『彼女』の呼び声〜ブリッジ
そして翌日。
その日の授業を仁は、彼にしては珍しく睡魔と戦いながら過ごしていた。
まあ、無理もない。
結局昨晩は寮に着いたのが十二時半過ぎ。それから風呂に入って翌日の予習をしてと日課をこなし、布団に入った頃には二時近く。
さらに、布団に入ってからも悪夢にうなされ、結局熟睡することができなかったのだ。
四時間目で限界が来た。
眠気に耐えかねてつい目を閉じ、目を覚ましたのは校内に響く昼休み開始のチャイムの音と生徒達の喧噪で。
「うわ、やっちまった」
教師に当てられなかったのが唯一の幸運か。
仁は眠い目をこすりながら、一つ伸びをする。
と、その時だ。
「)&、/ズoシイジ'ナイT。&マ%ガジ(キ`ョ$チュ6ニ<.ナyテ」
耳障りな雑音に、仁が振り向く。
いつの間に現れたのか、そこには得体の知れない何かが存在していた。
やや潰れた円筒の上に乗っているのは、上半分程から夥しい量の細い毛の生えた球体。
さらに円筒の両脇からは、半ばほどに節のある円筒が伸びており、その先端は五つに分かれている。
異形はその分かれた先端の片方を仁の肩の上に乗せ、球体の下半分に空いた、赤い色を内に秘めた空洞から雑音を撒き散らす。
「z\カ、&マ%トeッシ)ノHラスiナッwカラFシ@/テカ。ナYカ#ッqノカ/」
思わず背筋が寒くなるほどの異形の姿だが、壊すのはさして難しく無さそうだ。
特に、球体部分に填まった、ぎょろぎょろと動く二つのゼラチン質めいた白と黒の部分は見るからに脆そうに見える。
いつの間にか手にしていた、この軽いが硬質な棒のようなもので力いっぱい刺せば、簡単に貫けるだろう。
仁はどこか醒めた気分で、口元に薄ら笑いすら浮かべながら、棒のようなものを握る手に力を込め――
「おーい、まだ寝てんのか? 古橋」
クラスメイトが自分を呼ぶ声で、仁は目を覚ました。
授業が始まってしばらくして、眠気に耐えかねてつい目を閉じたと思えば、気付づけば授業は終わっている。
教師に当てられなかったのが唯一の幸運か。
「え? ――ああ、悪い。聞いてなかった」
何だか、目を覚ます直前に変な夢を見た気もする。
仁は眠い目をこすりながら一つ伸びをした。と、その手から、何かが転げ落ちた。
「シャーペン?」
そう。それは何の変哲もないシャープペンシルだ。
が、それを握っていた右手を見れば、よっぽど強い力で握っていたのか、力の入れ過ぎで皮膚に痕が残っている。
「で、何だっけ、甘木?」
床に落ちたシャーペンを拾いながら、仁は話しかけてきたクラスメイト――甘木に聞き返す。
甘木は呆れたように肩を竦めながら、
「いやだから、お前が授業中に寝るなんて珍しいなって。後ろから見ててもはっきりと分かったぜ」
「あー、まあな。ちょっと昨日はあんまり寝られなくて」
ノートを見れば、途中まで眠気に耐えようとしていたのか、アラビア文字の様な珍妙な記号の数々。
これは後で、誰かにノートを見せてもらわなければならないだろう。
そんなことを考えながら、仁は鞄から昼食を取り出す。
自炊というほど本格的ではないが、いつも昼は自分で用意している。
寮で一人暮らしの勤労学生は色々と厳しいのだ。
「ひょっとしてあれか。噂の彼女と夜までしっぽりか」
「ぶほぉあっ!?」
不意に思いついたように言った甘木の言葉に、仁は思わず握り飯を吹き出した。
「おおおおお前、それ一体誰から聞いた?」
思いっきり吃りながら言う仁に、甘木は再び呆れたように、
「誰って……皆が噂してるぜ。お前が急に社交的になったのは、絶対女のせいだってな。
俺としては信じられなかったが――その反応を見ると、どうやら本当っぽいな。
で、どんな奴なんだ? その物好きは」
「ど、どんなって言われてもな……」
まさか、そんなことを噂されていたとは。
どうりで最近、クラスメイトから話しかけられることが多い訳だ。
「良いじゃねぇか。けちけちしないで教えろよ」
甘木は後ろの席から椅子を引きずって来ると、仁の机に並べた。いかにも興味津々と言った感じである。
「己(オレ)も興味があるな。お主(おんし)をここまで丸くさせた女子(おなご)には」
そんな二人に傍らから声をかけたのは、高校生と言われても一重には信じられないような巨漢。
身の丈190近く、体格もプロレスラーか何かのように逞しく、剃った頭は日差しを燦々と浴びて輝いている。
仁のクラスメイトの一人、蘇我と言うのが彼の名前だ。
学校近くにある古寺、実相寺の住職の息子で、その体格とどこか古風な口調が特徴的。
いかつい外見に似合わず社交的な性格で、目立つ外見と合わせ、このクラスのムードメーカー的存在である。
ちなみに彼には実家が神職故か、世話焼きなところがある。
ついしばらく前。仁があまり他の人間と関わろうとしなかったころから、色々と気にかけてくれていた。
「おう甘木。頼まれてたもんじゃ。カツサンドは売り切れじゃったから、かわりに竜田サンドにしておいたぞ」
「あ、悪いな」
手にした袋の内一つを甘木に押し付けると、やはり近くの机から椅子を引っ張ってきて仁の机に並べる。
「で、その女子は美人なのか? 同じ学校の生徒か?」
位置的に見下ろしながら、表情で見上げるという器用な態勢で蘇我が尋ねた。
対する仁は、表情は困惑気に、しかし口元には笑みを浮かべながら答える。
何のことはない。誰かに話したくて、惚気たくてたまらなかったのだ。
「ああ。見た目はかなり可愛いな。学校は――よくわからん。
少なくとも、この学校の生徒じゃないとは思うが……」
「へぇ、他校の生徒かよ。やるじゃん。
――で、名前は何て言うんだ? 写メとかプリクラとかは無いのか?」
甘木の言葉に、仁は僅かに考えると、
「写真とかは……無いな。名前も聞いたこと無いし」
その仁の言葉に甘木は眉根を寄せ、蘇我もむう、と呻きを漏らす。
「はぁ!? それお前、ホントに付きあってんのか?」
「お主、それはひょっとして物陰から相手を見つめながら妄想に浸っているとか言う類いでは……」
憐れみと不信の込められた視線に、仁は否定するように首を振る。
「いや、それは無いって。確かにプライベートなことは何も知らないが、ちゃんと付き合ってるって」
「ホントかぁ? 大体、名前も知らないで普段どうやって会話してるんだよ」
「ん――」
甘木の言葉に、再び考え込む。
僅かな逡巡の後、
「いや、彼女喋れないからさ。だから普段は俺が学校で何があったかとか話して……あとはまあ、普通に――いちゃついてるくらいかな」
「くぁーっ、二人の間に言葉はいらないってか? 惚気るのもいい加減にしろよこの野郎」
最後の方はボソボソと呟くような声だったが、二人の耳には十分届いたらしい。
甘木は体中を掻き毟るような動作をしながら羨ましがる。
が、ふと我に返り、
「まあ、けどあれだな。やっぱ、名前くらい知っといたほうがいいんじゃねぇの?」
言いながら視線を投げた先は、教室の窓際。
仁と蘇我も釣られるようにそちらに視線を向ける。そこにいるのは机を並べて食事中の一組の男女だ。
この二人、クラスで――いや、学年でも有名なバカップルである。
「ねぇ団。今週の日曜日、一緒に金城山にハイキングに行かない?」
「安縫、また趣味のミステリースポット探検かい?
でも、あそこはこの間米軍機の墜落事故があったばかりだろう。危険じゃないのか」
「だからこそよ。噂じゃ、米軍だけじゃ無くて自衛隊やCIAも調査をしてるんですって。
いかにも何かありそうじゃない。ね、行きましょうよ、団」
「わかったよ、安縫。君一人を行かせるのは心配だし、僕も付き合うよ」
「やったぁ。団、大好き」
「ははは、よせよ安縫。皆が見てるじゃないか」
明らかに、二人の回りだけ空気がピンク色に染まっている。
仁は視線を向けたことを激しく後悔した。
「――で、あの桃色魔空空間がどうしたんだ?」
呆れたように言う声には明らかに力が無い。
対する甘木はと言うと二人の桃色魔空空間に呆然としていたが、仁の言葉にはっと我に返り、
「いや、だからさ。アレだよ。『団』『安縫』とかって呼び合いだよ。
他人行儀にあんた、とか君、とかなんて呼ぶのも変だろ。恋人同士なら」
そんなものかな、と仁は考える。
確かに、恋人同士ならば名前や愛称で呼び合うイメージがある。
「けどさ、何か彼女訳有りっぽいし、あんまり色々聞くのもなぁ……」
「いいじゃねぇか、名前くらい。減るもんじゃないし」
と、その時。それまで黙っていた蘇我が不意に口を開いた。
「名前を聞くのに抵抗があるのなら、お主が愛称なり戒名なりをつければ良いじゃろう」
「おお、それナイスな提案じゃん」
甘木も手を打って同意する。
「愛称か――」
確かに、それは良い意見かもしれない。
そうすれば彼女に声をかける時、何と言って呼びかけるか悩まずにすむ。
何より甘木の言うとおり、その方が恋人同士らしい。
だが、何て呼べば良いのだろうか。変な名前をつけては逆効果だ。
思わず考え込む仁に、蘇我が言う。
「名前にはな、それ自体に言霊――すなわち力が宿るもんじゃ。
そして、名付けるという行為にもな」
例えば、同じ公園の片隅に生えた一輪のタンポポでも、単なる名前の無い雑草として見る人間と、それをタンポポの花だと認識して見る人間だと受け取り方は大きく異なる。
視界にただ入っているだけでは、人は物を認識できない。
物と名前を関連づけることで初めて、その物が何であるかを正常に認識できるのだ。
ノってきたのか、蘇我の語りがまるで説法でもする時のように朗々としたものへと変化して行く。
「故に、もしも物の名前や意味と言った概念を失ってしまえば――
それまで普通に見えていた世界すら、正常に認識することが適わなくなるじゃろうな」
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その日の授業を仁は、彼にしては珍しく睡魔と戦いながら過ごしていた。
まあ、無理もない。
結局昨晩は寮に着いたのが十二時半過ぎ。それから風呂に入って翌日の予習をしてと日課をこなし、布団に入った頃には二時近く。
さらに、布団に入ってからも悪夢にうなされ、結局熟睡することができなかったのだ。
四時間目で限界が来た。
眠気に耐えかねてつい目を閉じ、目を覚ましたのは校内に響く昼休み開始のチャイムの音と生徒達の喧噪で。
「うわ、やっちまった」
教師に当てられなかったのが唯一の幸運か。
仁は眠い目をこすりながら、一つ伸びをする。
と、その時だ。
「)&、/ズoシイジ'ナイT。&マ%ガジ(キ`ョ$チュ6ニ<.ナyテ」
耳障りな雑音に、仁が振り向く。
いつの間に現れたのか、そこには得体の知れない何かが存在していた。
やや潰れた円筒の上に乗っているのは、上半分程から夥しい量の細い毛の生えた球体。
さらに円筒の両脇からは、半ばほどに節のある円筒が伸びており、その先端は五つに分かれている。
異形はその分かれた先端の片方を仁の肩の上に乗せ、球体の下半分に空いた、赤い色を内に秘めた空洞から雑音を撒き散らす。
「z\カ、&マ%トeッシ)ノHラスiナッwカラFシ@/テカ。ナYカ#ッqノカ/」
思わず背筋が寒くなるほどの異形の姿だが、壊すのはさして難しく無さそうだ。
特に、球体部分に填まった、ぎょろぎょろと動く二つのゼラチン質めいた白と黒の部分は見るからに脆そうに見える。
いつの間にか手にしていた、この軽いが硬質な棒のようなもので力いっぱい刺せば、簡単に貫けるだろう。
仁はどこか醒めた気分で、口元に薄ら笑いすら浮かべながら、棒のようなものを握る手に力を込め――
「おーい、まだ寝てんのか? 古橋」
クラスメイトが自分を呼ぶ声で、仁は目を覚ました。
授業が始まってしばらくして、眠気に耐えかねてつい目を閉じたと思えば、気付づけば授業は終わっている。
教師に当てられなかったのが唯一の幸運か。
「え? ――ああ、悪い。聞いてなかった」
何だか、目を覚ます直前に変な夢を見た気もする。
仁は眠い目をこすりながら一つ伸びをした。と、その手から、何かが転げ落ちた。
「シャーペン?」
そう。それは何の変哲もないシャープペンシルだ。
が、それを握っていた右手を見れば、よっぽど強い力で握っていたのか、力の入れ過ぎで皮膚に痕が残っている。
「で、何だっけ、甘木?」
床に落ちたシャーペンを拾いながら、仁は話しかけてきたクラスメイト――甘木に聞き返す。
甘木は呆れたように肩を竦めながら、
「いやだから、お前が授業中に寝るなんて珍しいなって。後ろから見ててもはっきりと分かったぜ」
「あー、まあな。ちょっと昨日はあんまり寝られなくて」
ノートを見れば、途中まで眠気に耐えようとしていたのか、アラビア文字の様な珍妙な記号の数々。
これは後で、誰かにノートを見せてもらわなければならないだろう。
そんなことを考えながら、仁は鞄から昼食を取り出す。
自炊というほど本格的ではないが、いつも昼は自分で用意している。
寮で一人暮らしの勤労学生は色々と厳しいのだ。
「ひょっとしてあれか。噂の彼女と夜までしっぽりか」
「ぶほぉあっ!?」
不意に思いついたように言った甘木の言葉に、仁は思わず握り飯を吹き出した。
「おおおおお前、それ一体誰から聞いた?」
思いっきり吃りながら言う仁に、甘木は再び呆れたように、
「誰って……皆が噂してるぜ。お前が急に社交的になったのは、絶対女のせいだってな。
俺としては信じられなかったが――その反応を見ると、どうやら本当っぽいな。
で、どんな奴なんだ? その物好きは」
「ど、どんなって言われてもな……」
まさか、そんなことを噂されていたとは。
どうりで最近、クラスメイトから話しかけられることが多い訳だ。
「良いじゃねぇか。けちけちしないで教えろよ」
甘木は後ろの席から椅子を引きずって来ると、仁の机に並べた。いかにも興味津々と言った感じである。
「己(オレ)も興味があるな。お主(おんし)をここまで丸くさせた女子(おなご)には」
そんな二人に傍らから声をかけたのは、高校生と言われても一重には信じられないような巨漢。
身の丈190近く、体格もプロレスラーか何かのように逞しく、剃った頭は日差しを燦々と浴びて輝いている。
仁のクラスメイトの一人、蘇我と言うのが彼の名前だ。
学校近くにある古寺、実相寺の住職の息子で、その体格とどこか古風な口調が特徴的。
いかつい外見に似合わず社交的な性格で、目立つ外見と合わせ、このクラスのムードメーカー的存在である。
ちなみに彼には実家が神職故か、世話焼きなところがある。
ついしばらく前。仁があまり他の人間と関わろうとしなかったころから、色々と気にかけてくれていた。
「おう甘木。頼まれてたもんじゃ。カツサンドは売り切れじゃったから、かわりに竜田サンドにしておいたぞ」
「あ、悪いな」
手にした袋の内一つを甘木に押し付けると、やはり近くの机から椅子を引っ張ってきて仁の机に並べる。
「で、その女子は美人なのか? 同じ学校の生徒か?」
位置的に見下ろしながら、表情で見上げるという器用な態勢で蘇我が尋ねた。
対する仁は、表情は困惑気に、しかし口元には笑みを浮かべながら答える。
何のことはない。誰かに話したくて、惚気たくてたまらなかったのだ。
「ああ。見た目はかなり可愛いな。学校は――よくわからん。
少なくとも、この学校の生徒じゃないとは思うが……」
「へぇ、他校の生徒かよ。やるじゃん。
――で、名前は何て言うんだ? 写メとかプリクラとかは無いのか?」
甘木の言葉に、仁は僅かに考えると、
「写真とかは……無いな。名前も聞いたこと無いし」
その仁の言葉に甘木は眉根を寄せ、蘇我もむう、と呻きを漏らす。
「はぁ!? それお前、ホントに付きあってんのか?」
「お主、それはひょっとして物陰から相手を見つめながら妄想に浸っているとか言う類いでは……」
憐れみと不信の込められた視線に、仁は否定するように首を振る。
「いや、それは無いって。確かにプライベートなことは何も知らないが、ちゃんと付き合ってるって」
「ホントかぁ? 大体、名前も知らないで普段どうやって会話してるんだよ」
「ん――」
甘木の言葉に、再び考え込む。
僅かな逡巡の後、
「いや、彼女喋れないからさ。だから普段は俺が学校で何があったかとか話して……あとはまあ、普通に――いちゃついてるくらいかな」
「くぁーっ、二人の間に言葉はいらないってか? 惚気るのもいい加減にしろよこの野郎」
最後の方はボソボソと呟くような声だったが、二人の耳には十分届いたらしい。
甘木は体中を掻き毟るような動作をしながら羨ましがる。
が、ふと我に返り、
「まあ、けどあれだな。やっぱ、名前くらい知っといたほうがいいんじゃねぇの?」
言いながら視線を投げた先は、教室の窓際。
仁と蘇我も釣られるようにそちらに視線を向ける。そこにいるのは机を並べて食事中の一組の男女だ。
この二人、クラスで――いや、学年でも有名なバカップルである。
「ねぇ団。今週の日曜日、一緒に金城山にハイキングに行かない?」
「安縫、また趣味のミステリースポット探検かい?
でも、あそこはこの間米軍機の墜落事故があったばかりだろう。危険じゃないのか」
「だからこそよ。噂じゃ、米軍だけじゃ無くて自衛隊やCIAも調査をしてるんですって。
いかにも何かありそうじゃない。ね、行きましょうよ、団」
「わかったよ、安縫。君一人を行かせるのは心配だし、僕も付き合うよ」
「やったぁ。団、大好き」
「ははは、よせよ安縫。皆が見てるじゃないか」
明らかに、二人の回りだけ空気がピンク色に染まっている。
仁は視線を向けたことを激しく後悔した。
「――で、あの桃色魔空空間がどうしたんだ?」
呆れたように言う声には明らかに力が無い。
対する甘木はと言うと二人の桃色魔空空間に呆然としていたが、仁の言葉にはっと我に返り、
「いや、だからさ。アレだよ。『団』『安縫』とかって呼び合いだよ。
他人行儀にあんた、とか君、とかなんて呼ぶのも変だろ。恋人同士なら」
そんなものかな、と仁は考える。
確かに、恋人同士ならば名前や愛称で呼び合うイメージがある。
「けどさ、何か彼女訳有りっぽいし、あんまり色々聞くのもなぁ……」
「いいじゃねぇか、名前くらい。減るもんじゃないし」
と、その時。それまで黙っていた蘇我が不意に口を開いた。
「名前を聞くのに抵抗があるのなら、お主が愛称なり戒名なりをつければ良いじゃろう」
「おお、それナイスな提案じゃん」
甘木も手を打って同意する。
「愛称か――」
確かに、それは良い意見かもしれない。
そうすれば彼女に声をかける時、何と言って呼びかけるか悩まずにすむ。
何より甘木の言うとおり、その方が恋人同士らしい。
だが、何て呼べば良いのだろうか。変な名前をつけては逆効果だ。
思わず考え込む仁に、蘇我が言う。
「名前にはな、それ自体に言霊――すなわち力が宿るもんじゃ。
そして、名付けるという行為にもな」
例えば、同じ公園の片隅に生えた一輪のタンポポでも、単なる名前の無い雑草として見る人間と、それをタンポポの花だと認識して見る人間だと受け取り方は大きく異なる。
視界にただ入っているだけでは、人は物を認識できない。
物と名前を関連づけることで初めて、その物が何であるかを正常に認識できるのだ。
ノってきたのか、蘇我の語りがまるで説法でもする時のように朗々としたものへと変化して行く。
「故に、もしも物の名前や意味と言った概念を失ってしまえば――
それまで普通に見えていた世界すら、正常に認識することが適わなくなるじゃろうな」
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作者 2-545
2008年01月20日(日) 18:43:11 Modified by n18_168