最終更新: centaurus20041122 2014年04月21日(月) 16:34:55履歴
街は春になっていた。
ときおり冷え込む日もあるが、陽射しはあたたかく、風は柔らかい。
遠くから遊んでいる子供の声が聞こえ、かすかに踏み切りの音が聞こえている。
「戻ってきたね」
「うん……やっと」
小田急線参宮橋駅。
そのすぐ近くの踏切へ二人は向かっていた。
6年前まで毎日のように通った通学路が懐かしい。
ビルが立ち、木々が成長している。そして、自分たちの視点も。
「こんなに狭かったかな、この道」
「私たちが大きくなったからよ」
勾配の急な坂道を歩きくだると見慣れた踏切が見えてきた。
「代々木公園に行ってみようか。あの日、約束したように。桜を見に」
明里は返事のかわりに貴樹の左腕にからみついた。
貴樹の母は篠原家へ挨拶へ行った帰り、明里に一つだけお願いをしていった。
「男の子だからいつかは独り立ちをしないといけないのはわかってるけど、あの子が料理をするとは思えないのよ。もちろん、一人暮らしするための最低限の道具は揃えるし、引っ越しまでに基本的なことは教えるつもりだけど、明里ちゃん、あの子が飢え死にしないように見ててあげてくれないかしら」
冗談めかして言っていたが、女親とはこういうものなんだろうな、と明里は思った。
「わかりました、私が最低限のメニューを教えます。それに、私が作ったものでよければごちそうしますし」
「ああ、それがあの子のためには一番ね」
「なにこそこそ話してるの?」
貴樹が戻ってきた。
「ん、貴樹くんレスキュー作戦」
「?」
とはいえ、貴樹も最低限の調理はできるようになったようだ。たぶん。
「無洗米買ってきて、印のところまで水入れてスイッチ押せばいいんだろう?」
と、まるで化学の実験でもするような言い方で貴樹が言うので、明里は笑ってしまった。もう少し、趣きがあってもいいと思うんだけど。
それにしても貴樹の口から「調理方法」についての説明を聞く、というのもなかなか新鮮に感じる明里だった。
東京に転居してからゴールデンウィーク過ぎあたりまで、週末を使っての明里による料理の特訓が始まり、貴樹もなんとか「飢え死にしない」程度の調理ができるようになった。
5月中旬の週末。
起き出した貴樹が、窓を開いて湿度の低い風を招き入れると、よどんだ空気が抜けて行く。まだ明里が眠っているので、カーテンはそのままだ。風にときおり、ひらひらしている。週末の朝のまどろみはとても気持ちいいものだから、できるだけ寝かせててあげたい。
「ん……」
明里が目を覚ますと、貴樹は隣にいなかった。
隣の、ダイニングキッチンから音が聞こえてくる。
「貴樹くん、いいよ、私が……」
「できたら、呼ぶよ。今朝、卒業テストして」
「テスト?」
「ん、朝食の調理の」
ドアの後ろから顔だけ出した貴樹がそう言う。
新婚夫婦ってこんな感じなのかな。
そんな想像をして明里は自分で照れていた。
自分たちで制限をかけなければ、毎日でもずっといたくなるから。
話し合った二人は、週末だけお互いの部屋に泊まるというルールにした。
四六時中一緒にいたら、だんだん慣れあいが強くなり、生活がルーズになってしまうだろう。しかし、週末だけお互いの部屋に泊まるのだったら、必然的に部屋も片付けるだろうし、いい意味での緊張感も維持できるのでは、と考えた。
それまでの6年間、二人はとてもストイックだった。
それが一気に崩壊するのは良くない、と本能的に感じていたから、それまでのストイックさをある程度維持しつつ、週末は二人の気持ちをぶつけあう。そんなふうにしようと話し合った。
そして、その日は貴樹の部屋で朝を迎えていた。
幸せなまどろみの中で明里は昨夜の感触を思い出す。
「どうして貴樹くんの指は、あんなに私を……」
「明里、できたよ」
声をかけられて、朝から淫靡な回想していた自分を少し恥じる。
「ん、いくね」
貴樹が作った朝食はオーソドックスにまとめられていた。
・ごはん
・豆腐と油揚げの味噌汁
・ハムエッグ
・サラダ
「うん、おいしい!」
「だろう?」
お世辞抜きで貴樹の作った朝食は美味しかった。調理はセンスが必要で、いくらレシピ通りにやっても、センスがない人は美味しくしあげられない。逆にセンスのある人は適当にやってもなんとか作り上げてしまえる。
「これ、もしかして貴樹くんの黄金メニュー?」
「黄金メニューって?」
「んー、鉄板というか、これさえあれば他はなにもいらないっていうメニュー、かな」
「そうだね、味噌汁の具はいろいろあるけど、この組み合わせが最高だと思っているし、卵料理は目玉焼きや玉子焼きよりは半熟の炒り卵が好きなんだ。バターを入れて作る甘いスクランブルエッグよりは塩コショウで味付けするほうが好きだし。ハムの代わりにウィンナーでもいいけど」
「なんだか不思議、貴樹くんのことを知れば知るほど味が出てくる。際限なく知りたくなる」
「僕は出汁昆布?」
貴樹がとぼけて二人は笑った。
さんさんと輝く初夏の輝きが二人を祝福していた。
(つづく)
ときおり冷え込む日もあるが、陽射しはあたたかく、風は柔らかい。
遠くから遊んでいる子供の声が聞こえ、かすかに踏み切りの音が聞こえている。
「戻ってきたね」
「うん……やっと」
小田急線参宮橋駅。
そのすぐ近くの踏切へ二人は向かっていた。
6年前まで毎日のように通った通学路が懐かしい。
ビルが立ち、木々が成長している。そして、自分たちの視点も。
「こんなに狭かったかな、この道」
「私たちが大きくなったからよ」
勾配の急な坂道を歩きくだると見慣れた踏切が見えてきた。
「代々木公園に行ってみようか。あの日、約束したように。桜を見に」
明里は返事のかわりに貴樹の左腕にからみついた。
貴樹の母は篠原家へ挨拶へ行った帰り、明里に一つだけお願いをしていった。
「男の子だからいつかは独り立ちをしないといけないのはわかってるけど、あの子が料理をするとは思えないのよ。もちろん、一人暮らしするための最低限の道具は揃えるし、引っ越しまでに基本的なことは教えるつもりだけど、明里ちゃん、あの子が飢え死にしないように見ててあげてくれないかしら」
冗談めかして言っていたが、女親とはこういうものなんだろうな、と明里は思った。
「わかりました、私が最低限のメニューを教えます。それに、私が作ったものでよければごちそうしますし」
「ああ、それがあの子のためには一番ね」
「なにこそこそ話してるの?」
貴樹が戻ってきた。
「ん、貴樹くんレスキュー作戦」
「?」
とはいえ、貴樹も最低限の調理はできるようになったようだ。たぶん。
「無洗米買ってきて、印のところまで水入れてスイッチ押せばいいんだろう?」
と、まるで化学の実験でもするような言い方で貴樹が言うので、明里は笑ってしまった。もう少し、趣きがあってもいいと思うんだけど。
それにしても貴樹の口から「調理方法」についての説明を聞く、というのもなかなか新鮮に感じる明里だった。
東京に転居してからゴールデンウィーク過ぎあたりまで、週末を使っての明里による料理の特訓が始まり、貴樹もなんとか「飢え死にしない」程度の調理ができるようになった。
5月中旬の週末。
起き出した貴樹が、窓を開いて湿度の低い風を招き入れると、よどんだ空気が抜けて行く。まだ明里が眠っているので、カーテンはそのままだ。風にときおり、ひらひらしている。週末の朝のまどろみはとても気持ちいいものだから、できるだけ寝かせててあげたい。
「ん……」
明里が目を覚ますと、貴樹は隣にいなかった。
隣の、ダイニングキッチンから音が聞こえてくる。
「貴樹くん、いいよ、私が……」
「できたら、呼ぶよ。今朝、卒業テストして」
「テスト?」
「ん、朝食の調理の」
ドアの後ろから顔だけ出した貴樹がそう言う。
新婚夫婦ってこんな感じなのかな。
そんな想像をして明里は自分で照れていた。
自分たちで制限をかけなければ、毎日でもずっといたくなるから。
話し合った二人は、週末だけお互いの部屋に泊まるというルールにした。
四六時中一緒にいたら、だんだん慣れあいが強くなり、生活がルーズになってしまうだろう。しかし、週末だけお互いの部屋に泊まるのだったら、必然的に部屋も片付けるだろうし、いい意味での緊張感も維持できるのでは、と考えた。
それまでの6年間、二人はとてもストイックだった。
それが一気に崩壊するのは良くない、と本能的に感じていたから、それまでのストイックさをある程度維持しつつ、週末は二人の気持ちをぶつけあう。そんなふうにしようと話し合った。
そして、その日は貴樹の部屋で朝を迎えていた。
幸せなまどろみの中で明里は昨夜の感触を思い出す。
「どうして貴樹くんの指は、あんなに私を……」
「明里、できたよ」
声をかけられて、朝から淫靡な回想していた自分を少し恥じる。
「ん、いくね」
貴樹が作った朝食はオーソドックスにまとめられていた。
・ごはん
・豆腐と油揚げの味噌汁
・ハムエッグ
・サラダ
「うん、おいしい!」
「だろう?」
お世辞抜きで貴樹の作った朝食は美味しかった。調理はセンスが必要で、いくらレシピ通りにやっても、センスがない人は美味しくしあげられない。逆にセンスのある人は適当にやってもなんとか作り上げてしまえる。
「これ、もしかして貴樹くんの黄金メニュー?」
「黄金メニューって?」
「んー、鉄板というか、これさえあれば他はなにもいらないっていうメニュー、かな」
「そうだね、味噌汁の具はいろいろあるけど、この組み合わせが最高だと思っているし、卵料理は目玉焼きや玉子焼きよりは半熟の炒り卵が好きなんだ。バターを入れて作る甘いスクランブルエッグよりは塩コショウで味付けするほうが好きだし。ハムの代わりにウィンナーでもいいけど」
「なんだか不思議、貴樹くんのことを知れば知るほど味が出てくる。際限なく知りたくなる」
「僕は出汁昆布?」
貴樹がとぼけて二人は笑った。
さんさんと輝く初夏の輝きが二人を祝福していた。
(つづく)
コメントをかく