大学水準の西洋哲学として知っておくべきことのすべて


---------------------------------------------------------------------------- D デカルト派


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 デカルトは、方法装置として、「我思う」にすべての根拠を置く《主観主義》と、すべてを根拠からの合理的論証によって次々に明証化していく《論証主義》とを打出した。また、その概念装置として、精神と物体という断絶せる2実体を想定したが、さまざまに思考する精神の構造、無限延長する空間の構造、および、認識や実践における外界と精神との関係が不明確なまま残されることとなり、この問題を解決するために、いろいろな哲学者によって、さまざまな概念装置が考案された。
 このようにデカルトの影響を受けた人々をカルテジアンと呼ぶが、その範囲は広く、現代にまで至る。しかし、トマス・アクィナス的思想を背景とする保守的なイエズス会はデカルト哲学に好意的ではなく、むしろ、アウグスティヌス的思想を背景とする者に関心が高かった。

アルノー(Antoine Arnaud 1612-94)
 アルノーは、ジャンセニズムの拠点、ポールロワイヤル修道会の神学者である。ジャンセニウス亡き後のジャンセニズムの中心的指導者であり、デカルト哲学を吸収して、この後の論理学の標準となる教科書をしるした。また、パスカルとも親しく、マールブランシュと論争した。


パスカル(Blaise Pascal 1623-62 )
 パスカルは、一般にはデカルトの対立批判者とされるが、同じ数学者として、ある意味ではデカルトのもっともよき理解者であり、そして、その限界をもよく知っていた人物と言うことができるだろう。彼は、幼少より天才であり、幾何学、静力学(圧力学)、確率学に才能を発揮した。また、ジャンセニズムに帰依し、ポールロワイヤル修道院の人々と交流し、イエズス会との論争の危機においては、ジャンセニズムを支持する神学書簡『プロヴァンシャル(田舎者の手紙)』を発表し、その窮地を救った。


ゲーリンクス(Arnold Geulincx 1624-69 )
 ゲーリンクスは、オランダに生まれ、カトリックの神学者となるが、後に、カルヴァン派に転向した。彼は、デカルトの精神と物体の二元論の立場を保持しつつ、その心身問題を解決しようと《機会論》を提唱した。


マールブランシュ(Nicolas de Malebranche 1638-1715)
 マールブランシュは、やや後のスピノザやロックと同じ時代になるが、ゲーリンクスに続いて《機会論》を発展させ、これを世界事象一般にまで拡大しようとした。また、彼は、オラトリオ修道会にあって、やはりアウグスティヌスの影響も強く、デカルト哲学のアウグスティヌス哲学を融合させた独特の神学を作り出した。


【ジャンセニズム】
 《ジャンセニズム》とは、オランダの神学者ジャンセニウス(1585-1638 )の学説に基づく宗教運動である。
 彼の膨大な著書『アウグスティヌス』は、人間の救済における神の恩寵の重要性についてのアウグスティヌスの説を体系化したものであり、これに基づいて異端とされる諸説を排撃している。すなわち、中世のアウグスティヌスは、自力救済を重視する一派を異端としたのだが、宗教改革においてカルヴァン派が徹底した他力救済である《予定説》を主張したために、反宗教改革をもくろむイエズス会は、これに対抗するために自力救済を重視する説をかかげた。そこで、ジャンセニストたちは、[イエズス会の説はアウグスティヌスの体系からからいって異端である]と糾弾したのである。しかし、イエズス会は逆に、[ジャンセニズムの方がカルヴァン派同様の異端である]と反撃してきた。
 このイエズス会との論争は、政治的にジャンセニズムの方が決定的に不利な状況となったが、 このイエズス会との論争は、政治的に ジャンセニズムのシンパであるパスカルの『プロヴァンシャル(田舎者の手紙)』 という著書にとって世論の支持を得、窮地を脱した。

【『思考方法についての論理学
  La logique ou l'art de penser』1662】
 アルノーが、ピエール・ニコールとともに記したデカルトの規則論に基づく哲学の教科書で、『ポールロワイヤルの論理学』と呼ばれる。
 ポールロワイヤル修道会は独特の新しい教育方法をもち、後の教育界に大きな影響を与えた。なかでもこの教科書は、この後の論理学の標準教科書となり、デカルト哲学の普及と非アリストテレス論理学の発展に寄与した。

【幾何学的精神 esprit geometrique
 /繊細の精神 esprit de finesse  】
 パスカル(『パンセ』1.2.4、など)
 〈幾何学的精神〉とは、数学や数学的自然科学において働くものであり、粗い原理から始めて、延々と推論をたどる活力である。しかし、原理が明確ではない繊細な事物にぶつかると、途方にくれてしまう。
 これに対して、〈繊細の精神〉とは、通常にも使用されている非常に多くの原理を、見落したり、混同することなく、一目で見て取る柔軟さである。しかし、無味乾燥な原理を経なければならないとなると、おじけづいてしまう。
 両者は独立に存しうるものであり、この両方をともに持ち合せるこそが望ましい。

【3つの秩序(次元)】【肉体/精神/心情】
 パスカル(『パンセ』)
 事物には、〈肉体〉〈精神〉〈心情〉と3つの次元がある。そして、身体から精神への無限の距離は、精神から心情への無限に無限な距離を暗示する。王や富者は〈肉体〉を対象とし、探求者や学者は〈精神〉を対象とし、賢者は〈心情〉を対象とする。真の偉大さは神から授かる〈心情〉のものであるが、低次からはその偉大さを理解できない。〈肉体〉の次元の人々は、神を見出せず、求めもしないのであり、愚かで不幸である。また、〈精神〉の次元の人々は、神を見出せず、求めているのであり、合理的であるが、不幸である。そして、〈心情〉の次元の人々だけが、神を見出し、これに仕えているのであり、合理的で幸福である。
 〈精神〉は理性とも、〈心情〉は愛や意志とも言換えられる。そして、神は〈精神〉によって考えられるべきものではなく、〈心情〉によって感じられるべきものである。そしてまた、神への信仰は、自分の〈精神〉の推理によって得られるものではなく、あくまで神からの賜物なのである。神を知ることから、神を愛することまでは、はるかに遠い。
 パスカルは、デカルトの合理主義万能の主張に対して、〈考える葦〉のたとえでその重要性を評価しつつも、〈クレオパトラの鼻〉のたとえその限界を示し、信仰の不可欠を訴えたのだと言えよう。

【考える葦 un roseau pensant】
 パスカル(『パンセ』347)
 人間は自然の中で最も弱いひと茎の葦にすぎない。しかし、この葦は考える葦である。彼を圧しつぶすためには宇宙は武装するまでもない。風のひと吹きでも、水のひと雫でも彼を殺すのに充分である。しかし、たとえ宇宙が彼を圧しつぶしても、人間は彼を殺すものよりも尊いだろう。なぜなら、人間は自分の死と宇宙の優勢とを知っているが、宇宙は何も知らないからである。つまり、尊厳のすべては、時空間的な大きさにではなく、考えることのなかにあるのであり、考えることで宇宙をつつむことすらできるのである。

【クレオパトラの鼻】
 パスカル(『パンセ』 162-3)
 人間とはむなしいものである。人間には知りえないようなわずかなほんのことが、全世界を揺り動かすからである。たとえば、恋愛の原因と結果がそうだろう。クレオパトラの鼻がほんの少しでも短かっただけでも、王候や軍隊は別様に動き、大地の全表面はいまとは違っていただろう。

【信仰の賭け】
 パスカル(『パンセ』 233)
 神は無限に不可解であり、神がいるかいないかはわからない。わからないことには賭けないのが一番よいのだが、しかし、現に生きている以上、君は、〈精神〉や〈心情〉をどちらかに賭け、真と幸福とを得、誤りと悲惨とを避けるようにしなければならない。〈精神〉はどのみち根拠がないのだから、どちらを選んでも悔いはない。しかし、〈心情〉はどうか。神はいると賭けて、負けてもともと、勝でば、無限に幸福な無限の命を手に入れ、まるもうけである。それゆえ、これは神がいる方に賭けるべきではないか。

【機会論 occasionalism】
 ゲーリンクス、マールブランシュ
 デカルトは、精神と物体とを独立の実体とし、両者の交互作用の事実を松果腺によって説明しようとしたが、これは、《心身問題》としてその後も議論され、そのひとつの解決案として提唱されたもの。
 すなわち、ゲーリンクスは、[心身の交互作用は事実ではあるが、両者の直接の作用は不可能であるがゆえに、それぞれは単に〈機会因 causa occasionalis〉にすぎず、その真の原因は神であり、一方の刺激や意志を機会として、その都度、神が他方に感覚や運動を起こしている]とした。
 さらに、マールブランシュは、[精神と身体との間だけでなく、いっさいの変化において、その自然原因は〈機会因〉にすぎず、その真の原因は神であり、すべては神の意志による]とした。

【神の関与 concursus Dei】
 心身問題において、デカルト派は、精神と物体は断絶するとともに、交互作用の事実が認められるため、この解決として、機会論などにおいては、神が両者の仲介をなす、とした。そして、この神の働きを「神の関与」と言う。
 しかし、これに対して、ライプニッツは、これを〈機械仕掛けの神〉と呼んで批判した。〈機械仕掛けの神 Deus ex machina〉とは、古代ギリシアの演劇において、その結末をしばしば大げさな舞台装置の神の出現でお茶をにごしたことによるもので、アリストテレスもアナクサゴラス批判で用いている。(『形而上学』Α4)

【「我々は万物を神において見る
  Nous voyons tous choses en Dieu.」】
【知性的延長 etendue intelligible】
 マールブランシュ(『真理探究論』)
 我々は外的事物の観念によって外界を認識するのであるが、観念のある精神は外界の物体とはなんの関係もない。しかしながら、神は絶対者として延長する外界諸物体の明晰判明な観念を持っており、神自身が言わば〈知性的延長〉として、外界諸物体の観念の配置されている場所でもある。ここにおいて、精神と物体は結合している。つまり、我々の精神は、そもそもは神の精神に属しており、外界諸物体を直接に認識するのではなく、神において観念として外界の諸物体を見るのである。
 また、空間が〈諸物体の場所 le lieu des corps〉であるように、神は〈諸精神の場所 le lieu des
esprits〉なのであり、人と人との精神もまた、神を共通の場として結合する。

【汎神論  Pantheismus
 汎在神論 Panentheismus
 超神論  Theismus   】
 神と物体一般との関係についての3つの哲学的立場。
 《汎神論》とは、[万物に神が内在する]、つまり、いたるところに神ないし神の力が現れている、という立場であり、ブルーノ、スピノザらが属する。
 《汎在神論》とは、[神に万物が内在する]、つまり、すべての物事は神の精神の中でのことにすぎない、という立場であり、マールブランシュ、バークリーらが属する。
 《超神論》とは、[神は万物とは独立で、超越する]、つまり、創造主と被造物とは厳しく断絶しているのであり、両者の混同は許されない、という立場であり、カトリック(正統キリスト教)やデカルトらがこれに属する。カトリックにおいては、この創造主と被造物の区別は絶対とされ、それゆえ、《汎神論》や、《汎在神論》はしばしば異端として迫害されることとなった。

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