A.D.2001 人馬理定礎値B- 
落日歌劇王制仁川 終幕せし永竜讃歌
A.D.2001 落日歌劇王制 仁川 終幕せし永竜讃歌
2022年
なんだか、長い夢を見ていた気がする。
東から差す陽光に目を細めて、ユーイチは栗東トレーニングセンターの地面をまた一歩踏みしめた。
特異点。聖杯という願望器に願ったことで、歴史の狭間に消えた思いが成就した世界。それを望んだものにとっては心地よい一方で、現実や未来に深刻なひずみを生じる人類史の異物。その誘惑にユーイチは呑まれてしまった。
いや、他でもない彼が願い、作り上げたのだ。若かりし頃の悔いを果たし、欲しくて欲しくてたまらなかったゴール板の先へ、ユーイチ自身の手で“彼”を導いてやれる世界を。
他の全てを押しのけても、成功を収めた今を投げ出してでも“彼”――キングヘイローの背で眺める頂の景色を。
最初は、せめて最後の1戦だけは乗りたかったというだけのはずだった。
だが次第に彼の思いは「乗りたい」から「もっと上の着順にさせたい」、そして「勝ちたい」へと膨らんでいった。一度そう思ってしまうと、人間の心は止まらない。
そうして膨張したエゴを聞き入れた聖杯が作り出したものこそ、2000年冬の中山に発生した特異点だったのだ。長らく彼を苛んでいた心のしこりがようやく消え、彼は確かに幸せだった。
しかしそれも長くは続かない。
ユーイチを止めた人間こそ、同期の盟友リュージだった。キングヘイローのラストランで勝利を収めた馬の背中にいた男であると同時に、ユーイチとはまた別種の呪いに囚われた男。
心に暗く翳った部分を残したまま前を向いて進もうとあがく姿は、自分だけのために誂えられた過去に引きこもった彼には眩しく、そして泥臭いながらもひどく正しいものに思えた。
ディープボンドという絆を名に抱く友の愛馬によって、ユーイチの絆の糸は再び汎人類史に結び直された。
人馬理修正によって彼が作り上げた理想ずくめの虚像は消滅し、過去に悔いを抱えながらも現代で何とか歩いていく日々が戻ったのだった。ほんの数日前のはずなのだが、もうどこか遠い出来事に思える。
「あいつに礼言わなあかんな」
ぽつりと呟いて、辺りを見回す。普段であれば常に誰かに騎乗を頼まれている彼の姿に必ず1度は出くわすものだが、今日は不思議なことにまだ見かけてすらいなかった。
すると、少し向こうにいた人影とぱちりと目が合った。ユーイチに気付いて駆け寄ってくる人影の正体は、最近上り調子の若手だった。
「お疲れ様です福永さん！」
すぐユーイチの目の前までやって来た後輩騎手のリュウセイに「おう、お疲れさん」と手を挙げて応えた。
「なあ、ディープボンドと和田見んかったか？ちょっとあいつらに用あるんやけど」
「ああ和田さんなら…ん？ディープ、ボンド？」
ちょうどいい機会だと馬場チェックやレースの組み立てについて聞きたそうにしている彼を遮って手短に問いかけると、リュウセイは怪訝そうな顔で首を傾げた。
仮にも重賞を2勝し幾度もG��2着の実績があるディープボンドのことをリュウセイが知らないはずがない。かといって、彼はこういう場面で冗談を言う性格でもないはずだし、表情は本当に訳が分からないという心境が如実に表れたものだった。
ユーイチが後輩の真意を読みあぐねている間も、リュウセイはシンプルな疑問符を顔に浮かべてこちらを見つめている。それが何だか気恥ずかしくて、リュージに礼を言いたいから場所を教えろと正直に言うのは躊躇われた。
「いや何やねんその反応。そろそろ和田にもG�犠，討茲辰導綟�れたろかなと…」
とりあえず茶化して言い訳を1つ2つ言おうとしたところ、それより先にあがったのはリュウセイの素っ頓狂な声だった。
「何言ってんすか福永さん！和田さんといえば21年間リーディング1位を走り続けてる天才じゃないですか！」
「は…？」
「テイエムオペラオーの古馬全勝を皮切りに、毎年のようにお手馬を常勝無敗にする“和田劇場”に憧れて僕もジョッキーになったんですから！宝塚記念だけはどうしても勝てないのが不思議ですけど」
「いやいや、和田とオペラオーの年間無敗は史上唯一のアンタッチャブルレコード…」
毎年のような常勝無敗に和田劇場？リーディング1位独走？ リュウセイの突拍子もない話に呆れ顔で訂正を入れようとするも、後輩は逆にもっと不思議そうな顔になった。
まるで、こちらの方が間違っているというように。自分と周りが認識している世界と歴史がどこか噛み合わない違和感にユーイチは覚えがあった。しかし心の底では信じたくなくて、リュウセイ側の認識を修正しようと口を開こうとした。
しかし次の瞬間、ユーイチよりワンテンポ早く発せられたこの一言が、非情にも違和感の決定打になった。
「それにそのディープボンド？なんて和田さんのお手馬にいましたかねえ」
「！！！」
記憶を辿ろうと唸っているリュウセイを置いて弾かれたように駆けだした。トレーニングセンターでリュージのいそうなところを全て回るが、彼の姿はそのどこにもない。
厩舎を訪れても、調教師曰くディープボンドなんて名前の馬は今までいたこともなければ名前も知らないという。
確実に何かがおかしい。そしてその「何か」がかつて自分の起こしたものに酷似しているのは、自分が誰よりもよく分かっていた。
「和田！ディープボンド！どこや！…クソッ、俺にあんなお節介しといて」
そのとき、がっくりと膝をついたユーイチの頭上が翳った。顔を上げると、そこには4つ脚の生き物――ユーイチにとって思い出深い存在がいた。
「…コント、レイル？」
目の前にいる少し小柄な青鹿毛は、紛れもなく自分に3冠という栄誉を与えてくれた愛馬だった。しかし彼は昨年競走馬生活を終えて種牡馬になったはずだ。馬運車を見えなくなるまで見送ったのは絶対に記憶違いではない。
「お前、社台SSに行ったはずじゃ」
「コ〜ン」
コントレイルの口から発せられた締まりのない声に思わずずっこける。
「何や『コ〜ン』て。曲がりなりにも3冠馬やねんからもっと他に鳴き声あったやろ」
「コ〜ン？」
コントレイルは感情を荒げることもなく、穏やかな瞳でかつての相棒をただ見つめている。
なぜ彼が今ここにいるのか、ユーイチには分からない。だが何をするためにいるのかは、薄々気付いていた。
「…連れてってくれる言うんか？あの時のあいつらみたいに」
「コ〜ン」
「そうか。行くでコントレイル。今度は俺がアホな同期をシバき回す番や」
ギュウウウゥゥゥン…………
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A.D.2001 落日歌劇王制仁川 終幕せし永竜讃歌
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