誰もが「オモシロいドラマ」を第1回から観たい。後で「見逃したのを後悔したくない」。だが、新作ドラマの情報を調べても、絶賛ばかり。本当のことは、分からない。ならば、どうする?その答えを出すのが、このWikiです。

レジェンドたちの言葉が残っていないから、日本のドラマ・コンテンツが低迷している。

ドラマ関連書籍の執筆者の殆どは、ギョーカイの経験者ではないので、間違った入門書が世の中に流通している。
忌まわしきは、「テキストの量で、読者を圧倒する」だけで、要領を得ないこと。
アインシュタイン博士は、「この世の中は、いくつかの単純な法則で成り立っている」と述べているが、ドラマコンテンツも同じ。

小津安二郎全集を編纂した弟子・井上和男は、

●映像編集における接着力は、前後のカットの「画柄の違いに比例する」。

との法則を教えてくれた。

この法則は、プロの現場では当然のこと。「ポンヨリは、タブー」を知る人も、今は少ない。
※ ポンヨリとは、カメラポジションを変えないまま、ロングショットの次に、アップのショットを撮影すること。
テレビドラマでのマルチカメラの手法により、「ポンヨリをタブーにする」業界慣例は消えてしまった。
番組「ズーム・イン朝」における「ズームイン」はテレビ用語。映画用語ではズームアップ。さらにいうと、丁寧な仕事は「移動車を使ったトラック・アップ」である。



【レジェンドたちのマキシム(至言)】

・「映画はドラマだ。アクシデントではない」(監督・小津安二郎監督)


= 出来事ではなく、ドラマ。

※ 「小津映画では、何も起きない」と小津作品は酷評されていた。


・「これはシナリオではありません。ストーリーです」(監督・溝口健二)


出来事を書き連ねたものが、ストーリー。シナリオとは、登場人物たちの「心のケミストリー」。

※ 溝口作品「近松物語」では、番頭の恋情に触れ、ヒロインは恋に生きる。

※ (溝口に罵倒された)新藤兼人が日本のシナリオ界を牛耳ったため、日本のドラマはダメになった。「あらすじ主導のシナリオ執筆」はダメ。「主人公の超目標/登場人物間のベクトル関係」を中心に、シナリオを作成していくべき。


×「シナリオは三部形式だ」(脚本家・新藤兼人)


= 観客が映画館に缶詰めになる昭和時代の映画なら成立する理論だが、連続ドラマなら、「ツマラナいなら、次週は観ない」。

新藤脚本の欠陥を溝口監督は指摘したが、その本意を新藤は理解しない。

新藤は「溝口監督の弟子」を名乗り、日本のシナリオ界を牛耳ったので、ライターたちに広まった。新藤は溝口監督の葬儀にも出席していない。彼は卑怯にも「溝口監督の弟子「を自称した。

・「シナリオで大切にするのは情熱の挫折」(脚本家・池端俊策)


※ 「主人公の情熱をもとにシナリオを書いた」ため、池端氏は向田賞を得るほどの名声を得た。「主人公が運命の被害者」な作品は多い。

※ だが、昭和のドラマは、「運命の残酷や、生きることの辛さ」といったペーソス(悲しさ)を描いてきたので、古臭い。

・ 「設定はダメよ」(脚本家・首藤剛志)


※ ゲームシナリオの影響もあって、基本設定を複雑にすることがシナリオと誤解する制作者が多い。だが、それは「設定を増やすこと」。首藤剛志は「ポケットモンスター」で、世界的に評価された脚本家である。


・「いい作品を沢山観ていれば、主人公が勝手に動き出す」(脚本家・首藤剛志)


= 「あらすじに縛られてシナリオを書く」のではなく、「基本設定」だけ作り、後は、「自由にシナリオを書く」。
※ 基本設定とは、「主人公の超目標・主体的意志/主要登場人物とのベクトル関係」。

・「最近のドラマにはアンタゴニストが足りない」(鴨下信一・TBS演出家)


= 「対立を嫌い、忖度する日本人」は、アンタゴニスト(対立)は描きたくないから、ドラマの中にアンタゴニストは少ない。

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