最終更新:ID:A+TaJfOe/g 2021年08月31日(火) 19:10:13履歴
九月。残暑も厳しき秋空に蝉の声が天高く。
二科総合病院へ続く長い坂の真ん中を、夢川愛架音が汗を拭き拭き登っていた。改造制服のあちこちには動きやすいようにスリットを入れているとはいえ、その程度の隙間では、毛ほども涼しさを感じない。迸る汗で全身はずぶ濡れ。胸元は透けてスポブラの濃紺が浮いている。人気がない坂道ならともかく、病院でこのドレスコードは絶対にまずい。着替えを持ってきて良かったと疲労隠せぬ頭で切実に思う。
これでも愛架音は四六時中その肉体を躍動させている正真正銘の運動馬鹿だ。おかげで《クオリア》の話題についていけず学年を追うごとに友人の輪から外されていったくらいの馬鹿だ。そんな彼女がへばるくらい二十二世紀の夏は暑かった。
前世紀の数割増しで暑い。秋の今でこそ蝉たちが喧しくがなり立て体感の暑さを倍増させているが、それも八月の半ばまではピタリと鳴き止んでしまうくらい暑い。小耳に挟んだ話では日本固有の蝉のなかにも秋が近づくまで羽化しなくなった種が増えつつあるらしい。それくらい暑い。とにかく暑い。嫌になるくらい、暑いのだ。
「はぁ……はぁ……ふぃー。ちょ、ちょっと休憩」
坂の中腹に停留所の古びた待合小屋を見つけるや、ぱっと顔を輝かせた愛架音は小躍りしながら(実際は小躍りする元気すらなかったので気持ちだけだが)日陰へと足を急がせた。
木製の待合の中は暗く、心無しとひんやりしていた。外気と一緒に蝉の声も遮られ、くぐもった遠雷のように、どこか他人事に感じる。四角く切り取られたガラスのない採光窓からは陽が差し入っており、公園の芝生に延びる昼下りの木漏れ日を連想させた。整備は今もされているのだろう。が、やや杜撰なようで隅の用具入れから箒の柄が顔を出している。そして奥には安っぽい原色を塗り込まれたベンチが二つ。嬉しい発見をした愛架音は汗に濡れた顔を華やがせた。錆だらけのベンチに腰を落とす。
「ふゃっ」
途端、嫌な音をして、吸い込まれるように腰が深く沈み込んだ。
小さく悲鳴を漏らした愛架音は目を真ん丸と見開き、全身の産毛がそばだつような感覚に襲われる。
座り込んだときの体勢のまま、ゆっくりと音源を辿ると、臀部を乗せたベンチの足が、やや曲がっていた。
ベンチは年代物だったのだろう。座る者もなく時代に取り残されたベンチの座板は、少女がが腰をおろした際に時の流れ思い出し、ほんの少しだけ傾いだのだ。
それを理解した愛架音の全身から強張りが外れた。老朽化してるが傾くだけなら座って休むのには支障はない、安堵のまま力を抜いていくと、溶けたアイスのように、ぐでんとベンチに身体を預ける。
一瞬、重量オーバーかと思って驚いたが耐久性に難ありなら原因は決して夏太りではないはず。だから朝トレの後に乗った体重計の表示が一キロ(小数点以下切り捨て)多かった過去なんてものは存在しなかったのだ。うん。太ってはない。ないったらない。そう自分を納得させ、鞄から取り出した水筒を傾けコクコクと喉をならした。冷たい水が喉を滑り落ち体温と疲労が冷却されていく。
氷水が口までいっぱいに詰まった冷水はすぐに無くなってしまった。氷を舐めようかとも思ったが中途半端に溶けた氷は再結合してスクラムを組んでおり出てきそうにない。むー、と。愛架音の眉が八の字を描き、名残惜しげにコンコンと水筒の底を叩く。すると。からり、ちびた氷の破片が口に転がり込んできた。
──ラッキー。
満足そうに目を細め、愛架音は舌の上で氷をカラコロと転がしながら、日陰に慣れてきた目で待合小屋の中を見渡した。
さっきは気づかなかったが小屋の壁には張り紙を剥がしたような後がそこかしこにあった。古いバス停だ。運行予定表やポスターを何度か張り替えたのではないだろうか。愛架音の頭の後ろにも切れ端らしき赤い大きな紙片が残っている。八十三年前まで使われていた年号が記された時刻表には、大型免許取得者募集、と二十二世紀の日本では到底お目にかかれない文言を見つけた。浮かれ気分が生みだした免許フリー時代のツケとして大幅に緩和された免許制度は、積載量による垣根を完全に廃している。普通免許がないこの時代なら採用面接はさぞ難関となっただろう。テンポよく追い返されるスーツ姿の人々を想像し、なんだか愛架音は可笑しくなってくる。
そもそも。現代人は運転が下手だ。ハンドルを握る手の何割がAI補助が未熟な前世紀の車を操れるのだろう。完全自動(オートドライブ)は主流を外れたものの、法改正で禁止されたわけではない。自分の手で、と言われようにも障害などで運転が困難なドライバーに腕や足が生えるわけもなく。多少値上がりはしたが自動運転装置の導入サービスはどこのカーディーラーでも取り扱っている。それにハンドルを握ると性格が変わってしまう粗暴な気質を持つタイプも一層されたわけではなかった。そういう人たちだって世論が変われば性格が変わるわけはないし、自分の性格でも安全に運転できるから、と敢えて毎年少なくないお金を払って完全自動運転を選んだりする。まだまだ根強い人気もあった。
バッシングが強いため流石に公的機関では利用しなくなったが、旅客自動車運送、いわゆるバス会社のようなものだと切り替えの際に運転手の育成を要するため難しく、サービス範囲との兼ね合いもあって停滞の真っ只中にある。補助金の類は降りてはいるが、完全自動運転に依存していた地方中小企業などは降って湧いたように再燃した膨大な人件費に頭を抱えているのが現実だ。事実、客層が狭く、収益が雀の涙ほどもない二科総合病院への路線で、日に十数本も車両が通っているのは、人件費の大幅な削減が齎した恩恵だ。あと十年もして自動運転車が業界を去れば路線ごとなくなってしまうかもしれない。
変わらぬものが変わるものへと変質するのはいつだって突然だ。
例えばそれは七月の下旬に起こったある事件。《クオリア》から現実へと進行した非現実により、人々は発狂し、殺され、数多くの命が奪われた。
事件がつけた傷は、深かった。町を覆う残暑に夏を思うように、暦の上では秋真っ只中の今時分でも、その影響に、失ったものに、思いを馳せるたびに傷は開く。じゅくじゅくと黄色い膿を吐き出すばかりで癒えようとはしてくれない。しかし、それでも人は前に進み、時代は痛みを風化させる。時代に取り残されるのは、何も古いものばかりないのだ。あの日を境に行方知れずとなった初めての友人も、愛架音と違って交友関係が広かった彼も、いつかは朽ち果て忘れられていく。じきに廃線となる待合小屋で、今、愛架音が休んでいる足の悪いベンチのように。
ぼうっとしていた愛架音は、口の中から氷が消えているのにようやく気づいた。ひんやり効果は既に失せて、むっとした空気に包まれた全身から滝のような汗が吹き出していた。
しまった。もっと氷の涼しさを愉しめばよかった。
そう後悔するには既に遅かった。
「……いよっし。そろそろ登るかー!」
気合一発立ち上がり、待合小屋を飛び出した愛架音は勢いよく坂を駆け上がる。
吸って吐く、呼吸のみに支配された頭の中は南中する太陽よりまだ白く、酸素と二酸化炭素以外のすべてが地平線の下に眠る。
あの待合小屋の木漏れ日を今は忘れられずとも、いずれは愛架音も忘れるのだろう。
きっと忘却を知った日には、無意識の間に口中を去った氷を惜しむように、進んできた歩みを振り返り取り落したそれを後悔する。
だからこそ忘れてはならぬものを思い出せるうちに、僅かだけ忘れた振りをしようと思う。
馬鹿みたいに大声を張り上げながら、走って登る幻夏の坂。
今日の愛架音は、枢木楡の見舞いに行くのだ。
◆
旧態依然ここに極まれり。
紙媒体でのお知らせ文書配布という教育現場に巣食った非効率の魔物は資源保護の機運高まる22世紀になっても伏木第一種学園でしぶとく生き延びていた。いや死んでよ。と、ざらついた低質再生紙よりも更に目が粗い、代用パルプの紙ヤスリにも似た手触りを感じる度に愛架音は思うが、考えてみれば環境保護が叫ばれ始めたのは前世紀だったにも関わらず具体的な行動と効果が相関を描き始めたのは最近の話である。体制やシステムというものは一度沈着してしまえば真っ白なシャツに染み付いたコーヒー染みのように二枚腰三枚腰と粘り続けるのかもしれない。代用パルプの質がもう一段から二段落ちれば教育委員会も重い腰をあげて魔物退治に出向くやもしれぬが、少なくとも、プリントで木材を削れるようになるのは愛架音の卒業後の話だ。従って、学校に来れない生徒に渡すプリントを他の生徒に配達させる悪しき文化もまた愛架音の在学中は現役に違いなかった。
先生困ってたのよー。だってほら。枢木楡さん、親しいクラスメートいないでしょう。ボーイフレンドの水無月くんは……先生他に頼れる人がいないのよ。夢川さん、お願いできないかしら? そんなことを言っていた担任氏の藁でも掴みたそうな溺死直前の表情が脳裏に浮かぶ。たぶん本当に候補がいなかったのだろう。こうした雑用の頼みの綱は一般的に学級委員長だが、確か、愛架音のクラスの級長は楡を毒虫のように毛嫌いしていたはずだから。
連帯感と協調性を神のごとく信奉するうるさ 型の彼女とクラス行事やクラスメート同士の横の繋がりに興味を示さず孤立という名の恋人と四六時中睦み合う楡は水と油。平等と秩序の従僕たる級長主催のメッセージグループに一人だけ招待されてない辺り両者の間にはマラリア海溝よりも深い隔絶が横たわっている。二人の馬の合わなさは誰もが察しておりクラス内では級長の前で楡の話を出さないのが半ば暗黙の了解である始末。そもそも級長の方も中学時代は暴力的な専制で悪名を馳せた人物である。今でこそ怒れる荒御霊を寺の息子のウェイ系副委員長が魂鎮めしているのでクラス鎮護の地主神として大人しく祀られているが、いつ荒神の姿を取り戻すかわからぬ爆弾なのだ。頼めばNOとは言わぬ真面目な級長のこと。例え届け先が楡であっても額に青筋浮かべながら職務を全うするだろうがプリントを渡す程度で受け持ちクラスの崩壊リスクを負うのは担任氏としても憚られたわけだ。
……が、それをさておいても級長の次の候補が中学三年間(と高校一年間強)パーフェクトぼっちを貫いている愛架音というのはまあ。
「くるるん……きみ、先生にもすんごいぼっちだと思われてるみたいだよ……」
体操ジャージに着替えた愛架音は受付で覚えた地図を思い出しながら涼しい院内を歩く。
楡の病室は棟の外れの静かな場所にあった。ネームプレートは出ていない。代わりにインターホンがある。扉は横開きタイプだが高級住宅地の玄関口のような品の良い堅牢さを漂わせていた。VIPルームというものだろうか。にわかに愛架音は昔見たドラマに出てきた悪徳政治家を連想する。政治家は潤沢な設備が詰まった広々とした一室でセラーから出したワインをグラスで揺らしながら札束をバラ撒ぎガハハと笑っていた。そして立派な髭と賢そうな黒縁眼鏡が特徴的な医師団がその足下で跪きペコペコ頭を下げるのだ。部屋で誰か土下座していたらどうしようかと愛架音は少し不安になった。
意を決し、コの字型の取っ手に手をかける。面会受付の際にワンタイム登録された指紋と脈拍と虹彩をドアが照合し自動で鍵を開く。おおっ、と愛架音の口から小さく感嘆が漏れた。VIPルームに相応しいハイテクである。
「起きてるー? くるるんやっほー。プリントとノートの写し持ってきたよ」
返事はなかった。
部屋主の許可を貰う前に入るわけにも行かないので愛架音は小さく扉を開けて中を覗き込む。部屋は広い、が、暗い。奥行きに立ち込めた薄闇の層に阻まれ、どこまでが壁でどこからが行き止まりかも見当つかない。昔大叔母の見舞いに行ったときとは大違いだ。行儀は悪いが扉の隙間を広げて上半身を前のめりに倒してみる。足先は廊下についてるからセーフだ。しかし、それでも闇の奥のどこに楡が横たわっているのかは一切わからなかった。
困った。取っ手を持つ手で斜め70度の身体を支えながら愛架音はむぅと顎に手を添える。プリントを渡すだけなら担当の看護師に預ければ良いのだが担任教師が言外に様子を見てきてくれと頼んだのも察せないほど愛架音は幼くない。楡の姿を確かめなければ見舞いの意味も薄いだろう。それに、先週までピンピンしていた知人が突然倒れて入院したのだ。愛架音とて病状が気にならないといえば嘘になる。……かくなるは道は一つ。
「仕方、ないよね。外しちゃうか」
顎の手をずらし愛架音は右目を覆う眼帯の留め具を外した。顕になった黒檀の瞳に鮮やかな青色が舞う。
さっきまで一寸先まで見通せなかった闇の中には今や薄やかな青の巻雲が風に棚引くように踊っていた。経路図、愛架音がそう名付けた未来への糸筋である。その糸筋の半分ほどは愛架音の手が届く場所まで伸びていた。内の一本に触れる。
連想したのは赤と焦げ茶。水音。コーヒーの味と腐り落ちた無花果の甘ったるい臭気。……すなわち"突然死"のイメージ。辿れば突如領空侵犯した国籍不明の戦闘機が頭上に落ちたり脈絡なく身体が自然発火して死に至る極低の可能性を引き出す糸。そのくせ十本に一本は行き会う未来ガチャ星1レアリティ筆頭である。はずれだ。愛架音は指を鋏の形にするとチョキンと糸を剪った。切られた箇所から向こうはふよふよと頼りなく漂った後にどこかへ消えた。愛架音は次の糸へと手を延ばして右目の中の雲群を順繰りに同じ用に選り分けていく。
(くるるんに逢えそうなのは三本。一本目は……わたしが死体になって会うお約束パターン。却下だよ!! 二本目は。大団円? 全部丸く収まりそうな感じ。でも指が掛からない水平な天井を五メートル四つ這いで進むのは無理だよねぇ。三本目は遠雷? 病院の患者さんが死ぬってこと、かな。だめ。恨みもないし。くるるんが死ぬと困るし。って全滅かぁ。…………あれ? あの短い経路図はなんだろう)
うなだれかけた愛架音の目に止まったのは十センチメートルばかりの短い糸。初めて見るタイプだった。常ならどれだけ短くても一メートルはあるはずなのだが。
数秒悩みを醸造させた後、愛架音は触ってみることにした。ただし慎重を期して指先でちょっぴり。
(なにこれ……。フリーフォール、地震、赤、萎む風船と俎板、俎板?! あとは頭痛、湖底、雨音、お茶、月蝕、ビタースウィート。赤は出血だよね。月蝕は覆うとか包む。連続する湖底と雨音は遠のく意識。殴り殺されて打覆いを掛けられるとしか思えないよ。甘いのはなんで? うぅ。見たこと無いよぉこんなの)
そう、煩悶しているときだった。
「…………なにしてるの?」
「うっひゃぁ!?」
驚いてバランスを崩した愛架音は病室の床に顔面から落ちた。地震のように視界が揺れ額に鈍い痛みが走る。軽く額を切ったのか血の臭いを微かに感じる。痛みにのたうちながら朦朧とする意識でドアの方を見ると、そこには呆気に取られたような楡の姿があった。その膝から緑茶エキス入り清涼飲料水の安っぽいボトルが転がり落ちる。車椅子に乗せられ、パステルカラーの患者衣に脚先まで包まれた楡は、学校で見慣れた自信と覇気に溢れる彼女と違い、なんだかどこか頼りなさげで、華奢な身体は何時にも増して小さく薄く萎んでいるように思えた。
イメージを思い出す。
地震、血を表す赤、頭痛、お茶、ちょっとした不幸の苦味と幸福の甘み。
(あっ! これかぁ!)
腑に落ちた瞬間、愛架音の意識はフリーフォールのように闇の底へ落下していった。
◆
病室に入る前。愛架音は部屋で誰か土下座していたらどうしようかと思案していた。
その時はフィクションの話と脳内で一笑に付したが、愛架音は間違っていた。ドラマの通りだった。ベッドに座る枢木楡の足下には全力で土下座する者が一人いたのだ。もっとも、ドラマと一点だけ異なるのは土下座するのが医師ではなく愛架音だったことだが。
「ご迷惑をおかけしましたー!!」
恵まれた運動神経が描くお手本のような土下座の矛先は曖昧な半笑いで病室を去る看護師だ。楡の付添いをしていた彼女は、何もしてないのに友達が倒れたと血の気を引かせた少女Aを宥め落ち着かせながら医師を呼び、何もしてないのに勝手に額から血を流して倒れた少女Bの応急手当をテキパキとこなして見せたのだ。なんという冷静で的確な判断力と行動。さすが本職。プロの業である。
三分ほどの診察を終え、軽く切っただけだから消毒しておけば治るよ、とのお言葉と大きな絆創膏を額に貰った愛架音は土下座した面を上げ、頬を上気させながら瞳をきらきらと輝かせていた。
「看護師さんってすごいねくるるん! わたしもいつか慌てず冷静沈着な大人の女になれるかな?」
「……無理だと思う」
「ひどいよ訂正してよ!」
「無理だと思うわ」
「二回も言った! 二回も言ったぁ!!」
当然の答えと言う他にない。なんという冷静で的確な判断力と返答だろう。
しかし現実の自分を受け止めきれない思春期まっさかりの愛架音は絆創膏を貼り付けた顔をぷいと明後日の方向に向けた。
「ふ。ふ、ふぅーん! いいのかなぁ? そんなこと言っていいのかなぁ? くるるんの好きな食べ物も持って来たのになぁ」
「別にあのゼリー好きじゃないわよ」
「先読みされた上に空振りした!?」
「それに食べたきゃ病院でも買えるわよ……」
「た、確かに」
追い打ちを受け膝から崩れ落ちる愛架音。額と床が本日三度目の接触を果たす。おお。スリーストライク・バッターアウト。
このまま自分は負け犬になるのか。いいや違う。愛架音は負けていない。見よ。今までの会話を。攻め手は自分、楡はそれを打ち返しただけ。ならば己こそ投手。まだヒット三つで三塁まで進出されたに過ぎない。たかが満塁、四番打者からすべて完封すればひっくり返せる。点を入れなきゃ愛架音の勝ちだ。
「ふふっ。ふふふふふふふふふふふふふふ」
「笑い出した……」
不気味なものを前にしたような目で楡が表情を引き攣らせる。
いま、彼女との心の距離が秒速単位で広がっているような気がしたが、勝利に飢えたハングリー愛架音はお構いなし。飢えたウルフの恐ろしさを刻み込んでやろうとばかりに嬉々と吠えた。
「これで勝ったと思うてかっ! 甘い。甘いよ。スウィートゴーイングだよぉくるるん! まだわたしには隠し玉があるのさ!」
ベッドの横に置いていた学生鞄を愛架音が誇らしげに掲げ……た状態では中身が見えないのに気づいて床に戻す。カバンをごそごそと漁り、口が開いていた筆箱に散乱する文房具を収め、昆虫ゼリーのような栄養調整食品入りの袋を取り出し「でも折角買ったからあげる」「ありがとう」空になった弁当箱の巾着を脇にどけ、そして、愛架音は遂にお目当ての品を取り出し、三つ葉葵の印籠のように楡に突きつけた。
「くるるんが休んでる間のノート! アーンド! 進路希望調査票が目に入らぬかー!」
勝った。
得意げに笑う愛架音は勝利を確信していた。そもそもなんの勝負だという話だが間違いなく勝っていた。勝っているのだ。
楡は目をぱちくりとさせている。そう。これが負け犬の顔なのだ。自分が敗北しているのにも気づかずただ状況に困惑する。その顔だとも。
が、負け犬の顔と見做した楡の口元が、なにやら、言いにくそうにモゾモゾと動くのを彼女は見逃していた。
「……ごめんなさい夢川さん。気持ちは嬉しいわ。嬉しいの」
「おやや? どしたのくるるん。ツーストライクで泣き言かーい? ヘイヘーイ! バッターびびってるYO!」
「夢川さんは一度聞けば覚えるのでしょうけど、予習と復習といってね。普通の人は何度も勉強して覚えるの」
「それがどうしたんだーい! 一学期に入院した旧学期人のくるるんが新学期抑えてるわけないじゃーんヘイヘイヘーイ!」
リーリー! と投手設定なのに盗塁のようなジェスチャーをする愛架音の謎の奇行や、本当に予習という概念を知らないんだなという呆れとか、旧学期人イズ何? といった疑問のすべてを、楡は一度脳から追い出して、ゆっくりと告げる。
「実は、七月の末からずっと予定が続いていて、もしかすれば、新学期までずれ込むかもしれなかったのよ」
「ふーん」
「だから、事前にその範囲の予習も済ませておいたの」
「……はぇ?」
「先生方が補習用のARを送ってくれたから復習も抜かりないわ。安心して」
「ぷぇー?」
片腕がもげるかような絶望感が愛架音の膝を襲った。
今投げたのボールじゃん。ツーストライクじゃないじゃん。見送り一球じゃん。
いや。いやいや。
弱気になるな。愛架音は己を叱咤する。見送りとてストライクはストライク。残り二球分勝ち目は残っている。不屈であれ愛架音。不撓であれ愛架音。諦めぬ限り、折れぬ限り、マウンドは必ず応えてくれる──!
「進路希望調査には電子調査もあったから、そちらで提出したわ」
「ふわあー」
折れた。がっくり折れた。
必殺の武器と思っていた二本の槍が半ばからポッキリと折れた。なまくらだった。ついでに心とか膝とかいろいろ大事なものが完全に折れた。
へなへなと哀れなほど緩慢にへたり込む愛架音の目は虚ろだった。しかし、まだ彼女は真の折れを知らない。なぜなら折れてしまった者らに適う動作はただ一つ。それをわかってかわからずか。楡は崩れ落ちた愛架音を睥睨しながら非情にも最後の矢を放った。
「それとね。夢川さん。"甘い"とか"のんきな"とか"悠長な"の意味を持つのは"easy-going"」
スウィートゴーイングではないのよ。
────本日四度目の接触。
静かな病室に反響するのは金属と何かが衝突したような小気味よい幻聴。
幻の青空を白球が高く、高く、伸びて、柵の向こうへ、空の向こうへと吸い込まれるように消えていく。
そしてバットを放り出した四番バッターは悠々とダイヤを回ってホームへ凱旋し仲間たちと抱擁を交す。
うだるような暑さと陽炎の世界の真ん中では、蹲る愛架音が無言でマウンドの土を掻き集めていた。
二科総合病院へ続く長い坂の真ん中を、夢川愛架音が汗を拭き拭き登っていた。改造制服のあちこちには動きやすいようにスリットを入れているとはいえ、その程度の隙間では、毛ほども涼しさを感じない。迸る汗で全身はずぶ濡れ。胸元は透けてスポブラの濃紺が浮いている。人気がない坂道ならともかく、病院でこのドレスコードは絶対にまずい。着替えを持ってきて良かったと疲労隠せぬ頭で切実に思う。
これでも愛架音は四六時中その肉体を躍動させている正真正銘の運動馬鹿だ。おかげで《クオリア》の話題についていけず学年を追うごとに友人の輪から外されていったくらいの馬鹿だ。そんな彼女がへばるくらい二十二世紀の夏は暑かった。
前世紀の数割増しで暑い。秋の今でこそ蝉たちが喧しくがなり立て体感の暑さを倍増させているが、それも八月の半ばまではピタリと鳴き止んでしまうくらい暑い。小耳に挟んだ話では日本固有の蝉のなかにも秋が近づくまで羽化しなくなった種が増えつつあるらしい。それくらい暑い。とにかく暑い。嫌になるくらい、暑いのだ。
「はぁ……はぁ……ふぃー。ちょ、ちょっと休憩」
坂の中腹に停留所の古びた待合小屋を見つけるや、ぱっと顔を輝かせた愛架音は小躍りしながら(実際は小躍りする元気すらなかったので気持ちだけだが)日陰へと足を急がせた。
木製の待合の中は暗く、心無しとひんやりしていた。外気と一緒に蝉の声も遮られ、くぐもった遠雷のように、どこか他人事に感じる。四角く切り取られたガラスのない採光窓からは陽が差し入っており、公園の芝生に延びる昼下りの木漏れ日を連想させた。整備は今もされているのだろう。が、やや杜撰なようで隅の用具入れから箒の柄が顔を出している。そして奥には安っぽい原色を塗り込まれたベンチが二つ。嬉しい発見をした愛架音は汗に濡れた顔を華やがせた。錆だらけのベンチに腰を落とす。
「ふゃっ」
途端、嫌な音をして、吸い込まれるように腰が深く沈み込んだ。
小さく悲鳴を漏らした愛架音は目を真ん丸と見開き、全身の産毛がそばだつような感覚に襲われる。
座り込んだときの体勢のまま、ゆっくりと音源を辿ると、臀部を乗せたベンチの足が、やや曲がっていた。
ベンチは年代物だったのだろう。座る者もなく時代に取り残されたベンチの座板は、少女がが腰をおろした際に時の流れ思い出し、ほんの少しだけ傾いだのだ。
それを理解した愛架音の全身から強張りが外れた。老朽化してるが傾くだけなら座って休むのには支障はない、安堵のまま力を抜いていくと、溶けたアイスのように、ぐでんとベンチに身体を預ける。
一瞬、重量オーバーかと思って驚いたが耐久性に難ありなら原因は決して夏太りではないはず。だから朝トレの後に乗った体重計の表示が一キロ(小数点以下切り捨て)多かった過去なんてものは存在しなかったのだ。うん。太ってはない。ないったらない。そう自分を納得させ、鞄から取り出した水筒を傾けコクコクと喉をならした。冷たい水が喉を滑り落ち体温と疲労が冷却されていく。
氷水が口までいっぱいに詰まった冷水はすぐに無くなってしまった。氷を舐めようかとも思ったが中途半端に溶けた氷は再結合してスクラムを組んでおり出てきそうにない。むー、と。愛架音の眉が八の字を描き、名残惜しげにコンコンと水筒の底を叩く。すると。からり、ちびた氷の破片が口に転がり込んできた。
──ラッキー。
満足そうに目を細め、愛架音は舌の上で氷をカラコロと転がしながら、日陰に慣れてきた目で待合小屋の中を見渡した。
さっきは気づかなかったが小屋の壁には張り紙を剥がしたような後がそこかしこにあった。古いバス停だ。運行予定表やポスターを何度か張り替えたのではないだろうか。愛架音の頭の後ろにも切れ端らしき赤い大きな紙片が残っている。八十三年前まで使われていた年号が記された時刻表には、大型免許取得者募集、と二十二世紀の日本では到底お目にかかれない文言を見つけた。浮かれ気分が生みだした免許フリー時代のツケとして大幅に緩和された免許制度は、積載量による垣根を完全に廃している。普通免許がないこの時代なら採用面接はさぞ難関となっただろう。テンポよく追い返されるスーツ姿の人々を想像し、なんだか愛架音は可笑しくなってくる。
そもそも。現代人は運転が下手だ。ハンドルを握る手の何割がAI補助が未熟な前世紀の車を操れるのだろう。完全自動(オートドライブ)は主流を外れたものの、法改正で禁止されたわけではない。自分の手で、と言われようにも障害などで運転が困難なドライバーに腕や足が生えるわけもなく。多少値上がりはしたが自動運転装置の導入サービスはどこのカーディーラーでも取り扱っている。それにハンドルを握ると性格が変わってしまう粗暴な気質を持つタイプも一層されたわけではなかった。そういう人たちだって世論が変われば性格が変わるわけはないし、自分の性格でも安全に運転できるから、と敢えて毎年少なくないお金を払って完全自動運転を選んだりする。まだまだ根強い人気もあった。
バッシングが強いため流石に公的機関では利用しなくなったが、旅客自動車運送、いわゆるバス会社のようなものだと切り替えの際に運転手の育成を要するため難しく、サービス範囲との兼ね合いもあって停滞の真っ只中にある。補助金の類は降りてはいるが、完全自動運転に依存していた地方中小企業などは降って湧いたように再燃した膨大な人件費に頭を抱えているのが現実だ。事実、客層が狭く、収益が雀の涙ほどもない二科総合病院への路線で、日に十数本も車両が通っているのは、人件費の大幅な削減が齎した恩恵だ。あと十年もして自動運転車が業界を去れば路線ごとなくなってしまうかもしれない。
変わらぬものが変わるものへと変質するのはいつだって突然だ。
例えばそれは七月の下旬に起こったある事件。《クオリア》から現実へと進行した非現実により、人々は発狂し、殺され、数多くの命が奪われた。
事件がつけた傷は、深かった。町を覆う残暑に夏を思うように、暦の上では秋真っ只中の今時分でも、その影響に、失ったものに、思いを馳せるたびに傷は開く。じゅくじゅくと黄色い膿を吐き出すばかりで癒えようとはしてくれない。しかし、それでも人は前に進み、時代は痛みを風化させる。時代に取り残されるのは、何も古いものばかりないのだ。あの日を境に行方知れずとなった初めての友人も、愛架音と違って交友関係が広かった彼も、いつかは朽ち果て忘れられていく。じきに廃線となる待合小屋で、今、愛架音が休んでいる足の悪いベンチのように。
ぼうっとしていた愛架音は、口の中から氷が消えているのにようやく気づいた。ひんやり効果は既に失せて、むっとした空気に包まれた全身から滝のような汗が吹き出していた。
しまった。もっと氷の涼しさを愉しめばよかった。
そう後悔するには既に遅かった。
「……いよっし。そろそろ登るかー!」
気合一発立ち上がり、待合小屋を飛び出した愛架音は勢いよく坂を駆け上がる。
吸って吐く、呼吸のみに支配された頭の中は南中する太陽よりまだ白く、酸素と二酸化炭素以外のすべてが地平線の下に眠る。
あの待合小屋の木漏れ日を今は忘れられずとも、いずれは愛架音も忘れるのだろう。
きっと忘却を知った日には、無意識の間に口中を去った氷を惜しむように、進んできた歩みを振り返り取り落したそれを後悔する。
だからこそ忘れてはならぬものを思い出せるうちに、僅かだけ忘れた振りをしようと思う。
馬鹿みたいに大声を張り上げながら、走って登る幻夏の坂。
今日の愛架音は、枢木楡の見舞いに行くのだ。
◆
旧態依然ここに極まれり。
紙媒体でのお知らせ文書配布という教育現場に巣食った非効率の魔物は資源保護の機運高まる22世紀になっても伏木第一種学園でしぶとく生き延びていた。いや死んでよ。と、ざらついた低質再生紙よりも更に目が粗い、代用パルプの紙ヤスリにも似た手触りを感じる度に愛架音は思うが、考えてみれば環境保護が叫ばれ始めたのは前世紀だったにも関わらず具体的な行動と効果が相関を描き始めたのは最近の話である。体制やシステムというものは一度沈着してしまえば真っ白なシャツに染み付いたコーヒー染みのように二枚腰三枚腰と粘り続けるのかもしれない。代用パルプの質がもう一段から二段落ちれば教育委員会も重い腰をあげて魔物退治に出向くやもしれぬが、少なくとも、プリントで木材を削れるようになるのは愛架音の卒業後の話だ。従って、学校に来れない生徒に渡すプリントを他の生徒に配達させる悪しき文化もまた愛架音の在学中は現役に違いなかった。
先生困ってたのよー。だってほら。枢木楡さん、親しいクラスメートいないでしょう。ボーイフレンドの水無月くんは……先生他に頼れる人がいないのよ。夢川さん、お願いできないかしら? そんなことを言っていた担任氏の藁でも掴みたそうな溺死直前の表情が脳裏に浮かぶ。たぶん本当に候補がいなかったのだろう。こうした雑用の頼みの綱は一般的に学級委員長だが、確か、愛架音のクラスの級長は楡を毒虫のように毛嫌いしていたはずだから。
連帯感と協調性を神のごとく信奉する
……が、それをさておいても級長の次の候補が中学三年間(と高校一年間強)パーフェクトぼっちを貫いている愛架音というのはまあ。
「くるるん……きみ、先生にもすんごいぼっちだと思われてるみたいだよ……」
体操ジャージに着替えた愛架音は受付で覚えた地図を思い出しながら涼しい院内を歩く。
楡の病室は棟の外れの静かな場所にあった。ネームプレートは出ていない。代わりにインターホンがある。扉は横開きタイプだが高級住宅地の玄関口のような品の良い堅牢さを漂わせていた。VIPルームというものだろうか。にわかに愛架音は昔見たドラマに出てきた悪徳政治家を連想する。政治家は潤沢な設備が詰まった広々とした一室でセラーから出したワインをグラスで揺らしながら札束をバラ撒ぎガハハと笑っていた。そして立派な髭と賢そうな黒縁眼鏡が特徴的な医師団がその足下で跪きペコペコ頭を下げるのだ。部屋で誰か土下座していたらどうしようかと愛架音は少し不安になった。
意を決し、コの字型の取っ手に手をかける。面会受付の際にワンタイム登録された指紋と脈拍と虹彩をドアが照合し自動で鍵を開く。おおっ、と愛架音の口から小さく感嘆が漏れた。VIPルームに相応しいハイテクである。
「起きてるー? くるるんやっほー。プリントとノートの写し持ってきたよ」
返事はなかった。
部屋主の許可を貰う前に入るわけにも行かないので愛架音は小さく扉を開けて中を覗き込む。部屋は広い、が、暗い。奥行きに立ち込めた薄闇の層に阻まれ、どこまでが壁でどこからが行き止まりかも見当つかない。昔大叔母の見舞いに行ったときとは大違いだ。行儀は悪いが扉の隙間を広げて上半身を前のめりに倒してみる。足先は廊下についてるからセーフだ。しかし、それでも闇の奥のどこに楡が横たわっているのかは一切わからなかった。
困った。取っ手を持つ手で斜め70度の身体を支えながら愛架音はむぅと顎に手を添える。プリントを渡すだけなら担当の看護師に預ければ良いのだが担任教師が言外に様子を見てきてくれと頼んだのも察せないほど愛架音は幼くない。楡の姿を確かめなければ見舞いの意味も薄いだろう。それに、先週までピンピンしていた知人が突然倒れて入院したのだ。愛架音とて病状が気にならないといえば嘘になる。……かくなるは道は一つ。
「仕方、ないよね。外しちゃうか」
顎の手をずらし愛架音は右目を覆う眼帯の留め具を外した。顕になった黒檀の瞳に鮮やかな青色が舞う。
さっきまで一寸先まで見通せなかった闇の中には今や薄やかな青の巻雲が風に棚引くように踊っていた。経路図、愛架音がそう名付けた未来への糸筋である。その糸筋の半分ほどは愛架音の手が届く場所まで伸びていた。内の一本に触れる。
連想したのは赤と焦げ茶。水音。コーヒーの味と腐り落ちた無花果の甘ったるい臭気。……すなわち"突然死"のイメージ。辿れば突如領空侵犯した国籍不明の戦闘機が頭上に落ちたり脈絡なく身体が自然発火して死に至る極低の可能性を引き出す糸。そのくせ十本に一本は行き会う未来ガチャ星1レアリティ筆頭である。はずれだ。愛架音は指を鋏の形にするとチョキンと糸を剪った。切られた箇所から向こうはふよふよと頼りなく漂った後にどこかへ消えた。愛架音は次の糸へと手を延ばして右目の中の雲群を順繰りに同じ用に選り分けていく。
(くるるんに逢えそうなのは三本。一本目は……わたしが死体になって会うお約束パターン。却下だよ!! 二本目は。大団円? 全部丸く収まりそうな感じ。でも指が掛からない水平な天井を五メートル四つ這いで進むのは無理だよねぇ。三本目は遠雷? 病院の患者さんが死ぬってこと、かな。だめ。恨みもないし。くるるんが死ぬと困るし。って全滅かぁ。…………あれ? あの短い経路図はなんだろう)
うなだれかけた愛架音の目に止まったのは十センチメートルばかりの短い糸。初めて見るタイプだった。常ならどれだけ短くても一メートルはあるはずなのだが。
数秒悩みを醸造させた後、愛架音は触ってみることにした。ただし慎重を期して指先でちょっぴり。
(なにこれ……。フリーフォール、地震、赤、萎む風船と俎板、俎板?! あとは頭痛、湖底、雨音、お茶、月蝕、ビタースウィート。赤は出血だよね。月蝕は覆うとか包む。連続する湖底と雨音は遠のく意識。殴り殺されて打覆いを掛けられるとしか思えないよ。甘いのはなんで? うぅ。見たこと無いよぉこんなの)
そう、煩悶しているときだった。
「…………なにしてるの?」
「うっひゃぁ!?」
驚いてバランスを崩した愛架音は病室の床に顔面から落ちた。地震のように視界が揺れ額に鈍い痛みが走る。軽く額を切ったのか血の臭いを微かに感じる。痛みにのたうちながら朦朧とする意識でドアの方を見ると、そこには呆気に取られたような楡の姿があった。その膝から緑茶エキス入り清涼飲料水の安っぽいボトルが転がり落ちる。車椅子に乗せられ、パステルカラーの患者衣に脚先まで包まれた楡は、学校で見慣れた自信と覇気に溢れる彼女と違い、なんだかどこか頼りなさげで、華奢な身体は何時にも増して小さく薄く萎んでいるように思えた。
イメージを思い出す。
地震、血を表す赤、頭痛、お茶、ちょっとした不幸の苦味と幸福の甘み。
(あっ! これかぁ!)
腑に落ちた瞬間、愛架音の意識はフリーフォールのように闇の底へ落下していった。
◆
病室に入る前。愛架音は部屋で誰か土下座していたらどうしようかと思案していた。
その時はフィクションの話と脳内で一笑に付したが、愛架音は間違っていた。ドラマの通りだった。ベッドに座る枢木楡の足下には全力で土下座する者が一人いたのだ。もっとも、ドラマと一点だけ異なるのは土下座するのが医師ではなく愛架音だったことだが。
「ご迷惑をおかけしましたー!!」
恵まれた運動神経が描くお手本のような土下座の矛先は曖昧な半笑いで病室を去る看護師だ。楡の付添いをしていた彼女は、何もしてないのに友達が倒れたと血の気を引かせた少女Aを宥め落ち着かせながら医師を呼び、何もしてないのに勝手に額から血を流して倒れた少女Bの応急手当をテキパキとこなして見せたのだ。なんという冷静で的確な判断力と行動。さすが本職。プロの業である。
三分ほどの診察を終え、軽く切っただけだから消毒しておけば治るよ、とのお言葉と大きな絆創膏を額に貰った愛架音は土下座した面を上げ、頬を上気させながら瞳をきらきらと輝かせていた。
「看護師さんってすごいねくるるん! わたしもいつか慌てず冷静沈着な大人の女になれるかな?」
「……無理だと思う」
「ひどいよ訂正してよ!」
「無理だと思うわ」
「二回も言った! 二回も言ったぁ!!」
当然の答えと言う他にない。なんという冷静で的確な判断力と返答だろう。
しかし現実の自分を受け止めきれない思春期まっさかりの愛架音は絆創膏を貼り付けた顔をぷいと明後日の方向に向けた。
「ふ。ふ、ふぅーん! いいのかなぁ? そんなこと言っていいのかなぁ? くるるんの好きな食べ物も持って来たのになぁ」
「別にあのゼリー好きじゃないわよ」
「先読みされた上に空振りした!?」
「それに食べたきゃ病院でも買えるわよ……」
「た、確かに」
追い打ちを受け膝から崩れ落ちる愛架音。額と床が本日三度目の接触を果たす。おお。スリーストライク・バッターアウト。
このまま自分は負け犬になるのか。いいや違う。愛架音は負けていない。見よ。今までの会話を。攻め手は自分、楡はそれを打ち返しただけ。ならば己こそ投手。まだヒット三つで三塁まで進出されたに過ぎない。たかが満塁、四番打者からすべて完封すればひっくり返せる。点を入れなきゃ愛架音の勝ちだ。
「ふふっ。ふふふふふふふふふふふふふふ」
「笑い出した……」
不気味なものを前にしたような目で楡が表情を引き攣らせる。
いま、彼女との心の距離が秒速単位で広がっているような気がしたが、勝利に飢えたハングリー愛架音はお構いなし。飢えたウルフの恐ろしさを刻み込んでやろうとばかりに嬉々と吠えた。
「これで勝ったと思うてかっ! 甘い。甘いよ。スウィートゴーイングだよぉくるるん! まだわたしには隠し玉があるのさ!」
ベッドの横に置いていた学生鞄を愛架音が誇らしげに掲げ……た状態では中身が見えないのに気づいて床に戻す。カバンをごそごそと漁り、口が開いていた筆箱に散乱する文房具を収め、昆虫ゼリーのような栄養調整食品入りの袋を取り出し「でも折角買ったからあげる」「ありがとう」空になった弁当箱の巾着を脇にどけ、そして、愛架音は遂にお目当ての品を取り出し、三つ葉葵の印籠のように楡に突きつけた。
「くるるんが休んでる間のノート! アーンド! 進路希望調査票が目に入らぬかー!」
勝った。
得意げに笑う愛架音は勝利を確信していた。そもそもなんの勝負だという話だが間違いなく勝っていた。勝っているのだ。
楡は目をぱちくりとさせている。そう。これが負け犬の顔なのだ。自分が敗北しているのにも気づかずただ状況に困惑する。その顔だとも。
が、負け犬の顔と見做した楡の口元が、なにやら、言いにくそうにモゾモゾと動くのを彼女は見逃していた。
「……ごめんなさい夢川さん。気持ちは嬉しいわ。嬉しいの」
「おやや? どしたのくるるん。ツーストライクで泣き言かーい? ヘイヘーイ! バッターびびってるYO!」
「夢川さんは一度聞けば覚えるのでしょうけど、予習と復習といってね。普通の人は何度も勉強して覚えるの」
「それがどうしたんだーい! 一学期に入院した旧学期人のくるるんが新学期抑えてるわけないじゃーんヘイヘイヘーイ!」
リーリー! と投手設定なのに盗塁のようなジェスチャーをする愛架音の謎の奇行や、本当に予習という概念を知らないんだなという呆れとか、旧学期人イズ何? といった疑問のすべてを、楡は一度脳から追い出して、ゆっくりと告げる。
「実は、七月の末からずっと予定が続いていて、もしかすれば、新学期までずれ込むかもしれなかったのよ」
「ふーん」
「だから、事前にその範囲の予習も済ませておいたの」
「……はぇ?」
「先生方が補習用のARを送ってくれたから復習も抜かりないわ。安心して」
「ぷぇー?」
片腕がもげるかような絶望感が愛架音の膝を襲った。
今投げたのボールじゃん。ツーストライクじゃないじゃん。見送り一球じゃん。
いや。いやいや。
弱気になるな。愛架音は己を叱咤する。見送りとてストライクはストライク。残り二球分勝ち目は残っている。不屈であれ愛架音。不撓であれ愛架音。諦めぬ限り、折れぬ限り、マウンドは必ず応えてくれる──!
「進路希望調査には電子調査もあったから、そちらで提出したわ」
「ふわあー」
折れた。がっくり折れた。
必殺の武器と思っていた二本の槍が半ばからポッキリと折れた。なまくらだった。ついでに心とか膝とかいろいろ大事なものが完全に折れた。
へなへなと哀れなほど緩慢にへたり込む愛架音の目は虚ろだった。しかし、まだ彼女は真の折れを知らない。なぜなら折れてしまった者らに適う動作はただ一つ。それをわかってかわからずか。楡は崩れ落ちた愛架音を睥睨しながら非情にも最後の矢を放った。
「それとね。夢川さん。"甘い"とか"のんきな"とか"悠長な"の意味を持つのは"easy-going"」
スウィートゴーイングではないのよ。
────本日四度目の接触。
静かな病室に反響するのは金属と何かが衝突したような小気味よい幻聴。
幻の青空を白球が高く、高く、伸びて、柵の向こうへ、空の向こうへと吸い込まれるように消えていく。
そしてバットを放り出した四番バッターは悠々とダイヤを回ってホームへ凱旋し仲間たちと抱擁を交す。
うだるような暑さと陽炎の世界の真ん中では、蹲る愛架音が無言でマウンドの土を掻き集めていた。
このページへのコメント
【変更点】
▼白神竜胆ルートの更新内容を受けシーン加筆を行いました。
▼季節を九月初頭〜中旬に設定しました。
▼なんとか歩行可能という状態なので車椅子を使用させました。
▼付添いの印象を強めるため医師を看護師に変更しました。