---------------------------------------------------------------------------- F ロック
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ロック(Jhon Locke 1632-1704)
イギリスの清教徒の家庭に生まれ、大学で医学を学ぶが、ホッブズやデカルトに興味をもち、これを発展させて、認識論におけるイギリス経験論の代表者のひとりとなった。また、清教徒革命、王政復古、名誉革命とイギリスの激動の時代にあって、進歩主義政治家の家庭教師、秘書官をつとめ、政治学、社会思想の面においても、人民主権の議員制民主主義を理論づけるなど、一六八八年の名誉革命ではその理論的指導者であった。また、宗教学、教育学の面でも活躍し、イギリス自由主義の模範を築いた。彼の哲学の意義は、《経験主義》を明確に打出したことである。つまり、〈外界〉の〈物体〉と〈内界〉の〈観念〉との関係を説明するにあたって、デカルトやデカルト派の人々が、〈神〉を利用しつつも《合理主義》的に、〈生得〉、および、それからの〈論証〉を用いたのに対し、あくまで〈経験〉によるとしたのである。ここにいたって、《認識論》と《知識論》という2つの問題分野は、いかにして経験的〈認識〉から合理的〈知識〉が形成されるか、という、ひとつの問題にまとまる。そして、ロックはこの問題を論じるにあたって、基本的な概念装置の多くを準備したのである。そしてまた、彼は、この結果、〈認識〉の〈経験〉によって形成される〈知識〉の〈合理性〉の限界を見出してしまう。つまり、知識は、経験による以上、ある場合には、たんなる偶然的なものでしかありえない、ということを明確にしてしまった。ここから、《合理主義》と《経験主義》は別の道を歩むことになっていくのである。
【タブラ・ラサ tabula rasa】
(『自然法論』『人間知性論』1-3,2-1)
「空白の板」という意味のラテン語。《生得観念説》への反論であり、潜入見のない白紙 white paperの知性のこと。
生まれながらの人間の心は、最初の観念が経験によって外から刻み付けられるまでは、その上には何ものも印されておらず、その後、感覚と反省という経験の2作用によって、さまざまな文字が書込まれていく。つまり、「あらかじめ感覚の中に存しないものは、知性のなかにない Nihil est in intellectu, quod nonante fuerit in sensu」。
しかし、ライプニッツ(『知性新論』)は、これに対してさらに、「ただし、知性そのものを別にすればnisi intellectus ipse」と反論した。
【生得観念innate idea / 習得観念 acquired idea】
(『人間悟性論』第1巻)
〈観念〉は、その由来によって、〈生得観念〉と〈習得観念〉とに分けられる。〈生得観念〉とは、人間が生まれながらに、先天的に持っているものであり、〈習得観念〉とは、人間が経験の中で、後天的に身につけたものである。後者は、感覚によるものと反省によるものがある。感覚によるものは、人間の意識とは独立の作用であり、反省によるものは、人間の意識自体の活動である。
ロックは、〈生得観念〉を否定し、生まれながらの心は、いわば「タブラ・ラサ(空白の板)」である、とした。
【第一性質 primary qualities
第二性質 secondary qualities】
(『人間悟性論』2ー8)
すべての観念は、根本的には、〈単純観念〉に起源を持つ。しかし、その〈単純観念〉の原因は、もはや知性の観念ではなく、我々の外の事物である。逆に言うと、事物は我々の心に観念を生む〈力能〉があり、これを〈性質〉という。これには、3種ある。
第一に、事物から分離し難く、知覚せずとも事物にあるような実在的性質、すなわち、個体性、延長、形態、運動・静止、数などを〈第一性質〉という。
第二に、事物の知覚し難い第一性質が、その事物から発する微粒子によって、我々の感覚のいずれかに作用して多様な観念を直接的に生じる直接可感的性質、すなわち、すなわち、色、音、味などを〈第二性質〉という。(この発想は、当時の科学における《微粒子仮説》の影響を受けているとされる。(後述))
第三に、事物の知覚し難い第一性質が他の物質に作用してそれを変化させ、その変化によって観念としてではなくただ力能としてのみ間接的に知られる間接可感的性質がある。
後2者は、他の事物に作用する力能であり、〈第一性質〉の変様にすぎない。また、〈第一性質〉としての観念は事物そのものの類似物であるが、〈第二性質〉としての観念は事物そのものとはすこしも類似しない。
ただし、この〈第一性質〉と〈第二性質〉との区別は、一般に、どの主観にも共通の客観的性質と、主観ごとに微妙に異なる主観的性質との区別として、多少、誤解されて用いられていることがしばしばある。
【物そのもの things in themselves】【不知体 We-know-not-what】
実体としての物そのものは実在はするが、我々にとってみれば、まったく不可知なXにすぎず、我々の知るのはたかだかそれの持っている性質(属性)にすぎない。
このように[実体としての対象そのものは絶対的に知りえない]とする立場を、《不可知論 Agnoticism》という。この発想は、カントに大きな影響を与え、その後の認識論、観念論、現象学の根本問題のひとつとなっている。
【直観的知識 intuitive knowledge
論証的知識 demonstrative knowledge
感覚的知識 sensitive knowledge 】
(『人間悟性論』第4巻)
知識とは、観念相互の一致、不一致の知覚であるが、これは、その明証と確実性の程度によって、〈直観的〉〈論証的〉〈感覚的〉の3つの段階に分けられる。
〈直観的知識〉とは、2観念の直接的な比較によって把握されるものであり、これによって、精神の存在が知られる。
〈論証的知識〉とは、2観念の間に媒介観念を補うことで、それぞれの直観から間接的に把握されるものであり、媒介観念が直観的であれば確実であり、これによって、神の存在が知られ、数学や倫理学が成立つ。
〈感覚的知識〉とは、外界の事物と観念との間に成立する経験的なものであり、これによって、事物の存在が知られるが、偶然的にすぎない。
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