大学水準の西洋哲学として知っておくべきことのすべて


---------------------------------------------------------------------------- C デカルト


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デカルト(Rene Descartes 1596-1650)
 フランス貴族の家に生まれるが、スコラの学生時代からその学問に不満をいだき、成年になるや、書物による学問に見切りをつけて、世間のなかに学問を求め、三十年戦争さなか、先進技術の集まっている軍隊に入隊し、また、数回の大旅行をしてさまざまな経験を重ね、終日、炉部屋にこもっては考えをめぐらした。そんな中から、彼は推理が確実、明証である数学(幾何学)を重視するようになり、諸学を数学的発想の下に統一しようと考え、この元となる《普遍数学 mathesis universalis 》を構想した。しかし、このためには、既成の乱雑な諸学に手を加えるのではなく、基礎からただ一人の手で作られてこそ正しい秩序が得られると考え、そのためにはまずすべての知識を疑って破壊することから始めなければならないとした。この《方法的懐疑》の結果、ただ〈主観〉の存在だけが残ったので、これを全世界の軸として、幾何学的機械論によって世界観全体を再構成しようとしたのである。
 彼は、この業績によって「近代哲学の父」とまで呼ばれる。というのも、これによってうちたてられた世界観は、今日の我々の発想の根底を規定してしまっているほど画期的なものであった。すなわち、世界は延長し、ただたんに機械的に動くものにすぎず、人間だけが精神を持って、身体という機械で世界を把握し、また、影響を及ぼす、という考え方である。前者は《機械的世界観》、後者は《心身二元論》と呼ばれ、それぞれの議論内部にさまざまな問題をかかえ、近世哲学の大半がこの2つの議論に関係して発展してきたといっても過言ではない。


【哲学の木】
 (『哲学原理』仏訳序文)
 哲学は一本の木にたとえることができる。すなわち、その根は《形而上学》、幹は《自然学》、枝は《機械学》《医学》《道徳》の3つである。木の実がつみとられるのは枝の先からだけであるように、哲学の効用も最後の諸学にかかているのだが、それにはまず根本の形而上学が肝心である。
 《形而上学》は絶対的明証性に基づくものであり、その基礎は、人間精神と神と世界の存在証明にある。このために、デカルトは、まず、《方法的懐疑》によって、人間精神の存在を証明し、ここから、次に、《本体論》《因果説》《連続創造説》の3つによって神の存在を証明し、最後に、《神の誠実》によって、世界の存在を証明するのである。

【方法4則】
 (『方法序説』2)
 デカルトは、論理学、幾何学、代数学の3学に通じていたが、しかし、論理学は無用な規則も多く、幾何学や代数学は図形や記号にとらわれて実用的ではない。だが、精神が達しうるすべての事物の認識に至るための真の方法の規則で充分であり、すなわち、それは〈明証〉〈分析〉〈綜合〉〈枚挙〉である。つまり、
  まず、明証的なるもののみを真とし、
  第二に、問題を充分に分析し、
  第三に、単純なものから少しづつ総合し、
  最後に、全体を完全に枚挙するのである。

【明証 evidence】
 (『方法序説』『省察』など)
 認識や判断の真で確実であること。彼は、「我思う、ゆえに我あり」という哲学の第一原理が真で確実であることから、そのような〈明証〉の条件として、〈明晰〉と〈判明〉を挙げた。すなわち、 〈明晰 cula ra〉とは、〈曖昧 obscura〉の反対で、[疑いえない]ということである。
 また、〈判明 distincta〉とは、〈紛糾 confusa〉の反対で、[〈明晰〉なもの以外のなにものも含まない]ということである。
 そして、[私が充分、明晰判明に知覚するものはすべて真である Omne est verum, quod valde clare et distincte percipio.]という規則が立てられる。
 しかし、この根拠として、[神があり、その神は欺瞞者ではないから]とされるが、人性の不完全性からの神の存在証明に、すでにこの〈明証〉性を利用としており、当時からその循環論証性が指摘されている。

【暫定的道徳 moral previsoire】
 (『方法序説』3)
 学問で強固でゆるぎないものを打ち立てようとするならば、そのための方法として、一生に一度はすべてを根こそぎくつがえし、最初の土台から新たに始めなければならない。
 だが、その間も、行動においては非決定であるわけにはいかないのであり、理性の仮住いとして、暫定的な道徳が必要となる。
 第一は〈穏健律〉であり、[最も分別のある人々が実際に行っている穏健な意見に従う]ということである。というのは、一般に極端は悪く、また、間違ったとしても逆の極端な意見をとるより間違いが少ないからである。
 第二は〈決断律〉であり、[いかに疑わしい意見でも、それに決断した以上は、あくまでそれに従う]と いうことである。というのは、森で迷った時も、つねに同じ方向に向かってこそ、森から抜け出せるからである。
 第三は〈克己律〉であり、[世界の秩序よりは自分の欲望を変えようと努める]ということである。というのは、我々が完全に支配しうるものは自分の考えのみであり、外界の物事は、最善の努力でも成し遂げられないことは絶対に不可能だからである。

【方法的懐疑】
 (『方法序説』4、『省察』1)
 学問で強固でゆるぎないものを打ち立てようとするならば、そのための方法として、一生に一度はすべてを根こそぎくつがえし、最初の土台から新たに始めなければならない。
 まず、外界の事物に関して、感覚は我々をしばしば欺く。それゆえ、まず、我々はいま夢をみているにすぎないのかもしれない。しかし、夢であろうと、我々が完全に認識しているその色のような単純で普遍的な要素は真なるものだろう。だから、自然学等は確かに疑わしいものであるが、数学のような実在を問題としない学は確実ではないだろうか。
 だが、神でないまでも悪しき霊が、外界が存在するかのように誤らせ、また、完全に認識する数学なども、その認識のたびごとに誤るよう仕向けているかもしれない。それゆえ、このようなものも信用できない。
 かくして、疑う余地の少しもないものは何もないのであるが、それゆえに、何もないということを思う我、欺かれるなら欺かれるままに思う我が存在するということになる。そして、この考えるものとしての我を土台として全学問は再構築されることになるのである。

【欺く神 Dieu trompeur・悪しき霊 genius malignus
  /神の誠実 veracitas dei】
 (『方法序説』4、『省察』1)
 外界の事物や代数学・幾何学は、確実で疑いえないように思えるが、しかし、神、もしくは、悪しき霊がそれがあるかのように欺き、そうするたびごとにまちがえるように仕向けたのかもしれない。そして、外界はおろか、私自身すら感覚器官や肉体を持たないのかもしれない。
 しかし、神が実在し、すべての完全性を持ち、いかなる欠陥からも免れている以上、また、欺瞞が欠陥に基づくものである以上、神は欺瞞者ではありえない。神は誠実なのである。

【「我思う、ゆえに我在り。 Cogito, ergo sum.」】
 (『方法序説』4、『省察』2)
 《方法的懐疑》によると、疑う余地の少しもないものは何もないのであるが、それゆえに、何もないということを思う我、欺かれるなら欺かれるままに思う我が存在する、ということになる。このこそ、哲学の第一原理として受入れることができる。

【「我は思うものである sum res cogitans.」】
 (『方法序説』4、『省察』2)
 私は、私が存在しないと思うことができない。また、私が何も思わないならば、その時、私が存在すると思う理由は何もない。それゆえ、我(精神)は、実体(それ自身による存在者)であり、その本質は〈思う〉ということである。

【実体   substantia
 主要属性 attributum praecipuum
 様態   modus         】
 〈実体〉とは、[それ自身による存在者]であり、
 〈主要属性〉とは、[実体の存在の仕方]であり、
 〈様態〉  とは、[実体の属性の状態]である。
 たとえば、〈精神〉は実体であるが、その主要属性は〈思惟〉であり、その様態は〈思惟内容〉である。また、〈物体〉も実体であるが、その主要属性は〈延長〉であり、その様態は〈色形など〉である。

【蜜ロウの比喩】
 (省察2)
 蜜ロウのかたまりは、火に溶ければ、色も形も味も香りも大きさも硬さも変ってしまう。このように、蜜ロウというものは、感覚されるより、また、想像されるよりずっと多くの様態をとりうるもの(延長する実体としての物体)である。それゆえ、一般に、物体は、感覚や想像によって把握されるのではなく、精神が理解することによってこそ把握されるのである。つまり、このように物体を把握することによっても、ますます我(精神)が明証的に認識される。
 ただし、この比喩は、物体の主要属性(本質)が延長であることの説明としてだけ引用されることが少なくない。

【「私が充分に明晰判明に知覚するものは、すべて真である
   Omne est verum, quod valde clare et distincte percipio.」】
 (『省察』3)
 「私は思うものである」ということを私は確信しているが、ここには明晰判明な知覚以外のなにもない。もし、明晰判明に知覚する内容が偽でありうるならば、このような確信もありえまい。それゆえ、明晰判明に知覚するものは真なのである。

【神の存在証明】
 (『方法序説』4、『省察』3、『哲学原理』17〜21)
 神とは、デカルトは神の存在証明を《本体論》《因果説》《連続創造説》の3つによって試みた。
 《本体論》による神の存在証明は、中世のアンセルムスによるものが有名であるが、デカルトも似たような形で論じている。すなわち、神とは無限実体であるが、私は有限にすぎないがゆえに、この無限実体の観念は私が作り出したのではなく、真実に無限である実体によるものであるにちがいなく、それゆえ、神は存在するのである。
 また、《因果説》によれば、有限である私が、現に、無限実体である神の観念を持っているがゆえに、この私は神によって創られたのであり、それゆえ、神は存在するということになる。
 さらにまた、《連続創造説》によっても、私がいまあるように持続するためだけにも、瞬間、瞬間に再創造されなければならず、それゆえ、神は存在するとされる。

【連続創造説 creation continuelle】
 (『方法序説』5、『省察』3、『哲学原理』20)
 どんなものも、それが持続するところの各瞬間において保存されるためには、そのものがまだ存在しなかった場合に新しく創造するに要したのとまったく同じだけの力とはたらきを要する。それゆえ、神が世界を現在保存しているはたらきは、神が世界をはじめに創造したはたらきと、まったく同じものである。つまり、存在の維持はその時々刻々の創造にほかならない。

【原因の優越 causa eminens】
 (『省察』3)
 原因は、その原因の結果と同等ないしそれ以上のものがなくてはならない。というのも、「無からは何も生じない Ex nihilio nichil fit」からである。
 とくに観念の原因である対象そのものは、実在性と完全性に関して、観念に優越し、観念以上の実在性と完全性を持つ。中でも、神の観念はそうであり、これによって本体論的に神の存在が証明される。

【有限実体 substantia finita/無限実体 substantia infinita】
 〈実体〉とは、[存在するためになんら他のものを必要とせずに存在しているもの]であり、具体的には、我思う故に我ありに明証化される〈精神〉と、このうえなく明証的で表現的実在性を含む観念であり、また、完全なる神の観念を持つ不完全なる我が実在することの優越原因としてその実在が証明される〈神〉と、神の誠実より確かである〈物体〉との3種類がそうである。ただし、物体や精神は〈有限実体〉であるが、神は〈無限実体〉である。

【延長するもの res extensa /思惟するもの res cogitans】
 〈延長するもの〉とは〈物体〉のことであり、〈思惟するもの〉とは〈精神〉のことである。物体や精神は〈実体〉、つまり、[それ自身による存在者、存在するためになんら他のものを必要とせずに存在しているもの]であり、また、〈延長〉や〈思惟〉はその〈属性〉、つまり、[実体の存在の仕方、それを欠くと実体の観念が成立しえないように実体の本質を構成している性質]である。〈物体〉や〈精神〉と、〈延長〉や〈思惟〉は〈根拠の違い distinctio rationis〉にすぎず、両者に〈ものの違い d. realis〉はない。つまり、〈延長〉なしには〈物体〉もなく、〈思惟〉なしには〈精神〉もないのである。
 〈物体〉と〈精神〉とは、たがいに独立した実体であるから、この両者の実体としての〈ものの区別〉は、動物などにおいて、体が心に感覚を生じさせたり、心が体に行為を生じさせたりすることはどのようにしてか、という心身問題という難問を生じることになる。デカルトはこれが〈動物精気〉によって松果腺において行われると考えていた。

【動物精気 spiritus animalis】
 (『情念論』)
 脳や神経は中空であり、そこに流れる微細な空気が、精神と係わる松果腺と肉体の間に、感覚や運動を伝えている。心臓は不断の熱を持ち、希薄化された血液の最も活発かつ微細な部分のすべてがこの精気となる。これは、外部の対象の刺激の仕方や、精気の粒子の種類、器官ごとの膨張の仕方の違いによって、多様なものとなる。また、これが筋肉に入ることによって、筋肉は膨張し、収縮する。そして、精神と係わる松果腺は、脳前室と後室との通路に下がっており、この動物精気がこの腺を動かすことで、感覚が精神のものとなり、また、精神の意志に従ってこの腺が動くことで、精気の流れが変り、肉体の運動が起こる。

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