中世・近世ヨーロッパ史(だいたい西暦1155〜1857)の歴史の研究および考証(意見・情報交換、議論など)をする研究会のwikiです。歴史の情報共有の場として、あるいは、単なる情報交換の場として。歴史好きの方、お待ちしております。認証されれば誰でも編集可能です。

大義名分はラテン語で(Casus Belli)ともいいますが、殊更中世・近世ヨーロッパにおいては大義名分というものは相手国と開戦する、あるいはよりハードな(通商破壊・私掠船などによる)手段で戦略的駆け引きを開始するには必要不可欠、なくてはならないもの、でした。Casus Belliという言葉は開戦事由という訳語も当てはまるようですが、とにかく中世・近世において相手国に何かしらの、しかもかなり法的な言い掛かりをつける、あるいは所有権・領有権を主張することによってのみ、戦争開始が可能なものでした。中世・近世というとイタリアなどの小さな共和国は除いてほとんどの国が封建制、というか君主領主制の全盛期でしたから、君主制といえばその直轄王家の、主家の正統性(Legitimacy)が王朝の生命線そのもので、要は、王家の正統性にしろ一国家として相手国に宣戦するにしてもその事由の正当性、が並居る中世近世の封建領主制諸国家のただ中にあっては、殊更重要であった、のです。これを言い換えるのであれば王朝であっても王家であっても名家であっても正当性がなければ何事も主張できない、ということにもなるのですが、その、法の起源は偏っていたにしろ同じ規範・ルールの下にあった当時の中世・近世の封建領主諸国家の間ではほとんどそれが暗黙のルール、と化していたのです。つまり、論理的に正しいことを(まぁ、自分なりな理由でも曲りなりの理由でも)主張するのが、ヨーロッパでは中世・近世通しての昔からのルールのようなもので、確かに統治者の一方的な決定で事が動かされたこともあったにしろ、それも含めて誰かが作った基準であったにしろ、一応論理的なものでした。その証左に、中世から近世への変わり目の宗教裁判、というものがあります。もちろん、これは特にカソリックとプロテスタントとの宗教論争そのもののことを指しているのですが、確かにそのものの論拠や根源的な根拠には怪しいところがあったものの(実際ローマ帝国が一方的に作ったカソリックとキリスト教の根源であるイエスの教えを掘り起こしたプロテスタントでは、その当事者の争いにおいてはどちらが正しいかは、明らかである)、それでも一応裁判という形をとって、皇帝と神学者が向かい合って論争する様は、論理的なやりとりそのものです。もちろん、当のカソリックの守護者である神聖ローマ皇帝にしても、立場上カソリックを擁護していただけで本当はどっちかと思っていたか、何てことも分からないことですし、実際当時の状況ではそれがどちらであろうとも、結局旧来の立場に立たざるを得なかった、というのが当時の宗教裁判の実情ではないのでしょうか。それにしても、中世・近世を通してその時代にしてはヨーロッパでは能く宗教裁判などあったにしろ論理性が守られてきましたから、今日の世界におけるヨーロッパ支配が成り立っているのかもしれません。では、法という視点での大義名分、はどうなのでしょうか。ひとつに、相手に言い掛かりを付ける、という点では戦時における大義名分は何ら問題、ありません。一方、支配力や軍事力にこきつけて例えば小国相手に無理な、不当な要求を突き付けた場合はどうなのでしょうか。これは、一重に国力差など戦略的圧力によって相手に不当な要求をした、という不当圧力問題、ともうひとつは明らかに相対的力の小さい小国に無理な不当な要求をすることによって、その周辺国などのパワーバランスや外交関係を不安定にしてしまう、という外交バランス問題、ということができます。まぁ、前者は外国に不当に圧力を掛けた、ということで大国対小国領邦連合での対抗が予想されますが(この手の問題は外交戦力差的にバランスが取れれば大して大きな問題にならない場合が多い)、後者の場合は、どうでしょうか。周辺国との関係に軋轢を生じる、ということは単純に前者の小国が結集することによって大国に対抗することによって大局的バランスの安定をもたらす関係とは打って違って、大国がとある小国に圧力をかけること自体がその関係周辺地域に不安定さをもたらす、ということになります。大国がそのとある小国に戦略的、ないし政治的圧力をかけることによってその周辺地域にも不安定さや圧力をかけることになるのですから、これは単純にその大国の相手の超大国の隣接支配地域にサポタージュ(政治的に打撃を与える工作)を加えるという視点では確かに、政治的駆け引きの手段に困窮した急場の駆け引きではアリのようにも思えますが、その反対にその相手の超大国との隣接支配地域に緊張を与えたくない場合などはどうでしょうか。これは歴史上で大国間で戦争が起こるときによくあるように、支配地域が隣接するちょうど中間地域で軍事的・政治的緊張を起こしてしまうと、それが戦争屋が戦争を起こす際の口実になってしまう、つまり何らかの理由で、戦争を仕掛けたい側にとっては軒並み好都合になってしまう、ということも起こるのです。大局の駆け引き的に観るのであれば、自国が優勢に出たい地域では積極的に政治的外交的工作を仕掛けて、あまり周辺国あるいは隣接する大国との緊張を避けたい地域ではその周辺国に対して融和政策を採ることによって、緊張を回避し、かつ安定的な内政状況を作れるので、平和裏にかつ確実に国力を増強する有意な地域を作り出すことができます。周辺大国との中間地域にもあらず、かといってどこかの地域との緩衝地域にもなっていない地域は、すべからく政治的外交的駆け引きの対象になり得るので(例えばスイスなど)むしろ政治的に戦略的にホットスポット(その地域の出方次第で周辺国の外交環境にいい影響だったり悪影響だったり与えたりする地域)になってしまうのですが(中間地域にしたいのであったのならば、その場合はその地域が逆に駆け引きの鍵になってしまうので政略的に失敗となる)、逆にむしろそれを狙うのであれば中世から近世にかけてオーストリア(神聖ローマ帝国)とフランスの間でスイスを巡る(実際にはスイス共和国は大国含め各国に傭兵まで出していた)そういった政略的やりとりがあったように言ってしまえば好戦的中間地域、として両国の戦略的要としつつ緩衝的役割も果たす中間地域に仕立て上げることもできるのですが、これが例えば他の地域のもっと小さな小国になると、どうでしょうか。政治的外交的発言力もロクに持たない小国は、まぁいわばあの列強戦国時代ともいえる中世近世の歴史ではさぞあっという間に周辺国に飲み込まれてしまったでしょうが、それでもまだ周辺国と連立していたとして、問題としては政治的外交的発言力を持たない(中世流にいえば王家王権の発言力がない)のにその周辺地域との関係性からして、得てしてその情勢にて政治的外交的発言力、あるいは戦略的選択肢を持つべき状況である、という点にあります。つまり影響力は弱いのにその周辺地域に与える影響からその決定権が重大になり、政治的外交的発言力を持たせた上でその小国を挟む大国の間に立って取り持たなければいけない、という状況に直面するわけなのですが、これが得てして中世の場合は大抵どちらか先んじた大国がその小国と婚姻関係を結ぶなどして、それが中間地域化する前に相手の大国に対して優位に立とうとする、という駆け引き(まぁ、いわばゲームである)が発生してしまう、でそこで小国の君主が死んだりすると、継承権ごと先に婚姻関係を結んだ大国にその小国の王位正統性が転がり込むので、そのまま属国にしていまったり、とまぁ、先に婚姻関係でも結んだ大国の圧倒的有利、あるいは一人勝ち、に終わってしまう、のです。まぁ、それはその地域のその後の安定性や周辺地域のバランスからして大国同士であってもできれば避けたいところではありますから、大抵の場合はそこでその小国を中間地域としたやりとり、駆け引きが始まる、わけ(ここでの例はイベリアのナバーラやバルカンのワラキア(トランシルヴァニア)などが該当すると思われる)です。まぁ、上記二例に至っては例の中間地域にしたやりとりというよりも戦争を含めた政治的外交的駆け引きが歴史ではあったわけなのですが、まぁ、それをセオリーとして、というか順番を追って考えるのであれば一つは、両国が中間地域に設定した後、貿易、地域経済を含めた経済的な、地域の関係性を構築するか(上記の二例でも平和な時はそうであったと考え得る)もうひとつはスイスのような機能的そしていわば好戦的、あるいは動的中間地域として大国同士の両国間で認識されるか、という二点になると思います。この点ではチェコスロバキア地方のシレジア(シュレジエン)地方もボヘミアの属国になったりボヘミアが敗戦するなどして属国から解放されたり、を繰り返したりといわば「戦時あるいはその終戦処理後において政治的、戦略的あるいは経済的駆け引きの道具として従属勢力が変わる」動的中間地域として機能していたと考えられるのですが、まぁ、中間地域という言葉がその周辺大国の主導的戦略的選択肢が元になっているように政治の駆け引きの道具、というその地域の住民にとっては迷惑だか名誉(?)だか分からない用語になっているの事実ですが、とにかくその周辺大国が存在する以上どちらかが偏ってその地域を取ることをしてしまうと、さらにそれよりも広い周辺地域の各国に政治的不安定という悪影響を容易に与えることが考え得るので、そういう意味では動的中間地域というものはどちらかというと「動く」にしても、その両国間で揺れ動いてそのこと自体でその中間地域の情勢を保つ働きをする、という働きの強いものだ、ということは覚えておいてもらって損ではない、でしょう。一方、その中間地域がその大国のどちらかに(例えばボヘミアとポーランドに挟まれたシレジア地方など)取られてしまった場合は、さらにその上の広い地域で戦略的バランスを取りなおして周辺各国が政略面を練り直す、ことになるのだとは思うのですが、その場合はもっと大きな大局で歴史が、情勢が動くともいえる。そうなると、ある意味もっと大変なのですが、そういう意味では各国とも急激に意図しない方向へ情勢が変わるのは嫌うものなので、まぁそういう意味では動的中間地域、というのはあくまで「動的中間地域」として扱うのが歴史的にも都合がいい、ととれるのではないのでしょうか。動的中間地域は動的中間地域なのですが、大国間など主導権を持つもの同士で戦略が揺れ動くのは歴史の常なので、そういう意味ではそういうことを覚えておいて損ではないでしょうね。一方、その際に大義名分が必要になるのですが、そういう意味ではその地域を「取る」大義名分というものは、実際にその地域を取らないにしろ、戦略的手段、駆け引きの道具として重要になる、のではないのでしょうかね。実際使わない、と思うようなものでも、戦略的には重要な選択肢になる(あるいは相手にそれをチラつかせるための)ものも戦略では多いことも事実なので、そういう意味では全ての選択肢、あらゆる可能性を考慮に入れた上で、その都度総合的な判断を下す、というのがある意味戦略の妙、のようなものではないのですかね、というところで終わりたいと思います。

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