---------------------------------------------------------------------------- A アウグスティヌス
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アウグスティヌス (Aurelius Augustinus 354-430)
ローマ領内の北アフリカの町に生れるが、父は異教徒、母は篤信のキリスト教徒であったために、生れながらに信仰の問題を引受けることとなった。少年時代には近くの都市で古典などを学び、その後、16の時、ある資産家の援助によってローマ領アフリカの首都であった大都市カルタゴに行き、法律や修辞学を学んだ。しかしながら、このころ、父を亡くし、また彼もこの大都市にあって放縦の生活におぼれ、身分の卑しい女性と同棲して子供までもうけている。だが、19才になってキケロの哲学的対話篇を読んで哲学に感化され、真の知恵への模索を始めた。このとき、聖書も読んだが、しかし、その単調な文体と権威主義にはなじむことができず、むしろ、当時、流行していたマニ教に強くひかれた。マニ教とは、マニ師を開祖として3世紀半ばに成立した、ゾロアスター教、キリスト教、仏教などの融合宗教であり、善悪二元論に立ち、論証を重視し、厳しい禁欲的生活を説くものである。彼は修辞学の教師をしつつ、以後9年間、この教えに心酔し、また、多くの人々に広めたが、もっとも禁欲的生活は守れなかったようである。
やがて、アリストテレスなどを読み、マニ教の大学者などから話を聞くうちに、マニ教の合理的説明とされるものに次第に疑念をいだくようになり、新アカデメイア派の批判的懐疑論に傾いていった。
また、このころ、カルタゴの学生の粗暴さを嫌って、ローマに行くが、ここでも学生はろくなものではなく、彼は病気と貧困の生活を強いられた。しかし、翌年、ミラノから修辞学教師として呼ばれ、同地の高名な司教アンブロシウスの説教を聞いて、その深い学識、人格に感銘を受け、また、新プラトン派の書物を読んで、マニ教的な唯物論から解放され、非物質的な存在を知るようになった。このように、カトリックの教説への関心と理解は深まっていったが、しかし生活はあいかわらず肉欲にふりまわされており、彼は知と行いの矛盾に悩み続けた。
32才の時、「取りて読め」という子供の声を聞き、聖書を開くと、肉欲を捨てよ、という言葉が目にはいった。彼はこれを神の大きな恩寵と感じ、回心を決意する。そして、教職を辞し、洗礼を受け、修道生活を始める。さらに、42才のころには司教となって、以来、その死まで34年間、カトリック教会の正統的統一教義確立に努力し、さまざまな異端の論破に活躍し、また多くの著作を残した。とくに、 410年のゲルマン族のローマの危機に際しては、『神国論』を書いて、キリスト教護教に努めた。
彼のキリスト教教義における貢献は、パウロ以来の原罪論の強調である。すなわち、最初の人間であるアダムはエデンの楽園においては、神の似像として、不死や情欲を支配する理性と意志とを与えられ、神を知り、神に仕えることができたのだが、蛇と女エバにそそのかされて禁断の実を食べてしまい、この罪によって、アダムとその子孫である全人類はこの特典を失い、アダムの罪とその報いを受継いで、死と情欲に悩まされるところとなった。この原罪から解放されるには人間の力では足りず、それゆえにこそ、イエスが救世主(キリスト)として贖罪の死についたのであり、この救済の業にすがってこそ神の許しが得られ、人と神の和解が成就するのである。
【愛(カリタス)/欲(クピディタス)】
(『告白』)
神は絶対的存在、絶対的善であり、これには、まったくの無、まったくの善の欠如が対立する。神によって無から創造された被造物は両者の中間的なものであり、その存在や善は無に比べればあるものの、神に比べれば不足している。それゆえ、たえず無に帰する危険に瀕しており、つねにその不足を補うべく欲求しなければならない。この欲求がこの世に向けられるとき、それは〈欲(クピディタス)であって、人間の不足をなお不足するもので補おうとするものであり、けっして満たされることはない。しかし、この欲求が神に向けられるとき、それは〈愛(カリタス)〉であって、ここにこそ我々は永遠の休息を見出すことができるのである。
【照明説 illumination】
新プラトン主義、
アウグスティヌス(『独語』等)、
フランチェスコ会、ボナヴェントゥラ
神は、知性的に明かになるべきすべてが、それにおいて、それから、それを通じて知性的に明かになる知性の光である。つまり、事物が太陽の光に照されて認識されるように、永遠不変の真理は神の光によって照されてこそ認識される。すなわち、太陽が肉眼の照明であるように、神は知性の照明なのである。なぜこのようなものが永遠不変の真理の認識に必要であるかといえば、我々の知性は不完全であり、独力ではこれに達しえないからである。我々が物事を認識するとき、物体的な事物は身体の感覚を通じて認識しうるが、これを永遠不変の規準で評価するのには、このような光の照明が必要なのである。
【神の根拠 ratio Dei】
すべての学は、《神学》であり、〈神の根拠〉の探求である。つまり、《倫理学》は、生きることの原因としての神を、《自然学》は、実体することの原因としての神を、《論理学》は、知解することの原因としての神を探求するものなのである。
【心の広がり distentio animi】
(『告白』XI)
時間のこと。過去はもはや存在せず、未来はいまだ存在しない。また、現在も、それが少しでも広がりを持てば、さらに過去と現在とに分れてしまう。すると、時間はその本性上、持続しえない瞬
間的なものとなってしまう。しかし、時間は、たしかにそのままには現存しえないが、心の注意としてならば現存しうるのであり、このようであればこそ、瞬間的で持続しない時間を心的な連続としてはかることもできるのである。それゆえ、いわゆる過去・現在・未来は、 〈過去のものの現在 praesens de praeteritis〉
〈現在のものの現在 praesens de praesentibus〉
〈未来のものの現在 praesens de futuris〉
にすぎず、それぞれ、霊魂の
〈記憶 memmoria〉
〈直視 contuitus〉
〈期待 expectatio〉
という3機能に相当する。
[時間的なものは同時には現存しない]ということは、ゼノン以来の形而上学的難問であるが、アリストテレスを初めとして一般に時間を物体の運動に即して考えるのに対し、この発想は、時間を意識の内面的事実として考える点で独自性を持ち、その後の哲学にも大きな影響を与えた。
【霊 mens/識 notitia/愛 amor】
(『三位一体論』)
人間は神の似姿として創造されたものであるから、神の父と子と聖霊との三位一体の面影がさまざまに認められる。そのひとつが霊と認識と愛との三位一体である。というのは、自分自身の霊を愛するとき、愛は、愛される霊と同一だが、ただ愛に関してのみ2つであり、同様に、自分自身の霊を認識するとき、認識は、認識される霊と同一だが、ただ認識に関してのみ2つであり、それゆえ、愛と認識と霊とは、愛や認識に関しては異なるが、それ自身は1つだからである。
【記憶 memoria/知性 intelligentia/意志 voluntas】
(『三位一体論』)
人間は神の似姿として創造されたものであるから、神の父と子と聖霊との三位一体の面影がさまざまに認められる。そのひとつが記憶と知性と意志との三位一体である。というのは、私は、私が記憶と知性と意志とを持つことを、記憶し、知解し、意志しているからである。
【質料の無形態性 informitas materiae】
(『創世記逐語解』第1巻)
神が「光あれ」と言われる以前の物体的存在のまったくの受動的状態のこと。
それは、なんらの形態も持たないものであったが、このようにして、神によって秩序付けられ、一定の類、種における存在へと形相付けられたのである。ただし、これは理論的な意味において、神の言葉に先行するのであり、時間的順序として先行するものではない。
【種子的根元 rationes seminales】
(『創世記逐語解』第5巻)
形而上学的宇宙は、神と人間と物体的自然の3つの次元がある。そして、最高位の神の理念に対応して、最下位の物体的自然固有の原理として、〈種子的根元〉がある。これはこの世の発展の原理であり、時間の経過のなかで新たに存在へともたらされるこの世のさまざまなものごとは、このようなものがあらかじめ創造の6日間のあいだに、見えないかたちで土気火水の4元素からなる広大な自然の生地の中に含められていたと考えられる。
【転回 conversio / 背離 aversio】
(『創世記逐語解』第8巻)
形而上学的宇宙は、神と人間と物体的自然の3つの次元がある。人間はこのような中間的な位置にあって、いかに望ましい条件にあっても神からの力なしには善を行いえない。それゆえ、神の助けなしになにごとかをなそうとするとき、それは〈神からの背離〉である。しかし、神の至福なる直観へと向かうならば、それは〈神への転回〉なのである。
【使用 frui / 享受 uti】
アウグスティヌス()
【罪せざる可能 posse non peccare】
人間は、被造物の不完全性ゆえに、悪を選ぶ可能性もあるが、しかし、また、罪を犯さないでいることもできるのであり、さらには、他の被造物を使用し、神を享受することによって、善のみを選び、罪しえない non posse peccareようになることもできる。しかし、アダムは、他の被造物を、神を享受するために使用せずに、それ自体を享受してしまったために、むしろ、罪せざるをえない non posse non pecarreようになってしまった。
【身体的/霊的/知的直観 visio corporalis / spiritualis / intellectualis】
(『創世記逐語解』第12巻)
〈身体的直観〉とは、身体における感覚による知覚であり、〈霊的直観〉とは、意識における思考による知覚であり、〈知的直観〉とは、いかなる似像もなしの端的な知覚である。3者には、その高貴性に関して一定の秩序がある。すなわち、〈身体的直観〉は〈霊的直観〉なしにはありえない。なぜなら、知覚するのは、身体てはなく魂であるからである。また、〈霊的直観〉も〈知的直観〉なしには確実ではない。しかし、高位のものは低位のものを必要とはしない。
【『神の国』 De Cvitate Dei 413-426】
ゴート族のローマ侵入の危機に際して、これはローマが旧来の神々を捨てキリスト教の神を奉じたせいだ、とキリスト教を非難する異教徒たちに対するキリスト教護教論。全22巻からなる。前半10巻は、異教徒への反論であり、最初の5巻は、現世の繁栄のために異教を奉じる人々への、次の5巻は来世のために異教を奉じる人々への反論である。後半12巻は、キリスト教の積極的主張であり、最初の4巻は神の国とこの世の国の起源について、次の4巻は両国の歴史と発展について、最後の4巻は両国の定められた運命について論じている。
【地の国/天の国 civitas terrenae / caelestis】
(『神の国』)
国とは、多くの理性的存在が彼らの愛するものを協調し、共通に関与することによって結合している集団であるが、ただその愛の内容によってのみ〈地の国〉と〈神の国〉は区別される。すなわち、〈地の国〉を作ったのは、神をないがしろにしてまでも自己を愛する愛であり、〈天の国〉を作ったのは、自己をないがしろにしてまでも神を愛する愛である。〈地の国〉は、サタンの堕罪をもって始まり、カインによって地上に建設され、今日、アッシリアとローマという世界帝国に認められる。また、〈天の国〉は、天使たちの創造をもって始まり、アベルによって地上に移され、今日、カトリック教会においてその実現が期待されている。
しかし、教会に属する人すべてが〈天の国〉の人なのではない。時の終わりまで、2つの国は混ざり合って地上に存続するのであり、最後の審判によって明確に分離される。そして、〈地の国〉の人々は永劫の火を受けなければならないが、〈天の国〉の人々は天上的至福にあずかることができるのである。
【伝移説 Traducianism /創造説 Creationism】
魂の起源についての2つの考え方。
《伝移説》とは、[各個人の魂は親から移し伝えられたものである]と考える説であり、それは結局、アダムから生まれ出たものであるから、生出説 Generationismとも呼ばれる。
《創造説》とは、[各個人の魂は個別に神によって創造されたものである]と考える説である。
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