---------------------------------------------------------------------------- G ライプニッツ
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ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz 1646-1716)
三十年戦争に疲れるドイツ、ライプツィヒの、哲学教授の家庭に生まれ、二十で早くも法学博士となり、ドイツのマインツ侯国の法律顧問となった。哲学には、早くから関心をもち、ホッブズ、デカルト、パスカルを学び、スピノザにはたびたび会いに行っている。そして、ロンドン王立科学協会、フランス科学学士院の会員に選ばれ、みずから、ベルリンにドイツ始めての学士院(アカデミー)を創設し、初代院長となった。また、カトリックとプリテスタントの再統一という理想に長年、努力したが、現実の政治的利害関係に阻まれて、実現することはなかった。彼は、天性の才能に加え、法律、歴史、数学、物理学、産業等、広く関心を持ち、ヨーロッパの辺境で学問水準の遅れているドイツにあって、ヨーロッパ中の当時の第一線の政治家、文人、思想家、科学者、宗教家に会いに行ったり、また、膨大な書簡を交わしたりし、みずからの学問を発展させるとともに、ドイツの文化振興に努めた。また、ニュートンとほぼ同時に独立に《微積分法》を発見し、その後先をはげしく争ったことは有名である。
このように、彼は、学問のみならず、社交や、名誉、世評にも敏感であり、後年、さまざまな理由から宮廷内の支持を失ったことは、彼にはことさら不遇であったと思われる。
彼の哲学は、さまざまな活動のなかで形成され、それゆえ、断片的にノートの書簡にその独創的な発想が書留められているにすぎない場合が多い。主著『モナドロジー』にしても、本来は題名もないままの自分の哲学体系の抜粋的なものでしかない。また、『形而上学論』も、教会の再統一のための新たな神学的理念を提示するための論文であった。
しかし、彼の哲学の理念は、基本的には、徹底した《合理主義》に基づく《学の普遍性》ということにあったと思われる。そこには西洋も東洋もなく、ましてや、カトリックもプロテスタントもない。彼の求めたものは、宇宙の普遍性であって、その原理であり、また、それを知る人間理性の普遍性であり、その原理である。そして、宇宙がこのような原理からなる秩序を持ち、調和へと至ることを彼はかたく信じ、そして、これを彼自身も、政治や学問において実現すべく行動したのである。
彼の哲学は、このように断片的であったが、死後、弟子のヴォルフらによって、スコラ学的に整理、改編、体系化され、以後、しばらくドイツの哲学教育の標準となり、カント等にも多大な影響を与えた。この体系を《ライプニッツ・ヴォルフ哲学》という。一般に、このヴォルフ派の体系化によって、ライプニッツ哲学はゆがめられ、通俗化されたとされる。しかし、それまで書簡か小冊子で、それもラテン語しか知ることのできなかった哲学を、普通のドイツ語で、大学から広く世間に普及した意義は大きく、その後のドイツ哲学の発展の基礎は、このヴォルフ派の活躍によるといっても過言ではあるまい。
【結合法 ars combinatoria】
(『結合法について』)
すべての語が26種の文字の結合から成立するように、人間の思想にもそれを構成する究極要素である〈人間思想のアルファベット〉があるにちがいない。そこで、このすべてを見出し、可能なすべての結合形式を探究することで、既知の認識の論証はもちろん、新たな認識の発見も可能となるはずである。
これは、彼が弱冠二十才にして記した小論文であり、この独創的発想は、《記号論理学》の最初の文献とされる。ただし、中世末の神秘学者の中には、ルルスのように同じような構想を持っていた者もいたのであり、ライプニッツ自身も後に関心を持って、練金術師の用いる神秘的記号を用いたりしている。また、彼は、同じ発想の中国の《易学》にも深い関心を寄せていたと言われる。
【普遍学 scientia generalis】
デカルトは、諸学において、計量と秩序が問題となる限り、数学的方法の適用が可能であると考え、諸学の実質的内容にかかわらず、すべての学問に共通な秩序と計量関係を説明する学を構想し、これを《普遍数学 mathesis universalis》と呼んだ。
ライプニッツは、さらに、計量的諸学のみならず、すべての学に類比と調和があるとして、諸学の諸概念を、比較的少数の単純基礎概念に還元し、ここから諸学を演繹的に再構成しようと試みた。このような《普遍学》は、すべての学問に共通な《普遍記号法》と《推理計算法》からなるとされる。
しかし、それは、《記号法》と《推論規則》だけからなる、いわゆる今日の《記号論理学》とはことなり、多分に神秘的な色合の強い独創的な存在論を伴ったものであり、その一端を『モナドロジー』等からうかがい知ることができる。それゆえ、この発想は、よくもわるくも《合理主義》の徹底した立場を明確に打出したものであると言える。
【充分理由の原理 principium rationis sufficientis】
(『モナドロジー』32など)
矛盾の原理と並ぶ、我々の思考の働きの二大原理のひとつ。すなわち、[ひとつの原因、または、少なくともひとつの決定的理由なくしてはなにものも決して起こらない、AがなぜAであって、A以外ではないかということを充分に満たすにたる理由がなければ、どんな事実も成立せず、命題も正しくない]ということ。もっとも、このような理由は、十中八九我々には知ることはできないが、その根本理由は、神が最善を知恵によって知り、善意によって選び、力によって生み出すことである、とされる。
ところで、〈真理〉には、〈推理の必然的真理〉と、〈事実の偶然的真理〉があるが、前者が〈矛盾の原理〉に基づくのに対して、後者はこの〈充分理由の原理〉に基づく。
また、ショーペンハウアーは、この〈充分理由〉をさらに〈生成の充分理由〉〈認識の充分理由〉〈存在の充分理由〉〈行為の充分理由〉の4つに分けた。
【理性の真理 verites de raison
/事実の真理 verites de fait】
(『形而上学』、『モナドロジー』他)
概念の結合には2種類あり、一方は、[絶対に必然的であって、その反対は矛盾を含むようなもの]であり、もう一方は、[仮定によって必然的であるにすぎず、その反対が少しも矛盾を含まず、それゆえ、それ自身おいては偶然的であるようなもの]である。前者は〈矛盾律〉に基づく〈理性の真理〉であり、後者は〈充分理由律〉に基づく〈事実の真理〉である。
前者は、分析によってその理由をたどっていくことによって、原初的真理に到達すが、後者は、際限なく分解され、無限に細かくなってしまう。それゆえ、この最後の理由はこの系列の外にあり、それが神にほかならず、神こそがそのような細部全体を満たす充分理由であり、神は最善なものを一挙に選択したのである。
【連続律 lex continui】
「自然は飛躍しない natura non facit sultum」、すなわち、[すべてのものは系列の中にあるのだが、この系列は連続しており、飛躍がなく、また、個々のものにおいても、その状態はつねに連続的に変化しているのであって、飛躍がない]ということ。
【不可識別者同一の原理 principium identitatis indiscerniblium】
(『モナドロジー』9など)
[自然においては、2つの存在がたがいにまったく同一で、そこに内的規定に基づく違いが発見できないなどということはなく、それゆえ、たがいに識別できない2つのものは、実は、同一の1つののものである]とされる。
ここから、論理学的には、[与えられた議論の言葉内で互いに区別できない対象は、その議論について同じものとみなされるべきである]、もしくは、[真理を損失することなしに、一方が他方に代入できるものは、互いに同じである]とされる。
また、この逆を、〈同一者不可識別の原理〉という。つまり、同じものは識別できない、ということである。
しかし、〈不可識別者同一の原理〉は、ライプニッツ独特の〈モナド〉の存在論と深く結びついており、一般に成立つとは言えない。
【モナド monade】
(『モナドロジー』)
単一(部分がない)な自然の要素。「単子」とも訳される。
モナドは、一斉に発生、絶滅し、二つと同じものはない。また、窓がなく、他によって変化することはないが、内的には〈欲求〉によって不断に表象が変化している。モナドは〈眠り〉から、さまざまな表象を〈魂〉の記憶によってつなぎ、〈精神〉の理性によって反省するに至る。そして、どのモナドも〈生きた鏡〉として神が選んだ最善の、同じ一つの宇宙を自分流に映し出すことによって、〈予定調和〉が成立する。
モナドという発想は、すでにジョルダノ・ブルーノに見られ、ライプニッツはこれを受継ぎ、発展させたとされる。
【微小知覚 petite perception】
(『形而上学』33、『モナドロジー』21など)
我々の知覚は、たとえそれが明晰である場合も、必ずなにか雑然とした感覚を含んでいる。なぜなら、宇宙のあらゆる物体は共感しあっているので、我々の感覚もすべてのものと係わりを持っているからである。つまり、我々の雑然とした感覚は、際限のないほど多様な〈微小知覚〉の結果なのである。それは、波のさわめきの音が、無数の波の反響の集合から生じてくるようなものである。
ところで、表象しか持たない〈裸のモナド〉は、いまだ〈統覚 apperception 〉を持たないがゆえに、これらの多くの表象の中にきわだったものがないならば、茫然とした状態にとどまったままでいる。つまり、〈魂〉として記憶を伴い、さらに〈精神〉として反省を伴ってこそ、より抽象的な表象も認識することができるようになるのである。
【宇宙の生きた鏡 miroir vivant de l'univers】
(『モナドロジー』56,63)
個々のモナドには窓がなく、相互に作用することはないが、どれもが神の選んだ最善の同じ一つの宇宙を映し出すがゆえに〈予定調和〉し、それゆえ、そのそれぞれが、他の被造物すべてと対応し、そこにすべての実体が表出している。それは、同じ町をさまざまな方角から眺めるようなものである。
【予定調和 harmonia praestabilita】
(『モナドロジー』など)
個々の部分があらかじめ精密に調整されていることによって、部分間の直接の相互作用なしに、後々まで全体の秩序が成立すること。
すなわち、個々のモナドには窓がなく、相互に作用することはないが、モナドは、エンテレキアとも呼ばれるように、自足的に内部に作用源を持つ自動機械であるので、世界もまた無限に細密な機械であり、物質のどの部分もが神の選んだ最善の同じ一つの宇宙を映し出すがゆえに、普遍的な調和が成立する。それは、同じ町をさまざまな方角から眺めるようなものである。そして、それゆえ、精神と身体との間、つまり、目的因の領域と動力因の領域の間、自然の物理的世界と恩寵の倫理的世界の間にも調和が成立つ。
【知性そのものを除いて nisi intellectus ipse】
(『悟性新論』)
〈あらかじめ感覚の中にないものは知性の中にない〉というロックの《経験論》に対して、それを承認しつつ、それを展開する力である知性そのものだけはあらかじめあることを強調した《合理論》の立場を表す言葉。
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