---------------------------------------------------------------------------- E 日常言語派
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ウィットゲンシュタイン
【家族的類似 Familiena゙hnlichkeiten】
ヴットゲンシュタイン(『哲学探究』)
ある概念に属するものすべてに共通する本質は実在せず、そこには、ただ、さまざまな類似性がすきまなく重なりあい、交差しあって、全体に直接、間接のゆるい類縁関係を結び、全体をかたどっているにすぎない。そして、我々は、
繊維と繊維を縒り合わて一本の糸を紡ぐように、概念を拡張していくこともできる。つまり、ひとつの概念とは、ひとつの本質によるのではなく、曖昧のまま、さまざまに連続し、柔軟に変化する多様なものの複合体なのである。
【言語ゲーム Sprachspiel】
ヴィットゲンシュタイン(『哲学探究』)
原初的な、言語と言語の織込まれた諸活動の総体、人間の自然誌の一部。これは、言語を話すということが、一つの活動ないし一つの生活形式の一部であることをきわだたせるためのものであり、一つの言語を想像することは、一つの生活形式を想像することにほかならない。ここにおいて、言語ゲームは、命令、記述、推測など、多様なものであり、それらは家族的類似をなす。しかし、これは、いわば摩擦や空気抵抗を考慮に入れない第一近似にすぎず、あくまで、類似と相違を通じて、我々の言語の事情に光を投ずべき比較対象として立てられているのである。
【私的言語 private Sprache】
ヴットゲンシュタイン(『哲学探究』)
話し手にしか知りえない彼の直接の私的な感覚を指す言葉からなり、したがって、他人は理解できない言語。このような言語は、感覚と言葉を連想させることによって簡単につくられ、またその言葉の定義も、自分自身には直示的に与えうるはずである。
しかし、このような言語は多くの問題を持っている。すなわち、このような言葉は、これで感覚を記述したとしてもなんの意味を持たず、また、その記述の正しさの基準もなく、それゆえ、他の感覚の記述への応用もできず、およそ私自身も理解していると言えるものではない。
これは、言語は感覚の像であるとする感覚与件言語などの誤りを明確にするための思考実験である。また、ここにおいて、対象と言語との私的な写像規則を持つ『論考』の独我論も否定される。
ここで代って提唱されるのは、生活のある状況の下で、人と人との間で用いられる、既成の言語を背景とする言語観であり、この言語観に基づくモデルを「言語ゲーム」と言う。
ライル
【範疇誤認 category mistake】
ライル(『The Concept of Mind』1949など)
デカルト以来の心身問題をはじめとする哲学的諸問題は、その概念が属する範疇を誤認することに由来する。それは、大学を大学のさまざまな建物と、部隊を兵隊と、チーム精神を選手と並列の同じようなものと考えることによる。また、デカルトのように、精神と身体、精神活動と身体活動を同等とみなすこ*とによって、身体の中の精神という「機械の中の幽霊」のような「デカルトの神話」が生じる。哲学の使命は、こうした混乱を概念分析によって整理、解消することにある。
【事実知/方法知 knowing that/how】
ライル(『心の概念』)
学識主義者は、知能的行為とは、行為に先立つ、行為の規則やその規則の規準の計画という学識的作業に基づくものであるとする。しかしながら、それは事実ではなく、また、かりにそうであれば、その計画もまた知能的行為であるから、その計画の計画というように無限後退に陥る。つまり、知能 inteligence とは、事実がどうであるのか知っているというような学識 intellectなのではなく、行為をどのようにやるのか知っているということであり、これは、頭の中で知っていることではなく、まさに実際にできるという傾性 dispositionである。そして、学識は情報を学ぶことで瞬間的に得られるが、知能はひたすら仕込まれることで段階的にのみ得られるのである。
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