5cm per sec.

週明けの月曜日。
貴樹は都内の本社、人事部に出頭していた。
5日も猶予をもらったのは破格の扱いだと自覚していたが、それも自分への期待の表れなのだろうと冷静に考えていた。

貴樹自身は転勤を断ろうとはまったく思っていなかった。
ただ、明里をどのように説得するのか、それだけに心を砕き、奔走した5日だった。

おそらく想像しうる最良の結果となって、この場に戻ってこれたことを心から嬉しく思っていた。

「種子島への転勤、お受けします。単身赴任ではなくて妻と一緒にまいります」

人事本部長と上司の前で貴樹は転勤を受諾した。

人事本部長はニコニコとしながらうなづいた。

「奥さんは雑誌の編集者だと聞いていたが……辞めるのかね？」
上司が少し驚いた表情で聞く。

「いえ、格別の計らいをしていただき、サーフィン雑誌に異動して種子島を含む南九州を管轄する特派員みたいな仕事をするそうです」

「ほお〜、種子島はサーフィンも盛んだったね。遠野くんも、やるのかね？　実家もあるのだろう？」
今度は人事本部長。

「いえ、実はマリンスポーツはまるでだめでして……」

頭をかきながら答えると、本部長は意外そうに「なんでも出来そうに見えるが、そうだな、人には得手不得手があるからな」とうんうんとうなづきながら言っている。

「まあ、とにかくだ。はやぶさ2は遠野君、きみの双肩にかかっている。期待しているよ」

「微力を尽くします」

貴樹は深く頭を下げる。

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花苗は近田ととともにハワイに渡った。近田は勤務しているメーカーに籍を残したまま、特別にB社に業務委託を受け、花苗のマネージャー業務をしている。とはいえ、英語での契約関係はお手上げなので、その部分は堤に頼んでいた。
パイプライン女王のマネージャーは複数いないと務まらないのだ。

貴樹と明里は中野坂上のマンションを引き払い、南種子町の一軒家を借りた。
古民家だがリフォームが入っているため、内装は今風だ。

貴樹の父親は定年後も、暖かな風土のこの島に定住し、銀行勤務時代に培った人脈を駆使して、経営コンサルタント業を始めていた。とはいっても、年金に企業年金をくわえた額で十分に食べていける。

実家から車で10分ほどのところに家を構えた貴樹は、すぐそばの種子島宇宙センターへ通う日々。明里は西之表のサーフショップガイドから始めて、島中のサーフスポット案内文章を書き換え、誌面上の初心者教室のモデルとして登場した。

産後すぐで爆乳状態の花苗の姉ともども、赤のラッシュガードで登場した明里は、もちろん人気となり、真摯な態度でサーフィンにチャレンジしていった。
子どもの頃、体の弱かった自分が仕事で「波乗り」をしていると思うと、まるで異次元世界に紛れ込んだように感じるのだけど、これが現実なのだ。
最初はすぐに板の上に立てるよう、ロングボードから始めていた。


理子は月に二度の頻度で種子島にやってくる。来島すると、ホテルではなくて貴樹と明里の家に転がり込むのだが、話をするのは仕事の話ではなくて、サーフィンの話ばかり。

「理子、何しに種子島に来てるの？」とたしなめられるほどだ。

そんなある日。

「あ、私、結婚します」

唐突に理子が宣言して。

「祐一さんと？」

「それ以外に誰がいるの! 早くしないと、お腹めだっちゃうし」

その言葉の意味が貴樹と明里にはしばらくピンとこなくて。

「えええええええっ!! おめでた？　もしかして？」

「ふふふ。うん。やっと、やっと明里の先を越せた!」

そういうもんじゃないでしょう、と明里は思う。

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人それぞれの人生の道が重なりあったり、並行していたり、影響しあったりして、時は進んでいく。時には加速し、時には停滞する。

でも、その中にいる人にはその速度なんてわからない。

だけど、それを気にする必要はないと思う。

たとえ、秒速5センチメートルで進んでいたって、確実に前に進んでいるのだから。

人はどこかにとどまってはいられない。
望むと望まないとに関わらず、いつかはそこから立ち去っていく。

しかし、それは後に何かを残すためのものではなくて、その先にある何かを探しづけるためのものだから。

未来は待っているものじゃなくて、歩いて、進んで、つかみ取っていくものだから。

過去の呪縛から抜け出すために、今とは違う何かを見つけ出すために、毎日毎日が出発の日々なのだ、きっと。

(つづく)