kagemiya@ふたば

────日常の中でも身近な人間を疑うことはしたくない、けど。

それは違っていてくれ、という願望も含めた試行だった。
普段余らせているカーディガンの袖の中で、先生に気取られぬようそっと包帯を外す。
本当に傷を負っているわけではない仮初めの包帯だ、キツく縛っているわけでもなし。片手で外す事など造作もない。
音もなく解かれた包帯を掌の中に手繰り寄せ、右手の甲を曝け出す。
刻まれているのは赤い刻印。知らぬものから見れば痣のようにも傷跡のようにも見えるもの。
けれど聖杯戦争を少しでも知っているのなら……決して見逃すことの出来ない、マスターの証。

「ありがとうございます、私が居た時間帯は特に何もなかったみたいですけど……」

会話の流れで違和感の無いよう言葉を返し、そっと右手で髪を掻き上げる。
そのまま右耳へ髪を乗せるという動作。私自身、常日頃から行っている癖のような仕草だ。
先生がもし。もし一般人であるのなら、この一連の動作に何も違和感は感じないはず。
強いて言うなら怪我のようなものを見つけ「あら公輪さん、その右手大丈夫？結構大きな怪我みたいだけど？」と身を案じてくれるかもしれない。

けれど先生が「そう」であったなら。
私の予想が正しければ「何も反応しない」。
もしここで私がマスターだということを知って即襲ってくるような人ならば、そもこのような“カマかけ”などしてこない。
一人でいるところを直接狙えばいい。そうしないということは……少なからず、私に対して疑いがある。
その上で、この学校という公共の場では襲えない。故にこの場では「反応しない」ことが最適解だ、と私ならば判断する。
或いは……私のこの猜疑を察した上で右手に言及せず、目的を達したと考えるか。

悟られぬほどに小さく息を呑む。
どうか、どうかいつものように答えて欲しい。いつもの先生であって欲しい。
この日常に非日常が潜んでいるなどと考えたくはない。だから、私の傷を見て……いつものように────。

「……そう。どちらにせよ、一人で出歩くのは危険よ？用心しておくのに越したことはないわ」

────っ。
一瞬、先生の瞳が私の右手の甲に向けられたのを見た。
その両の眼は確かに私の令呪を捉えた。その上で先生は声色を変えずに私へ告げる。
声色は変わらない。けれど、その奥に込められたものが大きく変じるのを見逃さなかった。

「…………はい、気をつけます」
「それじゃ、またね……公輪さん」

軽く手を振り私の横を過ぎていく先生の姿を、振り返ることは出来なかった。
しばらくその場で立ち尽くす。冷や汗が背筋を伝う。先生は…………聖杯戦争に参加しているマスターだ。
確定ではない。が。私の人物評が正しければ、ほぼ確実に。

となれば────先生に躊躇う要因は無くなった。
案ずるべきは“いつ仕掛けてくるか”。マスター同士として知られた以上、見逃しておく理由など無い。
鉛めいて重たく感じる足を動かしながら、校舎を後にする。気が重い、日常に居るはずなのに日常で無いかのような。
ああ。そっか。それが聖杯戦争というものなんだ。戦いの中に身を投じた以上、最早日常などありはしない。



/



バイトを無事に終え、気が付けば時刻は18時を回っていた。
夕暮れを経て夜の帳の落ちた街には幾つかの明かりが灯る。
それでも新町に比べれば薄暗く、確かに警告通り、女性が一人で出歩くには少し心許ない夜道である。

「…………っ」

──一人で出歩くのは危険よ？
先生の言葉が脳裏を過る。伴って向けられた、どこか底知れぬ冷たさを感じる瞳も。
思わず両腕を抱きかかえて身震いを抑える。荒く乱れかけた呼吸を、深呼吸で強引に整える。
大丈夫。如何に魔術師といえど、その日の内に仕掛けてくる……なんてことはないはずだ。
数年前に読んだ魔導書には、魔術師というものは格式を重んじ、魔術師同士の戦いに際しては中世に於ける決闘の如く準備を整えるものだ、と。
であれば私がマスター、即ち魔術師だと発覚したら、その来るべき決闘のために手筈を整えるのが先決だ。
だから、今日一日は少なくとも安全だろう────そう、自らに言い聞かせていた時。

アスファルトを踏み締める音がした。
なんら身を隠す素振りは無い。私の背後で立ち止まった足音からは、明確な視線が向けられていて。

「……もう、ちゃんと言っておいたでしょう？
　一人で出歩くのは危険よ。ちゃんとサーヴァントを側においておきなさい、って」

振り返った先に佇んでいたのは…………思い描いていた通りの人。
いや、そう言うと少し語弊があるか。目の前に現れた人は、私の想定していた人とは姿が違った。
雰囲気が違う。服装が違う。漂うもの全てが、その人とは“別人”であることを物語っている。
穢れ一つ無い美しい純白のドレスを揺らしながら深い赤の瞳を此方へと向ける。
蛇。荘厳でありながら油断の無い白蛇。その姿をひと目見て、面影と重なり合ったものは神秘すら感じさせる白蛇であった。

先生────ではない。私の門前で向かい合うのは、魔術師としての白瀧弓美だ。
獲物を射抜くような眼光に思わず身が震えるようだった。けれどその怖気を押し殺し、私もまた同じく視線を返す。

「…………一度だけ聞くわ。
　ねぇ、公輪さん……あなたは公輪家の魔術師として戦っているの？」
「……そうです。私は公輪家の魔術師です、先生と同じ……魔術師なんです」

その問いに対しての返事を受け、先生は僅かに眉を顰めて重苦しい顔をした。
正直言うと、先生の質問の意図は理解し切れていない。確かに私は公輪家の魔術師だし、間違ったことは言っていないはず。
私の家が魔術の家系であったということも概ね把握はしている。その跡継ぎに選ばれたのがお姉ちゃんだった、ということ。
母から魔術を教わることはなかった。だから母が家を出た後、私は独学で魔術の力を身に着けたのだ。
そのきっかけとして、シスターさんに手伝っては貰ったが……学んだ魔術に関してはほぼ全て私の独学である。

だから、公輪家の魔術師であるということに間違いはないはずだ。
その事を先生も理解していると思っていた。けど、それにしては浮かべる反応が奇妙だ。

「……そう。じゃあ、情けをかける必要は無さそうね」

溜息を一つ。
吐き出された息に込められていた思いが何たるかを、私は知る由もない。
先生としての生徒に対する情け？或いは、魔術師として私に対する情け？何れにせよ、その疑問は些細なものだ。
今はそのような感傷に思考を巡らせるよりも────やらなければいけないことがある。

「子供だと侮らないでくださいね……私は、この時のために頑張ってきたんですから」
「ええ、此方も同じよ。だから横紙破りされる訳にはいかないの……お互いにサーヴァント抜き、一騎打ちね」

これが、魔術師同士の戦い。
張り詰めた空気に押し潰されそうだ。向けられた殺意で胃が引っ繰り返ってしまいそうだ。
それでも臆する訳にはいかない。私は既に、彼女と同じ舞台に立っているのだから。
静まり返る街。気が付けば周囲に人影は無く、あの日の夜の如く事前の“人払い”が行われているようであった。
心許ない街灯に照らし出された先生の姿は。何時もより大きく、堅く、畏れすらも抱くほどであったけれど。

その感慨を振り払うように。
右手に握り締めていた硬球を、ノーモーションにも近いフォームで投げ放つ。

もし先生が単なる一般人であったなら、この一投でゲームセット。その身体は硬球とともに弾き飛ばされ、意識ごと葬り去っていただろう。
けれどこれは魔術戦。投げ放つ球は火蓋を切って落としただけに過ぎない。開幕を告げる始球でしか無いのだから。
音を立てて弧を描き迫る球を、先生は常人とは思えぬ跳躍力で軽々と飛び越えて見える。
素早く屈み、体を伸ばした反動により飛び跳ねるような一連の動作。

──時に、マムシは獲物を捕らえる時、その身をS字に縮ませ自身の体躯以上の跳躍力で飛びかかるのだという。
──先生が生物の授業を受け持つ時にはそんな爬虫類に関する与太話を、度々挟み込んでいたものだ。

宙に舞うその姿を収め、私は次に打つべき「手」を既に導き出していた。
もとより魔術戦を想定して練っていた戦術のうちの一つ。即ち、硬球の一撃を陽動とするもの。
硬球は良くも悪くも目立ち、見切りやすいものだ。ある程度の手練であれば目視してからの回避は容易いだろう。
球威はあれど球速も飛び抜けて早い、という程ではない。常人でも慣れてしまえば対処は可能な程の速度だ。
そう。それが大事。始めの一撃はあえて“見切りやすい速度とする”こと。それが始球として、後の攻撃に大きなアドバンテージを与える。
きっと私の一撃を見た者は思うだろ。これが基本の速度なのだと。この球が、公輪の娘の戦術の根幹なのだろうと。

その思考の隙を突く。一撃目で慣らされた動体視力の油断を狙う。
加えて先生は上空────空中ならば身動きは取れない。意図せず自らの動きを縛っているということ。

「…………貰った！」

────投げ放つものは、シャープペンシル。

ごく一般に市販される金属製のシャーペンには、球と同じく回転の力が付与されている。
異なる点は、球の回転ベクトルがZ軸の「ヨー」方向であったのに対し、こちらはX軸の「ロール」であること。
円柱の中心を軸とし回転するそれは、喩えるならばドリルの如く獲物を穿たんとして回転し、目標目掛けて突き進む。
加えて球よりも軽く回転に際して空気抵抗が少ない。故にその一撃は……初撃よりも、圧倒的に“速い”のだ。
一撃目の速度に慣れた目では捉えきれぬ直線的で鋭い一閃。この緩急こそ長らく思い描いていた戦術。
言うなれば直球ストレートの後に投げ放つチェンジアップのようなものだ。

球ほどの破壊力はなくとも、魔力を与えたシャーペンは相当の貫通力を誇る。
鋼鉄……は流石に不可能でも、人間の肉体を貫くには余りある。それこそ、原理としては銃弾と相違ないのだから。
口径で言えばライフル用の実包だろうか？直撃すれば肉を抉り取るには十分な威力を秘める筈。

「────ッ！」

響いたのは鈍い着弾音、そして僅かに遅れて響く破砕音。
後者は恐らく、先生の身体を貫いたシャーペンが自らに付与された回転エネルギーに耐え切れず分解してしまった音だろう。
前者は────着地した先生の体が物語る。狙いからは僅かに逸れていたが、命中したシャーペンは先生の右肩を射抜いていた。
咄嗟に身体強化の魔術を掛けたのだろうか、肉体の損傷は大きくは無く、シャーペンの円形よりも一回り大きな“銃創”が広がっているのみ。
威力は下がるが、通用する。それが判明しただけでも十分だと、二撃目のためのペンを指に滑らせた……その瞬間。

私は、思いもよらぬものを目撃する。
魔術というものは奥が深いものだということは理解していた。
それは神秘の再現であり、人智の及ばぬものでうら時に可能としてしまうものなのだと。
それでも────その知識があっても、その光景は受け入れがたく。

ずるり。
僅かに湿った音が耳に届いた時には既に。右肩の穴は埋まっていた────否。塞がっていた。治っていた……もしくは“再生した”。

「……やるわね、流石は運営側の魔術師ってとこかしら。
　でもお生憎様……この程度じゃ私は殺しきれないわ。次は頭を狙うことね」

痛がる素振りもない。先程までの傷が幻だったのかとさえ疑ってしまうほどに、跡形もなく。
これが魔術師の戦い。常識は通用しないのだと再び価値観が改められる。
日常を生きる中で抱くことのなかった感覚。他人に対して向けることのなかった……どうすれば殺せるのか、という論理的思考。
非日常の極地。決して有り得ぬ思考でありながら嫌に明瞭に演算を巡らせられるのは、既に張り詰めた空気に充てられてしまっているからか。
懐に忍ばせているペンは残り3本。それらを指の間に挟み込むようにして持ち、袖の下で投擲準備に移る。

一撃で仕留めなければ。
およそ人とは思えぬ再生力でダメージを無効化した先生に、思わず思考が逸ってしまう。
やれるか？意識の核となるであろう頭を居抜き、回復される前にとどめを刺すことなど────。

「────速くfast」

考えるよりも先に動くべきだ。
棒立ちの状態から腕だけを振りかぶる形で、握り締めていた内の一本を先生へ向けて投げ放つ。
先程よりも速度を持った回転。とはいえその軌道はごく単純で、速度が変化していようと回避自体は容易いだろう。
それを物語るように、先生は軽々と斜め後方へ飛び退くように跳躍する。先程よりも高度は低いが、跳躍の仕組み自体は似通っている。
もう一度────先程と同じように、振り終えた腕を折り返すように振り払い、残りの二本を先生へと投擲。
滞空時間こそ少ないが空中にいる間にペンは届くはず。次は確実に頭を狙った、これで避ける術は無いはず…………！

と。
人は、滞空に際して取れる動きは無いはずだと。
そう無意識の内に思い描いていた常識が覆される。

「知ってる？公輪さん……この世には空を飛ぶ蛇も居るのよ」

空を滑るようにして身を翻し、こちらへ向かって飛び掛かる。
目を疑った。それは鳥のような自由自在の飛行でなくとも────滑空。落下ベクトルの制御という意味では、十分な役割を果たしていて。
空中で跳躍したのかとも見紛う程に鋭く、滑らかに飛び出すと、先程投げ放った硬球にも匹敵しうる速度で私へと“蹴り”を見舞った。

「ぐ、っ─────！」

昔、テレビで活躍していた赤いマフラーの仮面姿のヒーローが、こんな決め技で悪を退治していたな、なんて。
脳裏を掠めた記憶は次いで遅い来る衝撃、激痛、急激な振動により掻き消されていった。

咄嗟に両腕を前に構えて防御姿勢を取ったものの、蹴りの衝撃を打ち消すまでには至らなかった。
必死に足を踏み締めるも焼け石に水。受け止めた私の体は勢い良く吹き飛ばされ、十数メートルは後方の電柱に打ち付けられてようやく止まる。
罅の入ったコンクリート製の電柱を背にして、頭を震わせながら立ち上がる。
苦痛と共に込み上げた血痰を素早く吐き出し血を拭う。幸い、直撃した両腕は辛うじて……まだ繋がっている。

「仕留めるつもりで蹴ったんだけど、流石に頑丈ね。
　肉体的なダメージじゃ厳しいかあ……やっぱり内側から狙っていくのが上策ね」

踏み締める足音は依然変わらず、暗がりの中から歩み寄る先生。
……強い。この人は強い。今まで見せていた顔が霞んで消えてしまうほどに、こちらへ向ける視線は冷たく、鋭い。
獲物を狙う狩人の目だ。然して其処に驕りは無く、ただ淡々と追い詰め殺す。爬虫類の如き無機質な瞳。

「…………どうして、魔術師なのに、先生なんて……」
「……勘違いしているようだから教えておくわね。私は魔術師ではないの。魔術使いなの。
　血統やら宿願やら……そんなものに縛られたくない。だからね、公輪さん。悪いことは言わないわ……あなたもあなたを“見捨てた”家なんて見限って、戦いを降りなさい」

その言葉に。胸が軋む。
言われずとも心の何処かで理解していた。
自分は見捨てられたのだと。母は。ママは。私には見向きもせず、姉だけを必要としていたのだと。
だから姉を失って私を見限った。もう必要のないものだと放り捨てた。
残された私は。公輪という屋号は既に抜け殻だ。中身のない空白。必要のない　あきのもの。

戦う理由なんて無いでしょう。
正しい言葉を突きつけられて思わず口籠る。
けど。その上で口を衝いて出る言葉があった。それは半ば衝動的な、叫びにも近いもの。

「…………私にはっ、これしか無いんです。なにもない私が……公輪の名まで手放したら、何も残らない。
　だから戦うんです……わかってる、ママもお姉ちゃんも居ないのに頑張ったって意味はないって……！
　……でも、これしか無いから…………ごめんなさい。先生。戦いを降りることは出来ません」

私の吐露を聞き、浮かべた表情は────影に紛れて窺い知れない。
そう。私には端から「戦う」以外の選択肢は残されていない。ここで諦めることは、死ぬよりも辛い運命に向かうということだから。

「そう…………残念ね」

呟かれた言葉は私に対しての憐憫、悔恨ではなく。
先生が自分自身対して言い聞かせるような、或いは誰に向けるわけでもない諦観にも近い声色を含んでいた。

そして、その言葉が言い終えられるより速く。
地を蹴り一瞬にして間合いを詰め、門前まで迫る先生。
握り締められた右手に収められているものは────注射器？
病院で目にするような細身のものでなく、指を嵌め込み片手でも押し出せるような形状を持った独特なシルエット。
──俗に言うコントロール注射筒。内筒・外筒に金属の指掛けを付けた、高圧注射用の医療器具である。
──針のように正確に刺す必要はなく、押し付けるようにして使用されるもの。多少乱暴に扱っても支障のない性能を持つ。
赤みを帯びた液体が内部で揺れるそれを振るうようにして殴り掛かる。その一撃を辛うじて避け、電柱を背にし横に転がり込むように距離を取る。

あれを食らうのは不味い。
本能的に理解する。あの注射器に込められている薬は、確実に私に害を齎すだろう。
転がり出た体勢から体を起こして向き直る。既にこちらに向けて構えを取る先生に対して、私は────。

「────縦にpitch、重くheavy、速くfast！」

取り出し、投げ放つものは……定期入れ。
市内のバスでのみ使用される交通ICカードが収まった、シンプルな合皮製のパスケース。
それは縦方向に、トランプの手品めいて空を切り裂くように上方向への弧を描き、握られていた注射器目掛けて飛び掛かっていく。
思わぬ一撃に不意を突かれたのか、或いは避けるまでもないと判断されたか。
定期入れは思い描いていた通りに注射器へと命中し、筒を“断つ”ような形で過ぎ去り先生の横を掠めて闇の彼方へ消えていく。

……余談だが。私が付与する回転には3つの特性がある。
それは現実に於ける回転の概念にも重なるもの。即ち「ロール」「ピッチ」「ヨー」の三原則。
そのうちロールは球体に付与することで、威力を伴い命中した対象に大きな衝撃を与える。
ピッチならば薄く平たいものに付与することで、回転する平面体は刃のごとく命中した対象を切断する。
ヨーの場合は鋭く尖った柱状に付与することで、回転に伴う突破能力を以てして対象を射抜き貫通する。
今まで扱うことはなかった。幸か不幸かそのような機会には恵まれなかった。使うにしても、威力を抑えたロールくらいなものであったが。
よもやこの戦いで……全ての回転を試行する羽目になろうとは。

内容物を失ったガラス片を投げ捨て、先生は改めてこちらへ向き直る。
ひとまず「一撃でも食らったらアウト」という自体は避けられた。しかし状況は依然として危うい。
……魔術使い。その言葉の意味する所は理解し切れていない。それでも、先生の戦闘経験は私のそれを大きく上回っている。

「魔力放出……回転方向の出力かしら？随分とシンプルな魔術を使うのね。
　公輪は陰陽師に精通する家系と聞いていたから、もう少し凝った魔術……呪術を使うものと思っていたけれど」
「…………私にはこれしかありませんから」

そう。私は魔導書に記されていた多くの魔術を試しては見たが、そのどれもが合致しなかった。
属性に関わる魔術を試せば、指向性も出力も一切調整が効かずに暴走した。
暗示、催眠のようなものも効きすぎる。上手く扱えたのは細かな調整を行わずとも扱える魔力放出、それに身体強化くらいなものだった。
細かな技術は扱えない。私に許された魔術は、ただ────何かを破壊することしか出来ない、不器用な回転の魔術だけ。

対してこちらはと言えば、先生の魔術の全容を把握できずに居る。
超越した再生能力。身体強化では説明の付かない運動能力。取り出した……恐らくは、毒。
それらの要素から考察を巡らせる。そして白瀧弓美という人物に結び付けられた属性と噛み合わせれば。

「……まさか、蛇」

蛇。
先程から彼女に重なり続けていた漠然とした幻像は、明確な答えであったのか。
蛇だ。或いは爬虫類。彼女が愛していたもの、爬虫類という種族が持つ生態、性質に良く似通った特性をその身に宿している……！

「良く分かったわね。百点をあげましょう公輪さん。
　……蛇魔術。獣性魔術、って知ってる？生物の特性を自分の体に降ろして扱う降霊術の一種なの」

不味い。であるなら、私の魔術とは極めて相性が悪い。
私の魔術は直接的な物体への損傷を主とする。そこに何らかの付加効果があるわけではなく、与えるものは純粋なダメージのみだ。
けれどそのダメージそのものは大きく、恐らくは魔術師であっても……先程のように、肉体の損傷は免れない。
不可逆のダメージを与え続けて着実に削るというのが私の戦術の根幹を成すが、彼女を相手にした場合ではそれが成り立たない。
細かなダメージを蓄積させることが出来ない。卓越した再生能力があるのなら……ダメージを重ねる、という戦法が通用しない。

先程の回復が魔術に依る回復であったなら、可能性はあった。
だがそれが蛇魔術のうちの一環としてごく自然に行われる“特性”であるのなら話は変わる。
傷を与え続けて魔力を奪っていくという戦術も恐らくは通用しない。例え再生に魔力を消費するにしても、それを全て削るというのは現実的ではないだろう。

「……蛇に睨まれた蛙ならぬ、蛇に睨まれた鼠ね。丸ごと頂くのにちょうどいい大きさ……薬が残っていれば、楽に仕留めてあげられたのに」

再び冷や汗が伝う。
既にこちらが投げ放つことの出来る物は残っていない。
辺りを見回しても、手のひらに収まるような手頃な物体は転がっていない。
どうする。どうする。どうする。私の不安を感じ取ったのか、顔色一つ変えぬままに先生は呟く。

────令呪を使う、という手もある。
令呪を以てセイバーを呼び寄せればこの場は切り抜けられるだろう。
だがそれで一画を消費してしまって良いものか？この“切り札”は、あくまでもサーヴァントを相手にした場合に残しておきたい。

結論が導かれる前に再び先生は地面より跳ねる。
蛇の如くしなやかなバネにより成される平行方向への跳躍は、それこそ魔力放出とも疑ってしまう程の勢いを伴っていて。

「い、つ────ッ」

見舞われたのは先程のように押し出すような蹴りでなく、振り払うような回し蹴り、
──尻尾を武器として扱う蛇がいる。全身が筋肉で構成された蛇は、頭から尻尾の先まで全てが余すこと無く武器となる。
──弾く、とも形容しうる一撃は亞海の脳が「守ること」を命じるよりも速く、がら空きとなった脇腹目掛けて打ち出された。
腹を中心として身体が千切れ飛ぶのではないかと考えが過ぎってしまうほどに、振り払われた一撃はとてつもなく重い。
少なくとも、40kg前後の私の身体を軽々と弾き飛ばして余りあるほどに。恐らくは相手が成人男性であっても、難なく蹴り飛ばしてしまえるだろう。
魔力で多少なりとも補助を得ているなら兎も角……一般人であれば、即死もかくやといったところだろうか。

二度、三度と冷たく硬いアスファルトの感覚を味わった。
四度目の衝撃で跳ね跳んだ身を上手く起こし、受け身を取って地面を足で捕らえることに成功する。
が、痛い。鈍く染み渡るような痛みが脇腹から全身へ。息をするたび、突き刺すような痛みも広がっていく。
咳き込むと同時に血が滴った。幾つか内蔵が損傷してしまっているのだろうか、これ以上は……不味い。

「…………」

再び離れた距離を埋めるべく、先生はこちらへと歩み寄る。
次の手立ては────と思考と視界を巡らせた矢先。目に留まったのは、建物と建物の合間にある隙間。
入り口こそ衝立で塞がれてはいるが、隙間全体が埋められているわけでもなく、その衝立さえ乗り越えてしまえば入り込むことは容易いだろう。

考えている暇はない。今はひとまず先生の捕捉を外し、体制を整えなければ。
衝立は自分の身長を二周りほどは上回っている。急いで乗り越える……には少々難しい高さ。

ならば。
素早く傍らに落ちていた煙草の吸殻を手にすると、薄汚れたフィルターに魔力を込めて回転の力を与える。
勢い良くその場で回り出し、すぐに元の形状すら伺えぬほどの速く回り始めたそれに────足を掛ける。
そう。私の回転魔術は、投げ放つだけでなくその場に留めておくことも出来る。
魔力が続く限り空間に対して回転し続けるそれは、回転エネルギーを失うまでその場を動くことがない。
干渉を受け付けずに回り続ける……そのベクトルの影響を唯一無視できる私は、その回転を足場として扱うことが出来る。

「よ、っと……！」

そうして生まれた回転足場を以て衝立を乗り越え、より薄暗い隙間……路地裏を駆け出す。
雑然として多くのゴミや廃棄物が散らかっているが、最早そんな事は気にしていられない。
若干の湿り気を帯びた地面を踏み締めながら奥へ奥へと進んでいく。幸い、この路地は別の路地からまた別の路地へ……といった具合に広がっているようだ。
当然ながら先生の様子は伺えない。衝立を乗り越えた私を追いかけてきているのか、或いは追跡を諦めたか。
追いかけてきていたとしても……複雑に入り組んでいるこの路地裏で、私を的確に追いかけるということは難しいはずだ。
いずれ見つかるにせよ時間は稼げる。そうして生まれた猶予の中で……念話を通じ、セイバーを呼び出せばいいのだから。

「───公輪」
───ここか。マスターを探した私の前に現れたのは、以前も会話した高坂くんだった。
なんだかここ最近は高坂くんとよく会うなとか、なんでここにいるんだろうという日常の考えは不思議と浮かばず、あの時にテーピングで隠している手から見える赤い紋様───令呪が見えたとき、私はああ、やっぱりとどこか冷静にその事実を認識してしまった。
たぶん、それは高坂くんも同じで───。
「なあ、公輪。正直今のお前は様子がおかしいと思うし、少し落ち着いて話を───」
ごめん。と言うべき言葉を口から吐き出す前に、私は右手から可能な限り大きなモーションで、硬球を振るう。それは魔術によって発生した回転により大雨を横に弾きながら殺人的な速度によって高坂くんの顔に当た───。
「公輪。もう一度言う。話し合うわけにはいかないのか」
高坂くんはそれを最小限の動きで躱し、背後の木には硬球が煙をあげながらめり込んでいる。
そんな先制攻撃を与えられた状況からでもまだ交渉をしたいのか、深い黄色の瞳を輝かせ、拳にテーピングをしながら高坂くんは私に恐らく最後通告を告げた。
────嘗めないで。私はこの戦いに勝利するために参加した参加者だ。
高坂くんが何を目的にして参加しているのかは分からないけれど、この期に及んで和解を望もうとするきみよりも、私の方が勝つために参加している。
つまり、私が狩る側で、きみが狩られる側なんだ───。
もうやめようよ、という自分の声から耳を塞ぎ、必死に言い聞かせるように、二度目の投擲を放った私を見て、高坂くんはその黄色の瞳に戦闘に対する高揚でもなく、敵意でもなく、悲しそうな色を浮かべて一言、「そうか」と告げた。
雨を弾きながら向かう硬球が再び高坂くんに近づいたとき、周囲に不可思議な音が発生する。それは爆発音のような、破裂音のような、少なくとも肉体と硬球が触れて発生するはずのない音。
右拳から煙を発しながら、高坂くんはステップを踏みながら拳闘の構えを取り始める。
まずい、どうして、なんで、こんなの当たったら、死───。
「う、ああああっ！」
そんな混乱した思考が出たかのように、もう威力も精度も関係なくもう一度投擲を放ったのに、それを高坂くんはあえて力の差を見せるかのように近づきながら掴んで止めて───
「怖がらせて、ごめんな」
硬球を捨てて、私の肩を掴んだ高坂くんは悲しそうな表情のままその言葉を告げると、私の身体には拳による痛みでも、硬球を破裂させた間違いなく死に至る一撃の衝撃でもなく、まるでスタンガンを当てられたかのような全身を走る衝撃と痺れ。
遠くなる意識をどこか他人事のように思いながら、私はどこか冷静に。
セイバーを召喚しても私は何も変わっていなかったと理解して、安直な選択の末に得た結論は、私は結局一人では狩られる者でしかなかったんだという諦観だった。

「───うっ？」
目が覚めると私は家の中にいて、急いで左手を見るとそこには令呪があったはずの綺麗な手の甲。
私は、私は負けたんだと。そしてたぶん、戦う相手とすらも認められずに謝罪されて倒されたんだと、どうしようもない現実に打ちのめされながら、雨音にかき消される嗚咽を一人家で出すことしか出来なかった。
生きていられたのならば、これからどうするかだよ。
まるで自分から出たとは思えない思考も雑音にしか思えず、ただ無力を理解して泣くことしか私には出来なかった。