大学水準の西洋哲学として知っておくべきことのすべて


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ハイデッガー

【解釈学的状況 hermeneutische Situation】
 ハイデッガー(『存在と時間』)
 解釈とは、了解内容が我がものとされることであるが、これはある種の前提なしでは不可能であり、このような解釈のための前提全体を「解釈学的状況」と言い、これは、予持 Vorhabe、予視 Vorsicht、予握 Vorgriffの3つに分けられる。予持とは、その解釈の主題となる存在者を確保していることであり、予視とは、露呈させるべき包み隠されたものに照準を合せていることであり、予握とは、その存在者を帰属させるべき概念性を決めてしまっていることである。たとえば、あるハンマーの重さを解釈するにあたって、その前提として、あるハンマーがそこにあること、その重さが目立たせられていること、ハンマーとは一般に重いものだ、と思い込まれていること、が挙げられる。
 ここには、了解内容を解釈の前提とする循環、すなわち、「解釈学的循環」があるが、しかし、これは論理学証明ではなく、実存論的分析であり、そして、この循環は、現存在が世界内存在として自分の存在自身へと係わりゆくという実存論的機構の内に根付いているがゆえに、避けらえないのである。それゆえ、ここでは、世人に没入してこの循環から抜け出そうとすることではなく、企投としてこの循環に正しく入り込むことこそ重要でなのである。

【現存在 Dasein】
 ハイデッガー(『存在と時間』序論など)
 問う者、すなわち、問うという存在能力性を持っている存在者。我々人間はつねづねそれである。存在を問う存在者は、存在的には、自分の存在そのものへとかかわり行くのであり、これを見通せるようにすることで、存在の意味への問いも仕上げられるのであり、現存在の分析を基礎存在論 Fundamentalontologie と言う。そして、このことは、存在論的には、自分の存在でもって通じて存在を自分自身に開示しているということであり、このような存在了解こそがまさに現存在の存在規定性なのである。そして、現存在の存在はそのつど私のであり、このような、現存在があれこれとふるまうことができ、また、いつもなんらかにふるまっている存在そのものを実存 Existenzと言い、ここに現存在の本質がある。そして、用物 も、その存在性格である用向 Bewandnisは、第一次的には、現存在の何を欲するか Worum-willenに関する。
 現存在は、世界内存在として、現存在が先行的にその中で自己を振向けにお
いて了解し、その上で存在者を用向けにおいて付来させる世界において、ひととして付来するさまざまな用物に付慮し、また、共現存在である他者に対慮する。というのも、現存在は、除遠し、調律する開明性によって、世界の現−存在とひとつになって現であり、被投的な気付性 Befindlichkeit 、もしくは、企投的な了解 Verstehenを構成様式とする。前者は、根本的には恐れ Furchtであり、何を恐れるか、恐れること、なぜ恐れるか、の、後者は、語り、見とり、解釈の契機からなる。しかし、日常的には、ひととして共存在に我を忘れている頽落 Verfallenであり、ここにおいてその開明性は、空語、好奇心、曖昧性に性格づけられる。つまり、現存在の平均的日常性は、頽落しつつ開明されている、被投されつつ企投する世界内存在なのである。

【世界内存在 In-der-Welt-sein】
 ハイデッガー(『存在と時間』)
 現存在は自分の存在において了解しながら、この存在へとふるまう存在者である。その存在は実存であり、各我有性 Jemeinigkeit が属している。しかし、これらの存在規定は世界内存在という存在機構において理解されなければならない。
 まず、世界とは、存在的には、その中で現存在が生きているものであり、また、存在論的には、現存在そのものの性格である。つまり、現存在が先行的にその中で自己を振向けにおいて了解し、その上で存在者を用向けにおいて付来させるところが世界である。
 つぎに、そのような存在者は、世界へとふるまうひと manであり、ここにさまざまな他の内存在者である用物が付来し、ひとはこれに付慮する。しかしまた、同じ世界内の内存在者であり現存在である他者も共現存在として付来し、ひとはこれに対慮する。そして、現存在の世界は共世界であり、内存在は共存在である。
 最後に、内存在そのものとは、除遠し、調律する開明性によって、世界の現−存在とひとつになって現であり、これは、学的には、被投的な気付性 Befindlichkeit と企投的な了解 Verstehenとの同源的な2つの構成様式がある。前者は、根本的には恐れ Furchtであり、何を恐れるか、恐れること、なぜ恐れるか、の、後者は、分節化する語り、付来させる見とり、取込む解釈のそれぞれ3契機からなる。しかし、日常的には、ひととして共存在に我を忘れている頽落 Verfallenであり、ここにおいてその開明性は、語るだけで了解しない空語、見るだけで了解しない好奇心、了解されているか否かの曖昧性の3つに性格づけられる。つまり、現存在の平均的日常性は、頽落しつつ開明されている、
被投されつつ企投する世界内存在なのである。
 したがって、世界内存在とは、世界内的に付来する存在者のもとでの存在として、おのれに先んじて、すでに世界の中に存在していることであり、このような存在構造こそ、思慮 Sorgeなのである。

【実存 Existenz】
 ハイデッガー(『存在と時間』)
 現存在があれこれとふるまうことができ、また、いつもなんらかにふるまっている存在そのもの。

【付慮 Besorgen/対慮 Fu゙rsorgen】
 ハイデッガー(『存在と時間』)
 付慮や対慮は、いずれも非独自的な実存型のひとつである。
 日常的な世界内存在であるひとは、世界の中での、世界内的存在者との交渉であるが、これは、いまだ認知しかしていない認識ではなく、取り扱い、使用する不慮であって、これは独自の「認識」、すなわち、見とり Sichtがある。つまり、存在者の諸性質を認識するのではなく、その存在の構造を規定する現象学的解釈であり、存在了解内容の実行である。そして、付慮において付来 begegnen する存在者が道具 Zeug である。また、付慮を導く、ため Um-zuへの道具の順応の見とりが配見 Umsichtである。
 しかしまた、ひとは、世界の中で、世界内存在者であり、かつ、やはり現存在である他者とも交渉するが、しかし、他者は世界を共世界とする共存在であるがゆえに、付慮とは別の対慮をとる。日常的には看過することであるが、積極的には、他者から付慮を引受け支配したり、他者に付慮の手本を示し解放したりすることである。対慮を導く見とりが顧見 Ru゙cksichtである。
 なお、独自的な、実存へと関連する見とりは、その本質的機構契機を通じて世界内存在の開明性を了解する把握であり、通見 Durchsichtである。

【用物性/措物性 Zuhandenheit/Vorvandenheit】
 ハイデッガー(『存在と時間』)
 道具が道具自身からあらわになるその存在の仕方。用物は、まさに独自的に用物てあるために、その用物性に身を引いている。しかし、それが壊れていると目立ち(Auffalligkeit )、欠けていると迫り立ち(Auferinglichkeit)、妨げていると幅立ち(Aufsa゙ssigkeit)、ここにおいて用物はその用物性を喪失し、措物性を出現させる。
 措物性とは、伝統的な本質(エッセンティア)に対する実在(エクシステンティア)であり、エクジステンツ(実存)は現存在に割当てる。措物にとって、自分の存在は、なおざり、正確には、なおざりにでもなおざりになくもありえない。これに対して、現存在にとっては、自分の存在はそのつど私のであり、そのつど、かかわりゆくべきものであり、それゆえ、現存在は措物ではない。そしてまた、このような措物は、用物を通してのみ発見される。

【死への存在 Sein zum Tode】
 ハイデッガー(『存在と時間』)
 死は、最固有な、非関連的な、追越しえない、無規定的に確実な可能性である。現存在は、日常的平均的には、現存在は、ひとに頽落し、非独自的に、死を措物とそそのかし、日常性に安らがせ、死への不安を疎外しているが、独自的には、可能性としての死への存在であり、このような可能性への存在を、先駆 Vorlaufenと言う。
 ところで、思慮の呼びかけとしての良心 Gewissen が、現存在をひととしての非独自性から独自的被投性へと呼び返し、独自的企投性へと呼び進め、責任、すなわち、なにかに対しての根拠存在を了解させようとする。このような良心を持とうとすることは、了解しようとする企投であり、単独化する不安を覚悟することであり、呼びかけを聞こうとすることである。このような最固有の責任存在への、沈黙の、不安覚悟の自己企投という現存在の独自的開明性を決意性 Entschlossenheitと言う。
 そして、決意性は先駆的な可能性としての死への存在としてはじめて、責任存在でありうることを、独自的、完全的に、つまり、根源的に了解する。ここにおいてこそ、現存在は、根源的に、それがありうるものなのである。

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