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---------------------------------------------------------------------------- B 原始教会
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イエスの一派の事件は、当時においては、よくある政治宗教集団のひとつでしかなかった。というのは、サドカイ派、ファリサイ派をはじめとして、エッセネ派、熱心党、解放奴隷会堂、魔術師テウダ派、洗礼者ヨハネ派、バラバ派等々、大小さまざまな集団が、複雑な連関を持ちつつ、イェルサレム周辺にうごめいていたのである。しかし、それらの中でも、ただイエス派のみが、その頭領イエスの死の後、誰も予想だにしなかったような飛躍的発展をし、強固なユダヤの枠を越え、世界宗教活動へと展開していったのである。
しかし、イエス派といっても、イエスの生前からおよそ一枚板であったわけではないらしい。その中には、ペテロらの使徒派、母マリアを中心とする婦人派、ヤコブらのイエスの兄弟(従兄弟)派の3派閥が含まれていた。使徒派は洗礼者ヨハネ派の系統に組みし、革新主義的(ときには過激な革命主義的)で、各地への布教を重視したのに対して、兄弟派はファリサイ派の系統に組みし、保守主義的で、律法の順守を重視したのであり、両派閥はイエス派内で当初から対立的であったと思われる。(聖書は主に使徒派によって書かれたのだが、その中に兄弟派批判が散見される。)
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イエスの死に際しては、使徒派はイェルサレムから散り散りに逃亡し、婦人派のみがイエスの最期をみとった。婦人派がイェルサレムに残こることができたのは、ファリサイ派に近い兄弟派が彼女らは危険なしとしてイェルサレム派(衆議会やサドカイ派、ファリサイ派)にとりなしたからかもしれない。
イエスの死後、彼の遺体が失われ、その復活した姿を見たといううわさが蔓延した。そこで、復活したイエスとその約束の神の国の実現を待つべく、使徒派も数十日後にはイェルサレムには戻ってきて、兄弟派、婦人派と合流した。彼らがイェルサレムに入れたのもまた、兄弟派のとりなしがあったからかもしれない。それゆえ、ここにおいては兄弟派に主導権があったのか、教団全員がファリサイ的に律法を守り、神殿を崇拝する生活を送り、たんなる敬虔なユダヤ教徒の一派として、問題なく過していた。むしろ、ゆとりのある熱心な信者たちが寄付金を持寄ってつどう慈善サロンと化していた。
このような生活を送りながらも、使徒派は神殿などで宣教を始めた。というのは、イエスは最後まで口を割らず、反ローマ革命の企ての責任をただひとりで背負って死んでいったからであり、彼は民族の裏切者どころか、むしろ民族の救済者と呼ぶべき人である、ということになったからである。そして、そのイエスが復活し、ふたたびイェルサレムへやって来て、行動を起こそうとしているのだ。イエスはここで次第に神格化し、メシア(キリスト、救世主)へと高められていく。このような布教は、ディアスポラ(ヘレニスト、ギリシア語ユダヤ人)たちにも行なわれた。
このような使徒派の活動は、もちろん、とうざはローマを刺激したくないイェルサレム派にとっては快いことではない。そこで、逮捕して取調べてみたものの、決定的な罪状を見つけることはできず、ただイエスの名で語ることを禁じて、釈放せざるをえなかった。しかし、その後も使徒派はイエスに関する宣教をやめなかったために、再逮捕し、鞭打ちを行なって、再度、厳しくイエスの名で語ることを禁じた。
一方、使徒派内部でも、問題が生じていた。ディアスポラたちがヘブライ語ユダヤ人中心の教団の体質に不満を持ち始めていたのである。彼らは、使徒派承認の下、ステファノ他7名を代表にして分派を起こし、ディアスポラを対象として宣教を始めた。しかし、彼らは、イエスこそ崇拝すべきものであるとして、神殿をまったく軽視し、それどころか、神殿参詣は偶像崇拝であってむしろ律法に反する、と批判して人々の怒りをかい、イェルサレム派とまっこうから対立した。この結果、ディアスポラ派の代表ステファノは人々に石を投げつけられて殺された(AD36)。このステファノ殺害を扇動した中心人物こそが、ファリサイ派の学生パウロである。そして、彼はこの勢いをかって、ディアスポラ派関係者を迫害し、教会を荒して、信者の家に押入り、男女を問わず牢にぶちこんだ。このため、この派の人々は早々に地方へと散っていった。ただし、同じイエス派でも兄弟派や使徒派はこの迫害の対象とはならず、あいかわらずイェルサレムにとどまっていたようである。
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パウロは、しつこくも、逃亡したディアスポラ派の人々を追って、北の遠いダマスカスにまで向った。ところが、その途上、突然に改心し、同地では逆にイエスの名で宣教を始めるのである(AD36)。それゆえ、彼は、かつて迫害されたディアスポラ派の人々からも、ディアスポラ迫害を支持していた人々からも命を狙われ続けることになった。とにかく、ディアスポラ派の人々が彼の改心を信用しないので、ディアスポラでありながら使徒派に属する有力者バルナバが彼をつれてイェルサレムの使徒派に承認を得、かくして、パウロはアンティオキア教会を拠点に、故郷である小アジアの布教を自らにもって任ずることとなった(AD39)。彼は、もともと聖書にも深く精通した学者であり、改心の後は、聖書に基きつつ、〈贖罪〉と〈復活〉とに重点をおいた独自のイエス解釈を展開した。キリスト教義の体系の基礎は、彼によって構築されたと言っても過言ではない。
さて、イェルサレムの北にはサマリアという地方があるが、同じユダヤ人ながら、他の地方のユダヤ人とは敵対関係にあった。イェルサレムから逃れたディアスポラ派のナンバー2であったフィリポはこの地に布教し、少なからぬ信者を獲得した。しかし、イェルサレムに甘んじていた使徒派は自分たちが布教するまで、ディアスポラ派によって改心した者を信徒とは認めなかった。また、散っていったディアスポラ派の人々は、行った各地で布教し、ギリシア語を通じて、非ユダヤ人にまで宣教するようになっていった。
このようなディアスポラ派やパウロ派の活発な行動を見て、使徒派も各地を布教して歩くようになった。というのは、ディアスポラ派やパウロ派は宣教はできたが、信徒を認定する権限を持たなかったようであり、信徒たるには、使徒派の承認が必要とされたからだと思われる。ここにおいて、とくに活躍したのがバルナバであり、パウロとともに非ユダヤ人への布教にも努力した。逆に言えば、パウロの布教には、使徒派バルナバが伴うことが不可欠とされたのかもしれない。しかし、使徒派代表ペテロがイェルサレムに戻った際、この非ユダヤ人布教に対して、イェルサレムのイエス兄弟派はもちろん、ユダヤの人々は使徒派を大いに非難した。というのは、非ユダヤ教徒を信徒と認めることは、イエス派がもはやユダヤ教ではないこと意味したからである。
当時、パレスティナの分国王は、ヨハネを殺害し、イエスを取調べたヘロデ・アンティパスから、その甥のヘロデ・アグリッパに代っていた。彼は温和な性格ではあったが、厳格な律法主義者であり、それゆえ、彼は、ユダヤ教の根幹である選民性を守らない使徒派に迫害を起こした。まず、使徒派のナンバー2であるヤコブ(兄弟派の代表ヤコブとは別人)を殺害し、これが民衆に支持されたのに乗じて、次には、ペテロを逮捕した(AD40年代初頭)。しかし、ペテロは脱走し、以後、使徒派はイェルサレムでの基盤を失い、各地の布教に専念せざるをえなくなる。
非ユダヤ人布教問題に関しては、パウロ派のアンティオキア教会にも兄弟派から視察がやってきたようである。そこで、パウロらは、46年、イェルサレムに行き、兄弟派と協議した。兄弟派がパウロ派の信徒認定権を承認するかわりに、パウロ派は兄弟派に支援金を送るという妥協が図られたようだが、彼はここで非ユダヤ人に布教し、信徒とする権限も承認されたと勝手に思い込んだらしい。一方、使徒派は布教組としてパウロ派とは近い関係であり続けたが、しかし、この非ユダヤ人布教問題に関しては、兄弟派からの視察が来たときのみ、非ユダヤ人を避けるというような優柔不断な態度をとっていたようである。なお、すでにこの時期には、かつてのイエス派は、イェルサレムの兄弟派や、ユダヤ布教の使徒派、サマリア布教のフィリポ派などの他、パウロのようにみずから勝手にイエスの弟子を称して、イエスの名で語り始めた集団がいくつもあったと思われ、それらはファリサイ的なものから、反ユダヤ教的なものまで、いずれも相当にその信仰内容が異なっていた。だから、各地の信徒教会には、こういった異なる信仰内容の複数の小集団が協力・対立しつつ、同じイエスの名で布教しに来る、というかなり混乱した様相を呈していた。
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この後、パウロ派は、小アジア地方へ第1回布教旅行に出ていた(46〜48)が、この間にアンティオキア教会は兄弟派系派に乗っ取られ、ユダヤ選民主義が教えられていた。パウロ派は彼らと論争したが、らちがあかず、AD49年、イェルサレムの兄弟派本部に直談判に行った。このイェルサレム会議において、ふたたび非ユダヤ人布教問題が争われ、その非ユダヤ人が律法を守ることを条件に信徒と認められることとなり、また、パウロ派には、兄弟派直属の監視員を派遣することになった。
パウロ派はアンティオキアに戻った後、ギリシア地方への第2回布教旅行に出かける(49〜52)。それまで、パウロには元使徒派バルナバがつねに伴っていたが、二人は人事で衝突し、今回は、兄弟派から派遣されていたシラスと旅することとなった。この旅行においては、ローマ側に逮捕されたり、ユダヤ人に攻撃されたり、苦難が続いた。そして、この旅行の最後にイェルサレムを訪れ、兄弟派に挨拶に行った。
また、パウロ派は53〜58年、小アジアに第三回布教旅行をしている。このころから、各地の教会において、同じイエス派系の他の派と論争することも起こってくるようになった。パウロはこういった同系他派を偽物と決めつけ、徹底的に攻撃を加え、その地の教会をパウロ派のものとし、その地の教会を離れてからも書簡を送って、他派に惑わされないように戒め続けた。また、この旅行の最後にもイェルサレムを訪れた(AD58)。
しかし、このころイェルサレムにおいては、兄弟派内で、パウロ派は律法を破るように異邦のユダヤ人たちに勧めている、といううわさが蔓延していた。当初より、兄弟派は一般のユダヤ人以上に律法には厳格であった。それゆえ、兄弟派の幹部は、パウロが上京したことを人々が聞きつけたらただではすまないと感じ、そこで、兄弟派幹部は、パウロに、神殿儀式の費用を寄付してユダヤ教への信仰もあついことを人々に示してはどうか、と提案した。パウロも状況を理解して、提案を受入れ、儀式に参加したが、しかし、儀式の終りの日が近くなって、参拝に来た小アジア出身者たちがパウロを見つけ、彼は各地で律法を破るよう勧めている、そして、いま、非ユダヤ人を神殿に連れ込んで、聖なる場所を汚している、と告発した。このために、町中が大混乱となり、人々はパウロを私刑にして殺そうとしていたが、ここにローマ兵が駆けつけた。彼は弁明を試みたが、人々には無視され、兵隊長は彼を鞭で打とうとした。しかし、彼がローマ市民権を持っていることを告げると、彼を不当に扱ったローマ兵たちは恐れ、すぐに鎖を解いた。
翌日、最高法院が召集されるが、彼は自分がファリサイ派であることを持出し、弁舌巧みにサドカイ派とファリサイ派との論争を作り出し、その場を逃れた。しかし、その外では数十人もの人々が彼を殺す誓いをたて、待伏せしていた。そこで、兵隊長はその夜のうちにパウロをカイサリアのユダヤ総督に護送してしまった。
数日の後、イェルサレム派の幹部もカイサリアにやってきてパウロを総督に正式に告訴した。しかし、総督はパウロから金をせびりとるため、また、ユダヤ側の人気を得ておくため、彼を軟禁したままにほっておいた。この間にも、パウロは各地の教会に手紙を書いている。
60年、新しい総督が着任すると、イェルサレム派は再度、パウロを告訴し、途中で暗殺するために、イェルサレムに連れ戻すことを求めた。しかし、パウロはローマ市民権の特権をもって、皇帝に上訴すると申しでた。このため、彼は、海路、ローマに送られることなったのである。しかし、この船は暴風にあって難破し、マルタ島に上陸した。この後、彼は信徒を頼りつつ、ローマへたどりついた(61)。ローマでは、番兵がつけられたものの、軟禁にすぎず、自費で借りた家には信徒たちを呼ぶこともできたようである。また、別に、ペテロもこのころローマにやってきて、布教に努力していたようである。両者が連絡をとっていたかどうかなどはまったく不明である。
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ローマは、当時、暴君ネロが支配していた。彼は政治的には、運河の開鑿、税制改革など功績があったが、その私生活は、母が先帝である養父を殺して16才で帝位につき、母と関係し、義弟も母も妻も殺し、男色にふけり、浴場で酒池肉林の狂乱をくりひろげるというように、悪徳の限りを尽くしたものであった。それゆえ、ローマの信者たちは彼をひそかに批判していたにちがいない。しかし、一般の人々からは、キリスト教徒もまた、ユダヤ教徒とともに皇帝やローマの神々を崇拝せず、怪しげな迷信を信じ、ひそかによこしまな儀式を行なう有害な淫祀邪教の徒と思われていた。しかしながら、パウロやペテロの活躍によって、信者は次第に増えつつあったようである。
一方、イェルサレムでは、同じ頃、ローマ側のユダヤ総督が死去した。新たな総督が着任して来ていないこのローマ空白期間を利用して、イェルサレム派(とくにサドカイ派)は、ヤコブを始めとする兄弟派をとらえ、律法に違反したとして勝手に私刑にし、殺害してしまった(61)。この後、イェルサレムのイエス派がどうなったかはわからない。
また、64年の夏、ローマ市に大火が起こり、6日に渡って燃え続け、全市が焼けつくされた。ネロはローマを離れていたが、すぐに戻って、罹災者の救援を行なった。しかしながら、ネロがローマを自分好みに造り変えるために放火した、といううわさがにわかにたった。そこで、ネロはこの風評を打消すために、キリスト教徒こそ放火犯人である、と決めつけた。民衆は正体不明のキリスト教徒への恐怖感からパニック状態に陥って、キリスト教徒狩りが行なわれ、ネロはこれに乗じて、信者たちを裁判にもかけないまま、見せ物として野獣に食い殺させ、また、十字架にかけたり、タイマツがわりに燃やしたりして楽しんだ。この狂気の混乱が続く中で、ペテロもパウロも行方不明のまま殺されてしまったようである。ただ、伝承によれば、ペテロはネロの迫害から逃れてローマを去ろうとしていたが、イエスの幻に導かれて引返し、殉教したとされる。その際、彼は十字架にかけられることになったが、師と同じではもったいないと述べたために、逆さにかけられ、その場所が現在、ローマ教皇庁のあるヴァティカンであると言われる。また、パウロは、首を切られて死んだらしい(67)。
他の使徒たち、宣教者たちがどうなっていったかは、わからない。伝承では、インドまで布教に行った者もいたとされている。しかし、いずれにしても、そのほとんどがいずれかの町でなんらかの形で殉教する、という受難の最期を遂げたようである。
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兄弟派ヤコブが殉教した後、ユダヤに下った総督はいずれも、ユダヤ人を弾圧し、税をしぼりとり、私腹をこやした。このために、総督居留地のカイサリアで起こったユダヤ人とギリシア人の反目に端を発して、ユダヤ人の暴動はまたたく間に拡大した(66)。この暴動は、同じユダヤ人のヘロデ・アグリッパ王によってももはや鎮圧できず、サドカイ派も反ローマ派に殺されてしまった。そこで、今度は、ローマのシリア兵がおもむき、大々的な〈ユダヤ戦争(66〜70)〉へと展開してしまう。しかしながら、それでも、ローマは城塞都市イェルサレムの強固な守りの前には太刀打ちできず、かえって大打撃を受けて撤退することとなる。
皇帝ネロは、事の重大さに驚き、翌年の春には六万の大軍を本国から送った。これに対して、ユダヤ側は、非力ながらも信仰の力に支えられて、預言の奇蹟を頼みつつ、執拗な民族的抵抗を続け、町々でローマ軍の進路を阻んだ。それでも、ローマ軍は徐々にイェルサレムへと進攻し、ガリラヤを経、サマリアも平定し、69年、残るはイェルサレムのみ、というところまでおいつめた。
だが、この間にネロは失政し、追放され、自殺した(68)。というのは、焼失したローマ復興のために、重税をかけ、土地を没収したからであり、また、このユダヤばかりでなく、ガリア(現フランス)やヒスパニア(現スペイン)でも反乱が起こったからである。そこで、ユダヤ攻撃を行なっていた将軍はローマに戻り、擁立されて皇帝に成上がった。そして、翌70年春には、彼の息子が残るイェルサレムを攻撃すべく、ユダヤにやってくる。
ローマ軍は、イェルサレムを完全包囲し、攻撃を試みてはみたものの、苦戦を強いられ、そこで、作戦を変更して、兵糧攻めにすることにした。市城内には二万ほどのユダヤ人が立てこもっていたが、数ヶ月後には、完全に飢餓状態に陥り、餓死者が続出した。そして、その後に最後の攻撃が行なわれたが、それでもなかなか決着はつかず、夏になってようやく、ユダヤ人の抵抗の意義そのものである神殿に達した。ローマ側も当初は、この宝殿だけはそのままにと考えていたが、あまりの抵抗についには火をかけ、すべてを燃やし始めた。そしてまた、神殿が火に焼かれ、戦意を失った残るユダヤ人たちを老若男女の区別なく、徹底的に虐殺した(70)。
ユダヤ教にしろ、イエス派にしろ、彼らが期待していた奇蹟は起こらなかった。彼らの信仰の中心であった神殿も焼け果ててしまった。ユダヤ人は都を失い、流浪の民となった。それゆえ、その信仰も、パレスティナ以外に散在するユダヤ人たちに担われていくことになる。一方、パレスティナを平定した皇帝の息子のために、ローマでは凱旋門が築かれ、絶大な人気を獲得し、数年後には父親の後をついで皇帝に就任するのである。
それでもまだ、ユダヤ教は帝国内で公認された宗教であった。これに対して、キリスト教は、あいかわらずユダヤ教徒から嫌悪され、当局からも睨まれていた。それゆえ、その後も度々、迫害を受けた。とくに、キリスト教がしだいに非ユダヤ人以外の人々に浸透するようになるに連れて、当局もこの問題をユダヤ人内部の争いとしてほっておくことができなくなったのである。しかし、このキリスト教への対応は法的に規定されたものではなく、およそ皇帝になった人物のきまぐれで厳重に取り締られたり、また、ほとんど黙認されたり、不安定な状態がいつまでも続いた。それゆえ、迫害もその多くは一般民衆による地域偶発的なものがほとんどであった。このような情勢の中で、キリスト教はかえって非ユダヤ人を中心とするようになり、それぞれの町ごとに秘密集団として形成され、また、他の町の同じような教会と連絡をとりあうようになっていき、しだいに組織化されていくのである。
十二使徒(apostolos 1C)
イエスは、生前、イスラエル十二部族にちなんで、弟子たちの中から十二人の使徒を選んだとされる。すなわち、
1 ペテロ(シモン、ガリラヤの漁師、使徒派代表、教会の創始者)
2 アンドレ(ペテロの兄弟、元洗礼者ヨハネ派、ガリラヤの漁師)
3 ヤコブ(ゼベダイの子、ガリラヤの漁師)
4 ヨハネ(ヤコブの兄弟、ガリラヤの漁師)
5 フィリポ(ガリラヤ出身)
6 バルトロマイ
7 徴税人マタイ(徴税人は卑しい職業とされていた)
8 トマ(イエスの復活を疑う、インド布教したとされる)
9 ヤコブ(ハルファイの子)
10 タダイ、もしくは、ユダ(ヤコブの子)
11 熱心党シモン
12 イスカリオトのユダ(裏切って死んだ後は、マティア)
である。しかし、注意しなければならないことは、歴史的にイエス自身がこの十二人を選んだかどうかは定かではない、ということである。むしろ、十二人の名が確定したのは1C末になってからだとも言われる。
イエス派の中には、イエスの生前から、ペテロらの使徒派、母マリアを中心とする婦人派、ヤコブらのイエスの兄弟(従兄弟)派の3派閥が含まれていた。使徒派は洗礼者ヨハネ派の系統に組みし、革新主義的(ときには過激な革命主義的)で、各地への布教を重視したのに対して、兄弟派はファリサイ派の系統に組みし、保守主義的で、律法の順守を重視したのであり、両派閥はイエス派内で当初から対立的であったと思われる。(聖書は主に使徒派によって書かれたのだが、その中に兄弟派批判が散見される。)どちらが実際にイエス派内で主導権を持っていたかは不明であるが、しかし、使徒派によって布教され、聖霊を受けた(信徒と認定された)イェルサレムの他の教会においては、使徒派こそがイエスの生前からイエス派において主導的な役割を担っていたことにする必要があったことは充分に考えられる。そして、兄弟派の代表ヤコブが殉教し、イェルサレムが陥落して後に、まさにイェルサレム以外の教会によって聖書は作られたのである。
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ペテロは、使徒派の代表であり、教会の創始者であるとされる。兄弟アンドレが洗礼者ヨハネ派におり、イエスのガリラヤ宣教時に弟子となった。しかし、彼は、イエスの逮捕に際して、イエス派との関係を問いつめられて、イエスなど知らない、と3たび否認し、激しく後悔した。
イエスの死後、彼は使徒派の代表として兄弟派、婦人派とともに、イエス派の復興に努力した。とくに彼は早々とキリスト教としての宣教を始め、ディアスポラ(ギリシア語ユダヤ人)にも多くの信者を獲得し、また、ディアスポラ派がイェルサレムから逃散して各地で宣教するようになってからは、自らもふたたびさまざまなところへ出向き、ときには非ユダヤ人にまで布教した。また、彼は、パウロ派とも近い関係を保っていた。
その後の動行の詳細は不明だが、伝承によれば、彼は後にローマに来て、布教を行なっていたが、ネロの迫害から逃れてローマを去ろうとしていたところ、イエスの幻に導かれて引返し、殉教したとされる。その際、彼は十字架にかけられることになったが、師と同じではもったいないと述べたために、逆さにかけられ、その場所が現在、ローマ教皇庁のあるヴァティカンであると言われる。
パウロ(Paulos AD5/10-67)
ヘブライ語では「サウロ」。小アジアのヘレニズム文化の中心地タルソスに生れ、天幕作りの富裕な家庭ゆえ、生れながらにローマ市民権を持っていたが、生粋のユダヤ人であり、もっとも律法に厳格なファリサイ派に属していた。それゆえ、家の仕事とともに、律法の基礎教育を受けた後、イェルサレムに上京し、ラビ(律法教師)になるべく、有名なガマリエル門下で学んだ。かくして、彼は熱狂的な律法主義者のファリサイ派となり、ディアスポラ派のステファノらが神殿軽視をするにいたっては、激怒して、人々ともに彼を石で打ち殺したその扇動者であり、それにおさまらず、町中の同派関係者を迫害し、その教会を荒して、信者の家に押入り、男女を問わず牢にぶちこんだ。さらには、町から逃れた同派の人々を追って、遠くダマスカスにまで向ったのである。
だが、彼は、その途上、突然に改心し、同地では逆にイエスの名で宣教を始める(AD36)。それゆえ、彼は、かつて迫害されたディアスポラ派の人々からも、ディアスポラ迫害を支持していた人々からも命を狙われ続けることになった。とにかく、ディアスポラ派の人々が彼の改心を信用しないので、ディアスポラでありながら使徒派に属する有力者バルナバが彼をつれてイェルサレムの使徒派に承認を得、かくして、パウロはアンティオキア教会を拠点に、故郷である小アジアの布教を自らにもって任ずることとなった(AD39)。しかし、パウロの布教には、バルナバなど使徒派のだれかが伴うことが不可欠とされたようである。というのは、彼は宣教できても、聖霊を与える(信徒と認定する)ことはできなかったらしいからである。
しかし、彼が独自の信念に基づき非ユダヤ人にも布教を行ったことは、イェルサレムのイエス兄弟派はもちろん、ユダヤの人々の反感をかった。というのは、非ユダヤ教徒を信徒と認めることは、イエス派がもはやユダヤ教ではないこと意味したからである。それゆえ、この問題に関して、パウロ派のアンティオキア教会に兄弟派から視察がやってきたようである。そこで、パウロらは、46年、イェルサレムに行き、兄弟派と協議した。兄弟派がパウロ派の信徒認定権を承認するかわりに、パウロ派は兄弟派に支援金を送るという妥協が図られたようだが、彼はここで非ユダヤ人に布教し、信徒とする権限も承認されたと勝手に思い込んだらしい。
この後、パウロ派は、小アジア地方へ第1回布教旅行に出ていた(46〜48)が、この間にアンティオキア教会は兄弟派系派に乗っ取られ、ユダヤ選民主義が教えられていた。パウロ派は彼らと論争したが、らちがあかず、AD49年、イェルサレムの兄弟派本部に直談判に行った。このイェルサレム会議において、ふたたび非ユダヤ人布教問題が争われ、その非ユダヤ人が律法を守ることを条件に信徒と認められることとなり、また、パウロ派には、兄弟派直属の監視員を派遣されることになった。
パウロ派はアンティオキアに戻った後、ギリシア地方への第2回布教旅行に出かける(49〜52)。それまで、パウロには元使徒派バルナバがつねに伴っていたが、二人は人事で衝突し、今回は、兄弟派から派遣されていたシラスと旅することとなった。この旅行においては、ローマ側に逮捕されたり、ユダヤ人に攻撃されたり、苦難が続いた。そして、この旅行の最後にイェルサレムを訪れ、兄弟派に挨拶に行った。
また、パウロ派は53〜58年、小アジアに第三回布教旅行をしている。このころから、各地の教会において、同じイエス派系の他の派と論争することも起こってくるようになった。パウロはこういった同系他派を偽物と決めつけ、徹底的に攻撃を加え、その地の教会をパウロ派のものとし、その地の教会を離れてからも書簡を送って、他派に惑わされないように戒め続けた。また、この旅行の最後にもイェルサレムを訪れた(AD58)。
しかし、このころイェルサレムにおいては、兄弟派内で、パウロ派は律法を破るように異邦のユダヤ人たちに勧めている、といううわさが蔓延していた。当初より、兄弟派は一般のユダヤ人以上に律法には厳格であった。それゆえ、兄弟派の幹部は、パウロが上京したことを人々が聞きつけたらただではすまないと感じ、そこで、兄弟派幹部は、パウロに、神殿儀式の費用を寄付してユダヤ教への信仰もあついことを人々に示してはどうか、と提案した。パウロも状況を理解して、提案を受入れ、儀式に参加したが、しかし、儀式の終りの日が近くなって、参拝に来た小アジア出身者たちがパウロを見つけ、彼は各地で律法を破るよう勧めている、そして、いま、非ユダヤ人を神殿に連れ込んで、聖なる場所を汚している、と告発した。このために、町中が大混乱となり、人々はパウロを私刑にして殺そうとしていたが、ここにローマ兵が駆けつけた。彼は弁明を試みたが、人々には無視され、兵隊長は彼を鞭で打とうとした。しかし、彼がローマ市民権を持っていることを告げると、彼を不当に扱ったローマ兵たちは恐れ、すぐに鎖を解いた。
翌日、最高法院が召集されるが、彼は自分がファリサイ派であることを持出し、弁舌巧みにサドカイ派とファリサイ派との論争を作り出し、その場を逃れた。しかし、その外では数十人もの人々が彼を殺す誓いをたて、待伏せしていた。そこで、兵隊長はその夜のうちにパウロをカイサリアのユダヤ総督に護送してしまった。
数日の後、イェルサレム派の幹部もカイサリアにやってきてパウロを総督に正式に告訴した。しかし、総督はパウロから金をせびりとるため、また、ユダヤ側の人気を得ておくため、彼を軟禁したままにほっておいた。この間にも、パウロは各地の教会に手紙を書いている。
60年、新しい総督が着任すると、イェルサレム派は再度、パウロを告訴し、途中で暗殺するために、イェルサレムに連れ戻すことを求めた。しかし、パウロはローマ市民権の特権をもって、皇帝に上訴すると申しでた。このため、彼は、海路、ローマに送られることなったのである。しかし、この船は暴風にあって難破し、マルタ島に上陸した。この後、彼は信徒を頼りつつ、ローマへたどりついた(61)。ローマでは、番兵がつけられたものの、軟禁にすぎず、自費で借りた家には信徒たちを呼ぶこともできたようである。
ローマは、当時、暴君ネロが支配していた。そして、64年の夏、ローマ市に大火が起こり、6日に渡って燃え続け、全市が焼けつくされた。そして、ネロがローマを自分好みに造り変えるために放火した、といううわさがにわかにたった。そこで、ネロはこの風評を打消すために、キリスト教徒こそ放火犯人である、と決めつけた。民衆は正体不明のキリスト教徒への恐怖感からパニック状態に陥って、キリスト教徒狩りが行なわれ、ネロはこれに乗じて、信者たちを裁判にもかけないまま、見せ物として野獣に食い殺させ、また、十字架にかけたり、タイマツがわりに燃やしたりして楽しんだ。この狂気の混乱が続く中で、パウロも行方不明のまま殺されてしまったようである。ただ、伝承によれば、パウロは、首を切られて死んだらしい(67)。
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彼は、もともと聖書にも深く精通した学者であり、改心の後は、聖書に基きつつ、〈贖罪〉と〈復活〉とに重点をおいた独自のイエス解釈を展開した。キリスト教義の体系の基礎は、彼によって構築されたと言っても過言ではない。
【原罪 peccatum originale】
アダムの堕罪の結果、その子孫である全人類に生れながらに負わされた罪。人が故意に神の掟に背く自罪とは区別される。すなわち、神の似像として作られた最初の人間アダムはエデンの楽園で幸福に暮していたにもかかわらず、蛇と女エバにそそのかされて禁断の実を食べ、神の怒りをかって呪われ、楽園を追われるところとなった。以来、人間は憎み合い、生計や産みに苦しみ、むなしく死して土にかえるべきものとなった。
この思想はパウロに始まり、とくにアウグスティヌスにおいて強調された。そして、カトリックにおいては、この原罪は洗礼によって拭われるものとされたが、プロテスタントにおいては、より重大なものとされ、原罪は洗礼によっても拭われることなく、信仰が不可欠であり、さらにそれでも不足で、救済はただ神の側からのみの任意の恩寵であるとされた。
なお、全人類のうち、ただ聖母マリアひとりがこれを免れているとされる。(無原罪懐胎の教理)
【贖罪】
律法は人間に罪を自覚させることはできるが、罪を取除くことはできない。それゆえ、異邦人はもちろん、ユダヤ人も罪に支配され、神の栄光を受けられなくなっている。しかしながら、神は、キリストがその血によって信じる者の罪を償う供え物となるようにと定めた。そして、その定めのままに、イエスが死をもって人々の罪を贖ったがゆえに、律法の行ないよりもむしろただ信仰によって正しい者とされるに至ったのである。そして、かくしてこそ、罪人たる人間と神との間に和解が生じる。ただし、この信仰は律法を無意味なものにするのではなく、むしろ律法に真の価値を与えるのである。
このようなイエスの死の贖罪としての意味付けは、もともとイエス自身によって最後の晩餐等で明らかにされていたとされるが、とくにパウロによって強調され、原罪や神と人との関係、イエスの意味の焦点となり、多くの論争を呼んだ。また、ルターやカルヴィンらのプロテスタントは、このパウロ的贖罪論をより強く復活させた。
【復活】
【教会】
カトリックなどにおいては、[教会は、キリストによって、使徒を通じて建てられたものであり、キリストと同じく、神聖であり、その救済の事業を継承しているのであり、かくして、教会は地上における唯一の神的救済機関であり、救済の〈鍵権 potestas clavis〉=[救済に入ることを許可し、また、拒否する権能]を持ち、それゆえ、また、すべての人は、教会に服従する義務を持つ]とされる。聖書もまた、教会において成立したものであり、したがって、[教会が聖書に優越する]とされ、逆に、[聖書は教会によってのみ解釈されうる]とされる。
これに対して、プロテスタントなどにおいては、[聖書こそ教会の拠って立つべき根拠であり、教会よりも聖書に基づく信仰そのものによってこそ義とされ、救済も恩寵も真理もすべて神からそれぞれに直接に与えられる]とされる。それゆえ、形式的な〈見える教会〉よりも、霊的なつながりに基づく〈見えざる教会〉こそが重要とされ、ただ信者の集団としての、聖職者なしの〈万人祭司主義〉の教会を持つ。
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