曹洞禅・仏教に関するwikiです。人名・書名・寺院名・思想・行持等々について管理人が研究した結果を簡潔に示しています。曹洞禅・仏教に関する情報をお求めの方は、まず当wikiからどうぞ。

【定義】

道元禅師が日本に将来された「日本曹洞宗」の歴史を、略して年表にした項目である。なお、項目の典拠としては『日本洞上紀年』、『曹洞宗全書』「大年表」、『禅学大辞典?』「禅宗史年表」、宗務庁?刊『宗侶必携』などを参照しながら、適宜簡略化して記事にしておく。日付は、特に断りがない限り、旧暦。元号の後にある日本・中国などの国名は、該当国家に於ける元号。何も無い場合には、上の項目に同じ。

【内容】

807年(元和2・中国) 曹洞宗の祖、洞山良价禅師誕生。
869年(咸通10) 洞山良价禅師遷化。
1162年(紹興32) 7月7日、如浄禅師中国越州にて誕生。
1198年(建久9・日本) 懐弉禅師が京都にて誕生(永平寺二世)。
1200年(正治2) 1月2日に道元禅師が京都にて誕生(永平寺開山)。
1207年(建永2) 道元禅師の母死去。高雄寺にて葬儀。その様子を見て道元禅師発心
  同年(開禧3・中国) 寂円禅師、中国洛陽にて生まれる(宝慶寺開山)。
1212年(建暦2・日本) 道元禅師出家の志を深め、比叡山良顕法印を頼る。
1213年(建保元) 4月9日、道元禅師が比叡山で剃髪得度、師は天台座主公円。
1215年(建保3) 7月5日、明庵栄西?禅師遷化
  同年 懐弉禅師が比叡山にて出家
1217年(建保5) 道元禅師が比叡山を出て建仁寺に移動。
  同年 寒巌義尹禅師(後鳥羽上皇か順徳天皇の皇子)誕生(大慈寺開山)。
1219年(建保7) 徹通義介禅師越前にて誕生(永平寺三世・大乗寺開山)。
1223年(貞応2) 2月22日、道元禅師は参学師明全和尚と共に建仁寺を出て入宋
  同年 一行は4月に明州へと到着し、7月に天童山景徳寺に掛錫
1225年(宝慶元・中国) 5月1日、道元禅師は天童如浄禅師と初相見、面授
  同年 5月27日、中国天童山にて明全和尚遷化。
  同年 夏安居中かと思われるが、道元禅師が如浄禅師から「身心脱落話」を聞いて大悟
  同年 9月18日、道元禅師が如浄禅師から『仏祖正伝菩薩戒作法』を伝授される。
1227年(宝慶3・中国、嘉禄3・日本) 7月17日、如浄禅師遷化、世寿66歳。
  同年 秋に帰国し建仁寺留錫
  同年 9月2日、道元禅師の育父、源通具死去。
  同年 道元禅師『普勧坐禅儀』(嘉禄本)を撰述。
1228年(安貞2・日本) 8月以降、寂円禅師来日か(『宝慶寺由緒記』)。
1229年頃 懐弉禅師が道元禅師の門を叩くも、問答で負けるか(『伝光録』第52章)。
1231年(寛喜3・日本) 道元禅師『弁道話』を撰述。
1232年(寛喜4) 義介禅師が比叡山にて受戒
1233年(天福元) 道元禅師が観音導利院に落ち着く(後の興聖寺)。
  同年 道元禅師『正法眼蔵』最初の巻となる「摩訶般若波羅蜜」撰述。以下、京都滞在中に40巻以上を著す。
  同年 7月15日、道元禅師『普勧坐禅儀(天福本)』を撰述。この真筆本が現存。
1234年(文暦元) 懐弉禅師、観音導利院に行き道元禅師に弟子入り。
  同年 3月頃、道元禅師『学道用心集』を撰述。延文2年(1357)に刊行。
1235年(嘉禎元) 8月15日、懐弉禅師、道元禅師から伝戒
  同年 冬至日、道元禅師『真字正法眼蔵』編集。
1236年(嘉禎2) 10月15日、興聖寺を開堂して集衆説法す。これ以降、上堂が熱心に行われる。
  同年 懐弉禅師が道元禅師から「一毫穿衆穴」の話を聞き大悟
  同年 除夜に懐弉禅師拝請して興聖寺最初の首座とし、秉払させる。
  同年 詮慧禅師が道元禅師に参じるか?(京都永興寺開山)
1241年(仁治2) 春頃、達磨宗懐鑑を始め、義介義演義準などが道元禅師の門下に入る。
  同年 比叡山で学んでいた寒巌義尹禅師が道元禅師に参じる。
1242年(仁治3) 4月12日、道元禅師が近衛殿に謁して法談に及ぶ(『示近衛殿法語』参照)。
  同年 心地覚心(臨済宗法灯派)が道元禅師より菩薩戒を受ける(『円明国師行実年譜』参照)。
1243年(寛元元) 7月16日、道元禅師が波多野義重からの願いを聞いて、越前に移転。
  同年 道元禅師が吉峰寺に仮錫。年末には禅師峰でも示衆を行う。
1244年(寛元2) 7月18日、道元禅師が吉峰寺から大仏寺に移動。
1245年(寛元3) 4月15日、大仏寺での夏安居を開始。
1246年(寛元4) 6月15日、大仏寺を永平寺に改称。同日『知事清規』成立。
  同年 鉄山士安禅師が肥後にて誕生(大慈寺二世)。
1247年(宝治元) 8月3日、道元禅師が鎌倉へ行化。
  同年から翌年 鎌倉で檀那俗弟子(『永平広録』巻3-251上堂)、或いは北条時頼と会談(『道元禅師和歌集』参照)して菩薩戒授戒か。
1248年(宝治2) 3月13日、道元禅師が永平寺へ帰山。翌日に「帰山の上堂」。
1250年(建長2) 波多野義重が永平寺に『大蔵経』を納める旨、書状にて知らせる。
1251年(建長3) 了然法明禅師が玉泉寺(現・玉川寺)を出羽国内に開く。
1252年(建長4) 10月頃か、道元禅師発病。
1253年(建長5) 1月6日、『正法眼蔵』最後の1巻である「八大人覚」巻が著される。
  同年 7月15日、永平寺住職の座が懐弉禅師に譲られる。
  同年 8月5日、波多野義重の進言により道元禅師が病気療養のため上洛。
  同年 8月15日、道元禅師中秋に因む和歌を詠まれるが、事実上辞世の歌となる。
  同年 8月28日、道元禅師遷化世寿54歳。
  同年 9月10日、懐弉禅師が永平寺に道元禅師の遺骨を持ち帰る。
  同年 9月12日、永平寺方丈の間にて、入般涅槃の儀式に準えた法事が行われる。
  同年 義尹禅師が1度目の入宋。
  同年 12月、義雲禅師が京都にて誕生(永平寺五世・同寺中興)。
1259年(正元元) 義介禅師が入宋(帰国は4年後)し、現地の禅林を見聞して『五山十刹図』を記す。
1261年(弘長元) 寂円禅師が銀杏峰に入り坐禅、後に宝慶寺になる。
1263年(弘長3) 詮慧『正法眼蔵聞書(後の御抄)』を著し、寂光と内容確認。
1264年(文永元) 瑩山紹瑾禅師が越前にて誕生(一説に1268年、總持寺開山永光寺開山)。幼名は行生。
  同年 義尹禅師が2度目の入宋。『永平広録』を持参して、無外義遠に『永平略録』を編んでもらう。
1265年(文永2) 義雲禅師が出家、ただし教宗寺院。
1267年(文永4) 4月8日、義介禅師が永平寺三世として晋住
1271年(文永8) 瑩山禅師が永平寺に上り、住持である義介禅師の下で沙弥となる。
1272年(文永9) 2月、義介禅師が永平寺を退董し、その麓に養母堂を立てて隠遁。懐弉禅師が再住する。
1276年(建治2) 瑩山禅師が正式に出家し、懐弉禅師の末後の弟子となる。
  同年 義雲禅師宝慶寺にて寂円禅師に参ず。
  同年 峨山韶碩禅師が能登国羽咋(現在の石川県北部)にて誕生(總持寺二世)。
1277年(建治3) 明峰素哲禅師が加賀(現在の石川県南部)にて誕生(永光寺二世・大乗寺三世)
1278年(弘安元) 大慈寺が開かれる。開山は寒巌義尹禅師
  同年 宝慶寺の造営開始。開基は知円沙弥
1279年(弘安2) 義雲禅師が越前・新善光寺にて『正法眼蔵』を書写。
1280年(弘安3) 8月24日、懐弉禅師が永平寺にて遷化、83歳。その後、義介禅師が永平寺に再住
1282年(弘安5) 瑩山禅師が宝慶寺に上山、維那を命ぜられる。
1287年(弘安10) 義介禅師が永平寺を再び退董
  同年 義演禅師永平寺に入寺、四世。
1289年(正応2) 道荐禅師遷化懐弉禅師法嗣で美濃衆林寺開山
1290年(正応3) 大智禅師が肥後国宇土(現在の熊本県)生まれる。
1291年(正応4) 瑩山禅師が阿波城万寺(現在の徳島県)の開山となる。
1292年(正応5) 瑩山禅師は義演禅師より『仏祖正伝菩薩戒作法』を得る。年内に鉄鏡眼可など5人の者に授戒する。
1293年(正応6) 加賀大乗寺を開堂、開山義介禅師、開基は澄海阿闍黎。
1295年(永仁3) 瑩山禅師が「平常心是道」の話にてその境涯を証明されて、義介禅師より嗣法
  同年 義雲禅師が寂円禅師から嗣法
1298年(永仁6) 義介禅師が大乗寺退董後住瑩山禅師。
  同年 寒巌義尹禅師が大慈寺退董後住斯道紹由。
1299年(永仁7) 9月13日、寂円禅師遷化世寿93歳。後住義雲禅師。
1300年(正安2) 1月12日以降、大乗寺住持瑩山禅師『伝光録提唱請益として)開始。
  同年 8月21日、寒巌義尹禅師遷化世寿84歳。
1301年(正安3) 1月11日、大慈寺二世の斯道紹由遷化、世寿不明。後住は鉄山士安。
1306年(嘉元4) 8月28日、義介禅師が瑩山禅師に対して『嗣書』を授与、その口訣を示す。
  同年 11月3日、義介禅師が達磨宗系統の伝持物を瑩山禅師に授与し「嗣書の助証」とする。
1308年(徳治3) 経豪編『正法眼蔵御抄』成立。
1309年(延慶2) 9月14日、義介禅師遷化、世寿91歳。
  同年 経豪梵網経略抄』撰述。
1311年(延慶4) 10月10日、大乗寺二世の瑩山禅師は寺の院事明峰禅師に譲る(『法衣相伝書?』参照)。
1313年(正和2) 無底良韶禅師が能登にて誕生(陸奥正法寺開山)。
1314年(正和3) 10月26日、永平寺四世の義演禅師遷化世寿不明。
  同年 12月、永平寺五世として、宝慶寺義雲禅師が晋住。宝慶寺後住は曇希禅師。
  同年 大智禅師が入元。
1317年(文保元) 10月2日、瑩山禅師が永光寺へと移る。
1318年(文保2) 中巌円月(後の臨済宗)が義雲禅師に参ず。
1319年(元応元) 12月8日、瑩山禅師が永光寺にて『当山尽未来際置文?』を著す。
  同年 月泉?良印禅師(陸奥正法寺二世)が宮城県本吉郡の熊谷氏に生まれる。
1321年(元亨元) 7月、定賢律師が瑩山禅師に諸嶽寺観音堂と寺領を寄進する。後の諸嶽山總持寺
  同年 瑩山禅師が『總持寺中興縁起』を著す。
1324年(元亨4) 5月16日、峨山禅師以下、僧衆20人が總持寺の僧堂を開くため永光寺から出る。
  同年 同月29日、總持寺僧堂が開かれ、両班が初めて招聘された。
  同年 7月7日、瑩山禅師が總持寺峨山禅師に譲り、様々な法具を授与される。その後数日間、總持寺では授戒が行われ、多くの者が法縁を得る。また『大般若経』が總持寺に入り、瑩山禅師は同経の解題を提唱された。その後、永光寺に帰山。
  同年 大智禅師が帰国。
  同年 宗可(義雲禅師の侍者)が入元。同年中に、霊隠寺の独孤淳朋より義雲禅師像への賛を得る。他にも、年月不明ながら、浄慈寺の霊石如芝(83歳当時)から義雲禅師像への賛を得、天童山南谷庵(如浄禅師の廟所)の道元禅師位牌を修築す。
1325年(正中2) 8月8日、瑩山禅師が永光寺を明峰禅師に譲る(『洞谷五祖行実?』)。
  同年 8月15日、四大不調となっていた瑩山禅師が臨終を迎え、永光寺内にて遷化世寿62歳。
1326年(正中3) 義雲禅師が永平寺を復興へ。
1327年(嘉暦2) 義雲禅師が永平寺梵鐘を鋳造す。
  同年 7月、宗可が明極楚俊(1329年来日)より法語一篇をもらい、この年帰国。
1329年(嘉暦4) 義雲禅師、60巻本『正法眼蔵』に頌を付す(『正法眼蔵品目頌』)。
1333年(正慶2) 1月、明峰禅師が大智禅師に伝法衣を授ける。 
  同年 10月、義雲禅師遷化、永平寺の後住曇希禅師(六世)。
1336年(建武3) 2月12日、大慈寺二世・鉄山士安が遷化世寿91歳。
1338年(延元3) 明峰禅師が臨済宗法灯派・恭翁雲良の後を襲って加賀・大乗寺に住す(数え方で三世、または四世)。
1340年(暦応3・南朝) 3月11日、盗賊が乱入した際の火で永平寺が全焼。
  同年 同月26日 永平寺が、焼失した道元禅師の御影の代わりを大乗寺に求めたところ応じてくれたため、「一夜碧巌」を大乗寺へ移譲。
1341年(興国2・北朝) 越中紹光寺の壺庵至簡が遷化
  同年 無底良韶禅師が峨山禅師から嗣法
1343年(至正2・中国) 東陽徳輝等が『勅修百丈清規』を編集(日本での刊行・五山版は1356年)。
1347年(正平2・日本) 月泉?良印禅師が大悟し、峨山禅師から嗣法
1348年(正平3) 無底禅師が陸奥(現在の岩手県奥州市)に正法寺を開く、開基は黒石越後守正端・長部重義。
1349年(正平4) 太源?宗真禅師峨山禅師から嗣法
  同年 月泉良印禅師が出羽(現在の秋田県秋田市、当初は同県大館市内に所在とも)に補陀寺?を開く、開基は安藤盛季(安藤師季?)。
1350年(観応元・北朝) 明峰素哲禅師遷化世寿74歳。 
  同年 5月、陸奥正法寺が北朝によって奥羽二州の僧録、曹洞第三の本寺、賜紫出世の道場とされる。
1351年(正平6・南朝) 加賀浄住寺無涯智洪が遷化、後住は寂室了光
  同年 大智が肥後広福寺?を開く。
1353年(正平8) 瑩山禅師に対し、南朝の後村上天皇から「仏慈禅師」の諡号を賜る。
1358年(延文3) 曇希禅師が『永平略録』を刊行。
1361年(延文6) 5月、瑩山禅師にも参じた臨済宗法灯派、出雲雲樹寺・孤峰?覚明が遷化世寿91歳。
  同年 6月、無底良韶が遷化世寿49歳。正法寺後住は月泉?良印。
1364年(正平19) 峨山禅師が『峨山和尚山雲海月提唱。一説には同年中に、總持寺輪住制(5年交代)を定めるという。
1366年(正平21) 10月、大本山總持寺二世・峨山韶碩禅師遷化世寿91歳。後住は太源?宗真禅師(三世)。
  同年 12月、大智禅師遷化世寿77歳。
1370年(応安3) 8月、峨山五哲總持寺を曹洞一宗の本寺とする。
  同年 通幻寂霊禅師が、細川頼之の請により、丹波永澤寺?を開山(一説には、応安7年)。
1371年(応安4) 11月、太源?宗真禅師遷化
1372年(応安5) 北朝が永平寺に「日本曹洞第一道場」の勅額を賜る。
1375年(永和元) 春、無著?妙融禅師が豊後横手に泉福寺?開山
1378年(永和4) 10月、通幻寂霊禅師が、太源以外の峨山五哲と相議して、總持寺を永光寺の本寺に定める。
1379年(康暦5) 9月、道叟道愛禅師遷化。
1381年(永徳元) 12月、無外?円昭禅師遷化。
1382年(永徳2) 8月、通幻寂霊禅師が詔を奉じて總持寺第五祖として開堂式を挙げる。
  同年 同月 總持寺で仏殿の上棟式を行う。
  同年 10月、通幻寂霊禅師が、他の峨山五哲と相議して、總持寺住持職選定方法を議定。
1387年(嘉慶元) 2月、無端祖環禅師遷化。
1389年(康応元) 5月、下野国那須に殺生石?が現れる。
1391年(明徳2) 5月、通幻寂霊禅師が越前龍泉寺?にて遷化、世寿70歳。
1393年(明徳4) 8月、無著?妙融禅師遷化。
1394年(応永元) 3月、了庵?慧明禅師が相模最乗寺?を開山。
  同年 傑堂?能勝禅師が越後国村上に耕雲寺?を開山。
1395年(応永2) 正月、源翁?心昭禅師が那須の殺生石?を度す(一説には至徳2年8月)。
  同年 總持寺が源翁派を峨山門下から擯出。瑞世を停止させる。
1399年(応永6) 小春吉日、天性『仏祖正伝記』を著す。
1400年(応永7) 正月、源翁?心昭禅師遷化世寿72歳。
  同年 2月、月泉?良印禅師遷化、世寿82歳。
1419年(応永26) 2月から10月末にかけて太容梵清が加賀仏陀寺?にて『正法眼蔵』(梵清本84巻本)を書写。




※随時追加予定。

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