大学水準の西洋哲学として知っておくべきことのすべて

 ひとことで言えば、自分と世界。それ、ひとことじゃない、ふたことじゃないか、と思うかも知れませんが、自分と世界は、表裏一体。自分の世界なのか、世界の自分なのか、いずれにせよ、表だけで裏がある、ということはありえない。ただし、うらないしのおもてなしのように、裏も、表も、なにも無い、ということはあるでしょう。

 自分と世界、ということになると、昔は、天文学から環境論、倫理学、心理学、社会学、なんでも哲学でした。しかし、対象が具体的に特定されて行くにつれ、それぞれの分野に独立していきました。それでも、それらを独立させていった心棒のところが残ってしまった。それが、狭い意味での、自分と世界。自分と言っても、身体だの、心理だの、のように、対象化できるなら、それは、医学や心理学の問題。それらを対象化している原点の自分、つまり、それらの対象を自分の身体だとか、自分の心理だとかにしている自分というものは、対象化されずに残ってしまった。同様に、あれやこれやと対象化できるのなら、それらはそれぞれ天文学でも、物理学でも、化学でも、経済学でも、芸術学でも、とにかく対象についての学問として自立しています。ところが、そういうもろもろを全部含んでいるなにか、レベルがひとつメタなもの、ということになると、世界の中のものではなく、したがって、対象にならない。

 そんなの研究してどうするの、と思うでしょうが、ここの部分をクリアにしておかないと、ほんとうは対象が定まらない。たとえば、価値ってナンダ、なんて、よくわからないまま、平気で経済学をやっている。ふつうの状況ではそれでも問題無いのですが、江戸時代と現代の生活を比べてみよう、なんていうことになると、とたんに、よくわからないことが露呈してしまう。同様に、生化学なんかでいろいろできるようになっても、生命ってナンダ、人間ってナンダ、っていうところをきちんとよく考えておかないと、いつのまにか「殺人」の領域に踏み込んでしまっていたりする。

 というわけで、哲学は、それ自体としては、自分や世界、を対象に研究するわけですが、それはまた同時に、「諸学の女王」として、哲学から分かれていった、具体的な対象を持ついろいろな科学を統括管理するものでもあります。連中は、いまさら哲学なんか、お呼びじゃないよ、と言うかも知れませんが、それは、その中にいるからです。経済学でも、生科学でも、その領域を踏み越えるようななにか具体的な事件を起こしたとき、連中は、自分たちで自分たちを領域を決めることができないことに気づくでしょう。

 とはいえ、残念ながら、世界的に、哲学を名乗っていながら、その大半は、哲学者学ばっかり。自分で、自分や世界のことを考えたりする哲学は、哲学の中でも、きわめてマイノリティです。まあ、才能の無い亜流の大学人は、哲学者学の方が、その対象の権威を楯に、なんとなく研究をしているように見えるもの。でも、具体的な対象が特定できているくらいなら、それは哲学じゃない。どうやって特定しているのか、から、始めてこそ、つまり、対象を特定している自分や世界を研究してこそ、哲学なんですけどね。

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