大学水準の西洋哲学として知っておくべきことのすべて


---------------------------------------------------------------------------- A バークリー

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バークリー(George Baerkeley 1685-1753)
 アイルランドに生まれ、聖職者となり、新大陸アメリカ東海岸に渡って、移住民と原住民にキリスト教を普及するために大学を建設しようとした。しかし、その努力にもかかわらず、計画は失敗してしまった。その後は、故国に戻り、アイルランドの地方教化につとめ、晩年には哲学を捨てて、あやしげな健康飲料に熱中した。また、彼の哲学的な主要著作はいずれも、新大陸へ渡る前の二十代で書かれたものである。なお、アメリカの西海岸、カリフォルニア州の都市バークリーは、このように新大陸建設に努力した彼の名にちなんだものである。
 彼の哲学の主眼は、当時、《力学的機械論》から発展して流行し始めた《無神的唯物論》に対し、反論することであった。このための彼の論法は、《主観的観念論》と《汎在神論》との二段階からなる。すなわち、[存在するもののすべての性質は心的な観念である、そして、このように諸性質を持って存在するものは、知覚される観念以外のなにものも含まない、ゆえに、存在するとは知覚されることである]という《観念論》と、[それゆえ、存在するものをつねに知覚する者がいる、これが神にほかならない、つまり、すべての存在するものは神の知覚の中にある]というマールブランシュ的な《汎在神論》である。
 しかしながら、彼の意図に反して、もはや時流は〈神〉の問題に戻ることなく、もっぱら、〈理性〉は〈実在〉を〈観念〉で正しくとらえうるか、という点に移っていってしまった。その問題の端緒を、彼は図らずして提起したことになったのである。


【「存在とは知覚されることである Esse est percipi~.」】
 (『人知原理論』『ハイラスとフィロナスの対話』)
 存在するものは、諸感覚によって知覚される。その知覚のうち、色、音、味など、ロックの言う〈第二性質〉は、いうまでもなく、精神の観念的なものである。さらに、延長や形態、運動などの〈第一性質〉もまた、近いものは大きく、遠いものは小さく見えるというように、実はかなり主観的であり、やはり精神の観念的なものにすぎない。このように、存在するものは、
知覚される観念以外のなにものも含まない。そしてまた、いかなる観念も精神の外には存在しないがゆえに、存在するものは精神の中にあるのであり、存在するとは知覚されることにほかならない。つまり、ロックの言うような〈物そのもの〉などというものは、はじめから存在しないのである。
 これに対して、もしそうならば、たとえば一本の木は、誰もそれを見ていない時には存在しなくなるのか、という反論があるだろうが、しかし、神がつねに万物を知覚しているからそれも存在するのであり、逆に、常識どおり、木や岩が存在しているということこそ、神が存在し、それらを知覚しているということの有力な証拠である。
 しかしながら、この一節は、後には、その神学的側面が消し去られて、精神とその精神の持つ観念のみが存在し、その他のいっさいは虚構であるとする《主観的観念論》の主張を代表するテーゼとして、しばしば引用されるようになった。

【独我論 solipsism】
 この世に実在するのは、認識主観である自分の自我だけであって、他のすべてのもの、他のすべての主観は、たかだか、唯一の自我の観念として存在しているにすぎない、とする立場。これは、《主観的観念論》という《認識論》が伴う《存在論》的にな面である。つまり、デカルト的に、〈主観〉による《認識論》をとる以上、認識対象は〈観念〉にすぎなくなり、〈主観〉しか存在しないことになってしまうのである。しばしば、〈「存在するとは知覚されることである」〉というテーゼをもって、バークリーがその代表者であるとされるが、これが誤解であるという説も充分に浸透している。
 近代哲学は、デカルト、カント、フッサールをはじめとし、このような《主観的観念論》の立場をめぐってさまざまに議論を重ねてきたのだが、その際、先に挙げた《心身問題》と並んで、この《独我論》を回避するために、《対象の実在》と《他我(他の主観)の認識》という2つの問題も避けることができなかった。
 《主観的観念論》から《独我論》を避けて、《対象の実在》を確保する仕方には、
   1 〈神の誠実〉による論法
   2 創造主でもある〈超越主観(神)〉への〈主観〉内在による論法
   3 観念に関しての〈原因の優越〉による論法
   4 認識契機としてだけの〈不可知体〉による論法
   5 〈他我〉を確保した上での、言語などによる〈主観際的観念〉による論法
    などがある。
 また、《他我の認識》を確保する仕方には、
   1 すべての〈主観〉の論理的構造共通性による論法
   2 〈超越主観(神)〉へのすべての〈主観〉内在による論法
   3 唯一〈主観〉内での、言語や行動からの〈他我〉観念的再構成による論法
    などがある。
 しかし、また、初期ウィットゲンシュタインのように、《独我論》を、ひらきなおって積極的に主張することもある。

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