に傾いだ。
廊下に足をかけた瞬間だった。体を支えきれずに、由樹はそのまま横に倒れた。
「…………ぇ?」
口から洩れた言葉は囁き程度で、空気さえろくに震わせられない。
体に力が入らなかった。気付いた時には意識さえ朦朧としていて、由樹は横になった世界を茫然としながら見る。
天井が高い。部屋が遠い。床が冷たい。
凛とした声が上から聞こえる。
意識を失う前に由樹が見たのは、心配そうに自分の名を呼ぶ依澄の姿だった。
◇ ◇ ◇
「一ノ瀬……さん?」
いきなりその場に倒れ込んだ由樹に、依澄はひどく驚いた。
慌てて呼び掛けるが、由樹は気絶したまま動かない。
このままにはしておけない。依澄は由樹の体を奥の和室まで運ぶことにした。由樹の体は依澄には重く、半ば引きずる形になってしまったが、それでもどうにか運び込む。
押し入れから布団を引っ張り出し、ゆっくりと寝かせる。すぐに看病といきたいところだが、依澄にはまだやるべきことがあった。
広い屋敷内をくまなく調べて、出入口に札を貼る。玄関の札と霊石で屋敷に結界を張りはしたが、他の箇所にも貼って強化する必要がある。今あの妖刀に侵入されたら対処の術がない。
合計五カ所に札を貼ると、依澄は家中をあさり始めた。救急箱に数枚のタオル、洗面器に沸かしたお湯を張って由樹のいる部屋へと戻る。
由樹は呻きもせずに、布団の上で固まっていた。意識はない。
依澄は息を呑んだ。
由樹の体に大きな傷はない。掌と足に微かな切り傷があるだけだ。
が、それは肉体に限った話である。依澄の目には由樹の魂が傷付き、その傷口から霊力が漏れ出している光景がはっきりと見える。
明らかにあの妖刀の持つ力のせいだった。内に凄まじい霊力を秘めたあの刀は、対象を物理的に破壊するのと同時に霊的にもダメージを与えるのだろう。
由樹は物理的ダメージはなんとか防いだが、霊的ダメージまでは防げなかったのだ。
このままでは由樹は死ぬ。まずは魂の傷を治さなければならない。依澄は由樹の魂に直接触れると、自身の霊力を使って傷口を塞ぎ始めた。
刀で斬られたせいか、歪みのない綺麗な傷口だった。これならなんとか元通りにできる。皮肉だが、敵の日本刀のキレに感謝しなければならない。
丁寧に魂を治すと、今度は体の方を手当てする。かすり傷とはいえ怪我は怪我だ。掌と足、両方を消毒し、ガーゼを当てる。
治療を終えても由樹は目を覚まさなかった。
霊力が足りない。魂の傷は治したが、そこから溢れ落ちた霊力は結構な量だった。
命を取り留めはしたが、このままでは目を覚まさないだろう。霊力を補充する必要がある。
(……私の霊力を、いくらか彼に分け与えれば)
方法はある。ならば迷うことはない。
ふと依澄は腕に鼻を近付けて、自分の体臭をかいだ。
「……」
顔を赤くする。できればお風呂に入ってからの方がいいかな、と思った。
しかしそうも言ってられない。依澄はため息をつくと、着物の帯を解き始めた。
しゅるしゅると音を立てて着物を脱いでいき、やがて完全な裸になる。
それから由樹に寄り添うように近付くと、目を瞑りキスをした。
由樹の唇は、思ったよりもずっと柔らかかった。
◇ ◇ ◇
目が覚めた瞬間、由樹は何が起こっているのかまるでわからなかった。
依澄が自分にキスをしている。
なぜ? どうして? 混乱する頭に、しかし心地よい異性の感触が響いてくる。
夢でも見ているのか。まさか人工呼吸とか?
腕を動かそうとしたが、痺れたように動かない。全身が鉛のように重く、由樹は抵抗できない。
依澄はその間も深く唇を重ねてくる。
舌が口内に入ってきた。ねっとりと柔らかく温かい感触は、不思議と安心できた。
体の重みが取れていく。視界も明瞭になっていき、由樹は現状を把握する。
広い和室の真ん中、敷かれた布団の上で由樹は横になっている。
依澄はなぜか裸だった。真っ白な柔肌を隠そうともせず、由樹の上にかぶさってくる。
唇がようやく離れた。のぼせたように赤く上気した依澄の顔が色っぽい。
「神守さん……これは」
「依澄、と……そうお呼び下さい」
「な……いや、そうじゃなくて」
「動かないで」
静かな声で囁かれて、由樹は身じろぐのをやめる。
少し恥ずかしそうにしているのを見ると、つまりそういう意味なのだろうか。
「どうして?」
「……」
依澄は答えない。
意味がわからない。
由樹は身を起こそうとした。しかし依澄に両肩を押さえ付けられる。
「神……依澄さん」
「……」
依澄は微かに逡巡した様子を見せた。それが何を意味するのか由樹にはわからないが、それでも彼女が真剣だということはわかった。
だからといって納得したわけではない。
再度起き上がろうと力を込めると、依澄が先に口を開いた。
『動かないで』
瞬間、由樹の体は金縛りに遭ったように動かなくなった。
「!?」
由樹は突然の出来事に慌てた。
重くはない。ただ、意識の奥に強迫観念のような感覚が生まれて、体を動かそうと思えなくなっていることに気付いた。
体を動かすことから意識を遠ざけるような、そんな彼女の言葉。
どうすればいいのだろう。このまま身を委ねていいものかどうか。
そのとき、依澄が言った。
「あなたを、助けたいのです……。どうか信じてください」
小さな細々とした声だった。しかし彼女の真剣な眼差しが拒絶をさせなかった。
「……助ける?」
依澄は頷くと、由樹の股間を撫でさすった。
くすぐったい感触に由樹は体を震わせる。
ボタンが外され、ジッパーが下ろされる。由樹は身動きできない。
ジーンズをトランクスごと脱がされると、軽く勃起した逸物が現れた。
依澄はそれを確認すると、その部分にゆっくり顔を近付けた。
「い、依澄さん」
由樹は慌てる。こんな綺麗な人がまさか、
「ううっ」
柔らかい手指が根本を握り、美しい唇が先っぽをそっとくわえた。由樹は思わず声を洩らした。
そのまま口の中で亀頭を舐められる。鈴口に舌のぬめった感触が広がる。
「ん……」
依澄は目をつぶり、行為に没頭する。舌を細かく動かし、唾液を塗りたくるように逸物をなぶった。
ちろちろと舐められる感触に由樹は呻くことしかできない。
「うぅ……」
依澄の口が徐々に由樹を呑み込んでいく。まるで蛇のように、大きく膨れた肉棒を口腔の奥へと送り込んでいく。
軽く歯が当たり由樹は痛みを覚えた。気付いた依澄はすぐに口使いを修正する。
決して巧くはない。おそらくほとんど経験はないのだろう。ひょっとしたら初めてかもしれない。そう思うとここまでしてくれる依澄に罪悪感と、同時に興奮を覚えた。
肉棒が完全に口内に呑み込まれた。
依澄はそこで小さく息を整えると、口を上下に動かし始めた。
すぼまった唇が男性器を愛撫する。
唾液と口内の熱が焼くように下腹部を刺激する。加えて唇と舌がまとわりつくようになぶって、疲労感のある体にひどく気持ちいい。
由樹は荒い息を吐き出しながら快感に身を委ねる。
「は、ぁ……い、依澄さん、すごく、いい、よ」
「んむ、ん……ん……」
先走る液と唾液が混じり合い、ぬめりが増していく。
まるで溶かされるような、『食べられる』心地だった。
次第に高まっていく快感。男根はさっきからがちがちに硬くなっている。由樹はもうすぐ来るであろう絶頂を強く意識する。
が、達する前に依澄の口が逸物を放した。
「うあ……?」
唐突に快感が途切れて由樹は呆けた声を出す。
依澄は口から垂れた唾を指ですくい、舐め取った。それから濡れた指を自身の股間に伸ばし、弄り始めた。
くちゅ、くちゅ、と卑隈な音を立てながら、依澄は頬を赤く染める。
その姿はひどくなまめかしく、由樹は酔いそうになった。いや、既にもう酔っているのかもしれない。さっきからまばたきもできずに目を奪われてしまっているのだから。
依澄は秘所から指を離すと、由樹の上にまたがった。
本当にするのだろうか。股間を硬くしながらも、由樹はまだどこかで迷っていた。
だが、もう止められない。
どれだけ疑問に思っても、心はもう、彼女の美しさに囚われているから。
依澄がゆっくり腰を下ろしてくる。性器同士が直接触れ合う。
そして由樹は、彼女の中に包まれた。
「はあ……っ」
依澄の表情が苦しげに歪んだ。
依澄の中はとてもきつかった。入ったのが不思議なくらい狭く、由樹は痛みにも近い強烈な圧力を受けた。
(初めて……なのかな)
血は出ていない。
それでも依澄の様子を見るに、快感より苦痛の方が強いのは確かなようだ。明らかに経験不足である。
(なのに……なんでこんなに気持ちいいんだ?)
申し訳なく思いながらも、由樹の逸物は依澄の感触に歓喜していた。まだ入っているだけなのに、膣が全体を程よく締め付けてくるのだ。
これで動いたらどうなるのだろう。下半身がうずく。
もっと快感を得たい。快楽に溺れたい。由樹は自分でも不思議なくらい欲望に呑まれていく。
いつの間にか体が動かせるようになっていた。由樹は依澄の腰を掴むと、奥に向かって勢いよく肉棒を突き上げた。
「あぁあっ!」
依澄の口から嬌声が溢れた。
痛み以外の感覚がそこには見えた。人形のように無機質な顔に、はっきりと感情が表れている。由樹は嬉しくなって体を激しく動かした。
「ああっ、やっ、あっ、んん……きゃうっ、ふああ!」
長い髪を振り乱して声を上げる依澄。
由樹は目の前の真っ白な胸に手を伸ばした。柔らかい感触を味わいながら、腰をぐいぐい動かす。押し付けるように逸物を奥にぶつけると、膣が収縮して締め上げてくる。
こんなに快楽に陶酔したことがあっただろうか。
由樹の中で弾けそうなほど性感が高まっていく。
愛液が繋がりの隙間から漏れ出てくる。由樹の体液も混じっているだろう。激しくぶつかる体に合わせてぱちゅん、ぱちゅん、と音が響く。
擦れ合う性器は互いの温もりだけを求めるかのようにひたすら絡み合った。
「依澄さん……もう」
由樹が絶頂間近であることを訴えると、依澄は小さく頷き、腰の動きを速めた。
「ちょ、駄目だって……そんなにされると……中に」
「出して……ください。いっぱい、私の中に……んっ」
由樹は躊躇する。しかし快感は圧倒的でろくに考える暇さえ与えてくれない。
抜かなければ。でも抜きたくない。
自分の上で乱れ動く依澄の美しい姿に、由樹はもう流されるしかなかった。
彼女の膣内に出したい。
「ごめんっ、もうイク」
「はいっ、中に……あああっ!」
ペニスがびくっ、びくっと脈打ち、ありったけの力で精液を放出する。
するとそれに合わせるように、女陰が肉棒を締め付けた。まるで液を絞り取るかのように由樹に圧力をかけてくる。
「うわ……」
それに応えてさらに子種を発射する下腹部。雌の奥に欲望をぶちまける快楽に、由樹は思わず呼気を漏らした。
射精はしばらく続き、すべてを出し切るのに数十秒を要した。
ようやく波が収まると、依澄は糸が切れたように由樹の胸元に倒れ込んだ。
「い、依澄さん!?」
慌てて由樹は受け止める。抱き止めた体は柔らかく、細かった。
依澄は眠っていた。
疲れたのか、小さな寝息を立てている。その様子はまるで普通の女の子のようで、由樹は初めて彼女のことを『かわいい』と思った。
不意に眠気に襲われた。激しく依澄を抱いたせいだろうか。
由樹はいまだ繋がったままであることに気付き、依澄を起こさないように中から引き抜いた。それから横に寝かせて布団を掛けてやる。幸い目を覚ます様子はなかった。
依澄の隣で息遣いを感じながら、由樹は穏やかな気分で目を閉じた。
心地よい気分だった。
2011年03月20日(日) 23:19:40 Modified by ID:xKAU6Mw2xw