web上で拾ったテキストをこそっと見られるようにする俺得Wiki

601 174 ◆TNwhNl8TZY sage 2011/08/21(日) 21:30:19.83 ID:EFqWY/CP




「アフターダークアフター」




身の丈よりも大きな姿見が映し出しているのはいったい誰なのだろうか。
首を傾げると、鏡の中、純白の花嫁衣裳を纏ったその人もまったく同時に首を傾げる。
浮かぶ困惑を少々濃い目の化粧で覆う顔に手を添えると、これも瞬時にマネをされ、ますます表情が曇っていく。
これはどういうことなんだろう。今一度整理して考える必要がある。
目の前にあるのが鏡というのはわかっている。
鏡なのだから、あるがままをただ映しているに過ぎないということだって、当然わかっている。
自分が鏡の前に立っているということだって、その後ろに控えているのが母と友人数名だということだって、きちんと把握できている。
なにやら高価そうな調度品や装飾の凝った内装に、友人たちの見覚えのない、降ろしたてらしきドレス。
そういった諸々の状況から、おそらくここが式場ということと、本日これより晴れの席が設けられているのだろうということが何とはなしに察せられた。
でも、それでなんで私がこんな、新婦のような格好をしているの。
軽く摘み上げた裾は驚くほど軽く、幾重にも折り重なったうっすらと透き通るレースが風にそよぐ花弁のように揺れた。
ごくり。思わず喉が鳴る。知らず知らず鳥肌も浮かんでいた。
なかなかどうして、実際に触ってみると質感といい出来栄えといい想像の域をゆうゆう超えていて、胸が締め付けられる思いだ。
冗談でも花嫁以外が着てはいけないだろうし、百歩譲ってモデルなら許されるとして、私はそんな華やいだ世界とは無縁の、一介の公務員でしかない。
たしかに去年の暮れあたりにだってこういう場に招かれたりはしたけれど、あれはあくまで招かれた側であり、先んじて幸せを掴んだ昔の友達を羨んでは、悔し涙をアルコールと一緒くたにして喉に流していただけだった。
怨嗟の念をひた隠しにして祝辞を述べる自分がどれだけみっともなかったか。
ごくごく最近にできたほろ苦い思い出が瞬きする間に脳裏を駆け巡る。
鏡の中の新婦は考えていることがすぐ表に出てしまう性分なようで、みるみる場にそぐわない泣き顔にも似たふて腐れ顔になった。
心配させてしまったのだろう、見かねた友人代表が大丈夫かと声をかけてきた。
慌ててなんでもないのだと平静を装ったが、しかし疑問が解けたわけではない。
もしあの時、近々自分だって招く側に回ると決まっていたなら、ああも絶望することはなかったはず。
少なくともその時点ではまだ、気楽で自由な独身生活を謳歌せざるをえなかったのだ。
よしんばあの後でゴールインを果たしたとして、こんな僅かな期間で式にまで漕ぎつけることなんて、不可能ではないかもしれないけど、とても難しい。
それになにより、もっと重要なことがある。いや、これが最も肝心なことだ。
新婦が私なら、新郎だっている。そんなことは当たり前で、当たり前だから、余計に変なのだ。
相手は誰? 誰が私を、その、もらってくれたの?
それが一番気になるのに、それがいっこうにわからない。
ここ半年の記憶をざっと洗ってみても思い当たる節がある相手なんていない。
もしかしたら幸せの絶頂の中、幸せすぎるのが逆に怖くなって何もかもが信じられなくなったのかもしれない。
いわゆるマリッジブルーという精神的な悩みからくる鬱々とした何やらだ。
にしたって、それでこんな重大なことを忘れてしまうということはまさかないだろうし、万が一そうだとしても納得できない。
誰かに説明を求めたいのはやまやまなのに、そうしてしまうことで願ったり叶ったりのこの幸せを自ら壊してしまう勇気は、どうしたって湧いてこなかった。
相手が誰かも判然としないにもかかわらず、なんだかんだで式だけは挙げてみたいという、まことに現金で、清々しいくらい結婚願望に忠実な自分に改めて引いてしまう。
頼りになるのはいつだって自分だけしかいないのに、この体たらく。
事態を整理して考えるつもりが、かえって、ただただ混乱に拍車をかけるだけだった。
そうこうしている間に、少ない猶予が終わりを告げる。
ドアがノックされ、係員の女性が静々と、時間ですとだけ唱える。
顔を見合わせた友人たちはがんばってと応援の言葉をかけると順番に部屋を去っていった。
準備は万全ととったらしく、係りの方はこちらですと促した。


ことここに及んで無駄と知りつつも頭を抱え込みたい衝動が込み上げてくるが、根性で堪える。
すでにヘアメイクは施され、ベールも被っているのだから。
またもや願望に素直すぎる自分に呆れた。
代わりに垂直に立てれば天井まで届きそうな、深い深いため息をひとつ。
そうして最後にもう一度、姿見に映る自分を目に焼き付ける。
そこにいるのはやっぱり私で、夢にまで見た衣装に身を包んでいる。
まるで現実感の伴わない光景に目眩すらする。
けれど──瞬間、そっと肩に優しく手を置かれた。
振り返ると、母はひどく感慨深げな顔で、よくよく注意して見ると目尻に涙まで溜めている。
甚だ理解の範疇を超えたことに、私は言いようのない違和感を覚えつつ、捉えどころのない不安に身を焦がしながら、そしてどこかで、否定できない幸福も感じていた。
背中を押されて送り出され、長い廊下を歩いた。
大理石の床は一歩進むごとに、こつ、こつ、と音を立て、静かな場内に響いている。
一定の間隔毎に照明が降らす十字架の影絵は踏んでしまわぬように気を遣った。
曲がり角を抜けると、礼服に袖を通し、緊張からコチコチに固まった父がいた。
その表情はこれまでになく強張ったものだったけど、私を見るやいなや、ふわっと気恥ずかしげにはにかんだ。
係りの方に代わって、まだ小さな男の子と女の子が背後に回る。裾先を擦らぬようにだ。
ブーケも渡された。
重厚豪奢な木製の扉がひとりでに開く。
一生に一度やればそれで充分だと無言で語る父のエスコートで入場する。
眩い光が降り注いで、次いで両側から一斉に拍手の花が咲き誇る。
やや遠くから打たれている鐘の音も厳かに鳴り渡り、全身で、かつて経験したことのない祝福に酔いしれる。
このままでは酩酊しそうだ。
足取りはしっかりしていたが、なにぶん真紅の絨毯がふわふわと柔らかく、ともすれば足を取られてしまいそうになる。
殊更にゆっくりと歩み、半分を過ぎたところでエスコートが終わった。
そして残り数歩で辿りつくその場所に、背中を向けて立っている彼。
ゆったりとした動作でこちらに向き直った。
私は驚愕に目を見開く。
「た……かす、くん……?」
震える唇でどうにかそれだけ呟いた。
あの特徴的な目つきを今さら見間違えるわけがない。
壇上にたたずむ新郎は、人生の伴侶は、旦那様は、高須くんだった。
ああ、これが求めてやまなかった私の幸せ……え?
いや。いやいやいや。ちょっと待って。お願いだからちょっと待って。
高須くんが私と? 私と高須くんが? 高須くんの私? 私の高須くん?
だめだ、ぜんぜんだめ。纏まりようがない。
だいたい、こんな展開をいったいぜんたい誰が予想できたっていうの。
高須くんが、私の、なにになるって? 旦那?
高須くんが、私と、なにをするって? 結婚?
ああ、そうかそうか、うん、なるほどね……はあっ!?
思考が停止したのも束の間、一変して混乱の極みに陥る。
「な、なんで」
なんでここにいるのか。それはまだいい。
参列者席の最後尾で場違いにも「高っちゃーん! ご愁傷さーん!」と失礼千万なことを声を大にしてのたまっているのはやっぱり春田くんで、ぶおんぶおんと大げさに腕まで振っている始末。
やっかみ混じりだったらまだ可愛げがあるものを、お腹の底から愉快だといわんばかりにへらっへら笑っているあの調子では、そのままの意味で言ってるのだろう。実に小憎らしい。
その春田くんに並んで、向かって右側手にて「やめてくれよほんと」と、能登くん。
もう一方、左手側にて「いい加減にしてよ」「もぅ、最低」と、木原さんと香椎さん。
下品かつ盛大に騒々しくする春田くん以外は白い目を向けられて迷惑してるのが明白だ。可哀想に。
女子二名なんて徐々に徐々に春田くんから距離をとっているし、能登くんなんてもううんざりしているといった面持ちで遠くを見ている。
とにかく春田くんらがこの場に来ているのだから、高須くんがいたって不自然じゃあない。
三人ほど、居ればすぐにわかるだろう人の目をひきつける人物たちが式場内のどこにも見当たらないことがいささか気がかりではあるものの、今は置いておく。


なんでそんなところに立っているのか。これだ。
素早く辺りを見回して、他にそれらしき男性の影がないか探す。
いない。一人ぐらいは、と思ったが、生憎と影も形もない。
そこはかとなく悲しいような、案外そうでもないような。
それならば、次に浮上したのは、悪戯の線。
ドッキリの類というたちの悪すぎるおふざけかと、ありそうで恐い考えが浮かぶが、これでもなさそう。
高須くんだって、ふざけてこんなことをするような性格をしてはいない。
知る限り一番のお調子者だって、せいぜいがああして空気を読まずに一人喚いてるに留まっている。
これが突然の乱入だったなら他の面々も訝しがるくらいあってもいいものだし、でも、微塵もそんな気配はない。
なにより、彼は私が現れるのを今か今かと待っていたようだった。
なら、本当に……?
たしかに高須くんが今立っているそこは愛を誓い合う中心で、私はそこへと歩いていて、だから、え、じゃあ私これから高須くんと?
「そ、そうだけど、そうなんだろうけど、でもそういうんじゃなくって、あの、あ……高須くん」
狼狽する私の手に、誰かの手が重なる。
高須くんのだ。
瞬間湯沸かし器のボタンでも押されたかのようにカッと全身が熱くなる。動悸がこれ以上なく早まっていく。
振り払った方が精神安定上いいのに、振り払うのはもどかしい。
逡巡しているとあっという間に限界を迎え、視界が激しく明滅し、いくらもせずに暗転する。
「あ……っ」
奈落に落下するような浮遊感がして、立ち眩みを起こしたのだと理解した。
ついでに、恥ずかしい話、腰が抜けてしまっていた。
意思の糸が切れてしまった体はなす術もなく重力に誘われ、平衡感覚がなくなり、踏ん張ろうとした矢先に足が縺れた。
そうなるともう、目なんて開けていられなかった。
いっそ消えてしまいたい。
この場で醜態を晒すということが如何なる結果をもたらすか、こんがらがってまともに思考できない頭でだって容易に想像がつく。
よりにもよって自分の結婚式、それも誓いの言葉という大一番を前にしてずっこける。
親類縁者をはじめ駆けつけた友人連中、果ては生徒たちの間で語り草になることは決定だ。
なんだってこんな目に。たいていこういう式の日取りは大安と相場が決まっているのに、ひょっとして今日は仏滅だったりするんじゃないの。
そんな恨み言を愚痴らずにいられなかった。
が、大安だろうが仏滅だろうがどっちだってもはや関係なく、どちらにせよ忘れられない日にはなることだろう。
これで生涯物笑いの種には困らないわね、よかったじゃないという、いやに冷静な自分のなげやりなぼやきが聞こえた。
倒れる。
そう思って身構えて、けれど待っても待っても痛みも、ハプニングに沸く嘲笑も、どよめきも起こらない。
かといって静かというわけでもない。まばらながら、何故だか歓声が飛び交っていた。
固く瞑った瞼をおそるおそる開けば、ギラギラ鋭いあの目が、わずか数センチ先の至近距離にまで迫っていた。
安堵すると同時、また硬直する。
しかしそうしてしまったことで、飛びのく機会を逸してしまった。
不可抗力とはいえ、誰の目にもそう映ってしまっているだろう。
私はものの見事に高須くんに抱きついていた。それはもうしっかり、腰に腕まで回している。
転ぶ寸前、高須くんが自身の方へ私を引き寄せたらしい。
重ねる程度だった手は今はもうきつく握り締められていて、痺れてさえいる。
熱病に浮かされたようだった。
こころもち重心を高須くんへと移す。
他意はない。断じてない。嘯いてみるも、それだけでまた心拍数が跳ね上がった。
いい加減口から心臓が飛び出しそう。頭上に湯気なんて上げていないといいのだけれど。
もわもわとした白い湯気が立ち上っている錯覚を見て、途端湯気なんてもの吹き飛ばされた。


「どうしたんだ、ゆり」
耳を疑わずにはいられない発言に本当に心臓が飛び出したかもしれない。それくらいは咽込んでいた。
背中を撫でられてだんだんと呼吸だけは落ちつくも、他の一切合切は依然として混乱を訴えたままだ。
しかも、ほら、また。
胸の裏側を上下に滑る手の平が、指先が触れる都度神経に電流が走る。
仰け反らないようにするのも一苦労。
混乱なんて、収まりようがない。
「どうしたもこうしたも、もう何が何だか。それに、ゆ、ゆりぃ?」
つい声が裏返った。馴染みのない呼ばれ方に年甲斐もない恥ずかしさが込み上げる。
一部の生徒からゆりちゃんとは親しみを込めて呼ばれることはあっても、高須くんからそういう馴れ馴れしい呼び方をされたことはない。
彼は一貫して私のことを先生と呼んでいたし、知ってる限りたった一人の例外を除けば、誰に対しても名字の方で呼んでいた。
それがまさか、いきなり呼び捨てにされるなんて。
そのことが私にとって少なからず衝撃的で、でも、けっこういいかも、呼び捨て。
なんて言うかこう、新鮮というか背すじにぞくぞく来るというか、すごく特別な感じも……じゃない、そうじゃないっての。
なにか一つ考えようとすると、もう一つ、また二つ、さらに三つ。
あれよあれよと浮かんでは消える余計な感情が邪魔をして、どんどん本筋から逸れてしまい、まるで集中できない。
恍惚と理性が鬩ぎあい溶け合ってわけがわからなくなる。
ただ、不思議と悪い気はしなくて──そう、悪い気だけはしてこないのだ。
あんな風に名前を呼ばれたことも。
こうして抱き留められていることも。
それどころか気を抜けばすぐさまにやけてしまいそうになるくらいで、とどのつまり私はこの状況を否定するどころか受け入れていて、もっと言うなら喜んでいた。
あられもないという自覚はあって、しかしそれだけはずっと変わらずに思っていた。
だからだろう。
次の言葉に、完膚なきまでにだめにされてしまった。
「おう。俺だってまだ、あんまり慣れてないけど。結婚すんのに先生もないだろ?」
事もなげに投下された本日最大級の爆弾。
その威力たるや、筆舌につくし難い。
高須くんの腕の中、逃げられないでいる私は直撃を受けた。
ぼふっと一気に耳まで染まり、体温が今までにない勢いで上昇する。
ぱくぱく口だけはよく動いているのに、なのに言葉にはならない。掠れ声が辛うじてもれ出るだけ。
震えていない部分なんて、体のどこにもありはしなかった。
あんまりにも感極まって、鼻筋から目頭にかけてツンと痛い。
瞳の潤みが増していく。視界がゆらゆらたゆたっている。我慢はするけど、こぼれるのもこれじゃあ時間の問題だ。
心底意外そうに高須くんが言う。
「泣かれるようなこと言ったかな、俺」
小さく二回首を縦に振った。喋れそうになかったし、今喋ると、我慢ができなくなりそうだった。
高須くんは何を思ってか「すみません」と小声で謝った。それに先ほどまでとは違い敬語まで。
もしや、泣かれるようなことの意味が、私と彼とでは食い違っているのでは。
まさかと思ったら、顔が強張っている高須くんを見るに、どうも本当にそういうことらしい。
そのことがわかって、いろいろなものが台無しになった気もしないでもなかったけど、それでもいいかと思い直した。
そうして今度は大きく一回首を横に振った。
「末永くよろしくしてくれるなら、許してあげますよ?」
わざと先生らしく言ってみせ、上目遣いで見つめてみる。
我ながらなんとまああざとい。せめて鼻声じゃなければもっと決まってたかもと苦笑する。
きょとんとしていた高須くんも、そんな様を見ていくらか安堵の色を浮かべた。
「そんなのでいいんなら」
返事は素っ気ないくらい簡単なものだった。
でも、大げさに飾った言葉よりはずっと染み入って、深いところに溶け込んで。
そしてそれまで抑えに抑えた私の心は、もう抑えきれなくなって。


「高須くん……ううん、竜児く──」
「ちょっと待ちなさあいっ!」
「──へ?」
二人の隙間がなくなろうとするまさにその時、響き渡る割れんばかりの大音声。
胴から首へと手を回しかけていた私はへんてこりんな姿勢で固まった。
総毛立つ思いでいると、目の前、引き攣るりゅ……高須くんの顔色が百面相よろしく、様々に変わる。
赤から青、青から土気色。どどめ色はいくらなんでも危険じゃないのかしら。
蒼白になったところで、目が合う。頷いたのはどちらが先か。
私たちは二人そろって声のした方へと首を向けた。
一心に警報を鳴らす本能がそっちは見るな、そんな暇があるのなら即刻即時即行即座にこの場からの離脱を提案し続けている。
そうしたいのはやまやまだけど、足は縫い付けられたようにピクリともしない。
どうして。どうして今頃になって。
もう少しだったのに。あとほんの一センチもなかったのに。
やがて唯一の出入り口であるあの木製の分厚い扉が、信じられないことに、どがあんと聞いたこともない派手な音と共に蹴破られた。
強引に開け放たれたその向こう、後光を背負うその小柄な影は、ズカズカとこちらへと歩み寄ってくる。
「やっと見つけた。もう、さんざん探しちゃったじゃない。こんなところでなにしてるの、竜児?」
現れたのは逢坂さんだった。
抱きつく私になんて目もくれず、いや、高須くん以外にはわき目なんて触れずに彼へと近づいていく。
急展開についていけず呆気にとられている他の参列者をよそに、春田くんを筆頭に能登くん、木原さん、香椎さんの四人は速やかに役目を果たせなくなった扉から出て行った。
懸命な判断だわ。できれば私たちもそうしたい。
逢坂さんが許してくれれば、だけど。
「そうそう、あのね、こんなのが届いてたの。なんか意味不明な文字の羅列が書いてあってね、読んでるとすっごく不安定になるのよ。
 こういうのって悪戯にしても変すぎじゃない? いったいどういうつもりなんだろ。ねえ竜児、聞いてる?」
饒舌に語る彼女は思い出したように胸元に手を潜り込ませ、少々四角張った封筒を一通取り出した。
招待状だ。内容は知れないけれど、逢坂さんの言から、おおかたはわかる。
あながち招かれざる客だったわけじゃあないみたい。意外だわ。
もしくは、誰かから奪ってきたものかもしれない。そちらの方がありえるかも。
しかしそんな招待状も即座に握り潰されてしまう。あらん限りの力を込めて、もしかして握力測定でもしてるんじゃないかと疑うほどだ。
くしゃくしゃになった紙切れを、逢坂さんは無造作に投げ捨てた。
むり、許してくれるなんてそんなの絶対むり、天地がひっくり返ったってありえない。
だって逢坂さんすごい怒ってるもの、絶対怒ってるに決まってるもの。怖い。
表面上平静で、語気だってそう荒いわけでもないというのに、言動の端々から覗く逢坂さんの異常ともいえる憤慨ぶりに戦慄すら覚える。
と、そんな逢坂さんに変化が。
「ねえ、黙ってないで、なにか言って。竜児、無視しないで」
口を閉ざす高須くんにしゅんとしてしまう逢坂さん。
なんだか捨てられそうな子猫のよう。
すっかり怯んでいたものの、その様子に若干心が動き、声をかけてみることにした。
「あの、逢坂さん。その、大丈夫?」
結論から言って、私は手の施しようのない間抜けで、浅はかだった。
火を点けたのに打ち上がらない花火を、おかしいなあと無用心に筒に手を伸ばしたようなもの。
俯き気味だった逢坂さんは、それを合図にするように、被っていた可愛らしい猫を脱ぎさった。
「私は竜児に聞いてるの、あんたは関係ないでしょ! ていうかさっきっからなに抱き合ってんのよ、早く離れなさいよ! 離れて!」
「きゃあああっ!?」
ギロッと鋭く睨み付けられて竦みあがった私を見て、ここぞとばかりに高須くんから引き剥がすべく飛びかかる。
抵抗なんてものともせずに、逢坂さんは見かけからは到底ありえない膂力を発揮して私を押しどけた。
受け止めてくれる人もなく、今度こそ私は膝を着いた。
それでも逢坂さんは止まらずに、高須くんの鳩尾に渾身の力を込めた拳を突き刺す。


苦悶に喘ぎ、たまらず前かがみになったところを逃さないで間髪入れずに足首を蹴り払い、仰向けに倒される。
高須くんが起き上がるよりも早く、逢坂さんは馬乗りになっていた。
「だいたいなんなのよこれ。なんで竜児、け、けけ、けこけ、結婚なんて……」
「いや、待て、待ってくれ。大河、少しは俺たちの話も」
「お、俺たちって……ううう、うるっさい! あんたの話なんて聞きたくない!」
「なんか言えって言ってたじゃねえか」
「知らないわよ、竜児のバカ! バカバカバカ!」
いやいやとかぶりを振るたび、ふわふわと柔らかそうな長い髪が振り乱れる。
襟首を両手で掴まれ、持ち上げられた高須くんが説得を試みようとすると烈火の如く吠える。
「とにかくこんな茶番になんて付き合ってらんないわ。ほら、さっさと帰るわよ、竜児」
「おい、だからちょっとは話を」
「喋るな。黙れ」
問答無用に高須くんを引きずっていこうとする逢坂さん。
高須くんはどうにかして逢坂さんの手から逃れようと足掻いてたけど、徒労に終わるどころかそれがひどく逆鱗に触れてしまったよう。
彼女は言うことを聞かない彼へ強烈な一撃をお見舞いして意識を刈った。
言ってだめなら殴ってきかす。肉体言語恐るべし。
気を失った高須くんの襟首に手をかけ、逢坂さんは揚々と引き上げようと歩き出す。
このままでは、本当に連れ去られてしまう。
「ま、待って!」
私は追い縋ろうと手を伸ばす。しかし届かない。
突き出した手はかすりもせずに、宙を虚しく空振りしただけだった。
「待って……」
逢坂さんは一段と歩く速度を速めて、もう歩くというよりも駆け足だ。
引きずっているのが困難になったのか、それとも効率が悪いと思ったのか、高須くんを肩に担ぎなおした。
いよいよあの子は本気だ。一瞬でも行方を見失えば、追いつくのは容易なことではないだろう。
それどころか……いやよ、そんなの。
もうなりふり構ってはいられない。
抜けた足腰に活を入れて立ち上がり、歩きづらくって仕方のないヒールを脱ぎ捨てた。
ふわりとたなびき翻るスカート。そのやたらに長い裾を一纏めに抱え上げてできるだけ脚の自由を作ると、
「待ちなさいってえ、言ってるでしょうがあ!」
人目もはばからず全力で走り出した。そんなの、もはや意識にすら入ってこない。
目指すは高須くんのみだ。
私があとを追っていることに気がつくと、心から嫌っそうな顔をした逢坂さんが声を張り上げた。
「ついてこないで! この三十路! 年増! おばさん!」
「ひ、ひとが気にしてることを、よくもずけずけと……私だってねえ、好きで三十路になんてなってないのよ!?
 でもしょうがないじゃない、誰だっていつかは三十路になるんだから! 三十路になってからの人生の方が長いんだからあ!」
渾身の叫びに、逢坂さんが見てはいけないものでも見てしまったような冷めた顔をする。
無性に腹立たしいけれど、いいわ。今はわからなくっても、いずれ私の言うことが正しかったってわかる日が来るわよ。
そのときにはあなただって、まんまとこっち側の仲間入りを果たしてるんだから。
それに、今はそれどころじゃない。
「そんなことよりも、高須くんを返しなさい!」
冷めた、なんてとんでもない。
一変して今度はキッと目を吊り上げる逢坂さんが怒鳴り散らす。
「返すう!? 返すですってえ!? なに言ってんのよ、そんなのこっちの台詞なんだから! あんた竜児になにしたのよ!」
「それは、その」
二の句が告げないまま口ごもってしまった。
だって答えようがないのだから。私だって、様々な過程が欠落した状態でここにいて、こうしてるのだ。
雰囲気に飲まれてここまで流されてきたけど、改めて指摘されると、わけなんてわからないことばかり。
私が高須くんになにかをしたというのなら、具体的になにをどうしたのか一番知りたいのはこの私なのだ。
具体的にというのは、その、どこまでいったのか。
もしかして、最後まで、だろうか。
そこがやっぱり気になって仕方がない。


逢坂さんは逢坂さんで、言えないでいるどころか軽く頬まで染めているこちらの様子から、他人には言えないようなやましいわけがあると思った模様。
「なによ、なんなのよその反応。ま、まさか竜児……うそ、そんなの……そんな……そんなあ……」
急に減速したと思ったら、その後数歩ほど進んで立ち止まる。
小さな庭園が一望できる大きな窓の前で佇む逢坂さん。
小声でなにかを呟くその後姿は不気味の一言に尽きるが、稼がれた距離を埋めるのには好都合だった。
もういくらもかからず追いつく、そんな時。
「ふふ、ふふふ。いいわ、いいわよ。そんなのべつに、私が忘れさせてやればいいだけじゃない。そうよ、そうそう」
不穏な発言にしか思えないのは私が汚れた大人だからだろうか。
輪をかけて不気味な逢坂さんは乾いた笑いを含ませつつ独り言を唱えていた。
そうして不意に振り返り、私を一瞥してから、般若もここまではいかないだろうという険しい形相に。
それから担いだ彼をぎゅうっと抱きしめて。
「渡さないんだから。なにがあったって、絶対」
最後にそう言い置いて、逢坂さんはどこからともなく取り出した木刀で傍らの窓硝子を叩き割った。
透明で鋭利な硝子の雨が降りしきっていることなんて意にも介さず、その中へと戸惑いなく飛び込んでいく。
私の目に飛び込んできた映像はそこまでで、咄嗟に頭をかばった後、再び目を開ければそこには誰も居なかった。
無数に散らばる硝子の破片が床一面を覆いつくし、裸足も同然である私の動きを鈍らせ、妨げる。
こうして立ち往生している間にも刻々と時間は過ぎていく。もどかしくてたまらない。
逸るのは気持ちだけで、けれど立ち尽くすより他はない。
途方にくれるていた私の耳が、思い切り吹かし上がるエンジン音を拾う。
庭園の向こうからのようだった。
耳を澄ませると、排気音に混じって、複数の人の話し声が聞こえてくる。
もっと注意して耳を傾けるてみると、その声はどれも、とても聞き覚えのあるものだった。
「ええっと、アクセルって右のだっけ、それとも左? ああもう、実乃梨ちゃん代わってくれない? それか、祐作は?」
「いやー、私はパスで。北村くんも、さすがにまだ起きれないんじゃないのかね」
「こんなときに。役立たず」
「役立たずってなんだよう。だいたい北村くんだってさ、あーみんがやっちゃったんじゃんよ。後ろからがん! っと。見た? あのでっかいたんこぶ」
「ちょっと、よしてよ人聞きの悪い。つか言っとくけど亜美ちゃん悪くないし。あんなに頼んでも招待状くれない祐作が悪いもん」
「でもなあ、いくらなんでも酷すぎだと思うんだよなあ」
「みのりんもばかちーも静かにして。誰か来ちゃうじゃない」
「へいへーい。そんじゃあとっととずらかりますか。あーみん、ゴー!」
「チッ。なによ、どいつもこいつも偉そうに。自分でやってみろってえの、たく。あ、くっそ、どっか擦っちゃった。あんたらがうるさいから」
「そんなの気にしない気にしない、もっとスピード出していこうよ、誰にも縛れたくないって感じで! 自由になれた気がするかもよ!」
「だからうるせえっつってんでしょうが! 耳元でぎゃあぎゃあって、きゃああー!? ミラー取れたー!?」
「ばかちーが一番うるさいわよ」
「前々から思ってたけどあーみんてけっこうメンタル弱いんだよね。ちょっとのことですぐキャラ崩壊するもん」
「ひとに押し付けといて言いたい放題かよくそったれ。いいわ、何かあったらぜってえあんたらのせいにしてやるからな、覚えときなさいよ」
次第に話し声が遠のいていく。それと共に、エンジン音も小さくなっていった。
カラン、カランと、空き缶が転がる音が一緒に鳴っていたということは、そういう意匠を施した余興用の車を無断で借用していったのだろうか。
ごっとんだの、めきめきだのという不吉で軋んだ音も立てていた。庭内にあるものを軒並み轢いていったらしい。なんていうことを。
そこまでするなんて。


それにやっぱり、逢坂さんが所持していたあの招待状は元々は他人のものだったようだ。
櫛枝さんと、それに川嶋さんまで結託していたなんて。
抜け目なく逃げる算段を用意して、普通なら躊躇うような、いけないことだって厭わないで。
そうまでして、連れていってしまうなんて。
「……高須くん」
呟いてみても、どうにもならない。何も起こらない。高須くんはそこにはいない。どこにもいない。
残っているのは、所在無く、呆然としている私だけだった。
喪失感が胸に去来する。ただただ惨めで、最悪で、最低。
──夢なら、覚めればいいのに。
一人ごちたのと時を同じくして、足裏に感じていた、ひんやりとした冷たさが消えた。
床が抜けたのだと理解したときには、自身が落ちたらしき穴から差す光を無感動に見つめながら、私は底のない暗闇に投げ出されていた。
                    ***
例年はあれだけ寒々しい思いを強いていた大寒波だったが、今年のは、通り過ぎてみれば寒波などという生易しいものではなく、むしろ灼熱真紅の熱波となって私を襲った。
世界中で観測されてきたどの異常気象よりも強烈で、局地的で、そしてしつこいそれは一週間もの間つきまとい、気を抜けば吹き飛ばされてしまいそうだったほどだ。
記録的なものとなったその熱波、というかなんというかに便宜上名前をつけるなら、「逢坂さん」だ。
命名の際には台風よろしく「逢坂さん一号」という素敵な名前を考えてはいたのだけれど、これではまるで後続が控えているみたいではないかという喜ばしくない点に気づいて思いとどまった。
間違っても二号三号と、新たに到来することのなきようにと切実な祈りを込めて、「逢坂さん」とすることにした。
あんなのは一度でたくさんだ。そうほいほいやってこられたらこちらの身がもたない。わりと本気で。
思い出すだけで途方もない疲労感に見舞われるほどなのだ、私にとって、天災みたいなものだと割り切り耐え忍ぶしかなかったあの一週間は。
ある日を境に、逢坂さんの態度は露骨に変わった。
けして良い意味で、ではない。むしろその逆だ。
それまではお世辞にも友好的とはいえないながら、私と彼女、逢坂さんの関係は、そこそこの距離感を保っていたはずだった。
なにせ曲がりなりにもこっちは教師、それも担任で、あっちは生徒。
不可視ではあるが、厳然と存在はしているその境界線を超えて、わざわざお互いに干渉しあうということは断じてなかった。
より正確に言うならば、私個人としては逢坂さんに対して苦手意識を拭い去れていなかったのもあるし、彼女は彼女できっと私のことなど歯牙にもかけていなかったに違いない。
けれどもそれも過去の話。
目が合っただけで親の仇のように睨まれて、声をかければ無視をされ、特定一人の半径三メートル以内に近づけば呻り声を上げて威嚇される。
授業中だろうがなんだろうが事ある毎に「わかってるんだから」「いい加減本当のこと言ったらどう」といったようなことを誰ともなしに呟くので、それを耳にするたび私はいたく慄いた。
確信はしてても確証がなくて、特定一人の彼の口も最後まで割らせることができなかったから、矛先を変えたんでしょう。
やり口も正面から力押しするのではなく、じわじわと追い詰めるような絡め方に変化していった。
延べ一週間も続いたそれらも、埒が明かないと諦めたのか、尻尾を捕まえるまでは静観することにしたのか、それともやりすぎだと叱られたためか、「逢坂さん」は一先ずは沈静化してくれた。
できるならもっと早めにそうしてほしかったが、あれ以上長引かれたらそれはそれでどうなっていたかもわからないので、それについてはあまり考えないようにしている。
そういったように「逢坂さん」の表立った被害者は当然私ではあるものの、その巻き添えをくらってしまった者もそれなりの数上る。
彼女が通った後には茶々を入れたらしき男子が累々と横たわっているというのが繰り返されたことからも、いかに逢坂さんがご立腹だったのかを物語っている。
まさにハリケーンだ。


辟易とさせられたのも、胃を鷲掴みにされて握り潰されそうな思いを何度もしたのも、もはや言うまでもない。
最近では改善の兆しも見えてきたけど、まだまだ悪化した関係は修復しきれそうにはないようで、憂鬱だ。
いつになったら戦々恐々とせず穏やかな気持ちで日々を過ごせるのだろう。
この調子だと当分はそんな日が来そうになくて、やっぱり憂鬱で、気落ちする。
一方で、行かず戻らずのもう一人との関係に、私はやきもきとした日々を送っていた。
あのバレンタインから、そろそろ一ヶ月が経とうとしている。
おおむね平常に過ごせている中で、変わったことがちらほらあった。
一つめは、前述の逢坂さんとのこと。
二つめは、それに付随するクラスメートたちの生暖かい目。
年度の終わりが近づいて、本格的に幕を開ける大学受験を目前に控えた彼らには、ちょっとした噂話でも恰好の娯楽と化す。
そうでなくても年がら年中お祭り騒ぎをしているようなものとはいえ、その盛り上がりようはいささか大げさなように思えてならない。
興味本位や逞しい想像力であれこれ持て囃されても困るし、困らせてしまうのが、なんだか嫌だった。
他人の不幸はなんとやらとは、いったい誰が作った言葉なんだか。
これはもう時間が解決してくれるよう祈るほかない。へたに何かしても、今のままじゃ火に油だもの。
三つめは、夢。
ここのところ似たり寄ったりな夢を見てしまい、私はそれに大いに悩まされていた。
昨日の晩だってそう。
今度のは経緯や過程なんてすっ飛ばして、いきなり結婚式を挙げるという夢だった。
思い出すだけで赤面ものだ。なんて夢を見ていたの、私は。穴があったら二度と出れなくてもいいから入りたい。
そういったような恥ずかしい夢を、私は夜毎に見てしまうようになっていた。
内容や展開にはそれぞれ差異があるものの、主要な登場人物はだいたい決まっていて、結末だってほぼ同じ。
ご都合主義全開で、気味が悪いほど生々しいわりに現実味は程遠くて、ところどころが欠陥だらけの、そんな、甘い夢。
文字どおり夢中になって満喫していて、だけどそうしていられるのもせいぜい途中まで。
中盤に差しかかるまではとても、それはもう起きるのがもったいないぐらいにとても良い夢だったのが、実際に起きる頃にはすっかり悪夢だ。
まだ静寂を落とす真夜中に、冷たい汗をびっしょり掻いて飛び起きるのも日常茶飯事になり始めている。
一度目が冴えてしまうとなかなか寝付けないのも問題で、寝よう寝ようと意識しても、怠惰な睡魔は一向にやってこない。
どれだけ固く瞼を閉じていても、なにもすることがないと、かえって頭が働いてしまう。
直前まで見ていた夢が夢なものだから、鮮明なそれをなぞって悶々としてしまう。そのまま朝日を迎えるのも少なくない。
そのうちどうにかなってしまいそう。体力的にももちろんのこと、精神的にかなり切迫している。
かといって、具体的な解決策は浮かんでこないのだ。
いい歳をして、たかだか夢のことで一喜一憂しているなんて、他人には打ち明けられようはずもない。
これが支離滅裂な、それこそ悪夢らしいものだったならまだカウンセリングの余地もあるのだろうに、診てもらっても何を言われるか手にとるようにわかりそうで、ちょっと気が引けた。
時期的にいろいろ忙しいということもあり、ゆっくりと休める暇もとれず、おかげで寝不足が続いている。
仕事にもろくに身が入らないし、曲がり角の過ぎた肌には大打撃で、それがまた小さな悩みの種を作っている。
四つめと五つめは、無意識に目で探してしまうことと、また会えるんじゃないかと帰りがけに商店街界隈を抜けるのが日課になったこと。
六つめは、声をかけづらくなってしまったこと。
「何してんだおまえ」
今みたいに。


「なんでもないわ。ちょっと見られてるような気がしただけよ。気にしないで」
前方、僅かに先を行く逢坂さんと、それに、高須くん。
また買い物の途中なんだろうか。並んで歩いているのを見つけて、なにか声をかけるべきか迷う。
そんなのかけない方が妙な話しで、私としてもそうすることに吝かでなかったし、でも、迷惑な顔をされたらと思うとどうしても尻込みしてしまった。
それこそ妙な話だというのに。
仕方なくとぼとぼ歩いていると、何かを察知したらしき逢坂さんが唐突にばっと振り返って、私は慌てて電信柱の影に飛び込んだ。
僅差で身を隠すことに成功し、ふうと息をつく。
気取られるほど接近してはいないのに、まったくなんていう勘の良さなのかしら。
キョロキョロと、いいえどちらかというとギョロギョロと周囲を注意深く見渡している彼女は、ふんと苛立たしげに鼻息をもらした。
「勘違いだったみたい」
とは言いつつ、警戒そのものは解いていない。少しばかり手を緩めただけで、依然として逢坂さんは辺りを如才なく窺っていた。
往来の隅々までをあたかも透かし見るように、満遍なく目を向ける。
ありえないこととは思うけど、その焦点がコンクリートの柱を抜け、ビタリと背中に突き刺さったように感じた。
縮こまる私をよそに、注がれていた逢坂さんの熱い視線が不意に外される。
「ならいいんだけどよ。大河、最近しょっちゅうそんなこと言ってないか」
自身を案じる高須くんの言葉に、小首をちょこんと傾げた逢坂さんはしげしげとその顔を見つめている。
「心配してくれてるの?」
「そりゃあ、まあ」
隔靴掻痒とまではいかない。
けれどその曖昧な肯定に、どこか芯の部分が、少しだけチクリとした。
「だからそんなに気にしなくっても大丈夫よ。でも、ありがと」
「おう」
「えへへ……行こ、竜児。私お腹へっちゃった」
「わかったから引っ張るなよ」
さきほどまでの不機嫌なんてどこへやら。
満面の笑みになった逢坂さんが高須くんを伴って歩みを再開した。
雑踏を分け、滔々と暗がりを濃くする薄暮れの商店街を進む二人の間に隙間はない。
小さな背中と大きな背中が見えなくなるまで見届けて、用心のために一応ある程度時間を空けてから、私は彼らとは反対の方向へと足を向けた。
ため息だけが止め処なくあふれ出た。
ほんとう、いい歳してなにをしてるんだろう。みっともない。
自分のしていることを冷静に見ようとすればするほど、自己嫌悪の色合いが濃くなった。
声をかけることにすら躊躇って、バツが悪いからって咄嗟に隠れて、こっそり覗いて立ち聞きして。
そんな挙動不審な様子を誰かに見られたらなんて言い逃れするつもりなのか。
しどろもどろに下手くそな言い訳を並べ立てるところを想像しては、あまりにもありありと目に浮かぶその情けない姿にまたもため息が増えた。
私はいったいどうしてしまったんだろう。
高須くんに何をそこまで期待して、高須くんの何がそんなに気になって、高須くんのことで何でそうまで憂いているのか。
理性では到底整理がつきそうにない。
第一、それをしようとするとまず真っ先に気持ちが揺さぶられてしまい、そうなると理性なんて在って無いようなもの。
そうして空っぽになった頭では、雪崩れのように一つのことで埋め尽くされる。
高須くん。高須くん。高須くん。洒落にならないぐらいに高須くん一色だ。
こんなのおかしい、寝ても覚めても何をしていても高須くんなんて、どうかしてる。
たしかにバレンタインではチョコは送ったし、それでまあ、ドキッとしないこともなくはなかった。
でもあの時のあれは、寂しかったからとか、人恋しいときに優しくしてくれたからとか、おそらくそういうのが折り重なって偶然生まれた、ただの気の迷い。
もっと普通に接せられれば、そんな気の迷いに振り回されることもなくなるのだろうか。


以前のような感じに戻れるなら。
前に、戻る。それはそれで、なんだか気乗りがしなかった。
「はあ」
「これで何回めだろうなー」
「さあ? 十回めからは数えてないよ」
両側からそんな会話が聞こえてきて、力なく左右を見た。
脇を固めて歩いていたのはパックのジュースを啜る能登くんと、暢気な顔をぶら提げている春田くんだった。
びっくりして、私はその場から二歩、三歩と後ずさる。
「あなたたち、いつからいたの」
私の問いかけに、二人はほらやっぱりだとでも言いたげに目配せしあう。
先に口を開いたのは能登くんだ。
「いつからもなにも、俺たちさっきからずっと声かけてたんだけど」
「そうそう。なのにゆりちゃんシカトすんだもんなあ」
春田くんがぷりぷりと怒るものだから、私はとりあえずごめんなさいと謝っておく。
言うほど気分を害していたわけでもなかったようで、「まあいいよいいよ」と言って、春田くんはすぐまた暢気な顔を浮かべた。
考えることに没頭しすぎて周りのことが全く頭に入ってこなかったみたい。
二人が傍にいただなんてぜんぜん気づかなかった。
それに商店街をうろつくようになったのも失敗だったかもしれない。
この間だってこの二人に見られていたっていうのに、迂闊だった。
「それよかさ。ゆりちゃん、なんかあった?」
「えっ」と間の抜けた声を上げる私を、春田くんが興味深そうに見つめている。
意外とあどけない顔には常々滲んでいる軽薄さも能天気な色もなく、純粋に気がかりなことがあるからというのが察せられた。
説明足らずな春田くんの言葉に続いて、能登くんが付け加える。
「思いつめた顔して、ため息ばっかりしてたから。ひょっとして悩み事でもって」
ため息が多い自覚はあったけれど、言われてみれば、胸の痞えが思いのほか大きなものになっていて息苦しいほどになっていた。
この分ではひどい顔をしていそうだ。
一瞬なんのことかと首を捻ったけど、そういうことだったのかと得心した。
微笑ましくなって、自然と頬が緩む。
まだまだ自分のことで手一杯の子供だと思っていた彼らも、やっぱりこちらをちゃんと見ているのだと思い知らされる。
それにこうして真面目に心配されたりするのは、不謹慎ながら私にとって密かな喜びであり、ささやかなご褒美でもあった。
あんまりそういうことが頻繁にあってもいけないから、本当にたまに、ね。
「ええ、ちょっと寝不足で。でも、もう大丈夫ですよ」
寝不足だけということもないが、それだってあながち嘘ではないし、なによりあれだけ大きかった胸の痞えはいつしか感じなくなっていた。
沈みきっていた気持ちもだいぶ上方へと修正される。
できるかぎり柔らかく微笑むと、安心した風に莞爾と春田くんが笑い返した。
気を良くしていた私はその笑みの裏にあった思惑をまだ悟れない。
「よかったじゃん。あんな顔されてたんじゃ、いくら高っちゃんでも、なあ?」
「おい、バカ」
小声で言って、隣のわき腹を能登くんが肘で小突いた。
いいところに入ったらしく、くの字に胴を折り曲げた春田くんがげふげふ咽かえっている。
それよりも、なんでここで高須くんの名前が出てくるんだろう。
すぐれない私の顔色とどういう関係があるっていうのよ。
「ゆりちゃん、今の気にしなくっていいから。ほら、こいつよく意味不明なこと言うし」
あからさまに取り繕ったぎこちない笑顔の能登くんに、一層目を細めた笑顔でじっくりと時間をかけて首を振った。
了解の縦にではなく、拒否の横へ。
そのまま体ごと春田くんに向き直り、ずいっと一歩前へ出た。
「高須くんが、なんなのかしら。先生にわかるように言ってもらえる、春田くん」
不可解なことに春田くんからさーっと血の気が引いていき、口元がひくひく引き攣っている。
涙目なのはそれだけ能登くんの肘が効いたんでしょう。他に理由はないわよね。
「そ、そんな怒んないでよ。俺はただ、明日があれなもんだから」
「あれ?」
思わせぶりなニュアンスにオウム返しをしてしまった。
明日って、高須くんに何かあるような日だっただろうか。


だいぶ前に小耳に挟んだ話だと、誕生日ならもっとずっと先のはず。
生憎と他に知ってることもないので、直接高須くんに関係のない事柄も考慮してみる。
今日の日付は三月の十三日だから、明日は十四日だ。
三月十四日。
そういえば、バレンタインからちょうどひと月経過することになる。
「いや、だからさ。ホワイトデーじゃんか。高っちゃんからなんかお返しでもあるんじゃないのかなーと」
言わんとしていることが何なのか。
喉まで出かかっていたが、自力で答えを出す直前で解答が提示され、私は言葉を失った。
そんなこちらには気がいかないようで、春田くんはあれこれと捲くし立てる。
「なのにあんな陰気くさい顔されてたんじゃ、高っちゃんだって、なんつうの? 渡しづらい的なさあ」
「なあ」
「まあタイガーが黙っちゃいないんだろうけど。でもそこはほら、ゆりちゃん次第だろうし」
「なあって。春田」
「あん? なんだよ、って」
身振り手振りを交えては自分の言葉にうんうん頷いてまでいる春田くんをそうっと能登くんがとめた。
春田くんはまず能登くんを怪訝そうに見やってから、今度は目の前の私を見て、ぽかんと大口を開けた。
「どうしたの」
様子のおかしい二人になんだか不安感を煽られる。
するとそれまで矢継ぎ早に喋っていた春田くんが、今度は簡潔に、そして控えめに言う。
「ゆりちゃん、顔まっ赤」
指摘されておもむろに手を頬に添えてみる。
ほんのりというよりカッと熱くなっていた。
ぺたぺたといろいろな部分、それこそ顔中を触って確かめてみたけど、どこもかしこも茹だったように熱を持っていて、汗ばんですらいる。
「ちっ、ちちち違うのよ、これはその、べつにそんなんじゃなくって。うう〜」
手遅れと知りつつ弁明しようとしたけど体は嘘がつけなくて、押し隠そうとした動揺が一気に噴出した。
わたわたして、どもりまくって、滑稽にも限度がある。
せめて表情だけはこれ以上見られたくなくて、顔を両手で覆う。
慌てふためく私を尻目に、二人はとても冷静だった。
「弱ったな。ここまでマジな反応されると」
「あんなわかりやすく嬉しがられるとなー。つーか、思ってたよりも乙女なのな、ゆりちゃん」
「ああ。むしろ乙女すぎてちょっと引くかな、俺」
「ごめん、俺もだわ」
一応気を遣っているのか声のボリュームは抑えているみたいだけど、そんな吹けば飛ぶような優しさなんておかまいなしに会話はまる聞こえだった。
好き勝手なことを言いたい放題に言ってくれる能登くんと春田くんに憤りが募る。
それ以上に自制もろくにできない自分自身が恨めしい。
なんたる醜態を晒してしまったんだろう。しかも、よりにもよってこの二人に。
後悔先に立たずとはよく言ったものだわ。
「だから、そういうのじゃないって言ってるでしょう。それにね、先生は高須くんから何かいただくようなことなんてしてないのよ?」
無駄だとわかってはいたけど、あくまでしらを切る。
実際に目撃していた春田くんにそれをしてなんの意味があるのかと、けれど高須くんが黙秘を続けている以上、私も知らぬ存ぜぬで通さないといけない。
しかしそこはそれ、苦しい言い訳がまかり通ることもなくて、ひらりとかわされる。
「あれ、じゃあいらないんだ。高っちゃんの、お、か、え、し」
いやらしく区切って強調する春田くんは、なんにもわかっていない。
そもそもからして、いる、いらないの問題ではないのだ。
あれは口止め料でもあるお礼なんだから、見返りを求めるものではない。
三倍返しなんてもってのほか。そんなつもりでいたのだと思われたら心外だ。
でも、くれるというのなら、それを無下にする理由は、ないようななくもないような。
早くも揺れだす私を知ってか知らずか、春田くんは続ける。
「高っちゃん料理とかうまいから、たぶん手作りとかするんだろうなあ」
その言葉に、耳がダンボのように大きくなる。
「て、手作り……?」


手作り。
なんていう甘い響きなんだろう。心を大きく揺らがせる魅惑の魔法だ。
コンビニに置いてある胡散臭い手作り弁当や、ファミレスで出される手作りなんとかという紛い物とは大違い。
それも、高須くんの、手作り。どんなのだろう。
溢れそうになった涎を喉を鳴らせて嚥下した。
「けど残念だよなー、高っちゃん。せっかく作ってきてもゆりちゃんはいらないって言うし、無駄骨だよな」
「そ、そんな。待って春田くん。いらないだなんて私、ひと言も」
「あーあ、もったいない、もったいない。もったいないから俺が貰っちまおうかな」
「だ、だめよ。そんなの絶対だめ」
「あ、そうだ。そしたらそれ、欲しいってやつに売ってやろ。高っちゃんの手作りって言えば、欲しがるやつってけっこういそうだし」
「いくらよ、いくら払えばいいの」
「それならやっぱプレミアも付けとくべきだよな。う〜ん、こりゃぼろい商売だぜ」
底意地の悪い笑みをたたえ、春田くんはわざと私の声が聞こえないふりをしている。
いちいち真に受ける私がおかしくて仕方がないといった内面がはっきりと表れていて、その証拠に、春田くんは時折堪えきれずに噴出していた。
「そのへんにしときなよ」
そんなやりとりをしばしの間続けていると、能登くんがとめに入った。
あれだけからかったというのにまだ物足りないのか春田くんは一瞬迷ったけど、これ以上はさすがにやりすぎだとも思ったみたいで。
「ゆりちゃん、今の全部じょーだんだかんね、冗談。本気にしないでよ」
あっけらかんと言い放つその顔は、いつもの暢気なそれだった
しかしそう言われて、はいそうしますね、なんて余裕綽々と返せるほど今の私にゆとりがあるわけでもなく、マグマ溜まりのように煮え滾った怒りが沸々と湧いてくる。
「……ないで」
「へえ? なんか言った、ゆりちゃん」
ぼそり。唱えた私の言葉を聞き取れなかった春田くんが耳を近づけた。
私はお腹が膨れるほど深く静かに息を吸い込み、あらん限りの怒鳴り声を、その能天気なおつむに届くように叩きつけた。
「ふざけないでって言ったのよ! なにが冗談よ、なにが本気にしないで、よ! ひとのことおちょくんのも大概にしなさいよあんた達!」
「うわったーっと!?」
素っ頓狂な声を出して、春田くんがたたらを踏む。
転倒する寸前で傍らの能登くんに手を貸してもらいなんとか持ち直し、身を寄せ合った二人は私からじわりじわりと距離を空けた。
「やばっ、ゆりちゃん怒った」
「んなもん言われなくったって見りゃわかるよ。それよりもどうすんだよ、あれ」
「知らないよ。だいたい、春田が調子に乗るからだろ。あんた達とか、俺、何もしてないのに」
「仮にそうだとしても、そこを一緒になって怒られてくれんのが友達だとぼかあ思うんだよ」
「だったら俺もう友達じゃなくていいや。そういうわけなんでさっさと離してください、警察呼ぶぞこの野郎」
「いくらなんでもそれはひでえよ!?」
麗しい友情に涙が出そうだ。
我先に逃げ出そうとする能登くんの足にしがみついて邪魔をする春田くん。
とてもこの一年間苦楽を共にしてきたとは思えない様子に、こちらの毒気がみるみる抜かれていく。
頭に上った血も、急速に冷めていく。
冷静さが戻ってくると、怒鳴ったのは少し、大人気なかったかもしれない。
高須くんが絡むと途端に目の色を変えているようで、だめね、もう。
見るに耐えない言い争いを繰り広げる二人へと私は足早に歩み寄る。
黙す私の迫力に観念した能登くんと春田くんはいがみ合いを中断し、その場で直立不動の姿勢をとった。
そして実に息のあった動作で、同時に深々と頭を下げ、「すみませんでした」とこれまた綺麗にハモらせて謝る。
反省の色はまあ充分表れているだろうと、私は表面上不承不承という風に息を吐いた。
「あんまり大人をからかうんじゃありません。いいわね、二人とも」
もっとキツいお説教をされると恐々していた二人、特に春田くんはこれだけで済んだことがにわかには信じられないようで、目をぱちくりと瞬かせる。
けれども私が今日はもう帰っていいと付け足して言うと、どっと安堵が押し寄せてきたらしく、正していた姿勢をだらしなく崩した。


能登くんの方も緊張の糸を緩める。
制服に付いた土埃をはたき落としながら春田くんが、気が抜けたように笑った。
「でもほんと、ゆりちゃんも元気が出たようでなによりだよな」
能登くんが苦笑いをこぼした。
「おまえ、また怒られたいの?」
「勘弁してくれよ。もうたくさんだって」
手短に帰り支度を済ませると、能登くんは小さく会釈をし、春田くんが手を振った。
私も小さく手を振る。
「それじゃあ俺たち帰るんで。ゆりちゃんも気をつけて」
「じゃあなーゆりちゃん、明日は応援してるからー」
最後までおちゃらけたことを言って、二人は帰途へついた。
残った私は、少しの間なにもせずに佇んでいた。
それから深呼吸。次に時刻を確認した。
今日のこの日はあとものの数時間で終わりを迎えるが、明日、学校が始まるまでにはゆうに半日もある。
そんなにも長い間、待っていられるだろうか。
服の上から撫でつけながら、誤魔化すにはあまりに膨れ上がった期待を、胸の高鳴りと一緒に感じていた。
                    ***
「高須くんから聞いたよ。大河! なんでわざとそういうことするのさ!」
「あんたっていつもそうよね。いらねえ入れ知恵ばっかしてくれやがって!」
外からでもわかるぐらいの喧騒だったので取り立てて驚かなかったけど、早朝の教室はなにやら物々しい雰囲気に包まれていた。
ただでさえ遅刻していたのだが、自然に収束するのならそれに越したことはないと三分ほど戸の前で粘ってみる。
でも、事態が穏やかに解決を迎えそうな気配はいつになってもしてない。いつまでもこうしているわけにもいかない。
恐る恐る入ると、川嶋さんと、珍しく櫛枝さんが逢坂さんに食って掛かっている。
両人とも手には色違いのラッピングをした包みを握り締めていて、それを逢坂さんへ突き出すようにして見せていた。
とてもマネできそうにはない図太い神経で真っ向からしれっと受け流す逢坂さんは、けれど強気な態度とは裏腹に旗色はかなり悪そう。
がなり立てる二人の目に触れぬようしきりに高須くんへと目配せしている。
間の悪いことにそういう瞬間に限って彼の注意がよそへ向いてしまっていて、逢坂さんは集中砲火を免れられないでいた。
聞いている方が気を揉むような辛辣な言葉の銃弾を雨霰とばかり、絶え間なく浴びせられている。
それでも、櫛枝さんと川嶋さんの肩を持つわけじゃないが、おそらく自業自得だと思われるのでさほどいじらしくも思えないことの方がむしろ不憫だった。
「なんの騒ぎ?」
彼女たちを取り囲む野次馬の中から北村くんを手招きして呼び寄せた。
事情を尋ねると、彼も不可解そうな顔をしてみせる。
「マシュマロがどうとかで。俺にはさっぱりです」
「そう」
やる気の感じられないぞんざいな相槌に、メガネの奥の眉が八の字になる。
「とめないんですか」
「ええ。そうしたいんだけど」
私は困り顔を作ってみせ、チラリと目線で向こうを指す。
逢坂さんたちによる喧々諤々の諍いは加熱の一途を辿るのみだった。
今に掴み合いにまで発展しそうな勢いで、そんな火花散る様子にこちらだって気が気じゃない。
かといって、女三人寄れば姦しいを地でいく彼女らの暴力的ガールズトークに身を投じるのは自殺行為に等しい。
「北村くんならなんとかできないかしら?」
「ハハハ。俺じゃ力及びませんでしたよ」
歪んだフレームにヒビの入ったレンズ、赤く腫らした頬。
既になんとかしようとしてくれていたらしき北村くんなりの努力が、痛々しいくらい伝わってきた。
私たちは揃って頷きあい、とりあえず様子見をしようという、消極的で安全な案を採択した。
それにしても、マシュマロねえ。
そのひと言で全容が見えてくるのだから、櫛枝さんにしろ川嶋さんにしろ意外と純情なところがあるというか、初心というか、単純というか。
ホワイトデーのお返しがマシュマロだったら、その意味は、ごめんなさい。
誰が言い出したのか、そんな他愛もない噂話があったのを思い出した。
そして、彼女たちの手に収まっている色違いの包みの中身がそれだったのだろう。


義理か本命かはさて置いて、二人とも、高須くんにチョコを渡したようだ。
バレンタイン当日においてはそこまで機嫌が悪かった覚えはないので、逢坂さんの与り知らないところでのことなんでしょう。
それがどこかで発覚して、だからこれはきっと、逢坂さんからの意趣返し。
北村くんだって知らなかったし、高須くんも、マシュマロが持つ意味なんて知らなかったんじゃないかしら。
そうじゃなかったとしても、逢坂さんが口八丁手八丁で丸め込んだに違いない。
真実を知らない高須くんは至って真面目に、バレンタインのお返しとしてそのマシュマロを贈ったのだろうけど、櫛枝さんと川嶋さんからしたら内心ショックだったでしょうね。
たとえ出所不明な眉唾もので、他愛のない噂話だとしても、ごめんなさいと、拒否をされてしまったら。
そんな時に裏で暗躍して、ほくそ笑む誰かの存在があったことを知った日には、その分怒るのも無理のない話しだと思う。
逢坂さんも、こうなるかもって、少しでも考えなかったのだろうか。
同じことを考えついたとして、私ならまずやらない。万が一を思うと、できない。
それをさせてしまうあたり、逢坂さんの人並み外れた独占欲の強さがひしひしと伝わってくる。
後先も周りのことも、他のことなんてなんにも気にさせなくするのだから、恋は盲目とは言い得て妙ね。
巻き込まれた他の生徒たちはたまったものじゃないだろうけど。
「ところで」
咳払いを一つ。そう切り出した北村くんはまじまじとこちらを見ている。
「なんだか、疲れてません?」
厚ぼったい瞼に充血した目、さらにはクマまで。
これでも隠してきたつもりだったけど、やっぱり目立ってしまっていたらしい。
今さら言っててもしょうがない。
一睡もできなかったなんて、まさかそんなこともその理由も言えるはずがない。
北村くんからの指摘に、おどけた感じで小さなため息。
「認めたくないけれど私も歳なのかしら。ここのところだるいし、すぐ疲れるし」
「ああ、更年期障害なんじゃないですかそれ。いやあ実はうちの親もなんですよ」
あなたのお母様と私の年齢はかなり離れていたはずだけど、それでも更年期障害を疑うというの?
というか、こういうときはさり気なくフォローを入れるのが常識であり優しさだということをまだ知らないのだろうか。
さり気なく、それでいて無神経な言葉が心臓に深々と突き刺さる。悪意からじゃなく、気遣いから言っているだけに殊更にたちが悪い。
今度こそ心からの、やり場のない負の感情が目一杯篭った大きなため息が口をついて出た。
ぼんやり目を向けた先では、一向に止まない言い争いが繰り広げられている。
私は半ば愚痴のようにこぼした。
「逢坂さんたちみたいな若くて元気な娘たちはいいわよね、疲れ知らずで。羨ましいわ、ほんと」
「あれはあれで大変そうですけどね。誰がとは言いませんけど」
と、北村くんは北村くんで、逢坂さんたちとはまた別の方向に目を向けている。
直接そちらを見たわけではないが、なんとなく察しはついていた。
「北村くんにはいろいろ話すのね、高須くん」
「そういうわけじゃないですよ。それに、まあ、俺の口からはなんとも」
歯切れが悪いのはしまったと思っているのかしら。
あまりお喋りが過ぎるとどこかで口が滑ってしまうかもしれないと判断したらしく、北村くんはそこで切り上げた。
元より根掘り葉掘り聞く気もなかったし、ちょうど予鈴も鳴ったので、私も頭を切り替える。
この際出席は適当に付けておいてかまわないだろう。
ざっと見回したところ欠席している生徒はいないようだし、元凶の彼女たちはどうせ私の存在に気がついてすらいないようだし、火の粉を自分から被りに行くこともないし。
それにさっさと終わらせないと私も他クラスでの一限目の授業に遅れてしまう。
出席簿を広げ、無造作に上から順にチェックを入れていく。
と、スラスラと走っていたペン先がある生徒の名前を前にしてぱたりと止まった。
登校しているのはもう確認済み。


でも、氏名欄に滑らせていた目は、意思とは無関係にその人物を捉えていて。
「──っ、感じる、感じるわ。遠くからこっち見てほくそ笑んでるのは誰よ!?」
それはあなたのことでしょうと心の中で呟く暇もなく、瞬時にあらぬ方へと体ごと逸らした。
ほんの一瞬のことだっていうのに、冴え渡る逢坂さんの第六感は過敏とも言える速さで反応し、高須くんを背後に庇うように躍り出た。
もはや書き殴るようにして出席簿を付け終えた私はそれで顔を隠し、野次馬に紛れ身を屈めながら教室を出ようとする。
易々とそれを見逃す逢坂さんではなかった。
「そこおっ! なんか怪しい。よくわかんないけど、なんかすごく怪しい気がする」
「ひっ」
静かに怒気を撒き散らし、どんどん近づく逢坂さんに腰が抜けそうになる。
出口はもう目と鼻の先まで迫っていた。意を決し、目を閉じた私は振り返ることなく一目散に駆け出した。
その甲斐あってかなんとか捕まるより早く廊下へ飛び出すことに成功する。
悲鳴を上げなかった自分を褒めてあげたい。よくやった私。ぐっじょぶよ、ぐっじょぶ。
「ちょっと待ちなさ……」
最近どこかで聞いたような、そんな既視感を覚える台詞が発せられる。
言い切る前に逢坂さんのその言葉が尻すぼんでいき、最後には途切れた。
「待つのは大河だよ。どこ行こうってのかなー? まだ話、ぜんぜん終わってないよ?
 ああ、それともここじゃなくて場所変えようっていうの? だめだよそんなの。高須くんの目がないと大河、なにするかわかんないもん」
「わけのわかんないこと言って、まさかバッくれようってんじゃないでしょうね? 亜美ちゃんそういうの好きじゃないなあ。
 つーか今日という今日は絶対逃がさないってか許さないから。覚悟しときなさいよ、このど外道」
代わりに聞こえてきたのは明るい声色なのに底冷えするような印象を受ける櫛枝さんと、ガラの悪そうな調子で語りかけている川嶋さんの声。
彼女たちは問い詰めている最中の逢坂さんが教室から出ようとしたのを逃げ出そうとしたのだと勘違いしたみたいだった。
実際には逢坂さんは追う側だったのだけど、そんなの二人にとってはどっちだって関係ない。
廊下に一歩足を踏み入れたところで逢坂さんは後ろから伸びてきた四本の腕に絡め取られ、それ以上進めなくなった。
そのまま櫛枝さんに雁字搦めにされると、抵抗むなしく引き戻されていく。
「ち、違うよみのりん、そうじゃないの。これにはちゃんと理由があるの。後でちゃんと話すから、だからとにかく離して、ね?」
どうにか抜け出そうともがく逢坂さんだが、櫛枝さんは貸す耳を持っていない。
足が付かないように持ち上げ、締め上げる強さを一層増して、懇願する逢坂さんの行く手を阻む。
「うん。それより、他にもっと言うべきこと、ないなんて言わないよね、大河。ないなんて言わせないからね」
鼻先まで近づく櫛枝さんの迫力に、根負けした逢坂さんがそっぽを向く。
「えっと……な、なんのこと、だろ。あにょ……ば、ばかちーも邪魔しないで。今あんたにかまってられないのよ」
早々と下手に出るのはやめたようだ。
どんなに小さなものでも構わないから、何がしか注意を逸らせて突破口を作ろうと矛先を川嶋さんへと定めなおす。
「ハッ。邪魔とかさあ、どの口が言ってるのかなあ。この口? 亜美ちゃんわっかんなぁい」
満面ににこやかな冷笑を貼り付けた川嶋さんは鈴を転がすような可愛らしい声で楽しげに逢坂さんの顔に手を伸ばし、その口に無遠慮に指を突っ込んで左右に引っ張り出した。
「ひゃ、ひゃみふんのひょお、ひゃめなひゃいよ、ひゃめふぇ〜。ふえぇぇ〜」
これには逢坂さんもたまったもんじゃない。
がま口よろしく横いっぱいに開いた口をもがもが動かして、けれど川嶋さんの指はがっちり食い込んでしまっていて外れない。
口といわずほっぺたといわず、もう逢坂さんは顔中真っ赤になっていた。
それでも取り押さえる二人の気はいくらも晴れていないようだ。
「なに言ってんのさ大河。やめてって、まだ始まってもないよ」
「泣き入れるには早えんだよ。亜美ちゃんの心の傷はこんなもんじゃないんだからね」
ピシャっと強かな音を立てて戸が閉じられた。


抉じ開けられでもしない限り、しばらくあの戸が開くことはないだろう。あれじゃあ一限目は授業にならないわね。
曲がり角に隠れて様子を見ていた私は悲鳴とも怒号ともつかない金切り声の応酬を遠くに聞きながら、とりあえずは安全だろうと踊り場を抜け、階段を下りる。
テンション高めで天然の気があるとはいっても普段あんなに温厚な櫛枝さんと、なによりも体裁や他人の目を気にする川嶋さんがああも臆面もなく仕返しをするなんて、いったい逢坂さんは何と言って高須くんを丸め込んだんだろう。
知りたいような、知ったら知ったで後悔しそうな、そんな気がした。
一先ずは胸を撫で下ろせたけど、きっと逆恨みしてるんでしょうね、逢坂さん。
そう思うにつけ体が鉛のように重たくなった。
今日一日は、できるだけ顔を合わせない方がいい。
さっきのはたまたまだ。運が良かっただけ。
櫛枝さんたちによる女の友情番外地でさらにボルテージを上げていることだろう逢坂さんの前に出て、二度も逃げ延びられる自信なんて私にはなかった。
下校前、HLでは否が応でも教室に出向かなければならないが幸いにも2-Cでは今日、英語の授業を行う予定はない。
「あっ」
小さく声にすると行く足が止まり、その場に立ち尽くした。
授業をしない。
それはつまり逢坂さんと遭遇する確率がぐっと下がることと同時に、高須くんと会う機会もなくなってしまう。
二人は同じ教室にいるのだからそんなの当たり前のことで、そうでもなくったって逢坂さんは四六時中高須くんと一緒にいるというのに、なのに完全に失念していた。
幸いだと思っていた時間割が即座に恨めしくなった。
これといった理由もなく、必要もないのに教室に行ってもそんなのどうしたって不自然だし、無駄に逢坂さんの反感を買いにいくだけだ。
さっきの二の舞になるのは想像に難くなくって、それは避けたい。
そうなるとやっぱり逢坂さんと鉢合わせないようにするのが無難だ。
校内とはいえ無用心にうろつかなければそうそう出くわす事態になんてならないはず。
職員室に引き篭もるのもこの際、一つの手段かもしれない。
無闇に逢坂さんと相対するよりかはずっといい。
安全第一で保守的な、そんな考えが泡のように無数に浮かぶ。目まぐるしく脳裏を駆け巡る。
それは悪くないはずなのに、なんだかすごく残念な気持ちになった。
目に焼きついて離れない、あの、手の平に収めるには少しだけ大きな包み。
中身が何であれ、羨ましいことに変わりはなかった。
貰えたら、それだけで、もう。
あったかもしれないその可能性も、今は無いに等しい。
高須くんの前に聳え立つ逢坂さんという壁はあまりにも分厚く高く、超えるにはひどく困難で。
よしんばそれをどうにかできたとして、その後。
自分から貰いに行ったりするのも催促するのも、厚かましくて、虚しくて。
人気のないまだ肌寒さが残る廊下。吹き抜けるように、予鈴が静かに響き渡る。
階上では今もって、聞きなれた生徒たちの喚き声が四方八方に反響していた。
それらを遠くに聞きながら、萎む期待を持て余しながら。
重くなった足取りで、遅刻確定を承知で私は一限目の教室へと向かっていった。
あんまりにも地に足がついていなくって、階段を一段踏み外してしまったのを誰かに見られずに済んだことだけは、まあ、良かったと言える。
午前中の授業は案の定、終始上の空だった。
文法の間違いを指摘されてから気づいたり、それとは逆に、最後まで単語の綴りがおかしかったことに気づかなかったり。
期末考査を終え、春季休校を目前に控えた生徒たちは気楽なもので、暢気に茶化してくれたりもしたけれど。
暗澹とした顔をいつまでも晒すのも、からかわれて赤くなった顔を見られるのも居た堪れなくって、昼休みを告げるチャイムと同時にそそくさ退室する。
身の入らなかった今日の授業の挽回は、誠に勝手だけど、次回に持ち越させてもらおう。
それにこの後控えている授業では、同じ徹を踏まないように気を引き締めなおさないと。
やる気を立て直そうと意気込む私の足が、職員室へと続く廊下の途中で徐々に重くなっっていった。
立て直そうとした矢先のやる気がみるみる外へと抜けていく。


のろのろとまどろっこしい動きで出席簿に挟んでいたプリントを一枚開く。
紙面に目を滑らせると、せっかく引っ張ってきた意気込みが、怒って帰っていってしまった。
今日、これから控えている授業はもうない。
この一年の総決算ともいえる期末考査はとうに終了しているし、なにより肝心の生徒もいない。
時間割のプリントをため息と共にしまい、先日、卒業式を執り行ったことを思い出した。
まだ記憶に新しいそれらの出来事は鮮明に思い浮かべることができて、時間を置いたからか、また違った感慨深さもある。
感慨深すぎて、少なからず胸が痛んだ。
窓から覗く校庭には桜の樹が立ち並んでいて、今か今かと開花を待つ蕾がちらほら散見している。
来年の今頃、ここから眺める景色はどうしてだか、くすんだような、褪せたような、そんなものになってしまいそうで、私を一層萎えさせる。
「……まだやってたの」
ぼんやり唱えた言葉には驚きと呆れが半々だった。
視界の端で、小柄な影が学食目がけまっしぐらに駆け抜けていく。
血相を変えて走っているのは逢坂さん。
ちょくちょく振り返っては後ろを気にするその顔はうんざりだといわんばかりの渋面になっており、しかも今朝から比べていくらかやつれたような印象を受ける。
原因はまず間違いなく櫛枝さんと川嶋さんによるものだろう。
その証拠に、瞬きもしない間に二人は逢坂さんを追いかけて校舎から飛び出してきた。
絶対に逃がさないとでも言う風に、櫛枝さんは逢坂さんの背中に肉薄し、両手を伸ばしては何度も捕まえかけるのに、寸でのところで掻い潜られている。
体力とスピードでは劣るもののしたたかな川嶋さんは大きく回りこみつつ、注意が逸れたのを見計らい、果敢に逢坂さんに襲いかかっていた。
ふわふわたなびく逢坂さんの後ろ髪が鷲掴みにされた。
王手をかけた川嶋さんの薄ら笑いに皹が入る。すぐさま彼女は後ずさって距離をとった。
せっかく捕まえかけた逢坂さんの手には、どこから取り出したのか、物騒なことに木刀なんてものが握り締められていた。
低身長かつ省スペースなあの体のどこにあんなものを隠してたのかしら。
形勢逆転、意表を突かれた川嶋さんが大きくたじろいだ。
ぶんぶん力任せに木刀を振り回して威嚇している逢坂さんに次第に余裕が浮かんでくる。
今度はそんな逢坂さんが意表を突かれることになった。
川嶋さんにばかり気を取られて、背後からにじり寄る櫛枝さんに不意打ちをかけられ、手にしていた木刀を奪われてしまう。
獲ったどー、なんていうはしゃいだ声が聞こえてきそう。
櫛枝さんはその場で力強く振りかぶると、遠く人気のない校庭目がけてそれをおもいきり放り投げる。
くるくる回る木刀は一枚羽ねの風車のようにも映り、盛大な弧を描いた後に校庭の固い土にしっかりと突き刺さった。
圧倒的に卑怯で有利だった逢坂さんだったけど、これで振り出しに戻る。
これだけ離れていても歯噛みしているのが手に取るようにわかる憤慨ぶりには、それほど迫力は感じられない。
地団駄なんて踏んでいるせいもあって、余計にそうだ。
人によってはああいう仕草を可愛らしいと思うかもしれないけれど、生憎と櫛枝さんにも川嶋さんにも効果は期待できそうにない。
拮抗状態を保ちつつ着々と包囲網を狭めていく、そんな不気味な二人に成す術がない。
あわや袋叩きという直前、逢坂さんが上着の胸元をまさぐり始める。
木刀といい、本当、よくやるわね。
先ほど手品のように忽然と出してみせたそれよりはずっと現実的なサイズの、ラッピングがなされた小さな包み。
中身なんて考えるまでもない、十中八九あの三人が今ああしている原因が納められているはず。
おおかた余ったものを貰ったとか、なんだかんだ自分も欲しくなったとか、そんなところだろうか。
櫛枝さんたちにはかなり煽りを入れていたようだっただけに、その手の返しようはどうなのよ。
さすがにちょっとズルい。
それにしても、あの子は大事なものは肌身離さず持ち歩く癖でもあるのかしら?
そんな神経質なタイプには到底思えなかったけど、大事なものの中に大事な人も含めているのではと思うと納得できないこともなかった。


逢坂さんはとても未練がましそうにその包みを抱きしめると、それを高々と掲げる。
櫛枝さんと川嶋さんの挙動がぎこちなくなって、なにやらわたわたとしだす。
なんなの、いったい。
私の方からはあちらが丸見えだが、何を話しているのかまでは聞きとりきれない。
興味本位も手伝い、それまで閉じられていた窓を全開にする。
開け放した窓からは澄んだ空気が入ってきて、暖房に当たりすぎた体には心地よかった。
「お、落ち着いて話し合おうよ、大河、ね? ほら、あーみんも」
「ぐ……あ、亜美ちゃんもね、さっき髪引っ張ったの、あれ謝るわよ」
「私もちょっちしつこすぎたよ。ごめん」
「あ、あと、弾みでよ? あくまで弾みでだけどガチでビンタしたのも、まあ、悪かったわね」
「うんうん、あーみんなおっとなだな〜。大河もここは落ち着いた大人レデーになったつもりでさ、ね? ね? だから」
「あんたが高須くんに変な入れ知恵したのも、亜美ちゃんにマジ蹴り入れてきたのも今日のとこは特別に水に流してあげるから。
 ここは一先ずお互い様ってことで」
「もうっ、うるっさあい!」
やかましく鼓膜を叩く怒鳴り声が爽快さなんて打ち消してしまったけど。
固唾を呑んで見守っていると、あれはどうやら、何かをやめるように説得しているみたいで、だけど逢坂さんは頑として聞き入れない構えのよう。
おもむろに深く息を吸い込み、そうして、お腹から搾り出すように絶叫。
「ああーっ! あんなとこに竜児の手作りマシュマロがー!」
わざとらしいことこの上ない棒読みだった。
それも今の今、そのマシュマロの入った包みを放り投げようとしているのは、他ならぬ逢坂さん。
あの包みを囮にして逃げる時間を稼ごうという腹づもりは、誰がどう見ても明白だった。
そんなこと百も承知で、それでも反応せずにいられない人たちが。
「ええっ!? どこどこ!? どこいった!?」
「なんてことすんのよてめえ!?」
あんな幼稚な手によくまああれだけ真剣に引っかかってあげられるものだと、逆に感心してしまう。
流れ星でも降ろうものなら一秒間に十回は願い事を唱えられそうな勢いで、二人は血眼になって宙を見つめている。
北村くんから聞いた限りでは既にそれぞれ貰っているはずなのに、にも関わらずこの調子。
マシュマロ、恐るべしだわ。
いえ、真に恐いのは手作りという言葉の魅力かもしれない。
かくいう私だって、正直その魅力に目が眩みそう。
それはそうと、櫛枝さんも川嶋さんも、自分たちが見当違いの方向へ目を配らせていることにまだ気づかないのだろうか。
いくら待っても投げられた包みが彼女たちの頭上に降ってくることはない。
何故なら、こんな場面で逢坂さんは包みを手放す瞬間に足を滑らせてしまい、大暴投をしてしまっていた。
つるんと踏み込んだ足が滑り、体制を崩した拍子にくるりと反転。
逢坂さんが倒れるのと時を同じくして、手にしていた包みが空へ飛び立つ。
見た目どおりに軽そうなそれは、むしろ軽すぎたためかけっこうな高さまで上がっていく。
二階の廊下、その窓辺から見ていた私の目線よりも高かったのだから相当なもの。
しかも気のせいか、風に乗ってこちらの方へと落ち始めているような。
思わず窓から身を乗り出して手を伸ばす。
ないない、そんな上手くいくわけない。話ができすぎている。
そうは思いつつ構えていること数秒。
ぽすっと見た目どおりの軽い音を立てて、面白いぐらい簡単に、その包みは私の手の平に落っこちた。
かつてこんなに都合の良かったことが私の人生にあっただろうか。
ないわよ。え、ないわよ?
断言できてしまう自分にへこみそうだけど、そんなことよりもこれ、勝手に貰っちゃってもいいのかしら。
どうしよう。
「あっ!? ひょっとして大河、捨てたふりしてまだ持ってんじゃ!?」
起きたことがにわかには信じられないでいる私が硬直している一方で、櫛枝さんがしまったというように振り返った。
「はあぁ!? ちっくしょ、亜美ちゃんをハメるなんてあんにゃろういい度胸してんじゃ……なにしてんの」
はっとし、つられて振り返った川嶋さんの鬼のような顔が見る間に怪訝そうになる。


その視線はずっと下、俯けになり大の字になって地面で寝ている逢坂さんに注がれている。
声をかけられた逢坂さんが力なさ気によろよろ起き上がった。
「うう〜……つちたべちゃった……」
制服に付いた埃を払い落としながら、ぺっぺと口に混じった砂利を吐き出す逢坂さん。
顔も袖でぐしぐし拭って、そこで不思議そうに両手を眺める。
握って開いて数回繰り返してから、彼女は仰け反りそうな勢いで天を仰いだ。
「なあぁぁぁああああぁぁああぁあい!?」
校外にまで響き渡るような、今日一番の大絶叫。
耳を塞ぐひまもなく、間近で耳にした櫛枝さんと川嶋さんがしかめっ面になる。
離れていた私でさえも軽く耳鳴りがしているくらいだから、二人なんて相当なものに違いない。
そんな櫛枝さんたちに、逢坂さんが押し倒さんばかりに食いついた。
「どこ!」
いろいろと簡潔すぎるけどそこはそれ、言いたいことはきちんと伝わったようだ。
呻り声までもらす逢坂さんに、しかし別段怯むでもなしに、二人がジト目を返す。
「そんなの私が聞きたいよ。大河が持ってたんじゃん、でしょ?」
「仮に知ってたとしても、あたしがあんたに教えてやるとでも?」
もっともな指摘を冷ややかに言い放たれ、早くも逢坂さんの気勢が削がれる。
今朝発覚した逢坂さんの暗躍に端を発して生まれた確執。
加えてひたすら続いた追いかけっこ。
彼女たちもそれなりに我慢の限界にきているのだろう、その上言いがかりまでつけられようものならどうなるか。
それがわからないわけじゃあないみたいで、そうなると強い態度を維持することも難しい。
逢坂さんはぐぅの音も出なくなってしまったらしく、口を噤んでしまう。
「さあてっと。そんじゃ大河、もう鬼ごっこはお終いにしよっか」
「ふぇ? ……はうっ!?」
いやに良い笑顔をした櫛枝さんが口調だけは穏やかに話しかける。
呆けたような声を出した逢坂さんが、それが終了を意味するのではなく、お仕置きの執行を意味することを悟ると目を見開く。
下手に出る理由がなくなったのだからそうなるのも必然だ。
「み、みのりん、待っ、きゃあっ」
一歩後ずさる逢坂さんが背後にいた誰かとぶつかった。
振り返る間もなしに脇の下から腕を差し込まれ、そのまま胴を抱きしめられる。
傍からは仲の良い友達同士のスキンシップに見えるかもしれないけど、顔色を悪くさせる逢坂さんからはとてもそういう風には感じられない。
「さっき今日のことは水に流してあげるって言ったわね。あれは嘘よ」
「な、ななななによ、ばかちーの方からお互い様だって言ったんじゃない! 言ったのに! 嘘つき!」
何か言い繕う隙を与えさせないよう、川嶋さんが間髪入れずに言う。
目に見えて逢坂さんの狼狽ぶりが濃くなった。
抜け出そうともがくものの川嶋さんに上半身を、そして櫛枝さんに下半身を持たれてしまって、正しく手も足も出ない状態に。
ほとんど丸太かなにかのような扱いだ。
「や、やだ、降ろしてっ! やだってば! あ、だめ、待って待ってほんとに待って、み……見えちゃってるからあ……ぐす……」
スカートが捲りあがって下着が露わになってしまっても自分で直すこともできない逢坂さんはもはや半泣きだった。
幸いにも他に人の気配はしないけれど、そんな問題じゃない。
なんとも恥ずかしい格好にされ必死に訴える逢坂さんを無視して、櫛枝さんと川嶋さんが行き先について検討し始めているようだ。
人気のない場所に連れて行かれたらそれこそ何をされるんだかわかったものではない。
なりもふりも構わず、逢坂さんが手当たり次第に体をくねらせる。
それに合わせて頭も右に左に忙しなく揺れまくる。
と、そうかと思えば、逢坂さんが突然ピタリと動きをとめた。
偶然見つけてしまった人影──私に視線を固定したまま……。
いきなり大人しくなった逢坂さんを訝しんでいた櫛枝さんと川嶋さん。
彼女たちが何かあったのかと尋ねる前に、「あれ」と逢坂さんが抑揚のない声で促す。
揃ってこちらに首を巡らせた彼女らは、滅多にお目にかかれないような無表情を貼り付けていた。


「ほほーう」と何故だか頷きつつの櫛枝さん。
「ふうん」とこれまた何かを含ませている川嶋さん。
担がれていたままの逢坂さんのと合わせて三人分の視線が痛いぐらいに突き刺さる。
正確には私と、間抜けなポーズで持ったままでいた包みを、それはもう穴でも空けそうなほど凝視している。
唇がすっかり乾ききっている。冷たい汗がとまらない。とうとう膝が笑いだした。
何か、なんでもいいから何か言って、加速の一途を辿る彼女たちの誤解というか、いえまあ誤解じゃないんだろうけど、とにかく負の感情に歯止めをかけなければ。
逢坂さんたちを宥められるような上手いことを、早く、早く、早く。
「あ、あの、違うのよ。これは落し物というか、棚ぼたというか、その……ごめんなさい」
蚊が鳴いたようなか細い声が届いたとは考えづらい。
でも、言い終えると、妖しく目を光らせた逢坂さんは櫛枝さんたちの拘束を力尽くで振りほどき、どこかへと走り去ってしまった。
櫛枝さんと川嶋さんもその後を追う。
どこかであるところ、つまりここまで来るのに、あれならものの一分もかからない。
まったく、なんて一日なんだろう。
都合よく手の平に降ってきた小さな幸運をため息と共にその場に置いていき、鉢合わせないことを切に、切に願いつつ、私は職員室へと早足で歩き出した。
「いたっ! ちょっと待ちなさあいっ!」
願いも虚しく、全速力で疾走してくる逢坂さんにあっさり発見され、昼休み中追いかけられる目になったのは言うまでもない。
そうして結局、学校にいる間、私が高須くんから何かを貰うということはなかった。
……ほんとう、なんて一日。
                    ***
放課後になる頃には日も沈みかけ、辺りはすっかり暗がりを濃くしていた。
大盛況とはいかずとも、そこそこ賑わいをみせる商店街には、まだ制服のままの生徒がちらほら。
そんな中、向こうから声をかけられれば遅くならない内に帰るように一言添えたりしながら、私は商店街を歩いていた。
別段当てがあるわけでもないのに。
用がないのならまっすぐ帰ればいいものを、自然と足が向いていたのだ。
いつからか日課と呼べるものになっていたそれが、今日に限っては、少し憎かった。
終業式もそう遠くないこの時期。
片付けておきたい仕事もないことはなかったし、職員会議だってあったのだけど、どうにも押し寄せる疲労感に体が持ちそうになかった。
思い返してみるとただでさえ寝不足が続いていたのに、昨夜にいたってはほとんど寝てない上、食事すら満足に摂っていない。
そういった状態でありながら、昼間のあれで底に尽きかけた体力を使い切ってしまったのが原因だろう。
眠気と空腹に加えて疲労感が留まるところを知らない。体調なんてもう最悪。正直、いま鏡の前には立ちたくない。
気分がすぐれないという理由ですんなり会議を欠席できたのは、そういったような、生気が抜けきった顔をしていたからだろう。
だから、そのことが、その時だけはありがたかった。
あくまでもその時だけは。
「こ、こんばんは……高須くん」
会釈を交えつつ反対側から歩いてくるのは、よりにもよって高須くんだった。
声をかけると私の前で歩みをとめる。
「こんばんは。買い物ですか、先生も」
「え? え、ええ、そう。お夕飯、どうしようかなあって。高須くんも?」
「はい」
トートバッグを提げ、制服から私服に着替えている。
いつものように買い物の最中だというのは一目でわかった。
ただ、いつもと違うところもある。
「……ところで、逢坂さんは一緒じゃないの?」
珍しいことに隣に逢坂さんはおらず、高須くん一人で買い物をしている。
しかし物陰からいきなり飛び出してこないとも言い切れないので、私は内心穏やかではいられない。
なにせ昼間の追いかけっこでは、幸か不幸か逢坂さんからギリギリで逃げ切ってしまったのだ。


そうでなくても櫛枝さんや川嶋さんと相当ギスギスしていた逢坂さんだ。
捌け口を失ったフラストレーションが全て私に向けられていることだろうから、できることなら、ほとぼりが冷めるまでは可能な限り彼女の目につきたくはなかった。
「大河なら、用事があるとかで櫛枝たちとどっか行きましたけど」
「そ、そう。そうなの」
よかった。少なくともこの場で顔合わせになることはなさそう。
ほっと一安心するのも束の間、私は挙動不審にきょろきょろ泳がせていた目を、頭ごと下向きにさせた。
なんだってこんな、見られたくないような顔してるときに。
「先生? どうかしたんですか」
「な、なんでもないのよ。なんでもないから、どうか気にしないで」
「いや、でも」
怪訝に思われるのも無理はない。
それを差し引いてもこんな有様を、こんな間近でなんて。
第一、面と向かっているとどうしても意識してしまいそうになって、そんな姿、なおさら見られたくない。
今日のこととか、逢坂さんたちが揉めていた原因であるあれのこととか、要らないことを聞いて惨めな思いをするのも御免だった。
でも他になにを話していいかわからないから、何かボロを出してしまわぬよう、このまま俯いてやり過ごそう。
高須くんだってよっぽど暇でなければ、押し黙る私に付き合って、いつまでも油を売ったりなんていうことはしないはず。
だからあとは、せいぜい二言三言交わして、当たり障りのない挨拶をして、お終い。
それで、今日が終わる。
ぐううぅぅぅ〜。
そう思っていた矢先、「ぐううぅぅぅ〜」といったようなそれはそれは大きな音が鳴る。
地響きのようなその音は雑踏が犇く往来であっても掻き消されることなくはっきりと聞こえた。
大急ぎで両手でお腹を押さえつけるも時すでに遅く、一拍置いてから、くぅ……と微かに鳴いたのを最後に、お腹の虫が静かになる。
「あ、う……」
今度という今度こそ、ほとほと自分の間の悪さに嫌気が差した。
最高に最悪で最低。
首まで赤く染まっている私は言い訳もろくにできないほど混乱して、ただただ恥ずかしいやらみっともないやら、そんなことばかりでまともに思考が働かない。
なんにも考えられないから、後悔の度合いが増していっても、どうする手立ても思い浮かばない。
道草なんてくわずにさっさと帰ってればこんなことにならなかったのに。
いいえ、それよりも、いい歳にもなってやれホワイトデーだなんだって、そんなのに浮かれていたのがそもそもの間違いだったのよ。
変に期待して、その末路がこれだ。
ばかみたい。
「え……?」
過ぎたことを嘆いて自己嫌悪しての私の手を誰かがとった。
軽く面食らっている私をよそに、なんの説明もなしに勝手に商店街の出口方面へと進み始めた。
疎らになりがちな歩調もなんのその、力強い歩みに引っ張られ、私の足も動きをとめることはない。
おずおず視線だけを上げてみれば、手を引いているのは高須くんで、その背中が見える。
想定外のこともここまでくると不意打ちだ。
何故こんなことになっているの? 高須くんの意図はなに? どうして私はされるがままで、この手を振りほどこうとしないんだろう?
疑問の種は尽きることなく芽を出していく。
高須くんは尋ねればちゃんと答えてくれるかもしれないけど、口を開くと繋いだ手がほどけそうで、そうするのが憚られた。
手を握られた程度でドキドキしてしまいそれどころじゃなかったのも、なきにしもあらずだった。
商店街を抜けてからしばらくして、あまり馴染みのない住宅地に入る。
さらにしばらく行き、奥まった路地を歩いた。
日も暮れきった頃合で、どこの家々からも明かりがもれ出ていて、街灯に手伝い道路を照らしている。
気温が下がり始めたようで、吐息がだんだんと白みを帯びている。
肌にかかる風が、漂う沈黙と同じくらいに冷たくなってきたところで、よどむことなく歩を進めていた高須くんがやっと立ち止まる。
重なっていた手がすっと離れていった。
しばし所在なさげにそこにあった手も、それまであった温もりが冷めていくのがもったいなく感じられて引っ込めた。


辿り着いたのは木造二階建ての古びたアパートだった。
隣接する大きくて真新しいマンションとの対比がすごくて、一瞬戸惑うほど。
どうやらここが自宅のようで、高須くんは階段を上ると玄関を開いてくれた。
あがれと受け取っていいんでしょうけど、でも突然お邪魔してもいいのかしら。
お家の方だっていらっしゃるだろうし。
と、玄関先で遠慮がちになり固まっている私に、高須くんが言う。
「こんなとこじゃ何なんで、どうぞ」
「は、はい。あの、じゃあ、お邪魔しますね」
こうしていても埒が明かないし、体は冷える一方だし、そろそろ失礼にもあたるだろう。
ちょっと緊張しつつ、私は高須くんの自宅へ足を踏み入れた。
促されるまま居間に通され、立ち尽くしているのもまた余計な気を遣わせてしまいそうなので適当に腰を落ち着ける。
いくらもせずに高須くんが盆に急須と湯飲みを乗せてやってきた。
対面に座ると、お茶を淹れた湯飲みを私の前に置いて、ぺこりとお辞儀。
「すいませんでした。大河が、なんか迷惑かけたみたいで」
昼休みでのことを、逢坂さんに代わって高須くんが謝る。
そりゃあ学校中を所狭しと走り回っていたのだし、知らないわけがないだろう。
でも、そのことで高須くんが頭を下げる必要はないのに。
やけに雰囲気が重々しいというか、真剣すぎるのも気になるところだ。
「いいのよ、もう。それに高須くんが気にやむことじゃ」
「そういうわけにもいかないですよ」
私の言葉を遮るようにきっぱり言って、高須くんは深いため息。
「あいつ、この一ヶ月くらい機嫌悪くて」
一ヶ月というと、バレンタインが過ぎてからずっとということになる。
確かに私も例えようのない圧力を逢坂さんから感じていたけど、高須くん相手にも当り散らしていたのだろうか。
さすがに私に対してのそれよりかは、まだヤキモチらしいものだったとは想像がつくけど。
「それも先生のこととなると特に荒れるんですよ」
昼休みでのあのしつこさは櫛枝さんたちとのこともさることながら、積もり積もったものからも来ていたみたいだ。
憂さが晴れるまで、逢坂さんの荒れ模様はまだまだ続きそう。
それを思うと恐々となる私に、精一杯眦を下げた高須くんが、申し訳なさそうに続ける。
「それでその、今日、先生が大河にちょっかいかけられてるって春田に聞いたんです」
「春田くんに?」
意外といえば意外な人物の名前が出てくる。
聞き返すと、高須くんが頷く。
「ええ。かなり参ってる様子だったから、なんかしてやった方が絶対良いとか、そんなことも言ってて」
「そう」
「で、まあ、だからっていうんじゃないですけど」
「うん」
目線は微妙に外し、少し言いづらそうにしながら、高須くんは小声で言う。
「晩飯、食ってきませんか?」
こんなことしかできなくてだの、逢坂さんのせいで昼もとれてないんじゃないのかだの、その逢坂さんも帰りが遅いらしいからせっかく買ってきた材料が余って困るだのと、ごにょごにょ後付していく。
突飛ではあるが現金な話、冗談じゃなく意識がたまに飛びかけるほど空きっ腹を抱えている私には願ったり叶ったりの申し出だった。
私はぽかんと口を開けたまま、内心では高須くんにこうまで言わしめた春田くんに舌を巻いていた。
昨日言っていた応援とは、ひょっとしてこのことなのだろうか?
さすがに考えすぎかしらね、それは。
まさか春田くんもこうなるなんて思ってなかったでしょうし、でも、もしこうなるようにと目論んでいたなら私は彼への評価を改める必要がある。
にしても、能天気でお調子者、しかも大雑把な春田くんだけに、誇張や脚色も相当だったのだろう。
何をどう煽りを交えながら言ったのか定かじゃないけれど、どうりで深刻な表情をしていたわけだわ。


いろいろと責任を感じているのだろう、それも勝手に、やりすぎた逢坂さんの肩代わりをしてあげるほど。
そんなことしなくったってあの逢坂さんに何かするなんてことあるわけないのに。
あんまりにも損な性格してる高須くんがいっそ笑えるぐらい可笑しくって、けど、きっと私の表情は柔らかいものではなかったと思う。
高須くんの唐突で強引な行動も、そのわけも、やっとわかったから。
私を自宅に招いたのも、食事をごちそうしてくれるというのも、なんてことない、全部逢坂さんのためにしてること。
ただそれだけ。
だってそうでしょう? 逢坂さんのことがなければ、そのことを知らなければ、高須くんがわざわざ私を自宅に連れてくるなんてこともなかった。
夕飯だって、逢坂さんのおかげで昼食を食べそびれた私が、無様にお腹を鳴らせたのを聞いたものだから、親切心とそれに同情も手伝って勧めてくれているに過ぎない。
だから、ただそれだけ。
それだけだというのに、肩透かしだって嫌ってほど慣れてるのに、なんだって私はこんなに落胆してんのだろう。
どうしてここまで、認めたくなんてないのに、嫉妬心が湧き上がってくるんだろう。
なにがそんなに、悲しいんだろう。
無性に虚しくって、いたたまれなくなってきた。
胸がつっかえて息苦しくてしょうがない。耳の奥でしてる轟々といったような音がとても騒々しい。お腹なんてもう引き攣りそうで、眩暈までしてくる始末だ。
もう、帰ろうかな。
そんなことを考え始めた矢先、
「それに今日ってホワイトデーじゃないですか。お返しさせてくださいよ、こないだの」
「お、おかえしって……私に……?」
ビックリして、私は俯いていた顔を上げた。
ホワイトデー、お返し。
ホワイトデー、お返し。
ホワイトデー、お返し。
高須くんの言葉を口の中で反芻してると、当の彼は困ったような面持ちになる。
「用意はちゃんとしてたんですよ。ただ、あれ、あんまり喜ばれるものでもなさそうだったっていうか。
 それに知らない間に失くなっちまってたんだよなあ、確かにカバンに入れといたのに」
探してもどこにも見当たらないし、家に忘れたわけでもなかったしと、変なことが起こったものだと疑問符を浮かべる高須くん。
けれど、何故だか私にはその用意されていたというものに、貰ってもないのに身に覚えがあったりした。
今朝から昼間にかけての出来事を思い出す。
喜ばれるものじゃなかったというのは、手作りしたマシュマロのことだと見て間違いないはず。
櫛枝さんと川嶋さんの受け取ったときの微妙なリアクションから、チョイスに失敗したのだと思ったのだろう。
そしてそうするように仕向けたのは、他の誰でもない逢坂さん。
高須くんからそのことを聞き出して怒涛のように怒りを燃やす二人に、自業自得とはいえ逢坂さんはしつこく追いかけ回されていた。
その彼女が持っていて、一度は私の手に廻ってきたもう一つの包み。
あれは、本来なら私に渡されるものだったのだ。
裏から手を回すだけじゃ飽き足らず、高須くんの目を盗んで渡しそびれていた包みまで取っていくだなんて、逢坂さんの暗躍ぶりといったら凄まじすぎて、それ以上に呆れてしまい物も言えない。
しかし呆れるといえば私も私だ。
知らなかったとはいえ、逢坂さんらの迫力に屈したとはいえ、なんて間抜けでもったいないことをしちゃっていたのよ私は。
せっかく手に入れたプレゼントを廊下なんて寒々しいところに放っぽりだして、あのまま貰っていても誰にも文句を言われる筋合いなんてなかったのに、あれじゃあ自分から捨てたも同じことじゃない。
しかも逢坂さんには休み時間中追い回されて、もう踏んだり蹴ったり、散々にもほどがある。
頭を抱えて気の済むまで掻き毟りたい衝動に駆られたが、高須くんのいる手前なんとか堪える。
恥の上塗りはもう充分重ねたけど、重ねないようにできるならそれに越したことはない。


「……けど、お返しなんてそんな……だって、あれは」
口止め料という形で贈ってもらったのだ、そういう類のものにお返しもなにもないだろう。
でも、私が言い切る前に、高須くんが被せて言う。
「貰いっぱなしも嫌なんですよ」
「で、でも、逢坂さんが……」
咄嗟に口をついて出たのはこの場にいない逢坂さんの名前だった。
うしろめたさからではなく、大概の例にもれず、私もずるい大人だから。
期待を滲ませた瞳は前髪で隠し、さり気なく上目遣いをする。
真正面からしっかりと私を見据え、高須くんは言い切った。
「大河は関係ないですよ。俺がそうしたいからそうするんです」
言葉以上の意味はないってわかってる。
言わせるように誘導じみたことをしている自覚もあった。
でも、言葉自体に意味がないわけじゃなくて、言ってくれるだけで、そんな僅かな虚無感も一つまみ分の罪悪感もどうでもよくなって、もう何もかもがだめになる。
逢坂さんのことは、少なくとも今だけは、関係ない。
高須くんがそうしてくれるのは、他の誰かじゃなくて、私のため。
それだけでもう、だめ。
「……ほんとうに、いいの?」
最後確認はゆっくりと慎重に、慎ましく。控えめなのも忘れずに。
逸る気持ちは押し留めて、早打つ鼓動を胸の上から撫で付けて、はしたない様を見せないようにしながら待つ。
「あのチョコ、うまかったですよ、すごく。ありがとうございました」
「うん」
「だから、そのお礼なんです。よかったら、受け取ってください」
背すじを伸ばして佇まいを正すと、私は高須くんにしっかりと向き直った。
「はい」
心もち柔和な表情になった高須くんが鷹揚に頷いた。
前言撤回ならぬ、前考撤回だ。
帰るなんてとんでもない。
ああ言ってしまった以上、ご馳走になるまでは梃子でも動かない所存で、高須くんのご厚意に全力で甘えさせてもらうことにしましょう。
それに逢坂さんにもやられっぱなしで、このまますごすご引き返せない。
……こんな機会、もう来年には来ないかもしれないもの。
「それじゃ、ちょっと待っててください。腕によりかけて、すぐ作ってくるんで」
普段よりもずっと機嫌の良さそうな空気を放つ高須くんが、台所へと入っていく。
エプロン姿も実に板についた様子で、所帯じみているというか家庭的というか、ともかくこれが高須くんの日常の生活といった感じがする。
これはこれで、最近の悩みの種である夢で見たような光景、けれど夢では到底出せない現実味に、幸福感が鰻登りの青天井だ。
が、ただ眺めているだけというのもちょっと肩身が狭い。
「高須くん、私もなにか──」
お手伝いしましょうか。
言いかけた言葉は声になることはなかった。
視界が電気を点けたり消したりしたように急激に明滅する。ぐにゃりと大きく像が歪む。
一瞬強烈な耳鳴りがしたかと思うや否や三半規管がまったく働くなってしまっていて、上と下の区別もつかなくなる。
意思の糸が切れた体が前のめりに倒れこんでいるのだと悟ったときには、もう浮遊感が終わりかけていた。
貧血だろうか、それとも過労か、はたまた寝不足か、あるいはそれら全部故か、立ち上がった拍子に立ち眩みを起こしてしまったみたい。
そのことがわかったのは、がだあんという近所迷惑な音が響き、自分が俯けに寝そべっているのを把握した後だった。
でも、どういうわけだか、思っていたような衝撃も、打ちつけたような鈍痛も一向に感じない。
胸の辺りに、蠢くような、くすぐったいような不自然な圧迫感があるだけだ。
ぎゅうっと瞑っていた瞼をおそるおそる開く。


「むぐ、ぐ、う、ぶはっ」
「あ、ん……はあぁ……」
胸の間から黒々とした髪の毛が跳ね出て、左右に揺れるその動きに合わせて、くすぐられるようなむず痒い感触も増減する。
時折苦しそうな、呻き声ともつかない荒く湿った呼吸に、知らずこちらも変な声が出てしまう。
視線を下へと移すと、床と私との間に何かが挟まりクッションの代わりになっている。
高須くんだ。
私が倒れきる寸前に受け止めようとしてくれていたみたいで、けど勢いのついてしまった私はそのまま高須くんを押し倒してしまったらしい。
ご丁寧に、彼の頭を離さないようガッチリかき抱いて、胸に埋めさせている。
と、胸に伝わる感触が一際強いものになる。
ずりずりと這い登ってくるような動きに、腰の奥が痺れを訴えわなないた。
「ふあ、ん……高須く、んぅ……くすぐったい」
ひょっこりと頭を出した高須くんが乱れた息をついている。
三白眼を殊更に鋭くさせて、これまで顔を覆っていたものがなんだったのかを、ぼんやりとしながら見つめている。
自分の置かれている状況を理解していくにつれ、その表情はかちこちに強張っていった。
かなり混乱しているみたい。
「えっと、怪我は……」
それでもまずはこちらに大事がないかを確認してくれる。
腰の奥に走る痺れが、だんだん疼きに変化していって、いつ腰砕けになってもおかしくない。
「あの、とりあえず離れませ、ん、うお……」
怪我らしい怪我はしていないようで、なのに不穏な沈黙を保ちつつじっと自分を見下ろす私に、動揺の色が見え隠れしている。
いろいろと不都合がでてくるこの体勢に、高須くんがたじろぐ。
このまま離れてしまうのが嫌で、さっきのそれよりももっとキツク抱きしめた。
肌に当たる熱くて湿り気を孕んだ吐息に、たった数センチ先で暴れている心臓が、痙攣したかのように一段と不規則に跳ね上がった。
「だいじょうぶ。だいじょうぶだったから──」
──だからもう少し、このままで。
そんなささやかな願いも、いくらもかからず無残に砕け散る。
「ぐっ、ひっぐ、ただいま……ねえ、聞いてよ竜児。あのね、みのりんとばかちーがね、二人して私のこと悪者みたいに言ってね、ひどいこといっぱ、い……」
鍵がかかっていたはずの玄関を開け、べそをかいた逢坂さんが入ってきた。
ボロボロになっているところから察するに、酷いことをされたというのは疑う余地はない。
反撃に打って出たかどうかは、逢坂さんと、それに櫛枝さんと川嶋さんのみが知るところだけど。
ぐしぐし袖で目元を擦るその小学生チックな動きも、台所で重なり合っている私と高須くんを見ると石像のように微動だにしなくなる。
まだ手にしていた合鍵が、カチャリと小さな音を立てて土間に落ちる。
「もぉ〜、さっきっからなぁにぃ? やっちゃんもちょっと寝たいのにぃ……はれぇ? だぁれ? 竜ちゃんになにしてるの?」
襖の向こうからしょぼしょぼとした顔を覗かせた女性は、間延びした子供っぽい口調とは不釣合いな、とてつもなく強烈な色気を振り撒いていた。
ジャージの胸元が下から盛り上がっているなんてよほどのことだ。
家庭事情はいくらか聞き及んでいたので、おそらくあの厭味のするほど艶っぽい方が、高須くんのお母様なのだろう。
だいぶお若いようだけど、いくつぐらいなのかしら。
年下ということはないでしょうが、それほど年齢に開きがあるとも思いづらい。
「インコちゃ〜ん、竜ちゃんが知らない女の人にてごめにされちゃう〜。そんなのやっちゃんやぁだぁ、ねえどうしよぉ」
「イ、イイッイ、イイ、イ、イイィーッ!」
「いくないよぉ、ぜんぜんいくないよぉ」


その高須くんのお母様が、ふらふらと居間の奥へと歩いていき、窓際にかかっていた置物からシートを取り払う。
置物は鳥かごで、中にはいたのは、あれはインコなのだろうか? そのまんまインコちゃんと呼ばれていたし。
不気味な、じゃない、ちょっと個性的な感じの容姿をしたインコちゃん相手に、高須くんのお母様はけっこう過激なことを交えつつ相談している。
けれども奇声を上げたインコちゃんの、言葉とも思えない言葉に、お母様はいたくご不満そうだ。
チラチラとこちら、私と、私が抱きしめている高須くんに目をやっては、どうしようどうしようと、忙しなく家中を動き回っている。
「……なにやってるのかしら」
背後から、石化から解けたらしき逢坂さんが、ぼそり。
泣き腫らした顔が別の理由でみるみる赤みを増してゆく。
手足が錆びついたようにぎこちない動きをしているのは、渾身の一撃を見舞うために溜めを作ってるからだろうか。
「あ、れ、だ、け、私がわからせてあげたっていうのに、それなのに、いったい、ひとん家でなにやってるのかしら」
みしみしと床板が悲鳴を上げて軋んでいる。
この場の誰よりも体重が軽いはずなのに、逢坂さんの立っている辺りが今にも陥没でもしそうな、耳障りな音を立てている。
「いま私、すんごく機嫌悪いの。そんでもってドアの前に立ってるわ。あんたたちに逃げ場はないし、絶対逃がさないわよ」
逢坂さんの言うとおり、外に繋がるほぼ唯一の出入り口は、彼女が背にしている。
ここは二階なのでその気になれば飛び降りれないこともないけど、きっとその直前、背中を見せた時点で待っているものは決まっている。
かといって、このままこうしていたところで事態が好転する兆しもない。ジリ貧だ。
どの道逢坂さんから無事に逃げられないなら、だったもう、やりたいようにしてみよう。
私にだって、意地はあるもの。
「さっ、竜児? まだ間に合うかもしれないわよ? ちゃあんと事情を話して、それからそこのをどっかその辺にぽいしてくれば、私だって鬼じゃないもん。
 だからまずは私のとこに来てよ来なさいって大丈夫もう怒ってないからほら来てってば早く来てって言ってるでしょねえちょっとなんで来てくれないの!
 そんなにぶっ飛ばされたいの!? ……そんなにそっちのがいいって言うの? 私より? そうなの? ねえ、竜児ぃ……」
「た、大河? おまえ何言って……せ、先生?」
無理やり立ち上がろうとした高須くんを、無理やり引き止めた。
何か言っているようだけど、胸に顔を挟み込ませると静かになる。
それを目の当たりにしていた逢坂さんは、髪の毛を逆立てそうなほど激怒した。
「あああもうっ、邪魔しないで! だいたい、いつまでそうしてんのよ! いい加減竜児から離れなさい! 離れて!」
まったく、良いところまで行っていたのに、逢坂さんが帰ってきた途端これだ。
この分じゃ、高須くんのお返しも、また貰い損なってしまうかもしれない。
それは嫌。
そんなのは一度でたくさんよ。一度この手にしたものを、もう諦めたりなんてしたくない。
そうよ、もう手にしてるんだもの。前へ進むなら、今しかないじゃない。
私は腕に力を込めて、足まで絡めあわせて、精一杯強く、強く高須くんを抱きしめた。
そうして、夢の中であてつけがましく言われた台詞を、今度はそっくりそのまま言い返す。
「渡さないんだから。なにがあったって、絶対」
でも、ただマネをするだけじゃ芸がない。
目を瞑る瞬間、人差し指を伸ばした逢坂さんがどもったりつっかえたりしながら何事か喚き散らしているのがチラリと見える。
知ったことじゃない。もう戻る気なんて更々ない。後のことなんてどうにでもなれ。
周りのことなんて一切構わずに、私は高須くんの「お返し」を、心行くまで存分に堪能させてもらった。
離れ際、名残惜しさを表すように架かった透明な橋を余さず舌ですくい取り、そして耳元で囁く。
「ごちそうさま」
真っ赤になった高須くんの唇は、マシュマロのような甘い味がした。

                              〜おわり〜


13 174 ◆TNwhNl8TZY sage New! 2011/08/21(日) 22:33:38.23 ID:EFqWY/CP
おしまい

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