最終更新: text_filing 2011年09月13日(火) 04:58:23履歴
25 174 ◆TNwhNl8TZY sage 2011/08/27(土) 10:06:03.22 ID:+v2COCk/
「あふたーだーくあなざー」
二月十四日、バレンタインデー当日の夜のこと。
点けっぱなしのテレビをぼんやり眺めていると、階段を上る足音が聞こえてくる。
立ち上がりざまに時計を見れば、もう七時を軽く回っていた。
ちょっと買い物をしてくるからって家を出て行ったのは二時間も前。
たいして時間はかからないって、出掛けにそう言ってたのに、すっかり待ちくたびれちゃったじゃない。
顔を見たら文句の一つでも言ってやろうかしら、もう。
「おかえり、竜児」
ドアが開くのと同時に言うと、ノブに手をかけたまま、竜児が目を丸くした。
普段はすごいツンツンに吊りあがっているからか、私はこういう角がとれたような感じの目が可愛く思えて好きだった。
「なんだ、大河、そんなに腹へってたのかよ」
出迎えた私がよっぽどお腹を空かせているように映ったみたいで、竜児がプッと噴出す。
少しむっとしたけど、実際お腹は減っていただけに言い返せない。
「わるいわるい、すぐ飯にするから」と竜児はむくれている私の横を素通りする。
なによ、人のことこんなに待たせといて。二時間よ、二時間。そりゃお腹だって空くわよ、誰だってそうでしょう。
自己主張の激しいお腹の虫も、同意権だと頷くようにぐうと鳴ってみせた。
と、そんなとき。
「あれ? それなに、竜児?」
シンクに置かれたスーパーの袋から手早く引き抜かれた、見慣れない包装をした小さな包み。
明らかに晩御飯のおかずに使うようなものじゃない、けっこう値段の張りそうなそれを、まるで私から隠そうとするみたいに後ろ手に持ったまま、竜児がそそくさと自室へ入っていこうとした。
呼び止めると、ビクッと肩が跳ねる。
あやしい、あからさまにあやしい。
「……ねえ、ずいぶん遅かったみたいだけど、どこ行ってたの」
ケータイには何度も何度もかけたけど出てくれなかったし、メールもいっぱい送ったのに一通も返信してくれなかったし。
だいたいちょっと買い物に行くくらいで、何だってこんなに時間かかってたのよ。
スーパーの袋は商店街にある店のやつだから、そんなに遠くまで出かけていたとは考えにくい。
荷物だって、どう贔屓目に見たって片手で足りるような量。
何かあったって思うじゃない、普通は。
「どこって、べつにただ買い物してただけだぞ。ほら、いつものスーパーで」
そのことは疑いようがないけど、しっかり目を合わせようとしないし、やっぱり竜児はどことなく変。
嘘は言ってないと思うけど、本当のことを全部言っているようにも思えない。
「そっ。買い物だったんだ」
「おう」
「じゃあ、そのチョコも買ったの?」
「お、おう。まあな」
自分を落ち着けるために深く深呼吸をする。
そうでもしないと、まだ決定的な核心に触れていない内に、はぐらかそうとしている竜児をぶん殴ってしまいそうだったから。
「へえ、やっぱりチョコだったのね、それ」
「は? え、あ、いや」
途端に竜児の歯切れが悪くなった。
カマをかけてみたら案の定、私の目から遠ざけようとしていたものの正体はチョコだった。
この時点で、買ってきたものだなんて真っ赤な嘘だってわかった。
沸々とお腹の底から熱いなにかが込み上げてくる。
これが他の何でもない日だったらまだ納得できないでもなかったけど、なんていったって今日はバレンタインデーなのよ?
そんな日に自分でチョコ買ってくるなんてさもしくって虚しいこと、竜児がするなんてとても思えない。
絶対誰かから貰ってきたはず。いったい誰なのよ、人に断りもなくそんなことするのは。
「だれ。誰から貰ったのよ。言いなさい、竜児」
語気を強めにして言う。顔を逸らされた。
一歩前に出れば一歩後ろへ下がられて、お互いの距離は変わらない。
なんか、もっとムカついた。
「しらばっくれてもわかるんだから。素直に白状しないと後が恐いわよ」
凄んでみても、おどかしてみても、竜児は口を割ろうとしない。
もう一歩前へ出れば、もう一歩下がった竜児が襖にぶつかる。
私はさらにもう一歩踏み込んで竜児との距離を完全に潰した。
見上げると、そこにはツンツンとも違う、角が取れてもいない、形容しがたい竜児の目が見下ろしてくる。
なのに、その目に私は映ってないように思えてしまって、腹立たしさが加速していく。
このままお見合いしててもきっと竜児は答えようとしない。
そういうやつだってわかってるから、だから私は、とりあえず当てずっぽうを言ってみた。
「みのりん?」
まずありえそうなところを挙げてみる。
すると竜児は妙な否定の仕方をした。
「いや、櫛枝からのは」
あっと声に出して、そこで口を両手で覆うけどもう遅い。
みのりんからのは? 今みのりんからはって言った? 言ったわよね、みのりんからのはって、そう確かに。
みのりんからはって言ったってことはつまり、竜児が持ってるそれ以外のでならみのりんから貰ったやつがあるってことよね。
いつの間にそんなことを。みのりん、バレンタインデーなんてすっかり忘れてたくらいだよって言ってたのに。
「違う、大河、今のはそういうんじゃなくてだな」
竜児が慌てて取り繕おうとする。
失言に少なからずショックを受けつつ、と同時に嫌な予感もしたので、一応確認のためにもう一人頭に浮かんだいけ好かない名前を言ってみた。
「なら、ばかちー?」
横一文字に口を引き結んでいた竜児はあさっての方へ目を逸らした。
否定も肯定もしない、ただただ逃げの姿勢。その反応だけでも充分だったかもしれないけど、今ひとつ腑に落ちない。
理由はうまく言えないんだけど、なんか勘が騒ぐのよね。
あ、こいつまだ隠し事してるな、って。
その勘に従って、私はもう一度カマをかけてみることにした。
ふうっと少しばかり気勢を和らげてみせ、余裕があるように演じてみる。
「なわけないわよね。その時のは私、この目で見てたんだし」
すると、竜児の顔色ががらりと変わった。
信じられないというように目を見開いて、半ば呆然としている。
「おまえ、どっから見てたんだ」
「気づかなかったの? すぐ近くにいたのに」
「すぐ近くって、自販機のとこで気づかないわけ……はっ!?」
自販機の置いてある踊り場、ね。ずいぶんと大胆なところでやってくれんじゃないのあのばかばかちー。
再度のカマにそれはそれは見事にあっさり引っかかった竜児に、冷ややかな視線を叩きつけてやった。
だらだらと大汗を掻きだしたその顔は、青かったり白かったりたまに土気色してたりでこっちまで気分が悪くなってきそう。
かくいう私の顔色といえば、竜児とは正反対の真っ赤っかだっただろうけど。
甘かった。目を光らせていたつもりだったのに。
しかし過ぎてしまったことをとやかく言っていてもしょうがない。
没収するのはさすがに気が引けたし、そんなことをすれば竜児に本気で怒られそうなので取り上げるようなことはしなかった。
その代わりに、あの二人には今度必ず何らかのお返しをしようと、そう固く心で決意した。
でも、こうなるといよいよわからないのは、今竜児が背中に隠しているチョコの存在。
あれは誰があげたのよ?
私の思いつく限りではみのりんとばかちーくらいなものだったので、それ以外の相手となると推測のしようもなくなってしまう。
ぱっと見たとこあんまり安っぽくはないし、ちゃんとしたお店で買ったような感じがする。
手がかりといえばその程度で、他には、そう、におい。
「な、なんだよ」
訝しがる竜児を無視してお腹の辺りにおもいっきり顔を埋めた。
さっきまで外にいたおかげで心もち冷たくって、その奥はほんのりあったかい。
鼻先をぴったりくっつけて、そうして深く息を吸い込んだ。
「やっぱり」
聞かれないようぼそりと呟く。
微かだけど、竜児のとも、私のとも違うにおいが鼻腔をくすぐる。
香水みたいだったから最初はやっちゃんのかとも思ったけど、やっちゃんが使ってるような、あんまり強い香りのするタイプじゃあないみたい。
少なくともこの家にいる誰のものとも違うにおいなのに、それにしてはどっかで嗅いだような覚えがあるような気もする。
どこだったっけ。
ここじゃないとすれば他に可能性があるのは学校しかないし、たぶんそれは合ってると思うんだけど、肝心なところではっきりと思い出せない。
残り香を頼りに記憶の糸を手繰り寄せてることに躍起になっていると、時間が経ちすぎたためか次第にその残り香が薄まっていってしまう。
もうちょっと濃いものだったならまだしも、なにぶん染み付いたそれは本当に微かなものだったし、だんだんと竜児のにおいの方が強まってきた。
少し汗が混じった、男の人のにおい。竜児のにおい。
そのまま顔を埋めたままでいるとなんだか頭がくらくらしてきて、息ができないわけでもないのに息苦しい。
呼吸の仕方を忘れてしまったみたいで、ひたすら空気を吸い込んでばかりいた肺が破裂しそうだった。
「なあ、いい加減にしてくれよ。いつまでそうしてんだ、大河」
「ふみゅ」
ふいに息苦しさから開放される。それと共に、温もりも遠のいていく。
ぷはあと堪らず肺いっぱいの空気を吐き出すと、靄が晴れていくように徐々に思考が鮮明になっていく。
誰かのにおいを追っていたはずが、いつしか竜児のにおいに夢中になってしまっていた私を、気味悪そうな顔した竜児が引き剥がした。
思い返してみると我ながら恥ずかしげのないことをしちゃったけど、我を忘れてしまっていたんだからどうしようもないじゃない。
それに、そうよ、これは竜児のせい。
いいにおいのする竜児のせいなんだから、そんな顔されるいわれなんてないもん。
ううん、それにしても。
「むうー。あとちょっとで誰だったかわかりそうだったのに」
薄ぼんやりとして特定まではできなかったけど、確かにあれは私たちのごくごく身近にいる誰かのにおいだった。それは断言できる。
続けざまに二度もカマに引っかかり、失言に次ぐ失言でただでさえ立場のない竜児が、私の言葉で明らかに狼狽した様子を見せた。
それを悟らせまいと、ごほんとわざとらしい咳払いをひとつ。
「だから、これは買ってきたもんだって言ってるだろ。何がそんなに気になるんだ」
「自分で買うのにラッピングする? 冗談でしょ。そもそも竜児、みのりんとばかちーから貰ったのだって私に内緒にしてたじゃない」
「それは……とにかく、このことはもう聞くなよな」
ぴしゃっと乾いた音を立てて襖が閉じられる。
これ以上の追及はごめんだという風に、私が何か言う前に竜児は自室に篭ってしまった。
不機嫌さも滲ませていたあの様子じゃあ、これ以上しつこく尋ねるのはやめておいた方がいいかもしれない。
不満は残るけれど、それで竜児とケンカしてしまうのは本望じゃないもの。
特に今日は、そんなこと絶対したくないんだから。
険悪な雰囲気の中で一緒にいて、ギクシャクしたまま過ごすだなんて、そんなのそれこそ望んでない。
ぺらぺらな紙と木でできた薄い襖の向こう側にいる竜児に、渡さなきゃいけないものがある。
一旦台所へ行き、冷蔵庫に入れておいた小箱を取って戻ってくる。
意を決すると、私はそこに居るだろう竜児に語りかけた。
「ねえ、竜児」
本当は一番に渡したかった。
なかなか上手にできなくって、何度も失敗しちゃって、結局こんなに遅くなっちゃった。
出来栄えだって思ってたようにはぜんぜんなってくれなくって、味も自信ないし、胸をはれるようなものじゃないけれど。
「出てきて。渡したいものがあるの」
しばらくそこで待っていると、むすっと仏頂面を提げた竜児が顔を出した。
なんだよとでも言いたげな、ツンツンを通り越して刺さりそうな目も、差し出されているそれを見て角がとれていく。
「竜児がそうしろっていうんなら、今日はもうなんにも聞かない。だから、ね? これで仲直りしよ?」
さっき竜児が持っていたそれと比べたら手抜きと言われてもしょうがない簡単な包装を解いていく。
上蓋を開けると、中には少しだけ歪な形をしたハートが、箱の大きさに比べたらややこじんまりと収められている。
こんなのしか作れなくて、呆れられたらどうしよう。笑われたりしたら、やだな。
でも、竜児に喜んでもらえたなら、それはなによりも嬉しいと思うから。
「あのね、そのね……ハッピーバレンタイン、竜児」
緊張してどもってしまわないよう、唇に震えが走っているのを我慢して、精一杯の笑顔でそう言った。
竜児は私と、私が手にしているチョコとを交互に見て、たっぷり時間を置いてから口を開いた。
「貰っていいのか、これ」
遠慮がちな竜児からは戸惑いの色が浮かんでいる。
つい五分ほど前までとは打って変わった私の態度に、何か裏があるのかもって思ってるのかもしれない。
もう、変な心配なんかしてないでこんなときぐらい余計なこと言わずに受け取りなさいよ、ばか。
しげしげとこっちを眺めているに留まっている竜児に、私はふて腐れたように頬を膨らませた。
「なによ。べつに、いらないんだったらそれでも」
「おい、待てよ。誰もいらねえなんて言ってないだろうが」
「ムリしなくっていいわよ。どうせ私のなんて欲しくないんでしょ」
と、引っ込めかけた私の手を竜児が掴む。
力が入りすぎていて、掴まれた部分が痛いぐらいだった。
見上げれば、射抜くように鋭い目から、目が離せなくなる。
「……貰ってくれる?」
おずおず尋ねると、真剣な顔をした竜児が言う。
「おう」
「……うれしい?」
「当たり前だろ」
それなら、いい。
言いたいことがないわけじゃないけど、そんなのどうでもよくなった。
貰ってくれて、うれしいって言葉にしてくれたんだから、それでいい。
できるだけ穏やかに、そして明るい声色で「それじゃ、仕切り直しね」と私が告げる。
それから笑顔でもう一度。
「ハッピーバレンタイン、竜児」
〜おわり〜
「あふたーだーくあなざー」
二月十四日、バレンタインデー当日の夜のこと。
点けっぱなしのテレビをぼんやり眺めていると、階段を上る足音が聞こえてくる。
立ち上がりざまに時計を見れば、もう七時を軽く回っていた。
ちょっと買い物をしてくるからって家を出て行ったのは二時間も前。
たいして時間はかからないって、出掛けにそう言ってたのに、すっかり待ちくたびれちゃったじゃない。
顔を見たら文句の一つでも言ってやろうかしら、もう。
「おかえり、竜児」
ドアが開くのと同時に言うと、ノブに手をかけたまま、竜児が目を丸くした。
普段はすごいツンツンに吊りあがっているからか、私はこういう角がとれたような感じの目が可愛く思えて好きだった。
「なんだ、大河、そんなに腹へってたのかよ」
出迎えた私がよっぽどお腹を空かせているように映ったみたいで、竜児がプッと噴出す。
少しむっとしたけど、実際お腹は減っていただけに言い返せない。
「わるいわるい、すぐ飯にするから」と竜児はむくれている私の横を素通りする。
なによ、人のことこんなに待たせといて。二時間よ、二時間。そりゃお腹だって空くわよ、誰だってそうでしょう。
自己主張の激しいお腹の虫も、同意権だと頷くようにぐうと鳴ってみせた。
と、そんなとき。
「あれ? それなに、竜児?」
シンクに置かれたスーパーの袋から手早く引き抜かれた、見慣れない包装をした小さな包み。
明らかに晩御飯のおかずに使うようなものじゃない、けっこう値段の張りそうなそれを、まるで私から隠そうとするみたいに後ろ手に持ったまま、竜児がそそくさと自室へ入っていこうとした。
呼び止めると、ビクッと肩が跳ねる。
あやしい、あからさまにあやしい。
「……ねえ、ずいぶん遅かったみたいだけど、どこ行ってたの」
ケータイには何度も何度もかけたけど出てくれなかったし、メールもいっぱい送ったのに一通も返信してくれなかったし。
だいたいちょっと買い物に行くくらいで、何だってこんなに時間かかってたのよ。
スーパーの袋は商店街にある店のやつだから、そんなに遠くまで出かけていたとは考えにくい。
荷物だって、どう贔屓目に見たって片手で足りるような量。
何かあったって思うじゃない、普通は。
「どこって、べつにただ買い物してただけだぞ。ほら、いつものスーパーで」
そのことは疑いようがないけど、しっかり目を合わせようとしないし、やっぱり竜児はどことなく変。
嘘は言ってないと思うけど、本当のことを全部言っているようにも思えない。
「そっ。買い物だったんだ」
「おう」
「じゃあ、そのチョコも買ったの?」
「お、おう。まあな」
自分を落ち着けるために深く深呼吸をする。
そうでもしないと、まだ決定的な核心に触れていない内に、はぐらかそうとしている竜児をぶん殴ってしまいそうだったから。
「へえ、やっぱりチョコだったのね、それ」
「は? え、あ、いや」
途端に竜児の歯切れが悪くなった。
カマをかけてみたら案の定、私の目から遠ざけようとしていたものの正体はチョコだった。
この時点で、買ってきたものだなんて真っ赤な嘘だってわかった。
沸々とお腹の底から熱いなにかが込み上げてくる。
これが他の何でもない日だったらまだ納得できないでもなかったけど、なんていったって今日はバレンタインデーなのよ?
そんな日に自分でチョコ買ってくるなんてさもしくって虚しいこと、竜児がするなんてとても思えない。
絶対誰かから貰ってきたはず。いったい誰なのよ、人に断りもなくそんなことするのは。
「だれ。誰から貰ったのよ。言いなさい、竜児」
語気を強めにして言う。顔を逸らされた。
一歩前に出れば一歩後ろへ下がられて、お互いの距離は変わらない。
なんか、もっとムカついた。
「しらばっくれてもわかるんだから。素直に白状しないと後が恐いわよ」
凄んでみても、おどかしてみても、竜児は口を割ろうとしない。
もう一歩前へ出れば、もう一歩下がった竜児が襖にぶつかる。
私はさらにもう一歩踏み込んで竜児との距離を完全に潰した。
見上げると、そこにはツンツンとも違う、角が取れてもいない、形容しがたい竜児の目が見下ろしてくる。
なのに、その目に私は映ってないように思えてしまって、腹立たしさが加速していく。
このままお見合いしててもきっと竜児は答えようとしない。
そういうやつだってわかってるから、だから私は、とりあえず当てずっぽうを言ってみた。
「みのりん?」
まずありえそうなところを挙げてみる。
すると竜児は妙な否定の仕方をした。
「いや、櫛枝からのは」
あっと声に出して、そこで口を両手で覆うけどもう遅い。
みのりんからのは? 今みのりんからはって言った? 言ったわよね、みのりんからのはって、そう確かに。
みのりんからはって言ったってことはつまり、竜児が持ってるそれ以外のでならみのりんから貰ったやつがあるってことよね。
いつの間にそんなことを。みのりん、バレンタインデーなんてすっかり忘れてたくらいだよって言ってたのに。
「違う、大河、今のはそういうんじゃなくてだな」
竜児が慌てて取り繕おうとする。
失言に少なからずショックを受けつつ、と同時に嫌な予感もしたので、一応確認のためにもう一人頭に浮かんだいけ好かない名前を言ってみた。
「なら、ばかちー?」
横一文字に口を引き結んでいた竜児はあさっての方へ目を逸らした。
否定も肯定もしない、ただただ逃げの姿勢。その反応だけでも充分だったかもしれないけど、今ひとつ腑に落ちない。
理由はうまく言えないんだけど、なんか勘が騒ぐのよね。
あ、こいつまだ隠し事してるな、って。
その勘に従って、私はもう一度カマをかけてみることにした。
ふうっと少しばかり気勢を和らげてみせ、余裕があるように演じてみる。
「なわけないわよね。その時のは私、この目で見てたんだし」
すると、竜児の顔色ががらりと変わった。
信じられないというように目を見開いて、半ば呆然としている。
「おまえ、どっから見てたんだ」
「気づかなかったの? すぐ近くにいたのに」
「すぐ近くって、自販機のとこで気づかないわけ……はっ!?」
自販機の置いてある踊り場、ね。ずいぶんと大胆なところでやってくれんじゃないのあのばかばかちー。
再度のカマにそれはそれは見事にあっさり引っかかった竜児に、冷ややかな視線を叩きつけてやった。
だらだらと大汗を掻きだしたその顔は、青かったり白かったりたまに土気色してたりでこっちまで気分が悪くなってきそう。
かくいう私の顔色といえば、竜児とは正反対の真っ赤っかだっただろうけど。
甘かった。目を光らせていたつもりだったのに。
しかし過ぎてしまったことをとやかく言っていてもしょうがない。
没収するのはさすがに気が引けたし、そんなことをすれば竜児に本気で怒られそうなので取り上げるようなことはしなかった。
その代わりに、あの二人には今度必ず何らかのお返しをしようと、そう固く心で決意した。
でも、こうなるといよいよわからないのは、今竜児が背中に隠しているチョコの存在。
あれは誰があげたのよ?
私の思いつく限りではみのりんとばかちーくらいなものだったので、それ以外の相手となると推測のしようもなくなってしまう。
ぱっと見たとこあんまり安っぽくはないし、ちゃんとしたお店で買ったような感じがする。
手がかりといえばその程度で、他には、そう、におい。
「な、なんだよ」
訝しがる竜児を無視してお腹の辺りにおもいっきり顔を埋めた。
さっきまで外にいたおかげで心もち冷たくって、その奥はほんのりあったかい。
鼻先をぴったりくっつけて、そうして深く息を吸い込んだ。
「やっぱり」
聞かれないようぼそりと呟く。
微かだけど、竜児のとも、私のとも違うにおいが鼻腔をくすぐる。
香水みたいだったから最初はやっちゃんのかとも思ったけど、やっちゃんが使ってるような、あんまり強い香りのするタイプじゃあないみたい。
少なくともこの家にいる誰のものとも違うにおいなのに、それにしてはどっかで嗅いだような覚えがあるような気もする。
どこだったっけ。
ここじゃないとすれば他に可能性があるのは学校しかないし、たぶんそれは合ってると思うんだけど、肝心なところではっきりと思い出せない。
残り香を頼りに記憶の糸を手繰り寄せてることに躍起になっていると、時間が経ちすぎたためか次第にその残り香が薄まっていってしまう。
もうちょっと濃いものだったならまだしも、なにぶん染み付いたそれは本当に微かなものだったし、だんだんと竜児のにおいの方が強まってきた。
少し汗が混じった、男の人のにおい。竜児のにおい。
そのまま顔を埋めたままでいるとなんだか頭がくらくらしてきて、息ができないわけでもないのに息苦しい。
呼吸の仕方を忘れてしまったみたいで、ひたすら空気を吸い込んでばかりいた肺が破裂しそうだった。
「なあ、いい加減にしてくれよ。いつまでそうしてんだ、大河」
「ふみゅ」
ふいに息苦しさから開放される。それと共に、温もりも遠のいていく。
ぷはあと堪らず肺いっぱいの空気を吐き出すと、靄が晴れていくように徐々に思考が鮮明になっていく。
誰かのにおいを追っていたはずが、いつしか竜児のにおいに夢中になってしまっていた私を、気味悪そうな顔した竜児が引き剥がした。
思い返してみると我ながら恥ずかしげのないことをしちゃったけど、我を忘れてしまっていたんだからどうしようもないじゃない。
それに、そうよ、これは竜児のせい。
いいにおいのする竜児のせいなんだから、そんな顔されるいわれなんてないもん。
ううん、それにしても。
「むうー。あとちょっとで誰だったかわかりそうだったのに」
薄ぼんやりとして特定まではできなかったけど、確かにあれは私たちのごくごく身近にいる誰かのにおいだった。それは断言できる。
続けざまに二度もカマに引っかかり、失言に次ぐ失言でただでさえ立場のない竜児が、私の言葉で明らかに狼狽した様子を見せた。
それを悟らせまいと、ごほんとわざとらしい咳払いをひとつ。
「だから、これは買ってきたもんだって言ってるだろ。何がそんなに気になるんだ」
「自分で買うのにラッピングする? 冗談でしょ。そもそも竜児、みのりんとばかちーから貰ったのだって私に内緒にしてたじゃない」
「それは……とにかく、このことはもう聞くなよな」
ぴしゃっと乾いた音を立てて襖が閉じられる。
これ以上の追及はごめんだという風に、私が何か言う前に竜児は自室に篭ってしまった。
不機嫌さも滲ませていたあの様子じゃあ、これ以上しつこく尋ねるのはやめておいた方がいいかもしれない。
不満は残るけれど、それで竜児とケンカしてしまうのは本望じゃないもの。
特に今日は、そんなこと絶対したくないんだから。
険悪な雰囲気の中で一緒にいて、ギクシャクしたまま過ごすだなんて、そんなのそれこそ望んでない。
ぺらぺらな紙と木でできた薄い襖の向こう側にいる竜児に、渡さなきゃいけないものがある。
一旦台所へ行き、冷蔵庫に入れておいた小箱を取って戻ってくる。
意を決すると、私はそこに居るだろう竜児に語りかけた。
「ねえ、竜児」
本当は一番に渡したかった。
なかなか上手にできなくって、何度も失敗しちゃって、結局こんなに遅くなっちゃった。
出来栄えだって思ってたようにはぜんぜんなってくれなくって、味も自信ないし、胸をはれるようなものじゃないけれど。
「出てきて。渡したいものがあるの」
しばらくそこで待っていると、むすっと仏頂面を提げた竜児が顔を出した。
なんだよとでも言いたげな、ツンツンを通り越して刺さりそうな目も、差し出されているそれを見て角がとれていく。
「竜児がそうしろっていうんなら、今日はもうなんにも聞かない。だから、ね? これで仲直りしよ?」
さっき竜児が持っていたそれと比べたら手抜きと言われてもしょうがない簡単な包装を解いていく。
上蓋を開けると、中には少しだけ歪な形をしたハートが、箱の大きさに比べたらややこじんまりと収められている。
こんなのしか作れなくて、呆れられたらどうしよう。笑われたりしたら、やだな。
でも、竜児に喜んでもらえたなら、それはなによりも嬉しいと思うから。
「あのね、そのね……ハッピーバレンタイン、竜児」
緊張してどもってしまわないよう、唇に震えが走っているのを我慢して、精一杯の笑顔でそう言った。
竜児は私と、私が手にしているチョコとを交互に見て、たっぷり時間を置いてから口を開いた。
「貰っていいのか、これ」
遠慮がちな竜児からは戸惑いの色が浮かんでいる。
つい五分ほど前までとは打って変わった私の態度に、何か裏があるのかもって思ってるのかもしれない。
もう、変な心配なんかしてないでこんなときぐらい余計なこと言わずに受け取りなさいよ、ばか。
しげしげとこっちを眺めているに留まっている竜児に、私はふて腐れたように頬を膨らませた。
「なによ。べつに、いらないんだったらそれでも」
「おい、待てよ。誰もいらねえなんて言ってないだろうが」
「ムリしなくっていいわよ。どうせ私のなんて欲しくないんでしょ」
と、引っ込めかけた私の手を竜児が掴む。
力が入りすぎていて、掴まれた部分が痛いぐらいだった。
見上げれば、射抜くように鋭い目から、目が離せなくなる。
「……貰ってくれる?」
おずおず尋ねると、真剣な顔をした竜児が言う。
「おう」
「……うれしい?」
「当たり前だろ」
それなら、いい。
言いたいことがないわけじゃないけど、そんなのどうでもよくなった。
貰ってくれて、うれしいって言葉にしてくれたんだから、それでいい。
できるだけ穏やかに、そして明るい声色で「それじゃ、仕切り直しね」と私が告げる。
それから笑顔でもう一度。
「ハッピーバレンタイン、竜児」
〜おわり〜
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