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284 きすして6 sage 2010/01/31(日) 22:53:50 ID:mglz3+X6







「ほら、さっさと行け。この駄犬」

 頭を小脇に抱えて走り去るクマを見送った。滑稽を通り越してシュールだった。
 私は素足にフローリングの冷たさを感じながら広大なリビングルームに戻った。薄着
でも暖かいぐらいに暖房のばっちり効いた部屋なのに、さっきまであんなに暖かい場所
だったのに、今はひどく寒々しかった。多分、ひとりぼっちになったせいだ。

 まあ、さっきまで竜児がいたんだしね、どうせ明日になればまた…

『バカだ』

 明日になれば…
 明日になったら…

 竜児はみのりんの恋人に、みのりんは竜児の恋人になる。
 だって、二人は両想い。
 彼の隣はみのりんの場所になる。
 だって、二人は両想い。

『お前は(私は)本当にバカだ』

 だから、もう一緒にはいられない。
 彼の傍にはいられない。
 そこは彼女のものだから。私はそこには居られない。
 
 それが、嫌なんだ…… 

『本当にバカだ! 本当は分かってたくせに。一番大切な人が誰なのか。一番好きなの
が誰なのか。今の自分を誰よりも愛してくれているのは誰なのか』

 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ、嫌だ、嫌だ!
 このまま傍にいられなくなるなんて絶対に嫌だ!
 間に合う。間に合って。
 今ならまだ、今なら引き留められるかもしれない。

 リビングを飛び出した。

 ごめん。みのりん。
 ごめんね、ごめんね、ごめんね。本当にごめんね。
 でも、ダメなんだ! 竜児がいないとダメなんだ!

 だって、私は竜児が好きなんだからっ!

 素足で廊下に飛び出し駆けぬける。
 滲んだ景色が流れていく。
 まるでスローモーションの様に漫然と開く自動ドアを身体を押し込むようにこじ開け
て冷え切ったアスファルトの上に裸足で飛び出した。

「竜児っ!」
 
 辺りを見回す。そこは凍てつくような黒と灰色だけの世界。
 いない。もう見えない。行ってしまった。行かせてしまった。
 戻って! 戻ってきて! お願い!

「りゅーーじぃーーーっ」

 お願い! 届いてっ。届けて、神様、お願いだからっ!
 彼の名を呼ぶ。叫ぶ。のどが裂けてしまうほどに、肺がつぶれてしまうほどに。

「りゅーーじぃーーーっ」

 けれど、声は、彼の名は、凍てつく大気に吸い込まれ彼の心に届かない。
 叫んでも、叫んでも、もう彼には届かない。


 ―― とどかない ――


 朦朧とした意識が最初に認識したのはシーリングライトの常夜灯。
 ゆっくりと身体を起こすと冷えた空気に背中を撫でられて肩がぶるっと震えた。常夜
灯の仄かな明かりに照らされた部屋の景色が滲んで見えた。

 大河は怖々とベッドの隣に敷かれている布団に視線を落とし「りゅーじ」と呟く。
 そこに安らかな寝息を立てる竜児の寝顔を見つけて強ばった大河の頬が緩む。

 よかった。やっぱり、夢だ。

 パジャマの袖で涙を拭い、小さくため息をついた。

「竜児が悪いのよ。嫌な予感がしたから添い寝してってお願いしたのに」
 彼を起こさないように小声で抗議。

 そうは言っても大河のベッドは二人が一緒に寝るにはちょっと窮屈だった。掛け布団
も普通のサイズだからぴったりと寄り添わないとちょっと寒いし、かといって寄り添う
と、キスとかしてしまいがちだし、そうなるとだんだん気分が盛り上がって来たりして、
結局してしまったりと、そんなことがあって、セックスしない時はそういう気分になら
ないように竜児は布団を敷いてそこで寝るというスタイルになったのだ。

 しんと静まりかえった部屋の中、聞こえてくるのは目覚まし時計の乾いた動作音と竜
児の寝息だけだった。目覚まし時計を見ると、時刻は午前三時前。

 寝よ…。大河は呟いて横になって目を閉じた。

 けれど眠りは訪れない。

 羽毛の掛け布団とシルクの毛布に包まれて暖かいハズなのに背筋が震えた。
 カタカタと奥歯がなる。

 素足を切り裂くような冷え切ったアスファルト。
 のどをひりつかせる凍った空気。 
 モノトーンの世界に命が霧散していくかのような絶望感。
 夢の中で再生された感覚が未だに生々しく残っている。

 布団の中で丸まり、肩を抱いた。それでも震えが止まらない。

 あの夜、思い知らされた。
 自分にとって高須竜児がどれほど大切な存在なのかを。
 自分がどれほど愚かだったのかを。
 自分の心に向き合えない臆病者の末路の悲惨さを。
 本当の失望と孤独を。

 こわい…

 大河は身体を起こしてベッドからおりて竜児の枕元にしゃがんだ。
「りゅーじ。りゅーじ」
 小声で呼びながらぺたぺたと肩を叩くと竜児はゆっくりと薄目を開けた。
「ぅん? たいが、どうした?」
 寝ぼけた声で言われて、大河の心は蕩けそうになる。ちゃんと竜児はここにいる。
「さむい。はいっていい?」
「ん、しょうがねぇな。ほら」
 竜児は布団をまくると少し身体をずらして大河のための場所を作った。大河はそこに
するすると滑り込んで竜児の胸に頭をのせた。
「りゅーじ」
「ん?」
「あったかい」
「じゃあ寝ろよ」
「うん。おやすみ」
 大河は小さく洟をすすって竜児のパジャマにしがみついた。

 大丈夫。絶対に大丈夫。大河は自分に言い聞かせる。
 私達は絶対に負けない。準備は万全。落ち度はない。

 竜児の体温で暖められた布団の中で大河の意識はとろとろと溶けていく。
 ささやき合うような寝息を立てて二人は眠る。

 目覚ましが鳴るまであと三時間。
 大河の母がここを出て行ってからすでに一月半が経っていた。

***


「また、その話?」
 ウンザリとした口調で私は亜美ちゃんに言った。
 今年最後の授業を終えた私は亜美ちゃんと一緒に校門を出たところだ。
 担任教師ゆりちゃん独身(31)から雑用を頼まれたせいで私達が学校を出た時間は
いつもより随分遅かった。簡単なことだから、なんて言われて安請け合いしたのがいけ
なかった。ゆりちゃんは私達が三人セットで来ると思っていたらしいのだけれど、でも
摩耶は『ごめん、用事があるから、先帰るね!』と櫛枝のお株を奪うようなダッシュを
見せて帰ってしまったのだ。おかげで二人で三人分の仕事をするはめになった私達は職
員室で不満をたらたらと垂れ流しながら配布物の仕分けを終えて、ようやく解放された
ところだった。

「奈々子、ホントにいいの? このまま卒業しちゃって」
「いいのよ。いいの」
「ふーん。ならいいんだけどさ」
 そう言う亜美ちゃんはちっともそうは思っていないようだった。ちょっと不機嫌そう
な目付きで私をちらりと見ながら言葉を続ける。
「…後悔しても知らないよ」
 冷めた声で彼女は言う。でも、彼女が知らない振りなんか出来ないってことも私は良
く知っている。彼女のお人好しっぷりといったらまるで高須君並かそれ以上なのだ。
「しないわよ。一応、そのつもり」
「あ、っそ」

 亜美ちゃんは私になんとしても告白させたいらしく、ここ二週間ほど二日に一度はこ
の話題だった。そうして高校を卒業するまでに片恋の幕引きをすませてしまった方が私
のためだと力説する。事実、亜美ちゃんは五月に高須君に告白して見事に振られ、そし
て彼と彼の恋人の友人になった。亜美ちゃんは大河と一緒に買い物に出かけたり、時に
は三人で遊んだりもするそうだ。つまり彼女はこんな道もあるんだよ、と言いたいのだ
ろう。
 けれど、私は高須君とそういう関係に落ち着きたいわけじゃない。やっぱり彼には女
として意識して欲しい。今だって友達には違いないけれど、何というか緊張感というか
ある種の危なっかしさみたいなものをキープしたいのだ。だから、私は彼に告白しない。
彼の口から「友達でいよう」なんて言わせない。

 そう思いつつも、私は、……
 逢坂大河が高須竜児と共に紡いでいる物語のファンでもあるのだ。

 そこに世界に背を向けていた逢坂大河という女の子がいた。
 そこに世界に背を向けられていた高須竜児という男の子がいた。
 そんな二人が出会って幸せをつかんでいく。そんな物語。

 書き手は二人、読み手は私。だから、私は介入しない。彼女らの物語の登場人物には
ならないと心に誓った。そんな事を誓わなくても、高須君が大河以外の女を選ぶことな
ど有り得ないけれど、けれど、それでも、私は高須竜児に告白しない。そう決めたのだ。

「そう。しないわ。告白も後悔も」
 もう一度、呟くようにそう言った。本当にややこしい女だと、我ながら思う。高須君
のことは好きだけれど大河には幸せになって欲しいし、それでいて彼には女として意識
して貰いたいのだ。支離滅裂なのはわかってるけどそんな簡単に心の中身を片付けられ
るほど私は単純じゃない。一つ一つの気持ちは全部本物なのだから。


「まあ、いいけどね」 
 あまりそう思っていなさそうな表情で亜美ちゃんは言った。心配してくれるのはいい
んだけど亜美ちゃんのはちょっと過剰な気もする。おかげでちょっと気まずい雰囲気に
なって私たちはしばらく無言で歩いた。
 しばらくして、亜美ちゃんが不意に口を開いた。
「ねえ、奈々子。前から聞こうと思ってたんだけどさ、いつ頃なの? 高須君を好きに
なっちゃったのって」
 言われてみればそれを亜美ちゃんに話した事は無かった。些細な秘め事もあったから
私はそれを彼女に言わなかったのだ。
「いつだったかしらね。もう随分前の事だから覚えてないわ」
 嘘をついた。本当はちゃんと覚えてる。冬と春の境界線上で起きたその出来事を私は
ちゃんと覚えている。あの日の記憶とターコイズブルーの紙袋は私の宝物だから、
 
 忘れない。あの日のことはずっと… 

***

 それは大河が私たちの前から消えて一ヶ月ほどが経った三月十八日の事だった。

 薄情なもので一ヶ月もすると教室に彼女がいないのもすっかり当たり前の事になって
いた。あれだけ突出した人材だったのに、みんなの日常から欠落したとたんに彼女は忘
れ去られていった。そのことを非難するつもりはさらさら無く、そもそも人というのは
忘れてしまうものなのだからそれが自然なのだと私は思っていた。

 そんな状況に逆らうように高須君は強く強く、『激しく』と言っても良いぐらいに大
河のことを想い続けていた。その頃の高須君は沈んだ表情でいることが多かった。誰か
と話しているときは平然と、むしろ明るく振る舞ってはいたけれど、やはり心にぽっか
りと穴が開いてしまっている様に私には見えた。

 けれど、その高須君にしたって彼女のことを忘れていくのだろうと私は思っていたし
確信もしていた。所詮、人と人のつながりなどというものはそんなものだ。とても脆く
儚いものだ。それを私は知っている。お父さんとお母さんがそれを教えてくれたのだ。
 
 ―― 離婚という方法で ――

 共に生きると誓って子供までいるというのに罵りあい、憎しみあって二人は別れた。
母が出て行ったその日まで私の家は両親のバトルフィールドだったのだ。時に私は二人
が互いを傷つけるための武器にされ、攻撃から身を守るための盾にされた。

 二人の離婚が決定的になったころ、私は気付いてしまったのだ。
 二人にとって私がもうどうでもいい存在になってしまったという事に。
 母にとっては憎むべき男との間にできてしまった過ちで、
 父にとっても憎むべき女との間にできてしまった過ちで、
 鎹(かすがい)にすらなれなかった愛らしさのかけらもない出来損ないが、

 香椎奈々子であることに気付いてしまった。


 その経験で私の心はどこかちょっとだけ壊れてしまったのだ。
 とにかく、出来損ないの娘は、ここに至って本当に欠陥品になってしまった。

 人と人の絆なんて胡散臭くてくだらない、本当にそう思っていた。
 恋愛なんて心の病気みたいなもの、あるいは繁殖のためのメカニズム。
 そうとしか思えなくなってしまっていた。世の中の全部が嘘っぱちに見えたのだ。

 でも、私はそんな正体を隠して普通っぽく生きていた。
 同級生達に言わせると、そんな私は大人っぽいのだそうだ。
 落ち着いていて、控えめで……だそうだ。

 冷めているだけなのに。
 人が怖いだけなのに。信じられないだけなのに。

 ―― それが私だった ――

 その日は亜美ちゃんも摩耶もそれぞれに用事があって私は一人だった。夕暮れの黄金
色にすべてが染まる時刻。私は学校の近くの小さな公園でベンチに座ってぼうっと夕焼
け空を眺める高須竜児を見つけたのだった。それは単なる偶然だったし、そんな彼に私
が歩み寄ったのは気まぐれに過ぎなかった。あの頃の彼と話してハッピーになれる要素
は皆無だったし、私は経験上、無責任に彼を励ますことも出来なかったのだから、彼に
話しかけたのは本当にきまぐれだったのだ。

 ベンチに座っている高須君は本当にぼーっとしていた。ベンチには彼の鞄とターコイ
ズブルーの小さな紙袋が置かれていたけれど、私がそれをこっそり盗んだとしても気が
つかないのではないか、と思うほどに彼はぼんやりとしていた。私は彼の視界の外、斜
め後ろに立って声をかけた。

「高須君。何か面白い物でも見えるのかしら?」
 そんなどうでも良いことを聞いた。
「ん? ああ、香椎か」
 彼は顔だけを私の方に向けて、
「見えねぇな。残念ながら」そう言って、また空を眺めた。
「高須君。それ、誰かにあげるの?」
 私はベンチの上に置かれている紙袋を指さして聞いた。それはどう見たってホワイト
デーのプレゼントだった。
 彼は顔をしかめて、
「いや…まあ、なんつーか、空振りだった」
 そしてため息をついた。
「タイガーに?」
「まあな」
「連絡、無いの?」
「ねぇな」
 大河から何の連絡もない。亜美ちゃんから聞いた話は本当だった。その話を聞いて私
は彼女自身がみんなから忘れさられる事を望んでいるのだと思っていた。駆け落ちまで
しておいて連絡してこないなんて訳が分からなかった。
「バレンタインにチョコ貰っちまったからな。ふらっと現れるんじゃ無いかと思ったん
だけど。ま、大河なりに思うところがあるんだろうよ」


 高須君は寂しげではあったけれど、絶望とはほど遠い穏やかな表情でそう言った。
 私はそれが気に入らなかったのかもしれない。
「戻ってくるのかしらね?」
 意地悪く聞いた。意図的に、私は彼女は戻ってこないと思うわよ、というメッセージ
を込めてそう聞いた。そういうニュアンスを込めて彼に言った。
 彼は首を動かさずに視線だけでちらりと私を見た。
「戻ってくるだろ。そのうち」
 当然の事のように彼は言った。
「そうね。でも、今日は無理ね」
「だろうな」
「それ、どうするの?」
 私はベンチの上の紙袋をもう一度指さした。
 その時、彼は一瞬だけ本当につらそうな表情を私に見せた。
「食べる。勿体ない」
 彼はおもむろに紙袋を手にとって、中から巾着のような包みを取りだした。リボンを
ほどき包みを開くとふわっとしたバターとシナモンの香りが広がった。包みの中身は十
枚ほどのクッキーで、それはどう見ても手作りだった。高須君は包みの中からクッキー
を一枚つまんで口に放り込んだ。
「どう?」
「……食うか?」
 そう言って高須君はクッキーの入った包みを乗せた左手を私の前に差し出した。
 私はそれを無邪気にいただけるほど鈍感では無かったけれど、目的を果たせなかった
クッキーは如何にも哀れすぎたし、単純に彼の焼いたクッキーに興味があった。
「頂くわ。隣に座ってもいいかしら」
「ああ。いいよ」
 高須君はいささかぶっきらぼうにそう言った。私はベンチの端に腰掛けて、包みの中
からクッキーを一枚取ってかじった。しっとりとした歯触り、控えめな甘さとシナモン
の香りが素敵だった。
「美味しいわね」美味しすぎてちょっとムカつくけど。
「…そりゃ、なによりだ」
 高須君は二枚目のクッキーをつまんで囓った。こんなに美味しいのに、彼はそれを酷
いしかめっ面で囓っていた。無理もない。恋人のために焼いたクッキーを、ただのクラ
スメイトと一緒に公園のベンチで夕焼けを眺めながら食べているのから。彼がこれを作っ
た時の気持ちを思えばこの状況はそれはもう苦行以外の何物でもないだろう。

「ねぇ、高須君。タイガーはやっぱり戻ってこないんじゃない? 連絡先も伝えてこな
いなんていくら何でもおかしいと思わない?」
「逆だろ。連絡が無いって事は戻ってくるって事さ」
「どういうこと?」
「本当に帰ってくるつもりが無くなったら連絡ぐらいしてくるだろ。大河だってその程
度の常識は装備してるさ」
「そう…。高須君はタイガーを信じてるわけね」
「ああ」
 たった一言で彼は答えた。
「ねぇ。どうしてそんなに信じられるのかしら?
 タイガーは高須君の事を忘れようとしてるのかもしれないわよ」
「ねぇよ」
 またもたった一言だった。

 私は食べかけのクッキーを口に放り込んだ。それにしても美味しいクッキーだ。出来
れば紅茶も頂きたいところだったけれど公園のベンチではそうもいかない。

「香椎」
「え?」
「大河が戻ってくると困るのか?」
 静かな口調で彼は聞いてきた。
「そんなことないわよ。ただ信用できないだけよ。
 恋とか、愛とか、そんなものがね。私は信用できないの」
「随分だな…」
「そうかもね。でも、私ってそんな人なのよ。高須君だから言っちゃうけど、親が離婚
した時にいろいろあってね。タイガーも大変だったみたいだけど、私のところも酷い物
だったのよ」
「…そうか。そいつは辛いな」
 言いながら高須君は表情を曇らせていく。
「そんな暗い顔しないでよ。今は平和なものだから。もう一枚貰うわね」
「ああ」
 クッキーをつまんで口に運ぶとほんのりと紅茶のフレーバーが広がった。
「あ、これは紅茶なのね」
 思わず頬がほころぶ。
 大河だってこれを口に運べば蕩けるように微笑んだことだろう。
 
 でも、彼女はいない。それが現実。

「ねぇ、高須君はタイガーのどこがいいわけ?」
「どこ、って言われてもなぁ」
「やっぱり見た目? 最高に綺麗で可愛らしいものね」
「あのな…」
「男の子ってそういうものでしょ」
「偏見が激しくないか?」
 そう言われても私の経験上、男子というのはそういう生き物だ。
「そうかしら? てっきり高須君はマザコンでロリコンなのかと…」半分冗談だけど。
「ひでーな。…ったく。あいつは中身がいいんだよ」
 そう言って高須君はそっぽを向いて、けれどぼそぼそと言葉を続けた。
「俺が本当に苦しかったときに、そばで支えてくれたのは大河だったよ。どうにもなら
ないぐらいに自分で自分が許せなかったときに、俺を救ってくれたのは…」

 大河だったよ。と、彼は大切な物をそっと見せるように言った。
 
 それはつまり、彼女がそうしたくてたまらなくなるほどに彼から沢山の物をもらった
ということなのだろう。

「大河と出会ってなかったら俺はどうなってたんだろうな…」
「どういうこと?」
「…まあ、そうだな」
 高須君は一旦言葉を切って、小さく息を継いでから話を続けた。
「香椎だから言うけどよ、高須家もいろいろと大変だったんだよ。母子家庭じゃありが
ちな経済的な問題とかよ、いろいろあって二人っきりの家族だったのに解散寸前だった
んだ。もし、大河がいなかったら乗り切れなかったろうな」


 経済的な問題と言われてはっとした。ウチは父子家庭だから経済的な面では逼迫はし
ていないけれど、母子家庭となると色々と難しいのだろう。
「そんな暗い顔すんなよ。もう経済的な問題の方は見通しが立ってる」
 そう言われて自分が深刻そうな表情になっていることに気付いた。
「そうなの。良かったわね」
「ああ。そうだな…」
 高須君は静かにそう言って寂しそうに微笑んだ。
 確かに経済的な問題については良くなったのだろうけど、けれど、彼の日常にとって
もっとも大切な片割れが欠落したままなのだった。

「早く帰ってくるといいわね」
「ああ」
 高須君は静かにそう言うと、クッキーを口に放り込んでぼりぼりと囓った。
「電話ぐらいしてくればいいのにね。みんな心配してるんだから」
 みんな、と言っても主に高須君と亜美ちゃん、まるおに櫛枝だけれど。
「あいつ、頑固だからな。ドジだし」
 そう言って高須君はほんのちょっとだけ笑った。正面から見ると唯々凶悪な彼の顔も
横顔はそうでもなかった。照れてちょっと緩んだ頬は可愛いと思えるほどだ。もうすぐ
高校三年になる男の子に『可愛い』はどうかと思うけど。私はそんなことを考えている
自分に気がついて、それがおかしくてちょっとだけ笑った。

 すっかり日は傾いて景色は金色からあかね色に変わっていた。なんだかんだと随分と
長話をしたようだった。

 高須君はポケットから携帯電話を取りだしてちらっと眺めた。
「ぼちぼち買い物に行かねぇと」
 高校生主夫、高須竜児は多忙なのだろう。
「わたしもそろそろ帰らなきゃ」
 高校生主婦、香椎奈々子もそれなりに忙しい。

 いつの間にかクッキーは残り四枚だけになっていた。
「高須君。残りのクッキーもらってあげようか?」
「うぉ。なんつー上から目線! まあ、いいけどよ」
 高須君はクッキーの包みを閉じて元通りリボンをかけて紙袋に納めた。
「ほいよ。川嶋には言うなよ」
 そう言いながら紙袋を私の方にさしだした。
 それを受け取り、私は彼に聞いた。
「あら、どうして?」
「めんどくせぇ」
「ふふっ」
 つい笑ってしまった。確かに面倒くさいことになりそうな予感はある。可哀想なので
亜美ちゃんには黙っておいてあげようと思う。

「なあ、香椎」
「うん?」
「俺は大河を好きになってよかったよ。今は逢えなくてちょっとだけ辛いけど、それで
もこんな風に大河のことを想う時間もいいもんだよ」
「あら、お惚気?」
「おぅ。クッキーのおまけだ」
「えーっ。そんなおまけいらない。なーんてね。楽しかったわよ」


 本当に楽しかった。不思議とそうだった。
 高須君は立ち上がって鞄を肩にひっかけた。
「ああ。俺も大河の話ができて良かったよ。クラスじゃ話題的に腫れ物扱いになっちまっ
てるから誰も大河の事を話してくれねぇしな。まあ、気を遣ってくれてるってのもわかっ
ちゃいるんだけどよ」
 毎日少しずつ逢坂大河の痕跡は薄れていく。彼女の存在は過ぎていく時間の中に希釈
されていく。三年になればクラスも変わるからそれは加速していくだろう。それも彼に
とってはとても辛いことだろう。
 私も立ち上がって鞄を肩にかけた。それを見計らって高須君は歩き出す。私は彼の後
ろについて歩く。公園を出て最初の交差点で挨拶を交わした。ごく普通の挨拶を、

 ただ、 ―― じゃあね/じゃあな ―― と。

 彼と別れ、暮れなずむ街並みを眺めながら歩いた。
 ふと思う。私たちは意外に似合いの組み合わせなのかもしれない。
 似たり寄ったりの境遇。
 こっちが父子家庭。あっちは母子家庭。父親と娘。母親と息子。
 共に家事をとりしきる主婦と主夫。
 話が合わないハズがない。
 晩ご飯の献立を相談してみたり、
 冬の洗い物のつらさをグチってみたり。

 そんなナカマ。そんなトモダチ。それからコイビト。
 恋人? バカみたい。

 でも、そうだったら… 
 彼は私をあんな風に見守るのだろうか。
 あんな風に想って、思ってくれるのだろうか。
 逢えないことすらも愛おしく思ってくれるのだろうか。

 茜から藍に空は変わっていく。

 彼女は戻るのだろうか。
 彼の想いは届いているのだろうか。
 想いは状況を超えるのか。変えるのか。
 それは静かな戦いなのだろう。
 世界と二人の戦いなのだろう。
 
 二人の戦いの結末は分からない。
 正直に言えば、勝率が高いとは思えない。
 それでも、
 彼等が勝ってくれたなら、
 その勝利は、私の何かを変えるかも知れない。
 そんな気がする。

 首筋を撫でる風はまだ冷たくて、私は肩を震わせる。
 けれどその時、私は胸の奥に確かなぬくもりを感じていた。
 締め付けるような苦しさと暖かいものの存在を感じていた。

***


 あれから九ヶ月。明日で二学期も終わりだ。

「……なこ、奈々子ってば!」
「えっ、ああ、ごめんごめん」
「なにボンヤリしちゃってんのよ?」
 亜美ちゃんにすっかり呆れられてしまった。
「ちょっとした考え事よ。で、なあに?」
「ちょっとどこか寄ってかない?」
「そうね、いいわよ」
 本当は勉強しなきゃいけないんだけど。
 推薦が決まっている亜美ちゃんは気楽なものだ。
「スドバ?」 
「そうね。でも、たまには違うところにしてみない?」
「例えば?」
 そう言われるとちょっと困る。
「そうだ、駅前に新しい喫茶店なかった?」
 二週間ほど前に駅前に新しい喫茶店がオープンしたのだ。コーヒーショップというよ
り正統派の喫茶店。確かイチオシはシフォンケーキ。
「あー、なんかあったかも」
「でしょ、そこにしない?」
「まぁ、いいけど」
「決まりね。摩耶にも知らせておくわね」
 私は携帯を取り出して摩耶に電話して駅前の新しい喫茶店に行くことを告げた。
 店の名前は分からないけど駅前で新しい喫茶店といえば一軒しかないから意思疎通に
問題ない。こういう時は大橋の栄えすぎていないところがなんとも便利だ。
 
「摩耶、多分、来れないって」
「へぇ、また祐作とイチャついてんの?」
「そうじゃないみたいよ」
「ふぅん。ま、いっか」

 大方、北村君に送るクリスマスプレゼントを探しに行ったのだろう。この前の日曜日
はそれで酷い目にあったのだ。あちこちの店を引っ張り回され、あれが良いだのこれが
良いだのと散々悩んだあげく何も買わずに帰ってきてしまったのだ。

 そうだ。今日の話のネタはそれにしよう。高須君ネタはもう却下。亜美ちゃんには悪
いけれど私は彼に告白するつもりなんて無いのだから。

***


 目の前に座っている小柄な男は私の父親だ。
 数日前、父親は竜児に再会できないかメールしてきたのだ。生死不明、行方不明、音
信不通だった父親はちゃっかり生き延びていて、それは、実のところママの調査によっ
て既知の事実でいつかこんな日が来るんだろうなと私達は思っていた。そして今、私は
自分の父親と一年数ヶ月ぶりに再会している。オープンしたばかりの喫茶店は時間が早
いためか客はまばらで込み入った話をするのには丁度良い具合だった。私の隣には竜児
が座っていて、その表情は完全に戦闘モードだ。

「元気そうですね」
 竜児は落ち着いた口調で言った。もちろん嫌味。
「まあ、なんとかね…」
 陸郎はやつれていて一年で十歳ぐらい老けてしまったような感じだった。髪の毛も整っ
ていないし服装もぱっとしない。あざといぐらいにぱっとしない。
「今まで何やってたのよ? ほんの少しだけ心配してたのよ」
 どんな酷い奴でも私の父親には違いない。
「福岡で暮らしてる。夕のつてでね」
「そう。じゃあ、夕とは仲良くやってるのね」
「まあね。もうすっかり頭が上がらなくなってしまったけれど」
 それはそうだろう。

「大河も元気そうでよかったよ」
「あんたが言っていい台詞じゃねぇよ」
 竜児の言葉に私も頷く。
「この通り、ばっちり元気にやってるけど。竜児の言う通り、あんたにだけは言われ
たくないわ」
「厳しいなぁ」
「娘が住んでいる家を売り払って夜逃げするのは厳しくないわけ?」
「……」
 陸郎は目をそらす。
「お金も勝手に引き出しちゃうし」
「でも、こっちもいろいろと大変だったんだよ」
「ふざけんなよ」
 竜児は低い声で言った。大声ではないけれど力のこもった迫力のある声。
 気圧されたのか陸郎の肩が小さく揺れた。
「大変だった、で済むわけねぇだろ」
「そうだね…」
「大方、竜児のところに転がり込むだろうと思ったんでしょうよ。そうでしょ?」
「う、うん」
 陸郎は聞こえるか聞こえないか、そんな小さな声で言って頷いた。
 分かっていたことだけれど、父親にとって私はそんな程度の存在なのだった。
「…ったく」
 竜児は苦虫をかんだような顔で呟いた。

「それで、その……高須君のところで暮らしているの?」
「まあ、そんなところよ」
 陸郎はやっちゃんのアパートの事を言っているのだろう。そこで暮らしているわけで
はなけれど竜児と一緒に暮らしているのだから『高須君のところで暮らしている』こと
には違いない。

 陸郎は竜児の方に顔を向けて、
「すまないね。大河がお世話になってしまって」と。
 まるで他人事のように話す陸郎を竜児は射るように睨んだ。
「あんたが言っていい台詞じゃねぇだろ」
 まったくその通りだと思う。この男は私がどんな風に暮らしているのかまったく知ら
ないのだ。ママに連絡を取ることすらしていない。

「どうして連絡してこなかったんですか?」
 竜児は陸郎の隠遁で一番納得できないのはそれだと言っていた。事業が失敗してしま
うことは不可抗力かもしれなけれど、なんの連絡もなかったことは許せないんだ、とそ
う言っていた。

「本当に大変だったんだよ」
「電話ぐらいできただろ。メールだっていい」
「……」
 陸郎は黙りこくってしまった。竜児は陸郎の弁明を待った。十五秒、三十秒、一分と、
ただ待った。でも陸郎は理由を話さない。話せない。なぜなら…

「時間稼ぎ、だろ?」 竜児は冷ややかに言った。

 陸郎は低く呻きそれを肯定した。
「あんたは逃げる時間を稼ぐためにわざと大河を置いていったんだろ。債権者に余裕が
あるところを見せるために。そうしてあんた達はちゃっかり逃げちまった」

 肯定を意味する沈黙が流れる。 

 しばらくして、陸郎は頬をひくつかせながら顔を上げて竜児を見た。
「いやー。バレちゃってたんだね」
 陸郎は口元に歪な笑みを浮かべて戯けるように言った。

「でも、だったらどうだって言うんだい?」 
 自分の娘を道具にして何が悪いの? とでも言わんがばかりだった。
「罪悪感とか、感じねぇのかよ?」
「そりゃ、大河に悪いことをしたなぁとは思うよ。けど、仕方ないじゃないか。夕と一
緒にいるためにはああするのが一番いいと思ったんだからさ」
「つまり、あんたはそっちを選んだってことだな」
「そりゃそうさ。僕を棄てた女の子供より今の僕を愛してくれる女の方が大切に決まっ
てるだろう」
「……そうですか」
 竜児は呟くように言って息を吐いた。それはまるで自分の中に溜まってしまった怒り
の熱気をゆっくりと吐き出しているようだった。それから自分のクールダウンを確認す
るように小さく一度頷いて口を開いた。

「わかりました。それで、今更大河に何の用ですか?」

「迎えに来たんだ。大河、一緒に暮らすんだ」


 陸郎は私にも竜児にも目を合わさずに言った。それがまともな愛情から出た言葉では
ないことは明らかだ。ついさっき、私の事はどうでも良いと、今の妻のためなら生け贄
にすることを何とも思わないと宣言したのだ。にも関わらず、陸郎は私を連れて行くと
いう。きっとこの男は私を何かに利用するつもりなのだ。それが何かは分からなくても
かまわない。

 私の人生をこいつにだけは弄らせない。

 一発ぶん殴ってやりたいところだったけれど、そこはぐっと堪えて最初のカードを切
る。まずはママと仲直りした事実をつきつけてやる。この男は私が高須家の居候になっ
ていると本当に思い込んでいるのだ。

「無理ね。あんたの処になんて絶対に行かない。夕と仲良く二人で暮らせば良いじゃな
い。そうしたくて私を追い出したんでしょ。私の事ならお構いなく。ママと仲直りもし
たし、何にも困ってないし」

「え? そうなの?」
 間抜け面だった。
「そ、そんなバカな。出て行ったのは彼女の方なのに、どうして仲直りなんて…」
「私だって大人だもの。ちゃんと話せば分かるの」
「う、嘘だ。信じられない」
「本当だよ」
 竜児はきっぱりと言い放った。
「とにかく、あんたの出る幕はねぇんだよ」

 陸郎はわなわなと震えだした。
「僕は大河の親権者だぞ。子供の暮らすところは親が決めるんだ」
「あんたに親権なんかあるわけねぇだろ」

 二枚目のカード。陸郎は未だに自分に親権があると思っている。それを前提に私の前
に現れた。それを崩す。

「え?」
「ママが裁判所で手続きしてあんたの親権を止めたの。それも随分前よ」
「当たり前だよな。義務を果たすつもりの無い奴に権利なんてありえねぇよ」
 竜児は声を荒げず、むしろ穏やかに。
「自分の都合で逃げておいて、それでまた自分の都合で一緒に暮らそうなんてどんだけ
いい加減なんだよ。それに、もう大河に親権なんて関係ないんだから、あなたの出る幕
なんてねぇんだよ」
「くっ、君は失礼な男だな。一体何様のつもりだ?」
 陸郎は顔を紅潮させ、テーブルの上に置いた拳を振るわせていた。

「俺ですか?」
 竜児は陸郎を睨み付けた。魔眼の威力を全開にして。
 陸郎は低くうめいて身を竦ませた。生命の危機すら感じているのかもしれない。
 そして私達は最後の、三枚目のカードを切る。

「俺は大河の夫です。配偶者です」
 竜児の声は静かで、けれど力強かった。
「結婚したのよ。私達」



「…けっこん?」
 陸郎の顔から血の気が引いて青白く変わっていく。
「そんなバカな。そうだ、未成年が親の同意無しに結婚できるハズがない。僕は同意し
ていない…」
 確かに未成年の婚姻には親の同意が必要だ。けれどそれは片方の親の同意でいいのだ。
「ママがちゃんと同意書を作ってくれたのよ。あんたが音信不通で親としての義務を果
たしてないっていう証拠の書類もつけてね。婚姻届、ちゃんと受理されたわよ」
「そ、そ、そんな…」
 弱々しく情けない声を漏らした。
「もう逢坂大河じゃないの。高須大河なの。彼の、竜児の妻なのよ」
「嘘だろ。そうだ! 証拠は…」
「これでどう?」
 私はコートのポケットから手帳をだして学生証を見せた。
「ちゃんと書類がないと作ってもらえないんだから。十分証拠になるでしょ」
 陸郎は見開いた目でそれを見た。発行してもらったばかりの真新しいそれには新しい
私の名前『高須大河』が記されている。
「あ、ああ……」
 信じられない。そんな表情。宙をさまよう視線。
「もう分かったろ。親権なんて関係ねぇんだよ」
 竜児はきっぱりと言い放った。

 民法に『婚姻による成年擬制』という制度がある。
 ―― 未成年者が婚姻をしたときは、これによって成年に達したものとみなす。
 
 つまり、私達は民法の範疇では成年者として扱われるということだ。
 竜児は私達が理不尽な何かに引き裂かれることが無いように、こんな不条理から私の
人生を守るために私と結婚してくれた。

「なんてことだ…」
 陸郎はがっくりと肩を落としていた。多分、私を生活を立て直すための生け贄にでも
するつもりだったのだろう。そのことは腹立たしいけれど、でも深追いするのはやめに
した。私は始まったばかりの竜児との暮らしが守れればそれでよかったし、竜児もそう
思っているはずだから。

 竜児はポケットから携帯を取り出してママに電話をかけた。
 竜児は陸郎との会話の概要を淡々とママに話した。陸郎は会話の内容から竜児と話し
ているのがママだと気付いたらしく酷く落ち着かない様子で目を泳がせている。
「……はい。ちょっと待ってください」
 竜児はそう言うと携帯を陸郎に差し出した。
「義母さんです。あんたと話がしたいそうです」
 陸郎は携帯をうけとって耳にあてた。彼は自分から話すことは無くて、ただ力なく相
づちを打つだけだった。最後に「ああ、わかったよ」と力なく言って電話を切った。
 陸朗は竜児の電話を畳んでテーブルの真ん中に置くと「失礼するよ」と言って席を立
ち、テーブルに置かれている伝票をちらりと眺めた。
 竜児はそれに気付いて「おごりますよ」と言った。
「そうかい。助かるよ」
 それだけ言い残して陸郎は喫茶店を出て行った。
 テーブルに手つかずのブレンドコーヒーを残して、想像通りになんの謝罪も優しさも
なく彼は去っていった。もう二度と会うことはないのかも知れない。そんな気がした。

「ありがとね。竜児」
 私が言えるのはそれだけだった。
 竜児は無言で、唯々優しい表情で見つめてくれた。すっと頭を撫でられて、ささくれ
だった胸の中が暖かさと優しさで満たされていく。きっと竜児も今の戦いで傷ついてい
る。それでも竜児は私を癒してくれる。
 その優しさに目の奥がじんと熱くなって涙がこぼれそうになる。私は竜児に泣き顔を
見られないように、頭を彼の胸に預けた。人目のあるところでこんなふうになってしま
うのは抵抗があったけど、そうでもしないと込み上げてくる嗚咽を抑えられなかった。
あの男が吐き出した毒を竜児に浴びせてしまったことが悲しくて、悔しくて堪らなかっ
た。
「……ごめんね、ごめんね」
「いいんだ。もう、済んだんだ」
 言いながら竜児は私の頭を優しく撫でる。それは竜児が竜児自身に言って聞かせ
ているようにも思えた。
「うん…」彼の胸に顔を埋めたまま私は言った。酷いことも言われたけど、私達は一番
守りたかったものを守りきったのだ。それで十分だ。私も自分にそう言い聞かせた。そ
うしてようやく気持ちが落ち着きかけた時、

「高須君…」
 
 不意に掛けられたその声に竜児の手が止まった。
 私は竜児の胸に埋めていた顔をゆっくりと上げた。

「今の話、本当なの?」

 香椎奈々子と川嶋亜美が私達を見下ろしていた。

***

 迂闊にも盗み聞きしていた事を自分からバラしてしまった私は亜美ちゃんと一緒に高
須君と大河が座っている席に移動させられた。

「ったく、空気ってもんを読みなさいよ」
 まずはいきなり毒づかれた。無理もない。確かに声を掛けるタイミングとしては最低
で最悪だったのは事実だ。泣き腫らした目で睨まれてとんでもなく気まずかった。大河
は店の中だというのに白いコートを着たままだった。それは多分、一目でうちの高校だ
と分かってしまう制服を隠すためだろう。

「ったく。どの辺から聞いてたんだよ?」
 腕組みをした高須君はちょっと怒っているようだった。
「えっと…『時間稼ぎ』のあたりから」
 亜美ちゃんは気まずそうに話した。
「そうか…」高須君は言った。

「ねぇ、結婚したのって本当なの?」
 私は我慢できずにそれを聞いた。
 ちょっとした沈黙。
 二人は顔を見合わせる。大河が小さく頷き、高須君が口を開く。


「絶対に他言無用だからな。誰にも、家族にも言うなよ」

 声は静かだったけれどすさまじい圧力がこもっていた。それに気圧されるように私と
亜美ちゃんは頷いた。

「本当だ」 
「うっわ、マジ?」
「だから本当だって言ってるだろ」
「いつ? いつの間にそんなことになってたの?」
 私は全然知らなかった。亜美ちゃんも知らなかったようだ。
「十一月一日」
 ぶすっと頬をふくらませたまま大河は言った。
「同棲じゃないんだよね?」
「ちゃんと入籍したわよ。名前も変わったし」
 大河はコートのポケットから手帳を出して開き亜美ちゃんに渡した。亜美ちゃんは
手帳のカバーに入れられている学生証を見た。私も亜美ちゃんの手元をのぞき込んだ。
真新しい学生証に記されている名前は確かに『高須大河』だった。
「これが証拠ってやつ?」
 言いながら亜美ちゃんは手帳を大河に返した。
「そういうこと」
 大河は手帳をポケットにしまった。
「全然、気がつかなかった…」
 呟くように言った亜美ちゃんは少なからずショックを受けている様だった。それは私
も同じだったけど、でも亜美ちゃんは大河とも高須君とも親友みたいなものなのだ。気
がつけなかった事も、教えてもらえなかったこともショックなのだろう。
「まあ、俺たちが隠してたからな」
「なんで?」
 亜美ちゃんは高須君を睨みつけた。
「なんで言ってくれなかったの!」
「言えるかよ。こんなのがバレたら大問題だ。わかるだろ」
「それはそうだけど。私はバラしたりしない」
「お前はな。けどよ、川嶋に言って櫛枝や北村に言わないってのもどうなんだ?」
「それは…」亜美ちゃんは言葉を詰まらせた。
 確かに高須君の言うことも一理ある。
「信用はしてるけどよ、こんな時期にこんな秘密を抱えさせるのも悪いだろ。だから卒
業するまで隠すことにしたのさ。先生たちとも約束したしな」
「ああ、そうか。学生証が出ているんだから先生たちは知っているのよね?」
「ほんの数人だけどね」
 大河は頬杖をついて面倒くさそうに言った。
「そうなの?」
「ああ。知ってるのは恋ヶ窪先生と教頭、校長、それに事務長。それぐらい、ほんの数
人だな。あとは川嶋と香椎。お前らだけ」
「なーんだ。学校に話がついてるなら隠す必要無いじゃん」
「そうもいかねぇよ。俺たちはともかく先生に迷惑がかかっちまう」
「そうなのよ。父母会とかの方が問題なのよね」

 確かにそうかもしれない。生徒同士が結婚していてそれを学校側が容認しているなん
ていうのは格好の標的だろう。しかも、この二人、武勇伝には事欠かない。

「なるほどねぇ」
 亜美ちゃんもこれには納得した様子だった。
「でもさ、どうしてそんなにしてまで結婚したの? もうすぐ卒業じゃん。ひょっとし
て出来ちゃったとか?」
「そんなんじゃねぇよ」
 ビシッと言われた。ちょっと怖かった。
「冗談よ」
「亜美ちゃん。趣味が悪いわ」
「…ったく。さっきの話、聞いてたんだろ?」
 高須君はちょっと呆れたような表情で亜美ちゃんを見た。
「うん。聞いてたけど、あれだけじゃわかんないよ。それにさ、あんたのママはどうし
たのよ? こんな時に来ないなんてさ」亜美ちゃんは言った。
 確かにそうだ。ここに高須君と大河しかいないなんて妙な話だ。
「ママは…その…もういないのよ。帰っちゃったの」
 大河は消えそうな声で言った。
「え?」私と亜美ちゃんの声がダブった。
 文化祭の準備のためにお邪魔したときは凄く良い感じだったのに。
「どうして? 何があったの?」
 私は身を乗り出して聞いた。あんなに仲良く暮らしていたのに一体何があったと言う
のだろう。
「まあ、いろいろとな」と高須君は言った。 
 それから高須君はこの四ヶ月ほどの間に何があったのか話してくれた。

 大河が母親の再婚相手の養子になれなかったこと。
 大河が母親と一緒に暮らせなくなったこと。
 破産した実父が逃げたままになっていたこと。
 その実父が大河を連れて行こうとする可能性があったこと。

 聞いているだけで胸が苦しくなった。私は彼等がそんな問題を抱えていたなんて一つ
も知らなかったし、そんな事が起きるなんてことを想像すらしていなかった。
「とにかく、俺たちが一緒にいるために確実な方法は結婚することだったんだ」
 高須君は話を締めくくるようにそう言った。
「なるほどね」
 高須君の説明に亜美ちゃんはすっかり納得した様子だった。
「まあ、そういう事だから、くどいようだけど秘密厳守で頼む」
「大丈夫。私も奈々子も秘密は守るから」
 亜美ちゃんの言葉に私も頷く。
「ホントに頼むわよ。あと、さっきのクソジジィのことは速やかに忘れて」
「分かった分かった。私だってあんなムカつく話、とっとと忘れたいよ」
 肩をすくめて亜美ちゃんは言った。私も同感。
「ホント、酷すぎ。有り得ないわよ。だって…」
「もう、おっさんの話はいいよ」
 高須君は沈んだ表情でそう言って私の言葉を遮った。その隣の大河の表情は高須君の
それよりもさらにズンと沈んでいる。その表情に私は言葉をつなげることが出来なくて
ただ「そうね…」としか言えなかった。
 考えてみれば、二人は確かに勝ったけれど、でもそれは父親との決別だった。大河は
父親からお前を愛していないと宣告されてしまったのだ。たとえそれが想定の範囲内だっ
たとしても、そんなことを二人が望むはずがない。

「竜児…。帰ろ。疲れちゃった」
 大河は高須君の顔を見上げて小声で言った。高須君はそれに応えて小さく頷く。
「じゃあ、俺たち先に帰るからよ」
「うぃ。気ぃつけてね。ぼんやりして転ぶんじゃないよ。ちびトラ」と亜美ちゃん。
「ふん……。わかったわよ…」
 二人は席を立って鞄を肩にかけた。高須君はテーブルに置かれていた伝票を手にとっ
てちらりと眺めた。それから私と亜美ちゃんを見て、
「じゃあ、本当にくどいけどよろしくたのむわ」と申し訳なさそうに言った。
「はいはい。ホントくどいわ」と亜美ちゃんはうざったそうに応えた。 
 高須君はそんな亜美ちゃんの口調に苦笑しつつレジに向かう。
「ああ、そうだ。あのさ、高須君」
 亜美ちゃんが高須君を呼び止めた。
「ん? どうかしたか?」
「結婚おめでとう。そんだけ。じゃあね」照れくさそうに亜美ちゃんはそっぽを向いた。
「お、おぅ。ありがとよ…」高須君は照れくさそうに応えた。
「…ありがとね。ばかちー」頬を染めて大河が言った。
「おめでとう。タイガー。高須君もね」私も二人に祝福を送った。
「うん、ありがとね。奈々子」
「二人ともありがとな。で、くどいんだけどよ…」
「マジでくどいから」
 亜美ちゃんが高須君をじとっと睨んだ。高須君は「すまん」とただ一言。
 高須君の気持ちも分かるけど、でもやっぱりくどい。

 二人は「じゃあな」「じゃあね」と言い残してレジで精算をすませて喫茶店を出て行っ
た。亜美ちゃんと二人で並んで座っているのも変だったから私はさっきまで高須君が座っ
ていた席に移動した。

 結婚…か。心の中で呟くと締め付けられるような感覚に胸が痛んだ。
 大河が羨ましかった。高須君にあんなに愛してもらえる彼女が羨ましかった。
 もちろん、私も二人の結婚を祝福してる。これで良かったと思っている。それでも、
やっぱり私は高須君が好きなのだ。好きな人が結婚してしまうのはやっぱり寂しい。

 そんな事を考えていると目頭が熱くなってきた。私は気を紛らすためにすっかり冷め
た紅茶を口に運んだ。
 亜美ちゃんはぼんやりと手元のティーカップを眺めている。彼女も私と同じように寂
しさを感じているのだろうか。
「奈々子…」
「うん…」
「辛いだろうけどさ、出来るだけフォローしてやろうよ」
「そうね。辛くないって言ったら嘘になっちゃうけど、私はあの二人のファンだもの」
「うん。それでさ、卒業したら目一杯お祝いしてあげようよ」
「うん。そうね」
 私は空元気を絞り出して亜美ちゃんに笑顔で応えた。
 でも、そうしている間にも私の気持ちは少しずつ少しずつ沈んでいった。

***

 家への道すがら、竜児はやっちゃんに電話して陸郎が来たことと追い返したことを手
短に話した。竜児から電話を渡されて私もやっちゃんと話した。やっちゃんはいつもの
ほんわりとした口調で話してくれて、大丈夫だから心配しなくていいよ、と私が言うと
やっちゃんは『心配するよぉ、だって、やっちゃんは大河ちゃんのお母さんだもん!』
と言ってくれた。多分、おっきなおっぱいをぐんと突き出すみたいにしながら言ったん
だろうなって思ったら少し気持ちが軽くなった。

 帰宅した私達はリビングのソファに寄り添って座っている。私は凍えた足の指をくい
くいと曲げながらファンヒーターから吹き出す温風にあてて暖めている。ここ数日、冷
え込みが厳しい日が続いていたけど今日はこれまでにも増して特別に寒かった。帰り道
の冷えたアスファルトで私の足は凍え、冷たい風に指先はすっかり悴んでしまった。右
手だけは竜児がずっと握ってくれていて無事だった。

 竜児はすっかり冷たくなってしまった私の左手を握っている。そうやって無言で暖め
てくれている。私は竜児の左腕に頭を預けるようにして寄りかかった。私の左手を包ん
でいる彼の手は温かくて優しかったけれど表情は切なげに沈んでいた。

「ごめんね」私は言った。
「ん? お前が謝るようなことじゃねぇだろ」
「そうなんだけどさ…」
 見上げると竜児は私を心配そうに見下ろしていた。
「あんな父親でごめんね。でも、あれでも親なんだよね。私の」
 そう言って私は視線を竜児からそらして俯いた。
「なんて言ったらいいんだろうな。まあ、お互い父親には恵まれねぇな」
「へへ、そうだね。一応、育ててくれた分、竜児のお父さんよりはマシかもね」
「かもな」と応えた竜児の声には少しだけ明るさが戻っていた。

「竜児……」
「ん?」
「ありがとね。結婚してくれて。おかげでジジィも返り討ちにできたし」
「返り討ちって、お前なぁ……」
 呆れたような口調で竜児は言った。
「いいの。あのさ、本当はもっと今日のこと、ちゃんと話さなきゃいけないって思うん
だけどさ、それって今じゃない方がいいと思うのよ。少し時間をおかないと冷静になん
て考えられそうにないし、今日はもう十分。
 暖かいものでも食べてさ、お風呂入って、さっさと寝ちゃおうよ。勉強だって手に着
かないだろうし」
 竜児はちょっと考えて「そうだな」と答えた。
 竜児がそう言ってくれて、私は内心ほっとした。

 今日の出来事を冷静に話すなんて無理だった。血のつながった父親にあそこまで言わ
れてしまうとは正直思っていなかった。甘いと言えば確かに甘いのだろうけど、ママと
やり直せたことで私にはちょっとした自信と淡い期待があったのだ。だから、認めたく
ないけれど私は傷ついてるし凹んでる。

「そうした方がいいと思う。俺も冷静に話す自信がねぇ」
「うん。だよね」

 多分、竜児にも微かな期待はあったんだと思う。竜児はみんなに幸せになって欲しい
人なのだ。私達だけじゃなくて、私達が関係した全部の人、生きているのか死んでいる
のかも分からない自分の父親の幸せすら望んでいる。その人を許せるかどうかは置いて
おいて、とにかく幸せであって欲しいと竜児は思っている。それが子供っぽい願望だと
分かっていながら、でも竜児はそういう感性を大事にしたいんだろうな、と私は思う。


 けれど、私達は大人だ。今は自分達のささやかな暮らしが守れればそれでいい。でも、
いつか私にも子供ができて、子供達を守って育てるためにはお金も家も仕事も必要で、
私達が守らなきゃならないものはどんどん増えてしまう。それが大人の幸せなんだろう
けれど、守るために戦わなきゃならないこともあるだろう。その時、私達は誰かの幸せ
を踏みにじってしまうのかもしれない。これから二人で生きていけばそんな事が少なか
らず起きてしまうだろう。竜児もそれを分かっている。

 だから、『私達』は陸郎を簡単に批難できない。もちろん父親としては最悪だ。それ
は間違いない。でも一人の女を愛する男として見たら、私がもし逢坂夕なら陸郎はどう
見えるのだろうか。

 難しい。でも、近いうちにちゃんと二人で話そうと思う。結論はいらないけど、話す
ことが大事なんだと思う。話し合いながら、その時、その時の答えを見つければいいん
だと思う。

 いつの間にか冷え切っていた左手も足の指もすっかり温まっていた。
「竜児。手、ありがと。もう、暖まったからさ」
「ん。そうか」
 竜児は私の手を離した。
「晩飯、何がいい?」
「おでん。シチューもいいかも」
「シチューなら冷蔵庫にあるもので大丈夫だろ。おでんは買い物にいかないとダメだな。
あと、そうだな、ドリアもできるけど?」
「ほんと? じゃあドリアで決まり」
 ついでに作り方も教えてもらおう。
「じゃあ、さっそく」
「あ、ちょっと待って」
 私は立ち上がろうとしていた竜児の腕をつかんでソファーに引き戻した。
「うわ、あぶねぇだろ。なんだよ」
「お願いがあるのよ」
 私はコートを脱いで竜児と向き合う様に彼の太股の上に座った。
「抱きしめてよ。怖かったんだから」
 それは本当。絶対に大丈夫だって思ってたけど。
「大河…」
 私は彼の胸に手をあてて、身体をゆっくりと預けていった。
 唇と唇を触れ合わせる。乾いて、がさがさしていて、でもとても熱い。

 ん、ふぅ ……

 長い、長い、キス。
 そして竜児のがっしりした腕が私の身体を抱きしめる。

 ゆっくりと唇を離す。
「ありがと。ねぇ、ぎゅって、して」
 竜児の耳元で囁いて私は竜児の首を抱くように腕をまわす。
「ん、おぅ」と言って竜児は私を抱きすくめる。


 あっ、んん ……

 きつく抱かれて息が漏れる。
 ああ、なんか、このままめちゃくちゃに愛してもらいたいんだけど…… 
 けど、荒んだ気持ちをセックスでうやむやにするのって良くないよね。

「竜児、ありがと。もう、大丈夫」
「なんだ。もういいのか?」
「うん。したくなっちゃうもの」
「だな」
 竜児の腕がゆるむ。
 私は彼に預けていた身体を起こして、もう一度竜児にかるくキスをした。
「今日は添い寝してもらうわよ」
「へ? じゃあ、するのか?」
 竜児はきょとんとして私を見ている。
「しないわよ。だって明日も学校でしょ」
「だよな」
「それに、こんな気持ちでするのって良くないでしょ」
「そりゃそうだな。でも、添い寝はするんだな?」
 私は頷いた。「いいでしょ。お願いだから」
 竜児は「ダメなんて言えねぇよ」と言って私の頭を優しく撫でた。

***

 お父さんからメールが来た。仕事で遅くなるそうだ。夕食は食べて帰るから、と書か
れていた。ちょうど良かった。もう、今日は何もやる気がしない。

 私は部屋着に着替えてベッドに寝転がり天井を眺めている。

 結婚、か……

 いつの日か二人にそんな日が訪れたらいいな、なんて漠然と思っていた。でも、二人
がとっくにそんなことになっているなんて思いもしなかった。

 高須君は大河のもの…って、それは前からか。

 二人にとっては一大転機だったかもしれなけれど私にとっては何が変わったと言うこ
ともない。それなのに、何が変わるわけでもないのに、私の胸は何かにきつく締め付け
られる。息苦しいほどに胸が痛む。

 目を閉じて息を吐く。

 閉じた瞼が見せる暗闇に夏の星空を思い出す。
 輝く夏の大三角。
 隣から聞こえる彼の静かな優しい声。
 触れ合った肩の感触。
 
 あんなにも胸をときめかせてくれた思い出達は、今はこんなにも私を苦しめる。
 固く閉じた瞼の奥が焼けるように熱く痛む。

 苦しいよ。高須君。
 苦しくて苦しくて堪らないよ。

 堅く瞑った瞼をこじ開けるようにあふれ出した涙が頬を伝い耳たぶを撫でる。

「たかす、く、ん……」

 胸が震えてのどの奥から嗚咽が漏れ出した。押さえつけていた切なさと寂しさと悲し
さが堰を切ってあふれ出し、それに押し流されるように私はみっともなく声を上げて泣
き出した。

 こういうもんなんだよね。泣くしかないんだよね。

 高須君の言葉を思い出す。
 あれは五月の事だった。振られた亜美ちゃんは高須君の胸を借りて泣いていた。その
時、彼は言ったのだった。

『泣くしかねぇんだよ』

 きっと彼もそうだったのだ。
 亜美ちゃんもやっぱりそうで、そして今の私もそうなのだ。

 私は身体を起こして毛布をかぶった。そして、本当に何年かぶりに感情の高ぶりに全
てを任せて力の限りに泣いた。自分が出来損ないだと気付いてしまったあの日もこんな
風に泣いたのだった。
 どれぐらい泣いて過ごしただろうか。涙も涸れて私は毛布から這い出した。部屋の中
はすっかり暗くなっていた。枕元のリモコンで天井灯をつけて身体を起こした。軽く上
を向いて洟をすすり、机の上に置いてある時計に目をやった。それは七時ちょっと前を
指していて、私が三十分ほども泣いていたことを時刻と一緒に教えてくれた。その時計
の隣にはイーゼルを摸した写真立てが置いてあり、折りたたまれたターコイズブルーの
小さな紙袋がのっている。
 
 それは彼から貰ったクッキーが入っていた紙袋。

 そう……、
 あのクッキーがきっかけだった。
 大河のために高須君が焼いたクッキー。でも高須君はそれを彼女に渡せなかった。
 私はそのクッキーと高須君の気持ちの欠片を受け取った。

 逢えなくても、
 声すら届かなくても、
 こんな風に想うのもいいもんだよ、と彼は言った。
 あんなに辛そうだったのに、彼はそんな風に言ったのだ。

 その日から、三学期が終わるまでの一週間ほどで私は高須君と随分と親しくなったの
だった。みんなが避けていた大河のことを話したり、彼女のことを彼から聞いたり、家
事のことや、家族のことをメールで相談したり愚痴ったり。


 彼の事が知りたかった。その気持ちがどこから来たのかなんてことを気にせずに。後
で考えれば、あのころの私は彼の恋人になったような気分だった。後になって考えれば
そうだったのだ。

 でも、そんな日々はあっさり終わった。
 大河が戻ってきた日、私は二人の晴れやかな笑顔を見た。
 亜美ちゃんに、櫛枝に、まるおに、摩耶に、春田君に、能登君に囲まれて照れ笑いを
浮かべる大河を高須君は愛おしそうに、慈しむように見守っていた。その眼差しの優し
さに私は思い知らされた。彼の特別はやっぱり逢坂大河ただ一人だった。

 それでも私は嬉しかった。高須君に笑顔が戻ったことが嬉しかった。

 大河が高須君を苦しめていたことに私は怒りさえ感じていたけれど、まるっきり純粋
な優しさから生み出されたかのようなその光景は、そんな感情をいとも簡単に押し流し
ていった。そして私も彼等を取り囲む祝福の輪に加わったのだった。

 なぜ彼女が連絡を絶たなければならなかったのか、本当のところは分からない。でも、
彼女にとってそれは必要な事だったのだろう。彼女がもう一度、高須君の傍らに立って、
そして一緒に生きていくためにそうしなければならなかったのだ。それはきっと彼女が
自分の力だけで彼の助け無しに成し遂げなければならない闘いだったのだろう。

 自分の人生を闘って切り開く。そんな彼女の姿に私の心は強く惹きつけられた。
 私は高須君に恋をしながら大河にも強く憧れた。だから、私は、

 二人がずっと一緒にいられたらいい。
 二人がずっと微笑んでいられたらいい。

 優しく微笑み合う二人を見て、ただひたすらにそう願っていた。
 そう願わずにはいられなかった。私も高須君を好きになってしまったから。
 そして、逢坂大河には彼を幸せにする力があるから。
 好きな人に幸せでいて欲しいから。

 あの日から私は二人の姿を追い続けた。想い合う姿に胸を熱くときめかせ、まれに
喧嘩してしまう二人をハラハラとしながら見守った。そして、あの日の願いはついに
結婚という契約として結実したのだ。

 涙は止まっていた。胸の苦しさは変わらないけれど、でもその苦しさが愛おしい。
 だってこれは、この苦しさは私が恋していることの証なのだから。私は人を好きにな
ることができる。苦しいくらいに誰かを想うことができる。それは当たり前の事かもし
れないれど、ずっと私が失っていたものだった。

 もう、私は欠陥品なんかじゃない。

 恋に破れてめそめそと泣いてみっともないけれど、今の私は自分の事が結構好きなの
だ。心を割って話せる親友がいて、片恋にときめき、ライバルに嫉妬しながら、でもそ
の娘のことも大好きで、悔しさもあるのに、でも二人が上手くいっていることをとても
嬉しく思っている。


 私はすばらしい時間を過ごしてる。素敵な時間を生きている。
 そう思えることが私にとっての宝物。
 そう思えることが二人から私へのかけがえのないプレゼント。

 そうか。私は貰ってばかりだ。

 あの日、高須君に『本当に』出会って私は変わった。変わっていった。胸の奥に点っ
た小さな灯火は少しずつ私の心を柔らかく溶かしていった。そして大河が戻ったあの日、
私は未来は切り開く物なんだという至極当たり前のことを二人から教わったのだ。思え
ば、亜美ちゃんと本当に心を割って付き合えるようになったのもそれからのことだった。

 高須君と出会って大河は変わった。
 そして私も彼と、彼女と出会って人生が変わったのだ。

 時計は七時十五分を指している。今から出れば駅前のデパートの営業時間に間に合う
はずだ。
 私はクローゼットから厚手のスカートとシャツとセーターを出してそれに着替えた。
あまりにも適当なコーディネートでちっともオシャレじゃないけど気にしない。くしゃ
くしゃになった髪の毛を軽くブラシで整え、コートを着てマフラーを巻き、折りたたん
だエコバックをコートのポケットに押し込んで私は家を飛び出した。

 まだ二人の結婚は秘密だけれど、クリスマスプレゼントに祝福の気持ちを込めて贈る
ぐらいならかまわないだろう。それが出来る友人は、今のところ私と亜美ちゃんしかい
ないのだから。

 本当に、本当にささやかで慎ましいプレゼント。
 自分で焼いたクッキーとクリスマスカードを二人に贈ろう。

 届けたいのは気持ちだから、多分それが相応しい。紅茶とココアのクッキーを可愛ら
しくラッピングしてコーラルピンクの紙袋に入れて二人に渡そう。カードは…そうだ、
クマのサンタが描かれている可愛いカードを売っていたはずだ。あれにしよう。
 
 カードに書き込むメッセージは、

『メリー・クリスマス&結婚、おめでとう。
   二人がずっと一緒にいられるように祈ってるよ』

 そして、プレゼントを渡しながら心の中でそっと呟こう。

『ありがとう。大好きだったよ。高須君』と。

 冬の冷たい空気が泣き腫らした目に心地良い。
 息を曇らせながら駅への道を急ぐ私を導くように、東の空にオリオンが輝いている。

(きすして6 おわり)



311 356FLGR ◆WE/5AamTiE sage 2010/01/31(日) 23:10:58 ID:mglz3+X6

以上で「きすして6」の投下を完了します。
支援、ありがとうございました。

01から04までタイトルが「5」になってた。間抜けすぎだ・・・
多分、次が最終話です。


283 356FLGR ◆WE/5AamTiE sage 2010/01/31(日) 22:52:51 ID:mglz3+X6

356FLGRです。
「きすして6」が書き上がりましたので投下させていただきます。

概要
「きすして5」の続編です。「2」「3」「4」「5」の既読を前提としております。
 未読の場合、保管庫の補完庫さんで読んでいただけると嬉しいのですが、相当な物量
なので長いのはダメってかたは華麗にスルーしてくださいな。

 基本設定:原作アフター:竜児×大河

 注意事項:シリーズ全体としてシリアス傾向です。
      奈々子については二次創作補正が強くかかっております。
      本作では奈々子は父親と二人暮らしということになってます。

 次レスから「きすして6」の投下を開始します。
 時期は高校三年の十二月下旬。今回はエロなしです。すんません。

 今回も結構な物量(25レス)になっております。
 規制とかで中断するかもしれません。

このページへのコメント

はじめまして。きりぁっていいます。「きすして」シリーズ楽しく読ませていただいています。
今回の話でどうしてもコメントを残したいと思いました。
実父との対立シーンで竜児が配偶者になったことを切り出したときはとても気持ちよかったです。これからもがんばってください。

0
Posted by きりぁ 2010年12月13日(月) 07:53:08 返信

このシリーズのファンとしては、奥さんにもぜひ読んでもらいたい。もし原作をご存知でなくとも決して悪い印象は抱かないハズ。

0
Posted by 通りすがりの常駐 2010年05月11日(火) 21:50:06 返信

スゲエ面白いです! 女性の作家さんなのかなあ…繊細で抑制が利いていて… ただただ楽しい!切ない!(>_<) 
嫁さんが帰省してる今しか読めないので、固め読みします!
作家さんありがとう!!

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Posted by たにし 2010年05月09日(日) 03:17:40 返信

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