誰もが「オモシロいドラマ」を第1回から観たい。後で「見逃したのを後悔したくない」。だが、新作ドラマの情報を調べても、絶賛ばかり。本当のことは、分からない。ならば、どうする?その答えを出すのが、このWikiです。

夜ドラ「あれからどうした」は、ドラマを拒否している。

●回想は説明である。(現在進行形で、描くべき)
・・・食堂での会話から、回想に入る。

●出来事は、ドラマではない。
・・・回想シーンは、ナラタージュ。つまりは、行為者のナレーションでの「説明」。
さらに、一人称の出来事。いうまでもないが、ドラマとは、「人間と人間の間」で生まれる。
金太郎も、山を出なければドラマは始まらないし、桃太郎もかぐや姫も、おじいさんとおばあさんがいてこその物語。

ナレーションを裏切る、過去の回想だが、嘘をつく動機が見当たらない。好意的にみれば、証券会社のストレスだろうが、群像劇の中で、切迫感がない。
万引き、別居して暮らす妻と子供たち、孤独な一人暮らしは、それだけでは「設定」。ドラマに昇華しない。

どうかしてる。
つか、アンチドラマ。世にも奇妙な物語。

ポストモダンの時代、ドラマの進化は終着駅に着いてしまったから、アバンギャルドとしての価値は、すでに失っている。

NHKは、いまだ1990年以前。モダンな感覚にとらわれている。




VIVANTは、第一回で見るのを辞めた。

福沢演出論。

「私が女優になる日」を途中から見たらTBSの演出家の福沢克雄が出演していた。

驚いたというか、呆れた。
VIVANT。
彼は、現場で、文章で読んだセリフで良かったのが、言葉で聴くとダメな場合があるので、それを吟味するという。

あほか。
そうならないようにするのが、シナリオを書く作業。
まるで、食卓に、調味料を沢山ならべる「牛丼のすき家」。料理人は、客にとって「不完全なものを出している」と、暗に認めている。



さらに、作品の格・質を高めるために、エキストラを300人出す。と、誇る。
あほか。
作品の格など、局内の評価であって、視聴者は関係ない。

そのことで、韓流ドラマのように、海外進出を目指す。
あほか。
韓ドラは、シナリオの品質が高いから、日本を始めとする海外で評価されることになった。「冬のソナタ」のメイキングビデオを観れば、貧弱な照明機材で低予算だと分かる。
海外で評価されたから、大型予算が確保できるようになった。

そして、ヒットするか、びくびくしながら、VIVANTを作っていた。と。
あほか。
彼は、プロデューサーであり、ディレクターであり、シナリオライター。全権を持っている彼なら、「自分のやっていること」に確信が無くて、どうする。現場のスタッフが可哀そう。
これだから、慶應ラグビー部の脳筋人間は困る。「自分のやっていること」に確信が持てないなら、画家は、いつまでも作品を完成させることができない。

生前のチャップリンは「最高傑作」を問われると、「次回作」と答えたという。それは、自信がないからではなく、自分はもっと成長するという自負心の表現。自信の欠如ではない。

結局のところ、福沢演出家は、シナリオも分かっていないし、演技も分かっていない。
半世紀前は、編成部の人間も、下積みを経験せず、外注ドラマのディレクターを無理やり経験させられていたが、そんなことはもうない。
なのに、「ドラマのTBS」のドラマ班の筆頭であり、TBSの重役。

TBSのドラマの伝統は失われた。



セクシー、田中さん。最終回。

は支離滅裂だった。アリエナイ。



韓流ドラマ・ヒョンジェは美しい〜ボクが結婚する理由。

「かぐや姫の結婚希望者が、3人出てくる」展開を想起した。
創作者たちは、「奇想天外な設定を展開して、盛り上げよう」とするが、物語は散漫になる。
どんなに設定で盛り上げても、結婚希望者たちは、モブキャラでしかない。だから、オモンナイ。

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