大学の哲学
哲学なんてふつうの人には関係ない。べつに就職や昇進の一般教養で試験に出るわけでなし、日常の世間話で話題になることもない。それどころか、デカルトが、カントが、なんて言おうものなら、まわりはみんなドン引き。なにかかわいそうな人のようだから、関わらないでおこうというところ。
むかし、やたら哲学がはやった時代もあったらしいのですが、いまの世の中にはもう合わないのかも。せいぜい大学の一般教養課程に残っているくらい。それも選択科目だから、むりに取らなくてもいい。まあ、そんな哲学を私は教えています。
単位さえもらえればいい、という学生さんたちを相手に、週一回90分、それを前期15回、後期15回、計30回、総計45時間で、どんな話をさせていただけばいいのやら。たとえ大半はたいして聞いていないにせよ、中にはきちんと聞いている学生さんもいるわけで、となると、あまりいいかげんにもできず、それはそれで、いろいろ悩む。どうせみんな、この講義の後にも先にも、二度と哲学なんていうものに関わり合うことはないのだろうから、せいぜいなんとかその全体像がおぼろげながらにでもわかってもらえたら、とは思うものの、三千年近い人類の思想を45時間ですべて語るなんて、できない相談。だいいち、私なんかに、そんな大それた知識見識があるわけもない。
大学で哲学というと、まあどこでも『哲学概論』と称して、実際は古代ギリシアから現代欧米思想まで、哲学史、それも「西洋」の哲学の歴史を講じる、というのが一般的です。人間がものごとを考えるのは前提とか脈絡とかいうものがあり、順を追ってでないと話がわからないからです。かといって、西洋哲学史が哲学なのか、というと、どうも違う。哲学史はあくまで哲学を学ぶための手順にすぎない。それは、旅行が電車やバスに乗ることではないのと同様。
開き直るわけではありませんが、哲学史を学びたいなら、ほかにいくらでもやたら詳しい大先生がいらっしゃって、むちゃくちゃ細かい本だの論文だの書いていらっしゃいますから、私のようなグータラな教員が語る半端な哲学なんかでむだな遠回りをしたりせず、そちらに行かれたらよろしかろうと思うわけです。
しかし、世の中にはグータラな方も多いわけで、私のようなグータラな教員から、手っ取り早く、たいがいに哲学とやらを教えてもらおうか、などというグータラなニーズも少なくなく、おかげさまでうちの講義もぼちぼち繁盛している、とまあ、こんなところです。
かようなわけで、哲学史の話をするにはするにしても、哲学を学ぶのに必要最小限、それもわかりやすく、かなりいいかげんにしか扱いません。それよりも、ちゃんと哲学の話をしようじゃありませんか。
哲学はヘリクツ?
哲学というと、なにか小難しいことを言い散らして、ひとを言い負かす学問、と思っている人も少なくないようです。それは、哲学の「哲」の字が、口を折る、と書くからでしょうか。でも、ほんとうはむしろ逆。自分の口を折る、つまり、沈黙の知、です。
ひとはみな、自分の考え方が正しい、と思っています。私は正しい、なぜなら、私が検証した結果、やはり正しかったからだ、みたいに。いやいや、困った。それは、物差しで、その物差しの長さを確かめるような話。もうちょっと考えれば、自分で自分の考えが正しいと思うことなんか、なんの意味も無いことに気づきそうなのですが。まあ、だれでもみんなむだに自尊心が高いので、ひょっとして自分はまちがっているのではないか、などと考えたいとも思わない。それどころか、せっかちな人、負けん気の人は、哲学の話をするとすぐ、そんなのおかしい、そうではなくて、こうだ、と、自分の考え方を語りたがります。
いや、あなたの考え方がまちがっている、と言っているのではありません。世の中には、同じものでも、別の考え方が成り立ちうる、という話です。たとえば、1時55分は、2時の5分前。どちらが正しいか、とか、一方が正しければ他方はまちがいだ、とかいうまでもでしょう。なのに、あなたは、1時55分が正しい以上、2時の5分前などというのは変だ、まちがっている、と言い張るのですか。それこそ、ヘリクツというものでしょう。
ちょっと前、丸くて四角くて三角だ、なんていうキャンディの広告がありました。リクツで言えば、丸は、四角くないし、三角でもない。だから矛盾している、そんなものはありえない、ということになるでしょう。しかし、矛盾しているものはありえない、などと、だれがかってに決めたのか。現実を見ればわかるとおり、世の中は矛盾だらけ、リクツに合わないことだらけ。まあ、矛盾していることくらい、このむちゃくちゃな世界では、大したことではありません。実際、底辺が丸で、正面が四角で、側面が三角なもの、円錐の潰れたみたいな立体だって、べつにふつうにありうるものです。
人間は、いったんある考え方に染まると、それに満足してしまって、それ以外にもほかに多種多様な正しい考え方もありうる、などとは考えてもみない。自分と違う考え方の人々は、正しい考え方を理解していない、とバカにして、延々と自分の考え方を人々に訴え続ける。しかし、そんな強引なことをしていても、人々を頭ごなしに否定して傷つけ、そのうえ、無理解な無能者と逆恨みし、自分自身もまた自分自身の考え方に縛られてしまって不遇のまま身動きが取れなくなる。
ほんのちょっと考え方を変えるだけで、いまよりもずっと良い解決策が見つかる、ということも、おうおうにあるものです。でも、考え方を変える、一人の人間が複数の考え方を持って、自由に切り替えて使う、なんていうことが、できるものなのでしょうか。できます。ただ、それにはまず、ほかの考え方というものが、ありうるということ、そして、それがどんなものなのか、学ばなければなりません。それが、哲学です。
この講義の目標
自分で哲学をできるようになること。自分とは違う考え方でも理解できるくらいの思考の度量を養うこと。
まずは、黙ること。黙って、まずは、ひとの考え方を理解すること。検証や批判は、その後の話です。理解もできていないうちから、つまり、それがどんな考え方なのかもわかっていないうちから頭ごなしに否定してしまうのではなく、まずは、その考え方の全体像をおおよそにでもつかむこと。
しかし、それが案外、難しいのかもしれません。とくに日本では、戦前の高圧的な翼賛政治の反動なのか、戦後は、どういうわけか、やたら自分の意見を言うことが良いことのように、若者たちを教育してきた。しかし、バカの考え、休むに似たり、と昔から言うように、なにも学んでいないやつが自己主張されても、声が大きいだけ、迷惑。
とくに難しいのは、局所的には正しいことが全体論としては正しくないことがある、ということを理解すること。難しく言うと、ミクロとマクロの矛盾、合成の誤謬、というやつです。たとえば、三点の距離から土地の形を決める三角測量は、かなり正確です。ところが、これを世界規模でやると、地球が丸いために、つじつまが合わなくなってしまう。逆に、たとえば、消費拡大による経済振興、のように、世界規模では正しいことでも、個人が一人だけでやると悲劇的な一人負け、ということも多くあります。
個人的な経験と、世界的な真実は、かならずしも一致しておらず、世界的な真実は、個人的な経験とはまったく異なるものであることも往々にあるのです。たとえば、虹は、個人的な経験からすれば、きれいな七色の輪ですが、世界的な真実からすれば、それは、水蒸気に光が屈折反射しただけ。麻薬中毒なども、個人的な経験からすれば快楽の嗜みかもしれませんが、世界的な真実からすれば病気の一種です。個人的な経験は、世界的な真実の「現象」に過ぎず、現象は真相をそのままに表しているわけではないのです。
育てられてきた連中というのは、アルキビアデスと同じで手に負えない。哲学は、口を折る、と書くとはいえ、折るのは他人の口ではなく、自分の口です。まずは他人の考えを聞いてみよう、へぇ、そんな考え方もあるのか、と、まあ、おもしろがることが哲学の第一歩で、べつにそれで、相手の考え方が正しい唯一のものだ、などというわけでなし、いろいろ学んで考えも拡げずに、自分の意見ばかり言っても、だれも聞いてくれないというのは、ものの道理。
だいいち、私に反論したところで、これらはもとより私の考え方ではなく、私はただ、ひとのいろいろな考え方を御紹介させていただくだけで、どれが正しいか、など、知るところではありません。そもそも、どの考え方が正しいか、なんて、ひょっとすると、まさに考え方しだいなのかも。
てなことをしていると、どういうわけか、こわもての同業者の方がやってきて、やいやい、誰に断ってデカルトを語るってんだ、ごらぁ、ということになるのですが、まあ、こんな市井の片隅で素人相手にやっていることに目くじらを立てるなど、大人げない、とは思うものの、折からの大学不景気と哲学不人気で、嫉妬なのか、不遜なのか、まあ、なにを言っても聞く耳も無く、はいはい、えろうすんません、としか言いようがない。
とはいえ、それは学生や社会人も同じことで、
哲学なんてふつうの人には関係ない。べつに就職や昇進の一般教養で試験に出るわけでなし、日常の世間話で話題になることもない。それどころか、デカルトが、カントが、なんて言おうものなら、まわりはみんなドン引き。なにかかわいそうな人のようだから、関わらないでおこうというところ。
むかし、やたら哲学がはやった時代もあったらしいのですが、いまの世の中にはもう合わないのかも。せいぜい大学の一般教養課程に残っているくらい。それも選択科目だから、むりに取らなくてもいい。まあ、そんな哲学を私は教えています。
単位さえもらえればいい、という学生さんたちを相手に、週一回90分、それを前期15回、後期15回、計30回、総計45時間で、どんな話をさせていただけばいいのやら。たとえ大半はたいして聞いていないにせよ、中にはきちんと聞いている学生さんもいるわけで、となると、あまりいいかげんにもできず、それはそれで、いろいろ悩む。どうせみんな、この講義の後にも先にも、二度と哲学なんていうものに関わり合うことはないのだろうから、せいぜいなんとかその全体像がおぼろげながらにでもわかってもらえたら、とは思うものの、三千年近い人類の思想を45時間ですべて語るなんて、できない相談。だいいち、私なんかに、そんな大それた知識見識があるわけもない。
大学で哲学というと、まあどこでも『哲学概論』と称して、実際は古代ギリシアから現代欧米思想まで、哲学史、それも「西洋」の哲学の歴史を講じる、というのが一般的です。人間がものごとを考えるのは前提とか脈絡とかいうものがあり、順を追ってでないと話がわからないからです。かといって、西洋哲学史が哲学なのか、というと、どうも違う。哲学史はあくまで哲学を学ぶための手順にすぎない。それは、旅行が電車やバスに乗ることではないのと同様。
開き直るわけではありませんが、哲学史を学びたいなら、ほかにいくらでもやたら詳しい大先生がいらっしゃって、むちゃくちゃ細かい本だの論文だの書いていらっしゃいますから、私のようなグータラな教員が語る半端な哲学なんかでむだな遠回りをしたりせず、そちらに行かれたらよろしかろうと思うわけです。
しかし、世の中にはグータラな方も多いわけで、私のようなグータラな教員から、手っ取り早く、たいがいに哲学とやらを教えてもらおうか、などというグータラなニーズも少なくなく、おかげさまでうちの講義もぼちぼち繁盛している、とまあ、こんなところです。
かようなわけで、哲学史の話をするにはするにしても、哲学を学ぶのに必要最小限、それもわかりやすく、かなりいいかげんにしか扱いません。それよりも、ちゃんと哲学の話をしようじゃありませんか。
哲学はヘリクツ?
哲学というと、なにか小難しいことを言い散らして、ひとを言い負かす学問、と思っている人も少なくないようです。それは、哲学の「哲」の字が、口を折る、と書くからでしょうか。でも、ほんとうはむしろ逆。自分の口を折る、つまり、沈黙の知、です。
ひとはみな、自分の考え方が正しい、と思っています。私は正しい、なぜなら、私が検証した結果、やはり正しかったからだ、みたいに。いやいや、困った。それは、物差しで、その物差しの長さを確かめるような話。もうちょっと考えれば、自分で自分の考えが正しいと思うことなんか、なんの意味も無いことに気づきそうなのですが。まあ、だれでもみんなむだに自尊心が高いので、ひょっとして自分はまちがっているのではないか、などと考えたいとも思わない。それどころか、せっかちな人、負けん気の人は、哲学の話をするとすぐ、そんなのおかしい、そうではなくて、こうだ、と、自分の考え方を語りたがります。
いや、あなたの考え方がまちがっている、と言っているのではありません。世の中には、同じものでも、別の考え方が成り立ちうる、という話です。たとえば、1時55分は、2時の5分前。どちらが正しいか、とか、一方が正しければ他方はまちがいだ、とかいうまでもでしょう。なのに、あなたは、1時55分が正しい以上、2時の5分前などというのは変だ、まちがっている、と言い張るのですか。それこそ、ヘリクツというものでしょう。
ちょっと前、丸くて四角くて三角だ、なんていうキャンディの広告がありました。リクツで言えば、丸は、四角くないし、三角でもない。だから矛盾している、そんなものはありえない、ということになるでしょう。しかし、矛盾しているものはありえない、などと、だれがかってに決めたのか。現実を見ればわかるとおり、世の中は矛盾だらけ、リクツに合わないことだらけ。まあ、矛盾していることくらい、このむちゃくちゃな世界では、大したことではありません。実際、底辺が丸で、正面が四角で、側面が三角なもの、円錐の潰れたみたいな立体だって、べつにふつうにありうるものです。
人間は、いったんある考え方に染まると、それに満足してしまって、それ以外にもほかに多種多様な正しい考え方もありうる、などとは考えてもみない。自分と違う考え方の人々は、正しい考え方を理解していない、とバカにして、延々と自分の考え方を人々に訴え続ける。しかし、そんな強引なことをしていても、人々を頭ごなしに否定して傷つけ、そのうえ、無理解な無能者と逆恨みし、自分自身もまた自分自身の考え方に縛られてしまって不遇のまま身動きが取れなくなる。
ほんのちょっと考え方を変えるだけで、いまよりもずっと良い解決策が見つかる、ということも、おうおうにあるものです。でも、考え方を変える、一人の人間が複数の考え方を持って、自由に切り替えて使う、なんていうことが、できるものなのでしょうか。できます。ただ、それにはまず、ほかの考え方というものが、ありうるということ、そして、それがどんなものなのか、学ばなければなりません。それが、哲学です。
この講義の目標
自分で哲学をできるようになること。自分とは違う考え方でも理解できるくらいの思考の度量を養うこと。
まずは、黙ること。黙って、まずは、ひとの考え方を理解すること。検証や批判は、その後の話です。理解もできていないうちから、つまり、それがどんな考え方なのかもわかっていないうちから頭ごなしに否定してしまうのではなく、まずは、その考え方の全体像をおおよそにでもつかむこと。
しかし、それが案外、難しいのかもしれません。とくに日本では、戦前の高圧的な翼賛政治の反動なのか、戦後は、どういうわけか、やたら自分の意見を言うことが良いことのように、若者たちを教育してきた。しかし、バカの考え、休むに似たり、と昔から言うように、なにも学んでいないやつが自己主張されても、声が大きいだけ、迷惑。
とくに難しいのは、局所的には正しいことが全体論としては正しくないことがある、ということを理解すること。難しく言うと、ミクロとマクロの矛盾、合成の誤謬、というやつです。たとえば、三点の距離から土地の形を決める三角測量は、かなり正確です。ところが、これを世界規模でやると、地球が丸いために、つじつまが合わなくなってしまう。逆に、たとえば、消費拡大による経済振興、のように、世界規模では正しいことでも、個人が一人だけでやると悲劇的な一人負け、ということも多くあります。
個人的な経験と、世界的な真実は、かならずしも一致しておらず、世界的な真実は、個人的な経験とはまったく異なるものであることも往々にあるのです。たとえば、虹は、個人的な経験からすれば、きれいな七色の輪ですが、世界的な真実からすれば、それは、水蒸気に光が屈折反射しただけ。麻薬中毒なども、個人的な経験からすれば快楽の嗜みかもしれませんが、世界的な真実からすれば病気の一種です。個人的な経験は、世界的な真実の「現象」に過ぎず、現象は真相をそのままに表しているわけではないのです。
育てられてきた連中というのは、アルキビアデスと同じで手に負えない。哲学は、口を折る、と書くとはいえ、折るのは他人の口ではなく、自分の口です。まずは他人の考えを聞いてみよう、へぇ、そんな考え方もあるのか、と、まあ、おもしろがることが哲学の第一歩で、べつにそれで、相手の考え方が正しい唯一のものだ、などというわけでなし、いろいろ学んで考えも拡げずに、自分の意見ばかり言っても、だれも聞いてくれないというのは、ものの道理。
だいいち、私に反論したところで、これらはもとより私の考え方ではなく、私はただ、ひとのいろいろな考え方を御紹介させていただくだけで、どれが正しいか、など、知るところではありません。そもそも、どの考え方が正しいか、なんて、ひょっとすると、まさに考え方しだいなのかも。
てなことをしていると、どういうわけか、こわもての同業者の方がやってきて、やいやい、誰に断ってデカルトを語るってんだ、ごらぁ、ということになるのですが、まあ、こんな市井の片隅で素人相手にやっていることに目くじらを立てるなど、大人げない、とは思うものの、折からの大学不景気と哲学不人気で、嫉妬なのか、不遜なのか、まあ、なにを言っても聞く耳も無く、はいはい、えろうすんません、としか言いようがない。
とはいえ、それは学生や社会人も同じことで、
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