最終更新:ID:p9w0p4b+Mw 2021年12月17日(金) 21:25:36履歴
蟇沼天牢(青年期)
その男は、何よりも人間を嫌悪していた。
人間の持つ内面が嫌だった。人間と対話する事が嫌だった。人間社会の全てが嫌だった。
一皮剥けば悍ましい悪性が内に蠢くのに、愛だ友情だと嘯いては他者を利用しようと人間関係を構築する。
何故、こんなにも下卑た種が霊長として地上に君臨しているのか、そう疑問に思わない日はない程に、彼は人間という種族を嫌悪していた。
男の名は、蟇沼天牢。人間の感情に起因する高位存在の人体への憑依について知るために、日本全国を回る者。
その理由は、彼の家の命題にある。神代の日本の残り香にして、今なお生き続ける神の破片、神臓鋳體を新たに人の手で創り出す事が、彼の課された命題に当たる。
彼はその命題の為に、狐憑きを始めとする「人の精神に由来する形で憑依する存在」に目を付けた。人の感情を使い、新たな神宿す器を創り出せればと彼は考えていた。
だがその手に成果が握られることはない。あるとすれば、西洋では著名な"悪魔"の憑依による霊障に関する論文のみ。
このまま何も得れないまま、自分は生涯を終えるのか────そんな思いが過ぎる中で、彼は日本を巡っていた。
◆
「天摩市、か……」
訪れた地名の書かれた看板を見上げながら、天牢は物思いに呟いた。
天摩市。日本海に面する都市の中でも、多くの人が集まる都市。天牢にとってこの街は、それほど収穫の見込める場所ではなかった。
何故なら、神秘という物は秘されて然るべき物。このような衆目の多数存在する街に、自分の求める神秘は存在しない。そう彼は考えていた。
故に、この街は1日もすれば通りすがるだけの、ただの通り道。それだけの場所でしかないと────彼は考えていた。
だが、生憎の事故により列車の運行が見合わされ、思わぬ足止めを喰らっているのが現状であった。
どうしたものかと駅で考えはしたが、ただ考えているだけでは何も事は動かない。こんな街でも何か得れるものがあるかもしれないと、彼はふと思い立って街に出た。
────────その選択が、彼の後の人生を大きく変えるとも知らずに。
「オイ……どうした、そこの女。
路傍に蹲っていると、良からぬ輩に手を引かれ攫われるぞ」
「ぁ────、申し訳……ございません……。すぐに、退きますので……」
道端に蹲っている女がいた。髪は白く、肌も白く、全身の色素が薄い。
手足も華奢の一言で表せられるほどに細いその身体は、風が吹くだけで儚く霧散してしまうような粉雪を思わせた。
普段の彼であれば、そのような女に見向きもせずに立ち去っていただろう。だが何故か、この日はそのような気は起きず、ハッと我に返った時には、すでに声をかけた後であった。
何らかの気紛れが起きたのか、あるいは真に同情した故なのかは、天牢自身にも分からない。分かるのは、声をかけた女が、目に見えて苦しそうという事実だけであった。
「そのふらついた脚で何処に行こうというんだ」
「ご心配……なく。私の家は、すぐそこですから……」
「距離など関係ない。その足取りでは、数歩歩くだけで事故に繋がりかねんだろう……。
────────杖などはないのか」
「はい……。いつもならば持ち歩いているのですが……。今日は生憎……」
「家は近いと言ったな。ならば少しだけだ。手を貸してやる」
「え────。あ……、ありがとう、ございます」
女性は、目を丸くしながら天牢の手を取った。
天牢自身も、自分でも何故このような行為に及んだのか、理解が出来ずにいた。
人間が嫌いだった。人の偽善が気に食わなかった。愛や友情という欺瞞に吐き気がした。
そんな自分が────────何故このような偽善行為そのものを働いているのか?
分からない。理解できない。なのに何故か、途中で放り出してはならないとも思っている。
ただ目についた女を助ける理由は如何なるものか?
自分が手を貸さなかったが故に怪我をしたとなれば夢見が悪いからか? それとも────。
考えれば考えるほどに理解が出来ない。まるで泥濘に足を取られ藻掻く獣のように思考が右往左往する。
結論が出ないままに、気が付けば彼は、その手を引く女性の目指す目的地へと辿り着いていた。
広い敷地と、立派な門戸を持つ、一般的には屋敷と言えるような家であった。
「こちらです。ここが我が家です」
「そうか。ここまで来れば、もう私の助けはいらないな?」
「え、そんな……。どうかお礼をしたいのですが、少しお時間をいただけませんか?」
「いや…………。別にそのような……大したことは………………」
「決してお時間は取らせませんから……。ね?」
「………………………………。」
存外に、押しの強い女だと天牢は思った。
天牢からすれば、此度の一連の行為はあくまで気紛れ、気の迷いでしかない。それにここまで感謝されるのは、正直なところ気が引ける。
だが女性にとっては非常に心から謝辞を述べるに値する行為だったらしく、家に招きたいとせがまれた。
正直なところ、天牢は人の善意という物が信用できない。
故にこの誘いの中に、何らかの裏があるのではないかという邪な考えが脳裏をよぎっていた。
だが見る限りでは、目の前の女性に邪気はない。どう断ろうかと天牢が悩んでいるうちに、玄関が開いて侍女らしき女性が現れた。
侍女は顔色の悪い女性を見るやいなや、慌てて彼女を家の中へと連れていった。
天牢もそれに続く形で、なし崩し的に家の中へと招かれる形になった。
何故、こうなったのか。天牢は最後の最後まで、理由が分からないまま、事は進んでいった。
◆
「吃驚しました……。蟇沼様も神秘に携わる者だったのですね」
「それはこちらの台詞だ。まさか、道端で出会った娘が彩神家の巫女だとは夢にも思わん」
「そんな……。私は分家を任されているだけの身です。そんなに驚かれるような事は、何も……」
色素の薄い女────名を、青神早苗と言う────と蟇沼天牢が対話する。
曰く、早苗は青神家という、この地での神託を得る祭事を行う巫女のような立場にいるという。
課された命題に役立つのではと考えた天牢は、その出自を訪ねた。すると彼女の家系は、蟇沼家にいた際に何度か名前を聞いた彩神家の分家であるというのだ。
彩神家。それは言うならば、一般的に予言や神託と呼ばれる言葉を残す家である。
通常、日本における古い神秘は、神臓鋳體と呼ばれる神の破片へと接続される事で人の手による行使が可能となる。
だが彩神家の場合、遥か昔に初代の巫女が授かった天よりの言葉を基とし、その巫女の魂に接続する形で予言を執り行うという家系であった。
「イタコの降霊術のように初代の巫女の声を聴き、後に起きる災害を知る……だったか」
「よくご存知ですね……その通りです。正確に言うと、私たち"彩神の巫女"は、初代の巫女が授かった神託を"分割解析する"んです。
初代の神託は、余りにも荒唐無稽……かつ不明瞭が過ぎるので……。その情報量を細かくするために、私たち彩神の分家が創られました。
情報量が多い初代の神託を分割して処理し、そしてそれと、近年起きた気候や霊脈の変化を踏まえて、数年で起きる災害などを予言する。
そうした予言を積み重ねて本家に保存し、最終的には初代が残した神託が何を意味していたのかを知る。その為に私たちはいるんです」
「なるほど。この天摩市に根を張っているのは、それが理由か。予言を分析するのに、霊脈の都合がいいと」
「いえ……。それもまた、少し違う理由があるんです」
「………………?」
早苗は次に、自分たち彩神家の分家の1つ、青神家がこの天摩市に根を張っている理由を話し始めた。
青神家がこの天摩市を訪れたのは、200年ほど前。ちょうど享保の大飢饉が発生し始めていた頃に当たるという。
当時の天摩市はまだ小さい村でしかなく、食料の備蓄も無かった。故に多くの人が飢饉によって死に絶えたそうだ。
そんな光景を目の当たりにした当時の青神家の巫女は、村の人々の為に予言を行ったのが始まりだという。
「……飢饉で苦しむ人々を、救うためだけに予言を成したというのか。
莫迦な。神秘は隠匿されて然るべき。それをまさか、ただ他者の為だけに公の場で行うなど……」
「それでも、当時の青神の巫女は辞めませんでした。当然、神秘の隠匿に配慮した、占卜などに偽装してのものだったのでしょう。
そこまでしてでも……彼女はこの村の人たちの為に、何かをしてあげたかった。最初は怪訝な目で見られたりもしたかもですけど……。
めげずに、諦めずに、青神家の最初の巫女は、この村の人たちの為に、予言を残しました。いつになったら飢饉が終わるか、いつ嵐が来るか、と言ったように……」
「…………………………………。」
偽善だ、いやそれ以前の馬鹿げた話だ、と天牢は吐き捨てたくなった。
だが、その初代の青神家の巫女を語る早苗の姿を見て、天牢は何も言えなくなった。
まるで彼女は、自分にとっても喜ばしい事であるかのように、その巫女の始まりの行為に関して語るのだから。
誰かの為に、神秘漏洩のリスクを抱えても何かを成そうとするその行為が、尊いものであるかのように彼女は語る。
その行為が天牢は信じられなかった。何故誰かの為に自分が破滅する可能性のある選択を選べるのか。理解が出来なかった。
「その予言のおかげで、と言ったら烏滸がましいかもしれませんが……。
何とかそれから数十年後に再度訪れた飢饉では、備蓄を上手く使う事で、死者は最小限で済んだようです。
それを聞きつけた近隣の住民たちも訪れて、村は合併を繰り返して……。そうしてやがて、天摩藩と呼ばれる大きな街になったんです」
「1つの神秘が、この地の歴史を大きく変えたという事か……。保守派の老人共が知ったら卒倒しかねんな」
「あはは……。確かに、おかしい行為かもしれません。けれど、私たちがやったことは、間違っていないと思います。
青神家が成した予言……表向きには助言ですけど、そのおかげで沢山の命が救われたのですから」
「その予言の行為は、今も続けているのか」
「はい。今は、一種の祭事として、豊作を祈りつつ災害の可能性があればそれを示唆する、というものに落ち着いています。
あくまでただの占卜の一種としてなので、神秘漏洩の心配もありません。ただ続けるうちに気が付いたら、こんなに大きな家になってまして……。
町の人たちが、"貴方たちのおかげです"ってお米やお金をいっぱい寄付してくれて……断るのも忍びないですし……。
最近では大きくなった私たちを目の敵にする権力者も増えていて、どうしたら良いか……」
「要らぬ節介を焼いた結果だ」
呆れるような口調で天牢は呟いた。だがその口調とは裏腹に、その内面では思わぬ収穫を得たと心が躍っていた。
神ではなく、遥か昔に神秘に繋がった"人"と繋がる事で神秘を成す。その手法は、西洋で言うなら魔術刻印と呼ばれるものに違うが、根幹は日本古来の神秘に近い。
それは蟇沼家が目指す「新たなる神臓鋳體の作成」という命題に対し、別方向からのアプローチを生み出すきっかけになるかもしれない物であった。
「(上手く話を聞き出せれば……何らかの足懸かりを得れる可能性はある、か)」
「……? どうなされましたか?」
「いや、なに。少し、青神家の話に興味が湧いた。
其方さえ良ければ、また訪れて話を聞きたいと思ったのだが……構わないだろうか」
「本当ですか? 私もお礼として何かできる事が無いかと思っていた所なんです!
私たちの家について話してほしいのならば、何だって話しますよ!」
「そ、そうか。ありがたい限り……だ」
余りにも真っ直ぐな言葉に、天牢はつい気圧されてしまった。
利用しようという魂胆にありながら、ここまで素直に承諾されると、逆に罪悪感とも言えるような感情が湧き出る。
だが天牢はそれを振り払う。所詮人間は互いに利用し喰い合うだけの存在。このような素直な人間は、誰かに利用され尽くして食われるのが必然だと。
まるで自分に言い聞かせるかのように思考しながら、彼は青神家について知るために彼女と数日に1度会う約束を取り付けた。
◆
それから2年の月日が経過した。
天牢と早苗は以前は月に2,3度会う程度だったが、やがては週に1度、2度と会うように、終いにはほぼ毎日顔を合わせるようになった。
雨が降る日も、雪が降る日も、2人は会って話をした。初めは青神家の神秘を掠め取ろうという魂胆だった天牢も、やがては話す事自体が日課になろうとしていた。
天牢は、今まで出会った経験のない早苗と言う女性に対して、確かに惹かれていた。そして早苗自身も、日々会って話をしてくれる天牢という男性に対して惹かれていた。
誰かの為に生きる事が出来る少女、早苗。日本全国を回った男、天牢。互いに互いが持ちえぬ物を持つが故に、2人の会話は自然と弾んだ。
そしてそれ以上に────────2人の心は、互いに惹かれ合っていた。
季節は移ろい、雪の降りしきる季節が終わり、桜が咲き始める頃合い。
いつものように、2人は会って話をする。そんな中で、天牢はふと胸に浮かんだ疑問を口に出した。
「お前が巫女としての責務を果たすのは、家の為か? それとも民の為か?」
「うーん……。そうですね。どちらかというと、天摩市の皆さんの為……ですかね?
彩神の最初の神託を解明するのも大事ですけど、いつ終わるか分かりませんし……。現状は、皆さんの為に予言をしています」
「そうか……。────────お前は、何故そうまでして市民の為に動くのだ?」
「? どうされましたか? 急に…………」
「急ではない。お前の身体が病弱なのは見れば分かる。そも……会った経緯からして、あれは貧血の症状だっただろう。
どうしてそのような体調でありながら、この天摩市の為に予言を残す祭事を執り行う。日々の身の清め、初代との同調、どれもお前にとっては身を削る物のはず。
それなのに何故……お前はこの街の人々の為に動こうとするのだ? 何故他人の為に、巫女としての責務を行おうとする?」
「………………。」
早苗は、考え込むように下を向いた。
この1年で、自覚が出来るほどに天牢の思考は変わった。他人を信じられなかった彼の中に、他人を思いやるという心が生まれていた。
理由はやはり、風が吹けば消え去る灯のように儚い早苗の存在だろう。彼女との付き合いが、彼の中に他人を慮る思考という物を生み出した。
最初は彼女が死ねば青神家の秘奥を暴けなくなるという思考だった。だがそれがやがて、なぜ彼女がそこまでして誰かの為に努力するのかという疑問に変わった。
彼女は病弱だった。貧血気味で、足腰が弱く、体力も無かった。
常に喘息に苛まれて、1日の半分は床についている。横になったまま対面するという日も少なくなかった。
にも拘らず、彼女は自らのやるべきこととして、毎日欠かさず巫女としての日課に励んだ。初代と同調するための修行に、身を清めて儀式へと望む準備。
どの修行も病弱な彼女にとっては、非常に重いものだった。それでも彼女は続けた。青神家の巫女としての責務とは別に、この天摩市の民に予言を届ける為に。
「………………予言は、私にしか出来ません。
私にしか出来ない事で誰かが喜んでくれるのなら、それから逃げたくないですので……」
「だが、1番大切なのは己自身だろう。いつ倒れるかもわからない中で、何故他人の為に動けるのだ?」
「…………………………。もし、私が今の責務を放り出したとしたら……私は私を許せない……と思います。
もしも、私が辞めたせいで重大な災害を予見できなかったら……そのせいで多くの人が死んでしまったら……。そう思うと、やらずにはいられないんです」
「そんな理由で……。過労が祟り死んでしまったとしても良いのか?」
「構いません。手が届くのに、手を伸ばさなかったせいで誰かが死んだら、きっと私は後悔する。
それが嫌だから、私は手を伸ばしたい。だから私は、出来る限り誰かの為に、自分の出来る事をしたいんです」
天牢にとってその言葉は、価値観を揺るがすものだった。
自分よりも他人を優先出来る人間。献身という言葉を、その肌で感じたように思えた。端的に言えば────心を打たれた。
何故人が人を助けるのか、彼はずっと分からなかった。全て利己の為だと考え、人間は汚らわしいものだと決めつけ続けていた。
だが、違った。人間は心の底から、誰かの為に生きる事が出来ると知ることが出来た。
「そうか……。嗚呼、そうなのか……。
お前は……いや君は……。心から誰かの為に、その身を捧げる事が出来る人間なのか……」
「────はい。これが私に与えられた使命ならば、私は死ぬその刹那まで全うしたい。私が予言を為す理由は、ただそれだけです」
「そう、か……」
目から鱗が落ちる、とはまさにこの事だろうと天牢は後に語った。
例え地獄へ落ちる事があろうとも鮮明に思い出せる記憶がそこにはあった、とも語っていた。
彼女という、誰かの為にその人生すらも捧げられる善性に出会えた事で、天牢という男は初めて人間になる事が出来た。
人が人の為に生きる事に、理由など要らない。ただその心の中にある善性に従い、誰かに手を差し伸べる。それが人が持つ"心"なのだと気付いた。
────現に、彼はその最たる例を自らの胸に抱いている。初めて出会ったあの日に彼女に手を差し伸べて以来、その気持ちは日に日に大きくなっていた。
目の前の少女に、生きていてほしい。
病弱でも健気に立ち上がる巫女に、長生きをして欲しい。
何度でも会って話をしたい。その為に、どんな献身だって捧げて見せる────と。
ただ自分の為だけに生きるという行為しか知らなかった男は、初めて誰かの為に生きたい感情を知った。
そして悟る。これが心を持つという事なのかと。これが愛という物なのかと。そうして初めて、早苗という少女の持つ愛が、自分よりはるかに大きいと気付いた。
自分よりもはるかに大きな愛を持つからこそ、この街の人々の為に献身を捧げられるのだと。その愛に天牢は惹かれた。その優しさの為なら、天牢は何を捧げてもいいと思った。
「……早苗」
「なんでしょうか、蟇沼様」
「外様の私がこのような事を言うのは、不躾だと承知している……。
軽蔑してもらって構わない。二度と会わないと訣別してもらっても構わない。けれど、言わせてくれ……」
「君と、ずっと一緒に居たい……。
君が背負う負担を肩代わりは出来ないが……その半分、いや、幾分の一でも良い。背負うのを手伝いたい……。
君がこれ以上責務を負うと言うのなら……どうか僕にその手伝いをさせてくれないか……?」
絞り出すような声だった。
その言葉を聞いて、早苗はハッとしたように目を見開き、そして口を抑えて驚いていた。
天牢は、自分の為した行いを深く慚愧した。勝手に押し入るように日々出会い、その上で交際を申し込むなど恥知らずにもほどがあると。
それでも口にする事を堪えられなかった。気が付いた時には既に口が動いていた。愚行と断じたいその天牢の言葉に対し、早苗が口を開く。
「えっ……と、その……」
「………………………………。」
「驚きました……。まさか蟇沼様から、そのような言葉が出るなんて……。
こんな……その……私と同じ思いだったなんて……」
「………………なんと?」
「で、ですから!」
「私も、同じ気持ちでした……。ずっと貴方と一緒にいれたら、どれだけ幸せか……と。
責務は辛いですが、もし蟇沼様と一緒なら、何処までも耐えられるだろうな……と思っておりました」
こうして、2人は結ばれるに至った。
神臓鋳體を新たに作り出すという命題などどうでもいい。今はただ、彼女の為だけに生きていたい。
そんな感情が天牢の中に渦巻き、そしてそれが1つの形として成就した。1940年、4月のある日のことである。
これが、蟇沼天牢という男にとっての、一番の幸せの記憶。
そして同時に────────最後の幸福の時であった。
蟇沼天牢と青神早苗は、桜の舞い散る季節に婚約した。
それから数ヵ月の間、両者は幸福に満ちていた。天牢は初めて、彼女と出会い人を信じるという事を知った。
早苗もまた、彼と一緒ならばどのような苦難も乗り越えられると信じていた。事実、天牢が手伝うようになってから、早苗の修行による苦痛は格段に和らいだ。
始まりの神託を解明するために、彩神の巫女の予言に接続しては近年起きる災害を霊脈から予見する。そしてそれを町の人々へと伝える祭事を執り行う。
数ヵ月に一度行われるその祭事には多くの人たちが駆け付けた。巫女が婚約したと知った時、みんな朗らかな笑顔で祝福した。
このまま、この街はきっと安泰だろう。何かあっても巫女が事前に教えてくれる。みんなが笑顔でそう言ってくれた。
誰かが喜ぶと、早苗は微笑みながら喜んだ。
早苗が喜ぶと、天牢は胸が暖かくなった。
誰もが、この幸せが永遠に続けばいいのにと────そう思っていた。
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1941年12月。太平洋戦争、勃発。
日本全国が戦火に包まれ、天牢と早苗の住まう天摩市も例外ではなかった。
開戦から時が経過し、1945年。天摩市を空襲が襲った。多くの命が、無惨に焼き払われ失われた。
理由など無い。あるとすれば、天摩市の人口が発展していた。ただ、それだけの理由だった。
天摩市は、1700年代に飢饉を予知した青神家を中心にした、いわゆる門前町として発展してきた。
寺社に保護された荘園を基軸にする農業を主軸とし、多くの人口が流入した結果、明治初期頃には日本海側でも有数の大都市になっていた。
だからこそ、空襲の標的に選ばれた。人が多いという、それだけの理由。
青神家が集めたと言っても過言ではない人口が理由となり、千を超える人命が喪われ、万を超える家が焼き払われた。
余りに突然な空からの爆撃は、魔術師である蟇沼天牢も、巫女である青神早苗も、ただ身を震わせるしか出来ず、抵抗の余地は微塵も無かった。
誰も、予想できない災害だった。
誰にも、止められない災禍だった。
誰もが、焦土と化した街を呆然と眺めるしか出来ずにいた。
彼ら天摩市民に残されたのは、どうしてこうなったのかという、やり場のない怒りだけであった。
◆
『なんで、青神の巫女はこれを予言しなかったんだ?』
誰かが、そう声を上げた。
それは取り留めもない、やり場のない憤怒の発露。ぶつけようのない怒りと、どうしようもない嘆きを、何かに対してぶちまけたい。
そんな愚かな人間性が生み出した、1つの逃避による言葉であった。
無論、初めにその言葉を言った市民も、青神の巫女の予言が完璧などと思っていない。
彼、あるいは彼女だって、ただ青神の巫女が祭事で残す言葉を「たまたまよく当たる占卜」程度にしか思っていない。
むしろ近代になってから生まれた、あるいは外部より流入した市民は、彼ら青神家の予言に対して懐疑的な想いを抱いていた。
にも拘らずこのような言葉を吐き出したのは、喪われた多くの命や、焼き払われた家屋への嘆きと怒りを、何かにぶつけたかったからだろう。
その言葉は、同じように負の感情のやり場に惑う人間たちに、格好の標的を生む結果となった。
『なんでいつも予言は当ててたのに今回だけ予言できなかったんだ?』
『そもそも今まで災害を当てられていた事こそ、何か裏があったんじゃないのか?』
『虫害とか、人の手で起こそうとすれば起こせるよな……』
『そもそも今回の空襲だって、人の手による空襲じゃないか!』
『米兵と通じてるんじゃないか?』
『奴ら備蓄が山ほどあるから、空襲で飢えた俺たちに高値で売りつける気だろう!』
それは、限界状態に陥った人間が容易く陥る、典型的な"症状"。
不安に陥った時、傷ついた時、どうしようもない時、人は何かへの攻撃衝動に苛まれる。
人の心は、人間が思う以上に脆い。自己の心が壊れそうになった時には、防衛反応として他者にその感情をぶつける。
彼らは、誰でも良かった。友や家族が死んだ怒りを、街や家が破壊された嘆きをぶつけられる相手ならば、何でもよかった。
それがたまたま、土地があり、備蓄もあり、金もあり────なにより、"口実"がある青神の巫女に向けられただけの話であった。
彼らの言葉が正しいわけではない。そも、青神家に備蓄と資産があるのは彼らの寄付によるものだ。
空襲を予言しなかった事も、人為的な作為ではない。彼ら青神家は霊脈からの情報などを元に未来を予見する。即ち、完全に人の手による空襲を、予知など出来ないのだ。
だがそのような事実は、ただ負の感情をぶつけたいだけの彼らには関係ない。彼らにとって真実は重要ではない。ただ一点、「怒りをぶつける理由がある」。それだけで彼らは青神家を非難した。
『米兵と通じた売国奴』『市民を見捨てた悪辣非道』『人命より金を選んだ鬼畜』と、弁明すら許さずに彼らは青神家に負の感情をぶつけるようになった。
そこに正統性など存在せず、彼らに正義など微塵もない。あるのはただ、やり場のない怒りと嘆きだけだった。
それだけで、彼らは獣へと転じた。ただ己の心の安息を得るだけに、他者を傷つける獣へと堕ちた。
かつて蟇沼天牢が、最も嫌悪した人間の醜悪性が満ちる光景が、そこにはあった。
◆
『売国奴どもめ!!』
『この街から出ていけ!!』
青神家の門前には、大勢の民衆が詰めかけていた。
彼らは殺気立ちながら、青神家に対して負の感情をぶつけようとしている。
その光景に対し、天牢と早苗はどうする事も出来ずにいた。
「何故こうなったんだ……。官憲共は何をしている……!」
「天牢さん……。私たち、どうすれば……」
「君は納屋に隠れていなさい。どうか私が、彼らを説得して見せる」
「でも……!」
「私の心配は良い……。侍女たちも皆避難はさせた。あとはどうにか……彼らが大人しく帰ってくれるのを願うだけだ」
不安に奮える早苗を奥の納屋へと退避させ、天牢は1人民衆の前に立った。
家の前に集った民衆たちは、もはや止める事の出来ない怒りと憎しみに支配されている。そんな彼らの前に立てば、命を奪われるかもしれない。
にも拘わらず天牢がこの行動を選んだのは、殺気立つ民衆の前に早苗を出すくらいならば死んだ方がマシだと考えたからだ。
自分が人を信じられるようになったのは、人として当たり前の生き方を出来るようになったのは、彼女のおかげだと。
彼女の為に命を失うようならばそれでもかまわないと、彼は心から思っていた。
「貴様ら……。そんなに声高に欺瞞を叫び恥ずかしくないのか?
我ら青神の家が売国奴だと? そも天摩市が青神家の門前町として発展したというのに、そのような恥知らずな戯言を吐けたものだ」
『んなこた知らねぇんだよ! 爺さん婆さんはありがたく拝んでたようだけど、俺は前々から胡散くせぇと思ってたんだよ!!』
『なんか気味悪いくらい当ててるし……災害だの何だの言ってるけど、起こしてるのお前たちなんだろ?』
『大体米も土地もお前らが占領し過ぎなんだよ!! もっと俺たちに分けろ!!!』
「厚顔無恥の蒙昧共が……。人としての最低限の尊厳まで捨てる気か?」
『ごちゃごちゃうるせぇ!! さっさと退け!! 金と米を出せ!
今までさんざ良い思いしたんだろ!? 俺たちにも分けろよ!』
1人の男が、天牢に対して拳を振るった。それを皮切りに、大勢の人間たちが暴力を振るった。
肌を裂くような痛みが続く。痛みに対しては、いくらでも天牢は耐えられた。この者たちを屋敷へ踏み入れさせてはならないと、必死で耐えた。
民衆が土足で青神家の敷地に踏み入るその光景を想像するだけで、後に起こる光景が想像できる。それを防ぐためにも、彼は必死で歯を食いしばり耐え続けた。
だがしかし、例え魔術師である天牢であろうとも、数の暴力には敵わない。
どれだけ必死に食い止めようとしても、1人、また1人と屋敷へ踏み込んでゆく。
屋敷に入った彼らを止める者などいない。官憲は彼らの略奪に気付きすらしない。恐らく他所に出払っているのだろう。
屋敷の中の財が、備蓄が、食料が、次々と持ち去られていく。本堂が、蔵が、庭が、次々と蹂躙されていく。
そして彼らの手はやがて、天牢が最も辿り着いてほしくない場所へと届く。
『あぁ? こんな所に隠れてやがったか……』
『こいつだ! こいつが俺たちを不幸にした張本人だ!!』
「………………………………」
屋敷の敷地の奥にある、離れの納屋。その中に隠れていた早苗が、民衆たちに発見された。
早苗はどうにかして、彼らに落ち着いてもらおうと説得を試みた。だが、彼らは既に興奮しきっており、言葉で宥める事はもはや不可能な領域に達していた。
まさしく獣。始まりはただの理不尽に対する怒り、あるいは悲しみであったのだろう。それが互いに共鳴し合い、増幅し合い、そして人間の持つ原初の獣性を解き放った。
もはや彼らに人としての理性などない。あるとすれば、自分に対して不利益が齎されようとした際に回避するという、意地汚い人間性のみである。
「────。────、────────。────!」
『──────! ──────、─────!!』
『───! ───!』
言葉が交わされる。どうか考え直してほしい。思い留まってほしいと、早苗は必死に叫ぶ。
だがその言葉は、彼らの心に届かない。彼らにあるのは、ただ満たされきった負の感情だけ。
目の前の女が悪い。こいつに不満をぶつけたい。邪魔だ。消えろ。お前のせいだ────────。
振り切れた負の感情に身を任せ、民衆の1人が早苗の身体を強く押した。
「────────ぁ」
早苗は身体の均衡を崩し、よろめき倒れる。
倒れた背後には、納屋の壁。
そして
立てかけられた、鉄製の鍬。
────────────────────────────────────────
────────────────────────
────────
『………………は?』
民衆の内の誰かが、そんな素っ頓狂な疑問符を上げた。
彼らの眼の前で、青神家の巫女と持て囃された女性が倒れている。後頭部から、ドクドクと血を吹き出しながら倒れている。
眼は虚ろに光を失い、手足は力なく地面に垂れ、納屋の壁に寄りかかるようにして、青神家の巫女が倒れている。
『死んだ?』
『は? 嘘だろ?』
『誰だよ殺した奴……』
『俺じゃねぇよ…。お前だろ押したの……』
『ちげぇよ……。お前が押したんだろ…』
『いや、私は、こいつに連れられてきただけだから……』
『俺もなんもしてないから……』
急速に、民衆を包んでいた狂気が冷めていった。代わりに彼らの間に広がる、責任の擦り付け合い。
くたばれ、消えろ、地獄に堕ちろと声高く叫びながら、そのくせ命を奪う覚悟など毛頭なし。誰かが死ねばこの通り、殺した誰かの責任探し。
そうだ。彼らはただ、不満をぶつけられれば良かった。それは即ち、本心から青神家を排除する気など無かった。
ただぶつけようのない怒りを青神家にぶつけられれば良かった。即ち、それで命を奪うつもりなど無かった。
実の所、命を奪って初めて、彼らは自分のしでかした事の大きさに気付けたのだ。
『俺は皆に乗せられただけだから……』
『そうだよ……。俺も……空襲のせいだろ? 皆腹減ってイライラしてたんだよ……』
『戦争が悪いわ……俺たちは誰も悪くない』
『そうだ……。誰も悪くない、よな……』
「早苗ぇ!! 早苗! 早苗!! しっかりしてくれ!!
オイ! 起きろ!! 俺だ! 天牢だ!! なぁ!! 答えてくれぇ!!!」
1人、また1人と、逃げるように去っていく民衆を押しのけて、天牢は早苗に駆け寄った。
何度も、何度も、倒れた彼女を抱きかかえてその名前を呼んだ。声が枯れるほどに、彼女の名を叫んだ。
だが、早苗は二度と、その口を開くことはなかった。
その目に光は灯る事はなく、その顔は二度と微笑むことはなく、その手は二度と温もりを宿すことはない。
青神早苗という1人の巫女の命は、余りにも呆気ない一瞬のうちに、この世から失われる結末となった。
「うぅ……!! ああ……!! どうし、て……!!
うぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
天牢はその日、初めて心の底から泣き叫んだ。
冷たくなった妻の横で、愛する者を失った男の慟哭だけが、虚しく納屋に響き渡り続けていた。
◆
「官憲を出せぇ!! あの夜の連中を1人残らず調べて捕まえろ!!
早苗を殺した奴を見つけ出して殺してやる!! だから官憲を出せぇ!」
空襲の爪痕が未だに残る官署にて、天牢の叫び声だけが虚しく響いていた。
あの日、彼の最愛の女性は、汚らわしい人間の手によって死んだ。もう1度生き返ってほしいとは言わない。
せめてあの日に、彼女の命を奪った者に罪を償わせたい。その一心で彼は叫び続けた。
だが、どれだけ叫んでも、その場にいる誰もが、怪訝な顔をするだけであった。
痺れを切らした天牢は、衝動に身を任せて役員の1人に食って掛かるように胸倉を掴んで叫んだ。
「何をボサっとしている!! 早く警察を集めろ!!
俺の妻は殺されたんだ! 殺した犯人を見つけ出してやる!!」
「そ、そうは言われましても……! 青神様の奥さんは、空襲で死去したと……報告され……」
「………………………………は?」
天牢は、初めはその言葉の意味を理解できなかった。
こいつは何を言っているのか? 妻はあの日、目の前で民衆の手で殺された。それは疑いようのない事実である。
役員が嘘をついていると考え、彼は何度も叫んでその言葉を否定した。だが、どれだけ否定した所で、話が通じない。
まるで要領を得ない子供と対話するかのように、双方の主張は違っていた。
埒が明かない。証拠を見せろと声高に叫ぶ。この目で真実を確かめてやると。天牢は叫んだ。
通常、空襲があった際には被害状況を調べるために官憲らがその足で調査結果を纏め、それが報告される。国力を維持するための戦時下の制度だ。
故にそれを見れば、自分の主張が正しいと分かるはずだと思っていた。自分の妻の正しい死因が明らかになると、彼は考えていた。
────────即座にその考えは、甘えであると現実を突き付けられる事になる。
少し待機して、1枚の書類が手渡される。
その書類の文面には、確かにこう書かれていた。『青神早苗、空襲ニテ崩レタ瓦礫ニヨリ死亡』と。
どういう事だと再び天牢は役員に対して掴みかかった。そんな彼の背後で、囁くような小声での会話が響き彼の耳へと届く。
『やっぱり気が違っちゃったんだ…』
『妻が空襲で死んだからだろ……? 気の毒に…』
『噂の通りだ……』
聞き捨てならない言葉だった。何故だ、何故自分が狂人扱いされねばならないと天牢は憤慨した。
そも、噂とは何か? 誰がそのような流言蜚語を────────と、疑念を浮かべたその時、声がした。
「なんだね全く騒々しい……。おや、これはこれは青神さんじゃないか。
この度はお悔やみ申し上げますなぁ……。可哀想に、奥さんが瓦礫に潰され下敷きとは……」
「………………何……どういう……事だ……?」
現れたのは、地主の桜田という男であった。
明治の初め頃に天摩市へと来て、主に工業を中心として町の発展に貢献してきた地主であり、荘園として土地を多く持つ青神家に対し敵意を抱いていた家だ。
彼の家の手によって多くの雇用が生まれ天摩市が発展したのは事実であったが、その裏では多くの土地が開発され自然を失っていった。
当然、土地を持つ青神家とは何度か衝突があり、天牢も良い感情を抱いていない。
そんな男が、下卑た笑顔で天牢を見て笑っている。
口でこそ死を悼むような言葉だが、その裏で何か邪悪な思想が渦巻いているのが目に見える笑みだった。
「何故お前がここにいる……」
「いや何……ワシの所有する工場も随分焼けてね……。その被害の確認を、ちょっとね」
「桜田様ぁ、どうか例の一件、忘れないでくださいよ?」
「ああ分かっている……おっと」
「オイ貴様!! 貴様は俺たちの家の付近の駐在員だろう!?
お前あの夜に何を見ていた!? 何をしていた!!! 俺の家に大勢の民衆が詰めかける所を見たんじゃないのか!?
なぁ答えろ!!! あれほどの暴挙を何故見過ごしたぁ!!!」
桜田に対して媚びへつらうような声を響かせながら横に付き添う1人の男がいた。
天牢はその男に見覚えがあった。青神家の近所の駐在所にいる男だった。それが今、桜田に対して媚を売るようにごまを擦っている。
だがそんなことはどうでもいい。この男ならばあの夜の事を何かを知っているはずだ。そんなか細い希望に縋るかのように、天牢は男に跨り胸倉を掴む。
「し、しらねぇ! しらねぇよお!!
俺はあの夜に何も見てねぇ! あの夜は平和そのものだったんだぁ!」
「嘘をつけェ!!! じゃあなんであの夜だと分かるんだ!!?
何か見ていたんだろう!! 知っているんだろう!!! 答えろぉおおおおおおおおおおおおおお!!」
天牢は一瞬のうちに、官憲たちに取り押さえられた。
それでも尚喰い下がる天牢に対し、官憲たちは無数の暴行を加えた。
力なく天牢は地面に倒れ込む。そんな彼を見下しながら、桜田は汚らしく笑いながら告げる。
「そうだ、君が売却すると言った土地の整理……急いでおくれよ?」
「何の……ことだ……!? 俺はそんな……コト……一言も……!!」
「そこまで気が違ってしまったとは可哀想に。君の家の従者が土地の権利書を全て渡してくれたじゃあないか……」
「どういう事だぁ!! 説明しろぉ!!!」
官憲らの制止を振り切り、天牢は怒りに身を任せて拳を握り締め吶喊した。
だが即座に拘束され、天牢は暴行未遂という名目で勾留される事となった。
牢屋に繋がれ、そして外に出た時には、全てが変わり果ててしまっていた。
青神家が保有していた土地も、財産も、備蓄も、ありとあらゆるものが貪り食われた後だった。
まるで死骸にたかる蛆虫のように、多くの民衆が青神家の残滓から、多くの物を奪い去った後であった。
その土地の大部分は、地主である桜田のものとなっていた。かつて青神家に仕えていた者たちも、ほとんどが桜田の家に移り住んだ。
天牢に残されたのは、街の外れにある霊地とそれを監視するためのぼろ小屋だけであった。
「そうか────────」
「あの日、官憲が騒ぎを見過ごしていたのも。
早苗の死因が、空襲による死だと偽装されていたのも……」
「全て、そう言う事だったのか……」
あまりにも周到な土地売買と略奪に、天牢は全てを悟った。
桜田が一枚噛んでいたのだ。官憲に対して暴動を見過ごせと。そして潰された青神家の従者に対して再雇用先を用意すると。
土地や金で人心を釣り、そして扇動によって破壊される様をただ見ていろと、桜田が指示したのだと天牢は理解した。
結論から言えば彼の至った結論は事実である。だが、それを証言する者は誰1人としていない。
それどころか、事件当日に押し入った者も、彼が勾留されている間に略奪を行った者も、その関係者たちも、皆揃ってこの事件については黙して語らなかった。
理由は至極単純だ。この事件が明るみになれば、空襲後というこの混乱の中で数多くの逮捕者が出る事になる。そうすれば復興どころの騒ぎではない。
故に事件や略奪に参加した者はおろか、その家族や友人────かつては青神家の氏子として存在した人々に至るまで、この事件については語らなかった。
天牢は声が枯れるまで、自らの正しさを訴えかけた。
妻は殺されたのだ。
我が家は全て奪われたのだ、と。
何度も。何度も。血を吐くまで訴えた。
だが、人々はそんな彼に対して冷ややかな目線を投げつける。
「こんな復興の最中に非常識な」「ああいう気違いにはなりたくない」
「憐れには思うけどそれまでだ」「五月蠅いから早くいなくなってくれ」
誰もが、自分には関係ないと通りすがる。
誰もが、自分は悪くないというかのように、彼をいないものとして扱った。
◆
────そうか
これが、天摩市の住民の本質か……。
これが!! 早苗が痛みに耐えて献身しようとした連中の真実か!!!
己の欲の為に他者から奪い! 己の衝動を満たすために他者を傷つけ!!
挙句の果てにその罪を認めずに目を背ける……!! それがお前たちの生き方か!!!
絶対に許さない────。
何年、何十年かかろうと、絶対に復讐してみせる────!
貴様らを、その子々孫々に至るまで、後悔させてやる!!
『自らを悪でない』と宣うのならば! その悪性を突き付けて殺してやる!!!
◆
「この天摩市を必ずや地獄に変えてみせる」と、蟇沼天牢は天に慟哭して誓った。
彼にはそのための知識がある。彼にはそれに足る技術がある。この日、彼は魔道へと堕ちて往く事を胸に誓った。
復讐の為に。自らの怒りと憎悪の為に。そして────死した妻の為に。その生涯の全てを捧げると誓った。
それから数十年という月日が流れ、彼の渇望は結実を果たす。
ただ復讐のためだけに、その持ち得る技術の全てを注ぎ込んだ、1つの儀式が幕を開ける。
「貴方はただ、我らメイソンの行く末を見守ってくれているだけで良い……。
貴方無くして我々はここまで辿り着かなかった。逆も然り。我々無くして貴方は此処までの儀式を成し得なかった。
お互い、良き協力者になれましたなぁ。そうは思いませんか? 天牢殿」
「どうでもいい事だ……。街の民衆共に復讐さえできれば……。
そしてその果てに……再び妻に出会えたのならば」
否。そのような願いなど、もはやただの方便でしかない。
死した人が生き返らぬなど、幼子でもわかり切っている世界の道理。だがそれでも、彼はその渇望に縋りついている。
悪魔を束ねた果てに失われた命の回帰が有り得るかもしれないと、そんな偶然の彼方の夢想へと手を伸ばそうとする。
だがその真実、根幹にある原初の願いは、天摩市全てに対する復讐に過ぎない。
妻を殺した民衆が憎い。見てみぬふりした官憲が憎い。彼らを買収した地主が憎い。買収された従者らが憎い。簒奪していった者たちが憎い。彼らを見過ごした者たちが憎い。
街の全てが、天摩市に生きとし生ける全ての人間が、彼にとっての復讐の対象だった。だからこそこの街を、悪魔受肉の坩堝にすると決めたのだ。
悪性を持って悪魔を呼び込み、それを受肉させたうえで苦しみの中で殺す。町の住人の悪性を持って彼らを殺す、悪性の蟲毒。
それこそが、蟇沼天牢という男の望んだ結果にして、望みに至るための過程であった。
「クックックック……まぁ良いでしょう。
私は所用があるためにグランドロッジへと帰らざるを得ませんが、何かあればミス巳崎が貴方をサポートするでしょう。
では、良き聖杯戦争を。貴方に対して、大いなる祝福の在らんことを……」
「………………」
去っていくフリーメイソン副首領、カール・エルンスト・クラフトに一瞥もくれずに、天牢は天摩市を見据えながらただ沈黙する。
あるのはただ、怒りと憎しみのみ。もはや妻を失った悲しみをとうに消えうせた。ただ残されたのは、天摩市に生きる人間の悪性への深い負の感情のみ。
彼ら全てを悪魔へと変貌させ殺すために、彼は生きる。その最終段階として、今この地に聖杯が舞い降りる。
そこにあるは、希望か絶望か。
深き憎悪の果てに輝く金色の盃が、渇望に手を伸ばす徒に、光を授ける。
その輝きの陰で、1人の男の憤怒が結実する。
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