A.D.2012 金色芸術世界ロンシャン

A.D.2012 競馬定礎値C+

金色芸術世界ロンシャン呪縛の凱旋門

A.D.2012 金色芸術世界ロンシャン呪縛の凱旋門

※この物語はフィクションです。実際の人物・作品等より着想を得ていますがそれらとは関係ございません。またそれらと設定的にそぐわない部分・意図的に誤った呼称を採用している箇所がございます。

【プロローグ①】

一つの芸術があった。
それは、眩いばかりの黄金。
それは、見事なまでの蹂躙。
それは、熱狂と歓声の中を吹き抜ける疾風であり、目に映る敵すべてを蹴散らす暴威であった。　

─────はやい。

観る者たちには興奮を、追われる者たちには絶望をもたらす、美しき暴君。
猛然と駆け抜けあっと言う間に他者を置き去りにする、激情の覇者。
今やその他には誰の姿も目に映らない。

─────はやい。はやすぎる。

悲願が達成されようとしている。
初めて挑んだ時から半世紀ほど、いやきっとそれよりもっと前からの願いであり、やがて呪いとなった悲願が。

今この瞬間─────その栗毛の馬体は確かに、世界の頂きに君臨した。

【プロローグ② 異変】

2021年夏

リュージ「ん…何か、夢を見てたような…あれは凱旋門…？」

早朝。心なしかいつもより気だるさを感じながら、騎手・和田リュージは目を覚ます。

リュージ「はぁ…昨日のこと引きずってんのか俺。乗り替わりなんてよくあることやってのに…我ながら女々しいな」

昨日のこと───彼が主戦を務める競走馬・ディープボンド号の凱旋門賞挑戦において、自分ではなく現地の腕利きが騎手となることを正式に告げられたことを思い出す。
永らく日本競馬が悲願としてきた海外G1制覇へ挑む中で、過去に騎手変更の憂き目にあってきた名手は何人もいた。
そして海外G1制覇が珍しいものではなくなった今もそれは度々起きている。

ましてや1969年の初挑戦以来ずっと苦渋を舐めてきた凱旋門賞である。
フランス・ロンシャンのコースや欧州のレース運び、そして世界一の大舞台という重圧。
それを知らない者と知っている者、まして勝利を収めたことのある者とではどちらを頼りたいか。
いくらその馬のことをよく知っていても、天秤がこちらに振れないことは仕方ない───そう頭では理解していた。

リュージ「凱旋門、か…」
リュージ「俺はロンシャンには行かれへん…くそっ…」
リュージ「………切り替えよう。なってしまったもんはしゃーない！他にも乗らなアカン馬は沢山おるんや、もう引きずるな」

覚悟はしていたつもりだったが、それでも拭いきれない悔しさはある。
しかし、彼の騎乗を待つ馬は一頭だけではない。
そのことに救いを感じ、今日も彼らの力となるべく、リュージはトレセンへと向かった。

リュウセイ「お疲れ様です和田さん!」

トレセンに到着し仕事の準備にかかろうとしていた時、後輩に声をかけられた。
彼の名は坂井リュウセイ。まだ20台半ばながら既に数々の国で経験を積んで腕を磨いており、新進気鋭の若手騎手の1人とされている。
その腕と経験を買われ、日本馬でのフランスG1・フォレ賞への挑戦が控えているとの話だ。

リュージ「おー、お疲れリュウセイ、おはよう」
リュウセイ「おはようございます！ちょっとお聞きしたいんですけど、和田さんはいつ頃フランス入りされるんですか？」

リュージ(……なんて間の悪い…)

一瞬嫌味を言われたような気持ちになりかけたリュージだったが、何の悪意もなく聞いてくる真面目な好青年の顔を見てすぐに卑屈な感情は消えた。
まだ何も知らずにいるのであろう後輩の純粋な質問に、努めて普通のトーンで返答する。

リュージ「いや、ボンドに乗るのは俺やない」
リュウセイ「何いってんすか和田さん！フォア賞も本番も和田さんが乗るんでしょ？僕もエントシャイデンとロンシャン走りますからお互い頑張りましょう！」
リュージ「は…？」

ボンドの主戦騎手である自分が乗らないと言っているのにそれを事もなげに否定され、リュージは困惑した。
何かおかしい…とふと視線を落とすと、リュウセイが手にしていた新聞の文字が目に入った。
そこには【ボンド、和田とのコンビで凱旋門へ！オーナーが明言】とある。
我が目を疑うリュージだったが、次の瞬間さらに信じがたい言葉が耳に飛び込んできた。

リュウセイ「しかし日本の騎手の地位もほんと上がりましたよね～。それもこれも池添さんがオルフェーヴルと凱旋門、さらにはBCクラシックまで勝って人馬共に日本初の大偉業を達成してくれたおかげですよ」
リュージ「！！！」

池添。池添ケンイチ。
彼こそ凱旋門賞で騎手交代の憂き目にあった人物そのものであり、その彼が主戦を務めた馬こそオルフェーヴル号だった。
彼らはクラシック三冠に加え秋春とグランプリ連覇を果たすもコンビ変更となり、最後の最後にオルフェーヴルの悪癖によって2着となって悲願達成を逃した。
その翌年もまた1度目と同じ騎手で挑むも2着となっていたし、アメリカ最高のレースであるBCクラシックに至っては出走すらしていない。
───その、はずだ。

リュウセイ「あれ、どうされました和田さん？」

明らかに自分の知っているものとは違う歴史を語られて混乱している顔を見て、リュウセイは心配そうに声をかける。

リュージ「い、いや…なんでもない…スマン、ちょっと急用思い出したからまたな！！」

とにかく一度落ち着きたいという一心でリュージはその場を離れ、人気のないところに向かった。
しかしその道中でも複数の競馬関係者から「凱旋門頑張れよ」などと応援され、かえってリュージの混乱は深まるばかりだった。

リュージ「何なんや…？アイツ何を言ってたんや！？俺が凱旋門に乗る？ゾエがオルフェで勝った？？意味がわからん…！！しかも皆そう思ってる雰囲気やぞ…一体何がどうなってんねん…！？」

その時、理解できない状況に頭を抱えるリュージの前に近づく者がいた。

ディープボンド「……………」
リュージ「は…？ボンド？お前なんでここに………って、お前ひとりか！？まさか放馬…」
ディープボンド「ぷぼ～」

本来この場に、しかも一頭きりでいるはずのない相棒の姿に驚愕するリュージをよそに、ボンドはなんとも間の抜けた鳴き声をあげる。
すると次の瞬間───

ギュウウウゥゥゥン…

リュージ「な…何や！？うわあああああぁぁぁぁぁ………！」

リュージはボンドと共に、突如現れた渦のようなものに飲み込まれていった。

【プロローグ③ 中庭の邂逅】

？？？「…なさい…ージ……目覚めなさい………和田リュージよ」
リュージ「ん…一体何が…」
？？？「目覚めましたか。和田リュージ。」
リュージ「はい？………え、どちら様です…？てか何ここ…？」

謎の渦に巻き込まれたリュージが目覚めると、目の前に神々しさすら感じる美人が立っていた。
周りには大きな噴水や木々があり、さらにその周囲を立派な建物が取り囲んでいる。明らかにさっきまでいたトレセンとは違う場所にいる。

リュージ「え、ちょっと待って何ここ…？あとあなたは…」
？？？「さぞ混乱していることでしょうが…まずは私の話を聞いてください。私のことは…そうですね。ダーレイ、とお呼びくだされば」
リュージ「はぁ…ダーレイさん…。え、ダーレーってあのダーレーグループの関係者さんとか……何その耳！？」

状況を飲み込めないリュージに、ダーレイと名乗る女性が語りかける。
リュージはその女性の話を聞こうとしたが、彼女の頭に馬の耳が生えていることに気づき、それに意識を持っていかれてしまった。

ダーレイ「そうではありませんが…当たらずとも遠からずという所でしょうか。耳、触ってみますか？」
リュージ「いや、大丈夫です…。それでダーレイさん、話ってのはどういう？今何がどうなって…。あ！！！それよりボンドは！？馬はどこに！！？」
ダーレイ「ご安心を。ここにいますよ。彼に頼んで貴方を連れてきてもらったんです…その血と、縁と、"深い絆"という名を持つこの子に」
ディープボンド「ブルルルル…」
リュージ「ボンド！良かった無事か！？脚には………変なとこ無さそうやな、ちょっと歩いてみよか。よしよし………うん、歩様もちゃんとしてる…良かった…！」

大事な相棒の脚に異常がなさそうなことを確認したリュージはほっと胸を撫で下ろす。
馬という生き物にとって、脚の異常は死に直結しかねないからだ。

ダーレイ「ふふっ…貴方が来てくれてよかったです」
リュージ「あ…すいません話の途中で………いや、というか何なんです！？何が起こったんですか！？」
ダーレイ「ご説明しましょう。簡単に言うと…貴方の世界で歴史の改変が起きました。過去の歴史が変われば今が大きく変わる…貴方にはそれを修正して頂きたいのです」
リュージ「歴史の…修正…？」

その話を聞いて、リュウセイとのやりとりを思い出す。
確かに過去が大きく変わった結果、今の自分の状況までもが変わっていた。

リュージ「なんで俺がそんな…？それにボンドが俺を連れてきたって…」
ダーレイ「何故かはわかりませんが、貴方は改変の影響を受けていなかった。そこで私はこの子に眠っていたレイシフト能力を呼び起こし、貴方を改変が起きた時代に送り込むことにしたのです」
リュージ「えぇ…無茶苦茶言うやん…それにボンドに、レイ…？なんとか言う能力とかも意味が…」
ダーレイ「レイシフト能力。とりあえず時空を超える力とだけ理解してくだされば」

はっきり言って意味がわからない。またユーイチあたりがドッキリでも仕掛けてきたのか？
リュージはそんな風に思う一方で、本能的にこれがドッキリでも冗談でもなく本当のことだと考える自分がいることを感じていた。

リュージ「そんなん言われてもな…過去の修正とか大層なことできるような人間じゃないし…そんなんどうやったらええんか」
ダーレイ「願いを叶える願望機───聖杯。おそらくそれが、誰かの思い浮かべた"イフ"に反応して改変が起きたと思われます。その誰かに聖杯が渡るのを阻止してください。聖杯の出現に関しては、きっと何らかのレースが関係しているはずですから、この子と一緒に頑張ってください」
リュージ「なんか所々ふわふわしてるけど…要はボンドとレースに出て勝てって？けど過去の競馬にボンドが出ることなんか…」
ダーレイ「そこは"こちら側"の世界の影響を与えて何とかします。歪められた歴史であれば多少の干渉は可能なはずです」

リュージ「そうか…。1ついいですか？この件を修正せんかったら…どうなります？いやそりゃレース結果を歪めるなんて許されへんけど、正直日本の悲願も叶うしゾエも辛い思いせんで済むし、それに…俺も凱旋門でボンドに………」
ダーレイ「…歴史とはほんの些細なズレで大きく変わるものです。仮にこの特異点を放置した場合、日本競馬の悲願達成により多大な影響が出ることは間違いありません。例えばオルフェーヴル号の種牡馬価値が大きく変わることで、産まれてくるはずだった馬が産まれなかったり、無事産まれた馬も全く違う馬生を歩んだりと、おそらく競走馬の生産にも大きな影響が生じるでしょう。当然人間にも人生が大きく変わる者が大勢出てきます。もちろん貴方も…そしてこの子も例外ではありません」
リュージ「………わかった。正直意味不明なまんまではあるけど、とにかくやるだけやってみるわ。よろしくお願いします」

全てを理解できたわけではない。いや、むしろ理解できた部分の方が少ない。
それでも自分や他の人々の人生を、そして大事な相棒や他の馬たちの馬生を狂わせることはしてはいけない。
リュージにとって、この状況を受け入れるにはその一点で十分だった。

ダーレイ「よくぞ言ってくれました。それではレイシフトです。時代は西暦2012年。場所はフランス、パリロンシャン。かの黄金色の芸術が、名実共に世界の暴君と成った特異点へ。レイシフト先では様々な困難が待っているでしょう。現地にいる方々と絆を結び、どうかそれを乗り越えてください。ではディープボンド、お願いしますね」

ディープボンド「ぷぼ～」

ギュウウウゥゥ……

リュージ「ホンマにお前がやってんねんな…凄いなボンド。じゃあダーレイさん、行ってきます」
ダーレイ「…ありがとう。女神の加護を貴方達に」
リュージ「女神…ダーレイさんは女神なんですか？」
ダーレイ「ふふっ…たまたま"こちら側"で三女神なんて呼ばれているだけの、しがないウマ娘ですよ」

…ウウウウン…

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金色芸術世界ロンシャン　呪縛の凱旋門

【第1節　謁見①】

ギュウウウゥゥゥン…………

リュージ「ん…着いたんか？なんか変な感覚やったなあ、妙にぞわぞわするというか…なんか気疲れしたわ」
ディープボンド「ブルルルル…ひひん」ﾓｸﾞﾓｸﾞ
リュージ「…お前はいつも通りやな…。頼もしいというべきかなんというか…」

慣れないレイシフトによる緊張と奇妙な違和感に戸惑うリュージだったが、そんな自分の横でのんびりと草をはむ相棒の姿に力を抜かれる。

リュージ「さて…どこやここ。この感じは…厩舎か？」
ダーレイ（どうやら無事到着したようですね）
リュージ「うわびっくりした！！！！！何何何！！？？」

リュージは周囲を確認しつつ落ち着きを取り戻しかけていたが、突然頭の中に声が響いたことでパニックに陥った。

ダーレイ（落ち着いてください和田リュージ。私です）
リュージ「ダ、ダーレイさん！？何これ！？」
ダーレイ（今、貴方の頭の中に直接話しています。私は同行できませんが、こうして少しの間声を届けることはできるようです）
リュージ「えぇ…」
ダーレイ（早速ですがあまり余裕もないのでお伝えします。そこはシャンティイ地区にあるハモンド厩舎。おそらくその場所に何か意味が…待ってください、誰か来ます。この気配は…？）

？？？「すみません」
リュージ「えっ？」

リュージは唐突に聞こえてきた日本語に面くらいながら振り向く。
今いるのはフランスの厩舎であるはずだが、そこには日本人がいた。

？？？「あぁやっぱり、和田リュージさんとディープボンドですね」
リュージ「え、俺らを知って…？あのすみません、あなたは…」
ヒロオ「申し遅れました、私は清水ヒロオと申します。ここで調教師、じゃなかった厩務員をしてまして、ここにいる間ボンド君の面倒を見させて頂きます」
リュージ「あぁこれはどうも、和田です…えっと、これはいったい…？」
ダーレイ（和田リュージ。彼はこの時代の人ではないようです）
リュージ「は…？」
ダーレイ（彼は現実に存在した人物の影法師…サーバント、世界の使い魔とでも言うべき存在です）
リュージ「サー、バント…？なんかまたようわからん言葉が…」
ヒロオ「…なるほど。合点がいきました。和田さん、それにボンド君も、この時代の人ではないのですね」
リュージ「！！！清水さん、まさか…！」

ヒロオ「はい。私もこの世界におけるよそ者です。正しい歴史では6年後、2018年に調教師として開業し、2020年にこの厩舎を引き継ぎました。ボンド君とは遠征の時に現地厩舎として受け入れた縁があります」
リュージ「じゃああなたもレイなんとかってやつで？」
ダーレイ（レイシフトです和田リュージ。彼については私は関わっていません。おそらく歴史を修正しようとする世界の力、抑止力というものに喚ばれたのでしょう）
ヒロオ「気が付いたらこの特異点にいたんです。なぜかはわかりませんが、歴史の歪みを正さねばという使命感はあって…紆余曲折の末ここでご厄介になりながら情報を集めていくうち、あなた方がここに来ることになっていると知ったんです」
リュージ「なるほど…？」

わけのわからない話に混乱しながらも、リュージはどうにか要点を理解する。
結局のところこの人は目的を同じくし、自分たちを助けてくれる仲間であると知っておけばいいのだ。
そしてその縁を繋いだのは───

ディープボンド「ぷひん」ﾓｯｼｬﾓｯｼｬ
リュージ「"深い絆"か…すごいやつやなお前は。それはそれとしていつまで食うとんねん」
ヒロオ「ではご案内しましょう。早速になりますが、もし問題がなければこの後調教を。フォワ賞まで日がないですから」
リュージ「…はい？フォワ賞？」
ヒロオ「…もしやこの特異点に来られたばかりですか。そうです、もうじき開催されるフォワ賞…凱旋門賞の前哨戦への出走が決まっています。なのでそれに向けて調教する必要があります」
リュージ「ちょっと待ってくれ、フォワ賞…ってことはつまり───」
ダーレイ（いきなりご対面、ということになりますね。金色の暴君─────オルフェーヴルに）

【第1節　謁見②】

リュージ「もう当日か…早いな」

ロンシャン競馬場でリュージは一人、誰に聞かせるでもなくつぶやく。
レイシフトした日にいきなり告げられた、フォワ賞への出走。わずかばかりの時間を経て、もうレース当日を迎えていた。

ダーレイ（調子のほどはどうですか、和田リュージ）
リュージ「いや～…さすがに日がなさすぎた。何故か元々ボンドがそれなりの状態やったし、出来る限り仕上げたからレースに使えるくらいにはなったけど…舞台が舞台だけにな」
ダーレイ（フォワ賞は凱旋門賞と同じロンシャン2400ｍ。ただでさえタフなコースな上、正史におけるこの年の勝者は…）
リュージ「───オルフェーヴル、か」

オルフェーヴル。日本競馬史上7頭目の三冠馬。間違いなく日本競馬史上、そしてこの当時の世界において、最強の一頭に数えられる存在。
その美しい馬体とそれに似合わぬ激しい気性、そして圧倒的な実力による蹂躙で”金色の暴君”と称えられた名馬。
自身も幾度となくその力を見せつけられた、今から相対する馬の名を口にするリュージ。そこへ声をかける者がいた。

？？？「和田さんお疲れさまでーす！なんかめっちゃ老けてません？笑」
リュージ「やかましいわゾエ」
ケンイチ「緊張すか？まあロンシャンですしわかりますけど、今からそんなんじゃ本番ヤバいっすよ」
リュージ「大丈夫や、ちょっとはここに慣れてきたところや。お前はだいぶ余裕そうやな？」
ケンイチ「いやそんなことないっすよ！オルフェとは初海外やし、連勝記録も続いてますからね。ちゃんと力出せば勝てると思ってますけど難しい馬ですし」
ダーレイ（連勝記録、ですか。あの阪神大賞典も、その後の天皇賞・春も、この特異点では勝利しているのですね）

男の名は池添ケンイチ。オルフェーヴルの主戦騎手であり、本来ならこの場にはいないはずの男。
そのケンイチがこのロンシャンにいること、また正史において敗れたレースをも勝利していることが、リュージにここが特異点であることをこれ以上ない実感として伝えていた。
また同時に、抱えていた疑念がより強固になるのを感じていた。

ダーレイ（………和田リュージ。気配を感じます。思った通り───）
リュージ「…そうか。でもそう簡単にはいかんぞ、ゾエ」
ケンイチ「………負けませんよ。俺とオルフェーヴルは」

そう言って立ち去るケンイチの姿を、リュージは複雑な表情で見る。
リュージの疑念。それは聖杯の持ち主───つまりこの特異点の主が、池添ケンイチその人ではないかというものだった。
少し考えればすぐに思い至ることである。この状況が最も理想的である人間とは、他ならぬ彼なのだから。
そしてそれは今しがた、確信に変わった。

ダーレイ（彼から聖杯の気配は感じましたが、そこまで強くありませんでした。やはり聖杯が形を持って顕現するのは本番、ということではないかと）
リュージ「なるほど、ありがとうダーレイさん。でも当然ここも勝ちに行く。走る以上はな」
ダーレイ（…気を付けて）

リュージ「さあ、行くでボンド」
ディープボンド「ブルルッ」

レース直前、馬上から相棒に語り掛けるリュージ。ボンドは気合の入った返事をするかのように短く鳴く。
そして、ゲートが開いた。

ロンシャン2400ｍ。

その果てにふたりが見たものは───

───絶対的な、絶望だった。

【第2節暴君の威容①】

リュージ「さあ、行くでボンド」
ディープボンド「ブルルッ」

レース直前、馬上から相棒に語り掛けるリュージ。ボンドは気合の入った返事をするかのように短く鳴く。
そして、ゲートが開いた。

欧州競馬の傾向として、ハナを主張する馬がおらず日本よりスローな流れになりがちというものがある。そのため大レースともなればラビットと呼ばれるペースメーカーを先頭に立たせ、自陣営の本命馬にとって理想的なペースを作ることは珍しくない。
このフォワ賞においても、オルフェーヴルの帯同馬であるアヴェンティーノがその役目を担おうとしていた。
しかしスタートが良かったこと、加えて少頭数のレースであることも幸いし、ディープボンドはスタート直後から簡単に先頭に立ちレースの主導権を手にできた。

リュージ（よし…理想通りの展開。このまま楽にいかせてもらう）

ディープボンドの強みはスタミナ。そして長く良い脚を使えるところ───平均的な馬よりもトップスピードの持続力があるところだ。
その強みをフルに発揮するため、前半は脚を残せるようにゆったりと、そして途中から徐々に後続馬を削るようにジワジワと流れを速くしていく。
完全に自分のペースを握りリズムよく走るディープボンドの背で、リュージは確かな手応えを掴んでいた。

リュージ（ここまでは完璧…！オルフェーヴルは…まだ最後尾っぽいな。つってもそこまで差はないが……ここから一気に引き離す！）

残り1000ｍを切った辺りでリュージの手が動き出す。最終コーナー前にある“フォルスストレート（偽りの直線）”での仕掛けは通常であればセオリーに反するが、ストライドが大きく加速に時間がかかるディープボンドにとってはベストなタイミング。
みるみるうちに追走するアヴェンティーノら2、3番手を引き離しながら、先頭のまま最後の直線に入った。
脚は十分残している。加速もとっくに完了している。先んじて、しかも先頭でロングスパートをかけた自分たちが追い付かれる道理はない。

───はず、だった。

だが。
トップスピードでコーナーを回り、少しばかり外に膨らんだ自分たちの内側。
1頭分の隙間から、金色の馬体が姿を現した。

リュージ（おいおいおいウソやろ！？なんでそこにおんねん！？）

必死にディープボンドを追うリュージ。その横に並びかけてきたのは、最後方にいたはずのオルフェーヴルと池添ケンイチだった。

リュージ（まさか俺らと同じ…いや、俺らより少し早いタイミングで仕掛けて詰めてきたんか！？そんで得意のコーナーでインを突いて一気に並びかけてきた！すでに入り込まれてる以上蓋はできん、このまま…っ！？）

覚悟を決め、残り400ｍを切ったところでムチを飛ばし追撃を振り切ろうとするリュージ。
しかし、反逆者を蹴散らさんとする暴君は離れるどころか一気にその姿をリュージの視界に現す。

リュージ（一瞬で…！？クソッ…！クソォ！！）

もう一度差し返そうと必死に追いすがるリュージとディープボンド。しかし、それを歯牙にもかけない様子でオルフェーヴルは先を行く。
ふたりの抵抗もむなしく、もはや完全に抜け出されてしまっていた。

リュージ（ここまでか…っ）

今回はあくまで前哨戦。しかも仕上げたとはいえ急なものであり万全というわけではない。
それでも勝算がないとは…これほどまでに力の差があるとは思わなかった。
当然相手を甘く見てもいなかった。甘く見られるわけがない。コース、展開、各々の力量と仕上がり…可能な限り熟慮し、この展開であれば勝負になると思えた通りに事を運んだはずだった。
しかし。

リュージ（ここまで力の差があるんか…！）

つまるところ───敵の力は、はかり知ることなどできないほど大きかったということ。
その後ろ姿に自分たちが挑むモノの底知れなさと恐ろしさを感じながら、ディープボンドとリュージはゴール板を通り過ぎた。

【第2節暴君の威容②】

ダーレイ（お疲れ様でした、お二方）
ヒロオ「お疲れ様でした…良いレースでした」

レース後。戦いを終え戻ってきたふたりに労いの声がかけられる。
だが、声をかけられた者もかけた者も打ちのめされた中のそれは、どこか空虚なものだった。

リュージ「ありがとうございます……すみません。手応えはあると思ったんですが…」
ディープボンド「ブルル………ぷひん…………」
ヒロオ「…相手の帯同馬がコーナー前にうまく内を空けたアシストもありました。頭数も増える本番ではああはならないでしょう。それに3着には1馬身差、どうか気を落とさず…」

ヒロオは努めて冷静な、客観的な物言いで皆を慰めようとする。事実、3着馬は地元フランスの欧州G1・3勝馬。そんな強豪に完勝を収めているのだから、普通なら十分に評価できるレースと言える。
だが…自分自身それが欺瞞とも言えるものだと理解しながら紡ぐ言葉では、誰の気も晴れることはなかった。

リュージ「………ありがとうございます。でもそんな次元の話じゃなかった…。」
ダーレイ（…そうですね…）
リュージ「終始こっちの理想通りの展開で、なおねじ伏せられた。しかも俺らを上回るロングスパートで。それに………ゾエ。あいつ、追ってこそいたが持ったままやった……」
ヒロオ「それで手綱を緩める余裕まであったとなっては………。…完敗、と言わざるを得ません。それも…着差以上の圧倒的な………」
ダーレイ（思っていた以上の…怪物でした。もしかしたら聖杯の力も…）
リュージ「いや、それはない。ゾエは自分たちの力を示すためにこの特異点とやらを作ったはず。なら余計なものはいらんからな。それに…俺は昔、あの馬の怪物ぶりを一番近くで目にしてる」
ダーレイ（…2012年の阪神大賞典、ですか）

2012年、第60回阪神大賞典。正史においてオルフェーヴルが大暴走し完全にレースから離脱したのちもう一度蘇り2着まで戻ってきた、その苛烈な気性と能力の表れとして語り継がれる色んな意味で伝説のレース。
そのレースで大暴走のきっかけとなり、そして3着となった馬に騎乗していた者こそ、和田リュージその人だった。

リュージ「その俺からすれば、今日のレースも純粋にあの馬の力ということに疑う余地はない。力になってるものがあるなら清水さんの言う通りアシストと…あの馬を誰よりわかってるゾエやろうな」
ダーレイ（…なるほど。これはまた…厳しい戦いですね）
ヒロオ「………正直……どう戦えばいいのか。勝ち目があるのか…わからなくなりました。ですがそれでも、私たちは倒さなくてはなりません。あのオルフェーヴルを」
リュージ「清水さん……そうですね…。うし、切り替えよう！すんません弱気言って！じゃあ引き揚げましょう、ボンドもよう頑張ってくれたし休ませたらんとな」
ディープボンド「………ブルル…ッ…」
ヒロオ「そうですね。今晩は何か特別美味いものでも食べましょう。私たちも、もちろんボンド君も」
ディープボンド「…………ぷひん」

自分たちをなんとか奮い立たせようとするヒロオの言葉に呼応し、元気よく振る舞うリュージ。
それを受け、また明るく応対するヒロオたち。
しかし彼らの胸中には敗北の悔しさと─────それ以上に大きい、圧し潰されそうなほどの絶望感が渦巻いていた。

【第3節　目指すものは霧の中に①】

ヒロオ「おはようございます、和田さん」
リュージ「あ、清水さん…おはようございます」

フォワ賞から少し経った、ある日の調教場。
シャンティイの清涼で爽やかな朝の空気に似合わぬ、重苦しい雰囲気の二人が顔を合わせる。

ヒロオ「……どうですか、調子は。きちんと休めてらっしゃいますか」
リュージ「ええ、もちろんです。こう見えてそれなりに騎手やってきてますからね。清水さんこそ大丈夫ですか？」
ヒロオ「私も自慢じゃないですが、このフランスで名門厩舎を引き継いで調教師になった人間ですからね。まあこの特異点ではしがない厩務員ですが、思惑通りいかないことなんて慣れっこですよ」

互いにどこか覇気に欠ける者同士、相手を気遣い、またその不安を振り払う言葉を口にする。その言葉は嘘ではないがまるっきり本当でもない、とどちらも理解しながら。
しかし、相手以上に自分のために、例え白々しさを感じようともこうして振る舞うしかなかった。

競馬とは圧倒的に負けの多いものだ。騎手にしろ調教師にしろ、一流と言われる人間でもその勝率は概ね1割半ばから2割ほどである。
そんな世界に身を置き続けてきたこの2人をしてなお、まだこれほどに引きずってしまうほどのダメージ。
あの敗戦が───オルフェーヴルとケンイチたちが彼らに与えたものはあまりにも重く、深い。

ヒロオ「…ではまた後程落ち合いましょう。ご承知の通りまだ軽い運動程度ですので、ゆっくりと来て頂ければ」
リュージ「了解です。森の中の景色をコイツとじっくり楽しんできますよ。よしゃ、じゃあ行こかボンド」
ディープボンド「ブルルルッ」

ロンシャン2400ｍというタフなレースを駆け抜けたその心身をほぐし癒すため、森の中のウッドチップコースへと歩を進め始めるディープボンド。
傍からはその所作はのんびりとしているように見えるが、鞍上はいつもとは僅かに違う空気感を感じていた。

リュージ（コイツもまだ、あのレースが頭に残っとるんかもしれんな…）

相棒の背に揺られながら、リュージはぼんやりと考える。
彼もまた自分と同じように、あの時の光景が脳裏に焼き付いて離れないのではないか。
悔しさと、焦燥と、そして絶望に苦しんでいるのではないか。
勝算の見えない霧の中、晴らす方法もわからぬまま、それでももがいているのではないか、と。

（…………ジ……）

リュージ（………………）

（…………か………ュージ……！）

リュージ（………………………）

ダーレイ（聞いているのですか、和田リュージ！）
リュージ「うわっ！？何！？」
ダーレイ（まったく…ようやく反応しましたね。どれだけ呼びかけたと思っているのですか）
リュージ「あ…ダーレイさん…。すんません、ちょっとボケっとしてたみたいで…お恥ずかしい…」

少し怒ったように呼びかけるダーレイの声で我に返るリュージ。どうやら知らぬ間に馬上で物思いに耽っていたらしい。
リュージほどの騎手ともなれば騎乗中の動作は頭からつま先に至るまで身体に染みついているし、馬や周囲への気配りは無意識的に行うようになっているので、人気のないコースを歩く程度で危険はない。
とはいえ褒められた話でもないため、リュージはダーレイへ謝罪すると共に己を恥じる。

ダーレイ（………和田リュージ…やはりまだ…）
リュージ「いやいや、大丈夫ですよ…それよりどうされたんです？」
ダーレイ（…何か妙な雰囲気を感じたので、貴方に声をかけたのです。周りに注意してほしいと）
リュージ「妙な雰囲気…ですか。うーん、特に変わった様子は…」

ダーレイの言葉にリュージは辺りを見回す。
森の中にある一本道のウッドチップコース。相棒の蹄と揺れる木々の他には何の音もしない静かな空間。出発時はそうでもなかったが、気付けば白い霧に包まれていて───

リュージ「───いや……確かに何か…。この調教場は霧はよく出るとはいえ少し濃いし、何より…静かすぎんか？いくらなんでも、遠くに薄っすらと他の馬の足音が聞こえてくることもないってのは…」
ディープボンド「………ぷぼっ」
リュージ「ん、どしたボンド、何か───うおっ！？」

周囲に微妙な違和感を覚え足を止めようとしたリュージ。
しかし、それに反して何かに反応したようにディープボンドは駆け出した。

リュージ「待て待て落ち着け！お前はまだあんまり飛ばしたら───」
ダーレイ（この先に何か気配がします！彼はそれに気付いたのでしょう。これは───彼と、似たような…）
リュージ「なんやようわからんけどこの先に何かおるんやな？なら───なおのこと落ち着かんかい、ほら」
ディープボンド「ブルッ、ブルルルッ………ぷぼっ」
リュージ「よーしよし、そうや…。こんな状況や、何があるかわからんのにそんな掛かったら危ないやろ。ただでさえレースから日も浅いんやし焦るな」
ディープボンド「ぷぼん…」

何かに引っ張られるかのように速度を上げ始めた相棒を、手綱を引いてたしなめるリュージ。
ディープボンドもそれに従い、すぐに落ち着きを取り戻した。

ダーレイ（………気配は変わらず感じられます。動く様子もない…。待っている、のでしょうか）
リュージ「そうですか…。ほなお客さんのとこまで行こかボンド。待ってもらって悪いけど、あくまでゆっくりとな」

【第3節　目指すものは霧の中に②】

リュージ「……霧、さっきより濃くなってきたか？気ぃつけなアカンな…その気配とやらにはどれくらい距離あるんです？」
ダーレイ（もうすぐです。慎重に進んでいたので少しかかりましたが、先程の時点でそれなりに近かったですから）
リュージ「そうでしたか…ならサッと見に行けばよかったか？いやでもボンドのことと視界の悪さ、それに特異点とかいう変な世界におるのを考えたら慎重すぎるくらいがええか」
ダーレイ（私もそう思いますよ和田リュージ。しかしこの気配、やはり…。だとすると誰が───………！！）
ディープボンド「ぷるひひん」
リュージ「！！…何か…おるな」

霧の中、数十ｍ程度前方。ディープボンドやダーレイが感じていた気配の主らしき存在の影を、一行は目にする。
万一ディープボンドが暴れたり、最悪襲い掛かられたりした時に備えてリュージは下馬し、相棒の前に出て手綱を引く。
一歩一歩ゆっくりと近寄るにつれ不思議と視界が晴れていくのを感じながら進み……ついにその姿をはっきりと捉えた。
そこにいたのは─────

リュージ「馬…！？それも2頭も、こんなとこに！？」
ダーレイ（！！！）
ディープボンド「ぷぼん」
？？？？？「…………」
？？？？「ブルルッ」

そこにいたのは、2頭の鹿毛の馬。周りに人はいない。霧の中の謎の気配の正体は、まぎれもなくこの2頭であった。
なぜこんなところに、それも2頭で大人しく佇んでいるのかと驚くリュージを尻目に、ディープボンドと2頭の鹿毛たちは鼻面を合わせてのんきに挨拶を交わす。
事情を知らない素人が見ればただただ平穏で牧歌的な光景。しかしその中で、リュージは異様なものを感じていた。

リュージ「待て、なんやこいつら…この風格尋常やないぞ………」
ダーレイ（まさか……そんな。本当に………！？）
リュージ「…ダーレイさん？どうしはったんです？」
ダーレイ（和田リュージ………大変です。間違いありません、彼らは…！！！）

毛色といい、平均的かやや大きめ程度の体高といい、一見いかにも一般的なサラブレッドのような謎の2頭。
しかしその体つきや醸し出される雰囲気は明らかに只者ではない。ホースマンであるリュージはそれを敏感に感じ取った。
そして己を"ウマ娘"と称する女神ダーレイは、リュージよりさらに核心を───すなわちその正体までをも見抜いていた。

ダーレイ（彼らの名は………モンジュー。そして───ダンシング、ブレーヴ…！）

【第4節　継承①】

────数時間後　ハモンド厩舎

ヒロオ「お待たせしました、皆さん」
リュージ「清水さん！ありがとうございます、どうでした…？」
ヒロオ「諸々問題なく収まりました。彼らもうちで預かり、今後はボンド君の調教パートナーとして力を貸してもらいます」

モンジューとダンシングブレーヴに遭遇した後。相談の結果、リュージ達はやはり行動を共にするべきと結論付けた。
そのためヒロオに頼んで、2頭を厩舎の主であるハモンド調教師に引き合わせてもらっていた。
それは今後2頭がここで過ごすための段取りと、もう一つ───確認のためでもあった。

リュージ「そうですか、よかった…。それで清水さん、先生は何と…やっぱり間違いないですか」
ヒロオ「ええ。やはりあの2頭、かのモンジューとダンシングブレーヴに間違いないと。いやぁ…驚きましたよ本当に…」
リュージ「そりゃあ、ねぇ……俺もまだ呑み込めてませんし、ダーレイさんすら最初はまさかって感じでしたもん…」
ヒロオ「まあハモンド先生はこの時代の人間なので、さすがに本物とは思われませんでしたが…。それでもブレーヴについては瓜二つに見えると。モンジューなんかもう本人ならぬ本馬としか思えない、本物じゃないなんて信じられないと大興奮されていました。おかげで行く当てがないならぜひ面倒を見よう、と話も早かったです」
リュージ「ははは…そらありがたいことでしたね」
ヒロオ「ブレーヴは言わずもがな欧州競馬史上屈指のヒーローですし、モンジューに至ってはハモンド先生の管理馬。ああなるのも当然でしょうね、ははは…」

ヒロオ「しかし…何度も言ってしまいますが本当に信じ難い。女神様を疑うわけではありませんでしたが、まさか過去の名馬が、全盛期の姿でとは…」
リュージ「まあそれを言うなら、僕らも清水さんも似たようなもんなんですけどね…来たのは過去やなくて未来からですけど」
ヒロオ「はは、いやその通り。とすると…ダーレイさん。改めて伺いますが、やはりあの2頭は私と同じと見て間違いないでしょうか」
ダーレイ（ええ、その通りでしょう清水ヒロオ。やはり貴方は聡明ですね）

彼らがどのような存在か。何故、何のために今ここにいるのか。
彼らと同じこの時代の───特異点世界の異物であるヒロオの確認に、ダーレイは頷く。

ダーレイ（モンジュー。1999年の凱旋門賞馬にして、このハモンド厩舎の管理馬だった名馬）
ヒロオ「…我々日本の者にとっては、かのエルコンドルパサーを2着に負かした…日本の夢を阻んだ馬でもあります。なんとも因果な…」
ダーレイ（そしてダンシングブレーヴ。今なお欧州史上最強とも名高い、1986年の凱旋門賞馬であり───）
リュージ「───ボンドの母父父…ひいじいさんにあたる馬、か」
ダーレイ（そう。どちらもこのパリロンシャン・凱旋門賞という舞台だけでなく、今回の状況についても深い関わりがある馬たちです。彼らはその縁を手繰ることで、ヒロオのように特異点修正のため抑止力に喚ばれたサーバント…もといサー馬ントでしょう。馬だけに）

リュージ「………………………………」

ヒロオ「………………………………」

ダーレイ（………………………………）

リュージ「………………………すいません今ｎ」
ダーレイ（さあ、困難な道のりでしたが希望が見えてきました）
リュージ「あの」
ダーレイ（和田リュージ、清水ヒロオ、この新たな絆を糧に改めて特異点修正に尽力をお願いしますね）
リュージ「ちょっと」
ダーレイ（あっもうこえをとどけるよゆうがなくなってきてしまいましたそれではふたりともまた）
リュージ「めっちゃ棒読みやん、さっきの何やったん！？……………アカン、消えてもうた」
ヒロオ「……………笑ってあげた方が良かったでしょうか……？」
リュージ「…いや……それはそれでどうなんでしょう………。ま、まあとりあえず頑張っていきましょうってことで！」
ヒロオ「そ、そうですね！とはいえ今日は調教メニューも終わりましたし、解散ということで…お疲れ様でした」
リュージ「はい…お疲れ様でした…」

【第4節　継承②】

リュージ「………ん……あれ…？どこやここ…」

気が付くと、リュージは見慣れない場所にいた。

リュージ「うーん…ここに来てから多少は経ったし、近くの場所はもう基本わかってるはずなんやけど…おかしいなぁ」

特異点に来てからすぐに行動範囲は一通り見て回ったはずだが、今見ている景色に覚えはない。
どうしたものかと思案していると、少し遠くに声が聞こえた気がした。

リュージ「…今、なんか…？…ちょっと行ってみるか」

声がしたと思われる方向に向かって、並木道を進む。するとそのうち、何かの施設の中庭のような開けた場所にたどり着いた。
そこには大きな噴水や木々があり、さらにその周囲を立派な建物が取り囲んでいる。

リュージ「ここは…！？そんなわけ…いやでも間違いない、ダーレイさんと会った場所！？」

そう。今いるこの場所はまぎれもなく、ダーレイと初めて会った───この特異点に来る直前にいた、あの不思議な空間だった。

リュージ「あの時は確かボンドに連れてこられて…でもあの変な渦に入ったわけでもないのになんで…というか、まさかあいつも今ここに？」

この特異点に来る前、ダーレイの元へ連れてこられた時のことを思い出し、改めて周りを見渡す。
すると思った通り、ディープボンドが噴水の前に佇んでいた。

リュージ「ボンド！やっぱりおったか…！どっかおかしなとこは………お前、何見てるんや…？」

リュージはディープボンドの元へと駆け寄り、身体に異常がないか確かめようとした。
しかしディープボンドはリュージに反応せず、どこか不思議そうな様子で噴水の中央にある大きな像を見上げている。
釣られてリュージも像を見上げたその時───

リュージ「！？な、なんや！？いきなり周りが暗く…！！」
ディープボンド「ぷぼ…！？」

突然、リュージとディープボンドの周囲が暗闇に包まれた。
予想だにしない事態に驚き、その場で固まるふたり。
すると、その両脇を駆け抜けていく何かがあった。

リュージ「なっ…！？今のは、まさかモンジューとブレーヴか！？一体何が…ボンド！？」
ディープボンド「……………」

立て続けに起こる異変に面食らいつつも、ディープボンドに何事もないかと視線を移す。
そこでリュージは、相棒にもまた異変が起きていることに気が付いた。

リュージ「ボンドお前………なんか…ここだけ光ってへんか…？大丈夫なんかこれ…」
ディープボンド「！！！」
リュージ「うおっ！？ボンド！！？ちょ、おいどうしたんやおい！？？」

何故かディープボンドの背中の一部分だけが、まるで何かのボタンのように円形に光っていた。
思わずそれにリュージが触れた瞬間、何かに導かれるようにディープボンドが走り出したのだ。
リュージを置き去りにして。

リュージ「ちょっと、おいボンド！？おーーーーい！？………な……なんなんやこれーーーーー！！？？？」

リュージ「……………ハッ！？」

気が付くと、リュージは自室のベッドの上で横たわっていた。

リュージ「………ゆ………夢かい……………なんや変な夢やっt」
ダーレイ（ただの夢ではありませんよ和田リュージ）
リュージ「うわああああああ！？？」
ダーレイ（ふふっ、どうしましたか和田リュージ。そんなに取り乱して）
リュージ「ダ…ダーレイさん………いや寝起きにいきなりはびっくりもするでしょ何してんすか…）
ダーレイ（貴方が大きなリアクションを取るところを見たくなって、つい。期待通りの反応でした）

リュージ「………もしかして昨日のことまだ引きず」
ダーレイ（なんのはなしでしょう）
リュージ「いやあのサー馬ン」
ダーレイ（しりません）
リュージ「（めっちゃ気にしてるやん…）…だからって寝起きドッキリは………やめた方がいいですよ。マジで」
ダーレイ（…なんだか妙に重みがありますね…。それはそれとして、貴方が見たものはただの夢ではありません。私が眠っている貴方の精神をあそこへお連れしました）
リュージ「は…？えーと…とりあえず、あれは実際に起きてたことやと…？」

自分の見た妙な光景は夢かと思ったが、どうやらそうではないらしい───リュージは混乱しつつも、なんとかそこだけは理解した。

ダーレイ（あれは、継承…その想いと力を受け継ぐ儀式。あの2頭からディープボンドへの継承の場に、貴方にも立ち会って頂いたのです）
リュージ「モンジューとダンシングブレーヴから…ボンドに…？何がどうなったんです…？」
ダーレイ（…それは後でのお楽しみ、としましょうか。今話すよりも、実際に体感する方が理解できるでしょう。ではまた後程…）

【第4節　継承③】

リュージ（…とは言われたものの…とりあえず軽い乗り運動したけどそんなに変わった様子は見えんなあ。調子は良さそうやけど）
ディープボンド「ぷぼん」
ヒロオ「さて…お話しした通り、今日からは少しずつ強度を上げていきます。そのうちあの2頭との併せ馬も行う予定です。とはいえ、今日はまだ軽いキャンター程度の単走で様子を見ましょう」
リュージ「了解です。ダーレイさんの言うてた件もありますし、最初は慎重すぎるくらいから始めます」
ヒロオ「私も気付いたことがあれば都度お伝えします。ではよろしくお願いします」
リュージ「よろしくお願いします。ほな行こかボンド…それっ」

ディープボンドの身に何が起こっているのかと身構えていたリュージ達だったが、さして大きな変化を感じないままウォーミングアップが終了していた。
すぐに影響が表れるものでもないのかもしれないと思いつつ、軽くとはいえレース後に初めて走らせることもあり、注意してメニューに入る。
とはいえまだ軽いキャンター（かけ足）程度、この分なら大したことは起きないだろう───そう考えていた次の瞬間だった。

ディープボンド「ぷぼっ、ぷぼっ、ぷるひひんっ」
リュージ「！？ボンド、お前───！？」
ヒロオ「なっ…ちょ、ちょっと待ってください！一度止めて！」

いきなり想定以上の軽快な動きを見せるディープボンドにリュージは驚き、ヒロオは焦った。
軽く、というオーダーにしてはスピードが速すぎたのだ。

ヒロオ「和田さん…！どうしました！？いきなり速すぎる、慎重を期するはずでは…」
リュージ「清水さん…違います。動き出してわかった───こいつ、馬が変わってる。今のもこいつにとっては軽いキャンターやったんでしょう」
ヒロオ「なんですって…！？しかし………いや。わかりました、今のを続けてください。今度はしばらく止めません、私も注意深く観察します」
リュージ「わかりました。よしボンド、もう一度や」

傍から僅かな時間見ただけのヒロオにはわからなかったが、騎手であるリュージは明確な変化を実感していた。
それを信じ、己の目でも確かめるために調教再開を告げたヒロオ。そして改めてディープボンドの走る様を見て、気付いた。

ヒロオ「これは…キャンターとはいえ明らかに以前とはキレが違う…！歩幅やピッチ、脚の運びと使い方…走法が変わっている？フランスの馬場に完全に適応している…！」
リュージ「…やっぱりや。日本で走っとる時のような軽やかさに…日本でもなかった加速力を感じる。ホンマに別の馬みたいで、でもお前ではある。変な感じやな」
ディープボンド「ぷぼっ、ぷぼっ、ﾓｰｲ」

ヒロオ、リュージ、そしてディープボンド自身も、その大きな変化を実感していた。
しばらく走った後に中断し、改めて状態を確認する。

リュージ「ふぅ…清水さん、これ…多分えらいことなってますよ」
ヒロオ「はい…本当に馬が変わっていますね。私の見たところ、走法が完全にこちら仕様になっています。深く柔らかい馬場に完璧に対応している上───」
リュージ「───ズブさもなくなって、加速にキレがある」
ヒロオ「ええ。発汗や呼吸から見ても、設定した運動強度を越えたわけではないでしょう。それともう一つ、詳細な分析は改めて行いますが、心拍数データからするともしかしたらスタミナ自体も…」
ダーレイ（どうやら、上手くいったようですね）
リュージ「ダーレイさん…これが継承ってやつの効果ですか」

ダーレイ（はい、どうやらモンジューからはタフなフランスの芝を走るための力を、ダンシングブレーヴからはその伝説的な切れ味を発揮するための力を受け継いだようです。とはいえ、この特異点に限り発揮されるものですが…）
ヒロオ「なるほど…モンジューは記録的な不良馬場をものともせずに突き抜けて、ダンシングブレーヴは今も語り継がれる直線一気の末脚で、凱旋門賞を勝った名馬」
リュージ「その力が今のボンドに加わった…そら馬も変わるわなぁ」
ディープボンド「ぷひん」ﾓｯｼｬﾓｯｼｬ
ヒロオ「こうしていると、相変わらずいつものボンド君にしか見えませんけどね」
リュージ「はは…こんな時でものんびり草食うとるんかお前は。ま、ある意味安心したけどな」
ダーレイ（…希望が見えてきましたね。これならば、特異点を修正する───あの暴君に打ち勝つことも、きっと）
リュージ「…そうやな。相手は間違いなく化け物で…正直、どうすればええんかわからんかった。でも、今のボンドとなら…！」
ヒロオ「………それについてよろしいでしょうか、お二方」

ディープボンドにもたらされた絆の奇跡により、リュージ達は久々に明るいムードであった。
そこへ、何か決意を秘めたような表情で、ヒロオは語り始める。

リュージ「清水さん…？」
ダーレイ（…どうしましたか、清水ヒロオ）
ヒロオ「先程までのボンド君と、今の話。それを踏まえれば…成るかもしれない。お二方…そしてボンド君が受け入れてくださるならば、それに向けて調教を行います」

日本で1、2を争う進学校から歴史ある獣医大学を経て世界へと旅立ち、やがてフランス競馬史上2人目の日本人調教師となった智慧者は、決然と告げた。

ヒロオ「─────私に、策があります」

【第5節　呪縛の凱旋門①】

一つの芸術があった。
それは、眩いばかりの黄金。
それは、見事なまでの蹂躙。
それは、熱狂と歓声の中を吹き抜ける疾風であり、目に映る敵すべてを蹴散らす暴威であった。　

（─────早い。）

観る者たちには興奮を、追われる者たちには絶望をもたらす、美しき暴君。
猛然と駆け抜けあっと言う間に他者を置き去りにする、激情の覇者。
今やその他には誰の姿も目に映らない。

（─────早い。早すぎる。）

悲願が達成されようとしている。
初めて挑んだ時から半世紀ほど、いやきっとそれよりもっと前からの願いであり、やがて呪いとなった悲願が。

今この瞬間─────その栗毛の馬体は確かに、世界の頂きに君臨した。

しかし。

（─────仕掛けが、早すぎる………！）

画面に映る、世界を手にしたはずの金色の王者は。

─────次の瞬間、自らその玉座を投げ捨てた。

ケンイチ「──────ハッ…！！！」

凱旋門賞、当日。

ケンイチ「ハッ…ハッ……ハァッ………ハァ……………クソッ………」
ケンイチ（夢、か。また、あの夢………）

この世界最高の栄誉に最も近いと思われる男が迎えた朝は、最悪の目覚めだった。

ケンイチ（あの夢………ずっと見てへんかったのに。それこそ"この世界"になってからは一度も………クソ、なんやってこんな日に）

今日は己の人生で一番と言ってもいいほどに───文字通り"この世界の命運がかかっている"というほどに重要な日だ。
よりによってそんな日に一番見たくないものを見てしまったことを、池添ケンイチは呪った。

だが。

ケンイチ「いや………むしろ今日やからこそ、か。」

一呼吸置いた後、すぐに気持ちを立て直す。

ケンイチ「そうや…全部、今日、この日のためにやってきたんや。俺が、乗るんや」

自分一人だけしかいない部屋で、しかし世界中に向けて、ケンイチは決然と口にした。

ケンイチ「誰にも───俺らの邪魔はさせん」

ヒロオ「おはようございます。どうですか、調子のほどは」
リュージ「おはようございます清水さん。まあ緊張はしてますけど、案外普通というか…普段のG1とそこまで変わりないくらいですかね」
ヒロオ「はは、さすが頼もしいですね」
リュージ「いやいや…作戦をものにするために必死になってるうちに気付けば本番って感じで、悠長にビビッてられる余裕すらなかっただけで。コイツみたく図太いわけやないですよ」
ディープボンド「ぷぼん」
ヒロオ「いやぁ…私なんてもう落ち着かなくて仕方ないですよ。その点ボンド君は実に普段通りですね、私も見習わなければ」
リュージ「そうは言っても清水さん、ずいぶんとエエ顔してますよ～？」
ヒロオ「そりゃああの凱旋門賞を勝ちに行こうっていうんですからね。楽しみにならないホースマンなんかいませんよ」

あの"継承"からあっという間に数週間が経ち、迎えた本番当日。
特異点修正の使命を背負う彼らにはもうフォワ賞直後のような悲壮感はなく、また逆に闘志のあまり気負い過ぎるような様子もなかった。
あるのは適度な緊張感とやれることはやったという自負、そして最高の舞台で走ることを楽しみにする心持ち。
大勝負に臨むにはこれ以上ないほどの精神状態だった。

ダーレイ（おはようございます…和田リュージ、清水ヒロオ、そしてディープボンド。とても頼もしい様子ですね）
リュージ「ダーレイさん、おはようございます」
ヒロオ「おはようございます」
ディープボンド「ぷるひひん」
ダーレイ（…とうとう、この日が来ました。まず間違いなく今日のレース…凱旋門賞にて、この世界の源となった聖杯が顕現するでしょう。どうか勝利してその聖杯を回収し、特異点を修正してください）
ヒロオ「…いよいよですね。出発の準備はできています。皆さん、よろしいでしょうか」
ダーレイ（はい）
ディープボンド「ぷぼっ」
リュージ「…ええ。行きましょう───アイツの目を覚ましてやりに」

【第5節　呪縛の凱旋門②】

ヒロオ「……よし。これで準備完了ですね」
リュージ「はい、ありがとうございます」
ディープボンド「ブルルルルッ………」

ロンシャン競馬場、パドックにて。
リュージがディープボンドに乗った状態で、改めて入念に馬具などの状態を確かめるヒロオ。
それを終えると彼らは再び歩き出しつつ、もう一つ重要なことを確認する。

ヒロオ「して…ダーレイさん。お考えの通りでしたでしょうか」
ダーレイ（はい。やはり、このロンシャン競馬場こそが非常に強い反応の元です。今ここに、この特異点の核が───聖杯が、あります）
リュージ「俺にもなんとなくわかります。凱旋門賞の大舞台っていう緊張やプレッシャーとも違う、得体の知れん空気感…ここが尋常じゃない場やと本能的に感じてる気がする」
ヒロオ「なるほど………そろそろですね。では…和田さん、ボンド君。ここから先は頼みます。───ご武運を」
ダーレイ（必ずや、勝利を。そして…どうか、無事で）
リュージ「…任されました。よし、行くでボンド」
ディープボンド「ぷぼっ！」

これから走るのはただのレースではなく、文字通り世界を懸けた争いである。
その実感と、仲間たちの想いを背に、命運を託された人馬は再びロンシャンのターフへと脚を踏み入れた。

リュージ「よう」

ゲートへ向かう道すがら。
世界を懸けて争う相手へと、リュージは声をかける。

ケンイチ「うっす、和田さん。どうですか調子は」
リュージ「今回はなかなかのもんや。前みたいにはいかんぞ、ゾエ」
ケンイチ「へぇ…そーすか。でもこっちも前回よりもっと…いや、今までで一番良い出来ですよ。悪いけどこの凱旋門は頂きます」
リュージ「…いいや。それはアカンねん、ゾエ。オルフェには負けてもらう───"歴史通り"に、な。すまんが…お前の思う通りには、させてやれん」
ケンイチ「………はっきり言うんすね。和田先輩」
リュージ「…もうお互いにわかってることをぼかす意味もないやろ」
ケンイチ「確かにそうですね………………」
リュージ「………………」

長いような、短いような。
重く張り詰めた沈黙の後、特異点の主は口を開いた。

ケンイチ「1つ、聞いていいですか」
リュージ「……何や」
ケンイチ「その歳取った姿。重賞クラスの力があるのに見たことも聞いたこともないその馬。それにさっきの言葉。先輩は未来から来たんでしょ」
リュージ「…よくそんな突拍子もないこと普通に言えるな」
ケンイチ「聖杯なんてもんがあるんやから何が起きたって不思議はないでしょ。それにあれ、なんか色々教えてくれまして。そういう邪魔者が来るやろうとは思ってたんで」
リュージ「そうか…それで？聞きたいことってのは」
ケンイチ「…和田先輩。オルフェより後の時代…凱旋門を勝った日本馬は出ましたか？凱旋門を勝った日本人騎手は？」
リュージ「………まだおらん。それどころか、掲示板すら入れず終わってばっかりや」

未来の───自分が知る"この先"の話をしていいものかと少しばかり逡巡するも、リュージはケンイチの問いに答えた。
それを聞いたケンイチは、さも答えを知っていたかのように話を続ける。

ケンイチ「そうですよね。オルフェが2度やってできなかったことが、そんな簡単にできるはずがない。いつから来たのか知りませんけど、向こう10年やそこらじゃ凱旋門の呪いは解けてないでしょ」
リュージ「呪い…やと？」
ケンイチ「ええ。初めて日本馬が凱旋門に挑んでから何十年…いや、たぶん日本の競馬が生まれてから百何十年、ずっと求め続けた世界一。願って願って願い続けた結果、その悲願はもう今や日本競馬にとっては呪縛になった」
リュージ「…呪縛…確かに、そうとも言えるかもしれんな」
ケンイチ「それを解こうっていうのは、そこまで止められるべきことなんですかね？」
リュージ「…正直…それは俺も思った。けどな、やっぱり勝負の結果は変えたらアカンねん。それでたくさんの人生や馬生が変わってまうなら尚更…」

ケンイチ「…なるほど。和田先輩が止めようとする理由はわかりました」
リュージ「…それでも…やめるつもりはないんやな」
ケンイチ「…俺にも、凱旋門の呪縛はかかってます。きっと他の誰よりも強く。あの日───俺の乗れなかった凱旋門で、俺の乗ってないオルフェが、勝ちを手放すのを見た日から。結局その次も乗ることはできなくて、また2着で…そんな時に手にしたのが、聖杯やった」
リュージ「………だから、歴史を変えるんか。断ち切るために」
ケンイチ「そうです。俺なら勝てた。俺が乗ってたら、ああはならんかった。俺とオルフェで走ってたなら…文句なしの世界一やったんや」
リュージ（………！！ゾエ、こいつ…なんちゅう顔で睨んでくるんや…っ）

悔しさや苦しさや悲しみが溢れた悲愴感、そしてそれを塗り替えるための強い決意と殺意にも似た迫力が表れたケンイチの表情に、思わず息を呑む。
この特異点に来る前、本来ならば同じく乗り替わりの憂き目にあっているリュージには、その心中は痛いほど伝わってきた。
だが、それでも。

リュージ「…それでも…俺はお前を止める。いや、俺らがお前らを止める！」
プボ「ぷぼ…！」

自分が、相棒が、そして他の人馬が歩んできた過去を。そしてこれから歩む未来を守るため啖呵を切るリュージと、それに呼応するディープボンド。
そんな絆深きふたりに対し、金色の馬体に跨る稀代の勝負師は告げる。自分たちこそが世界を統べる存在だと。

ケンイチ「受けて立ちますよ…そんで思い知らせたる」
ケンイチ「最強が誰かを」
ケンイチ「悲願を果たすのに相応しいのは誰かを」

ケンイチ「見せたるわ───このオルフェーヴルと池添ケンイチ、俺たちふたりの手で、この呪縛を断ち切るのをなぁ！！！」

【第5節　呪縛の凱旋門③】

総勢19頭───史実で出走した18頭とディープボンドのスタートは、ほぼ横一線だった。
大外18番枠のオルフェーヴルと池添ケンイチは、思い思いのポジションを得るべく争う内側の馬たちを先に行かせ、後方3番手辺りに位置取る。

ケンイチ（よし、想定通りや。まずはとにかく折り合いを……っ！？）

自分の思う通りのレース運びになると思いかけたところで、ケンイチは意外なことに気付く。

ケンイチ（そうきたか…！まあ前回を思えばわからんでもない。けど…）

全く想定しなかったわけではない。だが、現実的とは思ってもいなかった状況が起きていた。

ケンイチ（…舐められたもんやな。万全のオルフェがやられたことは一度もないんやぞ？それでもやるんですか和田さん。本気で…このオルフェーヴルを差す気ですか）

オルフェーヴルのもう一つ外、19番枠から出た馬。
自分たちより前に出るはずだったその姿は視界に映らず。
振り返った先───オルフェーヴルのさらに後方、シンガリの位置に、ディープボンドと和田リュージが控えていた。

リュージ「───追い込み、ですか…！？ボンドで！？」

あの『継承』の日。
ヒロオが告げた策は、リュージにとってあまりにも慮外なものだった。

リュージ「本気ですか…！？今までやったことないし、しかも相手は…」
ヒロオ「…オルフェーヴルだからこそ、です」
リュージ「…？」

後方脚質のオルフェーヴルを相手に後ろからの競馬をするとは、すなわち最終盤での末脚勝負を挑むということになる。
だがそれは、かつて”閃光”や”大器”などと称され、末脚において当時の現役最強を誇った数々の名馬たちですらその力量差により敗北した、無謀とも言いたくなる戦法。
ましてこれまで前からでしか競馬をしたことのないディープボンドでそれを行うなど、信じがたい話であった。
しかし、ヒロオは確信めいた物言いでこう続けた。

ヒロオ「確かにあの末脚は歴史上稀にみるレベルですが、ことオルフェーヴルに関しては諸刃の剣なんです。あの馬には弱点がある」
リュージ「…！それって…！」
ヒロオ「───遊び癖。先頭に立つとソラを使う。並ぶ間もなく他馬を抜き去ってしまえるからこそ生じる、その隙を狙います」

ソラを使う。集中を欠き、本気で走るのをやめてしまう悪癖。
まさしく史実のオルフェーヴルが、この2012年のロンシャンで勝利を逃した理由である。

リュージ「…でも清水さん、あれは…早仕掛けでの自滅でした。ゾエの乗るオルフェでああなるとは…」
ヒロオ「ええ、私もあそこまでのことは期待しません。しかし、池添騎手の乗るオルフェーヴルに対し、それを試みた例はあります」
ダーレイ（…ウインバリアシオン、ですね。騎乗者は───）
リュージ「───アンカツさんか…！」

かつてクラシックにおいて唯一オルフェーヴルに迫った馬・ウインバリアシオン。
その鞍上こそ、地方競馬、そして00年代の中央競馬を代表するトップ騎手であり、日本の騎手に多大な影響を与えた名手・安藤カツミであった。

ヒロオ「ダービーと神戸新聞杯で悪癖を見抜いた安藤騎手は、菊花賞においてソラを使った瞬間を出し抜くためにシンガリからの直線一気という賭けに出ました。展開の妙もあり不発に終わりましたが…改めてあの馬について調べる中で、これが万全の状態のオルフェーヴルに対する一番の勝ち筋だと思ったんです。そして、今のボンド君ならそれができるはず」
リュージ「そうか…本来のボンドなら難しいやろうけど、今なら…ダンシングブレーヴの能力を受け継いだコイツなら、切れ味勝負でも戦える…！？」
ダーレイ（ですが、そう上手くいくものでしょうか…。ウインバリアシオンとてダービーで後続に7馬身も差をつけながら、前を行くオルフェーヴルに並ぶことはできませんでした）
ヒロオ「…そのダービーから、一つの仮説を立てました。」
ダーレイ（仮説…ですか）
ヒロオ「あの時、オルフェーヴルはソラを使っていないように見えました。それはすぐそばに追いすがるバリアシオンがいたからではないか、と。つまり…"オルフェーヴルを追ってはならない"。まだ戦う相手がいることを気付かせず───」
リュージ「───離れたところから、競らずに追い抜く。そういうことですね」

まだ若かりし頃、覇王の背に跨った自分が受けた強襲。
その苦い記憶を思い浮かべながら、リュージは言葉を続けた。

ヒロオ「その通りです。池添騎手が乗る以上早仕掛けはないものと思うべきですが、それでも抜け出してから内へとササるのは変えられないでしょう。最終盤までオルフェーヴルのさらに後ろをつかず離れず追走し、最後の直線で大外へと持ち出し、相手がササったところを狙い撃つ。…これが、私の策です」
リュージ「……………」
ダーレイ（……なるほど………やる価値は十分ありそうに思えますね）
ヒロオ「……ただ………提案しておいて何ですが、はっきり言ってかなりの賭けです。不確定要素に頼るところばかりですし、何より不慣れな走り方をする───これまでの自分の走りを捨てるよう強いることになります。受け入れられないと仰るならば何か別の…」
リュージ「いえ。それで行きましょう、清水さん」

提案したヒロオ自身、不安をぬぐい切れない博打と思っている作戦。
しかしリュージは全幅の信頼でそれを受け入れる。

ヒロオ「…よろしいのですか」
リュージ「ええ。僕もこれなら十分戦えると思いましたし、それに…せっかくこの短い間にここまで深く研究してくれて、必死に考えてもらった中で出てきた作戦です。バシッと決めたいじゃないですか！なぁ、ボンド？」
ディープボンド「ぷひひん」
ダーレイ（あの暴君が相手なのです。リスクを冒してでも大きな手を打つ必要はあるでしょう）
リュージ「そうそう、このまままた負けるくらいならビビらず攻めるべきですよ。それにね清水さん、競馬ってね…ギャンブルなんですよ」
ヒロオ「……！！ふっ…ははっ、ははははは！そうでしたね、和田さん。…わかりました。ではそれに向けて調教を行いましょう。皆さん、よろしくお願いします」

リュージ（───あれから今日まで…この作戦が実るようにイメージを徹底してきた。ダンシングブレーヴとモンジューを相手に併せ馬、なんてありえへんほど贅沢な調教もしまくって、ボンドに追い込みでの切れ勝負を教え込んだ。それにこの酷い馬場でもバッチリ走れてる。今なら…いかにお前とオルフェといえど、差し切る勝算は十分あるぞ。覚悟しとけよゾエ）

レースはスタートから淡々と流れ続け、気付けばすでにフォルスストレートに差し掛かっていた。
今日の馬場は10段階中8番目に重いCOLLANT、日本の分類では不良になるかどうかというレベルの酷い重馬場。さらに重馬場と言っても元々が柔らかく重いロンシャンのそれは、日本では経験できないほどの状態である。前走のフォワ賞は10段階中5番目のBON SOUPLE、稍重だったため全くの別物と言っていい。
またここまでに最大高低差10ｍにも及ぶ坂の上り下りがあるタフなコース。能力の継承があったとはいえリュージは心配していたが、ディープボンドは問題なく適応しているようだった。

ケンイチ（…ホンマに前と同じ馬か？チラ見程度やが走ってる雰囲気が違う…それに思った以上にこの馬場にも対応してきてる）

帯同馬アヴェンティーノの力を借りつつオルフェーヴルとの折り合いをつけながら、ケンイチは時折振り返ってディープボンドとリュージの様子を確かめる。

ケンイチ（どうやらマジで勝算ありって感じみたいすね和田さん…まあ当然やけど。でも───）
リュージ（ここまではOK。そっちも順調みたいやなゾエ。そろそろチェックポイント…行くぞ）

フォルスストレートの終わり、最終コーナーに差し掛かり馬群が徐々に凝縮される。そして───

ケンイチ（───勝つのは、俺とオルフェーヴルや）
リュージ（───勝つのは、俺とディープボンドや）

───残り530ｍ。最後の直線勝負が始まる。

【第5節　呪縛の凱旋門④】

リュージ（最終コーナーから直線…ここや！）

最終直線での入り口で、リュージは位置取りを上げながらディープボンドを大外へ持ち出す。
オルフェーヴルはまだ仕掛けておらず僅かに前に出る格好になるが、向こうが自分達より内を回っているため完全に抜くことはなく、ほぼ横並びに近い状況である。

ケンイチ（こっちより更に大外ぶん回しやと…！？比較的荒れてない所を通りつつ、オルフェと併さんようにして最後に出し抜く気か！）

ディープボンドに注意を向けていたケンイチは、面食らいつつもすぐにその狙いを見抜く。

ケンイチ（なるほど一理あるわ…それがとっておきの作戦ってワケですね。けど、大外はその分ロスも大きい。それで差せるつもりか───舐めんなよ）

自分の想定以上にハイリスクな作戦でもなお勝てると見込まれたことに、ケンイチは血を滾らせた。
だがそれでも、一気に抜け出してしまわないよう馬なりのままジワジワ前との差を詰めつつ冷静に仕掛けどころを待つ。
そして───

ケンイチ（………今！───行くぞ、オルフェ）

残り350ｍ弱。史実よりも50ｍほど遅らせたその位置で、ケンイチが合図を送った瞬間───オルフェーヴルが弾けた。

リュージ（───来た！こっちも行くぞボンド！！）
ディープボンド「！！！」

内のオルフェーヴルが一気に進出し始めたのを見て、リュージも鞭を飛ばす。
それに反応したディープボンドがトップスピードになるまでは一瞬だったが、その一瞬のうちにオルフェーヴルは再度ディープボンドの前に出ていた。
そのままオルフェーヴルが半馬身ほど優勢という位置関係で二頭は先頭へと躍り出る。
残り300ｍ。

リュージ（さすがはオルフェーヴル…そしてさすがはゾエ。完璧なタイミングの仕掛けや。───信じてた通りのな）

オルフェーヴルが抜け出すその瞬間、着差的にはわずかに後ろとなるポジションにつけ、大外から追走する。
作戦通りの展開であった。

リュージ（脚色は互角！ただこっちのがより脚をためてる上、そっちは内にササる癖がある───ゴール前で差し切れる！！）
ケンイチ（───！！！まさかここまでとは…！！！けど問題ない、多少ヨレようが関係ない！押し切れる！！）

オルフェーヴルは完璧なタイミングで馬群から突き抜けた。
追いすがるのは離れた大外で追走するディープボンドのみ。
それはすなわちオルフェーヴルの周りに馬はおらず、先頭で一頭きりになったということ。
悪癖が顔を覗かせようというその瞬間に備え、2人の騎手は必死で馬を追う。
だが、その時。お互いに思いもよらないことが起きた。

リュージ（…！？オルフェが…内にササらん！！？）
ケンイチ（いやそれどころか、これは…っ！！？）

オルフェーヴルが、内に向かわない。
それだけでなく、むしろ───

リュージ（外に───こっちに向かってる…！！まさか俺らを狙って…！？まずい！！！）

内にもたれると思われていたオルフェーヴルが、逆に外へと進出してきた。
まるでディープボンドを間近で迎え撃たんとしているような動き。
スピードをほんの僅かにすら落とした様子もなく、金色の疾風がロンシャンのターフのど真ん中を切り裂く。
残り200ｍ。

リュージ（ちょっとずつ差は詰まってる、でもこのままじゃ…！クソォ！！）

狙っていた隙が生じなかった以上、このまま実力勝負をする他ない。
リュージの闘魂注入に応え、ディープボンドはオルフェーヴルとの差を一完歩ごとに少しずつ詰めていく。
しかし半馬身ほどあったそれは、まだクビ差以上には残っていた。
残り100ｍ。

リュージ（届けっ…！届け、届けええええええ！！！）

勝利まで、あと僅かの差。
しかしそのあと僅かの差がかわせない。
気付けば───ゴールまで、残り50ｍと迫っていた。

ケンイチ（もらったぁぁぁぁぁぁ！！！！！）

見る者のほぼ全てが…そしてケンイチが勝利を確信した、その刹那。

リュージ（────！！？？？）

リュージの視界の右端に、信じられないものが映った。
いや、正確には、映らなくなった。

ケンイチ（……………は………？）

オルフェーヴルの頭が大きく揺れ、ケンイチの姿が馬上から消えた。
そして金色のたてがみが視界の後ろへと流れ────その直後、ゴール板が見えた。

【第5節　呪縛の凱旋門⑤】

内オルフェーヴル、外ディープボンドの二頭による一騎打ち。
その結果、掲示板の一番上に表示された馬番は、史実にはない19番。
そしてその次に、史実通りの6番が表示される────

────はずだった。

だが、掲示板の数字に、6番の表示はなかった。

18枠6番・オルフェーヴル────落馬により、失格。

この世界の誰一人、ほんの1ミリたりとも、思いもしない結末が待ち受けていた。

リュージ「ゾエ………？─────ゾエ…！！」

ゴールの直後。
ケンイチが落馬したことに気付いたリュージは、急いで引き返す。
ゴール板の手前、わずか数ｍ程度の距離に、ケンイチは座り込んでいた。

リュージ「おい、ゾエ！！！大丈夫か！！！」
ケンイチ「…………………何が……起きた……？」

リュージの呼びかけに答えず、茫然とゴールの方向を見つめるケンイチ。
その視線の先、決勝線の上には、彼の愛馬の姿があった。

リュージ「池添！！！平気か！！？頭打ってないか！？どこか痛いところは！？」
ケンイチ「………和田さん………いや……どこも痛くないです。大丈夫…」
リュージ「そうか………。よかった……けど何があるかわからん、早く医者に───」
ケンイチ「いえ…いいです。すいませんそれより………」

どうやら落ち方がよく上手く受け身を取れたこと、また長い芝と柔らかい馬場で地面のクッション性が多少あったこと、そして───オルフェーヴルが落馬直前で減速していたこと。
色々な要素が噛み合ったおかげで、奇跡的にケンイチにダメージはないようだった。
とはいえ急ぎ検査をして無事を確かめさせようとするリュージだったが、ケンイチはそれを振り切りオルフェーヴルの元へと歩き出す。

ケンイチ「………オルフェ………」
オルフェーヴル「………」
ケンイチ「………なぁ…オルフェ………なんでや………」
オルフェーヴル「………………」
ケンイチ「なんで、止まった…？なんで振り落とした…！？あと少しで…俺と、お前で世界を………なぁ…オルフェ………！」

困惑と、絶望と、悔しさと、悲しさと…様々な感情が入り混じる涙を目に浮かべながら、愛馬へと問うケンイチ。
しかし、オルフェーヴルは何をするでもなく静かに佇み、ケンイチを見つめ返す。

リュージ「おい、ゾエ………」
ケンイチ「………ねえ、和田さん……なんでこうなったんですかね………何がアカンかったんすかね………？いや…こんなことしたのが、アカンかったんですかね………」
リュージ「ゾエ……お前…」
ケンイチ「………わかってます………俺だってわかってたんです。本当は………。俺だってバカなことだってわかってます、けれど確かめてみたかった───俺がオルフェーヴルに乗った時の凱旋門の結末を───確かめずには、いられなかったんです」

凱旋門の呪縛。
己が囚われた想いをそう表現した男は、涙を流しながら震える声でリュージに語る。
哀れなその顛末を。

ケンイチ「その答えが…これです。これが、結末───ははっ…はははははは…！！！結局俺は、勝つどころかゴールすらもできんかった！！！」
リュージ「ゾエ………もう、いい…」
ケンイチ「証明する？本当にあるべき結果に正す！？その結果がこれや！！！結局そんなこと思ってたのは俺だけで───」
リュージ「やめてくれ…」
ケンイチ「オルフェーヴルは、そんなこと───」
リュージ「やめろゾエ！もういい！」

あまりにも居た堪れない後輩の姿に、リュージは思わず声を荒げて制止する。

ケンイチ「……………」
リュージ「……………」

重い沈黙の中、うつむく二人。
その時───肩を落とすケンイチの顔へ、オルフェーヴルが鼻面を合わせてきた。

ケンイチ「───オル、フェ………？」
オルフェーヴル「………ブルルルッ」
ケンイチ「………お前───」
リュージ「………なぁゾエ。やっぱりさっきの話は…違うんとちゃうか」
ケンイチ「和田さん………」
リュージ「俺には…お前らの間に絆がないなんていう風には、見えへんよ。───お前も、感じてるんやないか」

ケンイチは再び顔を上げ、傍らに立つオルフェーヴルを見つめる。
そしてその芸術品のように美しい金色の毛並みに手を伸ばす。
暴君と名高き激情の三冠馬は────ただ、黙って撫でられていた。

ケンイチ「………そうか………そうか。」
オルフェーヴル「………」
ケンイチ「………すまんかったな…オルフェ。こんなことせんでも、俺とお前は───」
オルフェーヴル「………ヒヒン」
ケンイチ「───俺らの舞台は…ここじゃなかった。だからお前は、先頭に立って証明した上で…この世界から、降りたんやな」

リュージ「………まあ、勝ったのは俺らやけどな」
ケンイチ「…えぇ～？ようそんなこと言えますね？あんなん………いや、やめましょう。これが、この世界の結果なんですもんね」
リュージ「………ああ、そうやな────うわっ！？」

さっきまでとは一転して、何かを悟ったような清々しい雰囲気を漂わせるケンイチ。
それに安堵したリュージの目の前が、突然光りだした。

リュージ「なっ…何や！？これは───トロフィー…？凱旋門の…？」
ケンイチ「…和田さん。それがこの世界を作った物───聖杯です」
リュージ「───！…そうか。これで、終わりなんやな」
ケンイチ「…はい。迷惑かけて、すんませんでした」
リュージ「ホンマやで。まあでも…色々貴重な経験もあったし、凱旋門賞も走れたし。その分でチャラにしたるわ。なあ、ボンド？」
ディープボンド「ぷひん」
ケンイチ「ははっ…そうすか」
リュージ「…じゃあ、俺らは行くわ。仲間が待ってるやろうから」
ケンイチ「はい。…ありがとう、ございました」

己を苛む呪縛から逃れるために作られたこの特異点の主たちに別れを告げ、リュージたちはロンシャンのターフを後にした。

【第5節　呪縛の凱旋門⑥】

ダーレイ（お疲れ様でした、和田リュージ…そしてディープボンド。…よく、やってくださいましたね）
ヒロオ「和田さん…！ボンド君…！やりましたね…！」
リュージ「…ありがとうございます、二人とも。でも…正直あれがなかったら、レースは───」
ダーレイ（───そうですね。レースはどうなっていたか、わかりません。ですが結果としては無事聖杯を回収できたのです。それに…）
ヒロオ「…あれがなくてもきっと、あなた方が差し切っていた…私たちはそう信じます。ですから、胸を張ってください」
リュージ「───！！！…そうですね…これがこの世界の結果なんですもんね。そうします！」

コースから引き揚げたリュージとディープボンドを、ダーレイとヒロオが労う。
実のところリュージは、先程はああ言ったものの…本心では「落馬がなければ負けていたのでは」という敗北感を覚えていた。
それでも、この二人は自分達の勝ちを信じると言う。そのおかげでリュージは気持ちを切り替えることができた。

リュージ「そうや、これが…聖杯だそうです」
ヒロオ「これは…凱旋門賞の優勝トロフィーですね。これが…？」
ダーレイ（…この特異点において私が言っていた聖杯というのは特定の物品というより、魔術的リソースの塊───エネルギーの源という概念的なものを意味していました。それがこの形を取っているのは…託された願いの強さが、そうさせたのかもしれませんね）
リュージ「強い願い…いや───呪縛、か」
ヒロオ「………ともかくこれで、歴史の修正は果たされる。そういうことでよろしいですよね？」
ダーレイ（ええ。特異点の主から核が手放されたことで、そろそろ───！！）
リュージ「───！？な…何や！？周りの人らが…消えて……！？」

突如、ロンシャン競馬場に詰めかけた大勢の観客や関係者が、光の粒子となり虚空へと消え始める。
それこそが、聖杯が創り上げたこの特異点───金色の暴君が凱旋門の覇者となる世界が終焉を迎える合図だった。

ダーレイ（…修正が始まりましたね。聖杯により生み出されたものは消え───この特異点は崩壊します）
リュージ「崩壊……。じゃあ、これで全部元通りになって………そしたら、ここで起きたことは………？」
ダーレイ（…世界には記録されますが、細かいことを抜きにして有り体に言えば───なかったことになります。貴方が元の時代へ帰還した時…ここでの出来事を知る者は、貴方とディープボンドの他にはいないでしょう）
ヒロオ「…私もあくまでこの世界に召喚された影法師に過ぎない身。別々の存在である以上…和田さんが帰る世界の今を生きる私も、このことを知らないでしょうね」
リュージ「…それじゃあ……誰も、覚えてないってことですか…？俺たちが手にしたこのトロフィーも……あいつらが、ロンシャンのターフを走ったことも。俺とボンド以外、誰も…」
ダーレイ（…すみません、和田リュージ。これほどのことを行って頂いたというのに…その上なお背負わせてしまう。ですが私も、他の女神や観測者たちも覚えています。呪われた、されど美しかった彼らの輝きを。そして…貴方がたが見せてくれた、深き絆の物語を。ですから、どうか…）
ヒロオ「サーバントである私も、しっかりとこの記憶を”座”へと持ち還ります。私だけじゃない、きっとあの二頭も…。例え消えゆく世界であっても、確かに私たちは共に過ごし、共に走ったのですから」

歴史を元に戻すということは、すなわち"問題が起きなかった状態に戻す"ということ。
自分たちの奮闘もそうだが、何よりあのケンイチとオルフェーヴルの悲痛で切実な想いをなかったことにされる───その残酷さに、当事者たるリュージは表情を曇らせる。
だが、自分が、仲間が覚えていれば、完全に消えてなくなりはしない。そう悟ったリュージの表情は、晴れやかなものに変わっていた。

リュージ「…ありがとうございます、ダーレイさん、清水さん。大丈夫です。大変やったし、キツい思いもしたけど…素晴らしい経験もできましたから。良い思い出として、ちゃんと覚えておきます。力を貸してくれて…本当にありがとうございました」
ディープボンド「ぷぼん」
ヒロオ「お礼を言うのは私の方です。共に戦えてよかった…いつか、また。願わくば…特異点ではない、本当のロンシャンの地で」
ダーレイ（和田リュージ。ディープボンド。清水ヒロオ。貴方がたに救って頂いたこと、忘れません…心より感謝を）
リュージ「流石にここに連れてくるわけにもいかんかったが、モンジューとダンシングブレーヴにも…それにハモンド先生にも感謝やな。ダーレイさん、もし伝える機会があったら伝えておいてください」
ダーレイ（ふふ、そうですね…わかりました。……そろそろ、時間です。ディープボンド…よろしくお願いしますね）

深い絆により導かれた者たちは、互いに感謝と挨拶を交わす。
そして、今を生きる人馬───和田リュージとディープボンドが、己の生きる世界へと帰還する時が来た。

ディープボンド「ぷぼ～」

ギュウウウゥゥ………

ダーレイ（このレイシフトで貴方がたのいた2021年に戻ることになります、和田リュージ）
リュージ「わかりました……ホンマにありがとうございました、こう言うのも変かもしれんけど…楽しかったです！」
ディープボンド「ぷぼっ！」
ヒロオ「私もでした！和田さん、ボンド君、お気を付けて！」
ダーレイ（…私もここまでです。ですが、私たちはいつも見守っていますよ…ふたりともどうか、元気で───）

…ゥゥゥゥン…………

【エピローグ　金色の世界】

2021年　夏

リュージ「ん…ふあぁ……朝か………」

早朝。心なしかいつもより気だるさを感じながら、騎手・和田リュージは目を覚ます。

リュージ「はぁ～………わかってたこととはいえ…改めて突きつけられるとさすがにくるもんがあるなぁ」

レイシフトによって現実世界へと帰還してから、少しの日にちが経っていた。
特異点の修復を果たした今、この世界に歴史改変の影響は出ていない。
リュージは元通りの日常に戻ってきたのだ───良くも、悪くも。

リュージ「…いや。これが…俺の選んだ"正しい"世界や。この世界でやるべきことをやる、それだけの事や。じゃないと───アイツらに顔向けできんわな」

己の為したこと。これから為すべきこと。
それを思い起こすことで沈みそうな気持ちを上向かせ、リュージはトレセンへと向かった。

リュージ（…ボンドは元気にしとるかな。一応大丈夫って話やが…どうせなら走りのキレが増したままやったりせんかなぁ）

トレセンで仕事の準備に取り掛かりながら、リュージは共に特異点を駆けた相棒のことを思う。
帰還の際、リュージはレイシフト前にいたトレセンに戻ったが、ディープボンドは共にその場に降り立つことはなく本来いるはずだった放牧先へと戻った。
特異点で継承した能力はこちらに戻ればなかったことになり、元通りになる…そう聞いてはいたが、あれ以来会っていないこともありやはり多少気がかりではある。
せっかくなら良い影響の一つも出てくれていれば───などと、そんな風に考え事をしているリュージに声をかける者がいた。

リュウセイ「お疲れ様です、和田さん」
リュージ「おー、お疲れリュウセイ、おはよう」
リュウセイ「おはようございます……その…残念、でしたね」
リュージ「あー…まあ、そうやな」

いつもより少し遠慮がちに声をかける後輩へ、苦笑いで返事をするリュージ。
次いで視線を落とし、リュウセイの手にしていた新聞を見る。
その記事が伝えていたのは、今度のフランス遠征にてディープボンドの鞍上が乗り替わることが発表されたという事実。
リュージが特異点を修正し、選んだ結果であった。

リュージ「すまんな、気ぃ遣わせて！リュウセイはあっちで乗るんやろ？日本人騎手の凄さを見せつけて、俺らも向こうで乗りやすくなるようしてきてくれよ～？」
リュウセイ「いやぁ…あはは、責任重大ですね。わかりました！頑張ってきます！」
リュージ「おう！じゃあ、またな」

乗り替わりはよくあることだ。ましてや海外遠征ともなればなおのこと。
それでも慣れることのない悔しさはある。
そんな心中を慮って声をかけてくれた優しい後輩にエールを送り、リュージは仕事へと繰り出した。

リュージ「ふぅ…今日乗る分は一通り終わってしもたな…」
リュージ（………仕事してる間は大丈夫やったが…やっぱり、こうして他に集中するもんがないと…どうしても考えてまうな）

依頼されていた調教をすべて終え、一息つくリュージ。
やるべきことをやるだけ…そう頭では思っていても乗り替わりの件が脳裏にちらつくことは避けられず、気分は沈む。
そこへ───

？？？「お疲れ様です」
リュージ「───！！」

自分へと投げかけられたその声に、リュージはどきりとした。
自分と同じかそれよりもずっと深いかもしれない痛みを抱える───そして、他ならぬ自分が、その痛みを消し去る機会を奪わんと争った男。

ケンイチ「───元気ないっすね、和田先輩」

池添ケンイチが、声の主だったからだ。

リュージ「…よう…ゾエ。そう見えるか」
ケンイチ「見えます見えます。なんかめっちゃ表情カタいっすよ、死にそうな顔してますやん」

こわばるリュージとは対称的に、明るい調子でその様子をいじるケンイチ。
だが、リュージがこうなるのも無理からぬことだった。特異点から帰還して以降ケンイチの姿を見かけることはあっても、こうして顔を突き合わせて話をするのは初めてだったのだ。
それがまさか、よりによってこんなタイミングでとは思いもしなかった。

リュージ「いやいや…んなことないやろ、失礼なやつやな～。そんな顔する理由も…」
ケンイチ「…残念でしたね、乗り替わり」

あの世界で敵対したケンイチと今目の前にいるケンイチは、同じ存在ではない。
そう思い直し、リュージは努めて明るく返そうとした。
しかしケンイチは、一転して真面目なトーンで切り込んでくる。

ケンイチ「わかりますよ。凱旋門、乗りたかったですよね。……よく、わかります」
リュージ「…！」
ケンイチ「なんせほら、僕も同じでしたから」
リュージ「……ああ…そうやな。よく知ってるわ」

リュージ「…なあゾエ。お前は…どんな風に思ってる？今でも───」
ケンイチ「……そうすね。ずっと引きずってたし、今でも悔しいです。もしかしたら一生この気持ちは晴れへんかも、なんて思うこともありますし───ある意味呪いみたいなもんかもしれないですね」
リュージ「！！」

"呪い"───あの特異点のケンイチが発したのと同じその言葉に、リュージの胸中はざわつく。

リュージ（ゾエ…お前は、やっぱり………）

だが、続けてケンイチが語ったことは…思いもよらない話だった。

ケンイチ「でもね…ここだけの話…なんか知らんけど、怒られたような気がするんですよ」
リュージ「怒られた…？」
ケンイチ「はい。変な話と思うでしょうけど…いつかどこかで、夢か何かかも知れんけど。はっきり覚えてるわけでもないけど…そんなんじゃアカン、しっかりせえって、アイツに怒られたような気がするんです───オルフェーヴルに」
リュージ「───！！！」

特異点での出来事の記憶は、リュージとディープボンドにしか残らない…女神ダーレイはそう言っていた。
だが───残るものはあった。例え仮初の世界の出来事であっても、確かに彼らの絆は繋がっていたのだ。

ケンイチ「だから悔しさを抱えるのはいいけど、いつまでも引きずるんじゃダメやなって。それに…ロンシャンじゃなくて中山でしたけど、オルフェーヴルとは最後に思いっきり駆け抜けられたから」
リュージ「ゾエ…お前は───」

「僕はオルフェーヴルが世界で一番強いと思います！」
オルフェーヴルのラストラン、2013年有馬記念の勝利騎手インタビュー。
晴れやかな顔で高らかにそう言っていたケンイチの姿を、リュージは思い出す。

ケンイチ「あとね、和田さん。さっき呪いって言いましたけど…それって悪いことばっかりやないんちゃうかなとも思うんですよ」
リュージ「…聞かせてくれるか」
ケンイチ「僕だけじゃなくて、いろんな人が…日本競馬界全体が、いつか凱旋門をって呪縛に囚われてる───そういう風に言われることもありますし、僕もそういうとこはあると思います。だから毎年毎年…正直無謀やろって思うような時でも、挑まずにはおれん」
リュージ「確かにな。日本の競馬は向こうとはどんどん違う方向に進んでるのに、凱旋門だけはどうしても無視できん…まさしく呪縛や」
ケンイチ「でもそれって、受け継がれてきた強い願いとも言えるんじゃないですかね。そうやって昔からずっとずっと続いてきた願いが原動力になって、日本の競馬は進化してきた。そうでしょ？」
リュージ「…ああ……そうやな。…その通りや」
ケンイチ「だからオルフェはもちろん、最初に挑んだ時から積み重ねてきた色んな馬たちの経験が、これから挑む馬たちの力になって。そこで負けても、それがまたその次の力になって───いつか、凱旋門の呪縛を解いてくれる日がきっと来るはず」

もしも、あの時乗っていたら───世界を手にすることができたはず。
今もなおその声が絶えず、おそらくは自分でもその想いを捨てきれないであろう男は、しかし前を向いて語る。
金色に輝く未来の世界を。

ケンイチ「俺もそうです。悔しい思いをしたからこそ、いつか凱旋門の舞台で乗るのが今の夢で…そんで叶うならこの手で、他ならぬオルフェの血を引く馬に乗って、この呪縛を解けたなら。そう、思ってるんです」
リュージ（この世界の───今俺の目の前にいるお前は。吞み込まれずに呪いごと前に進んだんやな…池添）

ケンイチ「まあそのためにはもっと頑張って早く任せてもらえるようにならんとダメですけどね！オルフェの子ともなればそのうち、サラッととんでもないことやってくれる馬の一頭や二頭出てくるでしょうから。うかうかしてたら先に行かれてまう」
リュージ「ははっ…確かにそうかもな。誰も想像せんようなことする馬やったもんなぁ。…負けてられんよな。お前も、俺も」
ケンイチ「そうっすよ。だから和田さんも…とりあえずはまたディープボンドが帰ってきた時のためにも頑張らないと」
リュージ「言ってくれるやんけ…まあ、その通りやな！サンキューな、ゾエ」
ケンイチ「いえ…そしたらそろそろ僕行きますわ。この後まだやることあって…じゃあ和田さん、また」
リュージ「ああ、またな…ありがとうな、ホンマ」

この悔しさが晴れることはない。イフを思わずにいられるようには、きっとなれない。
それでも…いや、だからこそ前へと走るしかないのだ。
そう気付かせてくれたケンイチの後ろ姿を見送りながら、リュージは呟く。

リュージ「なぁボンド。ダーレイさん。清水さん。モンジュー、ブレーヴ………それにオルフェーヴル」

リュージ「俺は…正直、ずっとどっか引っかかってたんや。本当にこれでよかったんかって…今の今まで、ずっと」

リュージ「でも今なら胸張って言えるわ。俺たちが走って手にした結末は、間違ってなかった。あの呪縛から生まれた凱旋門を駆け抜けた意味は───確かに、あったんや」

リュージ「だから…俺ももう、大丈夫。今回は無理やったけど…きっとこの先、日本人騎手で挑むケースももっと増えてくるはず。その時ちゃんと手綱を握り続けられるよう、頑張っていくわ」

───"あの頃"みたいに、な。

競馬定礎値C+