概念礼装「されど伝説は英雄と共に」
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nekomisomezasi 2022年12月22日(木) 14:38:30履歴
馬が走る姿を、見た。
彼と馬は、縁遠い存在だった。
競馬というものがあることは知っていたが、見たことは一度もなかった。
彼が生きるこの国では、競馬の知名度は低い。
テレビでもラジオでも中継されない。
ただ、スポーツ紙の隅に僅かなスペースがあるだけ。
大多数の人々は、馬の名前を知ることはなく、馬が走る姿を見ることもない。
彼もまた、その大多数の中にいた。
だけど彼は、その日競馬場へ向かった。
彼自身にも説明のできない、とは言え無視するにはあまりにも強い、見届けなければ、という衝動があった。
それに突き動かされるようにしてやってきたこの場所で、彼は初めて、馬が走る姿を見た。
先頭をひたすらに進む姿に、心を奪われた。
中団から抜け出していく姿は、力強かった。
後方から全てを抜き去る姿が、眩しかった。
走る馬たちは、言葉にできないほど美しかった。
たった2分半足らずの走りから、目が離せなかった。
どれだけ立ち尽くしていただろう。
ふと気が付いたとき、周囲から人の姿は消えていた。
茜空の下、世界に取り残されたような静寂の中、一頭の馬がコース上に佇んでいた。
走っていた馬たちと同じように、鞍や手綱を身に付けた、小柄で、茶色がかった毛並みの馬だった。
馬は、真っ直ぐに彼を見ている。
自然と、彼は馬の元へ向かっていた。
スタンドとコースを隔てる柵を乗り越え、歩き慣れない芝の感触に足を取られながら、彼は馬の前に立った。
顔を擦り寄せてきた馬は、どこか嬉しそうだった。
恐る恐る撫でてやると、満足そうに鼻を鳴らす。
そして彼に背中を向けると、脚を曲げ、姿勢を低くした。
乗れ、と言っているようだった。
彼は馬に乗ったことなど、一度もない。
だが、何かに導かれるように跨った。
馬が立ち上がると、視点も高くなる。
どうしてか、この高さから見る景色に、見覚えがあった。
馬は彼を乗せてゆっくりと歩き出した。
緩やかだった歩調は、徐々に駆け足へ変わっていく。
彼は、乗り手たちを真似して、同じ姿勢を取ってみた。
初めてやったことなのに、身体が覚えているかのようだった。
馬はさらに速度を上げていく。
風を切って走る馬の背中から、彼はスタンドを埋め尽くした大観衆を見た。
地を轟かすような歓声と、馬と彼の名を叫ぶ声を聞いた。
この馬が、そして自分が勝つ瞬間を、待っているのだとわかった。
飛べ、と彼は叫んだ。
その声に、馬は応えた。
翼が大きく広がったような、そんな感覚があった。
そうして彼と馬は、飛ぶような走りでゴール板を駆け抜けて。
初めからそこにいなかったかのように、消えた。
それは、観測する者のいなかった一幕。
競馬を愛し、競馬に愛された男は、この世界には存在しない。
しかしどれだけ世界が変わろうと、その本質に変わりはなく。
彼は最後の一瞬に、馬を愛した。
最後の一瞬まで、彼は愛した馬と共にあった。
崩れゆく世界の、間際の一時。
彼は確かに、騎手だった。
概念礼装「されど伝説は英雄と共に」
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