---------------------------------------------------------------------------- A アンセルムス
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アンセルムス(Anselmus Cantaberiensis 1033-1109)
北イタリアに生れ、少年時代から修道生活に憧れていたものの、父に反対され、身の固まらない不安定な日々を送っていたが、二十代半ばに父の死と前後して修道士となり、三十才にして早くも聖ステファヌス修道院副院長に抜擢された。そして、後進の指導などの実践とともに、『モノロギオン(独語録)』や『プロスロギオン(対語録)』などを記し、思索的な面も深めた。さらに、1093年には、イギリスのカンタベリー大司教に任命されるが、しかし、当時は東西教会の分裂、皇帝派との聖職者叙任権闘争、十字軍の開始など、教皇を中心とするヨーロッパ諸勢力の再編の時期にあたり、彼もまた、世俗勢力との対立にまきこまれ、追放の憂き目にあうなど、不穏な毎日であった。しかし、このような苦境にあっても著作活動は続けられ、政治的、社会的問題を反映しつつ神学的問題が論じられた。
【本体論的証明】
(『プロスロギオン』)
最も完全なものは、単に知性の中にのみならず、現実にも実在する。なぜなら、知性の中にしかないものより、現実に実在するものの方がより完全だから。ところで、神は、最も完全なものである。ゆえに、神は現実に実在する。
このような神の存在証明は、後世、デカルトをはじめとして多くの人に受継がれる一方、また、その当時から多くの批判を浴びてきた。特に、カントの「存在は主語の概念内容を増加させるような実質的述語ではない」という批判が有名である。しかし、また、この問題は、神の本質が実在である、というキリスト教の教義にかかわることであり、他の一般概念とは事情が異なる、とする考えもある。
【「知らんがために、我信ず Credo ut intelligam.」
/「信仰は知解を求める Fides quaerens intellectum.」】
信仰と理性との対立に対して、両者を共に重視する態度のテーゼ。前者は、信じるために知解するのではなく、信仰こそが絶対的な出発点であり、信仰こそが理性を真理へと至らせる、というものであり、後者は、理性こそが信仰を認識へと深めるものであり、また、いやしくも信仰する者は、神の至福直観に少しでも近付こうとすべきである、というものである。逆に、信仰しないのは傲慢であり、知解しないのは怠慢である。
前者は、理性を万能として信仰をおざなりにする弁証論者に向けられたものであり、後者は、信仰をすべてとして理性を否定する神秘論者に向けられたものである。
ベレンガリウス
ペトルス・ダミアヌス
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