誰もが「オモシロいドラマ」を第1回から観たい。後で「見逃したのを後悔したくない」。だが、新作ドラマの情報を調べても、絶賛ばかり。本当のことは、分からない。ならば、どうする?その答えを出すのが、このWikiです。

作品の面白さは、主体的なキャラの含有量に比例する。

立場(父・母・先生・生徒)や、職制(警官・刑事・医者・弁護士・駅員・サラリーマン・OL)は、主体性ではない。
「良き人であろうとすること」は主体性でも、個性でもない。

立場/良識を超えたものが、個性であり、主体性である。

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伊丹十三は、エンターテインメントが分かっている映画監督だと思っていたが、そうではなかった。
彼の出世作「お葬式」の冒頭ちかく、俳優夫婦とマネージャーの2台の車が雨中を疾走しながら、サンドイッチを渡すシーンがある。スペクタクルではあるが、ドラマではない。
伊丹監督は、ドラマではないものを、オモシロいと考え、作品に盛り込んでいる。

大規模予算の作品の多くが駄作になるのは、予算を使うスペクタクルが、作品の優劣を決定しないから。
多くは、ドラマの欠如を補うために、予算が使われる。
土曜ワイド劇場の最後が、東尋坊ロケになるのは、「謎解き」がドラマに関係がなく、刺激度が足りないから。

メリル・ストリープは、舞台では演技が求められるが、映画では、撮影場所が多くの語っているので、演技で何かを足そうとすると過剰になると、アクターズ・スタジオ・インタビューで語っている。撮影場所に、多くを語るのである。

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基本的には、
●max.ドラマ(対決・対立・摩擦・葛藤・恋情)
●mini.設定/説明
である。

ここで重要なのは、
★たとえ「設定/説明」であっても、「感情」を備えていれば、許される。
ということ。
ドラマであれば、もっと良い。

溝口健二監督作品「近松物語」の冒頭は、「江戸時代の京都の商家では、店主が絶対的な権限を持つ」という封建的な人間関係を説明するシーン。脚本は、「女中に手を出そうとする店主」と「逃げ惑う女中」というエピソードを作り、説明をドラマの中で成立させている。



ドラマを成立させるには、「主体性のあるキャラクター」が必須である。
わが師・首藤剛志は「人情噺は書かない」と、大江戸捜査網を降板した。
私が解釈するに、登場する江戸の庶民たちは主体性がない。あるのは、「他人様には迷惑をかけない」「よき人であろう」との行動規範だけ。
「主体性のないキャラクター」だけでは、ドラマを作っても、魅力的にならない。

刑事ものを類推すれば、分かりやすい。
交番の巡査は、職務を遂行するだけで、主体性は薄い。
捜査課の刑事は、職務を遂行するだけでは、犯人逮捕まで、なかなかいかない。
職務を超えた情熱が個性として輝くことが必須である。

刑事に「職制を越えた個性/情熱」がなく、ストーリーが展開するなら、クイズ番組に等しい「謎解き」の物語になる。

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