A.D.2020 疫病封鎖地域日本 祝福を紡ぐ指揮棒・夢を描く飛行機雲
最終更新：
mitorizu_please 2023年06月25日(日) 00:19:26履歴
A.D.2020 
疫病封鎖地域日本 祝福を紡ぐ指揮棒・夢を描く飛行機雲
A.D.2020 疫病封鎖地域日本 祝福を紡ぐ指揮棒・夢を描く飛行機雲
2022年
リュージ「はぁ〜春のシーズンも終わってもうたなぁ……」
ユーイチ「暫くは芝にG1無いしなぁ……芝と言えば、俺今年の菊花賞はケンイチに取って欲しいねん」
リュージ「ケンイチに？そこは普通『菊も頑張らなアカンな！』って言うとこちゃうの？」
ユーイチ「……まぁ、騎手としてはソレが正解なんやけど……今年さは、俺が皐月取ってユタカさんがダービーやったやん？」
リュージ「あー……つまり、皐月がお前、ダービーがユタカさんと来たら、菊をケンイチが取れば」
ユーイチ「三冠ジョッキーが三冠を分け合う！中々オモロい事になるやろ？」
リュージ「またお前はアホな事を……」
リュウセイ「今、菊花賞の話してましたか！」
リュージ「おわっ！？ビックリした……こらリュウセイ！背後から急に顔突っ込んでくんなや！」
リュウセイ「す、すみません和田さん……その、菊花賞の話が聞こえて……ウチの先生から福永さんにって預かってたものが……」
ユーイチ「矢作センセから俺に？なんやこの封筒？」
リュウセイ「何って一昨年の菊花賞で陣営みんなで撮った口取り式に写真ですよ。福永さん、いつまで経っても自分の分取りに来ないですから」
ユーイチ「……は？」
リュージ「おまっえユーイチ！そんな大事なもんをずっと矢作厩舎にほっぽったままやったんか！？あり得へんぞ！？三冠馬の口取りの」
ユーイチ「ま、待て待て二人とも！俺、あの菊花賞でコントレインと口取りしとらんぞ？コロナの感染対策で」
リュウセイ「何言ってんすか福永さん！2019年末に怪しい風が一部地域で流行してるって情報を手にした日本政府は即座に諸外国からの渡航を完全禁止、外国から戻ってきた邦人に対しては徹底した隔離措置と検査をすると言う完璧な水際措置をして世界で唯一のコロナウイルス封殺成功国として世界各国から賞賛されたじゃないですか！」
ユーイチ「え？」
リュージ「そうそう。あと、口取り終わってから同期みんなで集まってお前の事を祝ったんも忘れたんか？ジュンコがマスコミ関係者に連絡取れんくなった奴の情報調べてもろたして……」
ユーイチ「え……なん」
コウヘイ「福永さん！」
コントレイル「こ〜ん」
デアリングタクト「タク〜」
ユーイチ「コウヘイ、それにコントにタクト」
コウヘイ「福永さん、みんながおかしいんです！タクトの秋華賞はスタンドが満員で割れんばかりの拍手がって……」
ユーイチ「俺もや……コントの菊花賞で口取りを……コレは、まさか！」
ユタカ「せやで、二人とも」
コウヘイ「っ！」
ユーイチ「ユタカさん！……まさか、ユタカさん特異点を？」
ユタカ「いや、俺は作ってない……ただ、賛同しただけや」
ユーイチ「賛同？」
ユタカ「そう……お前達二人が三冠を達成した瞬間の、世界を在り方を許せへん人、今、この世界を改編する特異点を作り出した人……俺らはその人に賛同し、特異点の力を補強した」
コウヘイ「そんな……歴史を捻じ曲げる手伝いをユタカさん……どうして？」
ユタカ「誰も気が付かず歴史は塗り潰された思ってたんやが……やっぱり当事者には耐性があるんやな」
ユーイチ「ユタカさん、何しに来たんです？」
コウヘイ「福永さん」
ユーイチ「ただ、俺とコウヘイが改編から取り残されてる事を確かめに来た……だけとちゃいますよね？」
ユタカ「察しが良いなユーイチ。俺はな、お前らに提案しに来たんや」
コウヘイ「提案？」
ユタカ「あぁ……二人とも、このまま改編を受け入れろ」
二人「「！？」」
ユタカ「そうすればお前達二人はスタンドいっぱいの観客に拍手と声援を送られて戴冠出来る……それが、二人にもってもしあわ」
ユーイチ「違う！」
ユタカ「？」
ユーイチ「確かに……ユタカさんやケンイチの時みたいな三冠馬の誕生では無かった……けど、あの時の、元の歴史の時にコイツと三冠になった事に意味が有るんです！」
コントレイル「こーん！」
コウヘイ「そうです……確かに、声援も拍手も少なかった……口取りも……でも、僕とタクトがあの情勢で取った事に意味が有るんです。それを……綺麗さっぱり捨てる事なんて出来るわけがない！」
デアリングタクト「タクー！」
ユタカ「そうか…………分かった。やったら俺やケンイチ、クリストフらあの人に賛同する奴も含めて12組の人馬が相手や。手加減はせぇへんからな……」
コウヘイ「ユタカさ……消えた」
ユーイチ「12組の人馬……どうやら、俺らの敵はとんでもない奴らばっかりらしいな」
コウヘイ「はい。でも、やるべき事は一つです」
ユーイチ「あぁ……俺らの歴史を取り戻す！コントレイル！」
コウヘイ「デアリングタクト！」
二人「「行くぞ！」」
コントレイル「コーン！！」
デアリングタクト「タクー！！」
ギュウウウゥゥゥン…………
A.D.2020 疫病封鎖地域日本 祝福を紡ぐ指揮棒・夢を描く飛行機雲
？？？？「私達の戴冠に、人々の祝福は無く……血塗られた手の軍人共の拍手がただただ響くだけだった」
？？？？「だから、私達より後に戴冠する者達には人々からの万雷の拍手と祝福の歌を祈った」
？？？？「そんな私達の些細な祈りすら砕く世界ならば──……」
？？？？「そんな世界、壊してしまえ」
リュージ「はぁ〜春のシーズンも終わってもうたなぁ……」
ユーイチ「暫くは芝にG1無いしなぁ……芝と言えば、俺今年の菊花賞はケンイチに取って欲しいねん」
リュージ「ケンイチに？そこは普通『菊も頑張らなアカンな！』って言うとこちゃうの？」
ユーイチ「……まぁ、騎手としてはソレが正解なんやけど……今年さは、俺が皐月取ってユタカさんがダービーやったやん？」
リュージ「あー……つまり、皐月がお前、ダービーがユタカさんと来たら、菊をケンイチが取れば」
ユーイチ「三冠ジョッキーが三冠を分け合う！中々オモロい事になるやろ？」
リュージ「またお前はアホな事を……」
リュウセイ「今、菊花賞の話してましたか！」
リュージ「おわっ！？ビックリした……こらリュウセイ！背後から急に顔突っ込んでくんなや！」
リュウセイ「す、すみません和田さん……その、菊花賞の話が聞こえて……ウチの先生から福永さんにって預かってたものが……」
ユーイチ「矢作センセから俺に？なんやこの封筒？」
リュウセイ「何って一昨年の菊花賞で陣営みんなで撮った口取り式に写真ですよ。福永さん、いつまで経っても自分の分取りに来ないですから」
ユーイチ「……は？」
リュージ「おまっえユーイチ！そんな大事なもんをずっと矢作厩舎にほっぽったままやったんか！？あり得へんぞ！？三冠馬の口取りの」
ユーイチ「ま、待て待て二人とも！俺、あの菊花賞でコントレインと口取りしとらんぞ？コロナの感染対策で」
リュウセイ「何言ってんすか福永さん！2019年末に怪しい風が一部地域で流行してるって情報を手にした日本政府は即座に諸外国からの渡航を完全禁止、外国から戻ってきた邦人に対しては徹底した隔離措置と検査をすると言う完璧な水際措置をして世界で唯一のコロナウイルス封殺成功国として世界各国から賞賛されたじゃないですか！」
ユーイチ「え？」
リュージ「そうそう。あと、口取り終わってから同期みんなで集まってお前の事を祝ったんも忘れたんか？ジュンコがマスコミ関係者に連絡取れんくなった奴の情報調べてもろたして……」
ユーイチ「え……なん」
コウヘイ「福永さん！」
コントレイル「こ〜ん」
デアリングタクト「タク〜」
ユーイチ「コウヘイ、それにコントにタクト」
コウヘイ「福永さん、みんながおかしいんです！タクトの秋華賞はスタンドが満員で割れんばかりの拍手がって……」
ユーイチ「俺もや……コントの菊花賞で口取りを……コレは、まさか！」
ユタカ「せやで、二人とも」
コウヘイ「っ！」
ユーイチ「ユタカさん！……まさか、ユタカさん特異点を？」
ユタカ「いや、俺は作ってない……ただ、賛同しただけや」
ユーイチ「賛同？」
ユタカ「そう……お前達二人が三冠を達成した瞬間の、世界を在り方を許せへん人、今、この世界を改編する特異点を作り出した人……俺らはその人に賛同し、特異点の力を補強した」
コウヘイ「そんな……歴史を捻じ曲げる手伝いをユタカさん……どうして？」
ユタカ「誰も気が付かず歴史は塗り潰された思ってたんやが……やっぱり当事者には耐性があるんやな」
ユーイチ「ユタカさん、何しに来たんです？」
コウヘイ「福永さん」
ユーイチ「ただ、俺とコウヘイが改編から取り残されてる事を確かめに来た……だけとちゃいますよね？」
ユタカ「察しが良いなユーイチ。俺はな、お前らに提案しに来たんや」
コウヘイ「提案？」
ユタカ「あぁ……二人とも、このまま改編を受け入れろ」
二人「「！？」」
ユタカ「そうすればお前達二人はスタンドいっぱいの観客に拍手と声援を送られて戴冠出来る……それが、二人にもってもしあわ」
ユーイチ「違う！」
ユタカ「？」
ユーイチ「確かに……ユタカさんやケンイチの時みたいな三冠馬の誕生では無かった……けど、あの時の、元の歴史の時にコイツと三冠になった事に意味が有るんです！」
コントレイル「こーん！」
コウヘイ「そうです……確かに、声援も拍手も少なかった……口取りも……でも、僕とタクトがあの情勢で取った事に意味が有るんです。それを……綺麗さっぱり捨てる事なんて出来るわけがない！」
デアリングタクト「タクー！」
ユタカ「そうか…………分かった。やったら俺やケンイチ、クリストフらあの人に賛同する奴も含めて12組の人馬が相手や。手加減はせぇへんからな……」
コウヘイ「ユタカさ……消えた」
ユーイチ「12組の人馬……どうやら、俺らの敵はとんでもない奴らばっかりらしいな」
コウヘイ「はい。でも、やるべき事は一つです」
ユーイチ「あぁ……俺らの歴史を取り戻す！コントレイル！」
コウヘイ「デアリングタクト！」
二人「「行くぞ！」」
コントレイル「コーン！！」
デアリングタクト「タクー！！」
ギュウウウゥゥゥン…………
A.D.2020 疫病封鎖地域日本 祝福を紡ぐ指揮棒・夢を描く飛行機雲
？？？？「私達の戴冠に、人々の祝福は無く……血塗られた手の軍人共の拍手がただただ響くだけだった」
？？？？「だから、私達より後に戴冠する者達には人々からの万雷の拍手と祝福の歌を祈った」
？？？？「そんな私達の些細な祈りすら砕く世界ならば──……」
？？？？「そんな世界、壊してしまえ」
プロローグ
2022年7月
「はぁ〜春のシーズンも終わってもうたなぁ……」
「暫くは芝のG �橘気い靴覆 帖帖�
6月最終週に行われた春の競馬シーズンの集大成、G�機κ�塚記念を終えた和田リュージと福永ユーイチはやや間延びした声でそれぞれ言葉を放った。
季節は夏、来年のクラシック戦線の主役となる2歳馬達の始まりの一歩である新馬戦や新潟競馬場の直線1000メートルで行われるアイビスサマーダッシュ等の目玉は有るにせよ、やはり王道路線路線の芝の中長距離のG�汽譟璽垢�無いこの時期はほんの少しだけのんびりとした空気が栗東トレーニングセンターに漂っていた。
「芝と言えば、俺今年の菊花賞はケンイチに取って欲しいねん」
「はぁ？」
ウッドチップのコースを調教後のクールダウンとして調教助手か担当厩務員を背に歩くどこかの厩舎の2歳馬を眺めながらポロリと零したユーイチに、リュージは思わず声を驚きの声を上げた。上げた声は思っていたよりも声量が有ったらしく、柵の向こう側、ウッドチップのコース上の馬上の人物から寄越された怒りの色が混じった視線にリュージは「すんません」と頭を下げながら小さく言うと、改めて隣の男へと向き合い口を開く。
「ケンイチに？そこは普通『菊も頑張らなアカンな！』って言うとこちゃうの？」
「まぁ、騎手としてはソレが正解なんやけど……今年さは、俺が皐月取ってユタカさんがダービーやったやん？」
意識して声量を抑えて先程の発言の真意を問うと、ユーイチはニヤニヤと笑いながら言葉を返す。
それを耳にした瞬間、リュージは全てを理解した。
「あー……つまり、皐月がお前、ダービーがユタカさんと来たら、菊をケンイチが取れば」
「三冠ジョッキーが三冠を分け合う！中々オモロい事になるやろ？」
「またお前はアホな事を……」
子供の様な笑顔で言い切るユーイチに呆れた声色でリュージは言葉を返す。
同時にこの同期が「おもしろそう」と言う理由で引き起こした特異点騒動が数えるのも億劫になる程の量になっている事に気が付いて無意識の内に溜め息が口から零れた。
「今、菊花賞の話してましたか？」
直後、背後から聞き慣れた声が上がる。
振り返った先に居た青年、血統オタクで(主にユーイチのせいで)特異点騒動が乱発し始めてから親交が深くなった後輩ーー坂井リュウセイが茶封筒を手に佇んでいた。
「おう、リュウセイお疲れさん。今、調教の帰りか？」
「はい。……ところで、さっきお二人とも菊花賞の話をしてましたよね？」
リュージが片手を上げて言葉を掛けると、一度会釈をすると、問いかけを口にしながらリュウセイは二人の元へと駆け寄った。
「しとったけど……それがどうしたん？」
「えっと、菊花賞の事でウチの先生から福永さんにって預かってたものが……」
「うん？俺？」
先程からやたらと菊花賞の事を口にするリュウセイに訝しげにリュージが問い掛けると、リュウセイは手にしてた茶封筒をユーイチに差し出しつつそれに答えた。
「矢作センセって……なんやこの封筒？騎乗依頼か何かか？」
ウチの先生ことリュウセイの所属する矢作厩舎の主である矢作ヨシトとユーイチには浅からぬ縁がある。
その彼がユーイチにとリュウセイに託した茶封筒を受け取り太陽に透かして見る。だが、何かの紙が入っている以上の事は分からず、可能性は限りなく低いとは言え“菊花賞”に関する事と言う事から導き出した答えを口にしながら中身を確認する為に茶封筒の端をユーイチが摘む。それと同時に、リュウセイが口を開いた。
「何って一昨年の菊花賞で陣営みんなで撮った口取り式の写真ですよ。福永さん、いつまで経っても自分の分取りに来ないからって僕が渡す様に言われたんです」
淀みなく紡がれたリュウセイの言葉に、ユーイチの指が止まった。
「……は？」
「おまっ……ユーイチ！そんな大事なもんをずっと矢作厩舎にほっぽったままやったんか！？あり得へんぞ！？三冠馬の口取り式の写真なんやぞお前！？」
「先生も困惑してましたよ……あんなに嬉しそうにしてたのに、写真取りに来ないなんて……って」
状況が掴めずに固まったユーイチ。ワンテンポ遅れて間の抜けた声を上げた直後、リュージに肩を捕まれ前後に揺すられる。
非難の声のリュージと困惑の声のリュウセイで言葉が鼓膜を振動させる。
頭ごと脳味噌を揺すられてるせいか考えが上手くまとまらない。しかし、自身の記憶と目の前の男達との記憶には僅かな“ズレ“が存在した。
「ま、待て待て二人とも！ちょお落ち着け！そもそも俺、あの菊花賞でアイツと口取りしとらんぞ？コロナの感染対策でアカンって……」
肩を掴むリュージを振り解いて言葉を放つユーイチ。
忘れる筈もない記憶を、あの日、共に栄光の戴冠をした相棒が“特別”になってしまったあの出来事を、今でも日常に僅かな影を落としている……人々が忘れる事など出来ないソレをーー……
「何言ってんすか福永さん！2019年末に怪しい風邪が一部地域で流行してるって情報を手にした日本政府は即座に諸外国からの渡航を完全禁止、外国から戻ってきた邦人に対しては徹底した隔離措置と検査をすると言う完璧な水際措置をして世界で唯一のコロナウイルス封殺成功国として世界各国から賞賛されたじゃないですか！」
しかし、リュウセイの口から飛び出してきたのはユーイチが“全く知らない過去の出来事”だった。
“ズレ“は確かな“相違”へとなった。
「え？」
「そうそう。あと、口取り終わってから同期みんなで集まってお前の事を祝ったんも忘れたんか？ジュンコがマスコミ関係者に連絡取れんくなった奴の情報調べてもろたりして……」
混乱が大きなるユーイチに、更に記憶にない事柄を話すリュージの声は途中から届かなくなった。
あの日、あの京都競馬場に同期が全員揃うなんて事はあり得ない。その日、同期でただ一人、美浦トレーニングセンターに所属している柴田ダイチは東京競馬場で騎乗をしていた。
『そっちに行けなくて悪いな。こっちで応援してるから、頑張れよ』
覚えてる。思い出せる。調整ルームへ入る前日に電話越しに贈られた激励の言葉を、勝利の翌日に贈られた『おめでとう、凄かったな』と言う祝福の言葉も、全て思い出せる
それなのに、不安がユーイチの中に積もっていく。もしかしたら、自分のこの記憶が間違っているのではないかーー……不安はドンドンと大きくなっていく。
(この封筒の……中身を、見れば……)
震える指先で封筒に触れる。不安から逃れたい一心で、ゆっくりと、ゆっくりと糊付けされた封を剥がしていく。
「福永さん！」
全てを剥がし終える寸前、叫びに近い声色がユーイチの名を呼ぶ。
顔を上げると、視線の先に肩を上下に動かし荒い呼吸をする若者と彼を心配そうに見つめる青鹿毛の馬が２頭。
「コウヘイとデアリングタクト……それに」
青鹿毛の内の１頭と目が合う。受話器に似た額の特徴的な流星、どこか愛嬌のある顔立ちで牝馬と見間違いされされる小柄な牡馬は、どんな事があっても忘れはしない、大事な相棒ーー……
「コント……レイル」
呼び掛けに、相棒は「こぉ〜ん」と馬らしからぬ嘶きを返す。普段ならば「気ぃ抜けるわその鳴き声」と軽くツッコミを入れるソレが、今は妙に心を落ち着かせる。
「福永さん、みんながおかしいんです。タクトの秋華賞はスタンドが満員で割れんばかりの拍手がって……あの日は、無観客だった春に比べたらマシだけど……感染対策で僅かな観客しか居なかったのに……」
息を整えた若者ーー松山コウヘイが言葉を紡ぎながらユーイチへと近付く。同時にコウヘイと共に現れた2頭、コントレイルと彼の相棒のデアリングタクトもユーイチへと歩み寄る。
「俺もや……コイツの菊花賞で口取り式して同期みんなが京都揃ったって……あり得ん事を言われて……」
「僕も似た様な事を……そんな記憶無いのに……」
「これは……まさか」
コウヘイが口にした記憶ーーユーイチ同様に未知の疫病により歓声の無い中で行われたレースの記憶に、幾らか思考が冷静さを取り戻す。
自身と他者との記憶のズレ、体感した感覚と残された記録との相違……落ち着いた思考で考えればあっという間に答えは導き出される。
「どうしたんや、二人とも？」
直後、ウッドチップのコースの方向から聞き慣れた声が上がり、二人の肌を撫でる空気が変わる。
揃ってそちらの方へと身体ごと視線を移すと、そこには黒、青袖、黄鋸歯形の勝負服を着た自分たちより幾らか背の高い男が凪いだ表情で立っていた。
「……ユタカ、さん」
対峙する男の名を口にするユーイチ。
武ユタカ、日本で知らぬ者は居ないと言っても過言では無い競馬界の立役者であり、ユーイチにとっては幼い頃から何かと気に掛けてくれる近所の頼れる兄貴分の幼馴染。
その彼が、品定めをする様にユーイチとコウヘイを見つめる。
「ユタカさん……みんなが、おかしいんですタクトの……」
「コウヘイ、行くな」
「福永さん？」
偉大な先輩の登場に安心し、彼へと歩みを進めるコウヘイを短い言葉で止めるユーイチ。
自分の不可解な行動を問い掛ける様に名前を呼ぶコウヘイに、答えを返さずユーイチはじっとユタカの目を見る。
「……ユタカさん」
ゆっくりと口を開く。
交わる視線に滲み出る“敵意”の色に、確信を持ちながら、けれど僅かな否定を懇願する気持ちを乗せてユーイチは言葉を続ける。
「この、特異点を作ったのは……ユタカさんですか？」
放った言葉は静かに夏の蒸された空気の中へと溶ける。
僅かな沈黙の後、ユタカは口角を上げて笑みを作る。
「いいや、俺は作ってへん」
否定の言葉に安堵の表情をするコウヘイ。
けれどユーイチは、この場で誰よりも長く、そして近くで“武ユタカと言う一人の人間”を見てきたユーイチは、悲しい程に悟っていた。
「俺はただ……賛同しただけ」
目の前の男が“味方では無い”事を……
「え？さん……ど、う？」
「そうやでコウヘイ。お前達二人が三冠を達成した瞬間の、世界を在り方を許せへん人……今、この世界を改変する特異点を作り出した人……俺らはその人に賛同し、特異点の力を補強した」
「そんな……歴史を捻じ曲げる手伝いをユタカさん……どうして！？」
口元の笑みを崩さずに朗々と語るユタカに悲痛な叫びを上げるコウヘイ。
けれど、その叫びはユタカには届かない。
「誰も気が付かず歴史は塗り潰された思ってたんやが……やっぱり当事者には耐性があるんやな」
現れた時のまま、品定めをする目線でユーイチとコウヘイ、そして彼らの背後に居るコントレインとデアリングタクトを見つめるユタカ。
「ユタカさん、何しに来たんです？」
努めて平静を装い、ユーイチは問い掛ける。
瞬間、ユタカの眉が僅かに動いたのをユーイチは見逃さなかった。
「ただ、俺とコウヘイが歴史の改変から取り残されてる事を確かめに来た……だけとちゃいますよね？」
畳みかける様に問い掛けを重ねる。僅かな変化も逃さぬ様に視線はただ一人、目の前の男だけを見つめて問い掛ける。
「察しが良いなユーイチ。こんなに成長して……兄貴分としてはほんまに嬉しいわ」
「俺もコウヘイも雑談したいんやありません。はよ答えてください」
「せっかちやなぁ……まぁええか。ユーイチ……それからコウヘイ、俺はな、お前らに提案しに来たんや」
メディアに見せる人当たりの良い……自分達も見慣れた表情を作ったユタカは言葉を紡ぐ。
「提案？」
笑顔を貼り付けて口にするユタカにコウヘイは疑問を返す。ユーイチは、それに対するユタカの答えを静かに待った。
「あぁ……二人とも、このまま改変を受け入れろ」
凪いだ海原の様に穏やかな声で放たれた言葉に、二人は目を見開いた。
「そうすればお前達二人はスタンドいっぱいの観客に拍手と声援を送られて戴冠出来る……それが、二人にもっても幸せやろ」
当たり前の様に口にされたのは、自分の……自分と相棒が共に走り抜けた道のりを否定する言葉。
「……けんな」
「ん？」
「ふざけんなっ！」
一番聞きたく無い言葉を一番言って欲しく無い人物の口から放たれたユーイチは平静さの仮面をかなぐり捨てて激昂し睨みつける。
今、この瞬間、目の前の男は明確にユーイチ敵へと成り下がった。
「確かに……ユタカさん達の時みたいな三冠馬の誕生では無かった……けど、あの時の、元の歴史の時にコイツと三冠になった事に意味が有るんです！」
「コーン！」
ユーイチの叫びに呼応するかの様に共に走り抜いた相棒が嘶く。
俺も、お前と同じ気持ちだと言うかの様に力強く独特の鳴き声で応える。
「そうです……確かに、声援も拍手も少なかった……口取りも……でも、僕とタクトがあの情勢で取った事に意味が有るんです。それを……綺麗さっぱり捨てる事なんて出来るわけがない！」
「タクー！」
物心付いた時から活躍をする偉大な先駆者を前に、コウヘイも叫ぶ。
どんなに偉大な人だろうと、自分と彼女の道のりを否定する男を許す事をコウヘイも、そしてデアリングタクトも出来ないと言う強い意志を乗せて言葉を放つ。
「そうか…………分かった」
強い意志を乗せて放たれた明確な対立を表す言葉に、ユタカは一瞬、悲しそうな顔をした。
直後、霧の様に彼の体は粒子となってに空気の中へと消えた。
「！？ユタカさ……」
『それやったら、俺と同じくあの人に賛同する奴も含めて12組の人馬が相手や。ユーイチ、コウヘイ……手加減はせぇへんからな……』
反射的にユタカが居たところへと手を伸ばすユーイチ。僅かに残っていた粒子が指に触れて消えたのと同時に、ユーイチとコウヘイの鼓膜を氷の様に冷え切ったユタカの声が直接震わせた。
「福永さん……コレ……」
「12組の人馬……どうやら、俺らの敵はとんでもない奴らばっかりらしいな」
残された言葉に乾いた笑いを零す。かの有名なアーサー王伝説の円卓の騎士と同じ数の人馬……それは、紛れもなくこの場には居ない三つの冠を戴いた人馬の数と同じだった。
「はい。でも、やるべき事は一つです」
化け物じみた戦績と強さを持つ歴代の三冠馬と三冠牝馬との戦い。恐怖を感じないと言えば、ソレは嘘になる。
けれど、それで歩みを止める程、二人の決意は軽くは無かった。
「あぁ……俺らの歴史を取り戻す！コントレイル！」
「デアリングタクト！」
「コーン！！」
「タクー！！」
それぞれの相棒の名を呼ぶ。それに答えた嘶きが響くと、二人の目の前に光の渦が現れた。
「「行くぞ！」」
徐々に広がる光の渦は、二つの声が重なったその瞬間に二組の人馬を飲み込んで収束し、消えた。
ギュウウウゥゥゥン…………
静寂に包まれた空間に、光に渦が現れる。その中から姿を現したユタカは、小さく溜息を零す。
「急に俺の術に介入するのは辞めてくれませんか、小西さん」
「あぁ……すまないね、武ユタカ。どうしても君と話がしたくなってね」
呆れた様子で言うと、小さく笑いながら自分より一回り背の低い男が建物の陰から現れた。
「話……ですか？」
「君が一人でレイシフトしたと言う事は……福永ユーイチと松山コウヘイ両名の説得は失敗……と言う事で良いかな？」
小西と呼んだ男が口にした言葉に、ユタカは眉を顰めた。
「あぁ、誤解しないでほしい。私は別に責めるつもりは無いよ……彼らにも三つの冠を戴冠した者としての誇りと矜持が有るだろうしね……そう簡単に此方へ恭順するとは思っていない」
「じゃあ、なんですか？」
掴み所のない小西の言葉に、ここで時間を掛けるつもりの無いユタカはストレートに疑問投げつけた。
眼前の男は、現れた時の柔らかな笑みのままユタカへと応える。
「君は、どうしてあの二人が改変の影響を受けていないと分かったんだい？」
放たれた言葉は想定内の問い掛け。であれば、此方も用意していた言葉を口にするだけで済む。
「改変事由の当事者だから……それから、ユーイチの方は大なり小なり結構な数の特異点作ったり修正したりしてますし、耐性が付いた……って所ですね」
「なるほど。納得できる返答ではあるが、特異点に対する耐性ならば『深き絆』と共に駆ける彼……和田リュージと言ったか……彼も改変に気が付いても良いものだと思うが？」
「それこそ“当事者”と“部外者”と言う立場の違い故ですよ」
淀みなく言葉を紡ぐ。これ以上は何も話すつもりは無いと言うユタカに小西は「そうか……」と諦めた様に口にした。
「話は終わりですか？」
「あぁ、足止めしてすまないね武ユタカ」
「いえ……じゃあ俺は俺の持ち場へ戻ります」
空中でユタカの右手が十字を切る。直後、光の渦が現れ彼の身体を包み込む。
「……あぁ、そうだ。一つ、先人として忠告を」
目の前で収束する光の渦に向かって小西は言葉を紡ぐ。
「敬愛と親愛に……足元を掬われない様にね」
既に目に前にあった光の渦は既に消え失せ、紡いだ言葉は虚空に溶けて消えた。
「ブルルルッ」
直後、小西の影からサラブレッドが一頭、が嘶きと共に飛び出す。体高の高い黒鹿毛の馬は小西の傍へとスッと寄り添った。
「お前は、どう思う？」
此方を見下ろす二つの瞳を眺めながら小西は問い掛ける。
「私は……福永ユーイチと松山コウヘイの両名はきっと私達の元へと辿り着く……そんな予感がするんだ」
静かな声で口にした言葉に相棒は肯定の嘶きを上げる。
「あぁ、やっぱりお前もそう思うか。例え、他の11の人馬達がどんなに強大だろうと、彼らは……彼らの歩んできた道とこれから歩む道を見るに、簡単には諦めないだろうからね」
聖杯ーーこの特異点を作る際に使用した願望器が己に与えた知識を振り返る。三つの冠を戴いた後に彼等に与えられた敗北と負傷、心ない人々からの罵詈雑言の数々ーー……
しかし、飛行機雲の名を持つ彼は最後にはその名を表すかの様に青空に希望を描き、競走馬として致命的な負傷をした彼女は、周囲の人々の献身により復活の狼煙を上げた。
「だが……彼等の意地より、私達の願いの方が強い。他の者達が倒れたとしても、最後に私達が立っていればソレでこの“戦争”は勝ちだ」
刹那、スッと笑みが消える。虚空を睨め付ける眼光には研ぎ澄まされた刃の鋭さが宿っている。
「さぁ……私達で誤った世界を壊し、正しい世界へと作り替えようーーセントライト」
聖なる光の名を持つ愛馬と共に、三つの冠の最初の戴冠者ーー小西キゾウは静かに宣誓の言葉を上げた。
A.D.2020 疫病封鎖地域日本 祝福を紡ぐ指揮棒・夢を描く飛行機雲
疫病封鎖地域日本・第1戦 A.D.2018 快颯二陣麗駿ジャパンカップ 乙女策すは美眸の黒星
????年
「ここは…」
「東京競馬場、ですね」
レイシフトの光に眩んだ目を開けると、そこは西日に照らされたターフの上だった。
2人が立っているのは、どこかの競馬場の平坦なホームストレッチ。職業柄コース形態を見ればある程度分かるものだが、念のため近くにあったゴール板に目を向けると、思った通り「TOKYO」という文字がある。知らない場所じゃなくて良かった、とコウヘイは密かに胸をなでおろした。
「これがレイシフト…これはいつの府中なんでしょうか福永先ぱ…福永先輩？」
時空を超えて歴史をあるべき道へ戻すべく同行したものの、初めてレイシフトを行ったコウヘイには具体的にどうすればいいのか全く見当がついていなかった。そこで口ぶりからして経験者であるユーイチに視線を投げかけたのだが、その顔には右も左も分かっていないコウヘイ以上に混乱と怯えの入り混じった表情が浮かんでいた。
「…しい」
「福永先輩？」
彼の口から漏れた声は、芝のそよぐ音にかき消されるほど小さく掠れていた。
「おかしい。様子が変や。これは…ほんまに特異点なんか？」
特異点を作った者、そして修正した者であるユーイチの経験上、特異点というものは誰かの願望によって作り上げられた世界だ。歴史の中で潰えた可能性を立ちのぼらせるという性質上、基本的には叶えられた栄光、破滅を回避した人々、それらの“別形態の人類史”が存在しているはずなのだ。
――はずなのだが、ここにはそういったものが一切なかった。
彼らがいる場所とは反対側にある、大手時計メーカーの企業名が冠されたターフヴィジョンには“東京11R”の文字。間違いなくレースが開催される曜日であるにもかかわらず、反対側の観客席にはファンも関係者も誰一人いない。それどころかどれだけ耳をすませても、近くの道路を走っているはずの車の音さえ全く聞こえない。芝が風でさらさら擦れる音と彼らの側にぴったりついた愛馬の息遣いを除いて、生命の存在を思わせるあらゆる音が消えていた。
つまりこの東京競馬場は、過去のどこかの地点で存在したそれとは異なるものだということになる。そんな状況、ユーイチのデータにはない。
「様子が変って…どういうことですか福永先輩、これはその特異点っていうやつじゃないんですか！？」
「そんなん聞かれたかて分からんもんは分からんわ、俺もこんなパターン初めてで…」
「落ち着いてください福永先輩！ボク達が動揺したら、馬にも伝わってしまう」
「！！！」
コウヘイの一言で、ユーイチの狼狽はピタリと治まった。馬を扱うことを生業にしている彼らには、馬第一という姿勢が染みついている。脇にいる愛馬の存在がこの世界では何もない彼らの拠り所になり、思考の基盤にもなっていた。
しかし落ち着きはしたものの、だからといってこの特異点“もどき”の正体が解明されたわけではない。ユーイチは普段の癖で芝の上を歩き回りながら、顎に手をやってぶつぶつやり始めた。コウヘイもターフで胡坐をかき、未知の経験ばかりでこんがらがった頭の中を整理する。
「用意された無人の東京競馬場はどういう意味や？単純に考えればレースか。府中のG�機張泪ぅ襪硫椎柔�もあるけど、これは3冠馬の歴史を守る戦いや。中距離G�気諒�がありうるな。それにあの会社と提携してるっちゅーことは…」
「東京で行われるG�汽譟璽后�でも発走時間前なのに太陽はもうかなり西に傾いてる…じゃあ春競馬の線は消えるか。東京で行われる秋のG�気箸い┐�2つだからそのうちのどちらかになるな。ここ最近で3冠馬が勝利した回数を比較して、可能性が高いのは…」
まさか、と2人の口の動きがシンクロしたときだった。
「コウヘイくん、福永さん」
背後で、ザッと芝を踏みしめる音が鳴る。それは聞き違えることのできない、履きなれたブーツのたてる足音だった。
振り返ると、2人と似た背格好の人影が1つ。それが少し向こう…馬場の境目あたりから近付いてきている。
「こんにちは。2人とも年取りましたね。ちょっとオジサンになった」
そう言って笑うのは、ユーイチとコウヘイもよく知る人物だった。
そして同時に――この特異点によく似た場所で戦わなければならない相手を理解した。
「クリストフお前…お前もユタカさんに同意したんか！」
「そうです。トリプルクラウンになったときのお客さんの声、すごく嬉しい。絶対ある方がいいです。2人はなぜ要らないんですか？」
完璧に状況を理解できたわけではない。それでも彼らをレイシフトに駆り立てた思いは、自分たちの刻んだ足跡を勝手に歪められたことへの憤りは、心の中で依然激しく渦巻いていた。だからこそ、普段の自分なら言わないであろう心からの言葉が目の前の男に向かってスルスルと口を突いて出る。
「そんなん…決まっとるやんか。あの情勢、あの無観客の中で獲った3冠こそ、俺とコントレイルが駆け抜けた証なんや！」
「福永先輩の言う通りです！たとえ歴史をねじ曲げて大歓声を浴びたとしても…それは本当のボク達じゃない。あの静かなターフで聞いた、胸に確かに届いた祝福の声こそが、ボクらにとってかけがえのない歴史なんです！」
「それはお前にもユタカさんにも、他の奴らにも絶対に奪わせへんで！」
怒りの声を浴びせられたこの場で3人目の3冠ジョッキーは、真意の読めない表情で目を伏せた。
「…そうですか、仕方ないね。すごく残念です」
そう言って右手の指をパチンと鳴らした次の瞬間、無人の東京競馬場の上からテクスチャが貼りつけられるように、未知の感染症が世界を覆う前の懐かしい景色が次々と現れた。足の踏み場もなさそうなほど詰めかけた観衆、大地を揺らす彼らの歓声、地下馬道から出てくる見覚えのあるサラブレッドやホースマンたち。そして “38th JAPAN CUP”の白い文字が大きく記された、紺色のシックなゴール板。最後に満を持して現れたゲートには、実際のレースより1つ多い15番までの数字が振られていた。
「…なるほど。レースに出て自分に勝て、ちゅーわけやな」
「僕は彼女に乗って相手します。僕は1人ですから、2人と戦うはフェアじゃないです。どちらが走るか決めてください」
ルメールの声が先ほどよりも高い位置から降ってくる。いつの間にか、彼の姿は馬上にあった。
身を包んだ赤玉霰と袖赤一本輪が鮮やかな水色の勝負服に、跨る馬が装着するは厩舎のトレードマークである白いシャドーロール。そして鹿毛が縁どる大きな瞳はまさしく――
「アーモンドアイ。俺たちにとって因縁の相手やな。どうする？俺が行った方がええか？」
一歩前に出ようとしたユーイチを、コウヘイは腕を前に出して遮った。
「いや、俺が行きます。これは牝馬どうしの戦いですから…それに戦いはたぶんこれだけじゃない。福永先輩とコントレイルくんは次のレースに備えててください」
「コウヘイ…」
コウヘイが立ち上がり、寄り添うデアリングタクトの首筋を優しく撫でた。するとどこからともなく優しい白い光が彼の周りに集まり、またたく間に人馬を包み込んだ。光が散り散りになって消えていくと、トレセンで着ていたシンプルなジャージは、水色地に白い模様の入った勝負服へ変わっていた。彼と愛しき相棒が、声なき声を背に幾度もゴール板を先頭で駆け抜けた思い出の結晶。彼女と共に歩んだ誇りと歴史の象徴だ。
「コウヘイくんですか、よろしくね。でもこのアーモンドアイはコウヘイくんが戦ったことない姿。スピードもパワーも全然違う。がんばって」
挑発じみた声を聞き流して、デアリングタクトの手綱を握りしめる。彼女も臨戦態勢だ。
一度敗北を喫したからといって、自分たちの誇りを穢すものに二度も追従する気は――ない。
「さあ、今度こそはっきりさせましょうかルメールさん」
勝負服の胸元をギュッと掴み、目の前に立ちはだかる敵を睨んだ。
「――ボクのデアリングタクトが、この世で一番強い女だって」
疫病封鎖地域日本・第1戦
A.D.2018 快颯二陣麗駿ジャパンカップ 乙女策すは美眸の黒星
『ご覧のように、キセキが引っ張ってアーモンドアイ3番手にあがっています！』
スタートは上手く出た。1コーナーを回るころには6番手の外を確保して、人気馬を見ながらレースを進められそうだ。隊列もペースも記憶にあるレースそのままなところからしてタフなレースになるだろうが、それこそ彼女の大得意。自分にできることは、どっしり構えて彼女を完璧にエスコートすることだけだろう。
『その2馬身後ろからスワーヴリチャード。間に“1頭”置いて更にその後ろ、外めを通ってシュヴァルグランといった大勢です』
ボクらの名前は呼ばれない。馬番も、帽子の色さえアナウンサーの口にのぼることはなく、いるはずのない“1頭”の位置取りだけが淡々と伝えられる。
このレースは偽物だ。歴史の表面だけを切り取って取り繕っただけの舞台装置。だから周りでレースを進める各馬もジョッキーも、史実通りにプログラムされた動きをなぞる影法師にすぎない。自分たちだけが、このハリボテのレースで異端だった。
（だけど……）
内でやや前方を走るスワーヴリチャードの更に前へ目を転じると――
――いた。
このレースでボクらを除いて唯一の、もう1人の実像。そして、何としても倒さなければならない相手。
彼らがいるのは実際のレースと同じ3番手。差し競馬もできるとはいえ、わざわざ末脚勝負はしないということか。冷静な彼のことだ、勝利に最も近いレースプランを組み立てた結果、当時と同じ戦略に行きついたのだろう。普段なら尊敬し見習うところなのが、今回ばかりはそうもいかない。ボクらの過去、現在、そして未来が懸かっているのだから。
「かかってこい、アーモンドアイ」
彼が馬の力を信じているように、ボクも彼女を信じるだけだ。
4コーナーを回って、先行馬たちが徐々にふるいにかけられていく。
脚はまだ上がっていない。ノープレッシャーでレースを運べたおかげで、いつでも弾ける準備はできている。各馬ジョッキーの手が動き始めるが、内のアーモンドアイは文字通り持ったまま。絶好の手応えで直線を迎えている。ここまでは予想通りだ。
問題はここから、いつ仕掛けるかだ。
前回対戦したとき向こうは5歳、こちらは3歳と、斤量のアドバンテージがあった。しかしこの舞台ではそれがない。律儀に相手を待って追い出していたら、同等の上がりを使う相手には位置取りの差で届かない。
それならば。
（――ここだ！）
残り400メートルの標識を過ぎてからひと呼吸、追い出しにかかるクリストフより一瞬早く、ステッキを右に振り下ろした。
瞬間、デアリングタクトは飛ぶように加速する。
内で伸びあぐねるスワーヴリチャードを一気にかわし、単独3番手に躍り出た。
ボクらにはこの脚がある。三冠への道をこじ開けた、この脚が。
『ここで変わった！アーモンドアイだー！！』
残り200メートル。
クリストフの右鞭2発に鋭く反応したアーモンドアイが、逃げるキセキを並ぶ間もなく突き放しにかかる。まさしくエンジンが違うとしか言いようのない走り。その姿はまだ3馬身近く前方だ。
普通なら届かない。好位からあの脚を使われては、たとえG�鞠呂任△辰討盧垢契擇襪里脇颪靴い世蹐Α�それは自分が身をもって知っている。
――しかし。
「……ボクらは、無敗だ」
鞭が入る。
自分が心を奪われたエンジンに、火がついた。
『しかし外から1頭！1頭凄い脚で伸びてくる！』
一完歩ごとにギアが上がっていくのを感じる。
あの時は届かなかった背中が、グングン迫ってくる。
「だから敗けない――当然、あなたたちにも！」
無敗ということは、詰められなかった差がないということ。
3歳の彼女に、捕らえられないものは、ない。
『先頭アーモンドアイ！しかしもう1頭外から追ってくる！残り2馬身！1馬身半！』
「行かせるかあああああああッ！！！」
一完歩、キセキを抜き去る。あと1人。
無我夢中に追う。デアリングタクトはそれに応えて更に脚を伸ばす。先頭を走る三冠牝馬の息遣いが、どんどん大きくなっていく。
残り、1馬身、半馬身――
『あと100！アーモンドアイ凌ぎ切れるか！その差は残り僅か！これは2頭のマッチレースになるぞ！』
馬体を合わせたまま、残り50メートルを切った。
脚が止まったわけではない。モタれているわけでもない。それなのに、なかなか抜き去ることができない。さすがは芝G��9勝を達成することになる牝馬、一筋縄ではいかない。
しかし自分は知っている。馬群をこじ開け、怪我を乗り越え、少しでも前へ進もうとする彼女の気持ちの強さを。そしてそれがデアリングタクトを不屈の三冠牝馬たらしめていることを。
――ここから思いの勝負だと言うのなら、真っ向から受けて立ってやる。
「うおおおおおおおお！！！」
『アーモンドアイ！外からもう1頭！内外並んでゴールイン！！！』
「ここは…」
「東京競馬場、ですね」
レイシフトの光に眩んだ目を開けると、そこは西日に照らされたターフの上だった。
2人が立っているのは、どこかの競馬場の平坦なホームストレッチ。職業柄コース形態を見ればある程度分かるものだが、念のため近くにあったゴール板に目を向けると、思った通り「TOKYO」という文字がある。知らない場所じゃなくて良かった、とコウヘイは密かに胸をなでおろした。
「これがレイシフト…これはいつの府中なんでしょうか福永先ぱ…福永先輩？」
時空を超えて歴史をあるべき道へ戻すべく同行したものの、初めてレイシフトを行ったコウヘイには具体的にどうすればいいのか全く見当がついていなかった。そこで口ぶりからして経験者であるユーイチに視線を投げかけたのだが、その顔には右も左も分かっていないコウヘイ以上に混乱と怯えの入り混じった表情が浮かんでいた。
「…しい」
「福永先輩？」
彼の口から漏れた声は、芝のそよぐ音にかき消されるほど小さく掠れていた。
「おかしい。様子が変や。これは…ほんまに特異点なんか？」
特異点を作った者、そして修正した者であるユーイチの経験上、特異点というものは誰かの願望によって作り上げられた世界だ。歴史の中で潰えた可能性を立ちのぼらせるという性質上、基本的には叶えられた栄光、破滅を回避した人々、それらの“別形態の人類史”が存在しているはずなのだ。
――はずなのだが、ここにはそういったものが一切なかった。
彼らがいる場所とは反対側にある、大手時計メーカーの企業名が冠されたターフヴィジョンには“東京11R”の文字。間違いなくレースが開催される曜日であるにもかかわらず、反対側の観客席にはファンも関係者も誰一人いない。それどころかどれだけ耳をすませても、近くの道路を走っているはずの車の音さえ全く聞こえない。芝が風でさらさら擦れる音と彼らの側にぴったりついた愛馬の息遣いを除いて、生命の存在を思わせるあらゆる音が消えていた。
つまりこの東京競馬場は、過去のどこかの地点で存在したそれとは異なるものだということになる。そんな状況、ユーイチのデータにはない。
「様子が変って…どういうことですか福永先輩、これはその特異点っていうやつじゃないんですか！？」
「そんなん聞かれたかて分からんもんは分からんわ、俺もこんなパターン初めてで…」
「落ち着いてください福永先輩！ボク達が動揺したら、馬にも伝わってしまう」
「！！！」
コウヘイの一言で、ユーイチの狼狽はピタリと治まった。馬を扱うことを生業にしている彼らには、馬第一という姿勢が染みついている。脇にいる愛馬の存在がこの世界では何もない彼らの拠り所になり、思考の基盤にもなっていた。
しかし落ち着きはしたものの、だからといってこの特異点“もどき”の正体が解明されたわけではない。ユーイチは普段の癖で芝の上を歩き回りながら、顎に手をやってぶつぶつやり始めた。コウヘイもターフで胡坐をかき、未知の経験ばかりでこんがらがった頭の中を整理する。
「用意された無人の東京競馬場はどういう意味や？単純に考えればレースか。府中のG�機張泪ぅ襪硫椎柔�もあるけど、これは3冠馬の歴史を守る戦いや。中距離G�気諒�がありうるな。それにあの会社と提携してるっちゅーことは…」
「東京で行われるG�汽譟璽后�でも発走時間前なのに太陽はもうかなり西に傾いてる…じゃあ春競馬の線は消えるか。東京で行われる秋のG�気箸い┐�2つだからそのうちのどちらかになるな。ここ最近で3冠馬が勝利した回数を比較して、可能性が高いのは…」
まさか、と2人の口の動きがシンクロしたときだった。
「コウヘイくん、福永さん」
背後で、ザッと芝を踏みしめる音が鳴る。それは聞き違えることのできない、履きなれたブーツのたてる足音だった。
振り返ると、2人と似た背格好の人影が1つ。それが少し向こう…馬場の境目あたりから近付いてきている。
「こんにちは。2人とも年取りましたね。ちょっとオジサンになった」
そう言って笑うのは、ユーイチとコウヘイもよく知る人物だった。
そして同時に――この特異点によく似た場所で戦わなければならない相手を理解した。
「クリストフお前…お前もユタカさんに同意したんか！」
「そうです。トリプルクラウンになったときのお客さんの声、すごく嬉しい。絶対ある方がいいです。2人はなぜ要らないんですか？」
完璧に状況を理解できたわけではない。それでも彼らをレイシフトに駆り立てた思いは、自分たちの刻んだ足跡を勝手に歪められたことへの憤りは、心の中で依然激しく渦巻いていた。だからこそ、普段の自分なら言わないであろう心からの言葉が目の前の男に向かってスルスルと口を突いて出る。
「そんなん…決まっとるやんか。あの情勢、あの無観客の中で獲った3冠こそ、俺とコントレイルが駆け抜けた証なんや！」
「福永先輩の言う通りです！たとえ歴史をねじ曲げて大歓声を浴びたとしても…それは本当のボク達じゃない。あの静かなターフで聞いた、胸に確かに届いた祝福の声こそが、ボクらにとってかけがえのない歴史なんです！」
「それはお前にもユタカさんにも、他の奴らにも絶対に奪わせへんで！」
怒りの声を浴びせられたこの場で3人目の3冠ジョッキーは、真意の読めない表情で目を伏せた。
「…そうですか、仕方ないね。すごく残念です」
そう言って右手の指をパチンと鳴らした次の瞬間、無人の東京競馬場の上からテクスチャが貼りつけられるように、未知の感染症が世界を覆う前の懐かしい景色が次々と現れた。足の踏み場もなさそうなほど詰めかけた観衆、大地を揺らす彼らの歓声、地下馬道から出てくる見覚えのあるサラブレッドやホースマンたち。そして “38th JAPAN CUP”の白い文字が大きく記された、紺色のシックなゴール板。最後に満を持して現れたゲートには、実際のレースより1つ多い15番までの数字が振られていた。
「…なるほど。レースに出て自分に勝て、ちゅーわけやな」
「僕は彼女に乗って相手します。僕は1人ですから、2人と戦うはフェアじゃないです。どちらが走るか決めてください」
ルメールの声が先ほどよりも高い位置から降ってくる。いつの間にか、彼の姿は馬上にあった。
身を包んだ赤玉霰と袖赤一本輪が鮮やかな水色の勝負服に、跨る馬が装着するは厩舎のトレードマークである白いシャドーロール。そして鹿毛が縁どる大きな瞳はまさしく――
「アーモンドアイ。俺たちにとって因縁の相手やな。どうする？俺が行った方がええか？」
一歩前に出ようとしたユーイチを、コウヘイは腕を前に出して遮った。
「いや、俺が行きます。これは牝馬どうしの戦いですから…それに戦いはたぶんこれだけじゃない。福永先輩とコントレイルくんは次のレースに備えててください」
「コウヘイ…」
コウヘイが立ち上がり、寄り添うデアリングタクトの首筋を優しく撫でた。するとどこからともなく優しい白い光が彼の周りに集まり、またたく間に人馬を包み込んだ。光が散り散りになって消えていくと、トレセンで着ていたシンプルなジャージは、水色地に白い模様の入った勝負服へ変わっていた。彼と愛しき相棒が、声なき声を背に幾度もゴール板を先頭で駆け抜けた思い出の結晶。彼女と共に歩んだ誇りと歴史の象徴だ。
「コウヘイくんですか、よろしくね。でもこのアーモンドアイはコウヘイくんが戦ったことない姿。スピードもパワーも全然違う。がんばって」
挑発じみた声を聞き流して、デアリングタクトの手綱を握りしめる。彼女も臨戦態勢だ。
一度敗北を喫したからといって、自分たちの誇りを穢すものに二度も追従する気は――ない。
「さあ、今度こそはっきりさせましょうかルメールさん」
勝負服の胸元をギュッと掴み、目の前に立ちはだかる敵を睨んだ。
「――ボクのデアリングタクトが、この世で一番強い女だって」
疫病封鎖地域日本・第1戦
A.D.2018 快颯二陣麗駿ジャパンカップ 乙女策すは美眸の黒星
『ご覧のように、キセキが引っ張ってアーモンドアイ3番手にあがっています！』
スタートは上手く出た。1コーナーを回るころには6番手の外を確保して、人気馬を見ながらレースを進められそうだ。隊列もペースも記憶にあるレースそのままなところからしてタフなレースになるだろうが、それこそ彼女の大得意。自分にできることは、どっしり構えて彼女を完璧にエスコートすることだけだろう。
『その2馬身後ろからスワーヴリチャード。間に“1頭”置いて更にその後ろ、外めを通ってシュヴァルグランといった大勢です』
ボクらの名前は呼ばれない。馬番も、帽子の色さえアナウンサーの口にのぼることはなく、いるはずのない“1頭”の位置取りだけが淡々と伝えられる。
このレースは偽物だ。歴史の表面だけを切り取って取り繕っただけの舞台装置。だから周りでレースを進める各馬もジョッキーも、史実通りにプログラムされた動きをなぞる影法師にすぎない。自分たちだけが、このハリボテのレースで異端だった。
（だけど……）
内でやや前方を走るスワーヴリチャードの更に前へ目を転じると――
――いた。
このレースでボクらを除いて唯一の、もう1人の実像。そして、何としても倒さなければならない相手。
彼らがいるのは実際のレースと同じ3番手。差し競馬もできるとはいえ、わざわざ末脚勝負はしないということか。冷静な彼のことだ、勝利に最も近いレースプランを組み立てた結果、当時と同じ戦略に行きついたのだろう。普段なら尊敬し見習うところなのが、今回ばかりはそうもいかない。ボクらの過去、現在、そして未来が懸かっているのだから。
「かかってこい、アーモンドアイ」
彼が馬の力を信じているように、ボクも彼女を信じるだけだ。
4コーナーを回って、先行馬たちが徐々にふるいにかけられていく。
脚はまだ上がっていない。ノープレッシャーでレースを運べたおかげで、いつでも弾ける準備はできている。各馬ジョッキーの手が動き始めるが、内のアーモンドアイは文字通り持ったまま。絶好の手応えで直線を迎えている。ここまでは予想通りだ。
問題はここから、いつ仕掛けるかだ。
前回対戦したとき向こうは5歳、こちらは3歳と、斤量のアドバンテージがあった。しかしこの舞台ではそれがない。律儀に相手を待って追い出していたら、同等の上がりを使う相手には位置取りの差で届かない。
それならば。
（――ここだ！）
残り400メートルの標識を過ぎてからひと呼吸、追い出しにかかるクリストフより一瞬早く、ステッキを右に振り下ろした。
瞬間、デアリングタクトは飛ぶように加速する。
内で伸びあぐねるスワーヴリチャードを一気にかわし、単独3番手に躍り出た。
ボクらにはこの脚がある。三冠への道をこじ開けた、この脚が。
『ここで変わった！アーモンドアイだー！！』
残り200メートル。
クリストフの右鞭2発に鋭く反応したアーモンドアイが、逃げるキセキを並ぶ間もなく突き放しにかかる。まさしくエンジンが違うとしか言いようのない走り。その姿はまだ3馬身近く前方だ。
普通なら届かない。好位からあの脚を使われては、たとえG�鞠呂任△辰討盧垢契擇襪里脇颪靴い世蹐Α�それは自分が身をもって知っている。
――しかし。
「……ボクらは、無敗だ」
鞭が入る。
自分が心を奪われたエンジンに、火がついた。
『しかし外から1頭！1頭凄い脚で伸びてくる！』
一完歩ごとにギアが上がっていくのを感じる。
あの時は届かなかった背中が、グングン迫ってくる。
「だから敗けない――当然、あなたたちにも！」
無敗ということは、詰められなかった差がないということ。
3歳の彼女に、捕らえられないものは、ない。
『先頭アーモンドアイ！しかしもう1頭外から追ってくる！残り2馬身！1馬身半！』
「行かせるかあああああああッ！！！」
一完歩、キセキを抜き去る。あと1人。
無我夢中に追う。デアリングタクトはそれに応えて更に脚を伸ばす。先頭を走る三冠牝馬の息遣いが、どんどん大きくなっていく。
残り、1馬身、半馬身――
『あと100！アーモンドアイ凌ぎ切れるか！その差は残り僅か！これは2頭のマッチレースになるぞ！』
馬体を合わせたまま、残り50メートルを切った。
脚が止まったわけではない。モタれているわけでもない。それなのに、なかなか抜き去ることができない。さすがは芝G��9勝を達成することになる牝馬、一筋縄ではいかない。
しかし自分は知っている。馬群をこじ開け、怪我を乗り越え、少しでも前へ進もうとする彼女の気持ちの強さを。そしてそれがデアリングタクトを不屈の三冠牝馬たらしめていることを。
――ここから思いの勝負だと言うのなら、真っ向から受けて立ってやる。
「うおおおおおおおお！！！」
『アーモンドアイ！外からもう1頭！内外並んでゴールイン！！！』
疫病封鎖地域日本・第2戦 A.D.2012 識途老馬韜略ジャパンカップ 貴婦人の首飾りを外せ
？？？？年
「いたっ…」
光に目が眩んだと思うや否や、芝の青臭さが直接鼻を刺激する。仰向けの状態で芝コースに叩きつけられたのは、情けない体制になってしまったが体への負担を最小限にしてくれた。ユーイチとコウヘイを強制的にレイシフトさせた人間のせめてもの温情だろうか。そう思ってコウヘイの姿を探すと、彼は背中から地面に叩きつけられたらしく、座り込んだまま背中を摩っていた。
「大丈夫か」
「あぁ、すみません」
手を差し伸べると、コウヘイは遠慮がちに掴んできたので思い切り引き上げる。芝を払うより先にお辞儀をしたコウヘイの背に着いた芝を払った。
「さっきと全く同じ……府中ですね」
「そやな」
ユーイチは今いる芝コースから客席を見上げた。ターフビジョンの向こう、ウィナーズサークルの奥にフジビュースタンドが見える。あれが完成したのは2007年。アサクサキングスにダービーを取らせてやることができなかったことが蘇って口の中が苦くなった。
しかし、これで対戦する相手が絞り込めた。2007年以降の三冠馬、三冠牝馬でまだ戦っていないのはアパパネ、オルフェーヴル、ジェンティルドンナの三頭である。古馬で府中の勝ち鞍があるのは牝馬二頭、アパパネのヴィクトリアマイルとジェンティルドンナのジャパンカップ。1600mにしろ2400mにしろ、コントレイルとデアリングタクトが走れる距離だ。そのことに少し安堵した。
ユーイチは視線をコウヘイに戻した。
「コウヘイもデアリングタクトも、疲れとらん？」
「いえ、全く」
「"全く"？」重要なポイントだった。
「はい。僕は全く汗もかいていませんし、疲労もありません。リセットされた感じです。タクトもケロッとしています」
「そらよかった。そうやないと馬にかかる負担が大きすぎる」
12頭と戦わねばならないのだ。2頭で半分ずつ分担したとしても6戦、三冠馬はコントレイルが戦い三冠牝馬はデアリングタクトが戦うと考えるとコントレイルは7戦する必要がある。いずれにせよレース前の状態にリセットされなかったら、脚部不安のあるコントレイルも繋靱帯炎を抱えたデアリングタクトも壊れてしまう可能性がある。
「よお」
ユーイチが思案に耽っている内に、端的な挨拶がこちらへ向けられた。
「岩田くんやん」
岩田ヤスナリが片手を軽く上げてこちらへ歩み寄る。黒字に赤いクロスの勝負服を着ていることからして、ジェンティルドンナの2012年のJCで確定だろう。となれば出るべきはコントレイルだ。
「コウヘイ、今回は俺とコントレイルが出るわ。ディープ産駒同士ちょうどええやろ」
「…わかりました」
コウヘイが一瞬逡巡したのは、デアリングタクトをすべての三冠牝馬に勝たせたかったからだろう。しかし、デアリングタクトを連戦させるのは負担が大きいと判断したのだろう、すぐに従った。
ユーイチは大急ぎで脳内のデータを参照する。全く、事前準備と馬場読みを武器とするデータ派にとって、今回の対戦形式は不利極まりない。ユーイチが真剣になって馬場を見ていると、背後からヤスナリの声が飛んできた。
「お前、老けたな」
「それ、クリストフにも言われたわ。みんな揃ってなんなん？」
「俺たちは過去の人間だからな、当然やろ」
「それ言うたら俺らは未来の人間やで。ルールも変わって厳しくなったし、淀は変わっとる最中やし、俺らだけ変わっとらんかったらおかしいやん」
「知らんわそんなん」
「やったらええこと教えといたる。このジャパンカップのジェンティルドンナの動き、今やったら降着になんで」
「挑発するのはやめませんか」
コウヘイに制止を入れられたのでユーイチは「岩田くんにとっては重要な情報やと思ったから言っただけやねん、怒らんといてぇな」と悪びれもなく返す。そう、重要な情報であるのは間違いないのだ。正義感の強いコウヘイの視線が突き刺さる。しかしその視線も、ヤスナリが「おい松山」と言ったことでユーイチから外れた。
「はい」
「今だったら、2012年のジャパンカップのジェンティルドンナは降着になるんか？ 福永の言ったことはホンマか？」
「……はい」
返事が返ってくるなり、ヤスナリは誰かを睨みつけるように天を睨んだ。
「そっちも色々大変そうやなぁ」
「ほんまや」
軽口のような、それでいて緊張したやりとりをしている内に、光の粒子が舞って、それは一頭の牝馬の形となる。光が弾けると、そこにジェンティルドンナがいた。鍛え抜かれた筋肉が勇ましく、一種の芸術性すら内包した貴婦人である。ヤスナリはジェンティルドンナの首筋を軽く叩いていやった後、指笛を吹いた。
すると瞬く間にスタンドは客席で満たされて、歓声が上がる。コロナ禍でのJCとは比べ物にならないほどの割れるような大歓声。そういえばこのJCは28年ぶりの三冠対決だったことをユーイチは思い出した。
二頭の三冠馬の対決。ここにコントレイルが加わることで、このJCは三冠馬三頭の対決となる。奇しくも、コントレイルが初めて敗北を経験した2020年のジャパンカップと同じだ。ユーイチはコントレイルの鞍上として、コントレイルを負けさせるわけにいかない。
「勝つで、コントレイル」
その背に跨り相棒に声を掛けると、コントレイルは特に力んだ様子もない。コントレイルのそういう泰然としたところにユーイチはなんだか救われたような気持ちになった。
二つの人馬が、同じ血をひき同じく三冠を取った人馬がゲートに向かう。
疫病封鎖地域日本・第2戦
A.D.2012 識途老馬韜略ジャパンカップ 貴婦人の首飾りを外せ
『各馬がポジションの探り合いです。間から今度はジェンティルドンナ、ビートブラック、ジェンティルドンナ、ビートブラック。更にトーセンジョーダン今年も行きます』
ジェンティルドンナが大外から内へと向かっていく。揺さぶりを掛けたが、どうやらヤスナリは実際のレースと同じ位置どりを選んだようだ。
ユーイチは脳内で予測していたパターンの内一つを消し、外めの好位を選択した。
『3番手にジェンティルドンナ、"一頭"挟んで5番手フェノーメノ』
1番手ビートブラック、2番手トーセンジョーダン、3番手にジェンティルドンナ、4番手にコントレイル、5番手フェノーメノ、6番手ソレミアの体制で向こう正面を駆けていく。内が伸びる馬場ではあるが良馬場だ、そこまで大きな有利と不利はない。
そして、第3コーナーにそろそろ差し掛かろうとしたとき、ユーイチはじわりじわりとコントレイルと2番手との距離を詰めていく。
そろそろ、来る。
『その外に、オルフェーヴルが今、徐々に動き始めました』
今回のレースの鍵、オルフェーヴルが動き出した。ヤスナリもそれは分かっている。第四コーナーを利用して、コントレイルとジェンティルドンナ、2頭が上がった。鞭を入れ馬群を抜けてコントレイル2番手、ジェンティルドンナはトーセンジョーダンに並び3番手。ジェンティルドンナは実際のレースよりかなり早い仕掛けだ。
『直線コースに向いてきました。おっとここで一頭馬群を抜けた。大外を一人掛けていく。内ではジェンティルドンナ岩田ヤスナリが鞭を入れ上がっていく』
馬群を抜け、大外のコントレイルには遮るものは何もない。完璧な抜け出しだ。流石の操縦性である。3番手のジェンティルドンナとトーセンジョーダンとの差はざっと見て一馬身。残り500mでヤスナリもジェンティルドンナに鞭を入れ、トーセンジョーダンを抜かし単独3番手。コントレイルとは半馬身差。じわり、じわりと差を詰められていく。
『追っているトーセンジョーダン、オルフェーヴル、大外にもう一頭。ジェンティルドンナはその半馬身前ですが、更にはフェノーメノ、エイシンフラッシュ』
ユーイチはまた鞭を入れる。ヤスナリもまた鞭を入れ、半馬身の差を利用してオルフェーヴルとビートブラックに進路を塞がれる前にジェンティルドンナが抜け出す。その後をオルフェーヴルが猛追し、追い上がっていく。
『ジェンティルドンナ、オルフェーヴル、もう一頭、ジェンティルドンナ、オルフェーヴル、もう一頭！』
内のジェンティルドンナとオルフェーヴル、大外のコントレイルの競り合いだ。もうコントレイルと二頭はアタマ差もない。ユーイチはただコントレイルの粘り強さと勝負根性を信じるしかない。実況のボルテージが上がっていく。
もう絶対に、絶対にコントレイルを負けさせない。
勝負はゴールの瞬間の写真判定で決まる。3頭横並びとなり誰もがそう思ったそんな状況でジェンティルドンナの勢いがやや落ちた。末脚がやや鈍っている。早仕掛けの影響だ。
ユーイチは『このジャパンカップのジェンティルドンナの動き、今やったら降着になんで』と言った。コウヘイはそれに同意した。2022年であればジェンティルドンナのタックルが降着になるのは間違い無いだろう。
ただ、ヤスナリにとって"今"とは2022年のことだろうか？
"俺たちは過去の人間だからな"
本人がそう言った通り彼は2012年の人間であり、かつ時空から乖離したこの特異点の中にいる。つまり彼が"今"を"この特異点の中の2012年"のことと解釈してもおかしくない。そう、彼はユーイチの言葉を"この特異点で2012年のジャパンカップの動きをしたら降着になる"と解釈したのだ。
彼が2022年のことを、あるいは特異点の仕組みをよく知っていればこのような解釈にはならない。しかし、この特異点は計画に反対したユーイチとコウヘイを倒すためにユタカが急遽作成したものだ。ヤスナリが作成したものではないし、2番手のヤスナリに十分な説明はなかっただろう。
与えられた情報がほぼない中で、ヤスナリはどのようにしてこの特異点について情報を得るか。情報を知っている者から得るのである。
"さっきと全く同じ……府中ですね"
このコウヘイの発言で、ヤスナリは同じ東京競馬場を舞台としてユーイチとコウヘイが既にユタカの作った別の特異点で戦ってきたことが分かる。
故に、ユーイチとコウヘイから一つでも多く情報を得ようとして、＿＿＿結果、誤った情報を得てしまった。
誤った情報に基づき、彼はジェンティルドンナを降着にさせまいとした。この場合、進路を塞がれない方法としては外へ行くか早く仕掛けるか。ヤスナリはインを突くのを得手とする騎手であり、今の馬場は内の方がよく伸びる。
そして、早く仕掛けてしまった。
それでもそこは流石というべきか、ジェンティルドンナも勝負根性を見せ食い下がってくる。オルフェーヴルとはほぼ横一線である。
しかし、コントレイルの勝負根性はその上をいく。
「適性外の菊花走り切った根性舐めんな！」
ゴールまであと50mもない。ユーイチの鞭に的確に応え、コントレイルはその首を伸ばして懸命に前に進み、ほんのハナ差、2頭を交わした。
『オルフェーヴル、ジェンティルドンナ、もう一頭並んでゴールイン！』
ゴールを超え、コントレイルはゆっくりと減速していく。ユーイチはその頭を撫でた。本当に、本当に立派だった。脚部に不安のあるコントレイルの負担をなるべく小さくしようとしてあれこれ仕掛けたが、最終的には全てコントレイルの粘り強さに託した作戦だった。
やがて掲示板に着順が表示された。赤く確定のランプが光る。3着オルフェーヴル、2着ジェンティルドンナ、そして、1着コントレイル。
ユーイチは信じた。そしてコントレイルは信頼に応えてくれた。
「ようやった、ホンマにようやってくれた。立派やった。ありがとう、ありがとうな」
ユーイチの感極まった声に気付いたのだろうか、コントレイルが一鳴きした。
「いたっ…」
光に目が眩んだと思うや否や、芝の青臭さが直接鼻を刺激する。仰向けの状態で芝コースに叩きつけられたのは、情けない体制になってしまったが体への負担を最小限にしてくれた。ユーイチとコウヘイを強制的にレイシフトさせた人間のせめてもの温情だろうか。そう思ってコウヘイの姿を探すと、彼は背中から地面に叩きつけられたらしく、座り込んだまま背中を摩っていた。
「大丈夫か」
「あぁ、すみません」
手を差し伸べると、コウヘイは遠慮がちに掴んできたので思い切り引き上げる。芝を払うより先にお辞儀をしたコウヘイの背に着いた芝を払った。
「さっきと全く同じ……府中ですね」
「そやな」
ユーイチは今いる芝コースから客席を見上げた。ターフビジョンの向こう、ウィナーズサークルの奥にフジビュースタンドが見える。あれが完成したのは2007年。アサクサキングスにダービーを取らせてやることができなかったことが蘇って口の中が苦くなった。
しかし、これで対戦する相手が絞り込めた。2007年以降の三冠馬、三冠牝馬でまだ戦っていないのはアパパネ、オルフェーヴル、ジェンティルドンナの三頭である。古馬で府中の勝ち鞍があるのは牝馬二頭、アパパネのヴィクトリアマイルとジェンティルドンナのジャパンカップ。1600mにしろ2400mにしろ、コントレイルとデアリングタクトが走れる距離だ。そのことに少し安堵した。
ユーイチは視線をコウヘイに戻した。
「コウヘイもデアリングタクトも、疲れとらん？」
「いえ、全く」
「"全く"？」重要なポイントだった。
「はい。僕は全く汗もかいていませんし、疲労もありません。リセットされた感じです。タクトもケロッとしています」
「そらよかった。そうやないと馬にかかる負担が大きすぎる」
12頭と戦わねばならないのだ。2頭で半分ずつ分担したとしても6戦、三冠馬はコントレイルが戦い三冠牝馬はデアリングタクトが戦うと考えるとコントレイルは7戦する必要がある。いずれにせよレース前の状態にリセットされなかったら、脚部不安のあるコントレイルも繋靱帯炎を抱えたデアリングタクトも壊れてしまう可能性がある。
「よお」
ユーイチが思案に耽っている内に、端的な挨拶がこちらへ向けられた。
「岩田くんやん」
岩田ヤスナリが片手を軽く上げてこちらへ歩み寄る。黒字に赤いクロスの勝負服を着ていることからして、ジェンティルドンナの2012年のJCで確定だろう。となれば出るべきはコントレイルだ。
「コウヘイ、今回は俺とコントレイルが出るわ。ディープ産駒同士ちょうどええやろ」
「…わかりました」
コウヘイが一瞬逡巡したのは、デアリングタクトをすべての三冠牝馬に勝たせたかったからだろう。しかし、デアリングタクトを連戦させるのは負担が大きいと判断したのだろう、すぐに従った。
ユーイチは大急ぎで脳内のデータを参照する。全く、事前準備と馬場読みを武器とするデータ派にとって、今回の対戦形式は不利極まりない。ユーイチが真剣になって馬場を見ていると、背後からヤスナリの声が飛んできた。
「お前、老けたな」
「それ、クリストフにも言われたわ。みんな揃ってなんなん？」
「俺たちは過去の人間だからな、当然やろ」
「それ言うたら俺らは未来の人間やで。ルールも変わって厳しくなったし、淀は変わっとる最中やし、俺らだけ変わっとらんかったらおかしいやん」
「知らんわそんなん」
「やったらええこと教えといたる。このジャパンカップのジェンティルドンナの動き、今やったら降着になんで」
「挑発するのはやめませんか」
コウヘイに制止を入れられたのでユーイチは「岩田くんにとっては重要な情報やと思ったから言っただけやねん、怒らんといてぇな」と悪びれもなく返す。そう、重要な情報であるのは間違いないのだ。正義感の強いコウヘイの視線が突き刺さる。しかしその視線も、ヤスナリが「おい松山」と言ったことでユーイチから外れた。
「はい」
「今だったら、2012年のジャパンカップのジェンティルドンナは降着になるんか？ 福永の言ったことはホンマか？」
「……はい」
返事が返ってくるなり、ヤスナリは誰かを睨みつけるように天を睨んだ。
「そっちも色々大変そうやなぁ」
「ほんまや」
軽口のような、それでいて緊張したやりとりをしている内に、光の粒子が舞って、それは一頭の牝馬の形となる。光が弾けると、そこにジェンティルドンナがいた。鍛え抜かれた筋肉が勇ましく、一種の芸術性すら内包した貴婦人である。ヤスナリはジェンティルドンナの首筋を軽く叩いていやった後、指笛を吹いた。
すると瞬く間にスタンドは客席で満たされて、歓声が上がる。コロナ禍でのJCとは比べ物にならないほどの割れるような大歓声。そういえばこのJCは28年ぶりの三冠対決だったことをユーイチは思い出した。
二頭の三冠馬の対決。ここにコントレイルが加わることで、このJCは三冠馬三頭の対決となる。奇しくも、コントレイルが初めて敗北を経験した2020年のジャパンカップと同じだ。ユーイチはコントレイルの鞍上として、コントレイルを負けさせるわけにいかない。
「勝つで、コントレイル」
その背に跨り相棒に声を掛けると、コントレイルは特に力んだ様子もない。コントレイルのそういう泰然としたところにユーイチはなんだか救われたような気持ちになった。
二つの人馬が、同じ血をひき同じく三冠を取った人馬がゲートに向かう。
疫病封鎖地域日本・第2戦
A.D.2012 識途老馬韜略ジャパンカップ 貴婦人の首飾りを外せ
『各馬がポジションの探り合いです。間から今度はジェンティルドンナ、ビートブラック、ジェンティルドンナ、ビートブラック。更にトーセンジョーダン今年も行きます』
ジェンティルドンナが大外から内へと向かっていく。揺さぶりを掛けたが、どうやらヤスナリは実際のレースと同じ位置どりを選んだようだ。
ユーイチは脳内で予測していたパターンの内一つを消し、外めの好位を選択した。
『3番手にジェンティルドンナ、"一頭"挟んで5番手フェノーメノ』
1番手ビートブラック、2番手トーセンジョーダン、3番手にジェンティルドンナ、4番手にコントレイル、5番手フェノーメノ、6番手ソレミアの体制で向こう正面を駆けていく。内が伸びる馬場ではあるが良馬場だ、そこまで大きな有利と不利はない。
そして、第3コーナーにそろそろ差し掛かろうとしたとき、ユーイチはじわりじわりとコントレイルと2番手との距離を詰めていく。
そろそろ、来る。
『その外に、オルフェーヴルが今、徐々に動き始めました』
今回のレースの鍵、オルフェーヴルが動き出した。ヤスナリもそれは分かっている。第四コーナーを利用して、コントレイルとジェンティルドンナ、2頭が上がった。鞭を入れ馬群を抜けてコントレイル2番手、ジェンティルドンナはトーセンジョーダンに並び3番手。ジェンティルドンナは実際のレースよりかなり早い仕掛けだ。
『直線コースに向いてきました。おっとここで一頭馬群を抜けた。大外を一人掛けていく。内ではジェンティルドンナ岩田ヤスナリが鞭を入れ上がっていく』
馬群を抜け、大外のコントレイルには遮るものは何もない。完璧な抜け出しだ。流石の操縦性である。3番手のジェンティルドンナとトーセンジョーダンとの差はざっと見て一馬身。残り500mでヤスナリもジェンティルドンナに鞭を入れ、トーセンジョーダンを抜かし単独3番手。コントレイルとは半馬身差。じわり、じわりと差を詰められていく。
『追っているトーセンジョーダン、オルフェーヴル、大外にもう一頭。ジェンティルドンナはその半馬身前ですが、更にはフェノーメノ、エイシンフラッシュ』
ユーイチはまた鞭を入れる。ヤスナリもまた鞭を入れ、半馬身の差を利用してオルフェーヴルとビートブラックに進路を塞がれる前にジェンティルドンナが抜け出す。その後をオルフェーヴルが猛追し、追い上がっていく。
『ジェンティルドンナ、オルフェーヴル、もう一頭、ジェンティルドンナ、オルフェーヴル、もう一頭！』
内のジェンティルドンナとオルフェーヴル、大外のコントレイルの競り合いだ。もうコントレイルと二頭はアタマ差もない。ユーイチはただコントレイルの粘り強さと勝負根性を信じるしかない。実況のボルテージが上がっていく。
もう絶対に、絶対にコントレイルを負けさせない。
勝負はゴールの瞬間の写真判定で決まる。3頭横並びとなり誰もがそう思ったそんな状況でジェンティルドンナの勢いがやや落ちた。末脚がやや鈍っている。早仕掛けの影響だ。
ユーイチは『このジャパンカップのジェンティルドンナの動き、今やったら降着になんで』と言った。コウヘイはそれに同意した。2022年であればジェンティルドンナのタックルが降着になるのは間違い無いだろう。
ただ、ヤスナリにとって"今"とは2022年のことだろうか？
"俺たちは過去の人間だからな"
本人がそう言った通り彼は2012年の人間であり、かつ時空から乖離したこの特異点の中にいる。つまり彼が"今"を"この特異点の中の2012年"のことと解釈してもおかしくない。そう、彼はユーイチの言葉を"この特異点で2012年のジャパンカップの動きをしたら降着になる"と解釈したのだ。
彼が2022年のことを、あるいは特異点の仕組みをよく知っていればこのような解釈にはならない。しかし、この特異点は計画に反対したユーイチとコウヘイを倒すためにユタカが急遽作成したものだ。ヤスナリが作成したものではないし、2番手のヤスナリに十分な説明はなかっただろう。
与えられた情報がほぼない中で、ヤスナリはどのようにしてこの特異点について情報を得るか。情報を知っている者から得るのである。
"さっきと全く同じ……府中ですね"
このコウヘイの発言で、ヤスナリは同じ東京競馬場を舞台としてユーイチとコウヘイが既にユタカの作った別の特異点で戦ってきたことが分かる。
故に、ユーイチとコウヘイから一つでも多く情報を得ようとして、＿＿＿結果、誤った情報を得てしまった。
誤った情報に基づき、彼はジェンティルドンナを降着にさせまいとした。この場合、進路を塞がれない方法としては外へ行くか早く仕掛けるか。ヤスナリはインを突くのを得手とする騎手であり、今の馬場は内の方がよく伸びる。
そして、早く仕掛けてしまった。
それでもそこは流石というべきか、ジェンティルドンナも勝負根性を見せ食い下がってくる。オルフェーヴルとはほぼ横一線である。
しかし、コントレイルの勝負根性はその上をいく。
「適性外の菊花走り切った根性舐めんな！」
ゴールまであと50mもない。ユーイチの鞭に的確に応え、コントレイルはその首を伸ばして懸命に前に進み、ほんのハナ差、2頭を交わした。
『オルフェーヴル、ジェンティルドンナ、もう一頭並んでゴールイン！』
ゴールを超え、コントレイルはゆっくりと減速していく。ユーイチはその頭を撫でた。本当に、本当に立派だった。脚部に不安のあるコントレイルの負担をなるべく小さくしようとしてあれこれ仕掛けたが、最終的には全てコントレイルの粘り強さに託した作戦だった。
やがて掲示板に着順が表示された。赤く確定のランプが光る。3着オルフェーヴル、2着ジェンティルドンナ、そして、1着コントレイル。
ユーイチは信じた。そしてコントレイルは信頼に応えてくれた。
「ようやった、ホンマにようやってくれた。立派やった。ありがとう、ありがとうな」
ユーイチの感極まった声に気付いたのだろうか、コントレイルが一鳴きした。
疫病封鎖地域日本・第3戦 A.D.2003 形影一如駈競エリザベス女王杯 零れた星、まだ見ぬ頂
？？？？年
「痛ッた…！」
手荒い時空転移を終えた彼らを出迎えたのは、腰に広がる鈍い痛みと、やや西に傾いた強い陽の光だった。先ほどまで暗闇に包まれていたかと思えば、今度は痛いほどの眩しさときた。目をギュッと瞑っては開き、何とか視界を順応させる。
ようやく光量に慣れた目に飛び込んできたのは、これまでと同様どこかの競馬場だった。掌の下には芝の柔らかな感触。芝コースに尻餅をついた状態であることを、彼らはようやく把握した。
「今度は京都競馬場、ですか…」
3コーナーから4コーナーまでの特徴的な傾斜。それは言うまでもなく、ここが淀であることを示していた。ユーイチも後輩への同意の代わりに、深く息を吐いて頷く。
しかし……
「でも、それだけじゃなあ」
コウヘイは顎に手をやって考え込んだ。
他の競馬場にもいえることだが、場所が分かったところで、戦う相手も、時期も、レースも全く分からないのだ。それにゲートが現れるのはいつも敵が姿を現した後。京都のG��5つが全て違う距離で行われるため、予想はさらに困難なものとなっていた。
もし長距離だったら、という思いがコウヘイの頭をよぎる。
デアリングタクトの適性は中距離。いくら素晴らしい勝負根性と身体能力を持っていたとしても、牝馬に適性外の長距離を走らせるのは酷だ。コントレイルだって、菊花賞を勝ちはしたものの決してステイヤーではない。彼のことを誰より知っているユーイチも、再び3000メートル以上の距離を走らせたくはないだろう。いやでも……
「落ち着け、コウヘイ」
眉間の皴が深くなる一方だったコウヘイの肩に、ポンとユーイチの右手が置かれた。その表情は、最初に東京競馬場へ飛ばされたときとは別人のように穏やかだ。
「今からどんだけ悪い想像をしてもしゃーない。どんな相手にせよ、俺らは勝つしかないんやから」
ユーイチは肩に置いていた右手でそのままコウヘイの右腕を掴んだ。未だターフに落ち込んでいた身体がグンと引き上げられる。そして急に立たされて少しよろけるコウヘイの背中を軽くはたくと、そのまま腕組みをして「見てみい」と言葉を継いだ。
「どのレースかは分からんでも、大まかな時期を特定する手がかりはぎょうさんあるはずや」
例えばアレ、とユーイチはターフビジョンを指さす。次の瞬間、コウヘイにも彼の言わんとしていることが分かった。
「…あ、形が違う」
「せや。今は東京と京都だけ、やたらデカい3面のターフビジョンが設置されとるやろ？ところがここはそうじゃない。たしかディープが現役の頃はこの型で、新しいのに変わったのは引退の次の年やったはずやから…」
「直近の三冠馬、未対戦のオルフェーヴルとアパパネが出てくる線は消える」
ハッとするコウヘイを見て満足そうに頷くと、ユーイチは観客スタンドの方に首を向けた。
「それとあともう1個、ここには新しい方のスタンド…ビッグスワンがある。俺がまだ新人やった頃、キングヘイローで菊花賞に出たときはまだ完成してなかった記憶があるから…どうや、この2つでかなり絞れてきたやろ？」
コウヘイは力強く首を縦に振る。よろしい、と演技がかったような笑顔を見せるユーイチは、途轍もなく頼もしかった。
「つまり僕らの戦う相手は1999年から2006年の間に三冠を達成した馬、ということですね」
「そういうことになるな。で、その条件に当てはまるのはディープと、あと1頭…」
「う〜ん。流石ユーイチくん、気付くのが早いね」
ユーイチでもコウヘイでもない声が、会話に加わった。
弾かれたように振り返ると、馬場の入り口に立っていたのは、水色に赤い袖、同じく赤い十字襷の勝負服に身を包む見知った影。ユーイチにとっては随分少なくなってしまった栗東の先輩であり、コウヘイにとっては年齢差を越えて交流していた優しい友人の姿だった。
「幸…さん？」
「何や、思ったよりお早い登場やな」
「2人ともそんなにピリピリしないで、顔が怖いよ」
もう少しサプライズっぽくするつもりだったんだけどなぁ、と彼…ヒデアキは赤いヘルメットの隙間から耳の後ろをぽりぽり掻いた。その表情に、今から後輩を叩き潰そうとする緊張感はない。
「どうしてそっちにいるんですか！？幸さんがそんなことをするなんて…」
「幸センパイこそ、後輩の幸せを歪めるなんてできない〜とか言うてユタカさんに反対する側やと思ってましたわ。ケンイチの言う通り、ホンマの腹黒やったんですね」
少し挑発気味に睨みつけてくるユーイチに苦笑いを浮かべながら、ヒデアキは違う違うと下がり眉で両手をヒラヒラ振った。
「むしろ、だからこそ俺はユタカさんに同意したんだ。2人にも僕の感じた気持ちを味わってほしい。偉業を達成するときには、スタンドからありったけの祝福を受けていてほしい。本当にそれだけ」
2人は身をもって知っていた。ヒデアキが元来こうした対立を好む質ではないことも、そもそも後輩の気持ちを踏みにじるような人間でもないことも。だからヒデアキの言葉が偽りのない本心であることも、自然と分かってしまうのだ。
……それでも。
「やっぱり、ボクは戦いたくないです」
コウヘイは唇を噛んで、拳をきつく握りしめた。絞り出したような苦悩の声をまっすぐに受け止めるヒデアキの目は、優しい。
「うん、俺だって2人を敵に回したくないよ」
「だったら、幸さんもこっち側についたら良いじゃないですか！そうだ、最初からこうすればよかったんだ。1人ずつ説得して相手の戦力を削いでいけば…」
「それはできない」
「どうして！」
「他の人たちも俺と同じだからだよ。決して2人に悪意を向けているわけじゃない。エゴの押し付けかもしれないけど、説得しても簡単には引き下がらないと思う」
だから――ごめんね。
やんわりと告げられた言葉は、残酷にも交渉決裂を突き付けるものだった。
力なく項垂れるコウヘイをよそに、ヒデアキは空を見上げてどこへともなく目配せをした。すると空っぽだったスタンドは瞬く間に観客で埋め尽くされ、割れんばかりの歓声が淀に響き渡る。他馬の足音も微かに聞こえ始め、数百メートル彼方のゲートはスティルインラブが勝利した京都のG�機△垢覆錣曾�華賞の再現………かに思われた。
「ん？」
隣でユーイチが声を漏らすのと同時に、コウヘイも首を傾げた。
秋華賞は京都内回りコースの2000メートル戦、スタート位置はスタンド前になるはずだ。しかし先ほど現れたゲートが位置するのはスタンドのかなり端。つまりこれは秋華賞とは別のレースということになる。そしてあの地点からスタートするG�汽譟璽垢髻▲灰Ε悒い�1つしか知らない。
「エリザベス、女王杯…」
「お互いまだ三冠以外のG�犠＾箸�ない馬どうし、勝ってないレースで戦った方が面白いかと思って」
光の粒子と共に現れた馬に跨るヒデアキは、いつもと変わらない穏やかな笑顔を浮かべている。彼が愛おしげに首筋を撫でている馬こそ、史上2頭目の牝馬三冠を達成した名馬スティルインラブ。このレースでG��4勝目をハナ差逃した彼女と雪辱を果たそうというつもりなのだろうか。
「…というわけで、ユーイチくんとコントレイルは今回パスしてもらってもいいかな？これは女の戦いだから」
ユーイチは悔しそうに顔を歪めながらも、大人しく一歩退く。本音を言えば自分が彼を叩きのめしたいところだが、こればかりはどうしようもない。
入れ替わるように前へ進み出たコウヘイは、既に勝負服を身に纏っている。そのまま相棒の跨り深呼吸をすれば、身も心も完全に戦いに挑む者のそれへと切り替わった。
「すごい気合いだね。これは一筋縄ではいかないな」
「そんな顔で言われても、勝利宣言にしか聞こえませんよ」
「あはは、ごめんごめん」
穏やかな性格で知られる2人の間に、いつもの和やかな空気はない。
「行こう、スティルインラブ」
「勝つよ、デアリングタクト」
手綱を握りしめ、2つの影はゲートへと駆けて行った――
疫病封鎖地域日本・第3戦
A.D.2003 形影一如駈競エリザベス女王杯 零れた星、まだ見ぬ頂
『これで15頭の枠入りが終わって――スタートしました！さあ先行争いです…』
2003年エリザベス女王杯、因縁のゲートが開いた。どっと飛び出した各馬が、出を窺いつつ位置取りを探っている。
ターフから下がったユーイチは、その顛末をスタンドから見守っていた。ダッシュのついた先行馬たちを制して13番のスマイルトゥモローが内に切れ込みハナを主張。1コーナーをカーブする頃には5馬身以上の差をつけてハイペースの逃げを打つ形になり、隊列全体もかなり縦長になっている…大まかな流れはユーイチがかつて映像で見た通りだ。
だがそこに、相違点が1つ。
『スティルインラブはちょうど中団、8番手から9番手あたりでレースを進めています！』
やはり変えてきたか。ユーイチは心の中で呟いた。
当時のレースでは、ヒデアキとスティルインラブは逃げ先行馬のすぐ後ろでレースを進め、最後は中団後方で虎視眈々と控えていたアドマイヤグルーヴとその鞍上に捕まってしまった。実際のレースで敗れたからこそ、ヒデアキは中団でアドマイヤグルーヴのすぐ前につける作戦を選んだのだ。
普通なら、位置取りを変えたところでユタカのマークの餌食になっていただろう。しかしこれはかつて実際の出来事を完璧に模倣した影法師。つまり、周囲も当時と寸分違わぬ動きをするということになる。ゆえにヒデアキが史実に反する動きをしたとしても、誰もそれを阻まない。当時の各馬の動きを折り込みさえすれば、コウヘイ以外のイレギュラーは100パーセント起こりえないのだ。
この舞台の構造を逆手に取った戦い方は、ただ勝利のためだけに練り上げられたもので。
「柄にもない真似してでも勝ちたい…ちゅうことですか、幸センパイ」
そう呟いてターフビジョンに目を転じると、デアリングタクトはスティルインラブとアドマイヤグルーヴのすぐ後ろでレースを進めている。
コウヘイはこの異変に気付いているだろうか。ある“推測”へ至ったユーイチの心に一抹の不安が芽生える。
敗北を栄光で塗り替えようというヒデアキの執念が本当ならば…
「これはかなりの難敵やで、コウヘイ」
…………………………
（かなりペースが速いな……）
前半を過ぎたところで、コウヘイは前方をちらりと窺った。逃げ馬の姿ははるか遠く、ほとんど確認できない。この調子では必ずバテて後続が最後にどっと押し寄せる流れになる。そうなると、淀を熟知するユタカさんなら脚を活かす走りと距離ロスのギリギリを回すはずだ。つまりそれより外につけるのは得策ではない。それと同時に、先行することで後ろから強襲されるリスクも避けたい……
ヒデアキも同じ考えで、このポジションにいるのだろう。
このレースは、コウヘイも何度か見た記憶がある。詳しいところは曖昧だが、少なくとも彼らはもっと前にいたはずだ。つまりヒデアキは、実際のレースとは違う動きをしていることになる。一度敗れた舞台だからこそ何としてでも勝ちたいという思いは、コウヘイにも理解できる。
だがこちらとて、思いの強さで譲る気はない。
2頭を見ながら差し脚勝負に持ち込む…この軽い馬場なら、秋華賞で見せた脚があれば、十分に渡り合える。最後には競り勝つ自信だってある。
しかし――
（何なんだろう、この胸騒ぎは）
前回と違って未経験のレースだから？ ヒデアキが戦略を変えたから？
いや違う。思考はむしろ冴えているし、レース前の動揺も今はない。それでも言いようのない違和感…大事なことを1つ見落としているような、そんなざらついた気持ちが拭えなかった。
だが今はレース中。自分の気持ちだけに拘らっている場合ではない。
（しっかりしろコウヘイ、そんなんじゃ勝てるものも勝てないぞ）
一度息を吸って、雑念と一緒に吐き出す。
ボクらなら、デアリングタクトなら勝てる。自分は彼女が実力を存分に発揮できるようエスコートするだけだ。
そう言い聞かせながら手綱を今一度握り直し、淀の坂をゆっくり上って下っていく。そして600メートルの標識付近で周りが一斉に追い出しにかかった。合流地点手前の緩いカーブを利用して馬を促すユタカとヒデアキから離されないよう、コウヘイも手を動かし始める。手綱から感じる手応えは抜群、まずは流れに乗って距離を一気に詰め……
（…え？）
「――ごめんね、コウヘイちゃん」
「ここ“だけ”は、負けられないんだ」
…………………………
「やっぱりそういうことか…」
4コーナーを回っていく各馬を目で追いながら、ユーイチはスタンドで唇を噛んだ。
眼下では、下り坂を抜けた各馬が前を飲み込もうとしている。中でも抜けた手応えで回ってきたのは中団にいたアドマイヤグルーヴとスティルインラブだ。既にマッチレースの様相を呈し始めているのだが……
デアリングタクトは、そこから半馬身ほど遅れている。ユーイチの見立てではもう少し…なんなら互角の勝負に持ち込めるはずだったのだが、今はなんとか食らいついているといった様子だ。
相手の立ち回りが完璧だったから？
それも理由の1つだろうが、問題は別にある。ここが“2003年のエリザベス女王杯”であることだ。
ヒデアキが戦いの舞台にここを選んだ意味を、ユーイチはずっと考えていた。単純に考えれば過去のリベンジだろうが、これは史実で敗れたレース。二兎を追う者は一兎をも得ずという言葉があるように、コウヘイと戦いながら自身の思いを晴らすのは賢いやり方ではないように思える。
となると、彼には自信をも超える相当な根拠があったと考えるのが妥当だ。そしてその根拠こそ、この舞台設定…2003年のエリザベス女王杯。このレースに対する“2度と負けられない”という強い信念は、ヒデアキとスティルインラブに、2003年のエリザベス女王杯において“のみ”2度と敗れることはないという呪いじみた縛りを与えた。つまりヒデアキは、無敗で三冠を成し遂げたコウヘイとデアリングタクトに対抗するために、敢えてこの場を選んだということになる。
コントレイルではなくデアリングタクトだからこそ大きな意味を持つ、無敗というアドバンテージ。ユタカがバックについている以上いずれ対策されると思っていたが、まさか2戦目で封じられるとはさすがに想定外だった。
しかしそれに屈しているわけにはいかない。スタンドのユーイチには、この絶体絶命の状況を変えてやることはできない。彼らが自力で突破口を見つけるしかないのだ。
「頼んだで、コウヘイ…」
視界の端を飛ぶように過ぎていった赤と白の残像が、このレースが残り400メートルを切ったことを告げる。しかしその400メートル、馬の脚なら20数秒で走破できるその距離が、コウヘイには永遠に続くかのように感じられた。
もちろん油断をしたわけではないし、道中の運びが間違っていたわけでもないはずだ。今もこうして、前に並びかけるべく必死に追っている。それでもこの半馬身の差が詰まるイメージが、全く湧かない。
本当に勝てるのかという騎手にあるまじき考えが、一瞬彼の頭をよぎるほどに。
（何かないか？ この状況を打破する何か……）
このままスティルインラブの背中を追いかけていても何も変わらない。だが今からアドマイヤグルーヴの外へ持ち出していたら間に合わない。ならば完全に進路が閉まってしまう前に、少しでもロスなく走れるコースを……内へ進路を切ろうとしたとき、デアリングタクトの首が一瞬外を向いた。
その刹那、コウヘイは見逃さなかった。
アドマイヤグルーヴがスティルインラブに馬体を併せに行く寸前、わずかに1頭分だけあいた隙間を。
京都競馬場、外回り芝2200メートル。デアリングタクトの経験したことのない舞台。
前人未到の無敗三冠は、歴史を切り拓いてきた証だ。何人も立ち入ったことのない未知の開拓という、先の見えない戦いに挑むとき最も輝く光。無敗で成し遂げた三冠も、そのごく一部に過ぎないとしたら――？
むしろ、この局面は彼女にとって絶好。
コウヘイはまだその事実に気付いていない。しかし手綱から伝わる予感は、彼に活路を指し示すには十分だった。その予感だけを頼りに、今にも閉じようとしているその迷いなく馬を向かわせた。
『アドマイヤグルーヴとスティルインラブ！わずかにスティルインラブか！アドマイヤグルーヴも食い下がっている！そして間からもう1頭来ているが！アドマイヤグルーヴ、スティルインラブ…3頭全く並んでゴールイン！』
頬に当たる秋の風が冷たい。
デアリングタクトをクールダウンさせながら、コウヘイは内心複雑な思いを抱えていた。
ヒデアキの願いを打ち砕き、仕方のないこととはいえスティルインラブを2度も負かしてしまったこと。そして、デアリングタクトに負担をかける乗り方をしてしまったこと。馬は120パーセントの力を出してくれた。しかし自分はどうだ。脚に不安のある彼女に、荒い騎乗を強いてしまった。それがひどく悔しく、不甲斐なかった。
「おめでとうコウヘイちゃん。完敗だったよ」
聞きなれた優しい声が耳に入る。レース前と何ら変わらぬ笑顔で近づくヒデアキに、コウヘイは「はい」と小さな頷きで返した。その表情には、勝利の興奮も余韻も浮かんでいない。
「どうしたの？特異点の修正にまた一歩近づいたんだから、もっと喜べばいいのに」
そう言われても、はいそうですかと素直に喜べるものではない。
目を伏せたままのコウヘイの肩を、ヒデアキは慰めるようにポンと叩いた。
「困ったなあ。コウヘイちゃんがその調子じゃ、俺どんな顔したらいいのか分からないよ」
「…！！」
「負けたのは…うん、すごく悔しい。今にも胸がバラバラになりそうなくらいにはね。だけど、どこかスッキリして穏やかな自分もいるんだ。負けたのにおかしな話だよね…ははっ何でだろう」
俯くコウヘイに向けられた苦笑いは、いつもより少し震えているように感じた。弾かれたように顔を上げると、ヒデアキは「何でもないよ」とひらひら手を振って見せる。くしゃっと笑う目元が、秋の西日を受けてちらりと光った気がした。
「幸さん…」
「ねえコウヘイちゃん。1つだけお願いがあるんだけど、いいかな？」
ヒデアキの体が淡い光に包まれ、少しずつほどけていく。戦いを終えた今、この書き割りの舞台に留まっている理由はない。
「これからも、負けないで」
握手を求めて差し出された手を強く握り返した。まっすぐ目を見て首肯する後輩の姿に、ヒデアキは安堵したように微笑んだ。
「あと忘れないでね、今感じてるその気持ち」
「…はい！」
勝ったのが、コウヘイちゃんで良かった――
そう言い残して、ヒデアキは淀の空に消えた。人肌の感触が消えた手を見つめ、きつく握りしめる。
――あと、9人。
「ふーん、なるほどなあ」
消えゆく虚像に紛れて発せられた呟きを聞いた者は、誰もいなかった。
…………………………
京都競馬場を離れ、現実世界とも違うどこか。
薄暗く長い通路のような空間を、ある人影が歩いていた。そこには床もなく、中空に向かって足を投げ出せば、足元でカツンとブーツが音を立てる。常人なら立っているのがやっとだろうが、ここは幼い頃から勝手知ったる道。怖がるどころか、手すさびに鞭を指先でクルクル弄ぶ余裕さえあった。
歩みを止めずに上半身を軽くはたくと、身に纏っていた白袖に水色と青の勝負服がノイズのようにチリチリと歪み、数秒後には愛用する黒いウェアが姿を現す。衣服の表面を撫ぜる手も、瞬く間に年季の入ったベテランのそれへと変わっていった。
一通りの変貌が済んだところで、人影は足を止める。まっすぐ続いていた道は消え、目の前には通路と同じく薄暗い会議室のような空間が広がっている。空間ではどこかの映像がホログラムのように投影されており、幾つかの人影が円形の机を囲んでそれを熱心に眺めていた。
一歩足を踏み入れると、靴音にいち早く気付いた赤いジャンパーの人影が振り向いて声をあげた。
「遅いですよ…ユタカさん」
「俺最年少でしょ？1人やと居づらいんすわ」
わざとらしく口をとがらせる赤い人影…ケンイチを、ユタカは軽くあしらった。
「ごめんて。ちょっと“向こう”で確かめたいことがあったんでな」
向こう、と言いながらユタカは空中の映像を指さす。そこには戦いを終えたコウヘイと、それを労うユーイチの姿が映し出されていた。それを流し目で確認したケンイチは、気だるそうに首をぐるりと回して息を吐いた。
「ええなぁ、ユタカさんだけ幸センパイのレースに入り込めて。俺も岩田さんのときにやればよかった」
「ベースがうちの術式やから、管理者権限みたいなもんやな。せやけど俺でも入るのギリギリやったし、ケンイチでは無理や」
「ちぇ〜」
ケンイチはまたわざとらしく顔をしかめた。
そう。先ほどまで激戦が繰り広げられていた、19年前のエリザベス女王杯。
あの場でアドマイヤグルーヴに乗っていたのは、本物のユタカだった。
「それにしても、ようやりますね。ホンマやったら自分が勝っとったレースで負けるやなんて俺には無理っすわ。勝とうと思えば勝てたんとちゃいますか？」
「いやいや、俺かて目一杯追ったって。それにあれは幸が望んだ舞台や。そこへ俺が強引に割り込んだんやから、駒に徹するのは当然やろ？ 20年近く前のレースやから正確にトレースできてるか不安やったけど、気付かれんでよかったわ」
「ふん、何が“不安”ですか。そんなん1ミリも思ってへんくせに」
「買い被りすぎや…でもたしかに、完璧に勝ちたいと思う瞬間はあったけど」
「けどそれは、自分の番で叶えたらええ…っちゅーことですよね？」
得意げにニヤリと笑う後輩三冠ジョッキーに、ユタカは無言の首肯で返した。
「でも幸さんでもう3人目っすね。ちょっとペース早ないですか？」
「せやなあ。俺が思ってたより頑張っとるみたいやわ」
ユタカはキャスター付きの椅子を引っ張り出して腰を下ろした。さすがに疲れたのか溜息をつくその姿を見て、ケンイチも再び座り直す。
「ここまでハナ差アタマ差ハナ差。着差だけ見たら辛勝ですけど、何か不思議な感じしますよね」
「ケンイチも気ぃ付いとったか。乗っとる人間が上手いのももちろんやけど、それを抜きにしてもゴール前でのあの尋常やない粘り…馬の力だけでは片付けられへん“何か”がある。さっきはそれを確認しに行ったんやけど、おおかた俺の予想通りやった」
「予想？」
「うん。無敗というキーワード、新時代開拓の再定義と再構築……」
「ユタカさんすんません、もうちょっと俺にも分かるように言ってください」
「あ、すまん。簡単に言うたら、あいつらにしか引き出されへん力が働いとるっちゅーことや」
「なるほど…なるほど？ 何となく分かりました」
眉間を押さえて唸るケンイチにユタカは苦笑を漏らして、大きく伸びをした。
「それに岩田くんのときは、頭脳戦まで使っとる。さすがユーイチ、特異点慣れしとるぶん立ち回りが上手いわ」
「あればっかりは岩田さんの選択があだになりましたかね」
「ああ。せやけど、ああせんかったら岩田くんのパフォーマンスはもっと下がってた可能性もある。一概には責められへんで」
穏やかながらも冷静な指摘に、ケンイチはぐっと黙り込んだ。
三冠ジョッキーそれぞれが戦いに赴く前に、ユタカはある選択肢を提案していた。
今の彼らの状態を保持して向かうか、当時の状態で向かうか。クリストフは肉体のみ当時の状態で、ヒデアキは完全に今の姿で戦うことを選んだ。現時点でヤスナリだけが、心も体も…もちろん記憶も、2012年そのままを希望したのだ。
『ごちゃごちゃ考えてたら、きっとジェンティルドンナの邪魔になる。そうなるくらいなら、昔のまっさらな自分の方が良い気がするんです』とはヤスナリの言。敢えての選択を尊重して、ユタカも彼を止めることなく送り出した。それで負けたのであれば、仕方ない。
しかもまだ9人、その中には自分も控えている。それほど悲観はなかった。
「んじゃ俺アップしてきますわ。いつ出番来るか分かりませんし」
「おう、行ってき」
ケンイチはユタカに軽く頭を下げると、そのまま小走りに部屋を出ていった。それを見届けると、ユタカは顎に手をやって思案する。ある事実が、頭の端に引っかかっていた。
レースを終えてしばらく経つにもかかわらず、ヒデアキが戻っていない。クリストフもヤスナリも、敗れてすぐこの部屋に戻ってきた。2人とも悔しさを露わにし、ヤスナリに至っては今も端の方に座り込んで項垂れている。
ところがヒデアキはそうではない。彼は元から、三冠ジョッキーどうし徒党を組んで後輩と戦うことに乗り気ではなかった。そして死力を尽くしたこと、再び敗北という事実に向き合うことができたこと、そして自分に勝ったのがコウヘイであることに、満たされてしまった。それゆえ戻ってくることなく、現実世界に帰ってしまったのだろう。
円卓の瓦解――
考えたくはないが、そんな考えが胸をよぎる。
この特異点は12人揃っていることを想定したものであり、彼もそれを踏まえて術式の一部を提供している。それが揺らぐのであれば、また新たに方法を考えなければならない。
ユタカは他の三冠ジョッキーに背を向けて右手の人差し指をついと動かした。次の瞬間、彼の手元に収まるほど小さな窓に映像が浮かび上がる。映っているのは願望の風景ではなく、現実世界の栗東トレーニングセンターで繰り広げられている現在進行形の出来事。同期の目を覚まさせた双子の片割れと、光の渦から2頭の馬と共に現れた、21世紀にそぐわない人物…そして、もうこの世にいないはずの栗毛の相棒の姿に目を見開く、これまで特異点修正に奔走してきた後輩の姿。
「…そろそろ、俺も動いた方がええかな」
「痛ッた…！」
手荒い時空転移を終えた彼らを出迎えたのは、腰に広がる鈍い痛みと、やや西に傾いた強い陽の光だった。先ほどまで暗闇に包まれていたかと思えば、今度は痛いほどの眩しさときた。目をギュッと瞑っては開き、何とか視界を順応させる。
ようやく光量に慣れた目に飛び込んできたのは、これまでと同様どこかの競馬場だった。掌の下には芝の柔らかな感触。芝コースに尻餅をついた状態であることを、彼らはようやく把握した。
「今度は京都競馬場、ですか…」
3コーナーから4コーナーまでの特徴的な傾斜。それは言うまでもなく、ここが淀であることを示していた。ユーイチも後輩への同意の代わりに、深く息を吐いて頷く。
しかし……
「でも、それだけじゃなあ」
コウヘイは顎に手をやって考え込んだ。
他の競馬場にもいえることだが、場所が分かったところで、戦う相手も、時期も、レースも全く分からないのだ。それにゲートが現れるのはいつも敵が姿を現した後。京都のG��5つが全て違う距離で行われるため、予想はさらに困難なものとなっていた。
もし長距離だったら、という思いがコウヘイの頭をよぎる。
デアリングタクトの適性は中距離。いくら素晴らしい勝負根性と身体能力を持っていたとしても、牝馬に適性外の長距離を走らせるのは酷だ。コントレイルだって、菊花賞を勝ちはしたものの決してステイヤーではない。彼のことを誰より知っているユーイチも、再び3000メートル以上の距離を走らせたくはないだろう。いやでも……
「落ち着け、コウヘイ」
眉間の皴が深くなる一方だったコウヘイの肩に、ポンとユーイチの右手が置かれた。その表情は、最初に東京競馬場へ飛ばされたときとは別人のように穏やかだ。
「今からどんだけ悪い想像をしてもしゃーない。どんな相手にせよ、俺らは勝つしかないんやから」
ユーイチは肩に置いていた右手でそのままコウヘイの右腕を掴んだ。未だターフに落ち込んでいた身体がグンと引き上げられる。そして急に立たされて少しよろけるコウヘイの背中を軽くはたくと、そのまま腕組みをして「見てみい」と言葉を継いだ。
「どのレースかは分からんでも、大まかな時期を特定する手がかりはぎょうさんあるはずや」
例えばアレ、とユーイチはターフビジョンを指さす。次の瞬間、コウヘイにも彼の言わんとしていることが分かった。
「…あ、形が違う」
「せや。今は東京と京都だけ、やたらデカい3面のターフビジョンが設置されとるやろ？ところがここはそうじゃない。たしかディープが現役の頃はこの型で、新しいのに変わったのは引退の次の年やったはずやから…」
「直近の三冠馬、未対戦のオルフェーヴルとアパパネが出てくる線は消える」
ハッとするコウヘイを見て満足そうに頷くと、ユーイチは観客スタンドの方に首を向けた。
「それとあともう1個、ここには新しい方のスタンド…ビッグスワンがある。俺がまだ新人やった頃、キングヘイローで菊花賞に出たときはまだ完成してなかった記憶があるから…どうや、この2つでかなり絞れてきたやろ？」
コウヘイは力強く首を縦に振る。よろしい、と演技がかったような笑顔を見せるユーイチは、途轍もなく頼もしかった。
「つまり僕らの戦う相手は1999年から2006年の間に三冠を達成した馬、ということですね」
「そういうことになるな。で、その条件に当てはまるのはディープと、あと1頭…」
「う〜ん。流石ユーイチくん、気付くのが早いね」
ユーイチでもコウヘイでもない声が、会話に加わった。
弾かれたように振り返ると、馬場の入り口に立っていたのは、水色に赤い袖、同じく赤い十字襷の勝負服に身を包む見知った影。ユーイチにとっては随分少なくなってしまった栗東の先輩であり、コウヘイにとっては年齢差を越えて交流していた優しい友人の姿だった。
「幸…さん？」
「何や、思ったよりお早い登場やな」
「2人ともそんなにピリピリしないで、顔が怖いよ」
もう少しサプライズっぽくするつもりだったんだけどなぁ、と彼…ヒデアキは赤いヘルメットの隙間から耳の後ろをぽりぽり掻いた。その表情に、今から後輩を叩き潰そうとする緊張感はない。
「どうしてそっちにいるんですか！？幸さんがそんなことをするなんて…」
「幸センパイこそ、後輩の幸せを歪めるなんてできない〜とか言うてユタカさんに反対する側やと思ってましたわ。ケンイチの言う通り、ホンマの腹黒やったんですね」
少し挑発気味に睨みつけてくるユーイチに苦笑いを浮かべながら、ヒデアキは違う違うと下がり眉で両手をヒラヒラ振った。
「むしろ、だからこそ俺はユタカさんに同意したんだ。2人にも僕の感じた気持ちを味わってほしい。偉業を達成するときには、スタンドからありったけの祝福を受けていてほしい。本当にそれだけ」
2人は身をもって知っていた。ヒデアキが元来こうした対立を好む質ではないことも、そもそも後輩の気持ちを踏みにじるような人間でもないことも。だからヒデアキの言葉が偽りのない本心であることも、自然と分かってしまうのだ。
……それでも。
「やっぱり、ボクは戦いたくないです」
コウヘイは唇を噛んで、拳をきつく握りしめた。絞り出したような苦悩の声をまっすぐに受け止めるヒデアキの目は、優しい。
「うん、俺だって2人を敵に回したくないよ」
「だったら、幸さんもこっち側についたら良いじゃないですか！そうだ、最初からこうすればよかったんだ。1人ずつ説得して相手の戦力を削いでいけば…」
「それはできない」
「どうして！」
「他の人たちも俺と同じだからだよ。決して2人に悪意を向けているわけじゃない。エゴの押し付けかもしれないけど、説得しても簡単には引き下がらないと思う」
だから――ごめんね。
やんわりと告げられた言葉は、残酷にも交渉決裂を突き付けるものだった。
力なく項垂れるコウヘイをよそに、ヒデアキは空を見上げてどこへともなく目配せをした。すると空っぽだったスタンドは瞬く間に観客で埋め尽くされ、割れんばかりの歓声が淀に響き渡る。他馬の足音も微かに聞こえ始め、数百メートル彼方のゲートはスティルインラブが勝利した京都のG�機△垢覆錣曾�華賞の再現………かに思われた。
「ん？」
隣でユーイチが声を漏らすのと同時に、コウヘイも首を傾げた。
秋華賞は京都内回りコースの2000メートル戦、スタート位置はスタンド前になるはずだ。しかし先ほど現れたゲートが位置するのはスタンドのかなり端。つまりこれは秋華賞とは別のレースということになる。そしてあの地点からスタートするG�汽譟璽垢髻▲灰Ε悒い�1つしか知らない。
「エリザベス、女王杯…」
「お互いまだ三冠以外のG�犠＾箸�ない馬どうし、勝ってないレースで戦った方が面白いかと思って」
光の粒子と共に現れた馬に跨るヒデアキは、いつもと変わらない穏やかな笑顔を浮かべている。彼が愛おしげに首筋を撫でている馬こそ、史上2頭目の牝馬三冠を達成した名馬スティルインラブ。このレースでG��4勝目をハナ差逃した彼女と雪辱を果たそうというつもりなのだろうか。
「…というわけで、ユーイチくんとコントレイルは今回パスしてもらってもいいかな？これは女の戦いだから」
ユーイチは悔しそうに顔を歪めながらも、大人しく一歩退く。本音を言えば自分が彼を叩きのめしたいところだが、こればかりはどうしようもない。
入れ替わるように前へ進み出たコウヘイは、既に勝負服を身に纏っている。そのまま相棒の跨り深呼吸をすれば、身も心も完全に戦いに挑む者のそれへと切り替わった。
「すごい気合いだね。これは一筋縄ではいかないな」
「そんな顔で言われても、勝利宣言にしか聞こえませんよ」
「あはは、ごめんごめん」
穏やかな性格で知られる2人の間に、いつもの和やかな空気はない。
「行こう、スティルインラブ」
「勝つよ、デアリングタクト」
手綱を握りしめ、2つの影はゲートへと駆けて行った――
疫病封鎖地域日本・第3戦
A.D.2003 形影一如駈競エリザベス女王杯 零れた星、まだ見ぬ頂
『これで15頭の枠入りが終わって――スタートしました！さあ先行争いです…』
2003年エリザベス女王杯、因縁のゲートが開いた。どっと飛び出した各馬が、出を窺いつつ位置取りを探っている。
ターフから下がったユーイチは、その顛末をスタンドから見守っていた。ダッシュのついた先行馬たちを制して13番のスマイルトゥモローが内に切れ込みハナを主張。1コーナーをカーブする頃には5馬身以上の差をつけてハイペースの逃げを打つ形になり、隊列全体もかなり縦長になっている…大まかな流れはユーイチがかつて映像で見た通りだ。
だがそこに、相違点が1つ。
『スティルインラブはちょうど中団、8番手から9番手あたりでレースを進めています！』
やはり変えてきたか。ユーイチは心の中で呟いた。
当時のレースでは、ヒデアキとスティルインラブは逃げ先行馬のすぐ後ろでレースを進め、最後は中団後方で虎視眈々と控えていたアドマイヤグルーヴとその鞍上に捕まってしまった。実際のレースで敗れたからこそ、ヒデアキは中団でアドマイヤグルーヴのすぐ前につける作戦を選んだのだ。
普通なら、位置取りを変えたところでユタカのマークの餌食になっていただろう。しかしこれはかつて実際の出来事を完璧に模倣した影法師。つまり、周囲も当時と寸分違わぬ動きをするということになる。ゆえにヒデアキが史実に反する動きをしたとしても、誰もそれを阻まない。当時の各馬の動きを折り込みさえすれば、コウヘイ以外のイレギュラーは100パーセント起こりえないのだ。
この舞台の構造を逆手に取った戦い方は、ただ勝利のためだけに練り上げられたもので。
「柄にもない真似してでも勝ちたい…ちゅうことですか、幸センパイ」
そう呟いてターフビジョンに目を転じると、デアリングタクトはスティルインラブとアドマイヤグルーヴのすぐ後ろでレースを進めている。
コウヘイはこの異変に気付いているだろうか。ある“推測”へ至ったユーイチの心に一抹の不安が芽生える。
敗北を栄光で塗り替えようというヒデアキの執念が本当ならば…
「これはかなりの難敵やで、コウヘイ」
…………………………
（かなりペースが速いな……）
前半を過ぎたところで、コウヘイは前方をちらりと窺った。逃げ馬の姿ははるか遠く、ほとんど確認できない。この調子では必ずバテて後続が最後にどっと押し寄せる流れになる。そうなると、淀を熟知するユタカさんなら脚を活かす走りと距離ロスのギリギリを回すはずだ。つまりそれより外につけるのは得策ではない。それと同時に、先行することで後ろから強襲されるリスクも避けたい……
ヒデアキも同じ考えで、このポジションにいるのだろう。
このレースは、コウヘイも何度か見た記憶がある。詳しいところは曖昧だが、少なくとも彼らはもっと前にいたはずだ。つまりヒデアキは、実際のレースとは違う動きをしていることになる。一度敗れた舞台だからこそ何としてでも勝ちたいという思いは、コウヘイにも理解できる。
だがこちらとて、思いの強さで譲る気はない。
2頭を見ながら差し脚勝負に持ち込む…この軽い馬場なら、秋華賞で見せた脚があれば、十分に渡り合える。最後には競り勝つ自信だってある。
しかし――
（何なんだろう、この胸騒ぎは）
前回と違って未経験のレースだから？ ヒデアキが戦略を変えたから？
いや違う。思考はむしろ冴えているし、レース前の動揺も今はない。それでも言いようのない違和感…大事なことを1つ見落としているような、そんなざらついた気持ちが拭えなかった。
だが今はレース中。自分の気持ちだけに拘らっている場合ではない。
（しっかりしろコウヘイ、そんなんじゃ勝てるものも勝てないぞ）
一度息を吸って、雑念と一緒に吐き出す。
ボクらなら、デアリングタクトなら勝てる。自分は彼女が実力を存分に発揮できるようエスコートするだけだ。
そう言い聞かせながら手綱を今一度握り直し、淀の坂をゆっくり上って下っていく。そして600メートルの標識付近で周りが一斉に追い出しにかかった。合流地点手前の緩いカーブを利用して馬を促すユタカとヒデアキから離されないよう、コウヘイも手を動かし始める。手綱から感じる手応えは抜群、まずは流れに乗って距離を一気に詰め……
（…え？）
「――ごめんね、コウヘイちゃん」
「ここ“だけ”は、負けられないんだ」
…………………………
「やっぱりそういうことか…」
4コーナーを回っていく各馬を目で追いながら、ユーイチはスタンドで唇を噛んだ。
眼下では、下り坂を抜けた各馬が前を飲み込もうとしている。中でも抜けた手応えで回ってきたのは中団にいたアドマイヤグルーヴとスティルインラブだ。既にマッチレースの様相を呈し始めているのだが……
デアリングタクトは、そこから半馬身ほど遅れている。ユーイチの見立てではもう少し…なんなら互角の勝負に持ち込めるはずだったのだが、今はなんとか食らいついているといった様子だ。
相手の立ち回りが完璧だったから？
それも理由の1つだろうが、問題は別にある。ここが“2003年のエリザベス女王杯”であることだ。
ヒデアキが戦いの舞台にここを選んだ意味を、ユーイチはずっと考えていた。単純に考えれば過去のリベンジだろうが、これは史実で敗れたレース。二兎を追う者は一兎をも得ずという言葉があるように、コウヘイと戦いながら自身の思いを晴らすのは賢いやり方ではないように思える。
となると、彼には自信をも超える相当な根拠があったと考えるのが妥当だ。そしてその根拠こそ、この舞台設定…2003年のエリザベス女王杯。このレースに対する“2度と負けられない”という強い信念は、ヒデアキとスティルインラブに、2003年のエリザベス女王杯において“のみ”2度と敗れることはないという呪いじみた縛りを与えた。つまりヒデアキは、無敗で三冠を成し遂げたコウヘイとデアリングタクトに対抗するために、敢えてこの場を選んだということになる。
コントレイルではなくデアリングタクトだからこそ大きな意味を持つ、無敗というアドバンテージ。ユタカがバックについている以上いずれ対策されると思っていたが、まさか2戦目で封じられるとはさすがに想定外だった。
しかしそれに屈しているわけにはいかない。スタンドのユーイチには、この絶体絶命の状況を変えてやることはできない。彼らが自力で突破口を見つけるしかないのだ。
「頼んだで、コウヘイ…」
視界の端を飛ぶように過ぎていった赤と白の残像が、このレースが残り400メートルを切ったことを告げる。しかしその400メートル、馬の脚なら20数秒で走破できるその距離が、コウヘイには永遠に続くかのように感じられた。
もちろん油断をしたわけではないし、道中の運びが間違っていたわけでもないはずだ。今もこうして、前に並びかけるべく必死に追っている。それでもこの半馬身の差が詰まるイメージが、全く湧かない。
本当に勝てるのかという騎手にあるまじき考えが、一瞬彼の頭をよぎるほどに。
（何かないか？ この状況を打破する何か……）
このままスティルインラブの背中を追いかけていても何も変わらない。だが今からアドマイヤグルーヴの外へ持ち出していたら間に合わない。ならば完全に進路が閉まってしまう前に、少しでもロスなく走れるコースを……内へ進路を切ろうとしたとき、デアリングタクトの首が一瞬外を向いた。
その刹那、コウヘイは見逃さなかった。
アドマイヤグルーヴがスティルインラブに馬体を併せに行く寸前、わずかに1頭分だけあいた隙間を。
京都競馬場、外回り芝2200メートル。デアリングタクトの経験したことのない舞台。
前人未到の無敗三冠は、歴史を切り拓いてきた証だ。何人も立ち入ったことのない未知の開拓という、先の見えない戦いに挑むとき最も輝く光。無敗で成し遂げた三冠も、そのごく一部に過ぎないとしたら――？
むしろ、この局面は彼女にとって絶好。
コウヘイはまだその事実に気付いていない。しかし手綱から伝わる予感は、彼に活路を指し示すには十分だった。その予感だけを頼りに、今にも閉じようとしているその迷いなく馬を向かわせた。
『アドマイヤグルーヴとスティルインラブ！わずかにスティルインラブか！アドマイヤグルーヴも食い下がっている！そして間からもう1頭来ているが！アドマイヤグルーヴ、スティルインラブ…3頭全く並んでゴールイン！』
頬に当たる秋の風が冷たい。
デアリングタクトをクールダウンさせながら、コウヘイは内心複雑な思いを抱えていた。
ヒデアキの願いを打ち砕き、仕方のないこととはいえスティルインラブを2度も負かしてしまったこと。そして、デアリングタクトに負担をかける乗り方をしてしまったこと。馬は120パーセントの力を出してくれた。しかし自分はどうだ。脚に不安のある彼女に、荒い騎乗を強いてしまった。それがひどく悔しく、不甲斐なかった。
「おめでとうコウヘイちゃん。完敗だったよ」
聞きなれた優しい声が耳に入る。レース前と何ら変わらぬ笑顔で近づくヒデアキに、コウヘイは「はい」と小さな頷きで返した。その表情には、勝利の興奮も余韻も浮かんでいない。
「どうしたの？特異点の修正にまた一歩近づいたんだから、もっと喜べばいいのに」
そう言われても、はいそうですかと素直に喜べるものではない。
目を伏せたままのコウヘイの肩を、ヒデアキは慰めるようにポンと叩いた。
「困ったなあ。コウヘイちゃんがその調子じゃ、俺どんな顔したらいいのか分からないよ」
「…！！」
「負けたのは…うん、すごく悔しい。今にも胸がバラバラになりそうなくらいにはね。だけど、どこかスッキリして穏やかな自分もいるんだ。負けたのにおかしな話だよね…ははっ何でだろう」
俯くコウヘイに向けられた苦笑いは、いつもより少し震えているように感じた。弾かれたように顔を上げると、ヒデアキは「何でもないよ」とひらひら手を振って見せる。くしゃっと笑う目元が、秋の西日を受けてちらりと光った気がした。
「幸さん…」
「ねえコウヘイちゃん。1つだけお願いがあるんだけど、いいかな？」
ヒデアキの体が淡い光に包まれ、少しずつほどけていく。戦いを終えた今、この書き割りの舞台に留まっている理由はない。
「これからも、負けないで」
握手を求めて差し出された手を強く握り返した。まっすぐ目を見て首肯する後輩の姿に、ヒデアキは安堵したように微笑んだ。
「あと忘れないでね、今感じてるその気持ち」
「…はい！」
勝ったのが、コウヘイちゃんで良かった――
そう言い残して、ヒデアキは淀の空に消えた。人肌の感触が消えた手を見つめ、きつく握りしめる。
――あと、9人。
「ふーん、なるほどなあ」
消えゆく虚像に紛れて発せられた呟きを聞いた者は、誰もいなかった。
…………………………
京都競馬場を離れ、現実世界とも違うどこか。
薄暗く長い通路のような空間を、ある人影が歩いていた。そこには床もなく、中空に向かって足を投げ出せば、足元でカツンとブーツが音を立てる。常人なら立っているのがやっとだろうが、ここは幼い頃から勝手知ったる道。怖がるどころか、手すさびに鞭を指先でクルクル弄ぶ余裕さえあった。
歩みを止めずに上半身を軽くはたくと、身に纏っていた白袖に水色と青の勝負服がノイズのようにチリチリと歪み、数秒後には愛用する黒いウェアが姿を現す。衣服の表面を撫ぜる手も、瞬く間に年季の入ったベテランのそれへと変わっていった。
一通りの変貌が済んだところで、人影は足を止める。まっすぐ続いていた道は消え、目の前には通路と同じく薄暗い会議室のような空間が広がっている。空間ではどこかの映像がホログラムのように投影されており、幾つかの人影が円形の机を囲んでそれを熱心に眺めていた。
一歩足を踏み入れると、靴音にいち早く気付いた赤いジャンパーの人影が振り向いて声をあげた。
「遅いですよ…ユタカさん」
「俺最年少でしょ？1人やと居づらいんすわ」
わざとらしく口をとがらせる赤い人影…ケンイチを、ユタカは軽くあしらった。
「ごめんて。ちょっと“向こう”で確かめたいことがあったんでな」
向こう、と言いながらユタカは空中の映像を指さす。そこには戦いを終えたコウヘイと、それを労うユーイチの姿が映し出されていた。それを流し目で確認したケンイチは、気だるそうに首をぐるりと回して息を吐いた。
「ええなぁ、ユタカさんだけ幸センパイのレースに入り込めて。俺も岩田さんのときにやればよかった」
「ベースがうちの術式やから、管理者権限みたいなもんやな。せやけど俺でも入るのギリギリやったし、ケンイチでは無理や」
「ちぇ〜」
ケンイチはまたわざとらしく顔をしかめた。
そう。先ほどまで激戦が繰り広げられていた、19年前のエリザベス女王杯。
あの場でアドマイヤグルーヴに乗っていたのは、本物のユタカだった。
「それにしても、ようやりますね。ホンマやったら自分が勝っとったレースで負けるやなんて俺には無理っすわ。勝とうと思えば勝てたんとちゃいますか？」
「いやいや、俺かて目一杯追ったって。それにあれは幸が望んだ舞台や。そこへ俺が強引に割り込んだんやから、駒に徹するのは当然やろ？ 20年近く前のレースやから正確にトレースできてるか不安やったけど、気付かれんでよかったわ」
「ふん、何が“不安”ですか。そんなん1ミリも思ってへんくせに」
「買い被りすぎや…でもたしかに、完璧に勝ちたいと思う瞬間はあったけど」
「けどそれは、自分の番で叶えたらええ…っちゅーことですよね？」
得意げにニヤリと笑う後輩三冠ジョッキーに、ユタカは無言の首肯で返した。
「でも幸さんでもう3人目っすね。ちょっとペース早ないですか？」
「せやなあ。俺が思ってたより頑張っとるみたいやわ」
ユタカはキャスター付きの椅子を引っ張り出して腰を下ろした。さすがに疲れたのか溜息をつくその姿を見て、ケンイチも再び座り直す。
「ここまでハナ差アタマ差ハナ差。着差だけ見たら辛勝ですけど、何か不思議な感じしますよね」
「ケンイチも気ぃ付いとったか。乗っとる人間が上手いのももちろんやけど、それを抜きにしてもゴール前でのあの尋常やない粘り…馬の力だけでは片付けられへん“何か”がある。さっきはそれを確認しに行ったんやけど、おおかた俺の予想通りやった」
「予想？」
「うん。無敗というキーワード、新時代開拓の再定義と再構築……」
「ユタカさんすんません、もうちょっと俺にも分かるように言ってください」
「あ、すまん。簡単に言うたら、あいつらにしか引き出されへん力が働いとるっちゅーことや」
「なるほど…なるほど？ 何となく分かりました」
眉間を押さえて唸るケンイチにユタカは苦笑を漏らして、大きく伸びをした。
「それに岩田くんのときは、頭脳戦まで使っとる。さすがユーイチ、特異点慣れしとるぶん立ち回りが上手いわ」
「あればっかりは岩田さんの選択があだになりましたかね」
「ああ。せやけど、ああせんかったら岩田くんのパフォーマンスはもっと下がってた可能性もある。一概には責められへんで」
穏やかながらも冷静な指摘に、ケンイチはぐっと黙り込んだ。
三冠ジョッキーそれぞれが戦いに赴く前に、ユタカはある選択肢を提案していた。
今の彼らの状態を保持して向かうか、当時の状態で向かうか。クリストフは肉体のみ当時の状態で、ヒデアキは完全に今の姿で戦うことを選んだ。現時点でヤスナリだけが、心も体も…もちろん記憶も、2012年そのままを希望したのだ。
『ごちゃごちゃ考えてたら、きっとジェンティルドンナの邪魔になる。そうなるくらいなら、昔のまっさらな自分の方が良い気がするんです』とはヤスナリの言。敢えての選択を尊重して、ユタカも彼を止めることなく送り出した。それで負けたのであれば、仕方ない。
しかもまだ9人、その中には自分も控えている。それほど悲観はなかった。
「んじゃ俺アップしてきますわ。いつ出番来るか分かりませんし」
「おう、行ってき」
ケンイチはユタカに軽く頭を下げると、そのまま小走りに部屋を出ていった。それを見届けると、ユタカは顎に手をやって思案する。ある事実が、頭の端に引っかかっていた。
レースを終えてしばらく経つにもかかわらず、ヒデアキが戻っていない。クリストフもヤスナリも、敗れてすぐこの部屋に戻ってきた。2人とも悔しさを露わにし、ヤスナリに至っては今も端の方に座り込んで項垂れている。
ところがヒデアキはそうではない。彼は元から、三冠ジョッキーどうし徒党を組んで後輩と戦うことに乗り気ではなかった。そして死力を尽くしたこと、再び敗北という事実に向き合うことができたこと、そして自分に勝ったのがコウヘイであることに、満たされてしまった。それゆえ戻ってくることなく、現実世界に帰ってしまったのだろう。
円卓の瓦解――
考えたくはないが、そんな考えが胸をよぎる。
この特異点は12人揃っていることを想定したものであり、彼もそれを踏まえて術式の一部を提供している。それが揺らぐのであれば、また新たに方法を考えなければならない。
ユタカは他の三冠ジョッキーに背を向けて右手の人差し指をついと動かした。次の瞬間、彼の手元に収まるほど小さな窓に映像が浮かび上がる。映っているのは願望の風景ではなく、現実世界の栗東トレーニングセンターで繰り広げられている現在進行形の出来事。同期の目を覚まさせた双子の片割れと、光の渦から2頭の馬と共に現れた、21世紀にそぐわない人物…そして、もうこの世にいないはずの栗毛の相棒の姿に目を見開く、これまで特異点修正に奔走してきた後輩の姿。
「…そろそろ、俺も動いた方がええかな」
疫病封鎖地域日本・幕間 A.D.2020 異聞三冠馬人馬 出立と狼煙上げる反抗者達
「このままではいけない……」
際限なく広がる闇の中、憔悴した声が響いた。
全てが闇に溶けるこの地で、僅かながら自我を取り戻すことが出来たのは手を伸ばす前に自分を切り捨てた男のお陰だと言う事実に輪郭を取り戻した身体で握り拳を作る。
『残念ながら、君達には“資格”が無い。これは、限られた三つの冠を戴冠した者だけが必要だ』
穏やかな笑みで「彼女が間に合っていたらまた違っただろう」と、口にして自分を再びこの闇へと沈めた男を思い出す。彼の願いは、彼と“同じ時代”を駆け抜けた自分には理解できる。しかし、共感し、恭順する事は出来ない。
己の願望を他者へと押し付ける、従わぬのならば力を持って叩き潰す……それは、その姿勢は──……
「それは……あの時の軍部と一緒ですよ、キゾウ先輩！」
声に力が篭る。直後、闇色の汚泥から何かが自分を引っ張り上げた。
「……ヒィン」
「あぁ……やっぱりお前が引き上げてくれたんだね」
五感の全てを取り戻し、最初に視界に映った穏やかな表情の栗毛のサラブレッドを撫でる。共に11の戦を駆け抜け、三つの冠を掴んだ令嬢は、深い水面の如き静かな瞳でただただ己を見つめる。
「どうやら、あの聖杯とか言う願望器も完璧では無いみたいだね」
資格が無いと断じられた自分とその相棒がこうして形を得ていると言う事は、聖杯は自身の内を満たす男の願望の一部を拡大解釈したと考えるのが必然であろう。そして、その部分は、おそらく──……
「……君も、来るかい？」
直後、波打った汚泥へと男は手を差し伸べる。水面に、二つの光が小さく煌めく。
「僕と彼女がこうして存在出来ると言う事は、きっと彼らへのカウンターとして選ばれたから……そして、それは君とその相棒にも適用される」
嘶きが一つ、響く。水面を揺らす波が、徐々に大きく、激しくなる。
「一緒に行こう……×××××××××！」
この世界に存在を固定するキイワードが響く。直後、激しい波飛沫と共に栗毛の馬体が現世へと再臨を果たした。
…………………………
「……う〜ん、何やろなぁ……」
ウッドチップのコースを走る2歳馬達を眺めながら、リュージは頭を掻いて言葉を漏らした。週末に騎乗依頼されている馬の追い切りやこれから騎乗予定の新馬への調教は終わり、今日の仕事は終わったはずなのだが、どうにもトレセンから自宅へと帰る気が起こらないのである。
「2歳馬見ながら黄昏れとる阿呆が居ると思うたら、なんやリュージか」
「リョウ……と、ヨシヒロにミサキも。珍しい顔ぶれやな」
目的も無くウッドチップのコースをボーっと見ていると、横からした自分の名を口にする声に意識が其方へと引っ張られる。視線を移すと、同期の中で唯一調教師へとなった高橋リョウの呆れた表情が最初に、次に揃って此方へと歩いてくる古川ヨシヒロと柴田ミサキの姿が飛び込んできた。
「お疲れ和田。なんか分からないけど、ちょうど3人揃って同じタイミングで仕事が終わってね」
「これでユーイチの奴が居ったら栗東に居る12期生全員集合やったな」
「いやいやリョウ、ミサキが居るならほぼほぼダイチ居る様なもんだからユーイチ居ったら競馬サークルの12期生全員集合でええやろ？」
「一つ忠告すると、それダイチの前で言ったら無言で鞭飛んでくるからね古川」
「……ユーイチかぁ……」
同期3人のやり取りを眺めながらこの場にただ1人居ない栗東所属の同期を思い浮かべる。
──そうだ、ユーイチだ。
刹那、リュージは到達する。今この場に居ない男こそが自分をトレセンに縫い付けてる理由なのだと言う事を──……
そこから、芋蔓式に最後にユーイチと顔を合わせた時の記憶が蘇る。
ーま、待て待て二人とも！ちょお落ち着け！そもそも俺、あの菊花賞でアイツと口取りしとらんぞ？コロナの感染対策でアカンって……ー
「──っ！？」
直後、鋭い痛みと共に頭の奥でパンっと何かが破裂した音が響く。顳顬の辺りからジワジワと広がる鈍い痛みに立っていられずにリュージはその場にしゃがみ込んだ。
「リュージ？大丈夫か、おい？」
「……へ、へーきへーき……ちょっと、暑さにやられただけやから……」
「熱中症か？日陰のあるとこに……」
「大丈夫……それより、みんなにちょお聴きたい事あるんやけど？」
「いや、その顔色で言われても説得力無いよ……ほら、向こうの方に行ってから」
「今やないとアカンのや！」
差し伸べられたミサキの手を払い退け、叫ぶリュージ。普段の彼からは想像出来ない迫力に戸惑いながらミサキとヨシヒロはこの場で最も彼と付き合いの長いリョウの顔を伺う。
「……一つだけ、やからな」
諦めた様にリョウが口にする僅かばかり力の戻った声でリュージは「おおきに」と返した。
「それで、何を聞きたいん？」
「あぁ……みんな、一昨年の菊花賞の時の事、憶えとるか？」
促されてリュージが放った問い掛けた言葉に、3人は互いに顔を見合わせた。
「一昨年って……コントレイルが勝ったヤツか？ぎょーさん人が入っとったよな、あの時」
「あぁ、何せ2週連続！しかも互いに無敗の三冠馬が生まれるかも知れんって事でディープん時みたいな事になったよなぁ〜」
「俺らの代から三冠ジョッキーが生まれるかも知れんって引退したヤツらも全員京都競馬場に集まってなぁ……」
「そう言えば、リョウはあの日ダイチの事を朝一で京都駅まで迎えに行っとたな」
「そうそう。アイツ、土曜の12Rまでガッツリ東京で騎乗依頼入れおって……嫁さんが止めんかったら日曜にも乗鞍入れるつもりやったらしいぞ」
「一時期のアイツの事を考えたらそう思うのは理解できるけど……同期の一世一代の舞台なんだから、少しは柔軟に考えたらええのに……なぁ、お前もそう思うよなミサキ？」
「……え？……あぁ、うん……そうだね」
リョウとヨシヒロが懐かしそうに口にするそれは、確かにリュージの記憶にあるものと一致していた。偉大なる無敗三冠馬との口取りを終えたユーイチを同期全員で祝福をした。確かに、その記憶がリュージには存在する。そのハズなのに……違和感が拭えない。
疑念を抱えるリュージをよそに、唯一所属の違う同期へと話が移る。ヨシヒロが彼と共にこの世に生を受けた双子の弟へと話題を降る。
投げられたソレに、ミサキの返す言葉がワンテンポ、ズレた。
「ミサ……」
「和田、やっぱり顔色酷いよ。向こうの木陰に行って休もう。俺が連れてくから高橋と古川は飲み物とかアイシングとか取ってきて」
「おん、分かった」
「大人しくしとるんやぞリュージ」
名前を言うより早くミサキがリュージに肩を貸し少し離れた所の2人へとテキパキと指示をする。
リョウ達2人はその指示に素直に従いリュージ達とは反対方向へと駆け出した。
「ミサキ……お前、まさか」
「俺以外にも違和感を感じる奴が居て良かった……アイツらに聞いても、記憶に無い思い出話ばっかりする」
「一昨年の菊花賞か？」
「あぁ……あの日、京都に同期全員が集まるなんて有り得ない。だって……“俺はその日、東京で10鞍乗ってた”からな」
「え？」
耳元で自信満々に放たれた言葉に、一瞬、思考が停止する。慌てて顔を横に向けて悪戯っ子の如くニンマリと笑う同期の顔を見る。
横目でチラリと自分を見るミサキの目に、彼の物とは違う光を感じる。
ドン底に落ちながら、諦めずにガムシャラにもがき続け、今は亡き恩人との出会いによりその身に纏っているジャージに刺繍された鳥類の王と言われる幻獣の名を持った愛馬と共に駆け抜け栄光を掴んだ男の光が、その目には確かに宿っていた。
「だ……ダイチィ〜！？」
「いやぁ……案外バレないモンだな……これはミステリーで反則技にされるのも納得だ」
柴田ミサキのふりをした柴田ダイチの登場に驚きの声を上げるリュージをよそに、ダイチは妙に感心した様にウンウンと頷く。
「おまっ……なんちゅー事を……」
「ここで行動するにはミサキのふりをするのが一番だろ？……アイツが騎手として復帰した後に栗東へ所属変更した時はちょっと寂しかったけど、こんな形で役に立つとはな」
「そもそも、こんな状況になる事がまず無いやろ……と、言う事は……」
「あぁ、特異点だ」
短く簡潔に放たれた言葉にリュージはため息を一つ吐き出した。思えば、気がつくタイミングは幾らでも有った。それこそ、最後に会った時のユーイチの様子を見れば……気づけたはずだったのに……
「……クソッ」
「気持ちは分かるよ……でも、今は原因となった特異点の修正をする方が先だ」
「……そうや、ユーイチは？アイツも特異点の事を……」
「彼なら、一足早く修正に向かったよ。同じ年に、共に戴冠した者と共にね」
聞き馴染みのない声がリュージとダイチの鼓膜を震わせる。立ち止まって周囲を見回す。特異点による歴史改変を知った今、隣に立っている同期以外、2人にとっては“敵”と言って過言ではない。
「俺達以外に特異点に気付いてる……まさか」
「どこのどいつや！顔見せぇ！」
「あぁ、驚かせてしまってすまない。でも、僕たちは君らの敵じゃない……だから、警戒を解いてくれないか？」
柔らかな声で紡がれた言葉と共に光の渦──特異点への通ずる道がリュージとダイチの前の展開される。光の渦の中から現れのは小柄な男と2頭のサラブレッド。
「……は？」
光が収束し、ぼやけていた人馬の輪郭をハッキリと捉える。男が従えてる2頭の栗毛の内の1頭をその目に写したのと同時に口から情けない声が零れた。
「オペ……さ、ん……？」
見間違えることの無い、けれどもう二度と会うことが出来ない……出来るはずが無いかつての相棒がそこに居た。震える声で確かめる様に愛称を呼べば、栗毛の牡馬は共に走った頃よりも歳を重ねた相棒に対して「そうだよ、忘れたのか？」とでも言う風に嘶いた。
「はじめまして。君がこの子の相棒だね？名前は確か……和田リュージくんだっけ？隣にいるのはえぇと、柴田……ダイチくんかな？関東……今は美浦と言うのか……所属と言う事は君は僕のずっと後の後輩だね」
「貴方は一体……どうしてテイエムオペラオーを従えてるんですか？……もしかして、特異点の事に気が付いた俺と和田を始末しに来た……とか？」
「え？い、いや違うよ……確かに状況としては怪しいけれど僕は君たちに危害を加える気は……」
「ブルルルッ！」
警戒を解かずに自分を睨み付けて問い掛けるダイチに男は慌てて弁明の言葉を紡ぐ。しかし、その言葉を途中で遮る様に己が相棒を侮辱された事に激昂する様にもう1頭の栗毛のサラブレッドが激しく嘶いた。
「落ち着くんだクリフジ。彼らに僕達が敵では無いとちゃんと理解して貰わないと、協力を頼めないだろ？」
「……クリフジ？」
「その人らは俺らの味方やで、ダイチさん」
ダイチを威嚇する愛馬を落ち着かせる様に穏やかな声色で男は言葉を紡ぐ。男が口にした馬名にダイチが驚きの声を上げる。直後、ヴゥンと言う虫の羽音に似た音と共にダイチ達と男の間に背の高いスーツ姿の男が二人、空間を切り裂いて現れた。
「コウシロウ……それに、ヒデノリ？」
「全く、普段はえっらい温厚なのに水と茶を間違えて渡したみたいな妙なとこで沸点が低いんやからダイチさんは……」
「コウシロウさん、柴田さんらの話になると毎回それ言いますね……気に入ってるんですか？」
「まぁ……鉄板ネタやからな」
「こんな何十年も引っ張られるんだったら渡された方を何も言わずに後でミサキと交換して済ませておけば良かった……！」
「あの、君達は一体……？急に、現れたけれど……陰陽師か何かか？」
突然現れて緊張に張り詰めた場の空気を緩めた乱入者──コウシロウとヒデノリと呼ばれた2人に対して男は恐る恐る問い掛ける。ダイチ達の方を向いていた乱入者達はその声で振り返る。自身の視界に入ってきたスーツ姿の男2人の顔に、あの闇の中──冥府で見たこの特異点を作り出した首謀者の側に居た男に似たものを感じた。
「はじめまして、協力者さん。俺の名前は武コウシロウ、んでこっちは再従兄弟の……」
「武ヒデノリ言います。僕らは元騎手で今は調教師してます」
「武……もしかして、君たちは」
「そうです、俺は小西さんに協力しとる武ユタカの弟です」
コウシロウの言葉に男の表情が強張る。僅かに砕けていた場の空気が再び緊張に張り詰める。
「あぁ、警戒せんでください。さっきも協力者って呼んだでしょ？今回の特異点については、俺もヒデも兄貴とは敵対してます」
「僕とコウシロウさんは互いに認識阻害の結界術を重ね掛けしてユタカさんが補強した2020年の特異点による歴史改変から難を逃れたんです。いくら憧れの人言うても、今回ばかりは賛同出来ませんでした」
だから、僕ら2人は敵ちゃいます、とヒデノリが付け加える。しかし、2頭の栗毛を従えた男は疑念に染まった視線を向けている。
「そう言って……はいそうですか、と信じられるほど僕はお人好しでは無いよ。少なくとも……あの人以外の三冠ジョッキーを引き込んだ男の血縁だと分かった以上は、言葉だけでは信じる事は出来ない」
「う〜ん……思った以上にユタカさんは小西さん言う人と深いとこで関わっとる感じですね」
「多分、大元の特異点を補強する為にウチの術式使って派生特異点みたいなん作ったんやろな……あの阿呆兄貴め、この騒動終わったらどうしてやろうか」
助力をする為に来たはずが、肝心の力を貸したい人物に警戒されている状況に困った様に言うヒデノリに、その理由に最も近い立場に居るコウシロウは怒りと恨みが混ざり合った声で言葉を返した。
正直なところ、コウシロウは焦っていた。あの兄がこのまま何の策も講じずに居るのか……？自分よりも術者として、騎手として格段に高い位置に居るあの兄が、自分とヒデノリが歴史改変に対して行った付け焼き刃の対策に果たして気付いていないのか……？既に気付いていて、態と見逃しているのでは無いのか……？思考に海から浮かんでは消えていくのは、全てが後ろ向きな予測であった。
「──ちゃいます」
膠着状態が続く空気を破る様に、静かな、しかしハッキリとした否定の言葉が響いた。
「……和田」
「そいつらは……コウシロウとヒデノリは敵ちゃいます。俺らの味方……つまり、貴方の味方です」
突如現れた嘗ての相棒──テイエムオペラオーを前にただただ彼を見つめて沈黙していたリュージが、視線をオペラオーとクリフジと呼ばれたもう１頭の栗毛を従えた男へと移して言葉を紡ぐ。
「それは……信じて良い言葉かい？」
「ええ……特にコウシロウは俺とダイチの一個下の後輩です。競馬学校の頃から、人となりはよお知ってます。アイツがユタカさんと袂分かった言うんなら、それはホンマの事です」
「俺も、和田と同じ意見です。コウシロウもヒデノリも、ユタカさんが誰かと共にやろうとしている事を止めようとして敵対しているのは間違いないと思います。……それは、俺を“この改変から逃してくれた人”も同じです」
確かめる様に問い掛ける男に、真っ直ぐな声と瞳で言葉を返すリュージ。その隣に立っているダイチも、迷いの無い声でリュージの言葉を肯定する。
「そう言えば……普通に受け入れとったけど、ダイチさんが改変受けてへんのなんでや？」
「それは、数日前に夢の中であの人に……岡田さんに言われたんだ“ユタカくんが誰かと組んで歴史を捻じ曲げようとしている。私の力では止める事は出来ないが……君ならば、突破口を開く事が出来るだろう”……って」
ダイチの言葉に、ふと疑問が浮かび問い掛けるコウシロウ。よくよく考えてみれば、自分やヒデノリの様に対策を講じていないダイチが特異点による歴史改変の影響を受けていないのはおかしな事象である。
ソレを受けてダイチが返したのは数日前、夢と言う現実と虚構の狭間で合間見えた今は亡き恩人からの言葉であった。
「なるほど……流石は岡田総帥、マイネル軍団お抱えの騎手の中で1人選ぶならダイチさんは適任やな」
「なんやかんやで特異点には慣れてるからな……今は少しだけ感謝してるよ」
言葉を紡ぐダイチの声から、彼が夢の中で再会した恩人と、もっと他のやり取りをした事をコウシロウは感じた。だが、ソレはダイチと彼の2人だけが共有していれば良い。
だから、コウシロウはいつもの調子で茶化した様に言葉を返す。受けたダイチも苦笑いをしながらコウシロウのソレに答えた。
「あの、ちょっと和んでるとこすみません。皆さんマズイです……“見られてます”」
直後、頭上に広がる青空を見つめていたヒデノリが焦った声で絞り出した言葉で再び空気が凍る。
“見られている”──その単語が“誰に”など、聞かずともこの場に居る者達には分かっていた。
「クッソォ……思ったよりはよ気ぃ付いたな兄貴のヤツ……！」
「どうします？僕らの行動、筒抜けになって……」
「落ち着けヒデ！……どっちにしろ、特異点側に制限がかかってるのか知らんが今回、和田さんとその昭和初期からタイムスリップして来た人以外は向こうにレイシフト出来ひん。だから俺らは俺らでこっちの……現実世界で栗東と美浦の二手に分かれて修正の取っ掛かりを掴もうと思ったが……兄貴が観測してるとなると、二手に分かれるのは……」
言いながら、認識阻害の結界術を展開するコウシロウ。兄がこちらの行動に気がつく事は予測済みであったが、それでも、もう少し遅くなるだろうと言うの自分に見通しの甘さを呪った。
「ヒデを美浦に向かわせてダイチさんの改変解いて行動して貰う手間省けた思ったらコレか……ツイてないわ」
「なんとなく予想はしてたが、最初から巻き込まれる運命だったのか俺は……」
「そりゃ美浦で一番特異点に詳しいですからね。本当なら僕はダイチさんの改変解いたらこっち戻ってくる手筈やったんですが……ユタカさんに勘付かれたからには向こうでダイチさんに単独行動さすには……」
「……なら、俺がコウシロウくんと栗東で一緒に行動するよ」
聞き慣れた、この場に居ない筈の人物の優しい声が響く。全員で声がした方へと視線を移す。その先には、湖畔の様な優しい笑みを浮かべた男が居た。
「幸……先輩？」
「やあ、みんな……迷惑を掛けちゃったね」
少々バツの悪そうな声で男──幸ヒデアキはポリポリと頬を掻きながら言葉を放った。
「幸先輩……兄貴達側のアンタがどうして？」
「こんな事言っても信じて貰えるか分からないけど……元々そんな乗り気じゃ無かったんだよね、俺。それに、コウヘイちゃんとタクトちゃんに完敗したし……負けて、やっぱりユタカさんやあの人の願いは歪んでるって気が付いた。だから……ちょっと遅くなっちゃったけど、わっくん達の仲間に入れてくれないかな？」
手を差し出して問い掛ける。紡ぐ声に迷いの色は無く、彼が自らの意思でユタカ達から離叛した事が確かな事実であると物語っている。
「もちろん、歓迎しますよ幸先輩」
「ありがとう、わっくん」
ならば、その手を取らないと言う選択肢はリュージ達には無かった。差し出された手を笑顔で握ると、ヒデアキも笑顔でリュージの手を握り返した。
「さて、戦力も申し分無くなったしチャチャっと行動せな……この結界張ってるの意外と疲れんよ」
「和田さんとそちらの方がレイシフト、僕とダイチさんは空間転移して美浦で、コウシロウさんと幸さんはここでそれぞれ特異点修正の取っ掛かりを探す……皆さん、これでええですね？」
「あぁ。特異点へのレイシフトは和田と其方の大先輩しか出来ないみたいだし……俺たちは地道にこっちで状況打破の取っ掛かりを探すよ」
「そうだね。俺もユタカさん達を裏切ったから向こうには行けなくなちゃっただろうし……あ、そうだ。ダイチくん、ちょっとこっち来て」
空間転移の術式を展開し始めるヒデノリの側へと向かうダイチをヒデアキは自分の方へと手招きする。
「はい、なんです？」
「もし……美浦で手掛かりが掴めなかったら、“一番最初の戴冠の場所”に行きな」
「え？」
「岡田総帥が君を選んだのはダイチくんが特異点に慣れてるのもあるけど、何より“君がその場所と縁が有るから”だよ。俺達もこっちで何も掴めなかったら“三番目の戴冠の場所”へ行くから」
「幸先輩、それは……」
「ダイチさん！準備出来ました、はよ来てください！」
「幸先輩も俺んとこ来て下さい。ヒデ達程度では無いにしろ俺らも兄貴の目から逃れるためにちょっとだけに空間転移しますよ」
発言の真意を問う前に上がった二つの声。一瞬、戸惑いを見せるダイチに「ほら、呼ばれてるよ俺達」と笑顔で背中を押して言うヒデアキ。言外にそれは自分で辿り着きなさいと言う先輩に、ダイチは小さく頷くとヒデノリの元へと駆け出した。
「レイシフトと空間転移はみんな一斉にやりましょ。そうしないと兄貴に捕捉されて動き難くなりますし」
「そうか、コウシロウくんが張ってるこの目眩しが無くなったらユタカさんに俺達の行動全部見えちゃうしね」
「しっかり捕まっててくださいねダイチさん。正直、これで長距離移動するの僕はじめてなんで……」
「急に不安になる様な事を……まぁ、でも信じてるよ」
「なぁ、この特異点修正したらユーイチやコウヘイ達と一緒にパァーッとどっか遊びに行かへん？慰労会的な」
「あ、良いですね和田さん。僕らはもちろん、福永さん達もきっと疲れとるでしょうし……温泉とか行きたいですね」
「だったら旅費は全部兄貴に追い被せましょ。この騒動では割と大っきいとこで色々やっとるし。そうなると、ちょっと値が張る旅館かホテルで一泊とかがええな……ダイチさん、リサーチ頼みますよ」
「流れる様に面倒事を押し付けたなコウシロウ……いや、温泉行くの好きだから別に良いんけど」
「なんだか楽しそうな話をしてるね。あ、俺へのお土産はお饅頭がいいな」
「何言ってるんです？幸先輩も一緒に決まっとるでしょ」
「ちゃんとスイーツが有名なとこから候補幾つか出すんで、最終的な行き先はみんなで決めましょう」
「わっくん、みんな……ありがとう」
語る口調は軽く、どこか穏やかな空気が流れる。近い未来の事を紡ぐ後輩達の姿に、すぐそばで己を見つめる栗毛の牝馬へと優しい声で男は語り掛ける。
「不思議だね、クリフジ……これから彼らが戦うのは規格外の力を持った人馬達だ。なのに、みんな自分達の勝利を信じている……仲間の勝利を信じてる。きっと、この差が“鍵”になるだろう……」
思い出す。あの冥府で最後に見た男達の表情を、首謀者の男と共犯として共に在った男が共に張り付けた笑みを──
「あ、そうだ。すいません、ちょっとそこの大先輩」
「なんだい、和田リュージくん？」
一通りの談笑が終わって此方へと駆けてきたリュージの声に男の思考は現実へと戻される。返事をするのと同時に、目の前の所属の違う後輩がガバッと勢いよく頭を下げた。
「え？ちょっ……急に、どうし」
「オペさんと……また、大事な“相棒”と一緒に走る機会をくれて、ありがとうございます！」
ハッキリとした声で放たれたのは感謝の言葉。
「ユタカさんは、凄く尊敬してます。あの人とオグリキャップの有馬記念は俺にとってはかけがえのないモンです……だけど」
言葉を区切り、顔を上げる。ぶつかり絡まった眼光に、確かな闘志が宿っていた。
「あの年、あいつらが……ユーイチ達が走って手にしたモンを曲げる事は、同期として……親友として絶対に許す事はできません！」
揺るがぬ意思と声で憧れとの訣別を口にするリュージ。視界の隅で、ダイチが頷くのが見えた。
二人は知っている。福永ユーイチと言う男に課せられていた周囲からの過剰な期待を、その期待に応える為にユーイチがしてきた努力を、期待に応えることが出来ずに踠き苦しんだ日々を……だから、その先に掴み取った栄光を捻じ曲げる事は、それは“福永ユーイチと言う男が歩んできた道を否定する事”だと和田リュージと柴田ダイチは誰よりも理解している。
「だから、特異点修正に力を貸して下さい……無敗の変則三冠馬クリフジと前田チョウキチさん」
「それは逆だ。僕の方こそ、キゾウ先輩を止める為に君たちの力を貸してくれ、年間無敗の秋古馬三冠馬テイエムオペラオーと和田リュージくん」
その言葉を契機に、二人の背後に光に渦が現れた。渦は、二人の男と二頭の栗毛の馬を飲み込む様にゆっくりと広がっていく。
「じゃあ……俺らも行くぞ。準備ええな、ヒデノリ？」
「もちろんですよ、コウシロウさん」
「ほな……いくで」
「「──展開！」」
シンプルな言葉をキイワードとして空間転移の術式が展開し、コウシロウとヒデアキ、ヒデノリとダイチをそれぞれ淡い光に包み込んでいく。
「……リュージ！」
視界が光に飲まれる寸前、ダイチはリュージを名前を呼ぶ。普段の“同期の騎手”として時ではなく、共に騎手と言う夢を追いかけ青春時代を共に駆け抜けた“友人”として、名前を呼ぶ。
「信じてるからな……お前とユーイチの事」
「俺も、ダイチの事信じとる……だから、現実＜そっち>は任せた！」
「あぁ、分かった！」
刹那、視界が白く染まる。時空転移の直前に友と交わした言葉を胸に、嘗て“全ての戦いに勝ち続けた人馬”は未曾有の強敵が待つ戦場へと向かっていった。
A.D.2020 疫病封鎖地域日本 幕間
異聞三冠馬人馬 出立と狼煙上げる反抗者達
際限なく広がる闇の中、憔悴した声が響いた。
全てが闇に溶けるこの地で、僅かながら自我を取り戻すことが出来たのは手を伸ばす前に自分を切り捨てた男のお陰だと言う事実に輪郭を取り戻した身体で握り拳を作る。
『残念ながら、君達には“資格”が無い。これは、限られた三つの冠を戴冠した者だけが必要だ』
穏やかな笑みで「彼女が間に合っていたらまた違っただろう」と、口にして自分を再びこの闇へと沈めた男を思い出す。彼の願いは、彼と“同じ時代”を駆け抜けた自分には理解できる。しかし、共感し、恭順する事は出来ない。
己の願望を他者へと押し付ける、従わぬのならば力を持って叩き潰す……それは、その姿勢は──……
「それは……あの時の軍部と一緒ですよ、キゾウ先輩！」
声に力が篭る。直後、闇色の汚泥から何かが自分を引っ張り上げた。
「……ヒィン」
「あぁ……やっぱりお前が引き上げてくれたんだね」
五感の全てを取り戻し、最初に視界に映った穏やかな表情の栗毛のサラブレッドを撫でる。共に11の戦を駆け抜け、三つの冠を掴んだ令嬢は、深い水面の如き静かな瞳でただただ己を見つめる。
「どうやら、あの聖杯とか言う願望器も完璧では無いみたいだね」
資格が無いと断じられた自分とその相棒がこうして形を得ていると言う事は、聖杯は自身の内を満たす男の願望の一部を拡大解釈したと考えるのが必然であろう。そして、その部分は、おそらく──……
「……君も、来るかい？」
直後、波打った汚泥へと男は手を差し伸べる。水面に、二つの光が小さく煌めく。
「僕と彼女がこうして存在出来ると言う事は、きっと彼らへのカウンターとして選ばれたから……そして、それは君とその相棒にも適用される」
嘶きが一つ、響く。水面を揺らす波が、徐々に大きく、激しくなる。
「一緒に行こう……×××××××××！」
この世界に存在を固定するキイワードが響く。直後、激しい波飛沫と共に栗毛の馬体が現世へと再臨を果たした。
…………………………
「……う〜ん、何やろなぁ……」
ウッドチップのコースを走る2歳馬達を眺めながら、リュージは頭を掻いて言葉を漏らした。週末に騎乗依頼されている馬の追い切りやこれから騎乗予定の新馬への調教は終わり、今日の仕事は終わったはずなのだが、どうにもトレセンから自宅へと帰る気が起こらないのである。
「2歳馬見ながら黄昏れとる阿呆が居ると思うたら、なんやリュージか」
「リョウ……と、ヨシヒロにミサキも。珍しい顔ぶれやな」
目的も無くウッドチップのコースをボーっと見ていると、横からした自分の名を口にする声に意識が其方へと引っ張られる。視線を移すと、同期の中で唯一調教師へとなった高橋リョウの呆れた表情が最初に、次に揃って此方へと歩いてくる古川ヨシヒロと柴田ミサキの姿が飛び込んできた。
「お疲れ和田。なんか分からないけど、ちょうど3人揃って同じタイミングで仕事が終わってね」
「これでユーイチの奴が居ったら栗東に居る12期生全員集合やったな」
「いやいやリョウ、ミサキが居るならほぼほぼダイチ居る様なもんだからユーイチ居ったら競馬サークルの12期生全員集合でええやろ？」
「一つ忠告すると、それダイチの前で言ったら無言で鞭飛んでくるからね古川」
「……ユーイチかぁ……」
同期3人のやり取りを眺めながらこの場にただ1人居ない栗東所属の同期を思い浮かべる。
──そうだ、ユーイチだ。
刹那、リュージは到達する。今この場に居ない男こそが自分をトレセンに縫い付けてる理由なのだと言う事を──……
そこから、芋蔓式に最後にユーイチと顔を合わせた時の記憶が蘇る。
ーま、待て待て二人とも！ちょお落ち着け！そもそも俺、あの菊花賞でアイツと口取りしとらんぞ？コロナの感染対策でアカンって……ー
「──っ！？」
直後、鋭い痛みと共に頭の奥でパンっと何かが破裂した音が響く。顳顬の辺りからジワジワと広がる鈍い痛みに立っていられずにリュージはその場にしゃがみ込んだ。
「リュージ？大丈夫か、おい？」
「……へ、へーきへーき……ちょっと、暑さにやられただけやから……」
「熱中症か？日陰のあるとこに……」
「大丈夫……それより、みんなにちょお聴きたい事あるんやけど？」
「いや、その顔色で言われても説得力無いよ……ほら、向こうの方に行ってから」
「今やないとアカンのや！」
差し伸べられたミサキの手を払い退け、叫ぶリュージ。普段の彼からは想像出来ない迫力に戸惑いながらミサキとヨシヒロはこの場で最も彼と付き合いの長いリョウの顔を伺う。
「……一つだけ、やからな」
諦めた様にリョウが口にする僅かばかり力の戻った声でリュージは「おおきに」と返した。
「それで、何を聞きたいん？」
「あぁ……みんな、一昨年の菊花賞の時の事、憶えとるか？」
促されてリュージが放った問い掛けた言葉に、3人は互いに顔を見合わせた。
「一昨年って……コントレイルが勝ったヤツか？ぎょーさん人が入っとったよな、あの時」
「あぁ、何せ2週連続！しかも互いに無敗の三冠馬が生まれるかも知れんって事でディープん時みたいな事になったよなぁ〜」
「俺らの代から三冠ジョッキーが生まれるかも知れんって引退したヤツらも全員京都競馬場に集まってなぁ……」
「そう言えば、リョウはあの日ダイチの事を朝一で京都駅まで迎えに行っとたな」
「そうそう。アイツ、土曜の12Rまでガッツリ東京で騎乗依頼入れおって……嫁さんが止めんかったら日曜にも乗鞍入れるつもりやったらしいぞ」
「一時期のアイツの事を考えたらそう思うのは理解できるけど……同期の一世一代の舞台なんだから、少しは柔軟に考えたらええのに……なぁ、お前もそう思うよなミサキ？」
「……え？……あぁ、うん……そうだね」
リョウとヨシヒロが懐かしそうに口にするそれは、確かにリュージの記憶にあるものと一致していた。偉大なる無敗三冠馬との口取りを終えたユーイチを同期全員で祝福をした。確かに、その記憶がリュージには存在する。そのハズなのに……違和感が拭えない。
疑念を抱えるリュージをよそに、唯一所属の違う同期へと話が移る。ヨシヒロが彼と共にこの世に生を受けた双子の弟へと話題を降る。
投げられたソレに、ミサキの返す言葉がワンテンポ、ズレた。
「ミサ……」
「和田、やっぱり顔色酷いよ。向こうの木陰に行って休もう。俺が連れてくから高橋と古川は飲み物とかアイシングとか取ってきて」
「おん、分かった」
「大人しくしとるんやぞリュージ」
名前を言うより早くミサキがリュージに肩を貸し少し離れた所の2人へとテキパキと指示をする。
リョウ達2人はその指示に素直に従いリュージ達とは反対方向へと駆け出した。
「ミサキ……お前、まさか」
「俺以外にも違和感を感じる奴が居て良かった……アイツらに聞いても、記憶に無い思い出話ばっかりする」
「一昨年の菊花賞か？」
「あぁ……あの日、京都に同期全員が集まるなんて有り得ない。だって……“俺はその日、東京で10鞍乗ってた”からな」
「え？」
耳元で自信満々に放たれた言葉に、一瞬、思考が停止する。慌てて顔を横に向けて悪戯っ子の如くニンマリと笑う同期の顔を見る。
横目でチラリと自分を見るミサキの目に、彼の物とは違う光を感じる。
ドン底に落ちながら、諦めずにガムシャラにもがき続け、今は亡き恩人との出会いによりその身に纏っているジャージに刺繍された鳥類の王と言われる幻獣の名を持った愛馬と共に駆け抜け栄光を掴んだ男の光が、その目には確かに宿っていた。
「だ……ダイチィ〜！？」
「いやぁ……案外バレないモンだな……これはミステリーで反則技にされるのも納得だ」
柴田ミサキのふりをした柴田ダイチの登場に驚きの声を上げるリュージをよそに、ダイチは妙に感心した様にウンウンと頷く。
「おまっ……なんちゅー事を……」
「ここで行動するにはミサキのふりをするのが一番だろ？……アイツが騎手として復帰した後に栗東へ所属変更した時はちょっと寂しかったけど、こんな形で役に立つとはな」
「そもそも、こんな状況になる事がまず無いやろ……と、言う事は……」
「あぁ、特異点だ」
短く簡潔に放たれた言葉にリュージはため息を一つ吐き出した。思えば、気がつくタイミングは幾らでも有った。それこそ、最後に会った時のユーイチの様子を見れば……気づけたはずだったのに……
「……クソッ」
「気持ちは分かるよ……でも、今は原因となった特異点の修正をする方が先だ」
「……そうや、ユーイチは？アイツも特異点の事を……」
「彼なら、一足早く修正に向かったよ。同じ年に、共に戴冠した者と共にね」
聞き馴染みのない声がリュージとダイチの鼓膜を震わせる。立ち止まって周囲を見回す。特異点による歴史改変を知った今、隣に立っている同期以外、2人にとっては“敵”と言って過言ではない。
「俺達以外に特異点に気付いてる……まさか」
「どこのどいつや！顔見せぇ！」
「あぁ、驚かせてしまってすまない。でも、僕たちは君らの敵じゃない……だから、警戒を解いてくれないか？」
柔らかな声で紡がれた言葉と共に光の渦──特異点への通ずる道がリュージとダイチの前の展開される。光の渦の中から現れのは小柄な男と2頭のサラブレッド。
「……は？」
光が収束し、ぼやけていた人馬の輪郭をハッキリと捉える。男が従えてる2頭の栗毛の内の1頭をその目に写したのと同時に口から情けない声が零れた。
「オペ……さ、ん……？」
見間違えることの無い、けれどもう二度と会うことが出来ない……出来るはずが無いかつての相棒がそこに居た。震える声で確かめる様に愛称を呼べば、栗毛の牡馬は共に走った頃よりも歳を重ねた相棒に対して「そうだよ、忘れたのか？」とでも言う風に嘶いた。
「はじめまして。君がこの子の相棒だね？名前は確か……和田リュージくんだっけ？隣にいるのはえぇと、柴田……ダイチくんかな？関東……今は美浦と言うのか……所属と言う事は君は僕のずっと後の後輩だね」
「貴方は一体……どうしてテイエムオペラオーを従えてるんですか？……もしかして、特異点の事に気が付いた俺と和田を始末しに来た……とか？」
「え？い、いや違うよ……確かに状況としては怪しいけれど僕は君たちに危害を加える気は……」
「ブルルルッ！」
警戒を解かずに自分を睨み付けて問い掛けるダイチに男は慌てて弁明の言葉を紡ぐ。しかし、その言葉を途中で遮る様に己が相棒を侮辱された事に激昂する様にもう1頭の栗毛のサラブレッドが激しく嘶いた。
「落ち着くんだクリフジ。彼らに僕達が敵では無いとちゃんと理解して貰わないと、協力を頼めないだろ？」
「……クリフジ？」
「その人らは俺らの味方やで、ダイチさん」
ダイチを威嚇する愛馬を落ち着かせる様に穏やかな声色で男は言葉を紡ぐ。男が口にした馬名にダイチが驚きの声を上げる。直後、ヴゥンと言う虫の羽音に似た音と共にダイチ達と男の間に背の高いスーツ姿の男が二人、空間を切り裂いて現れた。
「コウシロウ……それに、ヒデノリ？」
「全く、普段はえっらい温厚なのに水と茶を間違えて渡したみたいな妙なとこで沸点が低いんやからダイチさんは……」
「コウシロウさん、柴田さんらの話になると毎回それ言いますね……気に入ってるんですか？」
「まぁ……鉄板ネタやからな」
「こんな何十年も引っ張られるんだったら渡された方を何も言わずに後でミサキと交換して済ませておけば良かった……！」
「あの、君達は一体……？急に、現れたけれど……陰陽師か何かか？」
突然現れて緊張に張り詰めた場の空気を緩めた乱入者──コウシロウとヒデノリと呼ばれた2人に対して男は恐る恐る問い掛ける。ダイチ達の方を向いていた乱入者達はその声で振り返る。自身の視界に入ってきたスーツ姿の男2人の顔に、あの闇の中──冥府で見たこの特異点を作り出した首謀者の側に居た男に似たものを感じた。
「はじめまして、協力者さん。俺の名前は武コウシロウ、んでこっちは再従兄弟の……」
「武ヒデノリ言います。僕らは元騎手で今は調教師してます」
「武……もしかして、君たちは」
「そうです、俺は小西さんに協力しとる武ユタカの弟です」
コウシロウの言葉に男の表情が強張る。僅かに砕けていた場の空気が再び緊張に張り詰める。
「あぁ、警戒せんでください。さっきも協力者って呼んだでしょ？今回の特異点については、俺もヒデも兄貴とは敵対してます」
「僕とコウシロウさんは互いに認識阻害の結界術を重ね掛けしてユタカさんが補強した2020年の特異点による歴史改変から難を逃れたんです。いくら憧れの人言うても、今回ばかりは賛同出来ませんでした」
だから、僕ら2人は敵ちゃいます、とヒデノリが付け加える。しかし、2頭の栗毛を従えた男は疑念に染まった視線を向けている。
「そう言って……はいそうですか、と信じられるほど僕はお人好しでは無いよ。少なくとも……あの人以外の三冠ジョッキーを引き込んだ男の血縁だと分かった以上は、言葉だけでは信じる事は出来ない」
「う〜ん……思った以上にユタカさんは小西さん言う人と深いとこで関わっとる感じですね」
「多分、大元の特異点を補強する為にウチの術式使って派生特異点みたいなん作ったんやろな……あの阿呆兄貴め、この騒動終わったらどうしてやろうか」
助力をする為に来たはずが、肝心の力を貸したい人物に警戒されている状況に困った様に言うヒデノリに、その理由に最も近い立場に居るコウシロウは怒りと恨みが混ざり合った声で言葉を返した。
正直なところ、コウシロウは焦っていた。あの兄がこのまま何の策も講じずに居るのか……？自分よりも術者として、騎手として格段に高い位置に居るあの兄が、自分とヒデノリが歴史改変に対して行った付け焼き刃の対策に果たして気付いていないのか……？既に気付いていて、態と見逃しているのでは無いのか……？思考に海から浮かんでは消えていくのは、全てが後ろ向きな予測であった。
「──ちゃいます」
膠着状態が続く空気を破る様に、静かな、しかしハッキリとした否定の言葉が響いた。
「……和田」
「そいつらは……コウシロウとヒデノリは敵ちゃいます。俺らの味方……つまり、貴方の味方です」
突如現れた嘗ての相棒──テイエムオペラオーを前にただただ彼を見つめて沈黙していたリュージが、視線をオペラオーとクリフジと呼ばれたもう１頭の栗毛を従えた男へと移して言葉を紡ぐ。
「それは……信じて良い言葉かい？」
「ええ……特にコウシロウは俺とダイチの一個下の後輩です。競馬学校の頃から、人となりはよお知ってます。アイツがユタカさんと袂分かった言うんなら、それはホンマの事です」
「俺も、和田と同じ意見です。コウシロウもヒデノリも、ユタカさんが誰かと共にやろうとしている事を止めようとして敵対しているのは間違いないと思います。……それは、俺を“この改変から逃してくれた人”も同じです」
確かめる様に問い掛ける男に、真っ直ぐな声と瞳で言葉を返すリュージ。その隣に立っているダイチも、迷いの無い声でリュージの言葉を肯定する。
「そう言えば……普通に受け入れとったけど、ダイチさんが改変受けてへんのなんでや？」
「それは、数日前に夢の中であの人に……岡田さんに言われたんだ“ユタカくんが誰かと組んで歴史を捻じ曲げようとしている。私の力では止める事は出来ないが……君ならば、突破口を開く事が出来るだろう”……って」
ダイチの言葉に、ふと疑問が浮かび問い掛けるコウシロウ。よくよく考えてみれば、自分やヒデノリの様に対策を講じていないダイチが特異点による歴史改変の影響を受けていないのはおかしな事象である。
ソレを受けてダイチが返したのは数日前、夢と言う現実と虚構の狭間で合間見えた今は亡き恩人からの言葉であった。
「なるほど……流石は岡田総帥、マイネル軍団お抱えの騎手の中で1人選ぶならダイチさんは適任やな」
「なんやかんやで特異点には慣れてるからな……今は少しだけ感謝してるよ」
言葉を紡ぐダイチの声から、彼が夢の中で再会した恩人と、もっと他のやり取りをした事をコウシロウは感じた。だが、ソレはダイチと彼の2人だけが共有していれば良い。
だから、コウシロウはいつもの調子で茶化した様に言葉を返す。受けたダイチも苦笑いをしながらコウシロウのソレに答えた。
「あの、ちょっと和んでるとこすみません。皆さんマズイです……“見られてます”」
直後、頭上に広がる青空を見つめていたヒデノリが焦った声で絞り出した言葉で再び空気が凍る。
“見られている”──その単語が“誰に”など、聞かずともこの場に居る者達には分かっていた。
「クッソォ……思ったよりはよ気ぃ付いたな兄貴のヤツ……！」
「どうします？僕らの行動、筒抜けになって……」
「落ち着けヒデ！……どっちにしろ、特異点側に制限がかかってるのか知らんが今回、和田さんとその昭和初期からタイムスリップして来た人以外は向こうにレイシフト出来ひん。だから俺らは俺らでこっちの……現実世界で栗東と美浦の二手に分かれて修正の取っ掛かりを掴もうと思ったが……兄貴が観測してるとなると、二手に分かれるのは……」
言いながら、認識阻害の結界術を展開するコウシロウ。兄がこちらの行動に気がつく事は予測済みであったが、それでも、もう少し遅くなるだろうと言うの自分に見通しの甘さを呪った。
「ヒデを美浦に向かわせてダイチさんの改変解いて行動して貰う手間省けた思ったらコレか……ツイてないわ」
「なんとなく予想はしてたが、最初から巻き込まれる運命だったのか俺は……」
「そりゃ美浦で一番特異点に詳しいですからね。本当なら僕はダイチさんの改変解いたらこっち戻ってくる手筈やったんですが……ユタカさんに勘付かれたからには向こうでダイチさんに単独行動さすには……」
「……なら、俺がコウシロウくんと栗東で一緒に行動するよ」
聞き慣れた、この場に居ない筈の人物の優しい声が響く。全員で声がした方へと視線を移す。その先には、湖畔の様な優しい笑みを浮かべた男が居た。
「幸……先輩？」
「やあ、みんな……迷惑を掛けちゃったね」
少々バツの悪そうな声で男──幸ヒデアキはポリポリと頬を掻きながら言葉を放った。
「幸先輩……兄貴達側のアンタがどうして？」
「こんな事言っても信じて貰えるか分からないけど……元々そんな乗り気じゃ無かったんだよね、俺。それに、コウヘイちゃんとタクトちゃんに完敗したし……負けて、やっぱりユタカさんやあの人の願いは歪んでるって気が付いた。だから……ちょっと遅くなっちゃったけど、わっくん達の仲間に入れてくれないかな？」
手を差し出して問い掛ける。紡ぐ声に迷いの色は無く、彼が自らの意思でユタカ達から離叛した事が確かな事実であると物語っている。
「もちろん、歓迎しますよ幸先輩」
「ありがとう、わっくん」
ならば、その手を取らないと言う選択肢はリュージ達には無かった。差し出された手を笑顔で握ると、ヒデアキも笑顔でリュージの手を握り返した。
「さて、戦力も申し分無くなったしチャチャっと行動せな……この結界張ってるの意外と疲れんよ」
「和田さんとそちらの方がレイシフト、僕とダイチさんは空間転移して美浦で、コウシロウさんと幸さんはここでそれぞれ特異点修正の取っ掛かりを探す……皆さん、これでええですね？」
「あぁ。特異点へのレイシフトは和田と其方の大先輩しか出来ないみたいだし……俺たちは地道にこっちで状況打破の取っ掛かりを探すよ」
「そうだね。俺もユタカさん達を裏切ったから向こうには行けなくなちゃっただろうし……あ、そうだ。ダイチくん、ちょっとこっち来て」
空間転移の術式を展開し始めるヒデノリの側へと向かうダイチをヒデアキは自分の方へと手招きする。
「はい、なんです？」
「もし……美浦で手掛かりが掴めなかったら、“一番最初の戴冠の場所”に行きな」
「え？」
「岡田総帥が君を選んだのはダイチくんが特異点に慣れてるのもあるけど、何より“君がその場所と縁が有るから”だよ。俺達もこっちで何も掴めなかったら“三番目の戴冠の場所”へ行くから」
「幸先輩、それは……」
「ダイチさん！準備出来ました、はよ来てください！」
「幸先輩も俺んとこ来て下さい。ヒデ達程度では無いにしろ俺らも兄貴の目から逃れるためにちょっとだけに空間転移しますよ」
発言の真意を問う前に上がった二つの声。一瞬、戸惑いを見せるダイチに「ほら、呼ばれてるよ俺達」と笑顔で背中を押して言うヒデアキ。言外にそれは自分で辿り着きなさいと言う先輩に、ダイチは小さく頷くとヒデノリの元へと駆け出した。
「レイシフトと空間転移はみんな一斉にやりましょ。そうしないと兄貴に捕捉されて動き難くなりますし」
「そうか、コウシロウくんが張ってるこの目眩しが無くなったらユタカさんに俺達の行動全部見えちゃうしね」
「しっかり捕まっててくださいねダイチさん。正直、これで長距離移動するの僕はじめてなんで……」
「急に不安になる様な事を……まぁ、でも信じてるよ」
「なぁ、この特異点修正したらユーイチやコウヘイ達と一緒にパァーッとどっか遊びに行かへん？慰労会的な」
「あ、良いですね和田さん。僕らはもちろん、福永さん達もきっと疲れとるでしょうし……温泉とか行きたいですね」
「だったら旅費は全部兄貴に追い被せましょ。この騒動では割と大っきいとこで色々やっとるし。そうなると、ちょっと値が張る旅館かホテルで一泊とかがええな……ダイチさん、リサーチ頼みますよ」
「流れる様に面倒事を押し付けたなコウシロウ……いや、温泉行くの好きだから別に良いんけど」
「なんだか楽しそうな話をしてるね。あ、俺へのお土産はお饅頭がいいな」
「何言ってるんです？幸先輩も一緒に決まっとるでしょ」
「ちゃんとスイーツが有名なとこから候補幾つか出すんで、最終的な行き先はみんなで決めましょう」
「わっくん、みんな……ありがとう」
語る口調は軽く、どこか穏やかな空気が流れる。近い未来の事を紡ぐ後輩達の姿に、すぐそばで己を見つめる栗毛の牝馬へと優しい声で男は語り掛ける。
「不思議だね、クリフジ……これから彼らが戦うのは規格外の力を持った人馬達だ。なのに、みんな自分達の勝利を信じている……仲間の勝利を信じてる。きっと、この差が“鍵”になるだろう……」
思い出す。あの冥府で最後に見た男達の表情を、首謀者の男と共犯として共に在った男が共に張り付けた笑みを──
「あ、そうだ。すいません、ちょっとそこの大先輩」
「なんだい、和田リュージくん？」
一通りの談笑が終わって此方へと駆けてきたリュージの声に男の思考は現実へと戻される。返事をするのと同時に、目の前の所属の違う後輩がガバッと勢いよく頭を下げた。
「え？ちょっ……急に、どうし」
「オペさんと……また、大事な“相棒”と一緒に走る機会をくれて、ありがとうございます！」
ハッキリとした声で放たれたのは感謝の言葉。
「ユタカさんは、凄く尊敬してます。あの人とオグリキャップの有馬記念は俺にとってはかけがえのないモンです……だけど」
言葉を区切り、顔を上げる。ぶつかり絡まった眼光に、確かな闘志が宿っていた。
「あの年、あいつらが……ユーイチ達が走って手にしたモンを曲げる事は、同期として……親友として絶対に許す事はできません！」
揺るがぬ意思と声で憧れとの訣別を口にするリュージ。視界の隅で、ダイチが頷くのが見えた。
二人は知っている。福永ユーイチと言う男に課せられていた周囲からの過剰な期待を、その期待に応える為にユーイチがしてきた努力を、期待に応えることが出来ずに踠き苦しんだ日々を……だから、その先に掴み取った栄光を捻じ曲げる事は、それは“福永ユーイチと言う男が歩んできた道を否定する事”だと和田リュージと柴田ダイチは誰よりも理解している。
「だから、特異点修正に力を貸して下さい……無敗の変則三冠馬クリフジと前田チョウキチさん」
「それは逆だ。僕の方こそ、キゾウ先輩を止める為に君たちの力を貸してくれ、年間無敗の秋古馬三冠馬テイエムオペラオーと和田リュージくん」
その言葉を契機に、二人の背後に光に渦が現れた。渦は、二人の男と二頭の栗毛の馬を飲み込む様にゆっくりと広がっていく。
「じゃあ……俺らも行くぞ。準備ええな、ヒデノリ？」
「もちろんですよ、コウシロウさん」
「ほな……いくで」
「「──展開！」」
シンプルな言葉をキイワードとして空間転移の術式が展開し、コウシロウとヒデアキ、ヒデノリとダイチをそれぞれ淡い光に包み込んでいく。
「……リュージ！」
視界が光に飲まれる寸前、ダイチはリュージを名前を呼ぶ。普段の“同期の騎手”として時ではなく、共に騎手と言う夢を追いかけ青春時代を共に駆け抜けた“友人”として、名前を呼ぶ。
「信じてるからな……お前とユーイチの事」
「俺も、ダイチの事信じとる……だから、現実＜そっち>は任せた！」
「あぁ、分かった！」
刹那、視界が白く染まる。時空転移の直前に友と交わした言葉を胸に、嘗て“全ての戦いに勝ち続けた人馬”は未曾有の強敵が待つ戦場へと向かっていった。
A.D.2020 疫病封鎖地域日本 幕間
異聞三冠馬人馬 出立と狼煙上げる反抗者達
疫病封鎖地域日本・第4戦 A.D.1985 白雲孤飛交戦有馬記念 そして継承の果てに
？？？？年
人間も馬も繰り返していくうちに学習するものだ。戦いを終え目の前が真っ白になった瞬間にレイシフトが来るぞと分かる。ふわりと浮遊感が体を包んだ瞬間にユーイチは体勢を整え、地面に叩きつけられた瞬間に受け身を取った。
ユーイチがあたりをぐるりと見回すと、最終直線が短く、急坂がある特徴的なコースだ。クリスタルスタンドはあるものの、スタンドの姿は見慣れたものとは違う。
少し離れたところに着地していたらしいコウヘイが駆け寄ってきた。
「ここって中山競馬場ですよね」
「ああ……。ほんでもってクリスタルスタンドがあるから1984年以降で、今とスタンドがちゃうから1988年以前やろな」
「となると、対戦相手はミスターシービー、シンボリルドルフ、メジロラモーヌの内一頭ですね。シービーだったら菊花か秋天でしょうから、更に絞り込んで2択」
「ラモーヌやったらデアリングタクト、ルドルフやったらコントレイル……がええんやろなぁ……」
ユーイチは苦い顔をした。コントレイルには2500mは長い上、しかも改修前で枠の有利不利が激しい中山競馬場となるともっと厳しい。しかし、そもそも2400m以上を走ったことのないデアリングタクトと3000mを走り切ったコントレイルとなら、出るべきはコントレイルである。
すると、ユーイチの背後から声が掛けられた。
「ようこそ、君たちがルドルフに挑もうとする挑戦者だね」
関西訛りのない標準語。ルドルフ。そこに現れたのは、若き日の岡部ユキオだった。ユーイチの幼少期の記憶に残ってはいないが、幼少期の記録に残っている姿と一致している。コウヘイは自分が生まれる前の姿のユキオとはいえ、ルドルフと聞いて確信を持ったのだろう。断言した。
「有馬記念ですね」
「有馬記念かあ〜」
ユーイチは思わずしゃがみ込んで頭を掻いた。いくか来ると分かっていたとはいえ、避けたかった事態だ。
「有馬記念かあ〜」
「有馬記念ですね」
「やるか、やるかぁー！」
もうやるしかないのだ。適正距離がなんだ、100mの壁がなんだ、ここは戦わねばならないのだ。戦わなければ、コントレイルが暗い先の見えない時代に現れたスーパーヒーローだったことを取り戻すことが出来ないのだ。戦って、勝たなければならないのだ。
それに適正距離外での戦いは菊花賞でもう経験した。マイラーが菊花賞を勝つなど如何に世代戦と言えど本来不可能なのだ。
しかし、不可能を可能に出来る存在をユーイチは知っている。
コントレイルと、ヨーイチ。ユーイチのスーパースターと、憧れの人。
ここではもう、三冠馬の立場もディープインパクトの後継種牡馬となることも、何も気にしなくていいし何も考えなくていい。ならユーイチはコントレイルを信じて、コントレイルが不可能を可能にすることを信じるだけだ。
ユキオはユーイチが腹を括ったのを見て、鷹揚に人差し指を障害コースの坂路の方へ向けた。すると、客席がみっちりと埋まり、歓声が響いてくる。中には着物を着ている女性もいた。かつての有馬記念特有の光景であった。コントレイルの知らない光景だった。そして、ユキオの指す先にゲートが出現する。
ユキオは指先をゲートに向けたまま、語りかける。
「コントレイルとユーイチくんには特別に2枠をあげよう」
改修前で内枠有利の中山で随分と余裕だ、とユーイチは一瞬思った。しかし1685年の有馬記念でルドルフが2着馬に4馬身差をつけて大勝したことを思い出し、妥当な自信であると判断した。ラッキーだと思うことにしよう。
しかし、そんなことを黙々と考えているのが読まれたのか、ユキオは「そうじゃないよ」と言った。
「ユーイチくんは枠の有利不利を考えているだろうけどね、そうじゃないんだよ」
「なら、なんやって仰るんです」
「この枠は、ミホシンザンの枠だったんだよ」
ミホシンザン。シンボリルドルフより1つ下の1985世代 で16戦9勝。しかしユキオの意図することはそれではないだろう。
ミホシンザンは、第二代三冠馬のシンザンを父に持ち、親子二代での三冠達成を熱望されたが、怪我でダービーを回避した二冠馬である。
「最強の戦士シンザンの息子であるミホシンザンは名馬だったよ。それは幾度となく戦ってきた者保障出来る。この皇帝たるルドルフの息子、トウカイテイオーも父親によく似た素晴らしい馬だった。それはかつて乗っていた者として保障出来る」
トウカイテイオー。第四代三冠馬のシンボリルドルフを父に持ち、親子二代での三冠達成を熱望されたが、怪我で菊花賞を回避した二冠馬である。
「特にトウカイテイオーに関しては、菊花賞はボクが乗るはずだった。彼はルドルフの子供で、ルドルフに似ている。ボクは負ける気がしなかった。ルドルフに誓って、必ず彼の息子を三冠馬にしてみせると意気込んでいたよ」
それはユキオにとって神に誓うにも等しい、最大級の誓いだったのだろう。もしかしたら、ユーイチがピクシーナイトを通じてキングヘイローへの罪を償いたかったように、トウカイテイオーを通じてシンボリルドルフへの後悔を晴らしたかったのかもしれない。姿こそ若いものの、精神が現代のものであるユキオの表情はあまりに老熟していて、読み取ることは出来ないけれど。
ユキオは老熟した表情で至って穏やかに続ける。
「しかしね、それでもミホシンザンもトウカイテイオーも三冠は取れなかった。怪我でレースに出ることすら不可能だった。そのとき、親子で三冠を獲るのはもう不可能なんじゃないかとさえボクは思ったんだ。でも、コントレイルは三冠を達成しただろう」
老熟した笑みだった。そしてユキオはその腕を大きく広げる。
「だからコントレイルとユーイチくん。君達をルドルフへの挑戦者として歓迎するよ」
ユーイチは一瞬息を呑んだ。そして思わず舌打ちしそうになった。実際には唇を噛んだだけだと思ったが、もしかしたらユキオを睨みつけていたかもしれない。
つまり、ユキオの言いたいことはこうだ。このレースで、コントレイルがあくまで"三冠馬の息子"なのか、ルドルフと同じ"無敗三冠馬"に値するのか、見定めてやる。
今まで戦ったどの三冠馬の騎手より友好的な振る舞いをしつつも、その視線はどの三冠馬の騎手よりも好戦的である。これでこの戦いはコントレイルの三冠馬としての資格を問う戦いになった。元よりそうであったが、決定的に負けられない戦いとなった。
となればユーイチはとにかく分析するしかない。2022年とは状態が違いすぎるため、とにかく情報を集めなければならない。返事もしないまま芝の状態を見始めたユーイチを、ユキオは穏やかに見ている。
ずっと黙っていたコウヘイは、ユキオのその穏やかさの真意が掴めずに腕を摩る。老獪、といえばいいのだろうか。今までずっと冷静で頼もしい先輩であったユーイチがやや感情的になっているのもコウヘイには怖かった。
重い沈黙が長く続いた。コウヘイはレースの緊張感とはまた少し別のデリケートな空気のひりつきすら感じた。
そしてユーイチが静かに「お待たせしました」と言った。「そうか。なら始めようか」とユキオが返す。ユキオがシンボリルドルフに跨り、軽やかにゲートに入っていく。コントレイルとユーイチはその後でゲート入りした。
「帝王は皇帝を超えたか、偉大な父を子は超えたか、ね………」
そんなユキオの呟きが、馬具のなる音や馬達の吐息に紛れて聞こえた。
疫病封鎖地域日本・第4戦
A.D.1985 白雲孤飛交戦有馬記念 そして継承の果てに
現在と当時とではあまりに芝の状態が異なる。それがこの特異点の芝を見たユーイチの率直な感想であった。現在の整備されきった青々とした芝と違い、芝がくすんで枯れている。戦略以前に、まずコントレイルがこの古い芝への適性があるのかという問題があった。コントレイルの本領は良馬場である。現在の状況では芝をどうこう言ってられる状況ではあるが、だからこそ胃が痛い問題である。
ユーイチの手が硬い枯れた芝ににめり込んだその時、手の中の感覚が変わった。そう、それは例えるなら現在の芝であった。
「！？」
『叫ぶな』
ユーイチが大声をあげそうになったその時、更に鼓膜に懐かしい声が響いた。その懐かしい声は矢継ぎ早にユーイチに指示を下していく。
『叫ぶな、動くな。喋るのもダメだ。今まで通り芝の状態を見ている風を装ってくれ。その内、触覚と聴覚だけじゃなくて視覚と嗅覚もジャックするから驚くだろうけど、絶対にそんな素振り見せないでくれ。あとそっちで喋ろうと思った内容はちゃんとこっちに伝わってくるから喋らないでくれ』
その声が示す通り、ユーイチの視界に見える中山競馬場は、建物設備は1985年のものであるに、芝は完全に現代のものというキメラのような光景に変化した。
『……お前、ダイチか？』
『まずそこから確認するのかよ。そうだよ、お前の同期のダイチだ。同期しか知らないお前の黒歴史でも話そうか？』
『いや、それはいらん。なんでこの特異点のこと把握しとるんや」
『この特異点ってどっちのこと？ 大元の歴代三冠騎手が作った特異点の方は岡田さんが夢枕に立って改変から逃してくれた。この特異線の方はヒデノリが魔眼を使って特定した。俺もヒデノリも三冠を取ってないから介入できないみたいなんだけど、協力するよ』
申し訳なさと誠実さが滲む語り口。間違いない、この声の主は柴田ダイチだ。気が張り詰めていたところに思わぬ旧知が現れ、それはとてつもない安堵となった。
『そんで、この特異点の芝を現代に置き換えてるっちゅうことか？』
『いや、特異点の根底に関わるからそこまではできない。ごめんな』
『福永さん、聞こえますか？ ヒデノリです。特異点の芝を置き換えられるん代わりに、ユタカさんが介入した分だけ武家の魔法が使われとるので、そこをハッキングしてして福永さんとコントレイルくんの体を媒体として、接するところだけテクスチャを重ねて置き換えます』
『なるほどな』
理論が理解できたので、ユーイチはこの芝、この特異点の芝ではなくコントレイルが走るテクスチャの芝の状態を見始めた。ユーイチはコントレイルの主戦騎手であると同時に、神秘の破壊者、魔術師殺しと名高いロード福永二世である。それを実行できるかどうかは別として、魔術の仕組みの理解には人一倍優れていた。
『そのやり方やったらピッタリ合うテクスチャを作るために、この時代の芝のデータ、出来れば1985年の有馬記念その時の芝のデータが必要やろ。それはどないしてるん』
『それに関しては、』
『俺が協力したよ。1985年の有馬記念の、ミホシンザンの記憶を俺が提供したよ』
ヒデノリの言葉を遮って、新たな声がした。その声はユーイチにとってダイチ同様懐かしい、いやダイチ以上に懐かしい声だった。
『柴田さん…』
柴田マサト。ミホシンザンの主戦騎手。ユーイチの父ヨーイチの親友。ユーイチが騎手になろうとするのを引き止め、そして背を押した人。
『岡部の気持ちも分かるからねぇ。最初は断ったんだけども、ダイチに『過ちを犯そうとするのを止めずして何が同期だ！』って怒られちゃったんだよ』
『やめてください柴田さん、そんな言い方してません』
『じゃあなんて言うたんや』
芝の様子を見ながらユーイチは尋ねる。ユーイチの問いにダイチは答えるのを渋る。すると代わりにダイチの声がした。
『『おれも、今は同期のしようとしてることを応援してます。でも、それは同期がしようとしてることが正しいと思っているからです。普段はあいつはアホみたいな特異点ばっかり作りやがって、そのたんびにそれを修正して馬鹿なことすんじゃねえって言ってます。同期が間違ったことしようとしてたら、止めてやるのも情ってものじゃないですか』…ですね』
『いやあ、あれはぐっと来ちゃったよ』
『揶揄わないでください！』
ダイチは堪えきれなくなって大声をあげたが、一拍置いて冷静になったのか、静かな声で本題を切り出した。
『もし、ユーイチが信じられないなら、今お前に起きてることを岡部さんに報告しても良い。バラしちゃっても良い。姿が見えない俺たちのこと、信じられなくて当然だと思う。黒歴史バラすなりなんだりしたって、俺たちが本物だって証明するには足りない。信じて欲しい、信じて欲しいけど、お前とコントレイルの大事な思い出が掛かってるんだ、恨みっこなしだ。どうする、ユーイチ』
『どうするもこうするも……』
ダイチの言う通りだ。この一戦にはコントレイルとの思い出が、コントレイルの実績が、コントレイルの名誉が掛かっているのだ。友人の声がしたからと言って信じるのは妥当ではない。しかし、コントレイルに慣れない芝を走らせるリスクもある。
あれこれ考えた上で、蘇ってくるのはこれまでの思い出であった。
『信じるに決まっとるやろ。俺のこれまでの人生が、間違いない言うとる。信じろ言うとる。ヒデ、コントレイルにもきちっとテクスチャ重ねるんやで。ロードの目は誤魔化せんからな！』
『勿論です！ 武家の名誉にかけて任せてください』
『当たり前やこちとらコントレイルの名誉が掛かっとんのやぞ！』
ヒデノリの威勢のいい言葉に対して、ユーイチからガラの悪い関西弁が飛び出した。向こうで笑う気配がある。笑って柔らかくなった声でマサトが言った。
『こちらからも頼んだよ、コントレイル、ユーイチくん。二人なら大丈夫。ミホシンザンの仇をとってくれ。……もう大丈夫かね。さあ、行っておいで』
『はい』
マサトの言う通り、もう完了していた。ようやくユーイチは口を開く。
「お待たせしました」
すると「そうか。なら始めようか」とユキオが返す。ユキオがシンボリルドルフに跨り、軽やかにゲートに入っていく。コントレイルとユーイチはその後でゲート入りした。
「帝王は皇帝を超えたか、ね………」
そんなユキオの呟きが、馬具のなる音や馬達の吐息に紛れて聞こえた。
…………………………
そしてガコンとゲートの開く音。旗が上がる。発走だ。
「スタートしました、全馬一斉にスタートしました。早いペースでぐんぐんと行きます」
コントレイルのスタートは良好。偶数番目なので後から入ることができたのもあっただろう。上がっていくシンボリルドルフを確認して、マークしようとしたところでユーイチは異変に気づいた。
「おおっとルドルフが行きました」
実際のレース同様好位につけるかと思われたシンボリルドルフが軽やかに馬群を抜けハナを取った。カネクロシオの1馬身前の外につき、そのまま馬なりで先導していく。ユーイチはコントレイルを向かわせる方向を変え、5番手に控えさせた。
シンボリルドルフといえば4角好位抜け出しであるが、それでしか勝てないわけでは無い。むしろ、ありとあらゆる勝ち方が出来るからこそ、つまらないと呼ばれるほど1番確かな勝ち方を選んでいるのである。勝ち方を極めたい、というキャッチコピーはこのことをよく表していた。
しかし今回の形式ではコントレイル以外実際のレースと全く同じ動きをする。コントレイルが同じように飛び出してこない限り、ハナの奪い合いで競ることも番手につけた馬に突かれることもない。馬群の中で身動きが取れなくなった場合他の馬に動いてもらい抜け出すことができないことを考えると、この形式においては逃げは1番自由に走ることが出来る脚質である。
そしてこれにはパフォーマンスとしての意味合いもある。シンボリルドルフは逃げで勝ったことがあるが、コントレイルにはない。ユキオが三冠馬としての素質を問うと言ったのは本気であった。
「先頭のシンボリルドルフ、グングンと飛ばしていきます。グングンと飛ばしていきます。2番手には僅かにカネクロシオ、スダホークが3番手」
コントレイルはつられずに落ち着いて中団で競馬を進めている。おおよそ、実際のレースでシンボリルドルフがいたのよりやや内の位置。逃げ馬が飛び出しても動揺しない様子はラストランの2021年ジャパンカップの姿を彷彿とさせた。
「ギャロップダイナが早めに上がってきますが、今一周目の第四コーナーですが依然としてシンボリルドルフ先頭。ペースメーカー、カネクロシオ、3番手にはギャロップダイナ、その後ろに"一頭"付けています」
データ派のユーイチから見てもシンボリルドルフは実に手本のような勝ち方をする。であればそれを利用しない手は無い。
問題は仕掛けるタイミングだ。
1985年の有馬記念のタイムは2:33.1。レコードを出した前年を除くと当時の有馬記念は2分33秒後半台の決着が多かったのでややハイペースであったと言えよう。一方ルドルフが中山2500mを逃げで勝った日経賞のタイムは2:36.2でかなりスローである。スローペースの中山2500をノーステッキで圧勝したとしても、縦に広がったハイペースなら逃げは不利になるはずである。
であれば、脚が鈍ったところを末脚で差す。
ユーイチはゆっくりコントレイルを馬群の先頭に持ち出した。
「ローラーキングがこれを追走しますが、前はぐんぐん飛ばしていきます。シンボリルドルフに続いてカネクロシオがグングンと行きますが、今度はギャロップダイナ先頭です」
シンボリルドルフは上り坂で無理にペースをあげようとはせず、ギャロップダイナにハナを譲った。しかし1400m地点でシンボリルドルフたち先を行く三頭はコントレイルのいる後続集団に5馬身から6馬身の差を付けている。
シンボリルドルフは下り坂を利用して向正面で再びハナを奪い返した。ハナ差、首差、体半分、とギャロップダイナとの差を伸ばしていく。コントレイルも第3コーナーに差し掛かろうとするところで先頭集団に追いつくがまだシンボリルドルフには届かない。
「ギャロップダイナ、ギャロップダイナ3番手、残り600mを切りました」
コントレイルは第3コーナーでするりと馬群を抜け第四コーナーで馬群の先頭に立つ。後はとにかくシンボリルドルフとの距離を詰めるだけだ。残り約400m。ユーイチは鞭を入れた。
「外から一頭、外から一頭、うちからギャロップダイナ、内からギャロップダイナ！ シンボリルドルフ未だ1馬身のリード、1馬身のリード。シンボリルドルフ、逃げ切るか」
コントレイルが距離を詰めたのに合わせてユキオが鞭を入れる。すぐに反応があるものの加速の程度はやや鈍い。じわりじわりとコントレイルは差を詰めていく。
「さあ最終直線だ、完全に二頭の戦いになった。シンボリルドルフ逃げ切るか、もう一頭が差し切るか」
三冠馬の仔は数多くいる。しかし、"三冠馬の仔"と幾度となく呼ばれてきたのは、ミホシンザンと、トウカイテイオーと、コントレイル。この三頭。それはかつては称賛の言葉として使われたが、コントレイルには非難の言葉として使われた。そう、新しい時代が来ているのだ。そして新しい時代を到来させたのは、三冠馬の仔であり、三冠馬である、コントレイルである。
かつて、多くの帝国が革命によって終わったように。
皇帝の時代が終わり、新しい時代が来る。
それは、コントレイルが三冠馬の仔であり、三冠馬であるが故に。
コントレイルの溜めた脚はユーイチの鞭によく反応した。最終直線の坂に入るとシンボリルドルフの脚の鈍りは明確なものになる。急斜面が終わったところでコントレイルはシンボリルドルフを交わした。
残り約100mはなだらかな上がり坂。しかしここでシンボリルドルフは僅かに再加速する。ユーイチが鞭を入れる、ユキオが鞭を入れる、コントレイルが走る、シンボリルドルフが走る。
そして二頭がゴール板を通過する。
掲示板にはすぐに着順が表示された。ゆっくりと減速して止まろうとするコントレイルの背からユーイチはそれを見つめた。I 2-クビ-II 6。コントレイルの勝利だ。コントレイルが先頭を守り、シンボリルドルフが差し返すのは間に合わなかった。
掲示板の表示を見上げるユキオの拳が震えている。あまりに強く握りしめているので、よく日に焼けた肌が白くなっていた。
「……柴田がそちらに協力したね」
「あ、だから」
「……」
思わずと言ったふうに声が漏れてしまったコウヘイは、ユーイチが無言のままであるのを見て黙り込んだ。
「コントレイルがあまりにこの芝に適応できすぎているからね。あの日の有馬記念のミホシンザンの記憶をもとに今この日のこの芝をデータ化して演算により2020年の芝に置換し、それをテクスチャとしてコントレイルとユーイチくんに重ねたというところかな」
図星であった。そして、いつまでたっても強制レイシフトが開始しないその意味をユーイチは考え始めていたころだった。
「やり直さなあかんですか」
しかしユキオは硬く握りしめたその手をゆっくりと開き、鷹揚にユーイチを手を差し出した。ユーイチはその差し出された手を握った。
「いいや。ルドルフはルドルフの馴染んだ芝で走るのに、コントレイルは知らない芝で走らなければならないのは不公平じゃないか。ルドルフはルドルフと時代の芝で走り、コントレイルはコントレイルの芝で走ったんだ。だからフェアだ」
ユキオはユーイチの手を強く握った。
「認めるよ、コントレイル。君は強い」
それを聞いた瞬間、ユーイチは当然だと思う気持ちと、コントレイルが正当な評価を得た喜びと、コントレイルの足を引っ張らなかった安堵と、とかく様々な感情が込み上げてきた。
「そうです、そう、そうなんです。コントレイルは強い、強くて、ほんまにすごい馬なんです」
ユーイチのその言葉を聞いて、ユキオはやはり悔しそうだった。シンボリルドルフは強い、強いのだ。しかしここで勝者を称えないことは皇帝の強さを腐す行為だ。悔しさを全身に滲ませ、握手する右手を硬くしながら、それでも皇帝の騎手に相応しく振る舞った。
ユキオはゆっくりと手を離し、シンボリルドルフを撫でた。ユーイチもコントレイルを撫でる。コントレイルは耳を絞っていて、すっかり疲れているようだった。何せ適正外の距離を走ったのだ。
しばらくそのまま穏やかな時間を流れる。最初は休息が取れたと喜ばしく感じていたユーイチも流石に違和感を覚え始める。コウヘイも同じことを思っていたらしい、口火を切った。
「どうして、レイシフトが起きないんでしょうか」
「あぁ…。明らかに今までとはちゃう。なんやおかしい」
この勝利によって今までの戦いであれば、閃光に包まれ、レイシフトが開始したはずだ。それが一向に始まらない。それはつまりコントレイルの疲労がリセットされないことを意味する。耳を絞ったコントレイルを見ていると、レイシフトがいつまで経ってもこないことへの焦りを感じる。
しかしそばにいる人間がピリピリしていると馬へのストレスとなる。ユーイチは少し深呼吸した。
「岡部さん、なんや知りませんか。今までやったらすぐレイシフトが始まって、コントレイルの疲労がリセットかれるんです」
「申し訳ないけれど、ボクもさっぱり」
そう言って彼はシンボリルドルフをコウヘイに託すとゆっくりと歩いてコントレイルとシンボリルドルフから距離を取った。そして馬を刺激しないだけ離れたら、天に向かって大声を上げた。
「どうなっているんだ、ユタカくん！」
しかし返事はない。じわじわとユーイチは焦っていく。
「どういうこっちゃ、なんで特異点が修正されへんのや！ 根っこは絶ったはずやろ！」
「根っこ？」
「特異点の大元となる思いとか、願いとか、役目とか、望まれたことのことや。レースに勝ってそれを打ち負かすことで特異点は修正される。なんべん俺の楽しみがリュージとダイチにやられたか」
「なら、この特異点の根は断たれていない…？」
コウヘイの呟きを聞いて、ユーイチは今までのレースを思い返す。
アーモンドアイとの第一戦、核はおそらく"三冠馬二頭に相応しい歓声を"。そして過去、あの特異点から見ると未来を掛けて戦い、勝利して核を絶った。ジェンティルドンナとの第二戦も、スティルインラブとの第三戦も同じ。
今までのレースを、特にはっきり対戦相手が望みを口にした二戦をコウヘイは思い返した。そして、あることに気づき声を上げた。
「待ってください、今回のレースで掛けられたのは"コントレイルが無敗三冠馬に値するか否か、ただの三冠馬の子か"です。"三冠馬二頭に相応しい歓声を"という願いは」
「！ 断たれていない。せやったらもう一回戦わなあかんのか！？ 全力でレースしたばっかりやぞ！」
ユーイチは悲鳴を上げた。コントレイルは既に疲労している。脚部不安を抱えたコントレイルが、既に全力で2500mを走った後に更に2500m。レイシフトごとに疲労がリセットされるとはいえ、レイシフトごとにしか疲労はリセットされないのだ。
阿鼻叫喚のユーイチとコウヘイの方へユキオはゆっくりと歩み寄ってくる。ちらりと疲労が滲むコントレイルとシンボリルドルフの姿を見て、ユキオは問うた。
「どうしても、三冠達成に相応しい歓声があったこの世界を修正しなければならないかい」
「あの時代、あの環境下で、確かにタクトと僕が、コントレイルと福永さんがやり遂げたんです。誰にも奪わせません」
「事実としてあんとき三冠取ったんや。お膳立てされた嘘なんていらんのです」
コウヘイもユーイチも即答だった。ユキオは一瞬気圧されたように黙った。
が、やがて、ぽつり、と言葉をこぼした。
「ユーイチくんが三冠を取った後、久しぶりに福永の家で同期で集まって飲んだんだよ」
慈しむような、噛み締めるような語り口だった。唐突な語りにコウヘイは困惑した。この特異点では、コウヘイのわからないことばかりだ。
ヨーイチ。福永ヨーイチ。天才騎手。ユキオとマサトの同期で、馬事公苑花の十五期の一員。そして、ユーイチの父。
「柴田がレース映像流そうって言うもんだから、ヨーイチの奥さんがホームビデオ出してくれたんだよ。テレビの方の映像はもう何遍も見てたから、嬉しかったよ。皐月賞のはなかったけど、ダービーと菊花賞の時にユーイチくんの奥さんが現地で撮ったやつ」
現実では。現実の、2020年では。ユーイチの妻ミドリは無観客開催のせいでダービーを見にくることは叶わなかった。
「菊花賞の映像には、会場いっぱいの割れるような福永コールが入っていて、その隙間隙間に撮影してるユーイチくんの奥さんの鼻を啜る音が混じっていてね。そしたらヨーイチの奴、本当に嬉しそうで、ちょっと泣いてなんかいたんだよ。そしたらみぃんな釣られて泣き出して。かく言うボクも、それが観客席で撮影したのだったから、ボクがこの世界の菊花賞の中継で聞こえてきたコールよりもっと鮮明で、もっと大きかったから、なんだか涙出てきちゃってね。本当に、本当に、ヨーイチが喜んでて」
そこでユキオはユーイチを見た。視線は言葉より雄弁だった。
その喜びを犠牲にしても、この世界は修正しなければならないのか？
ユーイチは静かに答えた。
「親父は、コールなんかなかった現実の世界でも喜んでくれました」
そう。ヨーイチは、ユーイチの父親は、ユーイチの憧れの人は、喜んだのだ。喜んでくれたのだ。それは確かな現実だったのだ。
その言葉を聞いて、ユキオはふっと息を漏らし、「そうか、………そうか。親なんだもんなあ」と眉を下げた。「親なんだもんなあ」と噛み締めるようにもう一度繰り返した。
そしてその瞬間、世界が光り輝き始めた。強制レイシフトだ。あたりが明るく、真っ白になっていく。
「あぁ、そうだ、最後に。コントレイル。君はルドルフと同じ無敗の三冠馬で、ディープインパクトの孝行息子だ。誇んなさい。頭の良い君ならこれくらいの日本語ならわかるだろう？」
コントレイルが返事をする様に一鳴きした。まるで、そんなの知ってるよ、と言っているようだった。閃光の向こうでよく見えなかったけれど、ユキオが微笑んだような気がした。
…………………………
薄暗く、会議室のような空間に人影が10個。丸いデスク−−円卓には12個の椅子が並ぶ。ぐったりと椅子に身を預けている者もいれば、組んだ手に口元を寄せて淡々とホログラムを見ている者もいる。その中で一つの人影が一際鋭い目でホログラムを鋭い目で見ている。
そのひりついた雰囲気に気付かないのか気遣ったのか、隣に座する赤いジャンパーの男が親しげに話しかけた。
「なんや、今までの特異点とはちゃいましたね」
「折角自分で手ェ加えたんや。変えんと手ェ出した意味あらへんやろ」
「そんなこと出来るんですか？」
「武家の秘術のひとつや。せやから武家の魔術を扱える人間がハッキングしよった。抜かったわ」
「コウシロウさんか、ヒデですか？」
「いや……」
ヒデノリの魔眼によって特異点を覗かれた感覚はあり、ハッキングを受けた時に感じた魔力はヒデノリのものだ。しかしヒデノリは身体強化に特化した魔術師である。ヒデノリ一人の力で、ユタカの作成した特異点にいるユーイチとコントレイルの五感をジャック出来る訳がない。何者か、しかもユタカの魔法、ひいては武家の魔法に精通した何者かの介入があったと見て間違い無いだろう。魔法は一子相伝だ、そんな人間は一人しかいない。
ユタカの父、クニヒコ。
ユタカは世界でも指折りの魔術師でありながら、騎手として現役の為体に多大な負担を掛ける魔術刻印の移植をまだしていない。武家の歴史が刻まれた魔術刻印はクニヒコの元にある。故に他の魔術の扱いならともかく、武家の魔法の扱いならクニヒコの方が一枚上だ。
問題はクニヒコの介入だけでない。
「ユーイチ、全く揺らがんかったなあ」
「そうでしたね。コウヘイも即答やった。あー、俺ちゃんとコウヘイを説得出来るんかなあ」
「出来んかったら勝てばええんや」
「分かってますって」
赤いジャンパーの男はニヤリと笑った。良き先輩としての顔から勝負師の顔に鮮やかに表情が変わる。彼のこういうところは本当に信頼できる。だからこそ、本来の計画ではケンイチを最後の一撃とする予定であった。
コントレイルに適正距離外の距離を走らせ、ユーイチに精神的に揺さぶりをかける。勝敗がどうであれ、ユキオが円卓に加わった動機を語らねば特異点が修正されないようにしておく。そして、この世界での家族の話を聞かせて、心変わりさせる。この世界でも守るべきものがあると分かれば、流石にユーイチも心が揺らぐと思ったのだ。ユーイチが折れたのなら、ケンイチを出してコウヘイも折れば良い。それがキゾウとは別にユタカが独自に立てた計画であった。
ユタカは目を閉じた。
『親父は、コールなんかなかった現実の世界でも喜んでくれました』というユーイチの声が蘇る。
どうして、どうしてあんな世界を受け入れてしまうのだ。どうして、どうしてコントレイルが、ユーイチが、ヨーイチが本当なら得られたはずのものに手を伸ばさないのだ。ヨーイチへの敬愛であり、コントレイルへの親愛であり、ユーイチへの憤りでもあるその気持ちは、クニヒコが介入してきたことによる焦りと共に喉の奥でぐるぐるととぐろを巻く。ユタカはぐっと飲み込んで腹に据えた。
「状況が変わった。プランを切り替える」
「じゃあ俺の出番は後回しですね」
「おん。悪いなあ」
「別に全然大丈夫っすわ。次はどうなるんですか？」
「ナリタブライアンと南井さんや。そんでその次に回ってきたらディープと俺や」
競馬に携われる人間として馬を潰すわけにいかない。だから、代わりに人間を潰す。適正外の距離を連続で走らせ、ユーイチを動揺させ、ディープで徹底的に折る。
「今度こそ、ユーイチを潰すで」
物騒なことを口走るユタカを、冷え冷えとした二つの目が見つめていた。
「敬愛と親愛に、足元を掬われないようにって言ったんだけれどもね……」
人間も馬も繰り返していくうちに学習するものだ。戦いを終え目の前が真っ白になった瞬間にレイシフトが来るぞと分かる。ふわりと浮遊感が体を包んだ瞬間にユーイチは体勢を整え、地面に叩きつけられた瞬間に受け身を取った。
ユーイチがあたりをぐるりと見回すと、最終直線が短く、急坂がある特徴的なコースだ。クリスタルスタンドはあるものの、スタンドの姿は見慣れたものとは違う。
少し離れたところに着地していたらしいコウヘイが駆け寄ってきた。
「ここって中山競馬場ですよね」
「ああ……。ほんでもってクリスタルスタンドがあるから1984年以降で、今とスタンドがちゃうから1988年以前やろな」
「となると、対戦相手はミスターシービー、シンボリルドルフ、メジロラモーヌの内一頭ですね。シービーだったら菊花か秋天でしょうから、更に絞り込んで2択」
「ラモーヌやったらデアリングタクト、ルドルフやったらコントレイル……がええんやろなぁ……」
ユーイチは苦い顔をした。コントレイルには2500mは長い上、しかも改修前で枠の有利不利が激しい中山競馬場となるともっと厳しい。しかし、そもそも2400m以上を走ったことのないデアリングタクトと3000mを走り切ったコントレイルとなら、出るべきはコントレイルである。
すると、ユーイチの背後から声が掛けられた。
「ようこそ、君たちがルドルフに挑もうとする挑戦者だね」
関西訛りのない標準語。ルドルフ。そこに現れたのは、若き日の岡部ユキオだった。ユーイチの幼少期の記憶に残ってはいないが、幼少期の記録に残っている姿と一致している。コウヘイは自分が生まれる前の姿のユキオとはいえ、ルドルフと聞いて確信を持ったのだろう。断言した。
「有馬記念ですね」
「有馬記念かあ〜」
ユーイチは思わずしゃがみ込んで頭を掻いた。いくか来ると分かっていたとはいえ、避けたかった事態だ。
「有馬記念かあ〜」
「有馬記念ですね」
「やるか、やるかぁー！」
もうやるしかないのだ。適正距離がなんだ、100mの壁がなんだ、ここは戦わねばならないのだ。戦わなければ、コントレイルが暗い先の見えない時代に現れたスーパーヒーローだったことを取り戻すことが出来ないのだ。戦って、勝たなければならないのだ。
それに適正距離外での戦いは菊花賞でもう経験した。マイラーが菊花賞を勝つなど如何に世代戦と言えど本来不可能なのだ。
しかし、不可能を可能に出来る存在をユーイチは知っている。
コントレイルと、ヨーイチ。ユーイチのスーパースターと、憧れの人。
ここではもう、三冠馬の立場もディープインパクトの後継種牡馬となることも、何も気にしなくていいし何も考えなくていい。ならユーイチはコントレイルを信じて、コントレイルが不可能を可能にすることを信じるだけだ。
ユキオはユーイチが腹を括ったのを見て、鷹揚に人差し指を障害コースの坂路の方へ向けた。すると、客席がみっちりと埋まり、歓声が響いてくる。中には着物を着ている女性もいた。かつての有馬記念特有の光景であった。コントレイルの知らない光景だった。そして、ユキオの指す先にゲートが出現する。
ユキオは指先をゲートに向けたまま、語りかける。
「コントレイルとユーイチくんには特別に2枠をあげよう」
改修前で内枠有利の中山で随分と余裕だ、とユーイチは一瞬思った。しかし1685年の有馬記念でルドルフが2着馬に4馬身差をつけて大勝したことを思い出し、妥当な自信であると判断した。ラッキーだと思うことにしよう。
しかし、そんなことを黙々と考えているのが読まれたのか、ユキオは「そうじゃないよ」と言った。
「ユーイチくんは枠の有利不利を考えているだろうけどね、そうじゃないんだよ」
「なら、なんやって仰るんです」
「この枠は、ミホシンザンの枠だったんだよ」
ミホシンザン。シンボリルドルフより1つ下の1985世代 で16戦9勝。しかしユキオの意図することはそれではないだろう。
ミホシンザンは、第二代三冠馬のシンザンを父に持ち、親子二代での三冠達成を熱望されたが、怪我でダービーを回避した二冠馬である。
「最強の戦士シンザンの息子であるミホシンザンは名馬だったよ。それは幾度となく戦ってきた者保障出来る。この皇帝たるルドルフの息子、トウカイテイオーも父親によく似た素晴らしい馬だった。それはかつて乗っていた者として保障出来る」
トウカイテイオー。第四代三冠馬のシンボリルドルフを父に持ち、親子二代での三冠達成を熱望されたが、怪我で菊花賞を回避した二冠馬である。
「特にトウカイテイオーに関しては、菊花賞はボクが乗るはずだった。彼はルドルフの子供で、ルドルフに似ている。ボクは負ける気がしなかった。ルドルフに誓って、必ず彼の息子を三冠馬にしてみせると意気込んでいたよ」
それはユキオにとって神に誓うにも等しい、最大級の誓いだったのだろう。もしかしたら、ユーイチがピクシーナイトを通じてキングヘイローへの罪を償いたかったように、トウカイテイオーを通じてシンボリルドルフへの後悔を晴らしたかったのかもしれない。姿こそ若いものの、精神が現代のものであるユキオの表情はあまりに老熟していて、読み取ることは出来ないけれど。
ユキオは老熟した表情で至って穏やかに続ける。
「しかしね、それでもミホシンザンもトウカイテイオーも三冠は取れなかった。怪我でレースに出ることすら不可能だった。そのとき、親子で三冠を獲るのはもう不可能なんじゃないかとさえボクは思ったんだ。でも、コントレイルは三冠を達成しただろう」
老熟した笑みだった。そしてユキオはその腕を大きく広げる。
「だからコントレイルとユーイチくん。君達をルドルフへの挑戦者として歓迎するよ」
ユーイチは一瞬息を呑んだ。そして思わず舌打ちしそうになった。実際には唇を噛んだだけだと思ったが、もしかしたらユキオを睨みつけていたかもしれない。
つまり、ユキオの言いたいことはこうだ。このレースで、コントレイルがあくまで"三冠馬の息子"なのか、ルドルフと同じ"無敗三冠馬"に値するのか、見定めてやる。
今まで戦ったどの三冠馬の騎手より友好的な振る舞いをしつつも、その視線はどの三冠馬の騎手よりも好戦的である。これでこの戦いはコントレイルの三冠馬としての資格を問う戦いになった。元よりそうであったが、決定的に負けられない戦いとなった。
となればユーイチはとにかく分析するしかない。2022年とは状態が違いすぎるため、とにかく情報を集めなければならない。返事もしないまま芝の状態を見始めたユーイチを、ユキオは穏やかに見ている。
ずっと黙っていたコウヘイは、ユキオのその穏やかさの真意が掴めずに腕を摩る。老獪、といえばいいのだろうか。今までずっと冷静で頼もしい先輩であったユーイチがやや感情的になっているのもコウヘイには怖かった。
重い沈黙が長く続いた。コウヘイはレースの緊張感とはまた少し別のデリケートな空気のひりつきすら感じた。
そしてユーイチが静かに「お待たせしました」と言った。「そうか。なら始めようか」とユキオが返す。ユキオがシンボリルドルフに跨り、軽やかにゲートに入っていく。コントレイルとユーイチはその後でゲート入りした。
「帝王は皇帝を超えたか、偉大な父を子は超えたか、ね………」
そんなユキオの呟きが、馬具のなる音や馬達の吐息に紛れて聞こえた。
疫病封鎖地域日本・第4戦
A.D.1985 白雲孤飛交戦有馬記念 そして継承の果てに
現在と当時とではあまりに芝の状態が異なる。それがこの特異点の芝を見たユーイチの率直な感想であった。現在の整備されきった青々とした芝と違い、芝がくすんで枯れている。戦略以前に、まずコントレイルがこの古い芝への適性があるのかという問題があった。コントレイルの本領は良馬場である。現在の状況では芝をどうこう言ってられる状況ではあるが、だからこそ胃が痛い問題である。
ユーイチの手が硬い枯れた芝ににめり込んだその時、手の中の感覚が変わった。そう、それは例えるなら現在の芝であった。
「！？」
『叫ぶな』
ユーイチが大声をあげそうになったその時、更に鼓膜に懐かしい声が響いた。その懐かしい声は矢継ぎ早にユーイチに指示を下していく。
『叫ぶな、動くな。喋るのもダメだ。今まで通り芝の状態を見ている風を装ってくれ。その内、触覚と聴覚だけじゃなくて視覚と嗅覚もジャックするから驚くだろうけど、絶対にそんな素振り見せないでくれ。あとそっちで喋ろうと思った内容はちゃんとこっちに伝わってくるから喋らないでくれ』
その声が示す通り、ユーイチの視界に見える中山競馬場は、建物設備は1985年のものであるに、芝は完全に現代のものというキメラのような光景に変化した。
『……お前、ダイチか？』
『まずそこから確認するのかよ。そうだよ、お前の同期のダイチだ。同期しか知らないお前の黒歴史でも話そうか？』
『いや、それはいらん。なんでこの特異点のこと把握しとるんや」
『この特異点ってどっちのこと？ 大元の歴代三冠騎手が作った特異点の方は岡田さんが夢枕に立って改変から逃してくれた。この特異線の方はヒデノリが魔眼を使って特定した。俺もヒデノリも三冠を取ってないから介入できないみたいなんだけど、協力するよ』
申し訳なさと誠実さが滲む語り口。間違いない、この声の主は柴田ダイチだ。気が張り詰めていたところに思わぬ旧知が現れ、それはとてつもない安堵となった。
『そんで、この特異点の芝を現代に置き換えてるっちゅうことか？』
『いや、特異点の根底に関わるからそこまではできない。ごめんな』
『福永さん、聞こえますか？ ヒデノリです。特異点の芝を置き換えられるん代わりに、ユタカさんが介入した分だけ武家の魔法が使われとるので、そこをハッキングしてして福永さんとコントレイルくんの体を媒体として、接するところだけテクスチャを重ねて置き換えます』
『なるほどな』
理論が理解できたので、ユーイチはこの芝、この特異点の芝ではなくコントレイルが走るテクスチャの芝の状態を見始めた。ユーイチはコントレイルの主戦騎手であると同時に、神秘の破壊者、魔術師殺しと名高いロード福永二世である。それを実行できるかどうかは別として、魔術の仕組みの理解には人一倍優れていた。
『そのやり方やったらピッタリ合うテクスチャを作るために、この時代の芝のデータ、出来れば1985年の有馬記念その時の芝のデータが必要やろ。それはどないしてるん』
『それに関しては、』
『俺が協力したよ。1985年の有馬記念の、ミホシンザンの記憶を俺が提供したよ』
ヒデノリの言葉を遮って、新たな声がした。その声はユーイチにとってダイチ同様懐かしい、いやダイチ以上に懐かしい声だった。
『柴田さん…』
柴田マサト。ミホシンザンの主戦騎手。ユーイチの父ヨーイチの親友。ユーイチが騎手になろうとするのを引き止め、そして背を押した人。
『岡部の気持ちも分かるからねぇ。最初は断ったんだけども、ダイチに『過ちを犯そうとするのを止めずして何が同期だ！』って怒られちゃったんだよ』
『やめてください柴田さん、そんな言い方してません』
『じゃあなんて言うたんや』
芝の様子を見ながらユーイチは尋ねる。ユーイチの問いにダイチは答えるのを渋る。すると代わりにダイチの声がした。
『『おれも、今は同期のしようとしてることを応援してます。でも、それは同期がしようとしてることが正しいと思っているからです。普段はあいつはアホみたいな特異点ばっかり作りやがって、そのたんびにそれを修正して馬鹿なことすんじゃねえって言ってます。同期が間違ったことしようとしてたら、止めてやるのも情ってものじゃないですか』…ですね』
『いやあ、あれはぐっと来ちゃったよ』
『揶揄わないでください！』
ダイチは堪えきれなくなって大声をあげたが、一拍置いて冷静になったのか、静かな声で本題を切り出した。
『もし、ユーイチが信じられないなら、今お前に起きてることを岡部さんに報告しても良い。バラしちゃっても良い。姿が見えない俺たちのこと、信じられなくて当然だと思う。黒歴史バラすなりなんだりしたって、俺たちが本物だって証明するには足りない。信じて欲しい、信じて欲しいけど、お前とコントレイルの大事な思い出が掛かってるんだ、恨みっこなしだ。どうする、ユーイチ』
『どうするもこうするも……』
ダイチの言う通りだ。この一戦にはコントレイルとの思い出が、コントレイルの実績が、コントレイルの名誉が掛かっているのだ。友人の声がしたからと言って信じるのは妥当ではない。しかし、コントレイルに慣れない芝を走らせるリスクもある。
あれこれ考えた上で、蘇ってくるのはこれまでの思い出であった。
『信じるに決まっとるやろ。俺のこれまでの人生が、間違いない言うとる。信じろ言うとる。ヒデ、コントレイルにもきちっとテクスチャ重ねるんやで。ロードの目は誤魔化せんからな！』
『勿論です！ 武家の名誉にかけて任せてください』
『当たり前やこちとらコントレイルの名誉が掛かっとんのやぞ！』
ヒデノリの威勢のいい言葉に対して、ユーイチからガラの悪い関西弁が飛び出した。向こうで笑う気配がある。笑って柔らかくなった声でマサトが言った。
『こちらからも頼んだよ、コントレイル、ユーイチくん。二人なら大丈夫。ミホシンザンの仇をとってくれ。……もう大丈夫かね。さあ、行っておいで』
『はい』
マサトの言う通り、もう完了していた。ようやくユーイチは口を開く。
「お待たせしました」
すると「そうか。なら始めようか」とユキオが返す。ユキオがシンボリルドルフに跨り、軽やかにゲートに入っていく。コントレイルとユーイチはその後でゲート入りした。
「帝王は皇帝を超えたか、ね………」
そんなユキオの呟きが、馬具のなる音や馬達の吐息に紛れて聞こえた。
…………………………
そしてガコンとゲートの開く音。旗が上がる。発走だ。
「スタートしました、全馬一斉にスタートしました。早いペースでぐんぐんと行きます」
コントレイルのスタートは良好。偶数番目なので後から入ることができたのもあっただろう。上がっていくシンボリルドルフを確認して、マークしようとしたところでユーイチは異変に気づいた。
「おおっとルドルフが行きました」
実際のレース同様好位につけるかと思われたシンボリルドルフが軽やかに馬群を抜けハナを取った。カネクロシオの1馬身前の外につき、そのまま馬なりで先導していく。ユーイチはコントレイルを向かわせる方向を変え、5番手に控えさせた。
シンボリルドルフといえば4角好位抜け出しであるが、それでしか勝てないわけでは無い。むしろ、ありとあらゆる勝ち方が出来るからこそ、つまらないと呼ばれるほど1番確かな勝ち方を選んでいるのである。勝ち方を極めたい、というキャッチコピーはこのことをよく表していた。
しかし今回の形式ではコントレイル以外実際のレースと全く同じ動きをする。コントレイルが同じように飛び出してこない限り、ハナの奪い合いで競ることも番手につけた馬に突かれることもない。馬群の中で身動きが取れなくなった場合他の馬に動いてもらい抜け出すことができないことを考えると、この形式においては逃げは1番自由に走ることが出来る脚質である。
そしてこれにはパフォーマンスとしての意味合いもある。シンボリルドルフは逃げで勝ったことがあるが、コントレイルにはない。ユキオが三冠馬としての素質を問うと言ったのは本気であった。
「先頭のシンボリルドルフ、グングンと飛ばしていきます。グングンと飛ばしていきます。2番手には僅かにカネクロシオ、スダホークが3番手」
コントレイルはつられずに落ち着いて中団で競馬を進めている。おおよそ、実際のレースでシンボリルドルフがいたのよりやや内の位置。逃げ馬が飛び出しても動揺しない様子はラストランの2021年ジャパンカップの姿を彷彿とさせた。
「ギャロップダイナが早めに上がってきますが、今一周目の第四コーナーですが依然としてシンボリルドルフ先頭。ペースメーカー、カネクロシオ、3番手にはギャロップダイナ、その後ろに"一頭"付けています」
データ派のユーイチから見てもシンボリルドルフは実に手本のような勝ち方をする。であればそれを利用しない手は無い。
問題は仕掛けるタイミングだ。
1985年の有馬記念のタイムは2:33.1。レコードを出した前年を除くと当時の有馬記念は2分33秒後半台の決着が多かったのでややハイペースであったと言えよう。一方ルドルフが中山2500mを逃げで勝った日経賞のタイムは2:36.2でかなりスローである。スローペースの中山2500をノーステッキで圧勝したとしても、縦に広がったハイペースなら逃げは不利になるはずである。
であれば、脚が鈍ったところを末脚で差す。
ユーイチはゆっくりコントレイルを馬群の先頭に持ち出した。
「ローラーキングがこれを追走しますが、前はぐんぐん飛ばしていきます。シンボリルドルフに続いてカネクロシオがグングンと行きますが、今度はギャロップダイナ先頭です」
シンボリルドルフは上り坂で無理にペースをあげようとはせず、ギャロップダイナにハナを譲った。しかし1400m地点でシンボリルドルフたち先を行く三頭はコントレイルのいる後続集団に5馬身から6馬身の差を付けている。
シンボリルドルフは下り坂を利用して向正面で再びハナを奪い返した。ハナ差、首差、体半分、とギャロップダイナとの差を伸ばしていく。コントレイルも第3コーナーに差し掛かろうとするところで先頭集団に追いつくがまだシンボリルドルフには届かない。
「ギャロップダイナ、ギャロップダイナ3番手、残り600mを切りました」
コントレイルは第3コーナーでするりと馬群を抜け第四コーナーで馬群の先頭に立つ。後はとにかくシンボリルドルフとの距離を詰めるだけだ。残り約400m。ユーイチは鞭を入れた。
「外から一頭、外から一頭、うちからギャロップダイナ、内からギャロップダイナ！ シンボリルドルフ未だ1馬身のリード、1馬身のリード。シンボリルドルフ、逃げ切るか」
コントレイルが距離を詰めたのに合わせてユキオが鞭を入れる。すぐに反応があるものの加速の程度はやや鈍い。じわりじわりとコントレイルは差を詰めていく。
「さあ最終直線だ、完全に二頭の戦いになった。シンボリルドルフ逃げ切るか、もう一頭が差し切るか」
三冠馬の仔は数多くいる。しかし、"三冠馬の仔"と幾度となく呼ばれてきたのは、ミホシンザンと、トウカイテイオーと、コントレイル。この三頭。それはかつては称賛の言葉として使われたが、コントレイルには非難の言葉として使われた。そう、新しい時代が来ているのだ。そして新しい時代を到来させたのは、三冠馬の仔であり、三冠馬である、コントレイルである。
かつて、多くの帝国が革命によって終わったように。
皇帝の時代が終わり、新しい時代が来る。
それは、コントレイルが三冠馬の仔であり、三冠馬であるが故に。
コントレイルの溜めた脚はユーイチの鞭によく反応した。最終直線の坂に入るとシンボリルドルフの脚の鈍りは明確なものになる。急斜面が終わったところでコントレイルはシンボリルドルフを交わした。
残り約100mはなだらかな上がり坂。しかしここでシンボリルドルフは僅かに再加速する。ユーイチが鞭を入れる、ユキオが鞭を入れる、コントレイルが走る、シンボリルドルフが走る。
そして二頭がゴール板を通過する。
掲示板にはすぐに着順が表示された。ゆっくりと減速して止まろうとするコントレイルの背からユーイチはそれを見つめた。I 2-クビ-II 6。コントレイルの勝利だ。コントレイルが先頭を守り、シンボリルドルフが差し返すのは間に合わなかった。
掲示板の表示を見上げるユキオの拳が震えている。あまりに強く握りしめているので、よく日に焼けた肌が白くなっていた。
「……柴田がそちらに協力したね」
「あ、だから」
「……」
思わずと言ったふうに声が漏れてしまったコウヘイは、ユーイチが無言のままであるのを見て黙り込んだ。
「コントレイルがあまりにこの芝に適応できすぎているからね。あの日の有馬記念のミホシンザンの記憶をもとに今この日のこの芝をデータ化して演算により2020年の芝に置換し、それをテクスチャとしてコントレイルとユーイチくんに重ねたというところかな」
図星であった。そして、いつまでたっても強制レイシフトが開始しないその意味をユーイチは考え始めていたころだった。
「やり直さなあかんですか」
しかしユキオは硬く握りしめたその手をゆっくりと開き、鷹揚にユーイチを手を差し出した。ユーイチはその差し出された手を握った。
「いいや。ルドルフはルドルフの馴染んだ芝で走るのに、コントレイルは知らない芝で走らなければならないのは不公平じゃないか。ルドルフはルドルフと時代の芝で走り、コントレイルはコントレイルの芝で走ったんだ。だからフェアだ」
ユキオはユーイチの手を強く握った。
「認めるよ、コントレイル。君は強い」
それを聞いた瞬間、ユーイチは当然だと思う気持ちと、コントレイルが正当な評価を得た喜びと、コントレイルの足を引っ張らなかった安堵と、とかく様々な感情が込み上げてきた。
「そうです、そう、そうなんです。コントレイルは強い、強くて、ほんまにすごい馬なんです」
ユーイチのその言葉を聞いて、ユキオはやはり悔しそうだった。シンボリルドルフは強い、強いのだ。しかしここで勝者を称えないことは皇帝の強さを腐す行為だ。悔しさを全身に滲ませ、握手する右手を硬くしながら、それでも皇帝の騎手に相応しく振る舞った。
ユキオはゆっくりと手を離し、シンボリルドルフを撫でた。ユーイチもコントレイルを撫でる。コントレイルは耳を絞っていて、すっかり疲れているようだった。何せ適正外の距離を走ったのだ。
しばらくそのまま穏やかな時間を流れる。最初は休息が取れたと喜ばしく感じていたユーイチも流石に違和感を覚え始める。コウヘイも同じことを思っていたらしい、口火を切った。
「どうして、レイシフトが起きないんでしょうか」
「あぁ…。明らかに今までとはちゃう。なんやおかしい」
この勝利によって今までの戦いであれば、閃光に包まれ、レイシフトが開始したはずだ。それが一向に始まらない。それはつまりコントレイルの疲労がリセットされないことを意味する。耳を絞ったコントレイルを見ていると、レイシフトがいつまで経ってもこないことへの焦りを感じる。
しかしそばにいる人間がピリピリしていると馬へのストレスとなる。ユーイチは少し深呼吸した。
「岡部さん、なんや知りませんか。今までやったらすぐレイシフトが始まって、コントレイルの疲労がリセットかれるんです」
「申し訳ないけれど、ボクもさっぱり」
そう言って彼はシンボリルドルフをコウヘイに託すとゆっくりと歩いてコントレイルとシンボリルドルフから距離を取った。そして馬を刺激しないだけ離れたら、天に向かって大声を上げた。
「どうなっているんだ、ユタカくん！」
しかし返事はない。じわじわとユーイチは焦っていく。
「どういうこっちゃ、なんで特異点が修正されへんのや！ 根っこは絶ったはずやろ！」
「根っこ？」
「特異点の大元となる思いとか、願いとか、役目とか、望まれたことのことや。レースに勝ってそれを打ち負かすことで特異点は修正される。なんべん俺の楽しみがリュージとダイチにやられたか」
「なら、この特異点の根は断たれていない…？」
コウヘイの呟きを聞いて、ユーイチは今までのレースを思い返す。
アーモンドアイとの第一戦、核はおそらく"三冠馬二頭に相応しい歓声を"。そして過去、あの特異点から見ると未来を掛けて戦い、勝利して核を絶った。ジェンティルドンナとの第二戦も、スティルインラブとの第三戦も同じ。
今までのレースを、特にはっきり対戦相手が望みを口にした二戦をコウヘイは思い返した。そして、あることに気づき声を上げた。
「待ってください、今回のレースで掛けられたのは"コントレイルが無敗三冠馬に値するか否か、ただの三冠馬の子か"です。"三冠馬二頭に相応しい歓声を"という願いは」
「！ 断たれていない。せやったらもう一回戦わなあかんのか！？ 全力でレースしたばっかりやぞ！」
ユーイチは悲鳴を上げた。コントレイルは既に疲労している。脚部不安を抱えたコントレイルが、既に全力で2500mを走った後に更に2500m。レイシフトごとに疲労がリセットされるとはいえ、レイシフトごとにしか疲労はリセットされないのだ。
阿鼻叫喚のユーイチとコウヘイの方へユキオはゆっくりと歩み寄ってくる。ちらりと疲労が滲むコントレイルとシンボリルドルフの姿を見て、ユキオは問うた。
「どうしても、三冠達成に相応しい歓声があったこの世界を修正しなければならないかい」
「あの時代、あの環境下で、確かにタクトと僕が、コントレイルと福永さんがやり遂げたんです。誰にも奪わせません」
「事実としてあんとき三冠取ったんや。お膳立てされた嘘なんていらんのです」
コウヘイもユーイチも即答だった。ユキオは一瞬気圧されたように黙った。
が、やがて、ぽつり、と言葉をこぼした。
「ユーイチくんが三冠を取った後、久しぶりに福永の家で同期で集まって飲んだんだよ」
慈しむような、噛み締めるような語り口だった。唐突な語りにコウヘイは困惑した。この特異点では、コウヘイのわからないことばかりだ。
ヨーイチ。福永ヨーイチ。天才騎手。ユキオとマサトの同期で、馬事公苑花の十五期の一員。そして、ユーイチの父。
「柴田がレース映像流そうって言うもんだから、ヨーイチの奥さんがホームビデオ出してくれたんだよ。テレビの方の映像はもう何遍も見てたから、嬉しかったよ。皐月賞のはなかったけど、ダービーと菊花賞の時にユーイチくんの奥さんが現地で撮ったやつ」
現実では。現実の、2020年では。ユーイチの妻ミドリは無観客開催のせいでダービーを見にくることは叶わなかった。
「菊花賞の映像には、会場いっぱいの割れるような福永コールが入っていて、その隙間隙間に撮影してるユーイチくんの奥さんの鼻を啜る音が混じっていてね。そしたらヨーイチの奴、本当に嬉しそうで、ちょっと泣いてなんかいたんだよ。そしたらみぃんな釣られて泣き出して。かく言うボクも、それが観客席で撮影したのだったから、ボクがこの世界の菊花賞の中継で聞こえてきたコールよりもっと鮮明で、もっと大きかったから、なんだか涙出てきちゃってね。本当に、本当に、ヨーイチが喜んでて」
そこでユキオはユーイチを見た。視線は言葉より雄弁だった。
その喜びを犠牲にしても、この世界は修正しなければならないのか？
ユーイチは静かに答えた。
「親父は、コールなんかなかった現実の世界でも喜んでくれました」
そう。ヨーイチは、ユーイチの父親は、ユーイチの憧れの人は、喜んだのだ。喜んでくれたのだ。それは確かな現実だったのだ。
その言葉を聞いて、ユキオはふっと息を漏らし、「そうか、………そうか。親なんだもんなあ」と眉を下げた。「親なんだもんなあ」と噛み締めるようにもう一度繰り返した。
そしてその瞬間、世界が光り輝き始めた。強制レイシフトだ。あたりが明るく、真っ白になっていく。
「あぁ、そうだ、最後に。コントレイル。君はルドルフと同じ無敗の三冠馬で、ディープインパクトの孝行息子だ。誇んなさい。頭の良い君ならこれくらいの日本語ならわかるだろう？」
コントレイルが返事をする様に一鳴きした。まるで、そんなの知ってるよ、と言っているようだった。閃光の向こうでよく見えなかったけれど、ユキオが微笑んだような気がした。
…………………………
薄暗く、会議室のような空間に人影が10個。丸いデスク−−円卓には12個の椅子が並ぶ。ぐったりと椅子に身を預けている者もいれば、組んだ手に口元を寄せて淡々とホログラムを見ている者もいる。その中で一つの人影が一際鋭い目でホログラムを鋭い目で見ている。
そのひりついた雰囲気に気付かないのか気遣ったのか、隣に座する赤いジャンパーの男が親しげに話しかけた。
「なんや、今までの特異点とはちゃいましたね」
「折角自分で手ェ加えたんや。変えんと手ェ出した意味あらへんやろ」
「そんなこと出来るんですか？」
「武家の秘術のひとつや。せやから武家の魔術を扱える人間がハッキングしよった。抜かったわ」
「コウシロウさんか、ヒデですか？」
「いや……」
ヒデノリの魔眼によって特異点を覗かれた感覚はあり、ハッキングを受けた時に感じた魔力はヒデノリのものだ。しかしヒデノリは身体強化に特化した魔術師である。ヒデノリ一人の力で、ユタカの作成した特異点にいるユーイチとコントレイルの五感をジャック出来る訳がない。何者か、しかもユタカの魔法、ひいては武家の魔法に精通した何者かの介入があったと見て間違い無いだろう。魔法は一子相伝だ、そんな人間は一人しかいない。
ユタカの父、クニヒコ。
ユタカは世界でも指折りの魔術師でありながら、騎手として現役の為体に多大な負担を掛ける魔術刻印の移植をまだしていない。武家の歴史が刻まれた魔術刻印はクニヒコの元にある。故に他の魔術の扱いならともかく、武家の魔法の扱いならクニヒコの方が一枚上だ。
問題はクニヒコの介入だけでない。
「ユーイチ、全く揺らがんかったなあ」
「そうでしたね。コウヘイも即答やった。あー、俺ちゃんとコウヘイを説得出来るんかなあ」
「出来んかったら勝てばええんや」
「分かってますって」
赤いジャンパーの男はニヤリと笑った。良き先輩としての顔から勝負師の顔に鮮やかに表情が変わる。彼のこういうところは本当に信頼できる。だからこそ、本来の計画ではケンイチを最後の一撃とする予定であった。
コントレイルに適正距離外の距離を走らせ、ユーイチに精神的に揺さぶりをかける。勝敗がどうであれ、ユキオが円卓に加わった動機を語らねば特異点が修正されないようにしておく。そして、この世界での家族の話を聞かせて、心変わりさせる。この世界でも守るべきものがあると分かれば、流石にユーイチも心が揺らぐと思ったのだ。ユーイチが折れたのなら、ケンイチを出してコウヘイも折れば良い。それがキゾウとは別にユタカが独自に立てた計画であった。
ユタカは目を閉じた。
『親父は、コールなんかなかった現実の世界でも喜んでくれました』というユーイチの声が蘇る。
どうして、どうしてあんな世界を受け入れてしまうのだ。どうして、どうしてコントレイルが、ユーイチが、ヨーイチが本当なら得られたはずのものに手を伸ばさないのだ。ヨーイチへの敬愛であり、コントレイルへの親愛であり、ユーイチへの憤りでもあるその気持ちは、クニヒコが介入してきたことによる焦りと共に喉の奥でぐるぐるととぐろを巻く。ユタカはぐっと飲み込んで腹に据えた。
「状況が変わった。プランを切り替える」
「じゃあ俺の出番は後回しですね」
「おん。悪いなあ」
「別に全然大丈夫っすわ。次はどうなるんですか？」
「ナリタブライアンと南井さんや。そんでその次に回ってきたらディープと俺や」
競馬に携われる人間として馬を潰すわけにいかない。だから、代わりに人間を潰す。適正外の距離を連続で走らせ、ユーイチを動揺させ、ディープで徹底的に折る。
「今度こそ、ユーイチを潰すで」
物騒なことを口走るユタカを、冷え冷えとした二つの目が見つめていた。
「敬愛と親愛に、足元を掬われないようにって言ったんだけれどもね……」
疫病封鎖地域日本・幕間 A.D.2020 異聞三冠馬人馬 7月の小規模な奇跡
夏の日差しが眩しい。クニヒコは北海道も随分暑くなったものだと思った。この調子なら夏のレースはどんどん馬たちにとって過酷なものになっていくだろう。熱気の中でクニヒコがぼんやりとしていると、傍の男が自らの被る麦わら帽子を外して、クニヒコに差し出した。魔術を使ってクニヒコは自分の発する日本語が相手にはフランス語に、相手のフランス語が自分には日本語に聞こえるように設定する。
「"体調が優れないご様子ですが、よろしければどうぞ"」
「"客人にそんなことさせるわけにいしませんよ。ちょっと暑さに滅入っただけです。むしろ、そちらこそ具合悪くなってはったりしませんかい。転移魔術は慣れてないと酔う人もいますから"」
「"問題ありません。こんなに快適にこんなに一瞬でフランスから日本に行けるだなんて素晴らしいですね"」
「"武家の魔術ってやつですわ"」
競馬界の第一線に長年身を置き、そして日本以上に魔術が強く根付いたヨーロッパて暮らす男はそれ以上詮索してこなかった。誠に話が早く、やりやすい相手である。
「"しかし、これだけ素晴らしい武家の魔法をもってすれば、私がお役にたてんことなど何もないのでは？ 今回だって、ヒデノリさんとダイチさんに柴田さんを会わせて、その後どうすればいいかメールで指示を出し、バックアップしたのはあなたでしょう"」
「"そんなに買い被らないでください。石だの素材だの扱いはあなたの方が上手いじゃないですか。うちには器用な奴が居なくてね、大理石で精密極まる魔法具なんて作れる奴はいませんよ"」
「"ご謙遜を"」
クニヒコと話している麦わら帽子の男、そうそれは麦わら帽子よりシルクハットの方が似合いそうな紳士であった、は上品に笑んだ。しかしこれは本当の話である。
「"いや、ここだけの話、うちの馬鹿息子が馬鹿やって好き勝手やってるうちはどうにかしてやれるんですがね、そりゃ武家の魔術に関しちゃ私の方が扱いが上ですから。でも多分その内首謀者の逆鱗に触れてあの子も自由にやれなくなるじゃないですか。となると三冠を取ってない私は何にも干渉できなくなる"」
第三者たるクニヒコの目から見て、明らかにユタカはやりすぎだ。まだユーイチとコウヘイがその策略を破っているからこそ見逃されている節はあるが、二人と二頭が敗れた時、それはきっと許容されなくなる。
ユタカは戦時下で三冠を取った人間の執念と恐ろしさを理解していない。それなら、コロナ禍で三冠を取った二人の方がよほどそれを理解している。なぜなら、この圧倒的不利な状況の中で戦いを続ける彼らにも、少なからず同じものがあるからだ。
「"子供が悪いことしたら、叱ってるやるのが親の仕事です。でも、私が何もできなくなった時、私が叱ってやれなくなった時、どうか、お力添えをお願いします"」
クニヒコは頭を下げた。彼なら、彼ならきっとユタカが権限を失っても、介入できる。
なぜなら彼は、秋古馬三冠をゼンノロブロイと共に達成した騎手、オリビエ・ペリエなのだから。
男、ペリエは紳士らしい笑みで「"勿論です"」と答えた。
「"クニヒコ・タケ。あなたのおかげで私はまた彼、ゼンノロブロイに会うことが出来ました。牧場の方のご好意で少しだけ乗ることも出来ました。今年の冬は日本に来る予定がなかったので、あえて本当に嬉しいです。一人の騎手として、魔術師として、全力で協力することを誓いましょう"」
そう言ってクニヒコに顔を上げさせ、その両手を自らの両手で包み込んだ。クニヒコはその両手を拝むようにして自らの額に強く当てた。
「"ありがとうございます……！ あなたの騎乗するレースには一切影響が出ないように、こちらの方で魔法でちゃんと調整します。本当に、本当に、ありがとうございます"」
「ゼンノロブロイ、ワタシノタイセツナパートナーのヒトリ。コチラコソ、アリガトウ！」
ペリエはわざわざ日本語で礼を述べた。その方が感謝が伝わると思ったからだった。
ゼンノロブロイが8月に腰を悪化させることも、9月に亡くなることも、誰も知らない7月のことだった。
A.D.2020 疫病封鎖地域日本 幕間 異聞三冠馬人馬 7月の小規模な奇跡
「"体調が優れないご様子ですが、よろしければどうぞ"」
「"客人にそんなことさせるわけにいしませんよ。ちょっと暑さに滅入っただけです。むしろ、そちらこそ具合悪くなってはったりしませんかい。転移魔術は慣れてないと酔う人もいますから"」
「"問題ありません。こんなに快適にこんなに一瞬でフランスから日本に行けるだなんて素晴らしいですね"」
「"武家の魔術ってやつですわ"」
競馬界の第一線に長年身を置き、そして日本以上に魔術が強く根付いたヨーロッパて暮らす男はそれ以上詮索してこなかった。誠に話が早く、やりやすい相手である。
「"しかし、これだけ素晴らしい武家の魔法をもってすれば、私がお役にたてんことなど何もないのでは？ 今回だって、ヒデノリさんとダイチさんに柴田さんを会わせて、その後どうすればいいかメールで指示を出し、バックアップしたのはあなたでしょう"」
「"そんなに買い被らないでください。石だの素材だの扱いはあなたの方が上手いじゃないですか。うちには器用な奴が居なくてね、大理石で精密極まる魔法具なんて作れる奴はいませんよ"」
「"ご謙遜を"」
クニヒコと話している麦わら帽子の男、そうそれは麦わら帽子よりシルクハットの方が似合いそうな紳士であった、は上品に笑んだ。しかしこれは本当の話である。
「"いや、ここだけの話、うちの馬鹿息子が馬鹿やって好き勝手やってるうちはどうにかしてやれるんですがね、そりゃ武家の魔術に関しちゃ私の方が扱いが上ですから。でも多分その内首謀者の逆鱗に触れてあの子も自由にやれなくなるじゃないですか。となると三冠を取ってない私は何にも干渉できなくなる"」
第三者たるクニヒコの目から見て、明らかにユタカはやりすぎだ。まだユーイチとコウヘイがその策略を破っているからこそ見逃されている節はあるが、二人と二頭が敗れた時、それはきっと許容されなくなる。
ユタカは戦時下で三冠を取った人間の執念と恐ろしさを理解していない。それなら、コロナ禍で三冠を取った二人の方がよほどそれを理解している。なぜなら、この圧倒的不利な状況の中で戦いを続ける彼らにも、少なからず同じものがあるからだ。
「"子供が悪いことしたら、叱ってるやるのが親の仕事です。でも、私が何もできなくなった時、私が叱ってやれなくなった時、どうか、お力添えをお願いします"」
クニヒコは頭を下げた。彼なら、彼ならきっとユタカが権限を失っても、介入できる。
なぜなら彼は、秋古馬三冠をゼンノロブロイと共に達成した騎手、オリビエ・ペリエなのだから。
男、ペリエは紳士らしい笑みで「"勿論です"」と答えた。
「"クニヒコ・タケ。あなたのおかげで私はまた彼、ゼンノロブロイに会うことが出来ました。牧場の方のご好意で少しだけ乗ることも出来ました。今年の冬は日本に来る予定がなかったので、あえて本当に嬉しいです。一人の騎手として、魔術師として、全力で協力することを誓いましょう"」
そう言ってクニヒコに顔を上げさせ、その両手を自らの両手で包み込んだ。クニヒコはその両手を拝むようにして自らの額に強く当てた。
「"ありがとうございます……！ あなたの騎乗するレースには一切影響が出ないように、こちらの方で魔法でちゃんと調整します。本当に、本当に、ありがとうございます"」
「ゼンノロブロイ、ワタシノタイセツナパートナーのヒトリ。コチラコソ、アリガトウ！」
ペリエはわざわざ日本語で礼を述べた。その方が感謝が伝わると思ったからだった。
ゼンノロブロイが8月に腰を悪化させることも、9月に亡くなることも、誰も知らない7月のことだった。
A.D.2020 疫病封鎖地域日本 幕間 異聞三冠馬人馬 7月の小規模な奇跡
疫病封鎖地域日本・第5戦 A.D.1994 怪物蓋世術策有馬記念 超えたくば、影を踏め
ばちりと音を立てて、雷に似た閃光が走った。同時に、身体を包んでいたレイシフトの浮遊感が消える。咄嗟に身構えたがほとんど衝撃もなく、コウヘイはターフの上に降り立った。
光で白く眩んでいた世界は、ゆっくりと色彩を取り戻していく。コウヘイはそれが終わるのを待たずに、すぐ近くで相棒の足を確認しているユーイチの元へ、デアリングタクトを連れて駆け寄った。
「福永先輩、コントレイルは！」
「疲労は見えへんし、歩様も問題なさそうや。何もなくて、ほんまによかった」
「そうですか、よかった……」
安堵を滲ませたユーイチの言葉を聞き、コウヘイも胸を撫で下ろす。ユーイチが背を撫でると、コントレイルは小さく身震いをしてから歩き始めた。その姿に、有馬記念を走り切ったことによる疲れは見当たらない。
「どうして、リセットするんでしょうか」
軽い足取りで進むコントレイルと、その後ろに着いて歩き出したデアリングタクトを目にしながら、コウヘイは呟く。1戦目を終えた後から、ずっと気にかかっていたことだった。
「うん？」
「言い方は悪いですが、手段を選ばなければユタカさんたちが勝つことは簡単にできるはずです。例えば、僕たちと馬の疲労を蓄積させるとか……。いえ、もちろん馬に負担はかけられないので、ありがたいことではあるんですけど」
「今、言ったやないか」
「え？」
コウヘイがぽつぽつと零した疑問に、ユーイチは特に悩みもせず答えた。
「ユタカさんたちが考えに賛同したっていう、大元の改変を起こした奴が誰かはわからんけど、そいつも含めた全員が馬に負担をかけたくないと思っとるんやろ。だからレースが終わるごとにリセットをかける、と俺は考えとるで」
「そう、なんでしょうか」
ユーイチの予想には納得できる。騎手という職に就いている以上、共に戦う馬を気遣うのは当然だ。それは特異点という非日常にあっても、変わることはないものだとコウヘイも思う。しかしまだ、魚の小骨が引っかかっているような、そんな感覚を拭い切れない。
「なんや、まだ何か気になるんか？」
「気になる、というか……」
その小さな違和感を上手く言葉にできず、コウヘイは考えながら視線を相棒たちへと向けた。離れた場所で立ち止まっていた2頭は、まるで内緒話をするかのように互いの顔を近付けている。自分たちが人間同士でこの特異点やレースについて話しているように、彼らも今の状況について馬同士で何かを話しているのかもしれない、と思う。
人間と、馬。その2つの単語を並べたとき、コウヘイの頭の中にかかっていた、違和感という霧が晴れていった。
「ユタカさんたちは、本気で僕たちを阻みたいのかな、と思ったんです」
「……なんでそう思ったんや？」
「福永先輩が予想したリセットの理由には、僕も納得できます。でも、僕たちの疲労にまでリセットをかける理由にはならないんじゃないでしょうか。もちろん、僕はどれだけ疲れていようと誰が来ようと、絶対にタクトと勝ちます。勝てると思っています。だけど勝負として考えたとき、馬と騎手がどちらも常に万全の状態で向かってくるより、馬は万全だけど騎手に疲れが残っている状態の方が、相手が勝つ確率は高いはずです。わざわざそんなことをしてもデメリットにしかならない。だから、どこか本気ではないんじゃないかなと」
「なるほどな……」
「もしかしたら、皆さんは正々堂々とした真っ向勝負を望んでいるのかもしれません。だけど先に世界を改変してから僕たちと戦うのは、そうは言えない気がして。それなら、世界の改変を賭けて僕たちと戦う方が、よっぽど正々堂々としてます。福永先輩は、どう思いますか？」
長々と自分の考えを口にはしたものの、コウヘイに特異点に関する経験はない。見当違いのことを言ってはいないかと少し不安だったが、ユーイチは教師然とした様子で口を開いた。
「よう考えられとると思う。丁度ええし、少しだけ話しとこか。そもそも特異点は、誰かの望んだイフ、もしもが形になったものや。あのとき、あのレースで、もしもああしていれば……なんて思ったことは、騎手をやってれば誰しも一度や二度はあるやろ？」
「……それは、はい」
あのレース、と口にしたユーイチの瞳に影が落ちたのをコウヘイは見た。しかし瞬きの間に消え去ったそれへ、何かを言おうとは思わない。自分に思い当たる場面があるように、ユーイチにもそれがある、というだけだ。
「せやから、特異点を作り出した奴やそいつに協力してる奴が、何を願ったのか、何を考えているのかを推測するのは重要なんや。願いがわかれば、解決の糸口が見つかるかもしれへん。向こうの考えを推測すれば、相手の出方も読める。それはレースと同じやな」
「勉強になります」
「それを踏まえて、コウヘイの考えについてや。確かに、騎手の俺らまでリセット対象にする理由はない。これは俺も考えとくわ。せやけど、違うと言い切れる部分が1つだけある。ユタカさんは、本気やで」
コウヘイもそれはわかっている。別に、本当にそう思っていたわけではなかった。特異点へレイシフトする前にユタカから向けられた、明確な敵意を忘れてはいない。
だけどリセットについて考えたとき、思い付く理由はそれ以外になかった。そう言おうとして、ふと引っかかりを覚える。
「ユタカさんだけですか？ユタカさんたち、ではなく？」
「他の人らが何を思っとるかは、幸先輩の例もあるし俺にもわからん。でもユタカさんのことなら少しはわかる。あの人は本気で、俺らを負かしに来とる。今回のレースの舞台が、その証拠や」
そこで初めて、コウヘイは周囲の様子をまだ確認していなかったことに気付いた。視線を巡らせれば、すぐに特徴的なゴール前の急坂が目に付く。メインスタンドは先ほどと違い、見慣れた形をしていた。
見上げた空は高く、太陽は西の方へ傾き始めている。意識していなかったが、自身の吐き出す息も白く色付いていた。低気温特有の現象を視認すると同時に、思考に気を取られて忘れていた寒さが、足元から忍び寄ってくる。見えるもの、感じるものの全てが、ここが冬の中山競馬場であることを示していた。
「コントレイル！」
ユーイチが名を呼ぶと、コントレイルは顔を上げてこちらへ駆けてきた。すでに馬同士の話は終わっていたらしい。仲間が動いたからか、デアリングタクトも続けてコウヘイの隣へと戻ってくる。
「すまん、コントレイル。また俺と2500m走ってくれ」
「ちょっと待ってください、福永先輩！確かに冬の中山ですけど、まだ有馬記念に決まったわけじゃ」
覚悟を決めた表情で己の相棒に告げるユーイチに、コウヘイは思わず声を上げる。いくら万全の状態で前走の疲労がないと言っても、ユーイチとコントレイルに連続で二度も適正外距離を走るという無理はさせられない。
だが、ユーイチは首を横に振った。そして今までと同じように、条件を絞り込んでいく。
「メインスタンドは今と同じやけど、2009年の秋に新しくなったターフビジョンが昔のままや。つまり、時期は1990年から2008年の間。該当する三冠馬は、ナリタブライアン、スティルインラブ、ディープインパクト。スティルインラブはもう戦ったから除いて、残った2頭が勝っている冬の中山開催のレースは有馬記念か、2013年までは中山開催だった朝日杯3歳ステークス……朝日杯フューチュリティステークスになる」
「朝日杯なら1600m、タクトの適正距離です」
「そうやな。でも、それはない」
「どうしてですか！」
「朝日杯は2歳馬限定戦やろ。仮に朝日杯だとしたら、2歳馬の中に古馬のコントレイルかデアリングタクトが混ざって走ることになる。あの人がそれを良しとするとは、俺には思えん」
「そりゃあそうだ。いくら現実には影響がないと言ったって、2歳馬のレースに古馬を混ぜるような、そんな真似はしたくないな」
なんの前触れもなく、第三者が会話に入り込んだ。背後に現れた気配は2つ。そこにいる人物と馬の正体は、聞こえた声がユタカではない時点で、振り向く前からわかっていた。
影のような漆黒の馬体に、トレードマークであり、愛称にもなった真っ白な馬具が映えている。シャドーロールの怪物と呼ばれた三冠馬、ナリタブライアン。その傍らには南井カツミが立っている。コウヘイの知らない、若かりし頃の姿だった。
「どうも、南井先生。わざわざ口に出して否定したってことは、有馬記念ですね？」
「その通り。挑戦者は、福永くんとコントレイルでいいか？」
「待ってください！福永先輩たちはさっき走ったばかりで」
「コウヘイ、よせ」
「でも！
「タクトには、走れんやろ」
静かに現実を告げられ、コウヘイはその先に続ける言葉を失った。デアリングタクトに2500mは、コントレイル以上に長すぎる。ここでコウヘイが言い募ったところで、ユーイチとコントレイルは走らなければならないのだ。
「どうして今になって、そんな福永先輩たちにばかり走らせるような真似を」
「……予想は話せる。でも、流石にここでは言えん」
ユーイチがカツミを見ながら言った。視線を向けられた本人は愉快そうに笑っている。
「なんだ、俺が聞いていたらマズい話か？」
「そらまあ、作戦会議みたいなもんなので」
「確かにそれは、俺がいたら話せないな」
徐にカツミが右手を上げ、そして振り下ろした。その動作が合図となって、周囲の風景が描きかえられていく。
メインスタンドは大観衆で埋め尽くされた。年末の大一番、有馬記念を見に集った人々の地を轟かすような歓声が、コウヘイたちを包み込む。遠くに見えるゲートへ向かって、入場してきた馬が次々に駆けていく。カツミもナリタブライアンに乗り、馬上からこちらを見下ろした。
「俺とブライアンは先にゲートへ行っているから、会議が終わったら来てくれるか？」
「随分と俺らの好きにさせてくれるんですね」
「別に俺は、君たちの歴史を否定したいわけじゃないからな。歓声の中で戴冠してほしいという気持ちはわかるが、そのために君たちの勝ち取った勝利をなかったことにするのも違うだろ？」
え、と2人揃って声を上げた。目を丸くしたユーイチに代わって、コウヘイが問いかける。
「じゃあ、南井先生はどうして協力を？」
「ユタカくんに頼まれたからだ。彼とはいろいろと縁があるし、ブライアンに勝利をくれた恩もある。だから了承したんだ。なあ？」
カツミに首筋を軽く叩かれたナリタブライアンは、答えるようにぶる、と鼻を鳴らした。ユタカのためなら、と言いたげな雰囲気だった。
「俺は、勝利の恩を勝利で返すためにここに来た。それもユタカくん直々の5番手指名を受けてな。俺が協力しているのはあくまでもユタカくんだ、そこは履き違えないでくれ。だから歴史を否定したいわけじゃないと言っても、福永くんに花を持たせる気はない。俺とブライアンは全力で君たちを迎え撃つ。そっちもそのつもりで向かってきてほしい」
「……最初から、俺もそのつもりです。準備の時間を貰えるっていうなら、ありがたく使わせてもらいます」
「もちろんだ。お互い、いいレースをしよう」
そう言い残し、カツミとナリタブライアンはゲートに向かって駆けていった。すでに他の馬たちもゲート前に揃っているようだが、ファンファーレは一向に聞こえてこない。言っていた通り、自分たちに時間をくれているらしい。
気付けば、歓声も遠くなっていた。薄膜を挟んだ向こうから響いてくるような聞こえ方だ。作戦会議だとユーイチが言ったからだろうか、ちょうど話の邪魔にならない程度の音量に調節されている。
「風景を変えたり、レースを始めるタイミングを自由にできるだけじゃなくて、こんなこともできるんですね……特異点って、いつもこういう不思議なことが起こるんですか？」
コウヘイの質問に返ってくる答えはなかった。これまで、打てば響くように必ず何かしらの返事をしてきたユーイチが黙り込んでいる。どうかしたのかとユーイチを見たコウヘイは、目を見開いた。
静かな表情で数歩進んでは立ち止まり、じっとコースを観察する。それは芝状態を確認して分析する、いつものユーイチの行動ではある。一見すると集中しているだけにも思えるが、隠し切れずに目元に滲んだ怒りが、平静を取り繕っているのでもあると伝えていた。
ユーイチの分析の邪魔はできない、それは当然だ。だがそれ以上に、凄味すら感じさせる怒気に気圧される。声をかけようにもかけられず、コウヘイはその様子を見ていることしかできなかった。
どれぐらいそうしていただろうか。最後に頷くと、ユーイチは足早にこちらへ戻ってきた。
「コウヘイ、待たせてすまん」
「いえ、大丈夫です。でも福永先輩。その、なんだか」
どうしてそんなに怒っているのか、とは言い難かった。コントレイルを連続で走らせることへの怒りかとも思ったが、それだけではないようにも思う。口ごもったコウヘイの様子を気にするように、デアリングタクトが顔を寄せてきた。コントレイルも同じように、どうかしたのかと言いたげに鼻先でユーイチの肩を軽く突いている。
「……さっき、予想って言うたやろ。あれ撤回するわ」
何度も突いてくるコントレイルを宥めながら、ユーイチは言った。口調は常と変わらないが、声音は僅かに低かった。
「予想やのうて、確信に変わった。ユタカさんは俺を潰しに来とる。せやから、今になって俺とコントレイルを連続で走らせにきた」
「潰す、って」
コウヘイは息を飲む。あまりにも不穏な響きだった。
「レイシフトが終わったときから妙やと思っとった。雷みたいな閃光に、地面に放り出されることなく済んだ着地……今までにはなかったものや」
「確かに、これまでと違うとは思いましたけど……」
「今までのレイシフトは、大元の改変を起こした奴……いちいち面倒やな。もう首謀者でええわ、そいつがやっとるはずや。でも毎回着地が乱暴なのは、首謀者が人をレイシフトさせることに慣れてないからやろうな。だけど今回は全くそんな気配なしに、無事に着地できたやろ。コツを掴んだにしたって、急成長にも程がある。それよりは、慣れてる別の奴がやったと思う方が自然や」
「じゃあ、あの閃光は？」
「恐らく、レイシフトに割り込んだ際の衝撃で起きたものや。誰かが首謀者のレイシフトから俺らを引っこ抜いて、南井先生とブライアンが待つこの場所へレイシフトさせた。人をレイシフトさせることに慣れていて、しかもレイシフトに割り込めるような芸当ができる誰か。そんな人を、俺は1人しか知らん」
「……ユタカさん」
コウヘイがその名を呟くと、ユーイチは頷いた。
「元から考えとったことやけど、俺らが三冠馬にどの順番で挑むかも、恐らく首謀者が決めとる。この特異点は2頭の三冠馬の歴史を改変するために、歴代の三冠馬とその騎手が集って成り立った場所や。三冠馬とのレース順なんて明らかに特異点の核に近いものを、人に決めさせるわけがない」
「だから南井先生は、ユタカさんから直々に5番手を任された、と言っていたんですね。ユタカさんが、本来の5番手の前に割り込ませたから」
「そもそも、送り込まれた先がこの年代の冬の中山の時点で、あの人が俺とコントレイルに走らせたがっとることはわかってた。ディープの有馬かブライアンの有馬しかあり得んから、どっちに転んでも走るのはコントレイルや。首謀者が決めとるはずの挑戦順に、わざわざ逆らってまで用意した舞台。俺らに勝つために、ユタカさんが何かしらの策を練って動いたとしか思えんかった」
コウヘイは、ユーイチとの会話を思い出した。ユタカは本気で自分たちを負かしに来ている、証拠は今回のレースの舞台だ。その言葉の意味をようやく理解できた。
「馬と騎手がどちらも常に万全の状態で向かってくるのは、相手にとってはデメリットやってコウヘイ、言うたよな。俺らがここまで勝ち抜いてきたのを見て、ユタカさんもそれを考えたんやろ。でも馬に過度な負担をかけたくはないから、リセットのシステムは取っ払えん。それで狙いを騎手へ……俺へ絞った」
「それは、どういう」
「コントレイルに、適正外の距離を連続で走らせる。俺をそんな状況に置いて、プレッシャーかけて揺さぶって。それで騎乗を乱したいんか、無理はさせられんって降参させたいんか、どっちを狙ってるのか知らんけど、この際それはどっちでもええわ。腹が立つのは、よりによってユタカさんが、コントレイルまで使って、俺にそんな仕掛けをしてきよったことや」
ユーイチの表情から、取り繕っていた平静さが消えた。宥められて大人しくなっていたコントレイルが、また肩に鼻先を押し付け始める。その仕草はコントレイルなりに、ユーイチを落ち着かせようとしているようにも見えた。
「俺らは一度も負けられん。その覚悟をしてここに来た。こっちに適した距離のレースだけが来る保証やってどこにもない。そんな距離が云々なんてのも、さっきルドルフとやり合ったときに腹括った。こっちはずっとそうやって、覚悟して腹括りながらここまで来たんや。それを今更、その程度の温いプレッシャーかけよって……甘く見られたもんやな。俺からすれば、甘いのはユタカさんの方や。騎手を狙うならそんな遠回りなことせんでも、俺らを回復させなければええ、一番手っ取り早い。それをしないで、馬を使うなんてらしくないことまでして、そんなもんで俺を潰せると、本気で思っとるんかあの人は！」
ユーイチは語気荒く言い放つと、コウヘイが何かを言う隙もなく、コントレイルへと跨った。自身の上に乗った相棒を、コントレイルは振り向いてじっと見ている。
「コントレイル、頼む。勝つで、必ず」
数秒前の激昂は、すでにどこにも見えなかった。腹の底では燃えているのだろうが、それをユーイチが表に出さないのは、乗り手の動揺は馬にも伝わるからだろう。
コントレイルはユーイチの言葉を聞くと、顔を正面に向けた。相棒はいつも通りだと判断したようにも、自分のために再び平静を装ったことをわかっているようにも、どちらとも取れる態度だった。
「行ってくる。コウヘイとタクトは待っててくれ、すぐ決着付けてくるわ」
「……気を付けてください、福永先輩。コントレイルも」
ユーイチに促され、コントレイルがゲートへ向かって駆けていく。遠ざかっていく人馬の背を見送りながら、コウヘイはユーイチがこぼした言葉について考えていた。
「俺らを回復させなければいい、か」
自分たちの疲労までリセットする理由は考えておく、とユーイチは言っていた。だがこの言い方では、まるでユタカがそうしていると確信しているようにも聞こえる。ユタカの思惑を確信したとも言っていたが、振り返ってもそれに至った理由までは語っていない。
ユーイチの優れた分析力は、コウヘイには見えていない何かを捉えているのだろうか。そして、何故かそれを秘したままにしている。
「福永先輩には、何がわかっているんだろう。タクトは、どう思う？」
首筋を撫でてやりながら、相棒に尋ねる。返事はなかったが、デアリングタクトもまた、何か思うところがあるかのように、仲間の背を見つめていた。
少しずつ、歓声が元の音量を取り戻していく。不意に生まれたコウヘイの疑問を他所に、ファンファーレが鳴り響いた。
疫病封鎖地域日本・第5戦
A.D.1994 怪物蓋世術策有馬記念 超えたくば、影を踏め
光で白く眩んでいた世界は、ゆっくりと色彩を取り戻していく。コウヘイはそれが終わるのを待たずに、すぐ近くで相棒の足を確認しているユーイチの元へ、デアリングタクトを連れて駆け寄った。
「福永先輩、コントレイルは！」
「疲労は見えへんし、歩様も問題なさそうや。何もなくて、ほんまによかった」
「そうですか、よかった……」
安堵を滲ませたユーイチの言葉を聞き、コウヘイも胸を撫で下ろす。ユーイチが背を撫でると、コントレイルは小さく身震いをしてから歩き始めた。その姿に、有馬記念を走り切ったことによる疲れは見当たらない。
「どうして、リセットするんでしょうか」
軽い足取りで進むコントレイルと、その後ろに着いて歩き出したデアリングタクトを目にしながら、コウヘイは呟く。1戦目を終えた後から、ずっと気にかかっていたことだった。
「うん？」
「言い方は悪いですが、手段を選ばなければユタカさんたちが勝つことは簡単にできるはずです。例えば、僕たちと馬の疲労を蓄積させるとか……。いえ、もちろん馬に負担はかけられないので、ありがたいことではあるんですけど」
「今、言ったやないか」
「え？」
コウヘイがぽつぽつと零した疑問に、ユーイチは特に悩みもせず答えた。
「ユタカさんたちが考えに賛同したっていう、大元の改変を起こした奴が誰かはわからんけど、そいつも含めた全員が馬に負担をかけたくないと思っとるんやろ。だからレースが終わるごとにリセットをかける、と俺は考えとるで」
「そう、なんでしょうか」
ユーイチの予想には納得できる。騎手という職に就いている以上、共に戦う馬を気遣うのは当然だ。それは特異点という非日常にあっても、変わることはないものだとコウヘイも思う。しかしまだ、魚の小骨が引っかかっているような、そんな感覚を拭い切れない。
「なんや、まだ何か気になるんか？」
「気になる、というか……」
その小さな違和感を上手く言葉にできず、コウヘイは考えながら視線を相棒たちへと向けた。離れた場所で立ち止まっていた2頭は、まるで内緒話をするかのように互いの顔を近付けている。自分たちが人間同士でこの特異点やレースについて話しているように、彼らも今の状況について馬同士で何かを話しているのかもしれない、と思う。
人間と、馬。その2つの単語を並べたとき、コウヘイの頭の中にかかっていた、違和感という霧が晴れていった。
「ユタカさんたちは、本気で僕たちを阻みたいのかな、と思ったんです」
「……なんでそう思ったんや？」
「福永先輩が予想したリセットの理由には、僕も納得できます。でも、僕たちの疲労にまでリセットをかける理由にはならないんじゃないでしょうか。もちろん、僕はどれだけ疲れていようと誰が来ようと、絶対にタクトと勝ちます。勝てると思っています。だけど勝負として考えたとき、馬と騎手がどちらも常に万全の状態で向かってくるより、馬は万全だけど騎手に疲れが残っている状態の方が、相手が勝つ確率は高いはずです。わざわざそんなことをしてもデメリットにしかならない。だから、どこか本気ではないんじゃないかなと」
「なるほどな……」
「もしかしたら、皆さんは正々堂々とした真っ向勝負を望んでいるのかもしれません。だけど先に世界を改変してから僕たちと戦うのは、そうは言えない気がして。それなら、世界の改変を賭けて僕たちと戦う方が、よっぽど正々堂々としてます。福永先輩は、どう思いますか？」
長々と自分の考えを口にはしたものの、コウヘイに特異点に関する経験はない。見当違いのことを言ってはいないかと少し不安だったが、ユーイチは教師然とした様子で口を開いた。
「よう考えられとると思う。丁度ええし、少しだけ話しとこか。そもそも特異点は、誰かの望んだイフ、もしもが形になったものや。あのとき、あのレースで、もしもああしていれば……なんて思ったことは、騎手をやってれば誰しも一度や二度はあるやろ？」
「……それは、はい」
あのレース、と口にしたユーイチの瞳に影が落ちたのをコウヘイは見た。しかし瞬きの間に消え去ったそれへ、何かを言おうとは思わない。自分に思い当たる場面があるように、ユーイチにもそれがある、というだけだ。
「せやから、特異点を作り出した奴やそいつに協力してる奴が、何を願ったのか、何を考えているのかを推測するのは重要なんや。願いがわかれば、解決の糸口が見つかるかもしれへん。向こうの考えを推測すれば、相手の出方も読める。それはレースと同じやな」
「勉強になります」
「それを踏まえて、コウヘイの考えについてや。確かに、騎手の俺らまでリセット対象にする理由はない。これは俺も考えとくわ。せやけど、違うと言い切れる部分が1つだけある。ユタカさんは、本気やで」
コウヘイもそれはわかっている。別に、本当にそう思っていたわけではなかった。特異点へレイシフトする前にユタカから向けられた、明確な敵意を忘れてはいない。
だけどリセットについて考えたとき、思い付く理由はそれ以外になかった。そう言おうとして、ふと引っかかりを覚える。
「ユタカさんだけですか？ユタカさんたち、ではなく？」
「他の人らが何を思っとるかは、幸先輩の例もあるし俺にもわからん。でもユタカさんのことなら少しはわかる。あの人は本気で、俺らを負かしに来とる。今回のレースの舞台が、その証拠や」
そこで初めて、コウヘイは周囲の様子をまだ確認していなかったことに気付いた。視線を巡らせれば、すぐに特徴的なゴール前の急坂が目に付く。メインスタンドは先ほどと違い、見慣れた形をしていた。
見上げた空は高く、太陽は西の方へ傾き始めている。意識していなかったが、自身の吐き出す息も白く色付いていた。低気温特有の現象を視認すると同時に、思考に気を取られて忘れていた寒さが、足元から忍び寄ってくる。見えるもの、感じるものの全てが、ここが冬の中山競馬場であることを示していた。
「コントレイル！」
ユーイチが名を呼ぶと、コントレイルは顔を上げてこちらへ駆けてきた。すでに馬同士の話は終わっていたらしい。仲間が動いたからか、デアリングタクトも続けてコウヘイの隣へと戻ってくる。
「すまん、コントレイル。また俺と2500m走ってくれ」
「ちょっと待ってください、福永先輩！確かに冬の中山ですけど、まだ有馬記念に決まったわけじゃ」
覚悟を決めた表情で己の相棒に告げるユーイチに、コウヘイは思わず声を上げる。いくら万全の状態で前走の疲労がないと言っても、ユーイチとコントレイルに連続で二度も適正外距離を走るという無理はさせられない。
だが、ユーイチは首を横に振った。そして今までと同じように、条件を絞り込んでいく。
「メインスタンドは今と同じやけど、2009年の秋に新しくなったターフビジョンが昔のままや。つまり、時期は1990年から2008年の間。該当する三冠馬は、ナリタブライアン、スティルインラブ、ディープインパクト。スティルインラブはもう戦ったから除いて、残った2頭が勝っている冬の中山開催のレースは有馬記念か、2013年までは中山開催だった朝日杯3歳ステークス……朝日杯フューチュリティステークスになる」
「朝日杯なら1600m、タクトの適正距離です」
「そうやな。でも、それはない」
「どうしてですか！」
「朝日杯は2歳馬限定戦やろ。仮に朝日杯だとしたら、2歳馬の中に古馬のコントレイルかデアリングタクトが混ざって走ることになる。あの人がそれを良しとするとは、俺には思えん」
「そりゃあそうだ。いくら現実には影響がないと言ったって、2歳馬のレースに古馬を混ぜるような、そんな真似はしたくないな」
なんの前触れもなく、第三者が会話に入り込んだ。背後に現れた気配は2つ。そこにいる人物と馬の正体は、聞こえた声がユタカではない時点で、振り向く前からわかっていた。
影のような漆黒の馬体に、トレードマークであり、愛称にもなった真っ白な馬具が映えている。シャドーロールの怪物と呼ばれた三冠馬、ナリタブライアン。その傍らには南井カツミが立っている。コウヘイの知らない、若かりし頃の姿だった。
「どうも、南井先生。わざわざ口に出して否定したってことは、有馬記念ですね？」
「その通り。挑戦者は、福永くんとコントレイルでいいか？」
「待ってください！福永先輩たちはさっき走ったばかりで」
「コウヘイ、よせ」
「でも！
「タクトには、走れんやろ」
静かに現実を告げられ、コウヘイはその先に続ける言葉を失った。デアリングタクトに2500mは、コントレイル以上に長すぎる。ここでコウヘイが言い募ったところで、ユーイチとコントレイルは走らなければならないのだ。
「どうして今になって、そんな福永先輩たちにばかり走らせるような真似を」
「……予想は話せる。でも、流石にここでは言えん」
ユーイチがカツミを見ながら言った。視線を向けられた本人は愉快そうに笑っている。
「なんだ、俺が聞いていたらマズい話か？」
「そらまあ、作戦会議みたいなもんなので」
「確かにそれは、俺がいたら話せないな」
徐にカツミが右手を上げ、そして振り下ろした。その動作が合図となって、周囲の風景が描きかえられていく。
メインスタンドは大観衆で埋め尽くされた。年末の大一番、有馬記念を見に集った人々の地を轟かすような歓声が、コウヘイたちを包み込む。遠くに見えるゲートへ向かって、入場してきた馬が次々に駆けていく。カツミもナリタブライアンに乗り、馬上からこちらを見下ろした。
「俺とブライアンは先にゲートへ行っているから、会議が終わったら来てくれるか？」
「随分と俺らの好きにさせてくれるんですね」
「別に俺は、君たちの歴史を否定したいわけじゃないからな。歓声の中で戴冠してほしいという気持ちはわかるが、そのために君たちの勝ち取った勝利をなかったことにするのも違うだろ？」
え、と2人揃って声を上げた。目を丸くしたユーイチに代わって、コウヘイが問いかける。
「じゃあ、南井先生はどうして協力を？」
「ユタカくんに頼まれたからだ。彼とはいろいろと縁があるし、ブライアンに勝利をくれた恩もある。だから了承したんだ。なあ？」
カツミに首筋を軽く叩かれたナリタブライアンは、答えるようにぶる、と鼻を鳴らした。ユタカのためなら、と言いたげな雰囲気だった。
「俺は、勝利の恩を勝利で返すためにここに来た。それもユタカくん直々の5番手指名を受けてな。俺が協力しているのはあくまでもユタカくんだ、そこは履き違えないでくれ。だから歴史を否定したいわけじゃないと言っても、福永くんに花を持たせる気はない。俺とブライアンは全力で君たちを迎え撃つ。そっちもそのつもりで向かってきてほしい」
「……最初から、俺もそのつもりです。準備の時間を貰えるっていうなら、ありがたく使わせてもらいます」
「もちろんだ。お互い、いいレースをしよう」
そう言い残し、カツミとナリタブライアンはゲートに向かって駆けていった。すでに他の馬たちもゲート前に揃っているようだが、ファンファーレは一向に聞こえてこない。言っていた通り、自分たちに時間をくれているらしい。
気付けば、歓声も遠くなっていた。薄膜を挟んだ向こうから響いてくるような聞こえ方だ。作戦会議だとユーイチが言ったからだろうか、ちょうど話の邪魔にならない程度の音量に調節されている。
「風景を変えたり、レースを始めるタイミングを自由にできるだけじゃなくて、こんなこともできるんですね……特異点って、いつもこういう不思議なことが起こるんですか？」
コウヘイの質問に返ってくる答えはなかった。これまで、打てば響くように必ず何かしらの返事をしてきたユーイチが黙り込んでいる。どうかしたのかとユーイチを見たコウヘイは、目を見開いた。
静かな表情で数歩進んでは立ち止まり、じっとコースを観察する。それは芝状態を確認して分析する、いつものユーイチの行動ではある。一見すると集中しているだけにも思えるが、隠し切れずに目元に滲んだ怒りが、平静を取り繕っているのでもあると伝えていた。
ユーイチの分析の邪魔はできない、それは当然だ。だがそれ以上に、凄味すら感じさせる怒気に気圧される。声をかけようにもかけられず、コウヘイはその様子を見ていることしかできなかった。
どれぐらいそうしていただろうか。最後に頷くと、ユーイチは足早にこちらへ戻ってきた。
「コウヘイ、待たせてすまん」
「いえ、大丈夫です。でも福永先輩。その、なんだか」
どうしてそんなに怒っているのか、とは言い難かった。コントレイルを連続で走らせることへの怒りかとも思ったが、それだけではないようにも思う。口ごもったコウヘイの様子を気にするように、デアリングタクトが顔を寄せてきた。コントレイルも同じように、どうかしたのかと言いたげに鼻先でユーイチの肩を軽く突いている。
「……さっき、予想って言うたやろ。あれ撤回するわ」
何度も突いてくるコントレイルを宥めながら、ユーイチは言った。口調は常と変わらないが、声音は僅かに低かった。
「予想やのうて、確信に変わった。ユタカさんは俺を潰しに来とる。せやから、今になって俺とコントレイルを連続で走らせにきた」
「潰す、って」
コウヘイは息を飲む。あまりにも不穏な響きだった。
「レイシフトが終わったときから妙やと思っとった。雷みたいな閃光に、地面に放り出されることなく済んだ着地……今までにはなかったものや」
「確かに、これまでと違うとは思いましたけど……」
「今までのレイシフトは、大元の改変を起こした奴……いちいち面倒やな。もう首謀者でええわ、そいつがやっとるはずや。でも毎回着地が乱暴なのは、首謀者が人をレイシフトさせることに慣れてないからやろうな。だけど今回は全くそんな気配なしに、無事に着地できたやろ。コツを掴んだにしたって、急成長にも程がある。それよりは、慣れてる別の奴がやったと思う方が自然や」
「じゃあ、あの閃光は？」
「恐らく、レイシフトに割り込んだ際の衝撃で起きたものや。誰かが首謀者のレイシフトから俺らを引っこ抜いて、南井先生とブライアンが待つこの場所へレイシフトさせた。人をレイシフトさせることに慣れていて、しかもレイシフトに割り込めるような芸当ができる誰か。そんな人を、俺は1人しか知らん」
「……ユタカさん」
コウヘイがその名を呟くと、ユーイチは頷いた。
「元から考えとったことやけど、俺らが三冠馬にどの順番で挑むかも、恐らく首謀者が決めとる。この特異点は2頭の三冠馬の歴史を改変するために、歴代の三冠馬とその騎手が集って成り立った場所や。三冠馬とのレース順なんて明らかに特異点の核に近いものを、人に決めさせるわけがない」
「だから南井先生は、ユタカさんから直々に5番手を任された、と言っていたんですね。ユタカさんが、本来の5番手の前に割り込ませたから」
「そもそも、送り込まれた先がこの年代の冬の中山の時点で、あの人が俺とコントレイルに走らせたがっとることはわかってた。ディープの有馬かブライアンの有馬しかあり得んから、どっちに転んでも走るのはコントレイルや。首謀者が決めとるはずの挑戦順に、わざわざ逆らってまで用意した舞台。俺らに勝つために、ユタカさんが何かしらの策を練って動いたとしか思えんかった」
コウヘイは、ユーイチとの会話を思い出した。ユタカは本気で自分たちを負かしに来ている、証拠は今回のレースの舞台だ。その言葉の意味をようやく理解できた。
「馬と騎手がどちらも常に万全の状態で向かってくるのは、相手にとってはデメリットやってコウヘイ、言うたよな。俺らがここまで勝ち抜いてきたのを見て、ユタカさんもそれを考えたんやろ。でも馬に過度な負担をかけたくはないから、リセットのシステムは取っ払えん。それで狙いを騎手へ……俺へ絞った」
「それは、どういう」
「コントレイルに、適正外の距離を連続で走らせる。俺をそんな状況に置いて、プレッシャーかけて揺さぶって。それで騎乗を乱したいんか、無理はさせられんって降参させたいんか、どっちを狙ってるのか知らんけど、この際それはどっちでもええわ。腹が立つのは、よりによってユタカさんが、コントレイルまで使って、俺にそんな仕掛けをしてきよったことや」
ユーイチの表情から、取り繕っていた平静さが消えた。宥められて大人しくなっていたコントレイルが、また肩に鼻先を押し付け始める。その仕草はコントレイルなりに、ユーイチを落ち着かせようとしているようにも見えた。
「俺らは一度も負けられん。その覚悟をしてここに来た。こっちに適した距離のレースだけが来る保証やってどこにもない。そんな距離が云々なんてのも、さっきルドルフとやり合ったときに腹括った。こっちはずっとそうやって、覚悟して腹括りながらここまで来たんや。それを今更、その程度の温いプレッシャーかけよって……甘く見られたもんやな。俺からすれば、甘いのはユタカさんの方や。騎手を狙うならそんな遠回りなことせんでも、俺らを回復させなければええ、一番手っ取り早い。それをしないで、馬を使うなんてらしくないことまでして、そんなもんで俺を潰せると、本気で思っとるんかあの人は！」
ユーイチは語気荒く言い放つと、コウヘイが何かを言う隙もなく、コントレイルへと跨った。自身の上に乗った相棒を、コントレイルは振り向いてじっと見ている。
「コントレイル、頼む。勝つで、必ず」
数秒前の激昂は、すでにどこにも見えなかった。腹の底では燃えているのだろうが、それをユーイチが表に出さないのは、乗り手の動揺は馬にも伝わるからだろう。
コントレイルはユーイチの言葉を聞くと、顔を正面に向けた。相棒はいつも通りだと判断したようにも、自分のために再び平静を装ったことをわかっているようにも、どちらとも取れる態度だった。
「行ってくる。コウヘイとタクトは待っててくれ、すぐ決着付けてくるわ」
「……気を付けてください、福永先輩。コントレイルも」
ユーイチに促され、コントレイルがゲートへ向かって駆けていく。遠ざかっていく人馬の背を見送りながら、コウヘイはユーイチがこぼした言葉について考えていた。
「俺らを回復させなければいい、か」
自分たちの疲労までリセットする理由は考えておく、とユーイチは言っていた。だがこの言い方では、まるでユタカがそうしていると確信しているようにも聞こえる。ユタカの思惑を確信したとも言っていたが、振り返ってもそれに至った理由までは語っていない。
ユーイチの優れた分析力は、コウヘイには見えていない何かを捉えているのだろうか。そして、何故かそれを秘したままにしている。
「福永先輩には、何がわかっているんだろう。タクトは、どう思う？」
首筋を撫でてやりながら、相棒に尋ねる。返事はなかったが、デアリングタクトもまた、何か思うところがあるかのように、仲間の背を見つめていた。
少しずつ、歓声が元の音量を取り戻していく。不意に生まれたコウヘイの疑問を他所に、ファンファーレが鳴り響いた。
疫病封鎖地域日本・第5戦
A.D.1994 怪物蓋世術策有馬記念 超えたくば、影を踏め
疫病封鎖地域日本・第6戦 A.D.2006 深淵絶対領空天皇賞・春 英雄の神威は高く、早く、そして強く……
？？？？年
「ここは……」
「京都……やな」
眩い光の渦から目的地に降り立ったコウヘイとユーイチは周囲の様子を伺いつつそれぞれ言葉を口にする。
歴代の三冠馬との闘う為のレイシフトも既に5回を超えた為か、降り立った直後に周りを見て戦いの舞台がどの競馬場なのかがすぐに分かる程度には余裕も出てきた。
「設備は……幸さんの時とあまり変わりませんね」
「せやな。そうすると相手は……」
一通り見渡して行き着いた結論を口にする。
ヒデアキと戦った時とさほど設備に変化のない京都競馬場……この事実が示す今回の対戦相手は──……
「よう、お二人さん。思ったより順調に修正してるみたいやな」
噂をすればなんとやら、ユーイチとコウヘイを包む重苦しい空気とは裏腹に明るい声色で紡がれる軽い言葉に、二人は一斉に声がした方へと顔を向けた。
「……ユタカさん」
「おやまぁ……辛気臭い顔して……二人とも、男前が台無しやで？」
既に黒、青袖、黄鋸歯形の勝負服を着たユタカの登場にユーイチ達を包む空気の重さが増す。一方のユタカは、相変わらず軽い調子でおちょくる様に言葉を放った。
「随分と、余裕そうですね？」
「いや、そうでも無いで？クリストフや岩田くん、ヒデアキ辺りはまぁまぁええ勝負して勝ちそうやとは予想してたけど……まさか岡部さんや南井さんも打ち負かすとは……ちょっと予想外やったわ」
睨め付けながら問い掛けるコウヘイにユタカは調子を変えずに答える。日本競馬の発展の為に、若かりし頃からメディアに積極的にリップサービスも卒なくこなした男の心情を、その表情から窺い知る事は出来ない。
「……２戦連続で俺とコントレイルを有馬で走らせ……そして今、ユタカさんが出て来たって事は……やっぱり、何かイレギュラーが起こっていますね？」
ユタカが現れてから口を閉じていたユーイチが静かに言葉を紡ぐ。瞬間、ユタカの眉が僅かに動いた。
「ほぅ……そう思う理由は？」
「この特異点、大元を作ったのは別の人やとしてもクリストフや岩田くんが居った場所……派生特異点とでも言いますか……それを作ったのは間違いなくユタカさんの家の術式でしょ？つまり、この特異点の根幹の部分に最も近いユタカさんが6番目に出てくる事自体、相手側に何かの不利益……言い換えれば、俺らにとっては状態が好転する出来事が起きたっちゅー寸法や……ちゃいます？」
真っ直ぐに、自分よりも10センチ程度高いユタカの瞳を見据えてユーイチは声に自信を滲ませて言い放つ。
現実世界の栗東トレセンでユタカと対峙し、歴代の三冠馬、三冠牝馬達との戦いへと身を投じた時からユーイチは言葉には出していないがどの様な順番でレースが組まれているのかと言うのを気にしていた。そして、アーモンドアイとジェンティルドンナと続けて戦いをした時、ユーイチはこれまた口にはしなかったが“歴代三冠馬・三冠牝馬と新しい順に戦っていく”と言う仮説を打ち立てた。
しかし、三度目の戦いに現れたのはスティルインラブ──一気に三頭の三冠馬・三冠牝馬を飛び越えた。続いて現れたのはシンボリルドルフ、直近で戦ったのはナリタブライアン……ここで、ユーイチは最初に出した仮説から別の仮説“特異点の根幹から遠い者達から順に戦いへと赴かせている”……と。
実際、今まで対峙したクリストフ、ヤスナリ、ヒデアキ、ユキオ、カツミの5名の態度を見て、彼らが特異点に何らかの関与をしているとは考えられない。
それから、前走……ナリタブライアンとの戦いはユタカが態々レイシフトへ介入をして対戦カードを組んだ。そして、恐らくではあるが、今回はユーイチ達を自分の元ヘと引き寄せた……つまり、首謀者が組んだ対戦カードをユタカは無断で組み替えていると推測が出来る。これらの事からユーイチは一つの解を導き出した。
“現実世界で、この特異点の存在を揺るがせる出来事が起こっている”と──
「……頭の回転が早い奴ちゅうのは、敵に回すと中々厄介やなぁ」
言うのと同時にユタカが右手を上げる。
──パチンッ
乾いた音が凪いだ空気に小さく響く。ユタカを起点に波紋の様に広がる白い光の粒子が空を塗り替え、スタンドに観衆を、ターフに選ばれた人馬を呼ぶ。地を割らんばかりの歓声が大気を震わせる。
粒子の一粒がユーイチの肩に触れた。直後、ユーイチの意思とは無関係に自身を包む服装がノースヒルズの勝負服に、ユーイチのすぐ側に控えていたコントレイルの馬体に鞍等の馬具が装着された。
「っ！？コウヘイ！タクト！」
慌てて振り返るが、一歩後ろに居た筈の後輩達の姿は無かった。視線をそのままスタンドへと移す。果たしてそこに、後輩とその愛馬は居た。満員のスタンドの中で人と馬の組み合わせは異質だ。しかし、周りの観衆がそれを指摘ないのは、それら全てが過去の幻影に過ぎないと言う確かな証拠であった。
「さぁ……邪魔者は降ろした」
「ユタカさん……アンタ！」
「本気で来ぃや……親の七光りの二世コンビ」
滅多に聞かない低音で放たれた挑発の台詞。ユーイチが怒りの視線をぶつけた男のすぐ側には、嘗て“奇跡に最も近いサラブレッド”と呼ばれた衝撃の英雄がユーイチとコントレイルを品定めする様に佇んでいた。
「ど、どうして急にスタンドに……？」
一方、強制的にレースから除外されたコウヘイは震えた声で口にする。
元々、今回の戦いも自分とタクトに出番が無い事は予想をしていた。しかし、今までの戦いはレース開始までに幾らかの時間的な余裕……馬場のチェックや相談事、作戦を立てる時間が少なからず有った。だが、ユタカはその全てを奪って指先一つで自分と相棒を排除し、ユーイチにレースプランを立てる暇を与えずに舞台上へと引き摺り上げた。
『ユタカさんは俺を潰しに来とる』
頭の中で、ナリタブライアンとの戦いの直前にユーイチが口にした言葉が反響する。
「福永、先輩……」
祈る様な声色で言葉を零したコウヘイの視界を、一枚の薄紅の花弁がヒラヒラと舞踊りながら横切った。
『スタートしました。ちょっとディープインパクト！ディープインパクト1馬身から2馬身遅れました、最後方です』
朗々と語る実況を右から左へと流しつつユーイチはコントレイルの手綱を操る。
ゴーグルの下で、目を左右にキョロキョロと動かして記憶の中のレースと特異点で再演されているレースを比較する。
出遅れたディープが最後方からレースを進め、先行争いを制したケンイチ騎乗のブルートルネードが先頭で集団を引っ張っている。
『中団にリンカーンが、そのすぐ外に一頭が付けました。内は……』
リンカーンに併せ馬をする形でレースを進める自分自身とコントレイルが居る以外は、ユーイチの記憶と寸分の狂いも無くレースは進む。
(クッソ、よりにもよってこの距離でレースしながら作戦組まんとアカンなんて……！)
声に出さずに吐き捨てる。ユーイチにとって、コントレイルと共に駆け抜けたレースで最も過酷だったのは京都・3000mの菊花賞。実況で二度、三度「苦しいか？」と言われたが、コントレイルは並外れた勝負根性を持って見事に猛追するアリストテレスを凌ぎ切って勝利を手にした。
(あの時、3000mを走り切ったコイツは今までに無く位疲弊してた……)
明らかに今までのレースでは見せなかった疲労の色が濃い表情を見て、管理調教師である矢作に対し長距離戦への出走を控える様に進言したのは他ならぬユーイチ。そして、矢作自身もレース展開を見てコントレイルには長距離の適性が高くない事を確信し、関係各位で協議に協議を重ねて菊花賞後のレースを有馬記念ではなくジャパンカップへと決定した。
その判断が、正しかったのかは今でも分からない。2020年のジャパンカップ敗戦の後、ユーイチとコントレイルが歩んだのは暗い曇天が広がる空の下だった。
ぬかるんだ馬場に脚を取られ3着に沈んだ大阪杯、「前走の疲労が抜け切っていない」と言う名目で回避した宝塚記念、ダービー惜敗を糧に成長した横山タケシとエフフォーリアの背をすぐ後ろで眺めてゴール板を通過した天皇賞・秋……
これらの事象を元に世間はコントレイルに対し“最弱の三冠馬”のレッテルを貼り、心無い人間によるバッシングが数多くユーイチ達の元へと投げ付けられた。
(けど、コイツは……いや、俺らは諦めんかった……！)
最初の敗戦の場を最後の戦いの舞台に決めた。1年前の借りを返す為にと人間が決めた舞台に、コントレイル自身がどう思っていたのかは分からない。
けれど、彼はその足で、走りで、頭上に広がる暗雲を切り裂き、自ら取り戻した青空に一条の飛行機雲を残して最後のレースを勝利した。
それを、取り戻す為ならば、距離の壁などユーイチとコントレイルには何の障害にもならない。
(コントレイルに3200を勝つ事は難しい……けど、例え長距離の適性が低いとしても長距離レースを勝てない訳やない)
1周目の4コーナーを通過しつつ、ユーイチは思考をフル回転させて過去の、適性が低い馬が勝利を飾った長距離レースを振り返る。
その中で、今回の戦いにおいて有益な二つのレースを脳内でピックアップする。
一つは、父・福永ヨーイチが初めて八大競走を制したニホンピロムーテの菊花賞。もう一つは父の同期であり、数刻前に対峙した岡部ユキオが制したクシロキングの天皇賞・春。
(どっちのレースも、最初は態と脚を溜め、馬が最も得意とする距離になった瞬間に本来のレースを始めた……つまり、一つのレースを意図的に二つのレースに分割する事によって距離適性の壁を超えた)
ならば、自分がすべき事は決まった。決意を固めたユーイチが手綱を引く。相棒からのゴーサインに、ターフを蹴るコントレイルの足に力が篭る。
『先頭はブルートルネード、半馬身差でトウカイトリック。そのすぐ後ろに一頭、4番手にビッグゴールド、シルクフェ……おおっと！』
実況が馬名を伝える事を途中で放棄し、悲鳴に近い叫び声を上げる。直後、観衆からもどよめきが上がった。
『ディープインパクト！ディープインパクトが外から物凄い勢いで馬群を抜き去っていく！凄い脚で現在7番目から6番目へと上がっていく！2コーナーからスパートを掛けた武ユタカとディープインパクト！これは大丈夫なのか！？』
「はぁ！？」
絶叫する実況に負けるとも劣らない声で叫びを上げるユーイチ。
一瞬、顔を外へと向けて後ろを確認すると、ユタカとディープインパクトは既にユーイチ達のすぐ後ろへと迫っていた。
「クッソがぁ……っ！」
力の限りの悪態をつくと、鞭を引き勢いそのままに抜き振り下ろす。パンッと言う乾いた音が響くのと同時に、コントレイルがターフを踏む力がもう一段階強くなった。
『ディープインパクト！ディープインパクトともう一頭！既に坂を下り切って残り600m！マッチレース、マッチレースです！他馬を寄せ付けず、二頭だけのマッチレースです！』
興奮気味に伝える実況に呼応して上がる歓声。過去の幻影が埋め尽くす中で、ただ一組の現実の存在であるコウヘイとデアリングタクトはこの京都競馬場を包む何かを薄っすらと肌に感じる始めた。
「……タクト、考えたくは……無いけど」
不安げに顔を寄せる相棒の首筋を撫でながら、コウヘイは血の気の失せた顔で口を開く。
「もしかしたら、この戦い……福永、先輩は……」
「あぁ……彼は、負ける」
コウヘイが口には出来なかった言葉を、放つ声がした。
過去の幻影達が発する声とは全く性質が違う……しっかりと己の意志を持つ自分のすぐ隣から上がった声にコウヘイはそちらへと顔を向けた。
「やぁ……はじめまして、松山コウヘイ。13番目の戴冠者」
視線の先に居たのは背の低い男と体高の高い黒鹿毛の牡馬。男は、コウヘイを見ると微笑みと共に静かな声で言葉を紡ぐ。
男の柔らかいハズの声と笑みから昏く、冷たいモノを感じる。本能が、この男は敵だと叫び声を上げる。
「あぁ、そんなに警戒をしないでくれ。可愛い後輩にそんな風に睨まれるのは私も少し傷つくから」
「あなたは……一体？」
「それは、今ここでは言えないな。……付いてきなさい。この競走は、既に福永ユーイチの敗北と言う決着が付けられている」
「っ！そんなの、まだ……！」
『ここでディープインパクト突き放した！リードが1馬身、2馬身……どんどん広がっていきます！残り200m！リンカーンともう一頭が追走するもこれはもう追いつけそうにありません！ディープインパクト独走状態です！』
鼓膜を震わせる実況に、コウヘイの言葉が止まる。ゆっくりと、視線をターフへと戻すとゴール板を先頭で駆け抜けるディープインパクト姿が飛び込んできた。
「……さぁ、行こう……松山コウヘイ」
「……はい」
再度、付いてくる様に促す男にコウヘイは絶望に染まった声で返事をした。
『ディープインパクト先頭だ！ディープインパクト、ディープインパクト圧勝でゴールイン！』
見たくない現実を告げる言霊がユーイチの耳を貫く。
間違いなく、坂を下り切った時、残り600m地点ではコントレイルの方がリードをしていた。記憶の中のこのレースでディープインパクトがスパートを掛けたのは2週目の第３コーナー。そこから一気に先行集団を抜き去り先頭に立つと一気にゴールまで駆け抜けた。
(だから……先頭から3番手辺りの位置をキープしつつコイツの脚を溜めて、ユタカさん達がスパートを掛ける直前、3コーナー手前でこっちがスパートを……)
コントレイルから降りて、レースを追想する。走りながら出来る精一杯の作戦を考え抜いて実行に移した。記憶の中の2006年の天皇賞・春を思い起こして組み立てた作戦に一分の隙も無かった……そう、自負している。
(あぁ……そうか……)
そこで、敗因に気が付いた。
(記憶の中と同じレースをするやろって……決め付けたせいで……)
振り返れば、記憶と違う展開のレースは幾つか有った。しかし、それは僅差のレースだったり、史実では敗北したレースを選択した場合に多かった。故に、圧倒的な力で他馬を捩じ伏せ、コースレコードを記録したこのレースでユタカが“戦法を変える訳がない”と言う先入観が生まれた。
それ故に──……
「……負けた」
零れ落ちた言葉がユーイチへと重くのし掛かった。
「そう、負けた。決して負ける事が出来ない戦いに……お前は負けたんや、ユーイチ」
「……ユタカさん」
いつの間にか歓声が止み、ターフ上に居た他の馬や騎手達も姿が消えていた。
ザクザクと芝を踏み締めてやって来たユタカの名を、力の無い声で呼ぶ。視線の先の男の周囲に展開された複数の魔法陣は怪しく光を放っている。
「……俺とコイツの足跡を、消すんですね？」
「悪いな……でも、コレがお前の為なんや……あの疫病さえ無かったら、お前はミドリさんに──」
ユタカが自分に狙いを術の定めて何かを言っている。けれど、ユーイチの耳には届かない。
敗北したと言う現実が、愛馬と共に刻んだ歴史が自分に中から消え去ると言う事実が、ユーイチの意識を深い闇に中へとゆっくりと沈めていく。
ふと、何かが肩を押す感覚がした。ゆっくりとそちらへ視線を向けると、コントレイルがユーイチを励ます様に鼻先を押し付けていた。
「すまんなコントレイル……俺は、お前との絆を……」
守る事が、出来なかった──……
「ちょおっと待ったぁーーー！！」
ユーイチが全てを諦め、特異点による歴史改変を受け入れようとしたまさにその時、叫びと共にユタカとユーイチの間に物凄いスピードで茶色い物体が飛び込んできた。
「え？」
「おいこらアホ。お前、普段のしょーもない特異点作った時に俺らが修正するとダイチ並みの諦めの悪さ発揮するちゅーのに何をあっさり諦めようとしとるんじゃボケ！」
茶色い物体──栗毛のサラブレッドの馬上から飛び降りた男はユーイチの胸倉を掴むと前後に揺さぶりながら若干ガラの悪い関西弁で捲し立てる。
聞き慣れたその声に、闇へと沈んでいたユーイチの意識が勢いよく引っ張り上げられた。
「おい、聞いとんのかユーイチ！おい！」
「え……あ……和田、リュージさん？」
「おう！お前の同期の和田リュージさんや！……ハッ、まさかお前……ちょっと見ん内に同期の顔を思い出せんくらい老化して……可哀想に、コレがアルツハイマーの恐怖か……！」
意識を引き上げられ、現実へと無理やり引き戻されたユーイチは、混乱した。
目の前に居るのは、特異点の歴史改変に飲み込まれたハズの男。決して、救援としてくるハズのない男が、目に前に、しかも何やら懐かしい……けれど、彼と言えばコレが一番似合うと言われている勝負服姿で居る。
あと、ついでにものすっごく失礼な事を言われた事に気がつく。
「おい、誰が痴呆老人やアホ！お前こそ自分を和田リュージと思っとる異常者ちゃうか？」
「違いますー！正真正銘の和田リュージですー！そもそもお前の知り合いにこんな男前居らんやろ？」
歯を見せてニカッと笑う。その仕草が、表情が、目の前の男が同期であり無二の親友本人だと明確に物語っている。
「リュージ！でも、お前どうして……？」
「特異点の歴史改変に俺が大人しく飲まれるワケないやろ！……と、自信満々に言いたいとこやが、実際にはお前と別れた後に違和感持って、そんでミサキのフリしたダイチが来てなんやかんやで本当の2020年の事を思い出してこっち来たんや、オペさんらと一緒にな」
そう言ってリュージは自分の側に控えている栗毛のサラブレッドへと視線を送る。つられて其方へと顔を向けると、そこには世紀末覇王の異名と共に年間無敗と言う未だにどの人馬も到達出来ない頂きへとリュージと共に駆け上がった優駿の姿があった。
「テイエムオペラオー……これ本物なん？」
「俺がオペさん間違える訳ないやろ！正真正銘、本物のテイエムオペラオーや！」
「いや……だって、オペラオーって随分前に亡くなって……」
「和田くん！オペラオー！間に合ったかい？」
問い掛けを遮る様に割って入って来た聞き慣れぬ声に、ユーイチは声がした方へ身体ごと視線を移した。その先には、一頭の栗毛の牝馬を従えた小柄な男がコチラへと走ってくる姿が見えた。
「チョウキチさん！」
「いきなりオペラオーと君が飛び出していったからビックリしたよ……はじめまして、福永ユーイチくん。僕の名前は前田チョウキチ、こっちは相棒のクリフジだ」
「はじめまして……って、クリフジに前田チョウキチ！？おい、リュージこれは一体……」
「──やはり、あのまま消滅はしなかったか、チョウキチ」
背後から、静かな静かな声が響いた。直後、ユーイチ達の肩にズンッと何かが重くのし掛かる。リュージ達の登場に幾らか穏やかになっていた場の空気が一気に張り詰める。
ゆっくりと、振り返る。本能が叫び声を上げる。この声の主こそが、この特異点を作り出した者だと、声高に叫ぶ。
そうして振り返ったその先には……
「こんにちは、14番目の戴冠者──福永ユーイチ」
柔和な笑みを浮かべた男が一人、彼の従者の様に佇む黒鹿毛の牡馬が一頭、そこには居た。
「……はじめまして、首謀者さん」
「おや？一目で分かったのかい？」
「えぇ……優しく笑ってる様に見えますけど、アンタの殺気……ダダ漏れですから」
「なるほど……どうやら、君の闘志はまだ消えていないよう……いや、若きの日に苦楽を共にした者が現れて接木がされたと言う方が正しいか……とにかく、まだ特異点の修正は諦めていない様だね」
「えぇ……ここに来てくれた同期の……残念ハンサムのお陰で」
横から「おい、どう言う意味や！？」と言うリュージの声と不満げに嘶くオペラオーの声が聞こえるが、今はその様な些末な事を気にしている時ではない。
首謀者の男は、笑みを崩さない。しかし、その顔に僅かに安堵の色が滲んだ様にユーイチには見えた。
「どうやら、君はまだ“あちら側の人間”みたいだ。だから、彼らの所へ行きない……松山コウヘイ」
顔を横に向け、何もない空間へと言葉を投げる。直後、そこから二つの影が飛び出し、真っ直ぐユーイチ達の方へと飛び込んできた。
「福永先輩！コントレイル！」
「コウヘイ！タクト！」
「良かった……無事、だったんですね」
「あぁ……どうにか、改変も何も受けてへん」
影の正体はコウヘイとデアリングタクト。レース前と変わらぬ様子のユーイチを見て安堵したコウヘイは、へなへなとその場に座り込んだ。
「おい、大丈夫か？」
「はい、安心したら気が抜けて……」
「……小西さん、この茶番はなんです？」
ユーイチがコウヘイへと手を差し伸べた瞬間、またも背中から冷たい声が貫く。
リュージとオペラオーの乱入や首謀者の登場で思考から零れ落ちていたが、ユーイチはユタカに敗北をし、特異点による歴史改変を受ける瞬間だったのである。
「それは私のセリフだ武ユタカ。君、私が組んだ対戦順を故意に改竄したね？自身と『英雄』が福永ユーイチと『飛行機雲』に確実に勝利する為に、岡部ユキオと『皇帝』、南井カツミと『怪物』を連続で彼らにぶつける……ほんの僅か……それこそ福永ユーイチ本人さえ気が付かない精神的な疲労を与え思考の回転速度を幾らか落とし、その上で彼の十八番である馬場の解析と競争展開の予測を封じて壇上へと引き摺り上げる……少し、やり過ぎだ」
怒気を孕んだ声で言い終えると、スッと右手を上げた。直後、ユタカの首に光の糸が絡み付き、皮膚の染み込む様に消えた。
「何しました？」
「規約の改定と共に君に与えていた一部の特権を凍結させてもらった。幸ヒデアキの時の様に競争に紛れ込まれたら困るからね……そう言う訳で、これから彼は君達と同じ位になる」
言って、首謀者の男──小西キゾウは振り返る。同時に、誰もが居なかった彼の背後に7人の騎手が現れた。各々が三つの冠をその頭上に戴いたその時の勝負服を身に纏った姿で、虚空より彼等は現れ出た。
「彼らが、三冠騎手……キゾウ先輩とセントライトの蹄跡を継ぐ者達……」
「やっぱ揃うと迫力が有るなぁ……ケンイチとか一緒に寝起きドッキリした仲やっちゅーのに……」
「なんか人少なくなってますね？クリストフや岩田くんは居るのに幸先輩や岡部さん、南井さんらが居らんのはなんでです？」
「岡部ユキオと南井カツミは此方へレイシフトするまでに円卓の間へ戻って来なかったからね。もしかしたら入れ違いになってしまったのかも知れない」
「岡部さんと南井さん……待ってください。幸さんは？そっちに戻っていないなら、幸さんはどこに居るんですか！？」
「落ち着きなさい松山コウヘイ。幸ヒデアキ、彼……いや、“彼ら”は君達の目の前に居るよ？」
「……え？」
一瞬の間を置いて、三度、それは起きた。何もない虚空から音もなく人影が四つ、魔法の様に……改変された現実世界の栗東と美浦で特異点修正の為の鍵を探していたコウシロウとヒデアキ、ダイチ……そして、ヒデアキがユーイチ達の前に現れた。
「幸さん！」
「コウシロウくん、ヒデアキくん！」
「ダイチ！？なんで急に……？」
「それは、どちらかと言うとコッチが……」
「キゾウさん。俺やダイチ君達をこの特異点に強制レイシフトさせたのは……どうしてですか？」
混乱するダイチ達をよそに、ヒデアキは対峙するキゾウを見据え静かに問い掛けた。かつて、円卓の一員としてあちら側に居たヒデアキだけは、何かの理由や思惑があってキゾウが自分達を裏切った己と、そして行動を共にするダイチ達をこの特異点へと強制的にレイシフトさせたのだと即座に理解をした。
「怖い顔をしないでくれ幸ヒデアキ。私はただ、特異点の主……聖杯の持ち主としてこの盤面に居る者達全員に効率的に規約の改定を知らせる義務があるからね。最も手っ取り早い方法が君達ここへ招待する事だったまでだよ」
「そう、ですか……今は、その言葉を信じます」
「ありがとう幸ヒデアキ。──それにしても」
柔かにヒデアキと会話をしていたキゾウが顔から笑みを消す。ヒデアキから外した視線が、ダイチを貫いた。
「……っ」
「……なるほど。君は、中々面白い男だな柴田ダイチ。“戦績”は我々から最も遠いが“ちのえにし”は近い場所に居る……うん。そう言う事であれば、ある意味で君も盤面に上がるには足る存在と言う訳か……よろしい、君も歓迎しよう」
「それは……どうも」
数秒眺め、品定めが終わるとキゾウは再び柔和な笑みを作り言葉を紡ぐ。自分へと向けられた言葉の中に含まれた皮肉に苦虫を噛み潰した表情でダイチはそれに返した。
「さて、改めて……私の名前は小西キゾウ。この特異点の王にして歴史改変……つまり、“二頭の三冠馬の正しき歴史を取り戻す為に歴戦の三冠馬との戦い”の首謀者だ。私は松山コウヘイと福永ユーイチの両名が相棒である『大胆な戦略家』と『飛行機雲』と共に正々堂々と戦い、いずれ私の元へ到達する事を望んだ。──しかし、ある段階で此方側の一人が恣意的に対戦順を操作し、私の望まない形で福永ユーイチへ敗北を刻み付けた」
語る口調は穏やかだが、その声からは自身が決めた対戦順に介入し、ある種の悪意を持ってユーイチとコントレイルを潰しにきたユタカへの怒りが滲み出ている。
「また、私の願いを聖杯が拡大解釈した事や、その他の様々な外的要因により現れた複数の介入者により、この戦いは私が本来描いていたものとは違う形へと変貌してきている」
視線がリュージ達へと注がれる。“年間無敗”により秋古馬三冠を達成した栗毛と“生涯無敗”を貫いた栗毛の変則三冠馬は互いの相棒の側でキゾウを見つめる。
「そこで、この戦いにおける規約を一部変更させて貰った。まず、この2006年の特異点は私の権限によって一時的に封印をさせて貰う。これを解くには私と武ユタカを除いた残り5組の三冠人馬へ、様々な意味合いを持つ“無敗三冠人馬”である福永ユーイチ達4組が勝利する事。つまり、先程の競走による福永ユーイチと『飛行機雲』の敗戦は無効とする。しかし、それではあまりにも彼らが有利になる。そこで未だ対戦の盤面に上がっていない5組の人馬は、既に敗れ去った5組の──まだ我々の同胞であると言う前提が必要では有るが……人馬より1組を選び、共に福永ユーイチらを迎え討つ……と言う規約を追加させて貰う」
宣言の後、静寂が京都競馬場を包み込む。その場の全員の視線が、ヒデアキへと集中する。
「……俺に、そっちに戻れって言う事ですか？」
「あぁ……だが、どうにも君の我々と袂を別つと言う決意は揺るがなそうだな幸ヒデアキ」
「当たり前です。俺は、コウヘイちゃん達の為に動くって決めたんです」
「そうか、ならば仕方ない……蛯名マサヨシ」
「はい？」
「次の戦い、大変だとは思うが君と『真紅の鳥』で『飛行機雲』達の内の選ばれた2組と戦ってくれ」
「……分かりました。善処します」
キゾウの言葉に溜め息を吐いて返す蛯名マサヨシ。キゾウが自分とアパパネを次戦へと態々指名したのは、ユタカとディープインパクトとの他の人馬よりも深い縁故……つまり、言外に“彼らのやらかしの尻拭いをしろ”と言う命令がそこにはあった。
「それから最後に一つ、現実世界においても行動する者が出た以上“制限時間”が必要だろう」
言うとキゾウの掌に小さな砂時計が現れた。
「この砂時計の砂が全て落ち切るまでに私の元に福永ユーイチと松山コウヘイ達が私の待つ特異点へと到達する事、幸ヒデアキと柴田ダイチ達が現実世界へと隠匿したこの特異点の核の一部を発見する事……この二つが達成されなかった場合、特異点の修正は永遠に不可能になる」
「キゾウ先輩、なんて事を！？」
「そんなちっこい砂時計時計なんてあっちゅーまに砂が全部落ち切るやろが！？こんの、卑怯……」
キゾウの発言に憤慨するチョウキチとリュージ。詰め寄ろうとしたリュージをヒデノリは右手で制した。
「待って下さい和田さん。あれ、普通の砂時計とちゃいます」
「なんや特殊な魔術が仕込まれてるな……アレ、兄貴が提供したウチの術式の一部を聖杯に飲み込ませて組み替えとる感じか？」
「流石は武ユタカに連なる者達だね、武コウシロウ、武ヒデノリ。君達が察した通り、この砂時計は君達一族の魔術の一部を私が聖杯を使い独自に解体、再構築した魔術込められている。この大きさだが、砂が落ち切るまでに掛かる時間は現実世界では概ね4時間程だ。この限られた時間の内に、君達が私の元へ到達する事を期待しているよ」
笑みを崩さぬまま穏やかな声色で紡ぐキゾウ。言葉と共に掌の上の砂時計が一人でにひっくり返る。砂粒が一つずつ、ゆっくり静かに落ち始める。それに呼応する様に、空やスタンド、ターフビジョン等の特異点構成する風景がボロボロと崩れ落ち、闇が広がって行く。
「それでは、健闘を祈っているよ」
その言葉を最後にキゾウ達円卓を構成する三冠人馬の姿が消えた。崩れ落ちる2006年の京都競馬場に残されたのはユーイチ達だけである。
「俺らも早よこの特異点離れるで。このままやったらここの封鎖に巻き込まれて身動き取れんくなる」
見慣れた風景を飲み込んで広がる闇を見てユーイチは静かに言う。その言葉に全員が頷いた。
「えぇ、とりあえずどこ行きます幸先輩？トレセンでは何も見つからんかったし……」
「さっき言っただろコウシロウくん。君と俺が行くべき場所は“3番目の戴冠の地”……つまり、現実世界の京都競馬場だ」
「俺とヒデノリは現実世界へ戻ったら横浜へ向かいます」
「横浜？どう言う事やダイチ？」
「さっき俺を見た小西キゾウさんが言っただろ、俺には“ちのえにし”が有るって……それで確信が持てた。幸先輩が言った“最初の戴冠の場所”とは旧根岸競馬場……今、ネオスが世話になってる馬の博物館のすぐ側って事だ。……ただ」
「ただ？どうしたダイチ？」
「いや……何でもない。今はとにかく行動をしないと、時間も限られてるし……それに」
怪訝そうに見つめるリュージに対してダイチは話題を変える様に右手を上げた。その指先は、黄金色の細かい光の粒子となって闇の中に解けて消えてゆく。
「強制退去ってヤツだな。幸先輩達も同じ様な状態になってる……お互い、それぞれの場所でベストを尽くそう」
「……せやな。俺も、久しぶりにオペさんと一緒に暴れてやるで！」
新たな決意を決める同期二人を、少し離れた場所から眺めるユーイチ。その隣に、コウヘイが静かに並んだ。
「……福永先輩」
「なんや、コウヘイ？」
「残りの戦い……全て勝って、ユタカさんにも勝って……あのキゾウって人の所へ、必ず行きましょう！」
「当たり前や！自分は何も間違ってないってあの澄ました顔を大差でぶっ千切って歪ませたる！」
強い声で叫ぶユーイチとコウヘイ。その叫ぶに応える様に、新たなる戦いのステージへ誘う光の渦が展開し始めた──……
疫病封鎖地域日本・第6戦
A.D.2006 深淵絶対領空天皇賞・春 英雄の神威は高く、早く、そして強く……
「ここは……」
「京都……やな」
眩い光の渦から目的地に降り立ったコウヘイとユーイチは周囲の様子を伺いつつそれぞれ言葉を口にする。
歴代の三冠馬との闘う為のレイシフトも既に5回を超えた為か、降り立った直後に周りを見て戦いの舞台がどの競馬場なのかがすぐに分かる程度には余裕も出てきた。
「設備は……幸さんの時とあまり変わりませんね」
「せやな。そうすると相手は……」
一通り見渡して行き着いた結論を口にする。
ヒデアキと戦った時とさほど設備に変化のない京都競馬場……この事実が示す今回の対戦相手は──……
「よう、お二人さん。思ったより順調に修正してるみたいやな」
噂をすればなんとやら、ユーイチとコウヘイを包む重苦しい空気とは裏腹に明るい声色で紡がれる軽い言葉に、二人は一斉に声がした方へと顔を向けた。
「……ユタカさん」
「おやまぁ……辛気臭い顔して……二人とも、男前が台無しやで？」
既に黒、青袖、黄鋸歯形の勝負服を着たユタカの登場にユーイチ達を包む空気の重さが増す。一方のユタカは、相変わらず軽い調子でおちょくる様に言葉を放った。
「随分と、余裕そうですね？」
「いや、そうでも無いで？クリストフや岩田くん、ヒデアキ辺りはまぁまぁええ勝負して勝ちそうやとは予想してたけど……まさか岡部さんや南井さんも打ち負かすとは……ちょっと予想外やったわ」
睨め付けながら問い掛けるコウヘイにユタカは調子を変えずに答える。日本競馬の発展の為に、若かりし頃からメディアに積極的にリップサービスも卒なくこなした男の心情を、その表情から窺い知る事は出来ない。
「……２戦連続で俺とコントレイルを有馬で走らせ……そして今、ユタカさんが出て来たって事は……やっぱり、何かイレギュラーが起こっていますね？」
ユタカが現れてから口を閉じていたユーイチが静かに言葉を紡ぐ。瞬間、ユタカの眉が僅かに動いた。
「ほぅ……そう思う理由は？」
「この特異点、大元を作ったのは別の人やとしてもクリストフや岩田くんが居った場所……派生特異点とでも言いますか……それを作ったのは間違いなくユタカさんの家の術式でしょ？つまり、この特異点の根幹の部分に最も近いユタカさんが6番目に出てくる事自体、相手側に何かの不利益……言い換えれば、俺らにとっては状態が好転する出来事が起きたっちゅー寸法や……ちゃいます？」
真っ直ぐに、自分よりも10センチ程度高いユタカの瞳を見据えてユーイチは声に自信を滲ませて言い放つ。
現実世界の栗東トレセンでユタカと対峙し、歴代の三冠馬、三冠牝馬達との戦いへと身を投じた時からユーイチは言葉には出していないがどの様な順番でレースが組まれているのかと言うのを気にしていた。そして、アーモンドアイとジェンティルドンナと続けて戦いをした時、ユーイチはこれまた口にはしなかったが“歴代三冠馬・三冠牝馬と新しい順に戦っていく”と言う仮説を打ち立てた。
しかし、三度目の戦いに現れたのはスティルインラブ──一気に三頭の三冠馬・三冠牝馬を飛び越えた。続いて現れたのはシンボリルドルフ、直近で戦ったのはナリタブライアン……ここで、ユーイチは最初に出した仮説から別の仮説“特異点の根幹から遠い者達から順に戦いへと赴かせている”……と。
実際、今まで対峙したクリストフ、ヤスナリ、ヒデアキ、ユキオ、カツミの5名の態度を見て、彼らが特異点に何らかの関与をしているとは考えられない。
それから、前走……ナリタブライアンとの戦いはユタカが態々レイシフトへ介入をして対戦カードを組んだ。そして、恐らくではあるが、今回はユーイチ達を自分の元ヘと引き寄せた……つまり、首謀者が組んだ対戦カードをユタカは無断で組み替えていると推測が出来る。これらの事からユーイチは一つの解を導き出した。
“現実世界で、この特異点の存在を揺るがせる出来事が起こっている”と──
「……頭の回転が早い奴ちゅうのは、敵に回すと中々厄介やなぁ」
言うのと同時にユタカが右手を上げる。
──パチンッ
乾いた音が凪いだ空気に小さく響く。ユタカを起点に波紋の様に広がる白い光の粒子が空を塗り替え、スタンドに観衆を、ターフに選ばれた人馬を呼ぶ。地を割らんばかりの歓声が大気を震わせる。
粒子の一粒がユーイチの肩に触れた。直後、ユーイチの意思とは無関係に自身を包む服装がノースヒルズの勝負服に、ユーイチのすぐ側に控えていたコントレイルの馬体に鞍等の馬具が装着された。
「っ！？コウヘイ！タクト！」
慌てて振り返るが、一歩後ろに居た筈の後輩達の姿は無かった。視線をそのままスタンドへと移す。果たしてそこに、後輩とその愛馬は居た。満員のスタンドの中で人と馬の組み合わせは異質だ。しかし、周りの観衆がそれを指摘ないのは、それら全てが過去の幻影に過ぎないと言う確かな証拠であった。
「さぁ……邪魔者は降ろした」
「ユタカさん……アンタ！」
「本気で来ぃや……親の七光りの二世コンビ」
滅多に聞かない低音で放たれた挑発の台詞。ユーイチが怒りの視線をぶつけた男のすぐ側には、嘗て“奇跡に最も近いサラブレッド”と呼ばれた衝撃の英雄がユーイチとコントレイルを品定めする様に佇んでいた。
「ど、どうして急にスタンドに……？」
一方、強制的にレースから除外されたコウヘイは震えた声で口にする。
元々、今回の戦いも自分とタクトに出番が無い事は予想をしていた。しかし、今までの戦いはレース開始までに幾らかの時間的な余裕……馬場のチェックや相談事、作戦を立てる時間が少なからず有った。だが、ユタカはその全てを奪って指先一つで自分と相棒を排除し、ユーイチにレースプランを立てる暇を与えずに舞台上へと引き摺り上げた。
『ユタカさんは俺を潰しに来とる』
頭の中で、ナリタブライアンとの戦いの直前にユーイチが口にした言葉が反響する。
「福永、先輩……」
祈る様な声色で言葉を零したコウヘイの視界を、一枚の薄紅の花弁がヒラヒラと舞踊りながら横切った。
『スタートしました。ちょっとディープインパクト！ディープインパクト1馬身から2馬身遅れました、最後方です』
朗々と語る実況を右から左へと流しつつユーイチはコントレイルの手綱を操る。
ゴーグルの下で、目を左右にキョロキョロと動かして記憶の中のレースと特異点で再演されているレースを比較する。
出遅れたディープが最後方からレースを進め、先行争いを制したケンイチ騎乗のブルートルネードが先頭で集団を引っ張っている。
『中団にリンカーンが、そのすぐ外に一頭が付けました。内は……』
リンカーンに併せ馬をする形でレースを進める自分自身とコントレイルが居る以外は、ユーイチの記憶と寸分の狂いも無くレースは進む。
(クッソ、よりにもよってこの距離でレースしながら作戦組まんとアカンなんて……！)
声に出さずに吐き捨てる。ユーイチにとって、コントレイルと共に駆け抜けたレースで最も過酷だったのは京都・3000mの菊花賞。実況で二度、三度「苦しいか？」と言われたが、コントレイルは並外れた勝負根性を持って見事に猛追するアリストテレスを凌ぎ切って勝利を手にした。
(あの時、3000mを走り切ったコイツは今までに無く位疲弊してた……)
明らかに今までのレースでは見せなかった疲労の色が濃い表情を見て、管理調教師である矢作に対し長距離戦への出走を控える様に進言したのは他ならぬユーイチ。そして、矢作自身もレース展開を見てコントレイルには長距離の適性が高くない事を確信し、関係各位で協議に協議を重ねて菊花賞後のレースを有馬記念ではなくジャパンカップへと決定した。
その判断が、正しかったのかは今でも分からない。2020年のジャパンカップ敗戦の後、ユーイチとコントレイルが歩んだのは暗い曇天が広がる空の下だった。
ぬかるんだ馬場に脚を取られ3着に沈んだ大阪杯、「前走の疲労が抜け切っていない」と言う名目で回避した宝塚記念、ダービー惜敗を糧に成長した横山タケシとエフフォーリアの背をすぐ後ろで眺めてゴール板を通過した天皇賞・秋……
これらの事象を元に世間はコントレイルに対し“最弱の三冠馬”のレッテルを貼り、心無い人間によるバッシングが数多くユーイチ達の元へと投げ付けられた。
(けど、コイツは……いや、俺らは諦めんかった……！)
最初の敗戦の場を最後の戦いの舞台に決めた。1年前の借りを返す為にと人間が決めた舞台に、コントレイル自身がどう思っていたのかは分からない。
けれど、彼はその足で、走りで、頭上に広がる暗雲を切り裂き、自ら取り戻した青空に一条の飛行機雲を残して最後のレースを勝利した。
それを、取り戻す為ならば、距離の壁などユーイチとコントレイルには何の障害にもならない。
(コントレイルに3200を勝つ事は難しい……けど、例え長距離の適性が低いとしても長距離レースを勝てない訳やない)
1周目の4コーナーを通過しつつ、ユーイチは思考をフル回転させて過去の、適性が低い馬が勝利を飾った長距離レースを振り返る。
その中で、今回の戦いにおいて有益な二つのレースを脳内でピックアップする。
一つは、父・福永ヨーイチが初めて八大競走を制したニホンピロムーテの菊花賞。もう一つは父の同期であり、数刻前に対峙した岡部ユキオが制したクシロキングの天皇賞・春。
(どっちのレースも、最初は態と脚を溜め、馬が最も得意とする距離になった瞬間に本来のレースを始めた……つまり、一つのレースを意図的に二つのレースに分割する事によって距離適性の壁を超えた)
ならば、自分がすべき事は決まった。決意を固めたユーイチが手綱を引く。相棒からのゴーサインに、ターフを蹴るコントレイルの足に力が篭る。
『先頭はブルートルネード、半馬身差でトウカイトリック。そのすぐ後ろに一頭、4番手にビッグゴールド、シルクフェ……おおっと！』
実況が馬名を伝える事を途中で放棄し、悲鳴に近い叫び声を上げる。直後、観衆からもどよめきが上がった。
『ディープインパクト！ディープインパクトが外から物凄い勢いで馬群を抜き去っていく！凄い脚で現在7番目から6番目へと上がっていく！2コーナーからスパートを掛けた武ユタカとディープインパクト！これは大丈夫なのか！？』
「はぁ！？」
絶叫する実況に負けるとも劣らない声で叫びを上げるユーイチ。
一瞬、顔を外へと向けて後ろを確認すると、ユタカとディープインパクトは既にユーイチ達のすぐ後ろへと迫っていた。
「クッソがぁ……っ！」
力の限りの悪態をつくと、鞭を引き勢いそのままに抜き振り下ろす。パンッと言う乾いた音が響くのと同時に、コントレイルがターフを踏む力がもう一段階強くなった。
『ディープインパクト！ディープインパクトともう一頭！既に坂を下り切って残り600m！マッチレース、マッチレースです！他馬を寄せ付けず、二頭だけのマッチレースです！』
興奮気味に伝える実況に呼応して上がる歓声。過去の幻影が埋め尽くす中で、ただ一組の現実の存在であるコウヘイとデアリングタクトはこの京都競馬場を包む何かを薄っすらと肌に感じる始めた。
「……タクト、考えたくは……無いけど」
不安げに顔を寄せる相棒の首筋を撫でながら、コウヘイは血の気の失せた顔で口を開く。
「もしかしたら、この戦い……福永、先輩は……」
「あぁ……彼は、負ける」
コウヘイが口には出来なかった言葉を、放つ声がした。
過去の幻影達が発する声とは全く性質が違う……しっかりと己の意志を持つ自分のすぐ隣から上がった声にコウヘイはそちらへと顔を向けた。
「やぁ……はじめまして、松山コウヘイ。13番目の戴冠者」
視線の先に居たのは背の低い男と体高の高い黒鹿毛の牡馬。男は、コウヘイを見ると微笑みと共に静かな声で言葉を紡ぐ。
男の柔らかいハズの声と笑みから昏く、冷たいモノを感じる。本能が、この男は敵だと叫び声を上げる。
「あぁ、そんなに警戒をしないでくれ。可愛い後輩にそんな風に睨まれるのは私も少し傷つくから」
「あなたは……一体？」
「それは、今ここでは言えないな。……付いてきなさい。この競走は、既に福永ユーイチの敗北と言う決着が付けられている」
「っ！そんなの、まだ……！」
『ここでディープインパクト突き放した！リードが1馬身、2馬身……どんどん広がっていきます！残り200m！リンカーンともう一頭が追走するもこれはもう追いつけそうにありません！ディープインパクト独走状態です！』
鼓膜を震わせる実況に、コウヘイの言葉が止まる。ゆっくりと、視線をターフへと戻すとゴール板を先頭で駆け抜けるディープインパクト姿が飛び込んできた。
「……さぁ、行こう……松山コウヘイ」
「……はい」
再度、付いてくる様に促す男にコウヘイは絶望に染まった声で返事をした。
『ディープインパクト先頭だ！ディープインパクト、ディープインパクト圧勝でゴールイン！』
見たくない現実を告げる言霊がユーイチの耳を貫く。
間違いなく、坂を下り切った時、残り600m地点ではコントレイルの方がリードをしていた。記憶の中のこのレースでディープインパクトがスパートを掛けたのは2週目の第３コーナー。そこから一気に先行集団を抜き去り先頭に立つと一気にゴールまで駆け抜けた。
(だから……先頭から3番手辺りの位置をキープしつつコイツの脚を溜めて、ユタカさん達がスパートを掛ける直前、3コーナー手前でこっちがスパートを……)
コントレイルから降りて、レースを追想する。走りながら出来る精一杯の作戦を考え抜いて実行に移した。記憶の中の2006年の天皇賞・春を思い起こして組み立てた作戦に一分の隙も無かった……そう、自負している。
(あぁ……そうか……)
そこで、敗因に気が付いた。
(記憶の中と同じレースをするやろって……決め付けたせいで……)
振り返れば、記憶と違う展開のレースは幾つか有った。しかし、それは僅差のレースだったり、史実では敗北したレースを選択した場合に多かった。故に、圧倒的な力で他馬を捩じ伏せ、コースレコードを記録したこのレースでユタカが“戦法を変える訳がない”と言う先入観が生まれた。
それ故に──……
「……負けた」
零れ落ちた言葉がユーイチへと重くのし掛かった。
「そう、負けた。決して負ける事が出来ない戦いに……お前は負けたんや、ユーイチ」
「……ユタカさん」
いつの間にか歓声が止み、ターフ上に居た他の馬や騎手達も姿が消えていた。
ザクザクと芝を踏み締めてやって来たユタカの名を、力の無い声で呼ぶ。視線の先の男の周囲に展開された複数の魔法陣は怪しく光を放っている。
「……俺とコイツの足跡を、消すんですね？」
「悪いな……でも、コレがお前の為なんや……あの疫病さえ無かったら、お前はミドリさんに──」
ユタカが自分に狙いを術の定めて何かを言っている。けれど、ユーイチの耳には届かない。
敗北したと言う現実が、愛馬と共に刻んだ歴史が自分に中から消え去ると言う事実が、ユーイチの意識を深い闇に中へとゆっくりと沈めていく。
ふと、何かが肩を押す感覚がした。ゆっくりとそちらへ視線を向けると、コントレイルがユーイチを励ます様に鼻先を押し付けていた。
「すまんなコントレイル……俺は、お前との絆を……」
守る事が、出来なかった──……
「ちょおっと待ったぁーーー！！」
ユーイチが全てを諦め、特異点による歴史改変を受け入れようとしたまさにその時、叫びと共にユタカとユーイチの間に物凄いスピードで茶色い物体が飛び込んできた。
「え？」
「おいこらアホ。お前、普段のしょーもない特異点作った時に俺らが修正するとダイチ並みの諦めの悪さ発揮するちゅーのに何をあっさり諦めようとしとるんじゃボケ！」
茶色い物体──栗毛のサラブレッドの馬上から飛び降りた男はユーイチの胸倉を掴むと前後に揺さぶりながら若干ガラの悪い関西弁で捲し立てる。
聞き慣れたその声に、闇へと沈んでいたユーイチの意識が勢いよく引っ張り上げられた。
「おい、聞いとんのかユーイチ！おい！」
「え……あ……和田、リュージさん？」
「おう！お前の同期の和田リュージさんや！……ハッ、まさかお前……ちょっと見ん内に同期の顔を思い出せんくらい老化して……可哀想に、コレがアルツハイマーの恐怖か……！」
意識を引き上げられ、現実へと無理やり引き戻されたユーイチは、混乱した。
目の前に居るのは、特異点の歴史改変に飲み込まれたハズの男。決して、救援としてくるハズのない男が、目に前に、しかも何やら懐かしい……けれど、彼と言えばコレが一番似合うと言われている勝負服姿で居る。
あと、ついでにものすっごく失礼な事を言われた事に気がつく。
「おい、誰が痴呆老人やアホ！お前こそ自分を和田リュージと思っとる異常者ちゃうか？」
「違いますー！正真正銘の和田リュージですー！そもそもお前の知り合いにこんな男前居らんやろ？」
歯を見せてニカッと笑う。その仕草が、表情が、目の前の男が同期であり無二の親友本人だと明確に物語っている。
「リュージ！でも、お前どうして……？」
「特異点の歴史改変に俺が大人しく飲まれるワケないやろ！……と、自信満々に言いたいとこやが、実際にはお前と別れた後に違和感持って、そんでミサキのフリしたダイチが来てなんやかんやで本当の2020年の事を思い出してこっち来たんや、オペさんらと一緒にな」
そう言ってリュージは自分の側に控えている栗毛のサラブレッドへと視線を送る。つられて其方へと顔を向けると、そこには世紀末覇王の異名と共に年間無敗と言う未だにどの人馬も到達出来ない頂きへとリュージと共に駆け上がった優駿の姿があった。
「テイエムオペラオー……これ本物なん？」
「俺がオペさん間違える訳ないやろ！正真正銘、本物のテイエムオペラオーや！」
「いや……だって、オペラオーって随分前に亡くなって……」
「和田くん！オペラオー！間に合ったかい？」
問い掛けを遮る様に割って入って来た聞き慣れぬ声に、ユーイチは声がした方へ身体ごと視線を移した。その先には、一頭の栗毛の牝馬を従えた小柄な男がコチラへと走ってくる姿が見えた。
「チョウキチさん！」
「いきなりオペラオーと君が飛び出していったからビックリしたよ……はじめまして、福永ユーイチくん。僕の名前は前田チョウキチ、こっちは相棒のクリフジだ」
「はじめまして……って、クリフジに前田チョウキチ！？おい、リュージこれは一体……」
「──やはり、あのまま消滅はしなかったか、チョウキチ」
背後から、静かな静かな声が響いた。直後、ユーイチ達の肩にズンッと何かが重くのし掛かる。リュージ達の登場に幾らか穏やかになっていた場の空気が一気に張り詰める。
ゆっくりと、振り返る。本能が叫び声を上げる。この声の主こそが、この特異点を作り出した者だと、声高に叫ぶ。
そうして振り返ったその先には……
「こんにちは、14番目の戴冠者──福永ユーイチ」
柔和な笑みを浮かべた男が一人、彼の従者の様に佇む黒鹿毛の牡馬が一頭、そこには居た。
「……はじめまして、首謀者さん」
「おや？一目で分かったのかい？」
「えぇ……優しく笑ってる様に見えますけど、アンタの殺気……ダダ漏れですから」
「なるほど……どうやら、君の闘志はまだ消えていないよう……いや、若きの日に苦楽を共にした者が現れて接木がされたと言う方が正しいか……とにかく、まだ特異点の修正は諦めていない様だね」
「えぇ……ここに来てくれた同期の……残念ハンサムのお陰で」
横から「おい、どう言う意味や！？」と言うリュージの声と不満げに嘶くオペラオーの声が聞こえるが、今はその様な些末な事を気にしている時ではない。
首謀者の男は、笑みを崩さない。しかし、その顔に僅かに安堵の色が滲んだ様にユーイチには見えた。
「どうやら、君はまだ“あちら側の人間”みたいだ。だから、彼らの所へ行きない……松山コウヘイ」
顔を横に向け、何もない空間へと言葉を投げる。直後、そこから二つの影が飛び出し、真っ直ぐユーイチ達の方へと飛び込んできた。
「福永先輩！コントレイル！」
「コウヘイ！タクト！」
「良かった……無事、だったんですね」
「あぁ……どうにか、改変も何も受けてへん」
影の正体はコウヘイとデアリングタクト。レース前と変わらぬ様子のユーイチを見て安堵したコウヘイは、へなへなとその場に座り込んだ。
「おい、大丈夫か？」
「はい、安心したら気が抜けて……」
「……小西さん、この茶番はなんです？」
ユーイチがコウヘイへと手を差し伸べた瞬間、またも背中から冷たい声が貫く。
リュージとオペラオーの乱入や首謀者の登場で思考から零れ落ちていたが、ユーイチはユタカに敗北をし、特異点による歴史改変を受ける瞬間だったのである。
「それは私のセリフだ武ユタカ。君、私が組んだ対戦順を故意に改竄したね？自身と『英雄』が福永ユーイチと『飛行機雲』に確実に勝利する為に、岡部ユキオと『皇帝』、南井カツミと『怪物』を連続で彼らにぶつける……ほんの僅か……それこそ福永ユーイチ本人さえ気が付かない精神的な疲労を与え思考の回転速度を幾らか落とし、その上で彼の十八番である馬場の解析と競争展開の予測を封じて壇上へと引き摺り上げる……少し、やり過ぎだ」
怒気を孕んだ声で言い終えると、スッと右手を上げた。直後、ユタカの首に光の糸が絡み付き、皮膚の染み込む様に消えた。
「何しました？」
「規約の改定と共に君に与えていた一部の特権を凍結させてもらった。幸ヒデアキの時の様に競争に紛れ込まれたら困るからね……そう言う訳で、これから彼は君達と同じ位になる」
言って、首謀者の男──小西キゾウは振り返る。同時に、誰もが居なかった彼の背後に7人の騎手が現れた。各々が三つの冠をその頭上に戴いたその時の勝負服を身に纏った姿で、虚空より彼等は現れ出た。
「彼らが、三冠騎手……キゾウ先輩とセントライトの蹄跡を継ぐ者達……」
「やっぱ揃うと迫力が有るなぁ……ケンイチとか一緒に寝起きドッキリした仲やっちゅーのに……」
「なんか人少なくなってますね？クリストフや岩田くんは居るのに幸先輩や岡部さん、南井さんらが居らんのはなんでです？」
「岡部ユキオと南井カツミは此方へレイシフトするまでに円卓の間へ戻って来なかったからね。もしかしたら入れ違いになってしまったのかも知れない」
「岡部さんと南井さん……待ってください。幸さんは？そっちに戻っていないなら、幸さんはどこに居るんですか！？」
「落ち着きなさい松山コウヘイ。幸ヒデアキ、彼……いや、“彼ら”は君達の目の前に居るよ？」
「……え？」
一瞬の間を置いて、三度、それは起きた。何もない虚空から音もなく人影が四つ、魔法の様に……改変された現実世界の栗東と美浦で特異点修正の為の鍵を探していたコウシロウとヒデアキ、ダイチ……そして、ヒデアキがユーイチ達の前に現れた。
「幸さん！」
「コウシロウくん、ヒデアキくん！」
「ダイチ！？なんで急に……？」
「それは、どちらかと言うとコッチが……」
「キゾウさん。俺やダイチ君達をこの特異点に強制レイシフトさせたのは……どうしてですか？」
混乱するダイチ達をよそに、ヒデアキは対峙するキゾウを見据え静かに問い掛けた。かつて、円卓の一員としてあちら側に居たヒデアキだけは、何かの理由や思惑があってキゾウが自分達を裏切った己と、そして行動を共にするダイチ達をこの特異点へと強制的にレイシフトさせたのだと即座に理解をした。
「怖い顔をしないでくれ幸ヒデアキ。私はただ、特異点の主……聖杯の持ち主としてこの盤面に居る者達全員に効率的に規約の改定を知らせる義務があるからね。最も手っ取り早い方法が君達ここへ招待する事だったまでだよ」
「そう、ですか……今は、その言葉を信じます」
「ありがとう幸ヒデアキ。──それにしても」
柔かにヒデアキと会話をしていたキゾウが顔から笑みを消す。ヒデアキから外した視線が、ダイチを貫いた。
「……っ」
「……なるほど。君は、中々面白い男だな柴田ダイチ。“戦績”は我々から最も遠いが“ちのえにし”は近い場所に居る……うん。そう言う事であれば、ある意味で君も盤面に上がるには足る存在と言う訳か……よろしい、君も歓迎しよう」
「それは……どうも」
数秒眺め、品定めが終わるとキゾウは再び柔和な笑みを作り言葉を紡ぐ。自分へと向けられた言葉の中に含まれた皮肉に苦虫を噛み潰した表情でダイチはそれに返した。
「さて、改めて……私の名前は小西キゾウ。この特異点の王にして歴史改変……つまり、“二頭の三冠馬の正しき歴史を取り戻す為に歴戦の三冠馬との戦い”の首謀者だ。私は松山コウヘイと福永ユーイチの両名が相棒である『大胆な戦略家』と『飛行機雲』と共に正々堂々と戦い、いずれ私の元へ到達する事を望んだ。──しかし、ある段階で此方側の一人が恣意的に対戦順を操作し、私の望まない形で福永ユーイチへ敗北を刻み付けた」
語る口調は穏やかだが、その声からは自身が決めた対戦順に介入し、ある種の悪意を持ってユーイチとコントレイルを潰しにきたユタカへの怒りが滲み出ている。
「また、私の願いを聖杯が拡大解釈した事や、その他の様々な外的要因により現れた複数の介入者により、この戦いは私が本来描いていたものとは違う形へと変貌してきている」
視線がリュージ達へと注がれる。“年間無敗”により秋古馬三冠を達成した栗毛と“生涯無敗”を貫いた栗毛の変則三冠馬は互いの相棒の側でキゾウを見つめる。
「そこで、この戦いにおける規約を一部変更させて貰った。まず、この2006年の特異点は私の権限によって一時的に封印をさせて貰う。これを解くには私と武ユタカを除いた残り5組の三冠人馬へ、様々な意味合いを持つ“無敗三冠人馬”である福永ユーイチ達4組が勝利する事。つまり、先程の競走による福永ユーイチと『飛行機雲』の敗戦は無効とする。しかし、それではあまりにも彼らが有利になる。そこで未だ対戦の盤面に上がっていない5組の人馬は、既に敗れ去った5組の──まだ我々の同胞であると言う前提が必要では有るが……人馬より1組を選び、共に福永ユーイチらを迎え討つ……と言う規約を追加させて貰う」
宣言の後、静寂が京都競馬場を包み込む。その場の全員の視線が、ヒデアキへと集中する。
「……俺に、そっちに戻れって言う事ですか？」
「あぁ……だが、どうにも君の我々と袂を別つと言う決意は揺るがなそうだな幸ヒデアキ」
「当たり前です。俺は、コウヘイちゃん達の為に動くって決めたんです」
「そうか、ならば仕方ない……蛯名マサヨシ」
「はい？」
「次の戦い、大変だとは思うが君と『真紅の鳥』で『飛行機雲』達の内の選ばれた2組と戦ってくれ」
「……分かりました。善処します」
キゾウの言葉に溜め息を吐いて返す蛯名マサヨシ。キゾウが自分とアパパネを次戦へと態々指名したのは、ユタカとディープインパクトとの他の人馬よりも深い縁故……つまり、言外に“彼らのやらかしの尻拭いをしろ”と言う命令がそこにはあった。
「それから最後に一つ、現実世界においても行動する者が出た以上“制限時間”が必要だろう」
言うとキゾウの掌に小さな砂時計が現れた。
「この砂時計の砂が全て落ち切るまでに私の元に福永ユーイチと松山コウヘイ達が私の待つ特異点へと到達する事、幸ヒデアキと柴田ダイチ達が現実世界へと隠匿したこの特異点の核の一部を発見する事……この二つが達成されなかった場合、特異点の修正は永遠に不可能になる」
「キゾウ先輩、なんて事を！？」
「そんなちっこい砂時計時計なんてあっちゅーまに砂が全部落ち切るやろが！？こんの、卑怯……」
キゾウの発言に憤慨するチョウキチとリュージ。詰め寄ろうとしたリュージをヒデノリは右手で制した。
「待って下さい和田さん。あれ、普通の砂時計とちゃいます」
「なんや特殊な魔術が仕込まれてるな……アレ、兄貴が提供したウチの術式の一部を聖杯に飲み込ませて組み替えとる感じか？」
「流石は武ユタカに連なる者達だね、武コウシロウ、武ヒデノリ。君達が察した通り、この砂時計は君達一族の魔術の一部を私が聖杯を使い独自に解体、再構築した魔術込められている。この大きさだが、砂が落ち切るまでに掛かる時間は現実世界では概ね4時間程だ。この限られた時間の内に、君達が私の元へ到達する事を期待しているよ」
笑みを崩さぬまま穏やかな声色で紡ぐキゾウ。言葉と共に掌の上の砂時計が一人でにひっくり返る。砂粒が一つずつ、ゆっくり静かに落ち始める。それに呼応する様に、空やスタンド、ターフビジョン等の特異点構成する風景がボロボロと崩れ落ち、闇が広がって行く。
「それでは、健闘を祈っているよ」
その言葉を最後にキゾウ達円卓を構成する三冠人馬の姿が消えた。崩れ落ちる2006年の京都競馬場に残されたのはユーイチ達だけである。
「俺らも早よこの特異点離れるで。このままやったらここの封鎖に巻き込まれて身動き取れんくなる」
見慣れた風景を飲み込んで広がる闇を見てユーイチは静かに言う。その言葉に全員が頷いた。
「えぇ、とりあえずどこ行きます幸先輩？トレセンでは何も見つからんかったし……」
「さっき言っただろコウシロウくん。君と俺が行くべき場所は“3番目の戴冠の地”……つまり、現実世界の京都競馬場だ」
「俺とヒデノリは現実世界へ戻ったら横浜へ向かいます」
「横浜？どう言う事やダイチ？」
「さっき俺を見た小西キゾウさんが言っただろ、俺には“ちのえにし”が有るって……それで確信が持てた。幸先輩が言った“最初の戴冠の場所”とは旧根岸競馬場……今、ネオスが世話になってる馬の博物館のすぐ側って事だ。……ただ」
「ただ？どうしたダイチ？」
「いや……何でもない。今はとにかく行動をしないと、時間も限られてるし……それに」
怪訝そうに見つめるリュージに対してダイチは話題を変える様に右手を上げた。その指先は、黄金色の細かい光の粒子となって闇の中に解けて消えてゆく。
「強制退去ってヤツだな。幸先輩達も同じ様な状態になってる……お互い、それぞれの場所でベストを尽くそう」
「……せやな。俺も、久しぶりにオペさんと一緒に暴れてやるで！」
新たな決意を決める同期二人を、少し離れた場所から眺めるユーイチ。その隣に、コウヘイが静かに並んだ。
「……福永先輩」
「なんや、コウヘイ？」
「残りの戦い……全て勝って、ユタカさんにも勝って……あのキゾウって人の所へ、必ず行きましょう！」
「当たり前や！自分は何も間違ってないってあの澄ました顔を大差でぶっ千切って歪ませたる！」
強い声で叫ぶユーイチとコウヘイ。その叫ぶに応える様に、新たなる戦いのステージへ誘う光の渦が展開し始めた──……
疫病封鎖地域日本・第6戦
A.D.2006 深淵絶対領空天皇賞・春 英雄の神威は高く、早く、そして強く……
最新コメント