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322 Tears of joy 2 sage 2010/05/10(月) 23:43:28 ID:8k+gHmLp










 紺色の空を焦がすように火の粉を巻き上げていた炎はもう随分とおとなしくなっていた。
最後の文化祭はもうすぐ終わる。このキャンプファイヤーとダンスが終われば、私達の最
後の祭りが終わる。
 私の目は赤く揺れる炎を背景に踊る高須君とタイガーに釘付けになっている。二人はど
こからか不意に現れて、流れるように軽やかに踊り始めた。その姿にきゅっと胸が締め付
けられる。
 
 素敵だった。

 誰も二人を冷やかさなかった。そう出来なかった。
 二人の世界を侵すことは誰にも出来なかった。

 踊る二人を下級生の女の子達が見つめている。
 キャンプファイヤー、古くさいプログラム。でも、良いなってそう思う。
 私も祐作とあんな風になれたらなって思う。
 でも、まだ返事は貰ってない。

 やっぱり、狩野先輩のこと、好きなのかな……

 祐作と狩野先輩は恋愛関係じゃない。前はどうだったのか分からないけれど、今はそう
じゃない。と思う。でも、憧れはあるんだろう、とも思う。今日、初めて会話したけど、
狩野すみれは素敵だった。

 綺麗だし、格好良いし、颯爽としていて大人っぽい。私とは全然違う。
 私は彼が好きだった人とは全然違う。

 彼は私の事を、こんな私の事をどう思っているんだろう。それを聞くのは怖いけど、で
も確かめよう。そうしなきゃ先には進めない。そうしないと、いつの間にか卒業して、不
完全燃焼のままで私の恋は終わってしまう。

 炎は随分弱くなって、もう炎って言うよりは唯の火だった。
 
「木原!」
 祐作の声。不意を突かれて私の肩はびくんと跳ねた。
 振り返ると同時に彼に手を握られた。そのままグイグイと引っ張られる。
「ちょっと来い!」
「ちょ、ちょっと」
「いいから。時間がない」
 私は祐作に引きずられてすっかり勢いを失った火の近くまで来た。彼は立ち止まり、そ
して振り向いた。祐作はゆっくりと私の手を離して、
「木原、踊ってくれないか?」
 そう言って手を差し伸べてきた。
「でも、恥ずかしいし。踊ったことなんてないし」
 どうしてこういうこと言っちゃうかな。私は。
 どうして可愛らしく『うん』って言って笑えないんだろう。
 きっと怖いんだ。上手く出来なくて、失敗するのが怖いんだ。それを人に見られるのが
イヤなんだ。きっと、タイガーみたいには踊れない。よたよたするだけでちっともダンス
になんて見えないだろう。


 でも、祐作は微笑んでいる。そして、
「簡単だよ。ただ、手をつないで回っていればいいんだから」
 そんな事を平然と言う。
 そうだよね。誰かに見せるために踊るんじゃないんだから、きっとそれでいいんだ。
「へたっぴでも良かったら」
「かまうもんか」
 きっと本当にそうなんだ。すごくみっともないダンスになると思うけど、でも、祐作に
はそんなことは関係ないんだ。
 揺れる赤い炎を背景に立つ祐作に微笑んで、彼の手に指をのせた。
 彼は大切なものを守るように私の指を握ってくれた。

 トクトクと胸がなる。軽く背中に手を添えられて耳が熱くなる。

 私達のダンスはぎこちない。足と足がぶつかりそうになる。でも……
 細かいことなんか気にしない。
 二人で踊ろう。ほんの少しの間だけ、人目なんか忘れて、

 踊ろう…… 

 彼は微笑んでる。
 顔が火照るのは、炎のせいだろうか。ちがうよね。きっと、ちがう。
 きっと心が燃えているんだ。だから、
 
 踊ろう……

 嬉しいな。最後の文化祭で彼が私を選んでくれて。
 瞳が潤むのは、熱のせいだろうか。ちがうよね。きっと、ちがう。
 きっと心が震えているんだ。だから、

 踊ろう……

 ああ、音楽が小さくなる。
 火も小さく、弱くなる。
 終わってしまう。終わってしまう。もう、終わってしまう。

 後夜祭の終了を告げるアナウンスが流れる。音楽が止まる。

 私達は向き合ってはにかんだ。照れくさかった。
「おわっちゃったね」
 そんな事しか言えなかった。
「そうだな。ありがとう。踊ってくれて」
 私は頷いた。
「こっちこそ。ありがとう」
 祐作は、優しく微笑んでる。
 
 ちょっと、照れる。

 祐作の手が私の背中を温めている。
 このまま、彼の胸に顔を埋めてしまいたい。そっと優しく抱いて欲しい。


「木原。あのさ、……」
 え? この感じって、ひょっとして……

 ―― どわぁあああああああああ

 グランドの端の方から男子の雄叫びが聞こえた。突然の事で肩が震えた。祐作も驚いて
辺りを見回してる。

「な、なんだ?」
 私も祐作が見ている方を向いた。十数人の生徒がこちらに向かって奇声を上げながら爆
走してくる。その全員が顔見知り、元2―Cの生徒達だった。そして、その軍団の後ろで、
「ゆけーっ、ものどもーっ」って叫んでるのは、

「あ、亜美ちゃん?」

「タイガー捕獲!」能登が叫ぶ。
「うわっ、なんだお前ら?」
 亜美ちゃんが高須君の腕を掴んで引っ張る。
「たかすくぅん」なんて甘い声を出している。
 奈々子と櫛枝がこっちにむかって爆走してきて、祐作が櫛枝に捕まった。
「こっちは北村君ゲットだぜ!」
「うわ、櫛枝! 何事だ? なんだなんだ」
「ふふ、麻耶、お楽しみのところわるいわね」
「奈々子! なに? なんなの?」
 奈々子に無理矢理手を握られた。
「春田君! 歌いなさい!」亜美ちゃんの声が響いた。
 そして間抜けな春田の声。

 ―― ちゃんちゃんちゃかちゃん ちゃんちゃんちゃんちゃら 

 妙に軽快なそのメロディ。マイムマイムだった。

 奈々子にグイグイと手を引かれる。いつのまにか人の輪が出来ていてぐるぐると回り出
す。私も一緒に回りながら、
「なんなのよ? いったい」叫んだ。
「マイムマイム。イスラエル民謡だな」
 祐作は真顔で言った。どうでもいい知識だった。

 ―― マーイムマーイムマーイムマーイム マイムベッサンソン

 なんで、なんで、なんで、なんで!

 ―― ヘイヘイヘイヘイ

 大事な、すごく大事なことが聞けそうだったのにぃぃぃ 

 ―― ちゃんちゃんちゃかちゃん ちゃんちゃんちゃかちゃん

 どーしてよってたかって邪魔するのぉぉぉぉ

 という私の心の叫びはマイムマイムの合唱にかき消され、濃紺の空へと吸い込まれていっ
た。地獄の使者、マイムマイム団が解散したのは十分後のことだった。

***


 作るのに比べれば壊してしまうことがなんと簡単なことか。文化祭の後片付けをしなが
らつくづくそう思った。数時間かけて作ったアーチは引き倒されて十分ほどでもとの木材
とボール紙に戻った。学校中からバリバリという破壊音が聞こえてきて一時間ほどでグラン
ドにはゴミの山が出来上がった。ゴミの処分に専門の業者が来るそうで、その対応は生徒
会が行うことになっているそうだ。
 そして私達実行委員一同は体育館に集合して最後のミーティングを行っている。生徒会
長、北村祐作の最後の大仕事は無事に終わった。祐作はちょっとだけ目を潤ませながら実
行員たちに自分の思いを語っている。

「みんなのおかげで本当に良い文化祭が出来た。大成功だ。本当にありがとう」

 みんなが拍手している。もちろん私も。

「じゃあ、本日はこれで解散。生徒会役員は明朝九時集合だ」

 それぞれに思いがあって、みんな去りがたい様子だったけれど、それでも一人二人と実
行委員達は帰って行った。私は祐作と二人になりたくてみんなが帰るのを待っていた。で
も生徒会役員達はなかなか祐作を解放してくれなかった。それに顧問の先生まで加わって、
私はちょっと焦れてイライラしてきた。そんな時、
「木原」祐作に声をかけられた。
「なに?」
「あと三十分ぐらい残れないかな。ちょっと手伝ってほしいことがあるんだ」
「いいよ。大丈夫」
 ちょっと遅くなるけど家に電話しておけば大丈夫だろう。
「助かるよ。じゃあ、生徒会室で待っててくれないか。すぐに行くから」
 そう言って祐作は私に生徒会室の鍵を渡した。私は顧問の先生と打ち合わせを始めた祐
作を残して生徒会室へ向かった。歩きながら家に電話して、後片付けでちょっと遅くなる
からとお母さんに伝えた。

 鍵を開けて誰もいない生徒会室に入った。蛍光灯をつけて、適当な椅子に腰掛ける。ほ
とんど一日中立ちっぱなしだったから足がだるい。ふと思いついてパイプ椅子をもう一脚
出してその上に足を乗せた。

 ふぅー っと息が漏れた。

 はしたない格好だけど、すごく楽。ふくらはぎの疲れがすーっと抜けていくような気が
する。そんな格好のまま、私は生徒会室の中を見渡した。この部屋にも祐作の思い出がいっ
ぱいあるんだろうな、なんて思った。
 昼間はあんなに騒々しかったのに、今は物音一つしない。それがすごく不思議な感じだっ
た。窓の外は真っ暗で、コンクリートの壁も床のタイルもひどく冷たそうに思えた。

 さっき、祐作は何を言おうとしたんだろう。
 それを考えると今更だけどムカついてきた。あそこで邪魔されなかったら……
 いや。いやいやいや、ちょっと待て。
 告白してもらえるかも、なんて思ってたけど、逆パターンもあるんじゃない?


『俺、やっぱり狩野先輩が好きなんだ』とか言われたりして。

 無い、無い。心の中で唱えながら首を振る。
 そんなことあるわけ無い。
 一緒に踊ってくれて、その後でそんな事を言うはずない。絶対無い。絶対無い。
 絶対無い…… よね?

 パタパタと上履きで歩く音が聞こえてきた。多分、祐作だ。
 落ち着け落ち着け…… と心で唱える私の視界に自分の足が。パイプ椅子に足を乗せた
ままだった。私は大慌てで椅子から足を下ろして立ち上がった。電光石火のスピードでス
カートがめくれてないかチェックした。

 ドアを開けて祐作が入ってきた。
「わるいわるい」なんて言いながら。

「それで、何を手伝えばいいの?」私は聞いた。
「うん。それを、」と言って北村君は失恋大明神の社を指さした。
「捨てようと思ってね」
「本当に?」
「ああ。それで木原に手伝って貰おうと思ってね。みんなには反対されそうだから」
「そっか。うん、いいよ」
「助かるよ。じゃあコレ」
 祐作は私に軍手を差し出した。
 
 私達はベニヤ板と段ボールで造られた社を生徒会室から運び出した。見た目は結構な大
きさがあったけれどそれは思いの外軽くて二人でも簡単に運ぶことができた。祐作はこれ
を文化祭のゴミと一緒に捨てるつもりなのだろう。私達は暗い廊下を歩き、階段を下り、
グランドに出てゴミの山の近くで社を下ろした。
 祐作は社を力任せに、淡々と、黙々と解体していく。ものの数分で廃材から生まれた失
恋大明神の社は元の廃材に戻った。私達は段ボールやベニヤ板を廃材の山に積み上げて、
その山に青いビニールのシートをかけた。

「これでよし、と」
 どこかすっきりしたような表情で祐作は言った。
「木原。ありがとう。助かったよ」
「どういたしまして」
 私は軍手を外して祐作に渡した。彼はそれを受け取って、
「じゃあ、帰ろう。もう遅いから送っていくよ」
 嬉しかった。けど、ただの義務感なんだろうな、とも思った。きっと私じゃなくても祐
作はそうするだろう。それでも、私は少しでも長く彼と一緒にいたかった。だから、
「うん、おねがい」
 私はそう言って彼に微笑んだ。


***


 私達は街灯の青白い明かりに照らされた道を並んで歩いている。時刻は九時過ぎ。そん
なに遅い時間ではないけれど住宅街は静けさに包まれている。私達は文化祭のことをあれ
これと話しながら歩いている。それはそれで楽しくて、こんなにも彼と話すことができる
ことが嬉しくて、でも、本当に聞きたいことは別にあって、なのに、それを自分から言い
出す事ができなくて、私はきゅっと胸を締め付けるような苦しさを感じながら家に向かっ
て歩いてる。

「……無事に終わって良かったよね」
「まったくだ。あ、いや、能登には悪いことをしちゃったな」
「あれはしょうが無いよ。そもそも能登が悪いんだし。高須君がアメリカに行くわけない
じゃん。真に受ける櫛枝もちょっとアレだけどさ」
「まあ、そうだな。ああ、そうだ。高須なんだけど、卒業したら大橋から引っ越すって言っ
てた。逢坂と一緒に」
「引っ越すって、どこに?」
「高須のお母さんの実家。確か、」

 そこは、ここからかなり遠い場所だった。

「まあ、合格できたらって言ってたけど、多分、受かるだろ。高須と逢坂なら」
「そうなんだ。あ、てことは同棲するのかな?」
「そこまでは聞いてないけど。多分、一緒に暮らすんだろうな」

 踊る二人の姿を思い出した。長い髪の毛をふわふわと揺らしながら、嬉しそうに踊る小
さな女の子と、彼女の手を取って、守るように、慈しむように踊る青年の姿が脳裏に浮かん
だ。高須君が祐作にそう言ったということは、二人が一緒に暮らすことに二人の親が同意
しているということなのだろう。
 
「すごいね」
「ああ、すごいよな。けど、寂しくなるな」
「うん。亜美ちゃんも自分の家に戻るって言ってたしね」

 それを聞いた奈々子はすごく寂しそうだった。

「ああ、そう言ってたな。木原も聞いてたんだ」
「そりゃね、友達だもん」
「まあ、亜美は仕事のこともあるからな。都内の方が便利だろうし、いつまでも叔父さん
のところに居候ってわけにもいかないだろうし」

 確かにそうだろう。元々、亜美ちゃんはストーカーから逃げて来ただけで大橋に来たかっ
たわけじゃない。奈々子もそれを分かってるから引き留めたりはしなかった。

「だよね。あのさ、祐作は卒業したら一人暮らしとかするの?」
「いや。大学は家から通うつもりだよ」
「じゃあ、大橋に残るんだ」
「まあ、合格できたら、だけどね」
「受かるよ。祐作は頭いいもん」

 彼は私とは違う。ちゃんと努力して積み上げてきたんだから。



「ありがとう。そう言ってくれると、何となくそんな気になるよ」
 そう言って祐作は笑った。
「へへ」私は微笑んだ。

 私は、ダメだ。彼と同じ大学には絶対に行けない。大学で勉強したい事も無い。もう
ちょっと大人になるのに猶予が欲しい、それだけ。
 
 そんな自分が恥ずかしい。 

 きっと祐作には夢があって、実現したい自分の姿があって、それに近づくために大学に
通う。亜美ちゃんも、高須君も、タイガーもそうなんだと思う。夢をつかみ取るための道
を選んだんだと思う。なのに私は選択を先送りするための猶予が欲しくて進学を考えてる。
 
 こんな私に、彼と付き合う資格なんかない。

 北村君は大学でいろんな人と出会うだろう。その中には私なんかより頭がずっと良くて、
気が利いて、何でも出来て、そんな女の子だっているだろう。何しろ彼の進学先には私なん
かよりずっと凄い人たちが日本中から集まってくるんだから。その中には彼が好きだった
人みたいな人だっているかもしれない。

 けど、でも……あきらめたくない。

 ずっと、見ていたい。ずっと、もっと、私は彼の近くにいたい。
 これが我が侭だって事は分かってる。だって、私が祐作にしてあげられることは何も無
いんだから。でも、それでも、私はやっぱり彼が、

 好きなんだ。

「ねぇ。祐作」
「ん?」
「あのさ、ダンスが終わった後、何か言おうとしたよね?」
「え、ああ」
 彼は言葉を詰まらせて少し俯いた。それは何かを考えているような仕草だった。会話が
途切れ、聞こえてくるのは私達の足音と遠くを走る電車の音だけだった。その電車の音も
小さく遠くなっていく。続く沈黙に私の心は沈んでゆく。
 やっぱり、ダメなのかな、そう思った時、
「木原」
「え? うん」
「ちょっとだけ、寄り道していかないか?」
 そこは小さな公園の前だった。「いいよ」と私は答えた。

 その公園は本当に小さくて、広さは二十メートル四方ほど。遊具はジャングルジムと砂
場だけでそれらが古びた照明に照らされている。この公園にも昔はブランコがあったけど、
それは何年も前に老朽化して撤去されたままになっている。
 祐作はジャングルジムに上って一番上に腰掛けた。
「ジャングルジムって小さいよな」
 私を見下ろしながら祐作は言った。
「上ってこいよ」
「うん」


 私もジャングルジムに登って、一番上、彼の隣に腰掛けた。彼の言う通り、ジャングル
ジムは本当に小さかった。子供の頃は凄く高いと思っていたのに。
「本当に小さいよね。昔はもっと大きいと思ってたけど」
「体がでかくなったから、相対的に小さく感じるんだろうな」
「だね。ほら、小学校のグランドとか、今見ると凄く狭かったりするじゃない。あれと同
じだよね」
「ああ、俺も経験あるよ。あれって驚くよな」
「うん。なんか変な感じだよね」 
 この公園だってそうだ。昔はもっと広かったような気がする。

 弱い風が吹いて私達の髪を揺らした。祐作が空を見上げて、つられるように私も夜空を
見上げた。真上近くにペガススの大四辺形が輝いている。

「ペガススか。すっかり秋だな」
 祐作が言った。
「そうだね」
 星空の様子も、澄んだ空気の感じも、微かに冷たさを感じさせる風も秋のそれだった。
「木原」
「うん」
 私は隣に座っている祐作の方を向いた。彼の表情は少しだけ強ばっているようだった。
「あのさ、返事、遅くなってごめん」
「ホントだよ。待たせすぎだよ」
 そう言って私は少し俯いた。
「本当にごめん。ずっと考えてたんだ。俺たち、進む大学も違うだろうし、それに、俺に
は夢があって、それを実現するためには凄く時間もかかるだろうし、犠牲にするものも多
いと思うんだ。それで、木原を苦しめるかもしれないし、傷つけるかもしれない。
 だから、言い出せなかったんだけど、でも、俺は……」
「……うん」
「俺は木原が好きなんだ」
「……本当に?」
「嘘や冗談でこんなこと言うもんか」
 薄暗くても分かるぐらい、彼の顔は赤かった。それで、彼が本気なんだって分かった。
 どくんどくんと心臓が激しく鼓動する。
 瞳が潤んで視界が滲む。
 何か言わなきゃ、でも、胸が苦しくて言葉が出ない。
 なんて私はバカなんだろう。気持ちがちっとも言葉にならない。
 やっとの事で絞り出したのは、

「……うん」それだけだった。 

「もうすぐ受験だし、お互いのためにどうかなって思ったんだけど、でも、俺は木原が好
きなんだ。これからも傍に居て欲しいんだ」

 もう、溢れてくる涙を押しとどめることなんて出来なかった。手の甲で拭っても拭って
も涙は止まらなくて、頬を伝った涙が顎の先からぽたぽたと滴り落ちた。

「これ、使えよ」
 祐作がハンカチを差し出した。私はそれで涙を拭いながら軽く洟を啜り、何度か深く息
を吸った。

 彼が私を好いてくれた。
 傍に居て欲しいって言ってくれた。


 胸が熱くて、体が溶けて無くなってしまいそう……

 嬉しくて、嬉しくて、でも、 
「本当に私でいいの? 私、何にも出来ないよ。頭、悪いし」
 彼の想いに報いることなんて、私にはきっと出来ない。
「そんなことないよ。この一ヶ月、俺の気持ちを支えてくれてたのは木原だよ」
 彼の笑顔が涙で滲む。
「逃げ出したくなったこともあるし、投げやりな気分になりかけた事だってあったけど、
俺の傍にはいつだって木原がいてくれた。木原が、出来るよ、大丈夫だよ、って言ってく
れるとさ、俺はそんな気分になれるんだよ」

 だめだよ。そんな事、言われたら。 
 私、嬉しくて……、嬉しくて死んじゃうよ……

 胸が苦しくて、気持ちを彼に伝えたいのに、声も言葉も出てこない。
 彼のハンカチをぎゅっと握りしめて、それで涙を拭うことも出来なくて、涙がぽろぽろ
とこぼれてスカートに染みを作っていくのを肩を震わせながら唯眺めてる。
 肩に何かが触れた。すぐ隣に彼がいた。肩を抱き寄せられて、彼の胸に顔を埋めた。彼
の学生服はちょっとだけ埃っぽくて汗の匂いがした。それは彼がみんなの期待に応え続け
た証だ。みんなが彼を信じてる。先生達も期待してる。それに応え続けようと彼は頑張っ
てる。それがどんなに大変な事か、どんなに辛い事か、今はちょっとだけ分かる。それで
も、そんな風に挑み続けるのが彼の生き方なんだと思う。
 そんな彼を支えるなんて私にはまだできない。けど、彼が飛ぶことに疲れた時に、翼を
休めるための場所にならなれるのかもしれない。私だけが、あんまり格好良くない北村祐
作を知っている。そんな生き方ができたなら、それだってきっと素敵な事だと思う。

「ゆうさく、だいすきだよ」
 やっと出てきた言葉はそれだった。
「俺も……」
 心が蕩けるようだった。
 私は彼の胸に預けていた顔を上げた。
 眼鏡の奥の目が照れくさそうに優しく私を見つめている。

「本当はダンスの後で言おうと思ってたんだ」
「邪魔されちゃったもんね」
「ああ、まさか亜美があんな事を企んでいたとは思わなかったよ」
「亜美ちゃん、悪の組織の女幹部だから、しょうがないよ」
「ははは、そうだな」
 祐作は笑った。
「ふふっ……」
 つられて私も笑った。
 ふと、私達は見つめ合って、そして、同時に照れた。
 ぱっと、互いに視線をそらす。


「ねえ、祐作」
「ん?」
「一つ、お願いしていい?」
「お願い? いいけど」
 もう一度、私達は見つめ合う。
 彼はちょっと戸惑ったような表情で私を見ている。
 そんな彼にちょっとだけ大胆なお願いを、
「キス、して」と。
「ここで?」
「今、ここで」
「いや、でも、誰かに見られたら……木原の家の近所だしマズイだろ」
 そう言うと思った。
「大丈夫だって」
「いや、でも」
「ダメ。二ヶ月も待たせた罰だもん」
「……わかった」
 と言ったくせに、祐作は落ち着き無く辺りを見回すばかりでキスしてくれない。
「もう、こっち向いて」
「え、ああ」気のない返事をしながら祐作が私の方を向いた。
 私は祐作の顔から眼鏡を外してブラウスの胸ポケットに押し込んだ。
「あ!」
「ほら、これでもう私しか見えないでしょ」
 私はちょっと意地悪く微笑んで見せた。
 祐作はちょっと呆れたような表情で、
「そうだな」と言って微笑んだ。

 彼の手が私の肩にそっと触れる。
 私は顔を少しだけ上げて彼を見つめる。
 緊張してるのかな。祐作は真顔で私を見つめてる。

 高鳴る胸の鼓動を感じながら、私は静かに瞼を閉じた。

(Tears of joy 2 / きすして〜Supplemental story おわり)





332 356FLGR ◆WE/5AamTiE sage 2010/05/10(月) 23:48:03 ID:8k+gHmLp
投下完了です。
 読んでいただいた方、ありがとうございます。
 これにてSupplemental Story(北村×木原)も終了です。
 本編終了後だし蛇足だったかも。「きすして5」の投下なんて半年も前だし……

補完庫様へ
「きすして7」収録時に誤記を修正していただきありがとうございました。
 このSSは「きすして5 Thread-B」として補完庫に収録してください。
 
本当にどうでもいい知識
 北村がマイムマイムを「イスラエル民謡」と説明していますが、マイムマイムが作曲
 されたのは20世紀に入ってからで作曲者も明確なので所謂「民謡」ではありません。 

以上、356FLGRでした。


321 356FLGR ◆WE/5AamTiE sage 2010/05/10(月) 23:42:33 ID:8k+gHmLp

356FLGRです。
書いてしまったので投下します。
タイトル:「Tears of joy 2 / きすして〜Supplemental story」

「Tears of joy / きすして〜Supplemental story」の続編です。
(補完庫では「きすして4 Thread-B」となっています)

「きすして3B」、「4B」、「5」の既読を前提にしております。未読の場合、保管庫の
補完庫さんで読んでいただけると嬉しいです。

注意事項:北村×木原、エロ無し、時期は高校三年の文化祭、レス数10
次レスより投下開始。規制とかで中断するかも。

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